慎太郎とその妻(未完:無期限更新停止)
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05.化け桜
重い瞼を開けた先、中途半端に開かれた障子の向こうはただただ灰の海であった。
夜明け前の春霞は深く鬱屈とした雰囲気で、まるで只ならぬ陰気を撒き散らしては啜る妖樹のようにおどろおどろしい。
庭の向こう、隣家との境に植えられた桜木は並々ならぬ枝振りで、花を付ける頃には堂々たる絢爛さを惜しげなく振舞い、皆を楽しませていたのを覚えている。
その木も幾年か、老樹になるにつれて花は白み、表面のでこぼことした脈はどこか寂れてさえ見えて、朽ち落ちたりもしていた。
こうして夜な夜な陰気を吸い上げては、期たる芽吹く一瞬の光の日の為にと耐え忍んでいるのだとしたら、それはさぞ無粋な事をしただろうと慎太郎は再度瞳を閉じる。
見てみぬふりをしたとて、この陰鬱な灰の海に溶け流れた己の不安は、既に取り戻す事などできないのだが、それでもただただ、瞳を閉じた。
外を閉じれば浮かび上がる、瞼の緞帳、白い顔を模したぼんぼりは、この世で一番愛しい形をしていた。
光に触れたくて漆黒の緞帳に近づけば、ぼんぼりはその形を露わにし、柔らかな曲線、中央やや上、ぱちりと可愛らしい双眼が慎太郎を射抜いた。
真っ直ぐすぎるその二玉の硝子に一切の迷いはなかった。ただただ射抜く一言が胸を貫き、そして抉るのみで。
「――あなたは、そういう人だもの」
知っていた。と。ただ一言。
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まるで悪夢だと、慎太郎はすぐに飛び起きて視線を泳がせた。緞帳が急ぎ開けた先の現実という舞台が先、開かれた障子の向こうは青碧の池へと色を変えている。
ああ、随分悪気を吸い込んだのか、未だ覚醒しきらぬ頼りない思考が空想を呟いた。桜木が夜な夜な、生気を養うが故に人々から悪夢を吸い取っているだなどと妄想にも程があって、空想にしては陰気だった。
春の花を咲き誇る花弁の薄紅を汚すのも本意ではなく―――不意に、風に乗って舞い込んだのは薄紅の欠片であった。
青碧の部屋では淀んで見えるその花弁が、一枚、また一枚と迷い込んで積もっていくのを、慎太郎は夢心地で眺めている。あまりにも、御誂え向きすぎだった。
「……まだ冷える」
身を起して引き上げた布団の下から覗く華奢な肩がぶるりと震えたのが目に留まり、慎太郎は再度身を横たえ布団を戻した。
春風に晒されたその華奢に手を添えれば、丸い肉の微かな優しさと冷えとが伝わる。ああ、やはり冷やしてしまった、と慎太郎はその華奢へと謝ってみたのだが、華奢―――愛し妻はぐっすりと眠ったままで、慎太郎の行動に気付く由もなかったのだが。
志士へ一歩踏み出す、と、妻に打ち明けたのは昨晩の事であった。
龍馬に助言を乞い、土台を作りて持ち帰り、家で妻の顔色を窺った上での“告白”という己が用意周到ぶりには正直苦笑しか出てこない。
随分と臆病になったものだ。妻を娶る前まではあんなにも光に満ちた明日を願って奔走していたというのに。
それもこれも妻が可愛いのがいけない。慎太郎は心底そう思ったものだ。
日に日に溶けていく氷の心が、その顔が、夏を過ぎ秋を越え、とうとうその年の春に花開くだなどと、当時の自分には予想も出来ないことで。
咲いた花はいつか散る―――たとえ実が付き種が落ち、新たな花が咲こうとも、それはもうあの花などではないと知りながら、それでも、蕩けるような花の笑顔をこれからも守り行く術を、慎太郎は持たなかった。
このままここで、大庄屋として一生を終える事も許されるのではないのか―――そんな、最大の裏切りさえ、許してしまいそうになる考えが恐ろしかった。
土佐勤王党に加盟すると、はっきりと告げた時の妻には特段、驚いた様子も悲しむ様子も見られなかった。
否、ひそやかに眉が下がったのは捉えていた。けれど、花開いた感情を日々見せる彼女であっても、引きとめる事は終ぞなかったのである。
反応の薄さに狼狽する慎太郎が、つらくはないかと尋ねた。されど、妻は言う。ただ一言「あなたはそういう人だもの。知っていたわ」と。
共に過ごした時間など所詮一年でしかないというのに、まるで何もかもを分かりきったような、穏やかな笑顔が怖かった。
信念さえも曲げかねない勢いで、自分の心に食い込んでしまったリンの存在を今更排除する事など出来るはずもなく、けれどもやらねばならないという観念とで、ここの所慎太郎は深く悩んでいた。
その困惑をどうして妻に話す事が出来ただろうか。リンは慎太郎に強い憧憬を抱いている。それは大きな父の背中であったり、剣術の師匠の華麗な捌きであったり。あるいは市井の店主の深い知識を織り編んだ話であったか、童が、知らぬを知った時の輝かしい憧れと感心の眼差しによく似ていた。
若き身ひとつで領内を駆け回る誠実な男、それがリンの慎太郎への評価の大きな部分を占めていた。
そうであるよう努めてきた。それが報われた喜びだけでよかったのに。
「(――その評価を捨ててでも欲しいものができたと知れば、あなたはまた自分を責めるんだろうな)」
私がいるせいで、あの人を惑わせた、と。
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それでも慎太郎は思う。微かだった。彼女を知らぬ人間には、いや、知っていても恐らくは殆どが気付けなかったろう―――微かに下がった眉に、どれだけの悲しみが込められていたのかと。
恐らく、彼女自身も意識できていなかったのだろう。好意的な感情は割と素直に表現できるようになったものの、否定的な感情は未だ積もらせる傾向がみられる。
彼女を縛る、あるいは守っている“大庄屋の妻”という肩書に隠した悲しみを思えば、それでもを告げる自分はなんと慈悲の無い男なのかと思わざるを得なかった。
志士としての中岡慎太郎か、リンの良人としての中岡慎太郎か―――選ばねばならぬとは酷であった。世の中全てが是と非に別たてるものでもなかろうに。
「…あなたは一生俺を許さなくていい」
部屋に迷い込んだ桜の花びらが一等舞い上がって、部屋の中に降り散った。突風に近い春風が、桜の枝をすり抜けて部屋に流れ込むのを頭に受ける。
天井の木目のあちらこちらから、頼りなさ気に下りてくるそれらの可憐な姿に目を取られる。ああ、ここで妻が起きていたなら、きっと可愛い声を上げて笑うだろうと。声が聞けないのが寂しく思った。
慰めのようだとは言うまい、だが、悪気を吸い尽くした桜木が少しでもこの愚かな男の慰みにと、桜が花弁を寄越したのならば―――十分すぎると慎太郎は思った。
はらはら落ちる、花弁の優しい白吹雪は、一年前の春を慎太郎に思い出させ、あっという間に夢の世界へ引き込んだ。幸せな、夢の中へ。いまはねむれ。と。
「…ならば私は一生あなたを想い続けられるのですね」
薄紫に明け行く世の端、室内に響いたその音色は聞き逃してしまう程に澄んだ姿をしていた。
ぱたぱたと布団に落ちる塩の涙は、一粒、また一粒と、まるで針が時計を刻むような緩慢な様子で深い藍を刻んでいく。
たっぷりと含ませたそれを―――一途と呼ぶか、愚かと呼ぶのか。答えは無いままに春のまどろみが吸い上げて宙へと隠していく。
朝霧の遠い霞の奥で目映い陽の玉が姿を見せた時、リンはただ、これが無情にも現実だという事を理解したのであった。