慎太郎とその妻(未完:無期限更新停止)
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春小波
不穏な動き、各藩を始め勢力が思惑渦巻く江戸も随分と終わりが見えてきたと先読人は思う。
長きに渡り平安を築き上げた―――はずであった、葵の望月はとうとう欠けが深まり、ひび割れて朽ちるのかもしれないとさえ思った。
大黒柱のないこの国はどこへ向かおうとしているのか、その道筋は未だ確定せぬままに、小力奮う権力者の狙い目ばかりがぎらぎらと脂ぎっては水面を汚していく。
憂うのみの国民の言葉は無責任で、不透明な情勢への不満や不安は募りに募る。悲しいかな、それが今の日ノ本の真実なのだと慎太郎は思った。
己が手で世を変えるだなどと、そこまでの器量を持たぬというくらいの目はある。
けれどもどうにかこの国に平安の風を流すため、穴を空ける位の腕はあろうと自負もしていた。
―――そして今も、祝言の日の誓いを忘れてはいない。国を憂いて改善を求め、未来の愛し人へ桃源郷を捧げる。その為であれば慎太郎は千里の道も駆けて行ける気がしていた。
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家を継ぎ、リンを妻に迎えてから今日まで慎太郎はそれは誠実に仕事をこなし、休まず領の為に尽くしてきた。
その甲斐あってか領地内は徐々に安定を手に入れ、災害にまみれていた頃と比較すれば、それにならぬ程に平穏な時が流れ始めている。
故に庄屋業務に時間をさほど取られることもなくなった事から、幾らかの業務を妻へと託し、ここの所の慎太郎は龍馬と共に過ごすことが多くなっていたのであった。
慎太郎は安芸北川、龍馬は土佐―――もとい日ノ本各地…を拠点に、日ノ本の行く末を見据えて行動を開始していたのである。
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それは文久元年、慎太郎とリンが夫婦となった次の年の事であった。
慎太郎が家督を継ぐ前、江戸にて剣術修行に明け暮れていた頃の道場の志である武市半平太が尊王攘夷の思想を掲げた“土佐勤王党”を立ち上げた事より話は始まる。
それはこの国の夜明けへの第一歩であると同時に、慎太郎の苦悩の日々の始まりでもあった。
この日、慎太郎は土佐にあった。
幾日か前から友人である龍馬が土佐に戻っているとの話を聞き付けたからである。
なるべく早く戻るから、と妻と庄屋仕事を残しての土佐滞在は既に予定の二日を越えて三日目に突入してしまった。
心配性で、人一倍強がりな妻の様子が気になり、何度文でも出そうかと思ったほどであったが、そもそも土佐と北川の村は然程離れていない上に、たかだか一日予定が遅れているだけなのである。
文を書くべく立ち上がっては諌め、座り直し、しかめっ面。この一連の流れを繰り返して何度目であろうか。
今日こそは戻るという宿馴染みの言葉を信じて朝から宿部屋に居座っているわけだが、肝心の友人は未だに姿を見せる気配はなかった。
こうも無駄な時間があるとどうしても思い返してしまうのは妻の事である。
ぐつぐつと煮詰まる思考に水を差すべく、慎太郎は窓を開け放って遠くの景色を見つめていた。
宿から見えるは鷲尾の山か、山脈の合間に見える広大な太平洋と、その左、海岸沿いをなぞる様に見つめれば、遠く遠くに安芸の山が見えるように感じる。
「…もう春が来るのか」
一年。ほんの少し前まで畑には霜が下り、都に積もる雪の話を聞いたばかりのように思われたが、もう里には春の風が流れ始めている。
妻と過ごす時間は驚くほどゆったりと流れているようで、目まぐるしく変わるばかりの四季の光景を、まるで歳時記を記すかのように噛みしめていたのだと離れてみて初めて気付く。
夏の日には西瓜を、寝間着にと新しい浴衣を仕立ててやれば、そんな贅沢は、と窘められた事もあった。
秋の日には四番茶を、七輪で焼いた秋刀魚を焦がす妻をからかい倒した詫びにと、手を繋ぎ柴栗を摘みに行った晴れた日や、冬の日にと新たに綿を詰めたどてらを差し出せば、夏と同じく窘められたりと、どの季節を巡っても慎太郎の記憶にはいつだってリンがいた。
こころ通わず泣かせ続けた春の祝言から、一年。鷲尾の山にも、目を凝らせば見える枝先の膨れた蕾がその証であった。
「………」
慎太郎は苦悩していた。思わず春の景色から目を逸らして、部屋の畳へ視線を置く。
長く変えられていないか、褪せた井草の色は旬を感じさせることなく、興も覚めかねないそれが今の慎太郎にはちょうど良かった。
――心を盗まれ過ぎたか。そんな言葉で誤魔化せども本質を変えられることはない。慎太郎はよく分かっていた。
幼少の頃より人に恵まれていたのが運命であったか、慎太郎は早くからこの国の行く末について深く考え、己が意志を固めるようになっていた。
江戸へ渡り剣術を学ぶ傍ら、土佐の国での知己を訪ねては学問、武術以外にも思想を始め、この国の成り立ち、海外の情勢などありとあらゆる知識を得ていたし、慎太郎自身もそれをとても有意義に感じていたものだ。
民なくして国ならず―――教えであったか定かではないが、胸に抱いた信念は根深く、その考えの元生きていく中で、情勢に身を委ね流される選択肢を選べられる程、慎太郎は他人主義な男ではなかった。
何より、幼き日、藪の中の幼子を見た瞬間に感じたその信念に、そして祝言にて誓った誠に背を向ける事など考えられない。
その真面目なまでに真面目な性質は、もはや愚かと指しても仕方がないと自分でも思う。それほどまでに捨てられぬものが増えてしまった。
目を閉じ、思い浮かべる光景は幼き日の学びの日。いつかは北川を出てこの世を動かす志士の一人として立ち回る―――その為の日々であったはずなのに。
ここに来て歩みが弱まるその枷を、果たして枷と呼ぶのはあまりに無情だと、分かってはいる。
幼き日を通り過ぎ、今も手を伸ばせば愛しい妻の肩がそこにあるような気がしている。初めて掻き抱いた時、折れそうだった細身もその肩も、今では女性らしい丸みを帯びる程にまで回復している。
それでもまだまだ華奢な、その小さな体を叶うならば今ここでさえも、抱き寄せたいと願うのだ。一時も、離したくないと心が泣いている。
「(国を開く事があなたを幸せにする事であるというのに…俺は先を進む事をこんなにも躊躇う)」
心を盗まれ過ぎたのだ。妻を想って生きているだけの間は、この自分の行動の先にあなたの笑顔があればいいと願うだけで進むことが出来た。思いさえあればそれでよかったのに。
今ではどうだろう、笑顔一つ、泣き顔一つ逃したくないと全て己が眼で捉えたいと願ってしまう。
「(離れたくない)」
なんと女々しい姿であろうか、慎太郎は自分の心持ちを吐き捨て笑った。長州の久坂あたりが聞いたらば恐らく存分に笑ったであろうし、その知己の高杉に知れたらどれだけ笑いものにされるかたまったものではない。
高杉は己が信念に一直線の狂気じみた人物だと聞く。けれど、今はその強すぎる信念が羨ましいとさえ思った。
自分は愛する人を想いながら、その手を離し、進む事を恐れているのだから。
深く吐き出した吐息が、思考の一端、終焉であった。再度窓の外の海を眺めれば春の海はほどよく穏やかで、慎太郎の心の葛藤など知らんと言わんばかりにそっけない。
広大な海にはかように小さな悩みなど存在しないと言われているようで、慎太郎はまた、嗤った。
「慎太郎、すまん!遅くなった!」
「龍馬さん」
合図なく襖を開けて飛び込んでくる旋風。髪を乱し服を乱し、どうやら相当急いで駆け付けて来たらしい。
事実予定の日から一日時間が過ぎているのだ、そのくらいは当然だろうと慎太郎がため息を吐き出したところ、旋風―――坂本龍馬は大げさに手を合わせて謝罪を始めるのだ。
何を大げさにと告げたところ、龍馬は締まりのない顔で理由を述べる。“お前をあんまり引きとめては北川に残してきたお嬢が悲しむからな”と。
祝言の日に飛び出したあの一連を指しているのだろうがどうにも半笑いの顔で言われても説得力はない。面白がらないでください、あんたも共犯の一味だ。そう告げれば急に大人しくなるものだから龍馬という人間は本当によく分からない。慎太郎はそう思った。
「それで龍馬さん、今日来てもらった件なんだが」
「ああ、そうだな。勤王党の件だったよな」
「―――ええ」
ああ、重い。志士への一歩の重力に逆らう言葉は、ぽつりぽつり、歯切れ悪く口から漏れていった。
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「――――加盟するが吉だと龍馬さんは思うか」
「ああ。今のところは、だが。攘夷が必ずしも今後も是であるとは言い切れん不安はさておき、人脈を築く意味で参加すべきだと俺は思う」
「長州寄りになるという事か…」
「利害が一致している内はそれで構わん。頼れる先は多い方がいい。ただでさえこれから俺達はお天道様の下を堂々歩けなくなるかもしれん身だしなあ」
「………」
「……やっぱりか慎太郎」
鎌をかけられたとは思うまい。事実、尊王攘夷への関心が高い己の意志は固く、党一つに参加するしないなど他人の助言を必要とする限りではないのだ。常ならば。
それをわざわざ各地奔走する友人を捕まえてまで相談するという不審な行動に、龍馬ほど勘のいい人間が気づかないはずもなかったろう。無論、慎太郎とてそれ前提の事ではあったのだが。
ただ、龍馬の目に呆れの色が無かった事は救いであった。これでいて長州の高杉ならば嘲笑と共に深く詰ったに違いないであろうし、何より慎太郎自身も揺れる決断に辟易しているのだ。これ以上の説教は勘弁願いたいのが本音である。
「守りたいものがふたつあるのは不義なんだろうか」
「少なくとも俺はそうは思わん」
「…だが」
―――連れてはいけないだろう。
慎太郎はその言葉をごくり飲み込んだ。恐らくその意見には龍馬も賛成であろう―――肯定されてしまっては、今の慎太郎にはその言葉に逆らい得るだけの根拠も自信もなかった。
言葉が整うまで待ってくれるらしい龍馬の間に感謝し、慎太郎は再度窓の外、南に遥か広がる海を眺めては妻の姿を見ていた。
ゆらり、ゆらり、寄せては返す波もこのところは穏やかで、ただただ自分のこころばかりが淀んでいるような錯覚さえ見せられる。
泣くだろうか、妻は。
置いて行ったと、責めるだろうか。
そんな考えがぽつりぽつり浮かんでは慎太郎の胸を締め付ける。泣く顔など見たくないのにと。
しかしその一方で、これは龍馬も知らぬ事であろうが、二人にしか分からぬもう一つの形を見出してもいる―――夫婦の歩みの道で得た、本物を。
「(恐らく、リンさんは覚悟が出来始めているだろう)」
あの人は初めから“妻”としての責務を強く知っていた。それに縋るように努力を続けたのも、己のこころを逸らし続けたのも、それが一因であるのは間違いない。
かねてより己が噂を聞いていたと言っていた。江戸で剣術修行をしていた事も、幼き頃より勉学ばかりしていた事も。
いつかは志士として北川を出て、日ノ本を駆け回り理想を叶えるべく飛んでいく事を―――あの人はきっと覚悟している。
「(……でも俺はあなたが可愛くて仕方がないんだ)」
固い蕾が花開くように、日に日に表情が豊かになる妻のうつくしさをどう例えたらいいのか、それは所詮惚気でしかないかもしれないが、考えるだけで胸に溢れるぬくもりは優しいのに苦しくさえある。
生きづらいこの夜を変え、少しでも幸せになってほしいと願う気持ちに偽りはないのに、既に綻び始めた花の経過を見落とす事を強く拒絶しているのは他でもない慎太郎であった。
自分さえいればこの人は笑顔でいてくれるのではないか。そんな傲慢な考えさえ、抱いてしまう程に。
慎太郎は首を振ってそれらを全て否定する。彼女のせいではない。彼女がそうだから、こうなっているのではない。全ては。
「…俺の覚悟が足りない」
「まああれだけ可愛い嫁さんもらったらその気持ちは分からん事もないけどなあ」
永遠に共に。せっかく夫婦の形で結んだ約束をこの手で反故にするのだろうか。まるで奪うように平穏な場所から連れ去ったのは自分であるというのに。
眉間に皺を刻み、ぐるぐると思案する慎太郎を見やって、龍馬は深いため息をついた。いつもの調子で言う。
「まあ、そんなに深く考えなさんな。今はとにかく少しでも状況がよくなるよう進むしかないだろ」
「それは、そうだが」
「その先はなるようにしかならん。見えている未来の光景が不満なら、お前がいいように変えていけばいいだけだろ?」
「すごく正論に聞こえるが、それをあんたがするから俺が尻拭いに奔走する羽目になっているんですが」
墓穴を掘ったと渋い顔をする龍馬を尻目に、けれどもその言葉に救われたような気がしていた。
先の事は分からない、考えたところである程度の予測は出来ても、それは所詮偶像であって現実ではない。ありがたい事に細部まで考えが行き渡る性分を授かったのだ、それはあくまで長所としたかった。
考えすぎると何も出来なくなるというのは道理で、何より、今は道筋を立てられるところまでこぎつけたのであるから、ただ前進あるのみ。
―――考えがまとまったところで、一息ついての瞬き。先ほどまで海の果てへと逸らしていた瞳にはもう淀みはなかった。
その瞳を確認してか、龍馬が笑う。彼の中での興味が完結したか、次の興味対象としてか、不意に、慎太郎の脇に抱えられた水筒を指して問うた。
「その中身は?」
「これはリンさんの茶だ。出かける際はこうして用意してくれている」
ちゃぽん、と水筒を揺らしたところ、随分と量は減っているのか、筒の中から聞こえた音は物足りない様子を表している。
思えば随分会話が過ぎたか、ぼんやりと思考を流していた間は気付かなかったが慎太郎も龍馬の喉もそこそこに水分を欲していて、宿に頼んで茶会を開く事となった。
温められた急須の中にざっくりと入れられた茶葉に苦笑するのは慎太郎だった。急須も茶杯も温められないまま湯を注がれ茶葉を放り込まれと、随分手荒な扱いに、茶水はややご立腹らしい。
立ち上がる香りは入れたての清々しさがあれども、どうやら茶葉もそこらにあったのを適当に放ったか、茎も葉も入り混じったちゃんぽんで、慎太郎は気付くと再び苦笑する。
とはいえ急な申し出に用意されたそれに文句を言えるはずもなく、馴染み宿というのはそういうものだと、悟る龍馬と共に笑って和んだ。
濾すものもないのでそのままとくとくと注いだ茶杯の中、茶葉と茎とがゆらゆら踊っている。色に注目したのだが、やはり葉の心が開ききらなかったか、浅く薄い色味で、慎太郎はそれを再度急須へ戻す。
これで更に温度が下がったかと思うと内心複雑な気持ちであるが、うららかな春の陽気には熱すぎない方がいいかもしれない、とこじつけて、再度茶杯に注ぎ開ける。
先よりも深みの増した色は濁り微かに湯気を立てて登場した。最後の一滴まで絞り出し、差し出す。
「龍馬さん」
「悪いな、いただくぜ」
龍馬に続いて口にしたのだが、やはり物足りない味だと思った。茶葉がどうとか淹れ方がどうとか、確かに丁寧な手順ではなかったが、それでもそれはそれなりのおいしさがあるはずであるのに。
なんだろう、乾いた喉にさえ、どこか物足りないのだ。何がとは、分からないのだが。
やはり温度だろうか、頭をひねる慎太郎の視界の端に不穏な動きを察知して、思わず振り返れば、龍馬が伸びして水筒を浚っていた。
いい年をして何を悪戯童のような事をと咎めれば、龍馬はまさにその顔で言うのだ。飲み比べがしたいと。
「俺が持ってる茶はもう幾日か前のもので飲み頃はとうに過ぎてます、今日中に飲まないと悪くなるくらいには」
「まあそうかもしれんが、淹れ立ての茶でそんなしかめっ面になる奴を俺は知らん。物は試しだ、飲ませてくれるか?」
仕方がない人だ。慎太郎は注いだ茶をごくりと飲み干し茶杯を空け、手早くリンの茶を注いだ。熱くなった湯のみに注がれた茶は程よくぬるく、龍馬の手元の茶と大差ない温度になっていた。
同じ柄の茶杯では区別がつかなくなると慎太郎は右をリンの茶、左を宿の茶として龍馬に手渡す。どちらもやや黄味がかった茶水色をしており、区別はつかない。
礼を述べる龍馬の向かいで、リンの茶が随分と劣化してしまった事に寂しさを感じながら、飲む喉を眺めていた。
茶葉自体にそんなに優劣はないだろうから、多分、答えは決まっているだろう。
「…正直分からん。どっちもどっちのように思うんだがなあ」
「まあそんなものだと。俺の茶も特別いい茶葉を使っているわけではありませんし」
もう一杯宿の茶をもらおうかと、空になった茶杯を受け取るべく手を伸ばしたのだが、龍馬はまたも童顔でそれを拒否する。
慎太郎、後ろを向いていろ。その言葉で大体やりたいことは分かった。
「じゃ、問題だ!どっちがリンの茶だ?」
「…そんな事だろうと思った」
まあまあそう言いなさんなって、困り口調ではあるがその声色はやたらと楽しそうで、琥珀の双眼は横薄く伸びきっている。
良く言って邪気のないその仕草に呆れながらも慎太郎は茶杯を受け取り、適当に口をつけた。右でも左でも、どちらでもよかった。
自分はとにかく喉が渇いていた。
「おいおい、そんな適当に飲んでいいのか」
「―――こちらだ」
「は?」
「リンさんの茶は、こちらだ」
先に飲んだ茶杯を指して龍馬に反した。素っ頓狂な声を上げて、抗議する友人の声を聞きながら慎太郎は構わずに次の茶杯へ口をつける。
ごくりとそれを飲み干せば、喉を潤す茶の流れにようやく心が満たされる思いで、思わず笑みが漏れる。喉を鳴らし飲み干し、空になった茶杯を盆へと戻した。
龍馬は答えを変える気になったか、そう問うたが自分の中では既に終わった事であって、ただ短く否定の意を示し答えた。
「慎太郎、真面目に答えないとつまらんぜ」
口を尖らせ不服顔になった友人はその後も二言三言、恨み言を連ねていたが大して相手にされていない事実に気付くと、程なくその不満も鎮火していき最終的には“生真面目な堅物のお前だから”と慎太郎のせいにして会話を閉じた。
その後またすぐに興味の対象を変えたか、今度は茶葉や茶器、茶の特徴について質問攻めを始め、久々に趣味の話に花を咲かせる慎太郎は嬉々としてそれに答えていた。
お前は男なのに酒よりも茶を好むとは変わっているなあと龍馬は笑うが、昼間っから飲んだくれるわけにもいかんので、茶が趣味という健全さはかえって都合もよかったと他愛ない会話は続いていく。
空になった急須にもう一度湯をもらうべく、龍馬は立ち上がり、階段上で宿人を呼んでいる。
二杯目は抽出時間を短くしたいところだが、茶葉の開きを考えると―――などと一人ごちていたところで、不意に声をかけられた。水筒に入れる分の湯ももらうか、と。
「いや、いい」慎太郎はそれを断る。不思議そうな顔をする友人の顔が見えたが、それにあえて返事はしないまま、空になった水筒を眺めて、馳せた。
「(これはあなたの茶専用だからな)」
―――リンの茶は甘い。どんな茶葉を使っていようと、彼女が触れるだけで甘く変わるそれは、慎太郎にしか分からない繊細な味わいであった。
一年前の春の夜に彼女の手から浚った、祝杯の辛口酒のように。それは慎太郎にしか分からないとっときの記憶であり、真実である。
湯を追加した急須がぐいと目の前に差し出された。年長者の龍馬に注いでもらうのは気が引けるが、今はそれに甘えることにする。茶杯に注がれる二杯目のお茶はやはり薄く、物足りない味わいだがそれもそれでこの一時の味だと思えばそれで思い出となる。
「(次帰ったらリンさんに俺の淹れた茶を飲んでもらおう)」
果たしてそれはどんな味がするか――四番茶の時のように茶そのもののおいしさだけを拾うだろうか。
己が感じるように甘く感じてほしいなどとは言わない、けれど、もし特別な味であったのなら―――それはどれだけ幸福の味だろう。慎太郎は思う。
「俺の茶がそんなに美味いのか」
「悪くないですよ、ちょっとばかり薄いが」
これだから利き茶は辞められない。
一歩を進む覚悟と共に、京から下った一等の茶を買って帰ろうか――ただ今は妻の甘い味に似た柔らかな笑顔が見たい。
ただ、そう思っていた。