慎太郎とその妻(未完:無期限更新停止)
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小さい秋
入道雲が去った後の空は呆気にとられるほどに爽やかで穏やかな様相で今日も天に沁み広がる。
夏の残り日、じっとりと張り付く残暑の熱に当てられ心の端を吐露した西瓜の日から、慎太郎とリンの夫婦は以前よりも会話に丸みが帯びる変化が見られた。
礼儀に深く飾られたリンの敬語は柔らかなものへと変化し、けれども完全に敬語が抜けきるわけではなかったのだが、それは慎太郎とて同じ加減で、摩擦により生じた互いの角割れとでも称そうか、とにもかくにも穏やかな日常が流れていたのである。
初めは呼ばれる度に顔を赤くしていた“慎太郎さん”も今では自然な響きへと変化し、リンが過剰なまでに執着していた庄屋の妻という肩書も、少しずつではあったが深追いしないようになってきたように思われる。
実際、慎太郎に付いて領内を巡る内に、リンの姿を見つけて声をかける領民の反応を見れば、彼女が認められているという事実は一目瞭然であったし、その手間を経て彼女自身も自分の努力を認める事ができたようで、ここのところのリンは本当に穏やかに過ごしているように見受けられた。
相変わらず領地内は貧しい状態であるのに変わりはなかったが、慎太郎の懸命な政策や改革の甲斐あってか領内に蔓延る不満は徐々に減り、今年は昨年よりも領内の取り締まり件数が減少している成果が出ていた。
領内の住民同士の揉め事の裁量も大庄屋の業務の一つであるのだが、人と人との揉め事とは感情が絡み合って長引くのが常である。
互いの利害を理屈だけで裁けたならば話は早いのだが、利害障害は何も実益を兼ねるもののみではないため厄介なのだ。
特に、ここの所の貧困の極みによって領民は随分と鬱憤や不満が溜まっていたのは事実で、些細な事で衝突が絶えず、慎太郎が父、小傳次もその対応に追われ随分と精神をすり減らしていたのを後に聞いた。
何にせよ時間がかかり、なおかつ厄介な業務の一つなのである。
それがここの所、激減したという事はその分他の業務に時間が避けるという意味であった、すなわち他の業務もよりよい政策を考える猶予があり、なかなかどうして順調に事は進んでいるように思われた。
更に幸運は重なり、今秋は未だ台風の噂も耳にしていない。昨年から植え始めた柚木は今夏、青々と葉を茂らせ、場所によっては黄色い実を披露するものもあったが、まだ根付いているとは言い難い、若木たちばかりである。
台風で無残に散らされるのは避けたかったし、何より新しい特産が生まれる事に希望を託している領民を突き落すような結果を望んではいなかった。
―――そんな気候条件も重なり、とにかく今、慎太郎はようやく庄屋稼業が気道に乗ったと実感しており、上機嫌で勘定の間にいる事が多かった。
その好条件に重なり、妻との距離感の縮まりもこの上ない満足をもたらすのだ。
仕事が順調で短縮を重ね、妻とのふれあいの時間を作れば、初めは遠慮していたその妻も、今では嬉しそうにその時間に甘え始めている。
慎太郎が家を空けている間、妻に家を任せるようにしてから、それもまたリンにとって誇らしかったのか、以前の龍馬の侵入の時のように「お任せください」と逞しい返事を返してくれる。
とはいえ武道などとは無縁の生活を送っていた妻に、賊と対峙する力はないのだから、あまり無理はするなと告げるのだが、以前ならばすれ違っていたであろう言葉でも今のリンは上手く受け止められるように改善が見られた。
何にせよ今日も可愛い妻との時間を過ごすべく、先日出先で手に入れてきた四番摘みの茶葉袋片手に、慎太郎は夫婦団欒の間へと向かっていた。
襖を開け、振り返る妻の顔が喜びに綻ぶのが気恥ずかしくも嬉しくて、慎太郎は微かに微笑んだ。
「まあ慎太郎さん、休憩ですか?」
「いや、今日の分が終わったから茶でもどうかと思ったんだ。先日出先で四番茶が出ていたのでつい手が伸びて」
「まあ…四番茶、ですか。どのようなお茶なのです?」
―――お茶には明るくなくて。恥ずかしそうに告げては少し俯く妻の隣にどかりと座り、茶の包を開けば、春の一番積みよりも深い緑と香りが立ち込める。
良い香りだと感心する妻に気を良くしながら、慎太郎は少し四番茶―――神無月に摘まれる終わりの茶の話を語った。
人間、興味のある話は深く掘り下げ知識を得るものであり、またそれを人に伝える事を楽しむものだが、それが過ぎれば相手を退屈させるものだと慎太郎は心得ている。
長すぎず、浅すぎず、リンの興味を損なわぬよう巧みな話術で茶を語れば、リンは心底感心したように息を飲んで話に聞き入ってくれた。
生憎手元に新茶は残っておらず、飲み比べこそ出来ないがやはり薀蓄よりも飲んでもらうのが一番いいだろう、そう思い立ったがすぐに慎太郎は席を立ち、お勝手へと向かおうとしていた。
その背をリンが止める。
「慎太郎さん、お茶なら私に…」
「いや、たまには俺に振舞わせてくれ。こう見えても俺はきき茶が趣味で、茶の淹れ方は心得ています――リンさんに俺が淹れた茶を飲んでもらいたいんだ」
「―――まあ」
意外な夫の趣味に驚いたらしいリンの様子に、一層のやりがいを腕に乗せて慎太郎はお勝手へと向かう。
一方リンとしては慎太郎の最後の言葉に頬を染めていたのだが、濁した返答がどう受け止められたのかは神のみぞ知るところであって、他愛もない些細なすれ違いこそあれども、以前と比べて随分と順調となった夫婦はただただ微笑ましい。
程なくして小さな盆皿と共に戻った慎太郎はてきぱきとリンの前に茶の準備を始めた。大柄で武骨な外見の慎太郎の繊細な運びにリンは何度目か分からぬ感心と憧憬を抱き、熱のこもった視線で夫を見ている。
骨ばった手が小さな湯呑を並べる様子は目新しく、なんだかままごとのようだとリンは思った。
ままごととは言いつつも、互いは既に夫婦であって、そんな他愛もない事が平和で、おかしくて仕方がなかった。
「―――ん、何かおかしなことでもありましたか?」
「いいえ、いいえ。あなたの手の内では湯呑も小さく見えるのだと思いまして」
「ならばせこく見えるか」
「とんでもない―――細かな気配りが私には眩しいのです」
リンは茶について詳しくは知らないが、栽培地域の差に留まらず、摘んだ場所、茶葉の部位、加工の方法――あらゆる工程上の小さな変化が茶葉の種類に関わるのだと聞きかじっている。
それぞれの茶について淹れ方も異なり、温度や蒸らし時間まで細かく設定されているのだと聞いたことがあるが、まさかこの大柄の男がそのように細やかな神経を持っているとは失礼ながら思わず。
その見た目に反した穏やかな趣味が、可愛らしく見えて仕方がなかったのだ。大きな体を丸くして注ぐ機会を窺っている郷士様にはとても告げられることではなかったけれども。
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「さ、どうぞ」
「…良い香り。それに、綺麗な緑色―――いただきます」
太い指に差し出された茶の表面がゆらゆら波打つ。底まで透き通る綺麗な浅緑は素人目に見ても春の新茶とは異なる色味のように思われた。
適温でゆるり出されたそれをこくりと飲み込めば、吐息と共に抜けていく神無月の名残の香りに包まれる。満を持して摘み取られた茶葉の、けれども決して新茶に劣らぬ存在感に胸を打たれる気持ちであった。
四番茶は決して四番手などでも行き遅れなどでもなくて―――
「あまり違いは分かりにくいと思います。四番茶の特徴としては、新茶よりも浅く、爽やかな口当たりが特徴なのです」
「そうですね、違い…は確かにあまり分かりませんが、春に頂いた時のものよりものど越しがよいように思いました」
「春の茶はまろやかですからね――本当なら四番茶は冷やで飲むのが一等美味いんですが…今すぐに飲んでもらいたかったので」
慎太郎さんは本当にお茶が好きなのですね。いとし子を見つめる様な慎太郎の横顔にそう告げれば、さっと色づく目元の赤に心が動く。
こうして彼の趣味に触れさせてもらえることが至上の幸せだなんて、我ながら安い女だと思わなくもないが、距離が近づかねば踏み入れられない特別な場所だと思えば、やはりそれは喜びの一つでしかないのだ。
たとえそれが茶を共に啜る事であったとしても。
「慎太郎さんのとっときの趣味を教えてもらえて嬉しい」
思わず包み隠さず、ぽろりと本音が漏れてしまったのだが、気付いた時は既に遅しとはまさにそれで。
ああ、はしたないと今度はリンが顔を染める番であったが、恐る恐る覗いた慎太郎はというと目元の赤はそのままに、けれども嬉しそうに微笑んでいて。
まるで生娘のような反応をしてしまったと、リンは一層顔を赤くするに至るのであったが、けれども胸にじわり染み入るのは茶のぬくもりだけでは決してない。
「―――確かに世間的に美味いとされるのは初摘みの茶でしょう。けれども俺はその時節毎に摘み取られたどの茶葉にも個性があり、味があり、心があると思うのです。全ての時節で異なる顔を見せるそれらを読み解く事が面白くて」
「どれにも、個性が」
「そうです。正しいも間違いも存在しない。どれもが、その一瞬を切り取った唯一です―――だから、」
途切れた言葉の先を追うようにリンが顔を上げれば、ふいに影が重なる。茶の熱が宿った唇は熱く、青い残り香を漂わせて離れていった。
それが恋通ずる者達の間でのみ色を成す、口づけという行為であるはずなのに、そうとさえも感じさせないあまりに自然な重なりだった。頬を染める間さえない程に。
―――不自然なくらいに、自然であった。
「―――ありのままでいいんです。俺達はありのままで、きっと大丈夫なんだ」
まるでそれは自分に言い聞かせているような言葉であったとリンは思う。秋空高く、風気良い部屋の陽だまりで、目を離せば景色と溶け込んでしまいそうなおぼろげな存在を掴むように、ここにあると位置づけるように。
リンは悟る――あまりに相対するその願いと言葉との矛盾に、気付かぬ程この人は、夫は愚かな人ではないのにと。
詩に彩られた情緒的な言葉の奥に隠された燃え上がる志の炎をひた隠すように、穏やかな日常に溶け込もうと尽力するこの人は、なんて清廉なのだろうとも。
夜明けへとひた走りて疲れた足を癒すために、一時の踊り場として留まっているとリンは心のどこかで己をそう位置づけている。
それほどまでに夫の内に燃え上がる志への熱意は熾烈であったから。それが己の為であったとしても。
ただ、今はその炎が揺らいでいるのだ。それも己の為に。
「(あなたは優しすぎる)」
日に日に互いの距離が縮まって、一つになろうと歩み寄る度に明るみになる二人の相違なるものに慎太郎は気付き始めている。
そしてそこから目を逸らそうとしているのだ―――あまりにそれは、今の自分に悲しすぎる答えだから。
一方リンははじめから覚悟していた。自分は一時の踊り場でしかないと、象徴でしかないのだと分かっているからこそである。
けれどもリンもまた、背を押すだけの覚悟はまだ出来ていなかった。ようやく重なり合った愛しい人の心を、それらが映し出す桃源郷のようなこの時間を、永遠だと信じたかったから。
「…でも、あなたは欲しいものがあるのでしょう」
「………よく見ている」
「もちろんです―――だって、あなたの妻だから」
今はそれが精一杯であった。
日差しは蕩けるように温かでも、流れる空気は春のように優しくはない。突き刺さる寒冷の気配をしかと擁したまま、それでも撫でるように優しく流れる風の、食えない仕草に閉口する。
冷えたのは体か心か。湯呑の中で待ちわびる茶を喉へ誘い、熱を探せども既に逃げ切った後のそこにあったのは侘しさと渋みだけであった。
飲み頃を過ぎた四番茶の声なき抗議のようだとリンは思う。
どんなに優れたものも、時節を違えば評価も入れ替わるのだと、ならば、今、目の前の幸せを逃がさぬよう追い求む事はそれほど罪だとは思えない。愚かだとも、勿論。
「次のお茶もぜひご一緒したいのです」
「そんなこと――――……。ああ、喜んで」
不変なものなどどこにもなくて、有限であるからこそ価値が生まれて意味が見出されると言うのならば、今ここでこうして何気ない時間を過ごす事さえも意味があり、必然なのであろうとリンは肯定する。
言葉尽くしの情緒無きその思考を明かすつもりは毛頭無いが、それでも、この複雑なこころを言葉にし得るほど鮮烈な感情をリンは持たない。
先を読まず、目の前の精一杯を精一杯に感じ、生きるとしたならば少しは未来を手中に、変え得ることも出来るのだろうか。
残りの茶をごくり飲み干した後、どこか寂しい空気となった間と向き合って、会話を誘い新たな風を作りて流した。
「市井に秋刀魚が出回っているようです。未だ低俗だと忌まれていますが…秋の秋刀魚は本当に美味で、旬の四番茶にも合いましょうに」
「油を取る以外の用途があるのか」
「お試しになりませんか? お茶に合うか否か、きっと興味深いと思うんです」
お義父さまの話では、奥の蔵に七輪があったはずです。そう告げれば慎太郎は噴出した。何かと首かしげ問うたらば、「七輪で秋刀魚を燻すあなたは想像がつかない」と言う始末で。
確かに実家にあった頃、秋刀魚とて滅多に食卓に上がった事はなかった。海産物の扱いに対し経験不足なのは間違いないが、何もそこまで笑わずともいいであろうに。
むくれた表情を見せつつも、リンは内心ほっとする。よかった、風向きが変わった。と。
「そこまでお笑いになるなら、慎太郎さんが焼いて下さいませ」
「ああいいよ。…じゃあまずは買出しからだろう?」
「!」
突き放したつもりが逆手に取られて、リンは目を丸くする。しかめっ面がこの時ばかりは意地の悪い童のようににやにやと笑うのだ。
変なところで策士な夫に、見事に“素直に買出しに誘えない妻”に仕立て上げられた事は不服なものの、事実共に買出しに行ける事自体は嬉しいのだ。
ここで意地を張った所で勝ち目などないのだからと、リンは早々に張り合いを諦め、素直な気持ちを告げる。
「リンはだめな女ですから。どうぞ慎太郎さん手綱を握っていて下さい。目を離すとどこかへ行ってしまいますから」
「……ああ、もう。…本当にあなたって人は」
差し出した手を溜息交じりに繋がれる。けれどもそれは言葉と裏腹にしっかりと力が込められていて、言葉の代わりには十分で。
茶を褒められた時よりも一層赤く紅葉した目元を見つけて、リンは笑う。幸せを噛み締めるように、深く。
「旬とは本当にいいものですね」
「…リンさんって意外と意地が悪いんだな」
慎太郎さんが私を許して下さるからですよ。その言葉をごくり飲み込んで、曖昧な笑顔を作って返す。
全てを語るのは無粋だ、それが例え真実であったとしても女心は掴めないくらいが丁度いい。
近いか遠いか。逃げられない運命の分かれ道に差し掛かったその時は、全てを明かして向き合いたい――その必然の時までは静かに眠らせておきたいのだ。
固く繋いだ手に引かれるまま歩くあぜ道の、高い空を見上げる。
空の遠き果てに見える鱗雲が秋刀魚のようだと呟けば、呆れたような慎太郎の笑みが返される。艶も色気もない童の如き会話に安らぎさえ感じるのは愛し相手の存在故か。
愚かだと笑われても、いつまでもこんな時間が続けばいいのにと、やはり何度でもリンは願う。
目に見えぬ上空で風舞うその空、鱗雲は既に形を変えていた―――けれども縦伸びる二つの影の重なりに揺らぎはない。
それが今のすべてであった。