慎太郎とその妻(未完:無期限更新停止)
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23.文久の嘘
茹だる暑さの夏が来た。抜ける空の爽快なる青とは対照的に、執拗に地面を焼くのは太陽。
熾烈な日差しが語るこの年の土佐の夏は不穏な熱気に包まれていた。
これより一年弱前の文久二年の皐月の事であった。
当時、土佐藩にて政権を握っていた参政、吉田東洋が暗殺された後、東洋派が政から遠ざけられる動きが生じる。
慎太郎属する土佐勤王党、および勤王派はこの藩政の弱体化の隙に乗じて土佐国内での発言力を強めており、その勢いは既に藩庁を以ってしても無視できない勢力となっていた。
事実この頃、攘夷運動の声は高まる一方で、また、長州・薩摩の二強を中心に大きく政治の動きがあったのである。
弱勢による決起隊でしかなかった土佐勤王党であったが、この勢いに乗りたいと考えていた勤王党の事実的指導者、武市はこれを上手く生かし、土佐での勤王党の位置を盤石たるものにしたのである。
慎太郎とリンとの間に埋めがたい溝を垣間見た卯月の初めの頃。事態は急変する。
吉田東洋を重用していた土佐藩の前藩主である山内容堂が安政の大獄による謹慎を解かれ、帰国した事により始まった。
容堂は藩庁の人事を改めそれまでの土佐国における遷移を探らせた。勤王党の勢力拡大への牽制と、力を弱めた土佐藩の権威を戻す為であったという。
そしてこの年の水無月、勤王運動の為の藩政改革を私的に企てたとして、土佐勤王党員三名が処刑される。
武市の参謀的存在であったその三名の処刑は勤王党の威力低下に直結し、藩庁の目論見は成功したといえよう。
こうした容堂による藩政の立て直しは続いた。またこの頃、京では長州藩を主力とする尊王攘夷派が追放され始めていた。
公武合体派による尊王攘夷思想への弾圧。尊王攘夷から公武合体へ、事実上の政変を意味するものであった。
政変以後、容堂は勤王派への弾圧を強め、以後、尊王攘夷、勤王の力は徐々に衰えていくこととなる。
政治の渦に巻き込まれる慎太郎を案じながらも触れられず。リンはただただ彼の無事を祈っては見送るだけの日々が続いていた。
初夏の頃にふたり、大きなすれ違いを生じさせた後から、こうした勤王弾圧の動きが強まった事も重なり、慎太郎が北川の邸に戻る事は稀となっていた。
行き先を告げず幾日も戻らず。あの夜のすれ違った溝を埋めたくとも、話をする時間すらリンには作り出す事が出来なかったのだ。
それでも何とか鬱屈に飲み込まれずいられたのは、慎太郎のささやかな気遣いがあったからこそである。
何も告げず志士活動へと身を投じる慎太郎ではあったが、出かけの間際、机の上に残していくものがあった。邸裏の棗を手折った一枝である。
太枝から分かれた葉の茂るそれを、慎太郎が何を思って手折ったのか、その真意はリンには分かりかねた。
けれどもリンは“理解”している。
何も告げられないもどかしさを、あの日、口を閉ざした彼のどうしようもない弱腰を。
その優しさを。それは彼女の心を癒した。
この枝も彼のこころ――――。決して目に見えない朧気なそれであっても、ひたぶる抱いては愛しさを募らせる。
もう咲けない蕾を太陽に翳しながら、リンは空を見上げた。高知の城下は酷く遠い。
思い込んだら一直線。そんな夫の事だ。激動の渦巻き起こる京にでも向かったかもしれない。
慎太郎の行き先を案じながら、この日も夏の日差しを見つめてただ遠くへと思いを馳せた。願うのは一つだけ。
どうか生きて帰ってきてほしい。―――飽く事無く繰り返し願うはただ、それだけだった。
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最後に残された枝がとうとう萎れてもその次はない。
心のざわつく日に枝を見ても、生存の確認どころか流れた時の長さを思い知らされるばかりで、リンの心の休めにはならなかった。
日課である毎日の業務を淡々とこなし、源平を迎え、小傳次の世話をする。賊に襲われた恐怖こそ日が経つにつれて薄れていけども、心にぽかり開いた穴だけは埋まる事はなかった。
北川村に勤王弾圧の噂が伝わる時にだけ心が恐ろしく竦み上がって揺れ動く。それ以外に掻き立てられる事と言えば、やはり心が弱る想像ばかりで、抜け落ち行く表情の喪失を止める事が出来ない。
源平も小傳次も、それに気付きながらもとうとう何も言わなくなった。
リンの泣きもせず、笑いもせず、ただ眉を下げて不安気な笑みを浮かべるその顔は、諦念が強く張り付いていて、けれども恐ろしく穏やかに見られる。
しとやかな嫁御だと知らぬ人間は言う。まるで砂糖を吐くようだと、仲睦まじい夫婦を指差した記憶は真のものであったのだろうか。小傳次を以ってしても、今のリンに欠ける言葉は浮かばなかった。
時は流れ、晩夏、早秋。生き人形のように毎日の業務を淡々とこなすリンを、この日も小傳次は静かに見送った。
「おやすみなさいませ」「ああリンさんも」口元だけゆるりと上がるいつもの諦笑に、小傳次も睫毛を伏せて答えた。
ぱたりと閉められた襖の向こう、音もなく立ち去る気配。やるせない気持ちがこの日は殊更強く湧きあがった。
「(ああ、揃えた縁談を断ってまで選んだのはお前だっただろう!)」
布団の中で握り締める拳。爪が肉へと食い込むのも構わずに小傳次は力を籠め続けた。行き場の無い怒りに体が震え、心が燃える。
病を患い、江戸修学中の一人息子を呼び戻し、良縁をと同じ庄屋仲間の娘との縁談を持ちかけた。
不器用で融通の利かない息子への親心ではあったが、事もあろうに息子はその話を蹴り、貧しい農家の娘を伴侶にと自ら申し出たのだ。
今まで話さえも聞かぬ全くの寝耳に水状態で、親族の反対を押し切って、けれども息子は娘と愛を誓ったのだ。必ず幸せにすると、大庄屋の仕事をおろそかにはしないと。
事実、周囲の予想に反し娘はよく学び、働いた。今では貧しい農家の娘だと言われねば分からぬ程に教養を身に着け、慎太郎が為さねばならない庄屋仕事も代行している。
実娘の養子を招いて庄屋仕事を教えたりと、子の無い中岡の行く末を案じているのか、甲斐甲斐しく只管に中岡に仕えてくれている。小傳次はそうリンを評価していた。
不満も漏らさず、懸命に働く嫁御に小傳次がこれ以上望むものは何もなかった。だからこそ居た堪れないのだ。
泣く胸もなく、ただただ中岡の名を背負い水牛のように働き続ける娘の孤独を埋める方法が見つからない事を。小傳次はただただ呪った。
帰ったら一発殴ってやる。そう息巻いても、肝心の息子は志士活動に没頭しており、帰る気配もない―――生死さえ問えない状態であった。
黙って付き従う嫁、世間がどれほど良妻だと褒め讃えても、良き嫁を迎えたと賞賛されても。
小傳次はただただ顔を歪めるだけで、歪んだ笑顔を返すに留まった。
「惚れた女を泣かせるなど男の風上に置けん」
彼女はお前の妻であり、母ではないのだ。甘えるのも大概にしておけ―――。言ってやりたい言葉は山ほどある。
怒りの中に煮え切らない弱さが混じるのは、やはり小傳次が慎太郎の親であるところが大きいだろうか。
生死も知れない息子。女ばかりが生まれる中岡の家で、ようよう生まれた待望の男子。小さき頃から手塩をかけ厳しく育て上げた性根の真っ直ぐな自慢の息子。
思想に唆され、家を忘れ、妻を忘れ、己が道ばかりを追い求めるどうしようもない不器用な息子を、けれどもその身を案じながら、小傳次はそっと瞳を閉じた。
次に目を開けた時には握った拳を打ち込めるように、息災で戻るようにと願いながら。
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邸の裏には棗の木があった。その奥に竹藪。ひっそりと隠れるように植えられたその棗の木は慎太郎が幼少の頃、よく遊び場にしていたものだという。
季節の変わり目、薄衣一枚では肌寒くなった初秋の夕暮れ時、リンはその棗を眺めていた。
深く観察すれば見えてくる、折られた枝の跡。それは慎太郎が存在していた痕跡を直に表すものであり、しばしば目で追っては不安を落ち着かせていた。
枝の先端にはまるい実が生っており、臙脂の身を夕暮れに遊ばせ輝いている。艶やかな表面は夕陽を反射してきらきら光る。
その目映い光に目が眩み、リンはそっと視線を外した。
今年の夏の柚子も十分な実のつけがあったとは言い難い。深い山間にある北川村が豊かになればと願いを込めた、慎太郎の想いを知ってか知らずか、さやさや秋風に揺れる柚木は今日もただただ静かに並ぶ。
邸の北奥、奈半利川添いに慎太郎が整えさせた土地があるが、そこでの作物もまだまだ未成熟であり収穫は見込まれない。今年の冬越も厳しくなるだろうと読み、リンは一つ息を吐き出した。
慎太郎のいない冬を如何に乗り越えるか―――リンと源平とでは至らぬ部分は小傳次に判断を仰いでいるため、何とか越せるには越せるのだろうが、それも長く続けるわけにはいかないとリンは考えている。
一等冷たい風が一吹き、リンの脇をすり抜けた。くしゅん、と一度くしゃみが誘われる。それが途切れた頃。
ひとつの足音が耳に届いた。思わず顔を上げて、裏から庭表へと出でる。背の竹林もざわざわ音を立てて、まるでどよめきのようであった。煽られ、心が騒ぐ。
秋風が勝手戸を悪戯するのと、門の扉が開くのと、ほぼ同時であった。
きい。緩やかな開閉音に釘付けになって眺めた門瓦の向こう、揺れる茶頭が目に入った。
「…慎太郎…さん……ご無事で」
「リンさん」
幾月振りの夫の姿に胸がいっぱいになる。それでもリンは深々と頭を下げた。今すぐに枯渇した瞳を茶でいっぱいに染め上げたい――はやる気持ちはそっと殺して。
ゆるり顔を上げた時には慎太郎の姿は近くにあって、高いその身を見上げる。外にひょいと跳ねた髪も在りし日のままで、いつか淀み暗んでいた夜明けの瞳は夕陽を映して深い橙を映している。
まるでそれは夜明け前の朝焼けにさえ見えていた。
「(ああ、もう大丈夫)」真っ直ぐに立ち戻った夫の姿を確認し、蕩けるように目が落ちた。
たった一つ姿を見ただけで絆されてしまう己の弱さが情けないが、今はただ慎太郎が無事で戻った事が何より嬉しく、安堵の気持ちでいっぱいであった。
「冷えます―――中へ」
「…あ、はい。ただいま」
すいとすり抜け玄関へと向かう慎太郎の背は痛いほどまっすぐ張り詰めていたように思う。
広い背中に肩幅を包みて守る外套は煤けて汚れ、彼の苦労が見て取れた。
久方ぶりの再会であるのに、素気ない物言いにつきりと心が痛んだが、今はそれに見て見ぬふりをしてリンも邸へと戻る。
無事で戻って来てくれた―――わたしは、それで。
ただ一つそれを自分に言い聞かせて。
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小傳次との一悶着こそあれども両者深い信頼で結ばれている家族である。大した揉め事には発展せず、中岡の邸には静かな夜が訪れていた。
小競り合いの中で義父の口から飛び出した、リンを労わる言葉には慎太郎よりも誰よりもリンが一番驚いた。
出会いや始まりが始まりなだけに、リンの中で小傳次を始め、中岡姓の人間に認められているという実感は薄く、良く評して及第点だと思っていたからである。
爪を白くし慎太郎へと拳を振り上げた義父の姿は、慌てる気持ちと同時に、リンの胸をちりちりと焦がした。嬉しかったのだと思う。
「積もる話もあろう」と小傳次が引いた後の部屋はしんと静まり返っている。夕餉もそこそこに、ならば酒でもと勧めても慎太郎は静かに首を横に振った。
髪が擦れる微かな音さえ、リンの耳には真っ直ぐに響いた。裏の竹やぶから初秋の虫の声が聞こえて来ても、何よりも真っ直ぐに。
無言で向かい合ってどれほどの時間が過ぎただろうか、沈黙が惜しいと思ったか、時間が背を押したのか。
味も素っ気もない、世情の言葉がリンから漏れ出た。
「…勤王党の方々が処罰されていると…このところ頻繁に、と…ここにまで伝わってきました」
「……そうですね」
「気が――――」
気が気じゃなかったです。言葉は続けられずに喉で詰まってしまった。ただ慎太郎の身を案じていると伝えたいだけのはずだが、今のリンにそれを正しく響かせるだけの自信はなかった。
拗れた空気が二人の間を流れているまま、取り戻せていない事に加え、慎太郎の素気ない態度に削ぎ落されたそれらは、言葉をリンから奪い取っていく。
「(無事で戻ってきたのが何より証拠…戻ってきてくれただけでも…私は、満足しなければいけないのに)」
塞き止めた喉の奥で湧き上がる女々しい言葉を必死で押し殺した。気を逸らすように上げた顔の先、慎太郎の瞳は真っ直ぐリンを突き刺していた。
何かを訴えるものでもなく、侮蔑のそれでもなく―――ただ真っ直ぐに見つめていた。その視線の意図を拾いかねる。
無機質であるのに、その奥には依然変わらず夜明けの燻りが垣間見えた。神聖なる朝霧と雲海の向こう、白んだ空の淡い紫。
何が言いたいのだろう、夫は。何を望んでいるだろう、夫は。
それを口に出して問えない所にリンの敗北は決まっていたのだが、とうとう聞く事も出来ないまま痛すぎる視線から逃げ出した。
ああ、こんな時でさえ素直になれないだなんて。夫はきっと失望しただろう。
思えばこの深い深い溝はそんなリンの臆病さが悪化させたものであったはずであった。
慎太郎はあんなにも己を剥いて気持ちをぶつけたというのに、可愛げない事を言ったのは他でもない己だった。
龍馬は言った。思っているだけでは伝わらないと。お前の我儘一つ叶えられない程、慎太郎は器の小さな男ではないと。
慎太郎は言った。俺はあなたの何なのだと。―――どうして頼らないのかと。
“近い内 この人は必ず北川村を出ていく”
もしもここで、リンが慎太郎に付いていきたいと願い出たところで、この男は決してそれを許さないだろう。
残ってほしいと願い出たところで、この男は決してそれを聞き届けないだろう。
リンの願いはそのどちらか二つだった。どちらも絶対に首を縦に振らない事が分かりきっている、完全なる負け戦。
首をどうにか横へ振る策を練れど練れども、とうとう答えは見つからず、とうとう願いを抱く事をも諦めた。それをこの男は責めるのだ。
深く深い海の底に触れたとでも言うように、知っていると言うように。
青く透ける海の底などただただ浅瀬の遊び場でしかなく、深海の砦がある事を知りもしないで。
結局それ以上言葉が紡がれる事は無く、ただただ沈黙が場を支配していた。
「(どうにも出来ないのなら、せめて言って欲しい言葉がある)」
―――愛していると、ただ一言。
遠回しなそれではなくただ一言、打ち抜くように、抉り取るように。
慎太郎が志士活動に没頭する前――大庄屋として二人力を合わせていた頃は何度も聞いた言葉であった。
日が経つにつれて減っていったその言葉が、今はただ恋しかった。
態度で仕草で、読み取る事は容易だったが、同時に離別をも感じ取れるここの所ではそれさえ曖昧になっている。
喉が震えた。振動で流れた想いの丈は圧に乗り、とうとう唇が言葉を紡いだ。
開いたリンの瞳は、深海の淵から月を仰ぐように、涙で滲んで―――淀んでいた。
「……………おしえて」
――――嘘でもいい。
ぱた、ぱた。畳に落ちる涙は音を立て、弾けた雫は月光に輝く。一度息を飲む音が聞こえて、目の前の塊が立ち上がった。
月を背に背負うそれは真っ黒な影となり、リンの前へと立ちはだかる。まるで壁のようだった。
衣擦れの音と共に影が手を生やす。夕刻に見た義父の仕草によく似ていた。威圧的な影と息遣いに、怒りの気配を拾ったリンは身構える。
振り上げた腕が自分に落とされる事を予測した。しかし、それはゆるりと、まるで羽根が舞い落ちるように下げられ、リンの背へと回る。
触れた瞬間、怯えに震えたリンの反応につられるように影も震えた。まるで飲み込まれるように引き寄せられた影の中、その胸。
小さな女の身は完全に影の内へと取り込まれる。
耳が当たる影の芯はどくんどくんと騒がしく鳴り響き、背に回った手はぶるぶると震えていた。
旋毛が触れる影の喉幹は音にならない音を絞り出して、懐かしい芳香を醸していた。文字通り夫婦だったあの頃を繋ぎ止める柚子の香り。
「………」
ずり落ち、月を仰ぐ体勢になっても、やはり影は何も言わなかった。
胸の重ねが開かれ、息が上がっても。完璧に噛み殺された影の――男の首幹、その奥の誠を聞き遂げる事叶わず。
涙か汗か分からない雫がリンの胸へぱたりと落ちても、それでも、男は何も言わなかった。
「(こんな時ばかり酷い男になれるだなんて、この人はどこまでも不器用だわ)」
弓なりにしなる背を、捩れ逃げる腰を許さず引き寄せる指は肉へと食い込み、有り丈の熱をリンの中へと打ち込んでいく。
言葉に出来ない、言葉にせぬと誓った想いを逃がすかのように不器用な動きで。
リンの意識が夜闇に流れ溶けるまで続けられたそれに抵抗するように、夢の淵で男の袖を掴んだのだが、根負けしたのは女の方だった。
濁流に流されるまま袖から離れる細指は力なく畳に落ちた。
それがリンが慎太郎を見た最後であった。
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文久三年、長月
野根山から降る秋風は冷たく、障子の隙間を抜けて肩を冷やした。目に映る天井には見慣れた木目川が流れ、何一つ変わらぬ日常をリンに錯覚させた。
夢の中では随分と乱れ狂ったような気がしていたが、髪も衣も、大きく乱れた様子はない。まるで全てが夢の中の出来事であったような心地であった。
泣いて縋れど、とうとう慎太郎は何も言わなかった。
下腹部から背へ走る痛みが昨晩の出来事が現実であると語っていたが、今はそんな現の正誤よりもただただ胸が酷く痛む。
戸惑いを残しながらも最後の一指伸ばしたはずだった。けれども実らなかった事実は、心の奥底に微かに残した希望をも打ち砕いたように思う。
鳥が鳴き、竹藪が囁いても、棗の実が輝けど何の感慨も沸かず、濁った視界が空しくそれらを反射するだけであった。
ははは。乾いた笑みが間に響く。
しかしそれはすぐに湿り、目から零れ落ちるは涙の粒だった。昨晩は衣に、今朝は布団に。ぱたぱたと同じ音を立てて。
「…やはり、駄目なのですね」
泣いて縋っても、本音を告げても、慎太郎の心がリンに向く事は無い。リンだけに向く事は無い。
志を抱いて真っ直ぐに走る背が愛おしいと思いながらも、妻としてそれを誇りながらも、胸に隠した女の自分はいつだって淋しさに泣いていた。
そんな幼く惨めな己を晒す事は恐ろしかった。気付いてほしいと願いながらも同時に、そんな気持ちを押し付けたのならば、誇らしい慎太郎が壊れてしまうのではないかと。
それもまた、酷く恐ろしかった。
二兎を追う者は―――まさにその言葉そのまま。妻としての誇り高い姿を失い、女としての夢も破れたのだ。
一兎をも得られなかったこの様を笑わずしてどう保てばいいのか、リンはただ自虐に震えている。
「……もう、追えない」
愛されているのか分からない。
どれだけ置いて行かれても、言葉を交わす時間が無くとも、夫婦の誓いが誠である事だけがリンが慎太郎を信じるよすがであり、己の自信でもあった。
最後の最後まで嘘さえ付けなかった夫に、それでも愛されていると縋るものは見つけられなかった。思い返せば再び、涙は飽く事無く溢れてくる。
自分が愛しさえすればいいなどと強がりは言えない。
もし慎太郎を第一に思うのであればこのまま村に留まり、彼の望んだ“中岡の女”としての一生を責務として終えるべきなのは痛いほどリンには分かっていたからである。
それを捨ててまでも追っていきたいと心を燃え立てさせた愛情が、秋の風に晒されて冷えて消えてしまいそうだった。
それでも時間は過ぎていく。日の高さを見る限り、朝餉には都合良い時間で。気を利かせて邸を出た小傳次もそろそろ帰ってくるだろう。
これがもう少し高くなれば源平もやってくるに違いない、いつまでもぐずっているわけにはいかない。
リンは思考を切り替えて―――女の自分をなんとか深層へと突き落とした。
「……馬鹿なリン」
どさり。悲鳴も上げる元気もないその意識は哀れだと、とうとう自分で自分を慰める始末だ。ははは。乾いた笑いが再度出る。
全身の痛みを抱きながらよろり立ち上がるが、軋む足腰が視界を揺らがせる。
ふらりと倒れたその先、滲んだ視界が映し出した焦げ茶。思わぬ“それ”に、見間違いを疑った。
驚きと―――一縷の期待と。這うように急いだ机の上、その焦げ茶は静かにリンを待っていた。“棗の枝”がそこに。
箍が外れたようだった。とうとうリンは声を上げて泣いた。理屈や常識で決められた枠をかなぐり捨てて、駄々を捏ねる子供のように。
伏せた机に沁み込んでいく涙と咽びは止め処なく、塞き止めていた全てを解放して泣き続けた。
二度と戻らぬ意思を慎太郎はリンに伝えていた。邸から旅支度を持ち去り、妻の懇願を断ち切る事で。
だというのにどうだろう。
己に嘘はつけないと、全てを捨ててでも激動の渦へ飛び込む覚悟を見せた夫の“言えない言葉の代わり”が彼の枝だ。リンはそう理解した。
同時に湧き上がる歓喜。非情になりきれない男の優しい爪跡。それはリンをとうとう目覚めさせた。背を押すには、揺らいだ炎を取り戻すには十分すぎるものだった。
(私達は本当に回りくどい)
己の存在価値を夫の意思に託すしかなく、不安定に揺れ動くリンの“弱さ”はいつしか慎太郎へと移っていたらしい。
祝言の春の夜、慎太郎が見た儚いリンもまた、今はここにはない。ここに在るのは慎太郎にもらった“強さ”を宿したリンの姿だった。