慎太郎とその妻(未完:無期限更新停止)
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03.ふたり
「(早馬を出しても間に合わないな…)」
よりにもよって祝言当日に召集をかけてくる破天荒な友人にため息が出る。それもほんの数日前だというから性質が悪い。
とはいうもののその友人は全国行脚と言わんばかりにそこらをほっつきまわっていて、これを逃せば次にいつ出会えるかも定かではなかった。
幾月前に彼の居つく宿に言付けを頼めども、それが伝わる事はほぼない事を確認している慎太郎にとって、友人からの召集は正直願ったりかなったりであった。
庄屋として、けれども一人の男として、この国の行く末を強く考える身として。友人――――坂本龍馬の存在はあってはならないものであった。
「…なんだって龍馬さんはどうしてこう!」
―――冒頭に戻るが、慎太郎は大切な祝言を控えている身だ。
ただでさえこの祝言には逆風が強く吹いているものであり、慎太郎自身男を試される大切な場であると覚悟している。
親の進言を断ってまで選んだ女は生まれがか細く、到底納得させ得る要素を備えているわけではなかった。
厳粛な父親にどうすれば納得し、認めてもらえるか―――日々そればかりを考え、一心不乱に庄屋の仕事をこなしていたのである。
けれど、一人の男としての問題であるそれとは別として、日本の夜明けを夢見る人間として、龍馬の呼びつけを見過ごす選択肢も無下にできなかったのだ。
友人、坂本龍馬。
この荒れ乱れる日ノ本を一つにすべく思想を抱く男。
ようやく見つけた、己が志を共にする人物であり、彼なくばこの国の夜明けはないと、慎太郎は深く思う。
「どうすりゃいいんだ…」
くしゃりと髪を乱して考えれども、妙案は浮かばない。
せめて早馬が間に合うのならば、龍馬には幾日待ってもらうか、もしくはいっそ邸を訪ねてほしいと願い出る事も出来ようが、如何せんそれも無理な話で。
縁側に腰掛けてああでもないこうでもないと頭を悩ましていた慎太郎の後ろ、そっと現れたのは父親だった。
こけた頬でじろりと見やる視線に、以前ほどの威力はないものの厳粛なその強いまなざしは健在で、複雑な気持ちで答える。
「なんです」
「お前の選んだ娘、実家で何やら勉学の真似事をしているそうだな」
「…それは誠ですか」
皮肉交じりに言う父親の言葉節に腹が立たないわけではないが、それよりもリンの情報へと意識が向いた。
詳しく聞き出したところ、どうやらリンは庄屋の家に嫁ぐべく読み書きや、所作の勉強に励んでいるらしい。
その事実は慎太郎を喜ばせ、同時に大きな心の支えとなった。
それまで慎太郎一人の活躍で彼女を囲う事ばかりを考えていた。
己が庄屋として一人前になり、口だけではなく行動で一人前の人間である事を証明出来やれば、文句を言う者もいなくなると思っていたからである。
慎太郎がそこまで一人で為さんとしていたのには訳がある。そう、慎太郎もリンへ申し訳ない気持ちを抱いていたからだ。
農民として細々と静かに生きていた彼女に、急に生活水準を上げるべく鍛えよ、と言いつけるだけの勇気はなかったのだ。
「…あなたは本当に健気な人なんだな」
今すぐにでも赴き、本当ならばきちんと顔を合わせて求婚したかった。けれども自分にもやらねばならぬことがあって、自由に時間を使う事が出来ない。
そのもどかしさに悩んでいたところに舞い込んできたリンの情報である。喜ばずにはいられなかった。
守る事ばかりを考えていた慎太郎にとって、リンが共に同じ方向を見据え、歩む姿勢を見せてくれている事が何より助けであったのだ。
ならば、今はその気持ちを信じ、任せよう。―――慎太郎は初夜の儀の後、すぐに北川を出る事を決めたのであった。リンを、信じて。
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祝言の日はあっという間に訪れた。雷雨の秋から枯野の冬を越え、桜咲く春が訪れるまで、慎太郎は少しでも役割を果たすべく東奔西走していた。
庄屋の仕事を引き継ぐ中で見た、天災の余波で苦しみ喘ぐ民の姿にリンを重ねては、只管に。
己が信念を貫き働けば、それは民を助ける事に繋がり、民を助け幸福な国を作る事は、そこに生きる愛しい人を幸福にすることであった。
慎太郎はそれを確信し、激務への励みとしていた。目先の己が安心の為に時間を使う事は出来ず、一度もリンを尋ねる事はなかったが、その先にある幸福を信じ働き続けたのである。
時折嫌味交じりに父親が届ける彼女の噂に励まされ、そして想いを深めていく。
会えない時間が愛を育てるだなどとは言うまいが、けれども父親の口伝いに聞くリンの話はどれも輝いており、慎太郎の心の支えとなっていたのは事実である。
慎太郎の心に深く愛情が湧き始めたその頃には、父親もまんざらではなかったようで、皮肉の裏側に感心の色を滲ませるようになっていた。
全ては良き方向へ向かっている――――少なくとも、慎太郎はそう信じていた。
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桜の舞うその日、中岡の家へと迎える形で催した祝言の儀。
所詮農民身分とはいえ、中岡の家は代々続く北川の庄屋ご身分だ。親族もそれを誇りとしていたし、彼らもまた、父親同様、庄屋同士の結束を強めるべきとの考えが強かった。
花嫁を迎えるべく列を作れども、その雰囲気は好ましいものではなく、内心複雑な気持ちでそれを眺めていた。
「(…いいや、彼女ならばきっと凛とした姿で現れるはずだ)」
寝る間も惜しみ学び続けていると聞いている。その彼女の血のにじむ努力を披露する場に、自分の手助けは無粋だと慎太郎は思っていた。
親族の品定めするような下種た視線は正直癪に障るが、けれども彼らの意見とて間違いではない。
無駄な詮索は無用―――とにかく今は信じるのみ。淀む心をごくり飲み込んで、慎太郎はリンを待っていた。
通常、入り婿が慣例通りである。
けれどもリンの家にその余裕はない。だからといって式に関わる一切を不自由させるつもりはなかった。
中岡の、ひいては慎太郎の一声で半ば決まったような婚姻なのだ。肩身の狭い思いをさせたくない故に、勝手に送りつけた花嫁衣裳と駕籠。
それはゆらゆら揺られ、門の前で止まる。従者が御簾を上げれば、中から出で立つは純白の―――天女のような娘であった。
「……!」
思わず、息を飲んだ。
纏う純白は紛れもなく慎太郎が贈ったものであったし、それを着こなす優雅な身のこなしの娘は、雷雨に打たれ痩せこけていたあのリンに相違ないはずであるのに、溢れ出る聖性は何であろうか。
朧な春の陽気と日差しを、まるで羽衣のように纏い、一歩を踏み出すその姿、浮世離れした雰囲気に、飲まれてしまったのは中岡であった。
―――完全に肝を抜かれた、というのが正しかったか。
けれども彼女は何もしてはなかった。引かれるがまま従者の手に手を重ね、伏せがちな瞳を時折左右に流し、ゆるりゆるりと歩み寄っただけ。
秋の日から今日まで、あの短い期間でここまで己を磨き上げたリンの努力の証に、慎太郎は胸を掻き毟られる思いであった。
文字通り、血の滲むような努力の日々であったのだろう。量れば量る程、今すぐにその細い身を掻き抱きたい衝動に駆られた。
「(この人とならば歩んでいける)」
この国の夜明けを、暁の光景を、共に。
はじめはただ、己が信念と共にある国の夜明けを示す指標とすべく、願い出た婚姻であった。
リンを近くに置き、幸せにすることを日々見つめ続けていく―――その指標、それだけの為であった。
けれど、慎太郎は今はその考えを改めている。平穏な日常から浚った娘は、けれども何一つ文句も言わず、泣き言も言わず、今日までひたすらに己を律し生きてきたのだ。
何も、願わないままに、請わないままに。その事実と姿は慎太郎にはひたすらに目映かった。
「――――よういられました」
呆気にとられる親戚の中で唯一、ばば様だけが彼女と向き合った。無機質とも取れる花嫁はそこで初めて、人らしく微かに笑む。
ただの笑顔さえ美しく、まるで鬼が憑りついているようだとさえ思った。逸る鼓動は留まるところを知らぬままに、騒ぎ続けて、次の刹那は訪れる。
従者の手を解き慎太郎の前へと花嫁が出でる。六尺余りの慎太郎の背にリンの背は低い。見上げる形で、角隠しを落とさぬように覗き込む彼女の瞳の底の深さに驚いた。
まるで吸い込まれてしまいそうな、けれどもあまりに色の無い硝子玉。それに驚きながらも手を差しだせば、己がものよりも一回り小さなそれが重ねられる。
にこりと笑うその顔は蕩けるほどに綺麗なのに、笑顔同様、手は凍りそうな程に冷たかった。
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しかしどうにも彼女が可愛くて仕方がない慎太郎、広間での婚礼の儀の間ずっと、隣に座るリンの様子を盗み見ては離し、を繰り返している。
昔から図体大きく、無愛想な風格である故に、周囲に浮かれた動揺を悟られていないのが救いであるが、それもばば様には一目瞭然で、呆れたような視線が痛い。
隣の花嫁は呼吸すらか細いのか、息を吸っても肩が動かない。彼女の一挙一動が気になり、祝い酒を注ぐ親類との会話にも身が入らない慎太郎は文字通りすっかり骨抜きの状態であった。
第一関門であった親族との初見えは大いに成功したと言えよう、次の関門は祝いの席での会話であったのだが、それも彼女はそつなくこなして、うつくしい仕草を惜しみなく披露している。
緊張からか、戸惑う仕草もしばしば見せるがそれでも日々の鍛錬の成果が手に取れる。思った以上に和やかな雰囲気となった祝い場は、笑顔が満ち、桜が舞い込み、夜桜見物のような光景となった。
繰り返すが、やはり所詮中岡の家は農民身分であり、武士身分ではない。
だからそこまで所作を気にすることもなかったのだが、出来ないよりはとの思いや、これから慎太郎自身、外へと出ていく身として良妻であれば鼻が高いのも事実で。
すっかり自慢となった花嫁をまた、盗み見るばかりである。
するとふと気づいた。先程から親族がかわるがわる酒を振る舞いにやってくるのだが、彼女の盃は先程と変わらずなみなみ注がれたまま、減った様子はない。
ふわりと赤い頬も、酒酔いの赤かと思いきや唇の色は厚いままで、盃への大した移り紅もない。
「(酒が苦手なのか)」
思えば、今の今まで内向きに彼女を知るばかりで、言葉一つ満足に掛けられていなかった。
何にせよ自分は既にこの花嫁が可愛くて可愛くて仕方がないのだ、ここは一つ手を出させてもらおう。このくらいの干渉ならば許されるであろう。
慎太郎はリンへと声をかけた。
「酒が苦手ならば無理に口にする必要はない、貸してください」
返事を待たず彼女から盃を取り、中身を飲み干す。
辛口であるそれがどうして甘く感じるか。彼女の手を介すと違う味にさえ変わるのだろうか―――自分の妄想に顔が赤くなる。
思い込んだら一直線。それは時に猪突猛進になりかねないと、慎太郎は十分理解している。
気恥ずかしくて手早く盃を返すべく手を出したのだが、すぐにはっとして、差し戻した。
「(――自分が口付けたものをそのまま返すところだった)」
どうにも男にまみれて成長したからか、細やかな所に気が付けない。たった今気づいたこの行為を褒めてやりたい気持ちでいっぱいであった。
困惑したように行き場の無くなった手を震わせるリンを悪いと思いつつ、盃を返す。
随分とぶっきらぼうな格好になってしまったのはこの際目をつぶってほしかった。慎太郎なりに気を尽くしたのである。
その後もかわるがわる訪れる親族と向き合い、月も随分と低く落ち始めてきた頃。
一等強い風が吹き込み、大量の桜吹雪を連れ込んだ。月に透け発光する花びらの幻想的な光景、視界を惑わす吹雪の奥、不意にその目くらましに乗じて花嫁が消えてしまうような不安を覚えた。
思わずリンの方を振り返る―――無論そこから動いた様子もなく、ただぼんやりと吹雪を見つめるその横顔が儚げで、言葉を失った。
月の光が差し込んでぼんやりと明るい室内、つられるようにその目元がきらりと光った。
「(…泣いている)」
その涙の理由を慎太郎は推し量った。
思い当たるは両親の存在。彼女の家へ婚姻を願い参った日の事を思い出す。北側の端、放任されがちの孤立集落で、彼女の両親と会いまみえた。
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隔離された農家にしてはどこも小奇麗にまとめられたその家は、貧しいながらも堅実に生きてきたのだろう事が一目分かる出で立ちであった。
身に付けているものこそ古めかしいが、深く頭を下げる親御の伸びた背筋、怖気ずはっきりと前に出る口調に慎太郎は感服したのを覚えている。
両親は言った。
婚期こそ逃しがちであった娘だが、思慮深く、どこに出しても恥ずかしくない娘だと。
「婚期を逃しがちであったのも、私の勝手な親心もありました」
思慮深い反面、自分を律しすぎる面があり、年々その傾向は増すばかりであったと。
元はお転婆で色々な物に興味を示す、好奇心旺盛な娘であった。
その頃に戻ってほしいとまでは申すまい、されども娘が気張らず生きていける相手の元へ嫁いでほしいと言う親心があった。
「―――恥ずかしくない娘です。けれど、可愛がるが余り、家から出すのも惜しくなってしまった」
「大切にします。まだ庄屋仕事もままならぬ若造ですが、立派に勤めを果たし、そして一人の男としてリンさんを受け止めてみせましょう」
不安げに揺れる父御の目にはっきりと浮かび上がった安堵の色に微笑む。じわり滲み細まる皺深い瞳を慰めるように隣の妻御が肩を叩いた。
幼い頃から家よりも習い事先に滞在する事の多かった慎太郎は、両親の仲睦まじい姿を見ることは稀であったし、母も十年ほど前に他界してしまった。
決してさびしい家であったというわけではないが、比較して、リンの家は己よりもあたたかい愛情に満ち溢れた家なのだと思う。
大切に育てられた娘。けれども現実という無慈悲なそれに曝されて苦しみ喘ぐ娘。
夜明けとともに救い出したい、そう思ったものであった。
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「(…あの親御様と離れるのはやはり寂しいのだろう)」
桜吹雪の中のリンをそう量った。何とかその寂しさを解き放ってやりたいと願うが、生憎自分はそこまで機転の利く言葉を知らない。
はらりはらりと落ち始めた花びらが徒に彼女の衣に張り付くのを、払い取るくらいしか思いつく慰めがない。
それよりも何よりも、白い装束に溶けるように張り付くそれがどこか羨ましいとさえ感じる程で、いよいよ己の妄想も行き着くところまで行ったのしかもしれない。
本当お前は堅物だな!―――友人のからからと笑う声が聞こえた気がした。
「(ああそうだよ、俺は龍馬さんみたく向こう見ずじゃないからな)」
心で毒づき、ばば様の合図に合わせ、腰を上げる。
「(俺には俺なりの愛し方があるはずなんだ)」
こちらを見上げるうつくしい妻の手が重なった瞬間、慎太郎は決意を新たに心に刻む。
歩めるところまで共に行こうと、決して後ろを振り返らずに前だけ見て幸せへと駆けて行こうと。
時に手を繋ぎ、時に手を離し、同じ視線で生きて行こうと。―――そのために。
「えっと…湯殿の支度が出来ているらしい。あなたが先に使うといい」
花を手折る覚悟は、決まった。
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深まる夜の、月明かりだけがただ幻想的にそこにあった。深藍の部屋は寝具だけがぼんやりと浮かび上がっているようで居心地が悪い。
けれども不思議と緊張はしていなかった。布団の脇で深く頭を下げて待つ妻に苦笑する。
どこの殿様扱いなのか、と笑いが込み上げてしまったのだが、彼女が懸命に学んだ礼儀学のひとつなのであろう。無下にしたくはなかった。
彼女の緊張を解いてやるのも自分の役目だ、慎太郎はそっと声をかけて緊張を解きほぐしてやる。
とはいうものの多言ではないところが、男に物足りない所であったのだが。
湯を浴びて芯から温まったせいか、先ほどまでの手の冷えは感じられない。
暗くてもよく分かる白い肌にほのかに浮かぶ血色に、不安と少しの期待とを秘めた潤んだ瞳がただ悩ましい。
思わずごくりと喉を鳴らした。けれども先に、宣言しておきたかった。
新たな日ノ本の礎を築くという事―――場合によっては身が共に在らざる時が来るかもしれない。
しかし、慎太郎は信じている。
たった数刻のふれあいであろうと、誰が笑ったとしても、己が信念を理解し、受け入れ、自身も前へと歩む強さのある人であると。
だからこそ、託すことが出来るのだ、と。
告げる。
「――中岡を頼みます」
それがリンを絶望へと突き落とす言葉になろうだなどと、思いもせずに。
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細い躰はどこもか細く頼りなかった。
何より初心のその躰はどこも触れられていない新雪のように清らかで、武骨なこの手が触れるにはあまりにも脆いと危ぶんだ。
けれども誰より早くこの柔肌に踏み入れる事を喜ぶ自分がいる事も確かで、かたかたと震える彼女の恐れを、汲み取る余裕もないままに繋がった記憶だけが残っている。
相当痛むのだろう、うつくしいその顔を苦悶に歪め、大きな瞳からぽろぽろと流す涙が哀れだった。
けれどもその顔さえも自分が与えたものだと思うと、薄暗い喜びが胸の中に湧き上がってくるのだ。ああ、何と恐ろしい心を持っていたのかと、慎太郎は自分に恐怖する。
繋がる体の熱さに、身震いがする。
全身を巡る血を沸き上がらせる熱は、既にどちらのものか判断もつかない。
このまま溶け合って一つになってしまいたい―――そんな馬鹿げた事を真剣に考えてしまう程に。
「(…朝寝がしたい)」
初めての夜だというのに加減もなく揺さぶって、意識を奪って、なお目覚めた時に一番に自分を映してほしいだなどと、本当に。
既にこの夜が形式上のものではなくなっている事に、果たしてリンは気付いているのだろうか。
無知な娘は痛みや不慣れな快楽に持っていかれまいと、必死に意識にしがみついている。こんな時にまで健気な事だと慎太郎は暗く笑った。
せめて己が腕か背かに縋ってくれればいいのにと思わなくはなかったが、いずれそうなればいいと願う。
「(…なんにせよ、しばしまた会えなくなるんだ)」
次になる。彼女の意識を完全に飛ばしたら、名残惜しくもこの肌とはしばし触れ合う事もない。そう思えば思う程、慎太郎は己の選択を後悔した。
まさか自分が色欲に、後ろを振り返って悔やむ日が来るだなどと、思う由もなかった。
―――それもこれも、この可愛い妻がいけない。何も言わぬくせに、何も知らぬはずなのに、まるで知己のように自分が望む答えをくれる。
何も言葉は交わしていない、けれど慎太郎は思うのだ。彼女はいつでも「いってらっしゃい」と言ってくれているような気がする、と。
覚悟が出来ているのは彼女の方で、出来ていないのは己か。
「(……本当、損な性分だ)」
不甲斐ない苛立ちをぶつけるように、一等深く差し込めば、細い躰が弓なりにしなって細い喉が覗く。
か細い嬌声が、まるで鳴き声のように漏れていくその喉を甘噛んで、所有印を刻んでは優越感に浸る、これの繰り返し。何度も何度も。
泣き顔も甘い声も、全て自分にだけ向けてほしいものだと思う。
例えばこの夜が明けた時、少女のようにあどけない表情で頬を染めるだろうリンの姿や、乱れた髪、気怠い表情一つも逃したくはないのだ。
激しい嵐のような恋情を、慎太郎はこの時初めて知った。
「――――あ、う、」
体をずらして逃げようとするリンを捕まえて、また深く突き刺す。
細い躰は屈強な男の劣情を受け止めるには力不足で、それから幾度かの動悸の後、眠るように意識を溶かしていった。
閉じた瞼を彩る艶やかな睫に、薄ら赤くなった目元。くたりと力の抜けた体から熱を引き出すのは本当に名残惜しかった。
けれども自分は行かねばならない。この愛おしい存在を守る為に、幸せにするために。己が信念の道を、只管に。
「…リン」
別れにと残した名の、甘い響きに胸が痛む。
次にどうか会い見える日にはきっと、もっと優しくしたい―――笑顔を見たい。
そう願いながら、慎太郎は友人の待つ土佐・高知の宿場へと駆けて行った。
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あんたが呼びつけたその日がまさかの祝言の日だよ。
都合も聞かず振り回す友人に耐えかねたものが爆発した時、まさか返り討ちに合うとは思わなかった。
自身がまるで夜明けの陽そのもののようである友人は、浮かべていた笑みを瞬間に消し飛ばし、血相変えて慎太郎を詰ったのだ。
まさかの反応に慎太郎も驚き慄いてしまったのだが、こちらにはこちらの言い分がある。
ああ、どうしてこうも騒ぎが起きる―――溜息一つ、事情と経緯を説明したのであった。
けれどもこの日ばかりはどれだけ伝えども、友人、龍馬の言い分はおろか意識も変わることはなかった。
いつもならば「そうだな、そういう考えもあるな」と引き下がる男がここまで食って掛かるとは珍しい。その違いに慎太郎はただ困惑するばかりだ。
「お前なぁ…考えてもみろ、お前がやったのは俺とその娘さんとを天秤にかけたって事なんだぜ」
「人聞きの悪い事を言わないでくれ龍馬さん、彼女も理解してくれている事なんだ」
「あー………いや待て、うっかり納得しちまうところだったが、お前の事だからどうせ何も伝えんまま出てきたんだろう」
上手く噛み合わない会話まま、重箱の隅をつつくような龍馬の指摘に眉間の皺は深まる一方で、慎太郎は頭を抱えた。
突飛な友人の言葉を理解するのは骨が折れる。けれどどうにもこの場合、己の分が悪いように思えてくるから対処に困る。
つまり、どういう事なんだ、まとまらない言葉達がぐるぐると脳内を駆けまわる。
「つまり、」
「つまりだ慎太郎、女っちゅうのは強くて恐ろしい生き物だが、時にとんでもない大ホラをついたりするもんだ」
「――――きっとひとり泣いてるぜ“お前のお嬢”は」
空白。
「泣いている」その言葉を聞くや否や、手も足も勝手に動き始めていた。考えている暇などない、体が行かなければいけない場所を知っているかのように。
馬屋は、ぼそり聞くその低い声に、龍馬はとうとう呆れて指差し、行先を示す。
生真面目な慎太郎が礼を言うのも忘れて、駆け出して行ったその背に大きくため息を吐いた。が、すぐに笑みが込み上げて来たようで、愉快愉快と笑い始めた。
「慎太郎にも春が来ちまったかあ……」
龍馬は空を見上げて、いつかの冬の日の娘を思い出す。まるで雪のように儚く消えてしまった“お嬢”の存在を噛み締めるように。
縁は大切にせにゃあならん。
いつほどけて切れてしまうか分からない不確かなものを、より一層固く固く繋ぎ止めておくには、後悔をしない事なのだから。
ほんの少しの擦れ違いで綻ぶそれを、せめて友人には味わってほしくはなかった。
胸に抱いた甘く淋しい記憶を龍馬は大切に包み直して歩き出す。何よりも友人に訪れた“春”を祝って。
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龍馬に付き合って高知の宿場町から更に北、土佐海道を上って久万高原辺りにいた慎太郎は、血眼で馬を得た後すぐさま道を引き返した。
とはいえ所詮は木曽馬が脚力、どれだけ急こうと既に日が落ちかけている今日中に、邸に戻る事など出来るはずもない。
くたくた走る木曽馬の走りは己のそれよりも遥かに早いはずであるのに、酷く苛立ちを誘われた。
頼む、頼むと縋り懇願しても所詮は馬、言葉を交わす事あたわず、どんどんと日の落ちる闇道を往くばかりである。
こうしている間、心に灯すは幾十日前に腕に懐いた愛しい妻の顔であった。
初めてしかと顔を見た時に驚いたあの暗く深い瞳―――その沼の奥に押し込んで隠した何かを、自分は気付きもせずに都合よく解釈していたのだろうか。
本当は中岡の家になど嫁ぎたくない中、己を奮い立たせる為に教養を学んでいたのだろうか。
溢れ出てくる不安の言葉達が慎太郎の目を眩ませ、前へ進む足を鈍らせる。
けれども、けれども。
「…泣いて」
――――いるのだろうか。
思い返せばそうかもしれない。龍馬が指摘ままである。
祝言の夜に出ていく事も、中岡の家へ嫁ぐという意味も、彼女に心惹かれている事も―――婚儀の申し出さえ、慎太郎はリンへ伝えてなどいなかった。
父が寄せる彼女の日常の噂話に知った気になり、また伝えたような錯覚に陥っていたのだと。
あの日、藪の中から抱き上げた娘子の瞳が開かぬ事に焦れた幼き日。
時が過ぎて巡り会った娘の、ようやく見つけた瞳は闇のように暗く、沼のように深く沈んでいた。
「―――俺はとんだ馬鹿だ」
あの暗き瞳に光をさす事こそが―――“夜明け”。
「すまない、頑張ってくれるな」
ぶるる、と雄々しく一鳴き。
闇を裂くが如く、慎太郎は北川の邸へと向かって真っ直ぐに駆けて行ったのである。
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休み休み、慎太郎が邸へと戻ることができたのは出立から丸一日。背にし浴び続けた西の茜も溶け入る逢魔時であった。
急ぎ馬を繋いで中へ入れば、いつも人気のあるはずのそこに人の姿は見当たらず、焦る心を抑えながら父の元へと向かった。
開けた襖の先、予定よりも早く帰った息子を見て驚きの表情を浮かべるものの、すぐにそれは不可思議に曇る。
先に、それが気になった。
「予定よりも早く戻りました―――どうしたんです、何かありましたか」
「………」
「――――リンさんの事ですね」
実直な父が口籠り、曖昧な意思を示すのは決まって婚姻に関する事柄であった。
祝言の日が近づくに連れ、リンへの風当たりは弱くなっていっているのを目の当たりにしていた慎太郎にとって、無言という返答にやや違和感を感じる。
完全に認めたわけではない事を分かってはいる。しかし、どうにもバツが悪そうな表情の曇り方なのだ。
何があったのかを尋ねてもなかなか口を割らない。こうも頑なだという事は間違いない、何かリンへとしたのだろう。後ろめたい事を。
その推測は慎太郎の胸にぞくりと焦燥を引き起こした。
「何を言ったんです」
自分でも驚くほど低い声が出た。父は言う。“間に合わぬ娘”との陰口を聞かれたかもしれないと。
その言葉に慎太郎は胸の詰まる気持ちであったが、何とか飲み込み冷静を呼び戻す。よくよく考えて、これまでの父の変化を見ているのだ。
ただ意味もなくその言葉を吐いたとは思いにくかった。逸る気持ちを抑え話を聞いたところ、どうにもその言葉には前後があったらしい。
「…そうでしたか、毎日無理をしているように見えたと」
「お前自身にも責がある事、責められる立場で無いが伝えておく。リン殿をああまで追いやっているのは一重に中岡の、お前への忠誠に近い。リン殿は下働きでも何でもないのだ。家を、嫁御を守りきるのも長男の役目ぞ」
“間に合わぬ娘だ―――間に合わぬ夫にはまさに丁度よかろう。二人手を取り、せいぜい励めばお似合いだ”
父親の天邪鬼な気質に振り回されたものの、真意さえ知らば不安を呼び込むこともなかった。
いつも用件を聞きに顔を見せるリンが今日は顔を見せず、邸内でも姿が見えなくなっているという。
さすがに自室に押し入るまでには至れず、悶々としていたところに慎太郎である。父は子へと託した。中岡がお家騒動第一幕の幕引きを。
「父上はもっと素直になるべきです」
「ぐっ」
「そして俺はもっと言葉で伝えねばなりません」
慎太郎は急ぎ身を翻し、リンの部屋へと急いだ。決して広いわけではないこの邸、一人泣き籠城を続ける妻の元へと。
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明かりもつけずその間はあった。障子の向こう、廊下からそっと合図を送っても中から返答はない。
それどころか人のいる気配すら感じ取りにくい中、仕方なしと開け覗いた部屋の奥、真っ暗な塊が捨てられたように転がっていた。
「世を儚み絶ったか」その一瞬の予感に急ぎ駆け寄り抱えれば、その塊―――妻は静かに瞳を閉じて深い眠りについているだけであった。
微かながら体が呼吸に動くのを確認し、慎太郎は胸を撫で下ろす。楽な体制にと抱え直し妻の顔を覗き込んだ。
深い沼の瞳は閉じられ、まるでいつかの藪の日のようだと思った。少女から女へと変貌を遂げたその娘は愛らしい顔を涙でくしゃくしゃに乱して眠っている。
――眠っているというより、気を失っているようだ。
「(…龍馬さんの言った通り、か)」
腫れた目元に指を添えれば、微かに残っていた涙が指に乗り移る。
細い手の袖口、そっと触れればしっとり濡れており、一人泣き崩れていたのだろうことが簡単に予想された。
胸の痛みに感じ入る前に、不意にリンが動く。どうやら目を覚ましたらしい。
しかしどこか様子はおかしく、この状況―――慎太郎の組んだ足の上に座りその胸に体を預けている状態なのだが、まどろんでいるのか反応が薄い。
垣根などないかのように胸に耳を当て、くつろぐリンの行動に驚く。猫が甘えるように少し摺り寄せながら密着する体は夏の気温そのもので。
早くなった心臓の音に気付かれたら恰好がつかないと思いながらも、ただ慎太郎はその重さを受け止めた。
ぽつり消え入りそうな声で風を語る妻の言葉に、どれだけの思いが込められているのか、慎太郎には量りきれない。
ただ、確認するように漏らされるその苦労の言葉の出来事達に、肝が冷えていくような思いだけが慎太郎の意識を繋ぎ止めている。
「(…ああ、ひたぶる自分に鞭打ち生きていたと)」
たった一人。夫婦となる誓いを交わしたのに、それはただの形式上の制約でしかなく、二人の心は遠く遠く離れたままで。
「いつも逃げてばかり」苦しみから身を離し守ることでさえも、彼女は責め喘いでいるのだとしたら、心が事切れても仕方が―――そう考えて、慎太郎はぞっとした。
本当にあと一刻、一瞬の迷いを抱いていたとしたらこの人は本当に儚んでいたかもしれないのだ。
背に走ったおぞましい恐怖に粟立つ。先程から何度も色を変える心臓の音に彼女は気付いているのか、曖昧な意識で語る。
そのどれもが、彼女自身へ向けられた言葉だというのに、切れ味鋭く刃先を変えて慎太郎の胸を刺し続けていた。
言葉をもらえなかったから、周囲の顔色から判断するしかありませんでした。
弱虫な私は、自分から言葉をほしいと言う事も出来ませんでした。
「……いらないのなら捨ててくれていいのに」
ぴたり息が停止した。湧き上がる悲しみと不安と焦燥と、もうその状況がぐちゃぐちゃに織り交ざって処理など出来ない。
感情のまま彼女を強く抱きしめた。格好とか建前とか理由なんて必要なかった、気付けば体が欲しい答えを導いているようで。
「…いらないはず、ないでしょう」
情けない声だった。
やっぱり気の利いた言葉一つ出てこない。武道よりも文学の方が性に合っていて、交渉事には中岡の光次とまで言わしめた男だとは笑わせる。
慎太郎とてリンを思い、励んだことは間違いなかったのだ。
その気持ちが悲しみと織り交ざって沸き上がる、どうか否定しないでほしいと、あなたの事を何よりも愛しているのだと、叫ぶように。
夢へと溶け行きそうなリンを掴み、引き上げる。ようやく心の音を聞くことが出来たのだから、逃がす気など毛頭なかった。
恋焦がれた肌を、その心を、沼のように深い瞳を透き通らせることが出来るのは、俺しかいないと慎太郎は思う。
苦しい、苦しいと泣き喘ぐ妻の唇に己を重ねて、息を吹き込むように。
どうか、そんな悲しみを抱いたままで、夢沼へと逃げていかないで。と。
目を白黒させる妻がただただ愛おしくて、そのまま深く腕の中へと誘った。今度は優しく、包むように。
「…俺は愚かな男です。あなたがそんなにまで苦しんでいるのに気付きもせずに、勝手に知った気になっていました」
「それ、は…私がきちんと聞かないから…っ」
間入れず否定するリンにそっと首を振る。どう考えてもこれは慎太郎の失態であった。
「誰も何も言ってくれない」リンはそれを一方的な言い分だと思っているようだが、決してそんなことはない。事実、慎太郎は何も伝えてなどいなかったのだから。
長年連れ添った息を同じくする夫婦でもないのに、同じ気持ちでいるだなどと自惚れもいいところだ。
「俺があなたに求めたものは、中岡の色に染まる事じゃない――――ただ、俺と共に在って…笑って欲しかっただけなんだ」
それはきっと幸せだということだから。
その日が来るまでに泣かせることも、傷つけることもあるかもしれない。
けれど、最終的にただ一人、妻であるあなたを幸せにできたらそれでよかった。
夏の張り付く熱さなど気にもせずに、ただただ妻を抱き続けた。
かたかたと震え泣くその人のか細い気配が恐ろしくて、けれどもありったけの気持ちを唇に乗せて放った。
まるでそれは蛍火のようにふわり部屋を舞い、時折彼女の表情を朗らかに照らして消えていく。
本当に、本当に…? 消え入りそうな声で泣くその顔に、もう悲しみの色は残っておらず、言葉の代わりに一等強く抱きしめれば、背に回される細い指。
指の腹の熱が哀願ばかりではないと慎太郎に焼きつき教えれば、怖いものは何もなかった。
時を戻す事は叶えられない、けれど間違いは正せばいいと誤解は解けばいいと、慎太郎は信じてやまない。
「遅くなってすまない―――だけど、今更だけど言わせてくれ」
「…なん、ですか……?」
太陽は姿を消した。暗い部屋の中、唯一の月光だけが輪郭を照らす、不確かな存在感に思いを馳せた。
輝く涙雫を何度でも拭って、抱き寄せた妻をそっと上向かす。本当は、ずっと言いたかった。
時間が無いだなんて言い訳をしないで、日が暮れた後だって、寝る間を惜しんで駆けて行ったらよかった。
「――俺と共に苦難の道を歩んでほしい。いつかあなたの瞳に夜明けを見つける日まで」
近いうちにあなたに似合う櫛を贈ります。どうか受け取ってほしい。
続けた求婚の言の葉に、大きな瞳をこれでもかと開いて、拭ったというのにまたも大粒の涙を流し始めるリンが映る。
口元を抑え隠し、けれども漏れる嗚咽が耳に届く。小さく一度震えて、頷いた。
「…喜んで、歩み参ります」
どうか置いて行かないで。しおらしい言葉に胸が射止められる。小さな体で無理をしていると思った。
何度も感じた胸掻き毟る甘い疼きが濁流の如く流れ出て、慎太郎はリンを――妻を深く深く抱きしめた。
寄り添う二人の、妻の瞳。夫の瞳から視覚となったその双玉は眩しいばかりの光が差し込んでいた。
それはまるで日の光のように清純で、ただただ幸福が色であったが“今”を抱き合う二人は盲目で夜明けに気付くことはない。
けれども今が幸福であった。
遠回りの果て、とうとう結ばれた土佐北川の夫婦の開国記はこれが始まり。
けれどもこの手を離さぬと誓った夫婦の真の縁は苦難に解けることはないのだろうと、後の英傑、坂本は語りて残す。
激動乱るる時代が生んだ一つのそれが、ただ永久であるようにと願うばかりではなく築くために。
苦難渦巻く日ノ本が明日へ向け、手を取りて歩み出す――――そんな夫婦であった。