慎太郎とその妻(未完:無期限更新停止)
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
24.さよならわたし
月明かり差し込む竹林の奥でざわめくは地面。藪の奥、ざくりざくりと掘り返した土の堤。その上に立ち、リンは底を見つめていた。
月を背に、作り出される己が影。藪を掻い潜り流れる風は竹葉を揺らし、辺りは不気味なざわめきに満ちる。
呼応するように、リンの影もまた、ぶるりと揺らいだ。
思えば何かと、夫は髪の事を気にかけていたように思う。互いの名も知らなかった雷雨の農小屋の中でも、櫛を贈られた祝言の後も。
風が撫でると同じように、リンはそれに触れた。こし弱く、頼りの無いそれは定めを知っているかのようにか細く囀る。
髪は女人の命だと、巷の誰が騒いだとて、今の彼女にとっては取るに足りない雑言だった。
愛し夫が透き遊んだ思い出深き女の髪は既に、肩の上。耳の上。櫛の出番も無いほどに切り捨てられた。
細い首筋さえ隠されたならば、その影姿はまさに男。
男影はずいと腕を前に突出し、握った包みを穴へと落とした。どさり。重い音が大げさに穴の闇の奥で嘆きを訴える。
腰ほどまであった愛し髪―――の包みを、思い出と共に放り投げた。その呻きを鎮めるように、続けて投げ入れた、櫛。
それはいつか、命を賭して下郎から守り通した“夫婦の証”。
さくり。
今度は呆気ない程の軽い音が空しく穴の闇の奥で眠りについた。
---------------
脱藩は重罪である。本人のみならず、その家族、兄弟にまで贖罪の追手が伸びる。
昼夜逆転の生活、そして、日の目を見て歩けないほどに逃げ回らねばならない日常。
何度も自問自答を繰り返して、とうとう辿り着いた今日。
体の線を隠すために肩に胸にと巻き付けた手拭いがきしりと鳴く。
自慢の草履の紐を幾度も結び直して、たん、たん、と跳ねる。髪は揺れなかった。
「――――さようなら」
ごめんなさい。小さく礼をして、リンは竹藪に、棗に、木戸に、柚子木に――――中岡の家に、背を向けた。
文久三年、長月の頃。
---------------
すっかり厚みの増した足の皮と、ひび割れ血の滲むそこに沁み入る湯は、まるで釘で刺されたような痛みを思わせた。
昼夜の入れ替わる生活、満足に取れない食事、休息、常に外敵を警戒せねばならない脱藩の道を、とうとう潜り抜け辿り着いた長州・三田尻の地。
張り詰め続けた気は、湯を浴びても簡単に解れる事はない。
それでも、今の慎太郎にとっては長州勢の気遣いが有り難かった。
とうに命の終焉を覚悟し、北川を飛び出したとはいえ、武市を初めとする勤王党同士らと活動の場を別った事は心残りであったし、また、孤独でもあった。
既に土佐を脱藩した幾らかの勤王派の志士らの手助けもあり、無事に脱藩を達成した事。
長州で尊王、攘夷の仲間を得られた事。そのどれもが慎太郎の精神を満たしていた。
頑なな慎太郎の気をも長湯がじわじわと解し始めた頃。ちらりと脳裏に柔髪の影が差したが、慎太郎は瞬時にそれを意識の外へと追いやった。
何かを求め無意識に動く指先を収めるように、己が髪へと差し込んではみたが、面白みのない固い感触が待っているだけであった。
砂埃とで一層固くなったそこに、指先は不満を訴えるように爪を立てるが、何の慰めにもならない。
ぱさぱさと、味気ない音が鳴った。
「………今更」
行き場を無くした指先は湯へと沈み、ひび割れる足のつま先へ滑った。痺れるような痛みが走る。
確かに痛々しい見た目をしているそこだが、過剰な負担により変色、変形する事が多い中、慎太郎の足先に大きな損傷はない。
彼は、妻の作る草鞋を履いていた。自然と目が細まる。
「(…………)」
ぴちゃん。髪から落ちた滴が水面で鳴る。その微かな水音に、慎太郎の声は遮られた。
---------------
政変により攘夷派が迫害を受ける今、ただ闇雲に勤王を掲げ突撃するは得策でない。
先を見越して慎太郎は土佐の仲間の元を去り、攘夷派筆頭である長州へと亡命を考えたのである。
武市の勤王党で信頼を得ていた事もあり、既に長州藩の重鎮らと面識のあった事が彼の先行きを明るくしていた。
都落ちした三条実美と面会出来た事、その命を受け使者として再度土佐の地を踏む事、全ての機会が慎太郎の行く道を作り上げていた。
生憎、高杉や桂は京に潜伏しており再会の機会は見送られたが、慎太郎は己の信念を往く地盤を固められた手応えを感じている。
ほんのひと月程前に捨て去った土佐の地――――ゆらゆら揺れる船の上、瀬戸内の向こう、遥かな山脈を、慎太郎は見ていた。
日本海に隣する長州の山と太平洋に隣する土佐の山とでは気温の差からか、紅葉の進みにも大きな差が見て取れた。
既に山の際まで艶やかな暖色に染まる長州とは違い、土佐の山々は中腹ほどまでしか暖が進んでいない。
紅葉を追って、視線を東へ流した所で、藩士に声をかけられた。男の話では勤王党への弾圧厳しく、慎太郎は船より下りない方がいいとの達しだった。
「あなたは党内でも有名でしたから、上士らにも顔が割れている事でしょうし…偽名を使ったとて、隠し通せるものではないと思います」
「………だが、」
「故郷に降り立ちたい気持ちは分かりますが……此度は、我々のみで対処すべしとの命令です」
命令の言葉に逆らう理を持たなかった。了承の旨を短く告げると、藩士はホッと胸を撫で下ろし、ぴんと張った空気を緩ませた。
戻って行く忙しい背に視線を投げながら、慎太郎はひそと眉間に指を寄せる。
土佐への望郷で緩んでいた心とは裏腹に、外面は相変わらずの仏頂のようで、そこは深く深く皺が刻まれていた。
鈴の鳴るような甘い声が、皺を笑ったような気がしたが、慎太郎はそれを深く遠くに仕舞い込む。秋の感傷がもたらした、幻聴だ。と。
幾刻の停泊そして待機の後の事であった。偵察へ出た乗組員が血相を変えて船へと戻ってきたのである。
ばたばたと忙しない艦内で、藩士を集い報告を聞いた途端、一行は急ぎ船着き場を後にする事になった。
「…武市先生が捕えられたか」
「その他、勤王党員に捕縛命令が出ているようです…無論、中岡さん、あなたにも」
「やはり上陸させないでよかった。今はまだ突出すべき時ではありません。…天誅組のように、ならないとも限らないのですから」
その言葉に慎太郎は口を閉ざした。公家を擁して討幕の挙兵をした天誅組の中には土佐脱藩浪士、勤王党の者も多かった。
政変が起こり、尊王攘夷から公武合体へと方針が変わってしまった途端、天皇の義賊となる大義は失われ、彼らは逆賊として幕軍から追われる身となっていた。
京を追われても帰る場所がある長州藩士と帰る場所がない土佐藩士とでは選ぶ道が限られるのも詮無き事だと思うが、
それでも、慎太郎の胸の内には理不尽への怒りが煮え立って収まらずにいた。
「……彼らは、己が信念を貫いたのだろう。…俺も、出来る事をやるまでです」
全てを堪えこんで吐き出した一言は、音も立てずに震えていた。
帰る場所を無くした鳥はどこまでも飛んで行くしかないのだ。後ろを振り返れども、そこに、羽を休める場所などないのだから。
---------------
いつ捕えられるか分からぬ逃亡の道、過酷な事は覚悟していた。
飢えも冷えも、疲労も全て背負い込んで野根山を駆けた。
安全な寝床など何処にもなく、息を潜め木の根に凭れ眠る日々、夢枕に立つのは無念の死を遂げた郷士達の遺恨ばかりで、リンは何よりそれに悩まされていた。
慎太郎は家で勤王党の話をしたがらなかったが、上士の非道な振る舞いや悪評は土佐一帯に広がっており、事件がある度に人々は大きくどよめいていたのだ。
ある程度の時勢は、夫が口を閉ざした所で耳に入らないはずがなかった。
人をいたぶる鈍い音も、刃が肉を断つ音も、断末魔の悲鳴、嘆き、奪われる側の恨みの念がリンの脳裏に貼り付き縋るように感じられたのである。
助けてくれ、助けてくれと。ようよう自分の志を背負って立つ覚悟を決めたばかりの雛鳥の背に、託されるには重いそれを。
ぐらりぐらりと視界も揺らぎかけたその時、肩に置かれた手と共に、かけられた一言に覚醒する。
勢いよく顔を上げ、肩を振り返れば日に焼けた人の好い顔が、眉を寄せて覗き込んでいた。「大丈夫か」と一言添えて。
「……だ、大丈夫。寝不足で…少し眩暈がしただけだ」
リンは今船上にいた。野根山街道を抜け、甲浦港までたどり着いた後、この男の手引きによって船に乗った。
初めは水夫でも構わぬと頼み込んだのだが、リンを脱藩者だと見抜いたらしいその男は彼女を庇って船に乗せる事を決めたのだった。
以前、水難にあった所、土佐の船に助けられた恩を返すべく男は土佐藩士の脱藩の手助けをしているのだという。
尊攘、佐幕に揺らぐ土佐藩の体制の悪たるやを良く知る男は脱藩者らの良き理解者であったし、
また、そんな世を打開する熱い心を持った士の力になる事こそ、己も志士と名乗る為の手段の一つなのだとリンに語った。
自分に出来る事を、と願う男の志はリンにとって目から鱗の思想であったが、悪い気はしなかった。むしろ高潔だと思った。
誰しもが時代を動かす英雄になれるわけではない。一つの大きな目標に向かって、出来る事を精一杯行う事こそ、生きる意味なのだと。
「……あなたはいつも眩しいな」
「俺がか?暗い山道ばっかりだったから目が慣れてないんだろ今日は日差しが強いからな。………そういう言葉は好い人に取っておけ」
「好い人……そう、だね」
男に口説かれたって嬉しかないやい、と男は照れながら笑う。あんまり潮風に当たるなと幾らかの注意をした後、自分の担当へと戻っていった。
船の桟に凭れながら、リンは遠くなる土佐の陸を眺める。反射する日差しが波を受けて強く照りつけるのを、手で隠した。
「…ただ、あなたに会いたいだけ」
土佐を捨て家を捨て、羽を休める場所を捨てて行った愛しい人の止まり木になれたら。
それこそが同じ歩みを進めて行ける一つの道になれるのならば―――それが道となるように作り上げていきたいのだ。
ギイギイと音を立て揺れ進む船に身を預けながら、リンはそっと瞳を閉じた。大阪に到着したら次は長州を目指さねばならない。
関所を避け逃亡の日陰の日が長らく続くだろう。目が覚めたら先の男に脱藩によい道を尋ねて…物資をいくらか補充して―――そこまで計画付けて、リンは意識を手放す。
ゆらゆら揺れる波のゆりかごはあたたかく、安心という温もりで彼女を包む。
日輪の輝きで悪夢は手を出せないこの船が、幾日振りの安眠を彼女にもたらした。
長い睫が閉じた時、薄い唇の端が少し上がっているのを、様子を気にして見に来た男が見ていた。
「手間のかかる逃亡者さんだ」
今まで見てきた中で人一倍体の小さい脱藩者が気がかりでならない男は、呆れた溜息を吐きながら彼女に毛布をかけてやる。
彼が無事に目的の場所まで辿り着けるようにと、願いながら。