慎太郎とその妻(未完:無期限更新停止)
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龍馬と西瓜
立秋も明け、残暑厳しい葉月の末、次第に濃さを増す緑の山の北川で柚木の植樹作業は絶えず行われていた。
本来であれば春先、もしくは真夏を避けて行うのが適切である柚子の植え付けであるのだが、物は試しと買い付けた苗木を農村へと配り、実験を重ねていた夏の終わり。
秋の始まりから早ひと月近く立とうとしている本日、残暑はまだ厳しく、川側の家では瓜が冷やされ皆一様に涼を楽しんでいる様子も見受けられた。
リンと慎太郎は朝から領内を共歩き、近場から一軒一軒畑を家を見て回った。
突き刺さるような蒸し暑い日差しに、時折顔をしかめる慎太郎に差し出すは竹筒。朝一で近くの川へと汲みに出たとっときの冷水だ。
「ありがとう」
「いいえ」
受け取る夫の笑顔にリンもつられる。竹筒――手作りの水筒は慎太郎の父お手製のものであった。
適度に厚みのある竹筒に水が漏れぬようにと合わせ削った揃いの蓋。台形に削られたその蓋を開けると、爽やかな新緑が香るのがリンのお気に入りであった。
その水筒は慎太郎専用だと決めているので、リンが口にすることはないが、きっと注いだ水にも青い、いい香りが移っているだろう。
ごくり、喉を鳴らして飲み込む夫の顎に光る汗を拭う。恥ずかしそうにこちらを見る表情も、好きだった。
「リン…さん、俺は童ではない―――の、ですが」
「まあ、そんなこと。慎太郎さまは立派な益荒男ですよ」
「………」
困ったように一瞥。年齢にしては少し年長に見える横顔で、けれども恥ずかしそうに頬を引っ掻いて。
仕事の最中だというのに惚気てしまってこれではいけないと分かってはいるものの、心通じ合った後の胸の騒ぎは激しくお転婆で、どうにも言葉に出さずにはいられない。
抑圧されていた甘えたな感情が、夫の許しを得て形になっているのだろうか。
呆れられねばいいが―――そんな小さな不安の種ともう一つ、リンには不可解な要素がもう一つある。
先の会話でもそうなのだが、ここ最近、慎太郎はやたら言葉を詰まらせることが多くなったように思うのだ。さした会話でなくとも、どうにも何か思い悩んでいるかのように言葉を詰まらせ、たどたどしく吐き出す。
思いを通じ合わせた幸福に目を曇らせていただけで、慎太郎はまさかその間ずっと何か悩んでいたのだろうか。
持ち前の悪癖はずぶずぶと沼へと引き込もうと暗躍する―――けれど、リンもただやられているわけではない。
「(…近々、話をお聞きしたい)」
今は、勇気を出して心の声を聞く事が出来る。返された竹筒に蓋をし、手持ちの風呂敷に包んだところで、二人はまた領内視察へと足を進めて行った。
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昼間見た瓜がとてもおいしそうだったのでと、帰宅してリンはすぐに馴染みの行商人にあるものを頼んだ。
手に入れたのは西瓜である。今年は変わらず凶作で大ぶりのものはないんだと申し訳なさそうにする行商人の言葉を否定して、まあるいそれを急ぎお勝手へと運んだ。
この頃、西瓜の赤い肉が気味悪がられ、一般的に好まれる果物ではなくなっていたのだが、一口齧れば、甘い果肉の瑞々しい口当たりは一等で、瓜より遥かに夏向きだとリンは思っている。
昔、郷士の家でよく食べさせてもらったものだ。初めはその赤さに驚いたものの、たっぷりの甘い果汁に体は涼み、皆で縁側に並んで食べた、楽しい記憶も共に蘇る。
病床の義父にはたくさんは食べてはもらえないかもしれないが、ばば様含め、家の皆で楽しく食べられたらいい。
リンによる真夏の西瓜の宴が企画されていたのであった。
裏の井戸から水を汲んで、桶へあける。たっぷりの冷水にゆらゆら揺れる西瓜の輪郭に、いつか見た土佐の港の光景を思い出した。
海の上を漂う浮き球を思い出して、深い緑の海淵へと馳せる。夫の話では少しずつではあるが港や船の修復も進んでいるという。
かかる費用が費用なだけに、一気に物事は進まないが、けれども確実に良き方向へと向かっているのだという。
「本当に…素晴らしい人」
肌を焼く残暑の厳しい日差しの中でも、身を顧みず領内視察を怠らない夫へ少しの癒しになればいい。
心を通じ合わせてから日々愛しさは増す一方で、この幸福な時間が永劫続くのではないかと錯覚してしまう。
愛しさが増す幸せの天秤の片方で、密かに積み重なっていく離別の予感に、心が弱れば直視してしまう。
一歩一歩と夫の背を追えば追う程、遠くなるその影が近い未来光に包まれてしまう事を、幸せと呼ぶか悲しみと呼ぶか、リンには判別つかない。
胸にはっきりと浮かび上がる幸福の言葉を、伝えてはならない事を分かっている。
それが例え、本心であったとしても。
「―――いけない。気持ちまで持っていかれては」
首を振って暗雲を払う。実家の畑でも何度でもやり馴染んだお得意の逃避癖だった。
西瓜はこのまま転がしておけばじきに食べ頃となるであろうから、夕方、夫が帰宅した頃に切り分けて出せばいいだろう。
今日は義父も共を連れて外出しているので、今の内に各部屋の汚れでも落としておこうか。決まれば行動は猟犬の如く。
別の盥に水を張り雑巾を手に、たすきをかけて伸ばした白い腕に抱えた。汚れを落とさば気持ちも綺麗になるだろう。
「さあ、急がねば」
まずは義父の部屋から片付けよう。重い盥を揺らしながら、廊下の奥へと姿を消した。
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義父―――小傳次は厳粛であったが、武道よりも勉学を得てとする慎太郎の父親らしい嗜好で、部屋には季節の草花を枯らさない人であった。
活動的に動き回る事もないため、部屋の中は簡素で特段汚れもない。
上から下へ、欄間の埃を落として雑巾で拭き取っては畳上に茶葉を巻いて箒で掃き払う。
この手順で手早く各部屋を回るのだが、ふと、何やら嫌な気配を感じ取っていた。
「……?」
物音がしたわけではない。この辺りにはさほど、野山の生物が下りてくることもない。
けれども廊下の奥、勘定の間―――今でいう事務室的な場所からどうにも人の気配のようなものを感じてならないのだ。
今この家にはリン以外の人間はいない。義父はばば様と他の家人と共に町へ出ていたし、夫慎太郎は見聞へと領地へ出ている。
思い当たったのは最悪のケースであった。
「(…泥棒)」
勘定室にあるのは庄屋としての記帳の数々。大庄屋とは役所的な書類手続きから年貢徴収、民事での裁判記録から何から、個人情報が保管されている。
中には法令に関わる上からの事前情報もある故に、奪われ悪用されれば大庄屋としての信頼に関わってくるだろう。
ごくりとリンは唾を飲み込んだ。手にしている箒に力が籠る。
ただの気のせいであればそれでいい。けれどもしもそこに人がいて、あまつ窃盗現場を目撃したのならば―――為さねばならぬことはただ一つ。
足音を立てぬよう、公式の間へと近づく。そして、人の気配が濃厚な勘定の間―――威嚇の意を込め、思い切り引き開けた。
「ここをどこと知っての侵入ですか!大庄屋が邸を荒す悪党は成敗してくれますッ!」
「おわ!!ちょ、ちょっと待ちなってあんた!」
「ひっ!くっ…曲者ーっ!!」
勘違いであってほしかったリンの願いも空しく、勘定の間には一人の男が侵入していた。
白い外套に黒い袴、茶の癖毛は結い上げられもせずだらり伸ばされ、奇抜な見めに一瞬怯む。
俺は俺はと何やら弁解しているが、挨拶もなしに人様の家に上がり込むなど言語道断、何より相手は男性である故に隙を見せれば殺される。
そんな緊急事態に錯乱しているリンの脳は、ただ只管に男に向かって箒を叩き下ろさせていた。
「ちょっと待ちなってのに!」
「きゃあッ!」
しかしやはり力と経験の差は歴然である。闇雲に振り回すだけのリンの太刀…もとい箒捌きなど大した抵抗にもならず、男に簡単に捻り返される。
柄を握りしめていた手は離れず、男の捻る方向に手首から崩れ落ちて、そのまま床に叩き付けられた。
背に走った衝撃が肺を浮かせて、一瞬息が飛んだその隙に男はリンの手をいとも容易く捻り上げる。
痛みと恐怖とで歪む視界をなんとかこじ開けて、これが最期ならせめて犯人の手掛かりだけでもと勇敢に奮った気概。
頭上にまとめられた両腕を抑える力は強く、血が止まりそうに痛い。何より、どれだけ抗おうともびくともしない“男の力”が怖かった。
馬乗りになるような状態でこちらを見下ろす輩の顔―――先に挙げたように、白い外套、黒い袴。
茶の癖毛は右方へと流され、琥珀の瞳は嫌に澄んでいる。輩の外套を繋いでいる山吹の房紐が顔に垂れて、相手の表情までは窺い難いが、ああ、だの、これは、だの。
困ったような様子を見せる輩は悪党と定義しにくい様子を見せている。外見にしたってそうであった。
けれども拘束を解こうとしない辺り、一瞬も隙を見せてはならないと奮うリンへと、かけられたのは意外な言葉であった。
「――あんたがもしや“慎太郎のお嬢”か?」
「……?」
夫の名を出され、うっかりと反応してしまうところをこらえる。
そんなリンの警戒をようやく汲み取ったらしい輩は、そっと拘束を解いて飛び退くように離れて行った。
素早く身を起し輩と対峙し、ようよう見やったその表情、整った顔立ちにどこか飄々とした雰囲気。
慌てたような様子はリンに無体を働いたからであるか、痛かったか、痣となっていないかと執拗に尋ねてくるこの輩に、リンはどう対処すればいいのか困惑の一方である。
「あなたは一体何なのです」
「俺か?俺は坂本龍馬!慎太郎の友人ってやつさ」
「―――友人…?もしかして土佐の坂本様というのはあなた様の事…でしょうか」
必要以上に情報を与えぬよう慎重に言葉を選ぶリンに、緊張感なく答える輩―――男はどうやら本当に慎太郎の友人で、名を坂本龍馬と言うらしい。
そうとあれば無礼を詫びねば、と頭を下げようとするリンを龍馬は制する。無断で立ち入ったのはこちらで、謝られる必要はないと。
言われてみればそうである。けれども夫の友人だというのにもてなしもしないままではあまりにも不躾であるとリンは思うのだが、生憎運の悪い事に茶葉を切らしており、適当な菓子なども見当たらない。
あるのは、
「坂本さまは西瓜は食べられますか?」
「すいか?…っていうとあのでっかい丸玉野菜か?普通に食えるぜ!」
「それは良かった――お切り致しますので、奥の間へ案内移動願えますか?こちらは仕事場であります故、くつろいで頂くには不向きなのです」
遠まわしに仕事場なので入るなと伝えたつもりであったのだが、男は面白そうだからここで構わないと言い出す始末。
けれどもここに居座らせるわけにはいかない―――なんとか龍馬を追い出して、リンはお勝手へと向かい西瓜を切り分ける。
初めて会った夫が友人、“坂本龍馬さまは空気が読めない。”という評価と共に。
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「おあがりくださいませ」
「悪いな気を遣わせて。ありがたく頂戴するぜ」
一口大に切り分けた西瓜からは瑞々しい香りが立ち上がり、ころりと落ちる黒い種の皿を叩く音が小気味よい。
半月切りで出した方が趣もあろうが、一口大の方が食べやすかろうと皮をむき、器に盛ったのが龍馬にはちょうど良かったらしい。
外の暑さで乾いた喉を潤す西瓜の蜜に舌鼓を打ち、しゃくしゃくと食べ進めるその横顔をじっと見ていた。
この坂本龍馬という人間はころころと思考が飛ぶ性質の人間のようで、次から次へと興味対象を変えてはリンに質問をする。
事務の間に滞在したかったのも庄屋業務の内容や記帳を知りたかったかららしい。今は西瓜に夢中であるが。
「西瓜を食べたご経験があられたのではないのですね」
「ああ、話に聞いたことはあったんだがな。それにしてもこいつは美味いな、甘いのにくどくない。いやぁ、おかげで随分涼んだ!」
「はい、西瓜には体を冷やす効果がありますので―――食べ過ぎると腹も下しますゆえ、ほどほどにが肝心なのでございます」
「なるほどなあ、旬の食べ物ってのは本当に人の体に合うようにもなってるってことだな!それにしても…ええと、あんたは、」
名を尋ねられ答えれば、親しげにリンと呼ばれた。夫にも呼ばれた事の無いその響きに戸惑いながらも、けれども龍馬の言い方に嫌味はない。
垣根の薄い人なのだろう、屈託なく笑う姿は夫の笑顔とは対照的で不思議な気持ちになった。身振り手振り口数の多い姿も、開放的で奇抜な出で立ちも、ころころと表情の変わるところも全てが対照的であった。
夫ももしかしたらこういう所に惹かれたのだろうか――――不意に、違和感を感じた。
「(………?)」
何かが思考の片隅に突起を作り、足を止める。言葉には表せず、意識下で掴む事もままならないのだが、何かが引っかかった。無性に。
何であろうか、不安なわけではないのだが、この違和感の正体が掴めぬことに焦燥は湧き始めている。
うっかり思考の沼に足を取られたところ、龍馬の声ではっとする。大丈夫か、と目の前で手を振る様子に、慌て姿勢を正して詫びれば、龍馬はすぐに笑顔に戻った。
どうやら話の途中で考え事に夢中になってしまっていたらしい。常の事であるのだが、客人の前でそれでは失礼にも程があろう。
「申し訳ございません坂本様」一礼と詫びの言葉を添えて改めれば、そんな固くならなくていいと困った顔をされる。けれども大庄屋の家の者として名を背負う分、押さえておくべき場所はそうでありたいのはリンの願いだった。
それはそうと、と龍馬は話の続き、質問の続きを投げかけてくる。ひとつひとつ丁寧に答えていく中で、次第にその琥珀に輝きが増していくのが手に取れた。
「リンはよく畑の事を知っているんだな。慎太郎の仕事の傍らで勉強したのか?」
「いいえ、私は―――…」
ぴたり、言葉を止めてしまった。“私は農家の生まれなのです”その一言が告げられずに。
慎太郎に諭され、大庄屋とて農民である事に変わりはないのだと理屈上で納得はしていたが、リンの実家はその農民の中でも更に下方に存在するような家である。
少なくともリン自身は己の出生をそう位置づけていた。決して卑しい身分などではないのだが、どうにも越えられない格の差があるのは理解しており、龍馬自身がそれを気にする人間かどうかが分からない以上、迂闊に中岡の名を貶める可能性のある情報を出したくはなかった。
言い淀んでしまった事に、空気を読んだか龍馬は「まあ色々と物知りなのはいい事だ、ところで次は」と、別の質問へと会話を切り替えている。
その後も幾らか他愛もない話や質問に答えていたのだが、一度湧き出た疑問の種は深く埋まり、次第に根を生やしている。会話に応える言葉がつとつとと弱まっていくのに焦りが芽生えるばかりで、けれども取り繕う事も出来ずに、リンはとうとう頷くばかりとなってしまっていた。
さすがにその状態に龍馬も不信を抱いたのだろう、こちらを気遣い「疲れさせちまったか?」と話す。ああ、客人に気を遣わせてしまっている。リンは息を吸った。
「とんでもございません。坂本さまのお心を砕いて頂くには至りません――ただ、あなたさまがあまりに楽しそうにお話しなさるので、水を差しては無粋かと思い、口を噤んでいたのでございます」
お客様にお気遣い頂くなんて私もまだまだですね、何とか作り上げた固い笑顔でそう告げたのだが、歪に固まる場の雰囲気を溶かす事が出来ない。
先程まで知識欲に光り輝いていた琥珀がじっとりとリンを映しこむ。何もかもを見透かすようなその言いようのない絶対的な視線の双球に鈍痛を覚えさえする。
まるで取り込まれた虫のように、リンは終ぞ全ての抵抗を停止せざるを得なかった。笑顔は消え、積み上げた“妻”の体裁は音を立てて剥がれていく。
―――やめて、やめて。脳の遠い奥の闇の中から嘆願が聞こえてきても、リンの表面は琥珀に取り込まれてその声に応えられない。
“違和感”を掴むことが出来なかったのではない。違和感を掴み、その正体を明かすという事は、
「リン、そんなに畏まらなくたっていいんだぜ?俺はお役人でもなんでもないんだ、ただあんたの連れ合いの友達ってだけなんだからな」
「―――――」
違和感を掴み、その正体を明かすという事は、今まで積み上げたものを否定するという事であった。
大庄屋の妻として叩き込んだ所作の全ては元から持ち得ていたリン自身ではない。無いものを在るようにするために必死でかき集めた知識の欠片であり、また、見栄の殻でもあった。
人前に肩書を背負って立つという事はすなわち、ありのままの自分を晒す事ではないというのが道理だが、リンにはまだその使いどころを見定める事は出来ていなかった。
祝言から三月近く経過して、少しずつ夫に対する壁は無くなりつつあったが、それでもまだ言葉端に固いものが残る事は否めない。それは“違和感の欠片”であった。
ぼたぼたと大粒の涙が零れ落ちて着物を濡らす。目の前の琥珀は驚きにまあるく象られて、おろおろと右へ左へ転がっては慌てた声を上げていた。
拘束の解けたリンの手は幼子のように己の目元へ寄せられ、手の甲で懸命にそれを拭ってはしゃくり上げた。
ああ、なんと愚かしい。童でもないのに、行き遅れの年増が感情に流されて泣きじゃくるなど見苦しい以外の何物でもないであろうに。
「ああ、ああ…!な、泣くなって…!泣かせたのは俺だけど、いやしかし、リン、泣くな…!」
「ごめ…ごめんなさ……っ」
龍馬に言われた事は夫に言われた事そのままであった。同じことを別の人間から言われた事、それはちいとも改善出来ていないという事であった。
よかれと思ってしていた振る舞いは全て役立たぬそれであったのか、更には会って間もない知合の眼にさえそう映るのであれば、それは酷く底が浅い事で。
所詮、付け焼刃にしか成り得ないのであろうか。所詮、農民の娘は農民でしかないというのであろうか。
生まれ持った風格なくば、飾る事も許されないのだとしたら、体面も誠も得られることはないのであろうか。
「(ああ、ああ―――惑う…)」
ぐるぐると涙と思考とが混ざり合って吐気を催す。嗚咽を漏らしては龍馬が慌てた。
この客人は私の奥深い愚かな葛藤の歴史など知る由もないのだから、リンの己との戦いの舞台へと招かれる必要はないのに、今は遠ざける言葉すら出すことが出来ない。
なんとか、なんとか言葉にしたい。あなたのせいではないのです。私の心持ちの問題なのです。そう伝えたくて。必死に呼吸を整えるのだが、思うようにはならなかった。
すると不意に背に感じた何者かの気配。それは足早に近づくと、振り向く隙を与えないままあっという間に距離を詰める。
ひっく、ひっくと会話を妨害する胸のしゃくりを何とか収めるべく深呼吸を繰り返すリンを、そっと抱き寄せる腕があった。
己の体を容易く包み込んでしまう長い腕と、背に感じる広い胸。涙を拭うリンの手をそっと外して、代わりにと指の腹が目尻へと押し当てられ、涙を浚う。
ああ、帰って来たのだ。リンは諦めのような心持ちで腕の主を理解した。涙で滲む視界の先、龍馬が驚いたような気まずい表情で少し上を見上げている。
縁側で小さな背中を大きく揺らして泣きじゃくる新妻を包んでは慰める堅物夫、リンの右肩の上あったのは慎太郎の顔であった。
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常より物静かな人間ほど怒る時は怖いというものだが、慎太郎もその例外ではなく、聞く耳持たずして一方的に叱りつけるその様を止める事あたわず、リンはただ固まりながら眺めるばかりであった。
はじめは妻を泣かせた悪い男への怒りから始まった慎太郎のお説教であったのだが、次第に内容は二転三転、破天荒な友人の振る舞いへの愚痴へと変わり、とうとうリンがその話に歯止めをかけたのである。
龍馬はというとはじめは誤解だと釈明していたのだが、慎太郎の愚痴の内容へと移り変わるに連れて心当たりがありすぎるのか、次第に反論の声も鎮火していく。
場は完全に慎太郎の独壇場と化していた。
実際の所、龍馬が何か悪い事をしたわけでもなく、完全にリンの過剰反応というか、とにもかくにも居た堪れなさ故の罪悪感を感じたリンは、まくし立てて一息ついたらしい夫に声をかける。
秘めていたはずの内心、手の内を全て明かした事を恥じているらしい慎太郎はなかなか素直にリンの話を聞き入れてはくれないが、リンもまた諦める事は出来ずに。
ゆっくりと、説明を続けたのである。
「…私が過剰に受け取っただけなのです、坂本さまは何も悪くないのです…どうか私に免じてお許しくださいませ」
「………」
「(…ああ、またこの顔だ)」
頭を下げて、上げた時。返事のない夫の様子が怖かった。恐る恐る垣間見たその表情は、ここ最近感じていた別の違和感にもよく似ていてリンの表情は沈んでいく。
困ったように眉を下げる表情。こんな顔をしてほしいわけではないのに、どうしてこうなってしまうのだろう。
何と言えば、何をすれば、心から分かり合えたように手を取る事が出来るのだろう。
己の情けなさで泣く度に、そんなことないと優しく慰め手を引く夫に報いるには何をどうしたなら響くのか、リンにはもう分からなくなっていた。
両者何も言わず、向かい合って沈むばかりで埒の開かない場に、業を煮やしたのは客人であった。
先程までの落ち込んでいた様子などどこ吹く風と言わんばかりに、はじめと変わらぬ調子で話しかける。
「まあまあご両人、そうしてだんまりで見つめ合ってても事は進まん。この期に思う事を言っちまったらいいんじゃないか?」
「あんたは黙っててくれ」
「いいや、そうはいかん。俺はとんだ濡れ衣でお前にああも叱られたんだ、納得いくまで口を出させてもらうぜ!」
「…夫婦の話に他人が口を挟むものじゃない。ただでさえ龍馬さんが関わると話がややこしくなるんだ」
「今回の場合ややこしくなってるのは慎太郎、お前が素直じゃないからってのも理由にあるんじゃないか?…ああ、その点においてはリンも同じだがなあ」
「……あんた……いや、いい」
「―――ほら、それだ慎太郎」
ぽんぽんと矢継ぎ早に飛ばされる会話に乗り遅れる。
「(…ご友人の前ではあんな風に話すのね)」
口が悪いという程ではないのだが、普段リンと慎太郎の間で交わされる会話とは全く異なる色合いに驚いていた。元より口数の多い人ではないと知っていたが、龍馬の前ではそうにも見えない。
龍馬自身がお喋りであるからそれに伴い会話が増えるのは分かるのだが、もしかしたら普段はもっと話す人なのかもしれないとリンは思った。
かくいうリンはお喋りな性格ではない。内に内に溜め込みがちな性質であるのは間違いないが、それも無理してそうなのではなく、元々の性格であると思うのだが、もしかしたら慎太郎はリンに合わせる形で加減していたのだろうか。
―――違和感。
思い返せば、慎太郎が困ったように笑い、口を噤む時はいつも“庄屋の妻”との会話の後であったかもしれない。
今、目の前でああでもないこうでもないと龍馬と弁舌をふるう姿が本来の姿であるとしたら―――距離を感じさせていたのかもしれない。
龍馬が言った「素直じゃない」という言葉の意味を量りかねていたが、もし、それを指していたのだとすれば。
「(私はずっと…“大庄屋の妻”としてしか向き合えていなかった…ということ?)」
義務が先か感情が先か。何より二人の婚姻は義務から入ったものだと思っている。―――もとい、リンにとってはそうであった。
リンとて慎太郎に恋い焦がれている事は間違いない。ただ、それを塗り隠してしまう程に強い責任感が邪魔をしていた。
要望を口にする前にまずは義務を果たす―――大庄屋としての妻である事を忘れてはいけない、忘れたくないと思っている。
そこまで考えて、リンははっとした。
「(…慎太郎さまにも、坂本さまにも言われた…畏まらなくていいと、そんな身分のある人間ではない…ってもしかしてそういうこと?)」
二人とも、一人の人間としてリンと向き合って欲しいと望んでいるのだとしたら。
けれども義務を、自分という立場を崩したくないと願うリンの意志を汲んでくれていたのだとしたら―――その結論に至った時、酷く胸が締め付けられるように痛んだ。
ずっと、こんなにも気持ちを傾けてもらえていたのに。私は、それをずっと蔑ろにし続けてきたのだ。
「……私が本当に望む事」
ぽつり呟いた言葉を龍馬は聞き逃さなかった。慎太郎との会話を切り上げて、リンと向き合う。
頼りの無い意志で、けれども逃げる事はできないとリンは龍馬を見つめる。突き刺さるような強い琥珀の瞳が痛かったが、それでも逸らす事はしなかった。
「そうだ、あんたが望む事を言えばいいんだ」龍馬は微笑んで告げた。恐れる事はない、慎太郎はあんたのわがまま一つ聞けない程、甲斐性の無い男じゃないはずだぜ。とも。
その言葉に慌てたように赤くなる夫に視線を合わせた。普段では見た事の無い感情に溢れた表情に、少しの寂しさを感じた。
こんな表情を引き出せる程、そばにいけたのなら。――こんな顔をさせたのは私ではない。龍馬の素直な一言なのだから。
一人の女として、愛しいあなたに望む事――――。
「…わたし、慎太郎さまの事が好きです。……あなたの一番が欲しいんです」
「―――あなたは馬鹿だ。そんなのとっくにあなたは手に入れているのに」
俺はあなたに何の後ろ盾も求めてなどいないんだ。あなたがあなたであればいい。それだけなのに。慎太郎は寂しい顔をしてそう告げた。
その顔を見てリンも心が痛んだ。ただ、そのままでいい。リンにとってそれはただの甘えの言葉にしかならないからであった。
慎太郎の事を愛している故に、彼の役に立ちたい。彼の誇りとなる妻となりたい。彼の進む道を支える力となりたい―――その願いを不要だと言われたような気持ちになる。
それをどう言葉にしてよいのか、リンは量りかねて口を噤んでしまった。俯き隠した表情を、けれども許さないのは龍馬だった。
リンが言葉に出来ない部分をそっと掬い上げて、慎太郎へと託す。
「慎太郎、お前の気持ちは分かるぜ。だけどリンの願いもちゃんと考えてやらなきゃだめだ」
「…龍馬さん」
「俺の前で流した涙も、全部お前さんのための涙だ。もう分かるだろ慎太郎、お前は何を伝えたい?」
「…!」
あとはちゃんと二人で話し合え、龍馬はそう言い残して退室すべく腰を上げた。仕切りまで来たところで、何かを思いついたか、反転、リンの元へ戻って耳打ちする。
困惑に染まるその顔に茶目っ気たっぷりの笑顔を振りまいて、簡単な別れの挨拶と共に姿を消した。
旋風の消えた部屋の中は静まり返っている。静寂が耳を刺す気まずさに耐えかね、リンはそっと慎太郎を見やった。
慎太郎は何かを考え込むように眉間に皺を寄せて視線を外している。その表情だけを見れば怒っているようにさえ見える恐怖に、リンは言葉を失う事しか出来ない。
黙ってはいけないと、一人で抱え込んではいけないと、言われたばかりだというのに。
何か伝えなくてはと口を開いた瞬間、低い声が耳に届いた。声に誘われ視線を戻せば、こちらを真剣に、まっすぐに見やる夫の視線が重なった。
唇が、開く。
「…一人で領内を回っている間、あなたの話をたくさん聞いた」
「わたしの、話ですか…」
「あなたは生まれを恥じているかもしれない。けれど、俺が聞いたあなたの話にそんなものは一つもなかった。…むしろ」
慎太郎は首を振る。
「皆はあなたの努力を認めている。それは俺の身内もそうだ。父上も、皆があなたを大庄屋の妻として信頼しているんだ」
「―――それは」
「―――俺もあなたが妻で誇らしい。努力を怠らず決して弱音を吐かず、俺に添うてくれるあなたをいとおしく思う」
「…っ」
だが、今はこれが限界だと思う―――慎太郎は続けた。今全てを完璧にせずともおのずと更なる能力を必要とされる日が来るのだと。
日々修練を怠らず、より良くを願う妻の姿は誇らしいがそれがまた自身を追い詰めていては意味がない、すでに身についている成果なのだ、そう深く肯定する。
ささくれた心に沁みこんでいく言葉の雨に、リンはただただ癒しを感じ、瞳を閉じる。
夫の優しい言葉に許しを見出し、癒されていく心と同時に浮かび上がる己の罪と愚かな背中に、言葉が出なかった。
今はもう十分だ、慎太郎はそう言った。それは世辞でも慰めでもなく、領地を回って聞き回った内に得た正当な評価なのだと。
慎太郎自身もそれを聞き、誇らしく思うと―――そこまで言わせなければ、自分を許すことが出来ない己の愚かさが憎らしい。
結局、誰かの為にと己を苛め抜けば抜くほどに、愛する者が悲しむというのならば。
「俺はあなたが苦しんでいる姿を見るのが苦しい。――あなたが苦しんでいるのが俺と共にあるせいならば、なおの事」
「!…それは、違います…慎太郎さまの、せいでは…っ」
「―――ならばなぜそんな顔をするんだ」
頭が回るというのはこうもまどろっこしいものなのか、慎太郎は自分自身に苦笑する。感情を言葉にすればしようとする程に、心が離れていくような無常を感じざるを得なかった。
目の前の妻が不安に満ちた瞳で己を見上げる度に、こんな顔をさせているのが自分自身だと慎太郎とて自分を責めずにはいられないのだ。
幸せにすると笑顔に満ち溢れた日々を約束するといくら誓えども、実際はこうだ。ほんの少しの言葉のかけ違いで彼女の表情は曇り、悲しそうに笑うばかりで。
ただ、好きなだけなのだ。ただ傍にいてくれるだけでいい。もうあなたは十分すぎるほどに素晴らしい庄屋の妻となってくれている。
「庄屋の肩書があなたを苦しめるだけならば―――捨てても構わない」
「……え?」
「あなたが俺のせいで苦しむのは俺の本意ではないんだ……俺はあなたが幸せであれば、それでいいのだから」
リンの返事を待たぬまま慎太郎は腰を上げた。慌てて視線で瞳を追うが、伏せられた瞳は横へ逸らされて重ねられることはない。
沼のように暗い瞳に見覚えがあった。あの色を知っている。深く深く傷ついて、壁を作った時の“諦めの色”であった。
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「待って…!待ってください…!」
それはもう衝動だった。行儀悪く畳を転がるように距離を詰めて、夫の着物の裾へとしがみ付いた。
ただただ精一杯の力でその足を留めてしがみ付く。リンの行動に驚いたのか、着物が着崩れるのを咎める夫の声もリンの耳には届かなかった。
「行かないで…捨てないで……あなたと離れるなんて嫌です…どうか、どうか」
「ま、待ってくださいリンさん、ちょっと落ち着いて下さい…!まず、その、着物を離してくれませんか…!」
いやいやと首を振るリンを慎太郎は半ば力ずくで引き離すと、そのまま己の胸へと閉じ込めた。
錯乱状態に近い彼女をどうにか落ち着かせるべく、暴れる腕はそのまま自由に、そっと背を叩いて耐え続ける。何度もあやすように言葉をかけながら。
次第に呼吸が落ち着いてきた妻を見やって、安心すると同時に慎太郎は少し妻の事を知った気持ちになっていた。
「(…感情を出すのが本当に苦手な人なんだ)」
慎太郎自身は離縁など考えてはいなかったのだが、どうにも先程の己の言葉は離縁して実家に帰すとリンは受け取ったらしい。
今更帰る家などないのだと、その恐怖に激昂したのだと思っていたのだがそれにしてはリンの様子がおかしかった。何より彼女の両親は彼女を深く想っているのだから、実家に戻ったところで恨まれるのは慎太郎であって、彼女自身ではないであろうに。
どちらにせよ、感情を表に出すことが苦手な事は理解した。ならばリンに自分を求めてほしいと願う事は彼女にとって酷な事でしかないのだろうか、慎太郎は悩む。
呼吸も完全に元に戻り、慎太郎の胸で顔を隠すその方が小さく震えているのに気付きどうするべきかを考えあぐねたところ、か細い声が耳へ届いた。
唇を震わせて明かされるのはリンの本音であった。消え入りそうな程か細く、千切れたそれを懸命にかき集めて繋げれば、そこにあったのは慎太郎が思う以上に深いリンの愛情の塊であった。
愛され方を知らぬ娘の愚かな抵抗は痛ましいほどの悲しみと枯渇した叫びとで塗り固められているのだと慎太郎は知る。それを面倒だとは言うまい。それを知ったところで手放す気など毛頭ないのだから。
こうして追い詰めて、突き放さねば理性の檻が崩せないのならば―――そこまで考えて慎太郎はその考えを捨てる。
「(時間をかけて溶かしていけばいいだけだ…革命は一日では成らない)」
その為に夫婦という添い遂げる約束を得たのだから。今は近づききれない心も、時間をかけて一つに溶けあえるならばそれでいい、そう考えている。
リンが自分に自信を持ち、慎太郎の愛情を素直に受け止められる日が来るまで。
慎太郎がリンを頼りにし、リンの努力を真に誇りと語れる日が来るまで――歩みを止められはしない。
新たに刻んだ今日の決意であるが、まずはぐちゃぐちゃに乱れきっている妻を落ち着かせねばならないと、少しのため息と共に抱き直せば、顔を真っ赤にして俯く妻が目に入る。
不覚にもその顔を可愛いと思ってしまう自分はもう末期であるのか。破茶滅茶な友人のお蔭か、目的の為に苦労する事は苦でも何でもないのだ。
彼女にとっては恥らしい、感情剥き出しで泣きじゃくる姿とて、戸惑いはせども面倒だと思う事などないのだ。
「…そのくらい素直な方が可愛らしい。……ああ、西瓜みたいで」
「……からかわないで下さいませ」
思えば自分の言葉とて随分と素直なものだ。リンの肩の向こうに見える縁側の器の中、赤い汁が溜まっているのを見て思わず喉が鳴る。
妻の事だ、残暑厳しい中、出歩く自分を気遣って西瓜でも買ってきたのだろうと慎太郎は推測する。それが自分より先に龍馬に振舞われた事がやや残念であるが―――恐らくは妻の事だから。
そう、どんな諍いとて理由を知れば理解する事ができるはずなのである。
慎太郎は再度リンを見やる。感情が彩った涙の目元は痛々しいが、隠しきれない激情の名残が愛おしくもある。
今は上手く交じり合わずとも構わない。この手を離しさえしなければ、いつまででも慎太郎は彼女を待つ覚悟はあるのだから。
「泣き疲れたでしょう。俺も外回りで疲れました。西瓜があるなら食べましょう」
「あ、は、はい…ただいま…っ」
顔を隠すちょうどいい言い訳を得たとばかりに、リンは余韻もなく慎太郎から離れ立ち上がった。慌てた様子で龍馬の器を手に取り、お勝手の方へと急ぐ。
感情には素直になれぬのに、義理と提案には従順な妻にやや寂しさを感じざるを得ないが、それも彼女なりの不器用な愛情故なのだと思えば自然と笑みに変わる。
慎太郎が待つことが出来るのも、それをきちんと受け取れているからだ。
リンが無茶する理由も、追い詰める理由も、すべては中岡の家の名を守りたいという理念の他に、慎太郎を思うからこそであると。
自惚れだと笑われるかもしれないが、深く愛されている自信はあるのだ。だから、自分は少しでも言葉で応えたいと願うのだ。自分の想いも伝えたいのだと。
「リンさん、俺は絶対にあなたと離縁する事だけはありませんから」
「…! …………あ、そうだ…」
「?」
仕切りを越える手前、驚いたようにリンが振り返った。赤く染まる目元に含まれる、驚きだけではない色合いに不安の影はなかった。
その様子に、言葉を間違えなかったと喜びながら、リンを再度見やれば、何かを思い出したのかすすす、と引き返してくる。
慎太郎横まで戻ったリンは、少し恥ずかしそうに身を寄せながらその耳へと手を当てる。
吐息と共に寄せられた言葉に、赤くなったのは慎太郎の方であった。慌てた言葉が漏れるのを驚いたように見つめるリンの口から洩れるのは龍馬の、友人の名で。
「な、何を吹き込まれたんです…!」
「…龍馬さんが『慎太郎“さん”と呼んでやれ』…と。いつまでも“さま”付けは寂しいから変えてほしいのに、言えなくて拗ねているんだと……」
「………!!」
「す、西瓜、お切りしますね!……慎太郎さん」
とどめの一発。リンの去った後の縁側で、一人顔を真っ赤にする慎太郎の色は誰も見る事はない。
確かに龍馬との酒の席でそんな些細な愚痴を漏らしたような記憶はあるが、まさかそれをよりにもよって今、伝えなくてもいいではないか。
「(龍馬さんが去り際に何か言ってたのはこれか!)」
恥ずかしさと嬉しさとでなかなか引かない顔の熱をどこへ逃がせばいいのか分からず、慎太郎は空を見上げた。
天頂を過ぎた太陽はけれどもぎらぎらと強い日差しを刺し向けて、まるで「素直にならない奴にはお仕置きだぜ」と言っているようにさえ見える。
完全に面白がっている時の、にたにたと笑う友人そのものだ。思わず舌打ちが漏れる。
けれども今回はそれに感謝しようか―――事実、一歩近づいたのだと思う。話し方一つ、たかが些細な違和感であったが、距離感を感じていたのは事実だ。
変えてほしいと思いながらも口に出来ず、結局無言を返す事しか出来なくて、その度に妻が困ったように不安がる表情も見てきたはずであるのに、それを無視し続けたのは紛れもなく自分であった。
「西瓜、お待たせしました―――ふふ、まだ、お顔が赤いですよ慎太郎さん。まるで西瓜みたい」
「…からかわないで下さい」
「―――仕返しです」
冗談を言う余裕も出来て。結果的に少しばかり近づいた距離に免じて、慎太郎はごくりとそれらを飲み干した。
喉に通る冷えた西瓜の蜜は甘く、内から体を冷やしていくようだ。思えば帰ってきてから水一滴さえ口にしていない。
龍馬に泣かされていると思った瞬間、奪い取るようにリンを抱き寄せてから休む間もなく討論をしていたのだから、からからなのも道理なのだが。
―なんにせよ、衝動的に動いてしまうほど彼女を思っている事は間違いなくて。
「いつかきっと受け止めてもらいます」
「?」
あなた以上に重苦しく、深い愛情を携えているという事を。
今はまだ伝えるべきではないのだ、と必死で西瓜で流し込むそれらの言葉は腹の内で熱く燃えるようで。煮えたぎるそれが牙を向かぬように慎太郎は我慢の連続であった。
「よく冷えていて美味いな」
熱を誤魔化すように呟いた上の空のそれは飾らぬ本音で。
まるで龍馬と話す時のような響きのそれに、リンは喜びに深く微笑んだのだが、熱を誤魔化すので必死な慎太郎は気が付くことができない。
欲しいものはあなたの隣。
似た者夫婦の無い物ねだり、夏の残暑は西瓜の熱で次第に冷やされていく。
高くなる空、薄く棚引く雲の秋空に騒がしい風が訪れる季節まであと少し。
肌寒いから人恋しいと、その頃も言い訳をしている二人が見えなくもなかったが、今よりもまた一歩互いが一つに近づいていたらと、一人、二人は願う。
「(…あなたの事が好きだから)」
「(…あなたの隣にいたいから)」
言葉をなくした縁側の傍らで、仕様がないと呆れたのは西瓜であったか。
しゃく、と夏の名残の悲鳴をあげてまた一つ、腹の真夏へ飲み込まれていった。