慎太郎とその妻(未完:無期限更新停止)
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食桜
春の霞に溶けるように、ふわり消え去ったと称せばまた風流であったものを、結局旋風でしかありえない忙しい友人龍馬は、春一番さながら激風となりてまた土佐の地を離れ去って行った。
それを慎太郎も変わらずの顰め顔で見送った後、急ぎ反転、北川の村へと帰って行ったのである。
龍馬との会談で土佐勤王党に参加すべしとの意を固めた慎太郎は、心苦しい気持ちはあれど、外に出し幾分か軽くなったか足の踏み出しも早い。
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桜の蕾がふっくらし、先端がほのかに色付く頃である。満開の桜が彩る頃には一年共に過ごした事を喜び合いたい。二人きりで密やかに、あるいは大勢で花見でもいい。
隣に妻さえいたらどこでもよかった。そんな、一足先の未来に思いを馳せて、慎太郎はただ右手に海を広げ、歩き続けたのである。
土佐出立から約二日ほど、慎太郎が北川の村へ戻ったのは昼間際の日の高い時間であった。
領地に入れば畑に出でる民からやあやあ声をかけられ、やれ土は順調だ、やれ日照時間の加減良しだ、皆笑顔で農作の順調振りを語られる。
雪解け水が豊富でこのところ川から運ばれる養分の質がいいのか、畑の調子は上々で雑草もやたらと大きくなるので、ああこんな所にまで春を感じるよと語る民の顔は綻んでいる。
季節外れに実験として植えた柚木も冬を越し、ここの所すくすく育っているよ。そう報告を受ければ、慎太郎も破顔してそれに応えた。
そんな若き庄屋を見て、民はからから笑いながらそれをからかうのだ。
柚子が好い人か、いやいやそれより遥か嫁御であろう。なんでも中岡さまの所の花の嫁御は文字通り花が咲くように綺麗で、それはそれは大切にされているのだと。
「そ、そんな噂があるのか」
「まあ、皆話題に飢えておりますからねえ。とはいえ中岡さまの奥方は我らが村の仲間の娘、顔なじみですからなおの事皆が気にするのですよ」
まあ、戯言と思って聞き流してくだせえや、はははと笑う民の抜けた歯が間を繋ぐ。見やって笑い始める民の群れの明るい様子に気付いた時、顔を赤らめ戸惑っていた心が視る目を変えた。
この冬を越せない家もあるかもしれないとの危惧に、必死に走り回った甲斐を見出していた。無論まだまだ発展途上で安定とは言い難い状態であるのは違いないが、けれども人々の顔に以前のような暗さはない。
慎太郎は一人、それを噛み締め幸福に浸っていた。
あえて何も言いますまいと、民らが無言で頷く傍ら、ふと一人が慎太郎の顔色に気付いて問う。水筒を指して、もしかして街帰りですか、と。
「土佐の友人に会った帰りなんだ」そう答えれば、それはそれは悪い事をしたと民が頭を下げる。
気にしないよう告げても民は心苦しそうに眉を下げては、慎太郎の行き先を促して言うのだ。おずおずと申し出るは、リンと同じ年頃の娘であったか。
「庄屋さまと奥方さまは、それは片羽鳥のように寄り添う存在だと皆が噂しております」
「ひとときも離したくない故に領内を連れ添っているとか」
「奥方さまは畑育ち。知識をそっと中岡さまに口添える様子もあるとかないとか」
「ああその距離や耳に口付けるような至近距離とか。見ているこちらがあてられちまう」
「や、やめてくれ!だ、誰だそんな噂を流しているのは!」
口火を切れば連鎖する、日頃の仲睦まじさを揶揄したやいのやいの言葉に慎太郎は顔をただただ熱くするばかりである。
結局散々にからかわれた後、ようやくそれにも飽いたらしい民の言葉によって解放されたのだが「早う会いたくて仕方がないでしょう、皆、引き留めては酷でしょうに」と最後までその姿勢が崩れることなく、慎太郎は苦笑と共にその場を後にするのであった。
何にせよ悪く思われていない事実は心軽く、変な垣根が深く無い事にもまずは満足であった。それを噛み締めながら、気付けば足はやはりか急ぎ気味で。
駆け抜けながらも領内の皆々様から様々な意見を聞きうけつつ、慎太郎は愛し邸へと戻ったのである。
しかし何やら邸は静かで、夫婦の部屋にも、お勝手にも、無論仕事の間にもどこにもリンの姿を見つける事が出来ない。
時刻は八ツ半過ぎ。もしかしたら夕餉の支度にと市井へ出たのかもしれないと推測される。どちらにせよリンに会いたい一心で急ぎ帰った心はがっくり萎れて少し空しい。
慎太郎は大きな体をしおしおと丸めながら、渋々父親の部屋へと帰宅の報告へ向かったのであった。
「リンさんなら実家へ帰られているよ」
「な……」
「…あァ、もとい。実家の隣家の娘さんに用事があるとか何とかって」
我が父ながら言葉の選びの勘は最悪だと慎太郎はそっと拳を握り締めた。リンの動向の意図を詳しくは知らぬようで、けれども夕餉までには帰りますとの言葉を残していったらしい。
どうも昼餉が終わるや否や出ていったとの事なので、ちょうど慎太郎とは入れ違いになったらしい。ああ、領地で足止めさえ喰らわねば今頃は顔を見られていたのかと増々気持ちは降下する一方で。
用件は分からないが夕餉には帰ると言っているのだ、大人げない考えは止そう―――先程領内で大量に渡された意見要望という名の“お仕事”を背負いながら、慎太郎は仕事の間へと向かった。
それからしばらく、慎太郎は気持ちを入れ替え熱心に職務に取り組んでいたのだが、長旅の疲れが出たか、気付けば机に突っ伏して眠りについてしまったのである。
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春の柔らかな風が窓から流れ込んだ。緩やかに、優しく流れ込むそれは頭を撫で肩を叩いた。
ああ、眠ってしまったのか、とまだ覚醒しない意識で何とか体を起こせば、窓から流れ込む少し肌寒い春風が、優しい音色を届け行く。それは待ち望んでいた音だった。
「慎太郎さん、お帰りなさい」
その声に引かれるまま、くるり体を右へと捻れば慎太郎の机と座布団の少し後ろ、にこにこと笑う人が在った。既に日没となった部屋は漆黒に近い黒色をしていて、はっきりと己が目に姿を捉えられないのがもどかしいと思う。
それでも聞き間違えるはずの無いその声は、その人は。間違う事なき己が愛妻、リンであった。
「ただいま」
「お疲れ様です。ごめんなさい、お迎えをしたかったのに…入れ違いになってしまったみたいですね」
改めて姿勢を正せば、慎太郎の肩から落ち行くのはリンの衣の一つであった。そっと拾い上げれば彼女から良く香っている、花のような甘い香りが広がる。
ああ、帰って来たのだ。改めて、ようやく、慎太郎は心から一息つく事が出来たように、深く息を吸って、吐き出した。すぐに彼女を手招き、自らの近くへ引き寄せる。
くすくすと笑いながら近寄る妻にはこちらの事などお見通しという事か、それに気恥ずかしくも嬉しさが広がるようで、なんとも言えない甘酸っぱさに胸が軋んだ。
いつまでも、初々しい気持ちを湧き起こさせるこの存在のなんと特異な事かと、心の喧騒を隠すように慎太郎はリンを抱きしめた。相も変わらず細い躰、けれども背に回される手の温かさに安堵する。
「お帰りなさい」
「…ああ、ただいま」
大げさな、と周囲は笑うだろうが、けれども慎太郎もリンも、これが永遠だという事を信じ続けているわけではない。だからこそ、一瞬への喜びを忘れたりはしないのだ。
今日のこの日は今後、どれだけ願おうとも取り戻されることはない。だからこそ。だからこそ、であった。
そうしてしばし二人、互いの熱を確かめるように抱き合っていたのだが、程なくしてリンの方から少し離れる。隙間に入った春風が胸を冷まして淋しくなったところ、代わりにと後方へ退いたリンが差し出したのは小皿に乗った桜餅であった。
小ぶりの俵型の道明寺が三つ。塩漬けの桜葉にしおらしく包まれたそれをどうしたのかと尋ねれば、恥ずかしそうに俯いたリンは、顔を逸らしながら「春なので、」と答えた。
歯切れが悪いというか、質問の答えになっていない事に慎太郎は困惑する。いやまあ、春だから道明寺とはまさにそうなのだが。そうなのだが。
困惑が顔に出ていたのだろうか、空気を読み取ったらしい妻はしどろもどろに説明を始める。実家に在った頃によくしてもらっていた隣人の桜餅は絶品で、その家では塩を精製するのも得手であったからそれを聞きつつ、ついでに桜葉の漬け方も聞いていて、他。
話が前後し、ひとつひとつを汲み取るように慎太郎は聞き拾う。集めた話と状況とを組み立てて出た結論は、つまり。
「…リンさんの手作りという事か」
「…あっ……!……そ、そう、です…」
「そんな顔を真っ赤にする話でもないだろう…」
呆れ口調でそう返せば、でも、でも、と泣きそうな声を上げながらリンは更に顔を赤くしていた。
普段より食事の準備などは全て彼女が行っているし、仕事の間の差し入れや、遠征の水筒茶といった心遣いはもちろんで、何かを尽くす事に対して恥ずかしがるほど今更な事もあるまい。
こういう言い方は品が無く、好まないが、とうに“それ以上”を営みとて越えている関係である。何より夫婦だ。
どうにもこうにもリンの赤面基点が分かりかねるが、それはさておき、慎太郎はその心遣いをとても嬉しく思っている。
「…菓子の製法に関して明るくないが、手間がかかった事だろう」
「!」
「ど、どうした」
礼の前に苦労を癒したい。何より早く食べたい。そんな気持ちで発した言葉と彼女の盆へ伸ばした手は、がーんの擬音と共に跳ねた、彼女の肩の動きで封じられ、空しくも宙へと放られた。
うっかり掴み損ねた手は、悲しいかな桜餅を掴むように俵型に曲がっており、見るも何とも不格好で、加減を弱めた指先がなんだか酷く心地悪かった。
すぐさま手を引っ込めて、過剰反応の妻を窺えば、そ、それです、と、またもや顔を赤くしてこちらを見ていた。
まったくもって意味が分からない。夫婦の間に分からぬことなどないと自負していた心が早速折れてしまいそうだ、そんなしょんぼり感を隠しつつ、慎太郎は問う。
「その、…あの。………」
ぼそぼそと話し始めた妻の本音はこうだった。
幾日か前、馴染みの郷士宅より実家にもち米が贈られ、それをもらったらしいリンは、春らしく桜餅でも作ろうと思い立ち、もち米を加工し道明寺粉を作った。
桜餅には塩漬けの桜葉が必要だろうと、過去聞いた話を思い出し、桜餅の作り方に詳しい実家の隣人宅へと足を通わせていたのだとか。
初めは慎太郎と共に春の味覚を楽しめる事に心が躍っていたのだが、製造工程上、様々な人の話を聞いている間に、それが徐々に不安へと変わっていったと。
会う人会う人、おそらくは領内の民であろうが、皆が口々に「まあそんな手間をかけて」「私なら面倒でやれないわ」と走らせたのがその元で、行きついた思考がつまり、
「『想いが重い』……ってこと、ですか」
「そ、そう、です………その、逆にご迷惑かと」
確かに一連の動きを言葉にすれば、それは重みとなるかもしれないが、慎太郎にとって、愛しい人が自分の為にと手間暇かけて練り歩いてくれたのだと知れば、それはその深さに感動するばかりで、おろおろと俯くその妻を今すぐにでも抱きしめて転がしたい衝動に駆られた。
と、そこまで不浄な思いではないにしろ、深い彼女の愛情に心が甘く痛んだ慎太郎はひたすらにその湧き上がる愛情を抑え込むのに必死であった。彼女は慎太郎を“立派な人間”と評しており、夫婦といえどもなかなか男女の睦まじさというのは実は少なく、民が囃し立てるような蜜月ではないのだと慎太郎は、少なくとも思っている。
一人の人間として愛してくれる事は誇りだ。心繋がる事もそれはそれは代えがたく価値あるふれあいだと思う。
しかし、しかしだ。
「(…信頼され過ぎるというのも問題か)」
ここで勢いぶつける如くに転がすのは容易であるし、何よりそれで関係が荒むような事はないと言えるくらいに自信はあるのだが―――何にせよ脳で考え出した時点で慎太郎に勝ち目はなかった。男の屈強な体に見合った理性は固く、結局のところ勢い赴くまま無体を強いる事など出来るはずもなく、今宵も一人、意気地が無いとむせび泣くのかもしれない。主に心が。
理性が勝つならそれはそれで仕方がない、どうにかそうして煩悩を、理性の勝利という形で放り投げると、慎太郎はそっとリンの盆へ手を伸ばした。
慎太郎の手にはやや小さなそれを、ぱくり一口かぶりつけば、ぷつりぷつりと切れる桜葉の、塩気と香りが口に広がる。
もっちりと切れる皮の触感も楽しく、丁寧に炊きあげられたあんこの甘さも、塩気と混ざり合い絶妙で。こればかりは理性も憚らず、素直に口から感想が漏れた。
「…うまいな」
「ほ、本当ですか…!」
ぱああ、と音が出るほどに華やぎ笑うその顔に連られ慎太郎も破顔した。春の息吹のように穏やかに、どうしてこの人はあたたかく笑うのかと、胸を掻き立てられ続ける身として、理不尽な思いもままあるが。
純粋に妻が作った春の味覚は身に染み入ったらしい。疲れた体に余計に響いた甘味の、何よりそのまごころに感謝する。
慎太郎が落ち着いたのを見てか、リンもひとつ桜餅を手に取り頬張る。慎太郎の手や口には小ぶりであったそれらも、妻のそれにとっては十分な大きさで、崩れぬようにとせっせせっせと口に運んでいる。
ごくり飲み込んだところで、はっとして妻は言った「お茶と一緒に召しあがって頂こうと思っていた」と。
「あなたが帰っていらしたのが嬉しくて。リンの策など全て飛んでしまいました」
困ったように少し眉を下げて、可愛らしい事を言うものだから、やはり慎太郎の胸は収まるところを知らぬままで、赤くなった頬を隠すように急ぎ立ち上がり茶の準備を考えた。
ふとそこで、盆の上の桜餅に目が行く。そういえば初めからそこには三つ乗せられていた。どういう意図なのかと妻に訪ねれば、慎太郎さんがふたつ。私がひとつ。そう答えた。
「―――リンさん、茶を淹れてくるからそこにいてくれ」
「まあ。あとは慎太郎さんの分なので、私の事はお気になさらず、」
「いや―――半分に分けよう。……その…そう、したいと思った」
童のような願いは気恥ずかしく、尻すぼみとなる語尾を誤魔化すように慎太郎は少々乱暴に襖を開けて出ていった。
夫のいなくなった間に、ぽつり残されたその妻の頬とて、桜の実に違わぬ紅に色付いていてそれはまた初々しいものであった。
所詮これらは似た者夫婦――――お勝手の小豆と桜葉を見やり、桜餅を探しに来た彼らが義父が吐き捨てるまで、二人の想いはただただ春の恋嵐の中に漂っていたのだという。