慎太郎とその妻(25話/未完)
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23.5.出立 ※未完
その日はあっという間に訪れた。元来、大庄屋身分では同行を許されなかった江戸遠征であったが、時の流れというのは随分と価値観をも捻り行くのだろう、工面さえ可能であれば、個人の裁量に委ねられていたのが実情だった。
絶対であった幕府が秩序が崩れている、隙を見せたと称す事もやぶさかではないかもしれない。人が代わり血が薄れ、願いが思惑へと変わり行くのに時間は然程必要ではなかった。
みしみしと広がる綻びはいつしか風通しのいい穴となりて、この国に異国の風を吹き込むのだろうか。
そんなまるでお伽噺のような不確かな未来に馳せるだけの期待はただ、空しいだけだとリンは思った。
「どうか留守はお任せくださいね」
にこり笑っていつもの調子で声をかけた。この日のためにと誂えた長旅用の笠、草鞋、水筒。水筒を除き慎太郎が身に付けている装備の殆どがリンの手作りだった。
上から下までそのどれもに自分が関わっているのだと思うと、酷く心がざわついた。じくじくと膿むように内側から這い上がる苦しみにも似た幸福のそれを、リンはただただ噛み殺して、隠した。
慎太郎に心配させたくない気持ちと、自分を騙す為にであったのだが、笑うことでそのどちらにも蓋をしたのだ。すっと、まるで何もなかったかのように袖に手を合わせ、心の中でひた祈る。
見上げた慎太郎は不思議な面持ちだった。こめかみへと駆け上がる眉の軌跡は繁々と、いつとも変わらずそこにあったし、それと対成す下り目元はやはりいつもの通り、静かな水面のように冴えていた―――はずなのに。
ただその奥、感情だけが読み取れなかった。けれど何を考えているのかを問うだけの勇気もリンには無く、とうとう怯えに片足を取られたと気付いた時には“大庄屋の妻”に代わってしまっていた。
微笑を口元に、穏やかな口調を添え飾っては、手早く淡々と身支度を整えさせる。あっという間に、それは終わった。
「すまん」
「いいえ」
そっけない返答の中にどれほどの感情を押し殺したか。けれどもそれを表に出させるほどの幼さは、もとい、素直さはやっぱりリンにはなかった。
この人は必ず帰ってくる。…建前と願いとが織り合わさった不確かな言葉を、まるで事実のように脳裏に響かせるばかりで、目の前と向き合えないのはやはり性分でしかなかったらしい。
張り付き、乾いた笑みが、ぴしりと引き攣った気がした。大丈夫、私は大丈夫。万能のくすり言葉でそれを癒した。
「ずっと、慎太郎さんにくっついていたおかげで、お仕事、大分分かるようになったんですよ。不在の間もしっかりお役目を果たしてみせます。だから安心して行ってください」
「……ああ、本当に頼もしいな。あなたは」
そんなことない。反射的に出そうになった弱音を必死で留めた。大丈夫、大丈夫。幼い言葉を何度も何度も繰り返して思考を踏み潰せば、何も考えなくて済む。
手の震えなどない、唇の震えなどない。今ここにいるのは大庄屋の妻のリンであって、彼の人のリンではないのだ。自分の立場を忘れるな、貫き通せ。
まるで恐喝のような鋭い言葉が飛んで来てはリンの背を刺した。
「そろそろ刻限ですね」
「……ああ」
北川の村から同行するのではなく、一旦宿場町で集合してからとなる江戸遠征である。既に支度は完了していて慎太郎は今すぐにでも出立できる状態である。
しかしそれを促しても、なかなか足が動く気配はなかった。視線を下げているリンの視界に、慎太郎の顔は映らない。胸の下から腹にかけて幾日か前に針入れたくくり紐と小物入れがぶら下がっているだけで、それらが何を語るわけでもない。
恐ろしかった。慎太郎の言葉が。いつだって重すぎる意味を孕んでいるそれは、放たれた瞬間にリンの虚勢など見抜いて丸裸にして、全てを壊してしまう。嘲笑うかのように。
どうか笑って出かけてほしい。あなたが私の笑顔を愛するように、私もあなたの笑顔を愛しているのだから。
飲み込んだたくさんのものを手放して、リンは胸元に手を入れる。取り出したのは小さな綿の巾着袋だった。底が正方形になっているそれを慎太郎の前へ差し出すと、控えめな手が伸びてそれを受け取った。
二重に縫い合わせた巾着の底、小さな枡を作って入れてあるそれもリンの手作りであった。
「…塩です。不得手ながら私が作ったもので…にがりが強いので緊急時にでも使ってください。どうにも使えなければ、山間でそっと金子にでも変えてください」
紅葉には少し早い神無月の山でも、江戸行脚の最中には見ごろとなるだろう。何かと入用である塩は山間では貴重な物資となるはずだとリンは考えていたのだ。水分の多い手製のそれは販売できるような代物ではないかもしれないが、それでもないよりはいいだろう。
言葉の代わりに二人の間を風が吹き抜けていく。夏の咽返るような熱をすっかりどこかへ置き去りに、乾き冷えたその風に晒された身はぶるり震えた。足元を転がる枯草の侘しさが一層目に沁みるようで、思わず腕を寄せ掻き抱いた。
これからはこうして一人で身を温めるのかと思うと、途端、心を掴まれ引きずり出される錯覚さえ起こしそうだ。まだ目の前に夫がいるというのに、これではいけないと、リンは必死にそれらを振り払う。何度だって笑顔の仮面を貼り付けて、リンはとうとう慎太郎の顔を見やったのだった。
「もう行ってください、今生の別れでもないのですから。…ほら、前を向いて下さい。あなたの事を、待ってる人がいる」
「ああ、行ってくる。遠く残すあなたの元まで俺の名が届くように、懸命に走ってくるよ」
貴重な塩をありがとう。最後にそう呟いた彼の男の顔は、これまでにないほど優しい笑顔であった。いつも仏頂面で眉間に皺を寄せ、気難しい表情ばかりの慎太郎だ。
どれほど心と心を通じあわせた時でさえも、こんなに穏やかな笑顔は見たことが無かったのに。
「(嘘つき)」
リンが笑顔で隠した寂しさ同様、慎太郎も隠したのだ。笑顔の下に、多くのものを。それが語られない事を不服に思うまい。自分とて曝け出す事など出来るはずもなかったのだから。
とうとう、背を向けて去っていく大きな背中をただただ見送った。ざあざあと激しく揺れ鳴る山の木々の、飛ばすこの葉は吹雪の如く、遠い彼の背を隠してしまうまで、ひと時も離すことは出来なかった。
ついにその姿が見えなくなったところで、がくり、とリンは膝を崩してその場に座り込んでわあわあと泣き始めた。強い秋の風に煽られる自然の音で、それは誰に聞こえるわけでもない。
幾月前から、いつかはと予感していた別れの日を考えては積み重ねた準備の日々が、とうとう終わりを告げたのである。
こつこつと集めこつこつと針を通し作り上げた衣も、袋も、旅支度の全てが夫に託され、手元にはその証さえも残らない。あるのはただ、喪失感に似た痛みだけだった。
巻き上げられた砂塵が縮こまる身に降りかかっても、リンは体を上げる事が出来なかった。巻き上がる砂煙の霧の中で、ただただ一人、身を抱いて泣き続けたのである。
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中岡の若が北川を出たという噂は瞬く間に領内へと広がり、民らは不安の顔色でそれを受け止めていた。
元々江戸にあった所、跡継ぎの為にと帰省している事実まで知り得ているのである、その若君がまた江戸へ渡ったという噂に、とうとう北川に嫌気が差したと考える民は存在していた。
けれども辛うじてそれが広まらなかったのは、慎太郎の懸命な庄屋活動への姿勢を皆が理解していた事、そして何より仲睦まじい伴侶の存在があってこそであった。
あれほど仲睦まじかったのだ、彼女を残していくなど考えられない。きっと帰ってくるに違いない。そう、民さえも信じていた。
慎太郎が北川を去った次の朝にはリンのせっせと働く姿が目撃されていた。その表情を窺えど、悲壮な色は見受けられずいつも通り朗らかに、皆の声掛けに応えていたのだ。
「さみしくないかい」そんな言葉にもただ一言、
「今生の別れではありませんから」
そう、気丈に答えていた。
とある日の事である。鶏が目覚めるより早く、朝露滴る萩の小路を進むその背を見つけたのは義父、小傳次であった。
当初二人の婚姻を反対していたのは小傳次であり、二人を試したのも彼の男であったが息子夫婦の誠実な姿勢に心打たれ、心持ち変わった今、たとえ周囲がうんざりするほどに仲睦まじい姿に当てられていたとは言えども、とうとう引き離されたと、囃し立てる気など毛頭ない。
領内で片羽鳥だとまで噂されていたそれらが二つに別たれて、果たして一羽は飛ぶことが出来るのか。すぐに答えは導かれる。否だと思った。特に娘の方は一等、劣等感が強いときている。
夜も明けぬ薄暗い藍の時間に家を抜け出し、人気の無い場所へ出でる背中を放っておけるはずがなかった。小傳次はすぐさま身を起し、萩の奥へ追いかけたのだが、しかし、すぐにそれは目的の人に遮られる。
「…まあ、お義父さま…!どうなさったのですか」
「な、何って…リンさんが一人で出ていくのが見えたから」
「……それは申し訳ございません。思いがけず早く目が覚めてしまったものですから、朝一番の水を汲みに行こうと思ったのです。ささ、どうぞ邸にお戻りくださいませ。朝はまだ冷えます…お体に障ってはいけませんから」
ぽんぽんと背を叩くその手は思う以上に冷え切っており、衣の上からでもはっきりと分かる程であった。目が覚めてしまったのは本当だろう、夜が明ける前から―――いや、もしかしたら眠りについてさえもいないのかもしれないと小傳次は思う。
毎日夜遅くまで慎太郎の代わりにと、庄屋仕事に精を出しているのを知っている。夜間の作業に火を灯したいが、けれども油が惜しいと悩んでいる些細な相談も、この間縁側で交わしたばかりだ。
薄暗い視界では娘の表情も顔色も、はっきりと見やる事は出来ない。見えたところで小傳次は、慰みの言葉など持ち合わせていなかった。
夏の勢いどこへやら、くたりと首をもたげる草薮を踏みつけ踵を返す。咽返るような青い香りは既に雲散され、代わりに立ち上がるは種子の綿塵。
ふわりふわりと頼りなさ気に舞い上がるそれらは、微かな秋風の流れを探して宙を彷徨い、力なく藪へと吸い込まれていく。乾いた草の音、踏みつけ進むその先に、やはり慎太郎はいないのだが、右少し後ろを歩く娘はそれをどう思うのだろう。
「寂しくはないのか」
「秋がでしょうか」
「いいや」
「…寂しくないと言えば、嘘になります」
けれど、寂しさを感じる暇もないほどに、日々が忙しいのだとリンは言った。慎太郎に信頼され、託された庄屋業務を補佐として立派にこなす事こそ、彼の背に報いる方法なのだとも。
その責任感の強い姿に、小傳次は深く心を打たれた。肌寒い気温と裏腹に、じんわりと染み入るような胸の温もりは癒しとなって留まるようで、思わず息を吐き出した。
この時代、男の成す事に女が口出す事は許され難い時代である。小傳次とて、他界した妻には深く線引きをして踏み入らせなかった領域を設けていた。彼女もまた、慣例に習い、よき母よき妻として生涯をかけ小傳次を、中岡を支えていたのだが、あくまでそれは慣例の中での生であったと思う。
小傳次が道を切り開く中、妻の丑がそれを補助するのだ。庄屋仕事で日夜奔走する間、文字通り家の中にてそれを守る、家内として。
先祖より細々と繋ぎ続けたこの血筋を、絶やす事を認め得る決断は下しかねていた。認めてしまえばこれまでの歴史を閉ざし、否定してしまうのが怖かったのだ。
だからこそ、本当は。
「…けれど、志士の真似事なぞ辞めろと止めたとて、あいつは止まらんのだろうなあ」
「………お義父様の懸念もご察しします。…けれど私は、思慮深く、信念を抱き、真っ直ぐに走って行くあの方の背に恋い焦がれて仕方がなかった―――それを見たいが故に、背を押したのは、私です」
「いいや、あなたのせいだけじゃあないさ。慎は昔からそういう子供だったよ。夢中になると何にも聞こえやしない、見えやしない。師範様からもらった本に夢中になって読みながら帰っては袴を汚して、何度丑が洗濯をしていたか。さすがに道脇の肥溜めに嵌ったと聞かされた日には、ど叱ってやったものだがなあ」
「まあ、肥溜めだなんて」
小傳次の言葉に想像するは真剣な眼差しで読み耽る慎太郎の姿だ、リンの想像でしかないはずのその光景でも、慎太郎はただただ真っ直ぐ直向きである。いつか伝え聞いた、大庄屋の若君の噂そのままに。
そのまま後ろなど振り返らずに走り抜いてくれればいいのだ。けれども優しい彼の男はそれを是とせず、一歩一歩振り返ってはリンがついてきているかを確認しては、歩む速度を変え、そっと寄り添おうと尽くすのだ。
嬉しい反面、それはリンをも惑わせていく。“何の為に。何が為に。”本質さえも見失ってしまいそうになるのだ。
今一歩、大きく踏み出せば薄明りの霧の向こう、すっかり馴染みとなった茅葺きの屋根が見えて、リンはそっと義父の手を引き寄せ導く。
小さく述べられた礼の言葉に言葉なく応答して玄関まで連れ添い、すぐに踵を返し萩の道へと折り返す。元の目的をまだ果たしていなかった。
「しっかり温まってくださいませ。私は水を汲んでまいりますので」
霞みに溶け込みそうなか細い声だったが、小傳次はしかと受け取ったようで、頷き一度、茅葺きの下へと戻っていった。
同じ血筋とは思えない丸まった小さな背を見送ったが、やはりその背に愛しい人を思い浮かべる事は叶わず、虚しさを抱えて小路へと紛れ行く。水を汲むものないままに。
咄嗟の嘘も見抜くだけの視線も、興味も、やはりあの人とは違うのだ。今はそれに寂しいよりも助けられたとリンは思う。
奥へ奥へ、萩さえもなくなり、深い緑葉が生い茂る林の奥で、霧を纏うて空を見上げた。鈍色の無機質なそれらに、明日は見えない。
「…親子そろって意地悪なんて」
本当は、ひとり泣くべく身を紛らわせるつもりだった。
結果的に小傳次はリンの涙を塞き止めたのだ。もし、彼がリンを見つけなければ、萩の奥でひとり、夫恋しやと泣き崩れていただろう。
「一生許さなくていい」慎太郎はそう言っていた。彼自身は気付いているのだろうか、生かさず殺さず、リンを飼い殺そうとしているこの状態を。
優しいのだ。ただ、それだけだった。けれどその優しさが、今はただ迷いと未練を引き起こしているだけだなどと、どうして伝える事が出来ただろう。
「私はあなたを閉じ込める籠にしかなれないの…?」
―――頼りないから、安心して飛び立てないのならば。足を引っ張り振り返らせ、閉じ込め、留める。そんな存在にしかなれないというのならば。
変わりたいと願う。なぜならばリンの願いの本質はただひとつ。
「(飛び立つ鳥の如く自由で、誰より幸せでありますように)」
ぽたりと落ちた淀みの滴は密やかに、けれども確実に波紋を作り、広がっていく。
浸食する闇の足音が迫ってくるのに気付く事が出来る人間はここにはいない。じわじわ、じわじわと視界が侵されていけども、飲み込まれていく他、なかった。
不透明な空気を吸い込んで、リンは顔を上げた。覚悟を滲ませたその顔は無機質な能面を象っていた。唇に薄らと張り付く、弧に歪む笑みは諦めにも似た色をして、固く閉ざされている。
「…戻らなくては」
器無き水汲みの一時から背を向け、茅葺きを目指す。
その胸には淀み水がじわりじわりと湧き上がり、それを、汚していた。
――――そんな、一時の夢を見ていた。