慎太郎とその妻(未完:無期限更新停止)
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22.花散る褥
不安を抱えたまま、けれども日は流れていく。
慎太郎の戻った北川の村は相変わらずで、夏に向けた柚子を初めとする農準備に忙しい。
同時に土佐藩の中でも勤王党を巡る政治的事件による変動が相次ぎ、やはり慎太郎は村を離れる事が多かった。
皐月には長州が下関港にて外国の商船を砲撃したとの情報も伝わり、東へ西へと攘夷の活動は広がっている事が否応にも知れ渡っていた。
そんな中、ただただ現実的な話をすり抜けて流れ込んできた“お伽噺”がリンの耳に強く残っていた。
“下関の港に龍神の神子が降り立った”―――長州勢による残忍な外国弾圧の情報、一説では人ならざる力さえも動いていると噂される中で湧き上がるお伽噺が記憶に残った。
「龍神の神子と言えば…世界が荒廃する度に異世界より出でて、世界に平和をもたらすという…あのお伽噺の?」
久方ぶりに邸に戻った慎太郎に尋ねれば、彼自身も飲み込み切れていないのか眉間の皺を深くし、曖昧に答えた。
その見慣れたはずの仕草に、つきりと心を痛めながら質問を続けたのだが、この件に関しては詳しく知らないらしい慎太郎は曖昧な返答を返すばかりで会話らしい会話が成り立たない。
まるで立ち入るなと言わんばかりの対応に、ここのところ夫婦の会話は酷く少ない。
ただでさえ家に寄付かない慎太郎である、可能な限り話をしたいとリンは考えているのだが、慎太郎の方はどこか気持ちにずれがある事を認めざるを得ないところまできていた。
真っ直ぐにリンを見ない視線も、いつも何かを考えているような生返事も、深く、深く刻まれ続け、緩む事のない眉間も、全てがリンの知らない慎太郎であった。
慎太郎の考えを理解している―――そんな自信さえ、ここの所酷く脆さが目立っている。
日ノ本の暁を目指し、走っている姿勢は変わらないのに、暁目指すその目に自分が映っているのかさえ、リンは答えられなかった。
ここの所、土佐の中での勤王への弾圧も厳しさを増す一方であった。
龍馬が脱藩し早一年以上経過するところだが、土佐内での勤王は思うように進まず、地団駄を踏んでいるところも大きく関係している。
一方、長州、薩摩といった藩力の強い場所では大胆な作戦を決行することも多く、土佐藩内での活動の限界を勤王党員も感じているのかもしれない。
リンが読み取れるのはここまでで、実際はただただ夫の不穏な気に、翻弄される事しか出来なかった。
不安が拭えるわけでもなく―――自分への興味が削がれていくのを目の当たりにしながら、どうしてなのかと問う事も出来ない程に深まった溝を、受け入れるふりをするばかりで。
新緑映える皐月の景色も、八十八日の茶摘みを楽しむ余裕もないままに、ただただ激流に流れ行く窮屈な日々に閉ざしていくのは口か心か。
「――――慎太郎さん」
名前を呼べば、辛うじて振り返る夫。けれども返答はなかった。
「……いいえ、なんでも」
そして無言で横顔へと戻る。また思考の世界へと戻っていくのだろう彼は、眉間を深く刻んだ皺で、顎に手を当て瞳を閉じた。
まるでここには誰もいないかのような、無機質な仕草。ぴしり、とリンの心に亀裂が走る。傷付くだけだと分かっていながら、それでも声をかけずにはいられなかった。
それさえも止めてしまえば真の意味で繋ぐものが無くなってしまいそうだ。そう思ったからだった。
いつからだったか、言いようのない不安だけが纏わりついて離れない。
二人離れていても想いは一つだと。互いの道を歩みながら、けれどもその歩み野は同じ土だと―――心より信じられた幾年前の心は祝言の熱が見せた幻であったか。
そう、思い出としてしまう程に、リンの心は離れてしまっていた。あの頃から、ずっと、遠くに。
「出かけてきます」やはり上の空な音を含んだ“合図”を一つ鳴らし、慎太郎は邸を後にする。今日は源平と久々に視察に出るとの約束もそのままに。
物思いに支配されたような、やはり上の空な背はリンの脇をすり抜け流れ行く。「源平殿との約束は」そんな言葉ひとつ掛けられぬ唇が空回る。
「…いってらっしゃいませ」
消え入りそうな声だと“思った”。まるで他人事のような感覚に自傷めいた笑いが出たのが心地悪い。
程なくして源平が邸へと訪れた。頬を微かに紅潮させ、きらきらと純粋な瞳には期待の二文字を浮かべながら。
久方ぶりに慎太郎に仕事を教えてもらえる。そんな色をいっぱいに溢れさせる源平に告げる言葉は残酷だ。己の逃げの姿勢を酷く恨めしく思ったがしかし、後の祭りである。
我慢強いこの童にさえ無益な我慢を強いている―――大人としてこれではいけないと思いながらも、リンはただ曖昧な笑みを浮かべるに留まった。
情けない。心中で己に突き刺す言葉は降り注いでも、一歩踏み出すための勇気力が底を尽きていたのだ。
「慎太郎さんはお忙しい方。けれどもまた機会はあります。行って参ります」
「―――ええ。源平殿気を付けて」
残念そうな顔を見せたものの、素早く気持ちを切り替え前を向く源平の瞳は輝かしい。駄々を捏ねるわけでもなく、如何とし難い事態に腐る事もなく。
必要なものを取捨選択し前を向ける強さが酷くリンの目を焼いた。新緑の日差しの中へと出でる背中は小さけれども既に威風を追いに。
リンの背さえも微かに押したその風は、摩擦の熱でじりじりと心の地面をも焦がす。淀む思考を焼きつくし、リンに前を向かせるのだ。
「源平殿!」
思わず声を上げた。随分と小さくなった源平が驚きを携え振り返る。滅多な大声を上げないリンに驚いたか、今にも駆け戻りそうな足の向きだ。
それを手で制し、けれどもかける言葉なく問惑う唇は空気を紡いで震えていた。なにか、声をかけねば。そう思うのに、気の利いた言葉ひとつ出てこない。
呆けた顔が再び堂々とした顔つきに戻る頃、源平はくるり方向を変え、リンに再度己が背を見せた。そして上げられた右手。
「心配召されるな」言葉なくとも表情無くとも、リンにはそう伝わった。人一倍、周囲を見渡せる童である。それだけで十分だった。
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「(いつまでも不安に殺されていてはいけない)」
慎太郎の態度が冷たくなろうと、心の内に燃える思いは何一つ変わらないのだ。
愛されたいなどと願った事はなかったはずなのに、夫婦という約束を交わし、中岡の女として生きる事に固執して自分を見失っていたのかもしれない。
誰かのためではなく、自分自身のために。傷付きやすい心はそんな当たり前の理さえ、簡単に壊してしまう、愚かな性分である。理解はしていた。
慎太郎が党の事で余裕が無いのなれば、せめて家では羽根を伸ばす時を過ごしてもらいたい。
上の空で素気ない慎太郎の横顔が脳裏をよぎり、胸の奥がきりりと軋むが、リンは頭を振ってその記憶を打ち消した。
愛されていないはずがない。だって。―――だって。からからに乾いた心が脳へと問いかけるがリンはそれを振り払った。力付くでも構わない。
今はただ、嘘でもいい、強がりでもいい。源平により払われた暗雲を再び心に入れたくはなかったのだ。
誓ったではないか。自分の意思で彼についていくと。その為に己を鍛え上げるのだと。胸に再度言葉として飲み込んでみる。
時勢に逆らう愚かな選択をそれでも肯定した家族、そしてあべまきの姿が胸に灯った。
時間は有限。状況整理を程々に、リンはいつもの家内業務へと取り掛かる。
前もって汲んでおいた水桶で洗濯を。
いつもならば昼に一度邸へ戻る源平の為に昼食の拵えが必要であるのだが、この日は慎太郎と回る予定だったため出際に弁当を持たせてある。
小傳次はここの所、朝から近所の飲み仲間らと出かける事が多く、この日も家を留守にしていた。
開け放した襖、障子の向こう、庭の木々は青々と葉を茂らせ透き通る空の青が一層それを引き立てる。
時折吹き込む風は青い香りを運び、乗せる温度は肌熱く、季節の移ろいをリンへと教えた。
「…いいお天気」
目が痛むほどの快晴を見上げれば自由に泳ぐ鳥の影。踊るように、泳ぐように淀みないその流れに、己と夫とを重ね見ては、一度、息を吐き出す。
淀みがすっと、溶けていく気がした。
今日は皆帰りが遅い。久しぶりに塵一つない邸にしてみようか―――湧きあがった悪戯心のような高鳴りに、リンは一人笑う。
太陽の力とはなんと偉大なのだろうか――机の上に山積みにした記帳には見てみぬふりをし、手早く桶と古布を取り出した。
「小難しい話は後だ、後!まずは思いっきり体でも動かさんと気持ちも固まっちまう」―――太陽のように笑う男の声が聞こえた気がして、リンはもう一度一人笑った。
「たまには―――いいよね」
慎太郎の留守を預かるようになり、一日休まず続けた記帳に問いかける。
ぱらり。吹き込む風に捲れた表紙が肯定の証に思え、リンはそれに礼を伝え、一番奥の義父の部屋へと向かっていった。
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質素な邸である。欄間や書院の装飾も最小限の造りである。
普段この屋敷にはリンと小傳次しか生活していないわけであるから、そうそう汚れる事もないのだが、それでも春の風が心地よいからと、日中開け放していた埃はそれなりに乗っている。
繊細な木細工が施された真っ直ぐな障子飾りを折らぬようにと布を進めれば、水を吸ったそれらは礼にと本来の木の香りを漂わせる。
自然の香り。酷く懐かしく感じた。
そうこう夢中になっている間に日は傾き、気付けば部屋の中には深く影が差しこんでいた。
日が長くなってきたとはいえども季節は未だ春、昼間蓄えた日の温もりが消え去った邸はひんやりと静まり返っている。
西より差し込む惜しまれ陽は周囲を橙へと燃え染めては、部屋の隅々に影林を茂らせた。ただただ黒く、物言わぬ闇の森。
いつもならば小傳次がいる。いつもならば源平が夕餉を食べていく。
常に人がいる邸に慣れていたらしい体は、しん、と音の無い林に言いようのない孤独を感じ取っていた。
じりじりと焼け付く西日の影林は黒く、暗く、部屋を闇へと取り込んでいくようで―――その様に、リンはどこか嫌なものを感じていた。
「………」
ちらり、と視線を配る。無論ここには誰もいない。肌を刺すような無言の圧力に目が眩む。
決して広くはない畳間が途方もない無限の荒野のように感じられた。身震いが一度背に走る。無意識の内に、リンの足は鍛錬用の薙刀の方へと進んでいた。
しかし、その行く手は突如遮られる。―――がたん、がた。耳の奥に微か届いたのは“侵入音”だった。
「(―――!)」
全身が瞬時に粟立った。ほんの一瞬前、全身に張り付いていた“嫌な予感”は誠の異変と相成りてて警報を鳴らす。今度のものは本気で。
ガンガンガンガン、脳内で煩く鳴り響く緊張の弦は心臓へも張り通され、振動の激しさに苦しみ喘いだ。
落ち着かなければ、辛うじて脳の端で叫んだ理性はリンに深呼吸を促す。少し、手の震えが収まった。
しかし、その間にも侵入者の足音、気配は確実に明確になっていく。
混乱に飲み込まれたら終わりだ―――理性が言葉を続けると、リンは一度瞳を強く閉じて気配を殺し、闇へと溶かしていった。
足音を立てずに方向を変え、摺り足で廊下を抜ける。掃除中であったため、各部屋の襖が開け放たれていたのが幸か不幸か。
近づく気配、足音を懸命に拾いながら部屋と部屋とを移動する。
何者かの足音は遠慮もなく部屋を渡り、事務の間へと抜けていった。リンのいる位置とは真逆であり―――好都合だと思った。
薙刀は生活の間に置かれている。急ぎ確保し、再度、廊下に近い壁へと背を付ける。淡闇が輪郭を溶かす廊下の奥、はっきりと聞こえて来たのは複数の男の声であった。
「(……どうすべき、か…)」
リンはごくりと唾を飲んだ。耳を澄ませて拾った“侵入者”の声は低く、男のものだと推測される。
声色からして数は恐らく二だと思われるが、同時に二つを止める事が出来るかといえば自信はなかった。
このまま息を殺し、男らが立ち去るのを待った方がいいのか。それとも打って出るか―――今事務の間で物色をしているであろう輩の目的は分からないが、金品目当てであるのならば時期に生活の間へと歩を進めるだろう。
悠長に構えている時間は無かった。
事務の間に敷き詰められた帳簿そのものに然程大きな情報などはない。質素堅実な中岡の家だ。金目のものも揃っているとは言い難い。
めぼしいものは何もないと立ち去ってくれる可能性が高いのではないか、リンの算盤が結論を弾いた時である。一等大きな床板の悲鳴が耳へと届いた。
男らが生活の間へと踏み入れた音だった。一気に緊張感が高まる。
息を潜め、一番の奥、小傳次の部屋の押し入れの中に潜んでいるとはいえ、男らの不躾な動きに平常心でいられるはずもない。
悪態をつきながら戸棚を開ける音、ばさばさと何かが落ちる音、その全てがリンの心から次第に冷静さを奪っていくのだ。握り締める薙刀の柄は手汗で滑った。
「何もねえじゃねえか!」
とうとう男らは見切りをつけたらしい、最後の捨て台詞に肩は跳ねたが、同時に奇妙な安堵も感じていた。
ばくばくと煩い心臓が微かな希望を拾ったのを皮切りに、リンは少し体の緊張を解き、押入れの壁へと耳を寄せる。
すると聞こえてくるのは男らの行動の詳細音であった。何かを擦る音、引きずる音、リンにとっては日常の生活音であったそれだが、他人によって生ずる時、それは酷く不快な音を立てて耳に届いた。
大切な邸、中岡の敷地を土足で踏み荒らされていく屈辱。それを感じながら、押入れを飛び出す事の出来ない自分。
やりきれなさから唇を噛めば、ぎりり、と皮膚が軋む音がした。―――それと、男が感嘆の声を上げたのはほぼ同時であった。
「これ、更紗じゃねえか!」
「(!)」
柚子の棚。その奥に大切に保管してあった、慎太郎の江戸土産の更紗の小袋。目ざとく男らはそれを見つけていた。
「(…駄目!)」
既にそれは理屈ではなかった。理性の枷はあっという間に外れ、押入れの中で空しく転がる。
いつの間にやら乾いた薙刀の柄は恐ろしくも冴え渡り、鍛錬の時以上にリンの身に馴染み形を成している。
突如現れたリンの姿に驚いた男達は二人。薄汚れた髭面を隠しもせずに驚かせ、片手に古びた獲物を、もう片手に更紗袋を掴んでいる。
闇林をひゅんと裂いて、リンは薙刀を向けた。
「それを離しなさい」それはお前たちが触れてよいものではない。
リン自身も驚くほどに冷たく鋭い声だった。薙刀の次に林を裂いたその声に、男らの意識も呼び戻される。
ニタニタと下種た笑いを顔に貼り付け、女だ、女だと嘲笑った。
二度言っても通じまい。男の手に握られた更紗袋が気になるが、けれどもリンの意識を支配していたのはただただその中の“大切なもの”を守りたい一心であった。
「―――っ!」
回り込まれる前に。刃先を一回し、左手前で様子を窺う一人の足元に落とせば、間一髪のところでかわされる。
暗い室内の足場の悪さに踊る男の重心の膝裏に峰を叩きこめば、男は呻き声をあげて膝を崩した。激昂した男は刀を振り上げたが、薙刀の間合いの広さの前では刃先はリンには届かない。
痛みに崩れ落ちる一人を間に挟み、リンは間合いを取った。リン、男、そしてその奥、更紗袋を握りしめるもう一人――――。
女相手と油断していた己の落ち度に顔を歪める男は醜く歪めた瞳で、リンを強く睨みつけている。その気迫に、一瞬、リンが怯んだ。
咆哮。まるで獣のような怒号を上げ、男は刀を振り上げた。その熾烈さに反応の遅れたリンは、投げつけたられた更紗袋を避けきれずに顔に喰らう。
瞬間、崩れたリンの間合いに、出来た事と言えばがむしゃらに薙刀を振り回す事だけであった。けれども幸か不幸か、刃先は男を、そして間に挟んだもう一人をも怯ませる。
剣術を嗜んでいる武士であれば太刀筋など用意に捌けたであろうリンのそれでも、男らにその技量はなく、闇を裂く力任せの刃筋に一進一退の攻防は続くばかりである。
「このアマ!!」
「やめろ、この……!くそ!」
「出ていって…!ここから―――ッ 出ていけッ!」
型も何もない、ただ力任せに振り回し、薙ぎ下ろすだけのリンの防御であっても、先に一人降した事が幸いしたらしい。
いつ刃先が背を切り裂くか分からぬ恐怖と、立ち上がれぬ膝の痛みとで戦意を失っている男は、とうとう撤退を乞うたのだ。
やりきれない怒りを目にぎらぎら焚き付けながら、けれどもこの状況で盗みは無理だと判断したらしい男は、一歩間合いを詰めて古刀でリンの薙刀へと一太刀浴びせた。
からん、小気味よい音が闇林に響いて、薙刀は簡単にリンの手から吹き飛ばされた。男は時節だと思ったか、踏み込みそのまま、勢いでリンの胸倉を掴みあげる。
細首を掴み、柱へと叩き付けた。恐ろしく強いそれは容易くリンの首を締め上げる。唇を噛んだ時のような、皮膚がもつれる音がした。
苦しい、息が出来ない。リンより一回りは大きかろう男の手が喉に食い込み、獲物を掴んだ鷲のように首へと爪が食い込む。ごり、と首の筋が悲鳴をあげた。
死の間際の金魚のようにぱくぱくと口が動くのを見た男は怒りを恍惚へと変えて見下ろしている。見開いた眼は、泣いていた。
「か……っ……あ…」
死を垣間見た。振り上げられた刀が振り下ろされるのか、突き刺さるのか。このまま締め上げられて死ぬのか、いずれにせよリンは己の終焉を覚悟した。
どれほど暴れても男の足腰一つびくともしない。近くに転がるもう一人の尻を、腰を、蹴り上げるだけで、どうにもならなかった。
美人なのに勿体ないなあ、舐めるような言葉が聞こえたのが最後だった。酸欠により遠ざかる意識と目の前の光達は、リンの視界にも闇林を茂らせる。
膝がとうとう諦めを始めたその瞬間、突如林に突風が差し込んだ。
「リンさんを離せッ!この悪党共―――ッ!」
外回りより帰って来た源平だった。勇敢に林を裂いて賊らへと立ち向かう。源平に気を取られ手を離した男は、リンに背を向け源平を振り返った。
急激に取り込まれた酸素に眩暈を起こしながらも、飛ばされた薙刀へと手は伸びていた。源平を守らねばと思ったか、ただただ本能であったか、既にリンには定かではない。
朦朧とする意識下、記憶に残るは、しのぎで叩き付けた賊が林の底に沈んでいく姿。リンの手は、酷く痺れていた。
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その後帰って来た小傳次により、伸びた賊二人は穀物庫に厳重に閉じ込められる事となり、夜が明けたら安芸の奉行所へ連れて行かれる事に決まった。
賊らは邸を物色し荒しはしたものの物が盗られた形跡はなく、その点に於いて中岡の人間は胸を撫で下ろす事となった。
泣きながらリンの身を案じる源平も今は家へと帰され、また、小傳次にも人払いを頼んだリンは一人、夫婦の間で書院に凭れ、蹲っていた。
締め上げられた喉は動かすだけで痛みが走り、脂汗が額に滲む。けれど、それよりも何よりも何も出来なかった己の未熟さがリンには痛かった。
男に荒された戸棚―――奥に置いた大切な“宝物”。賊の汚れた手で握り締められくしゃり潰れた更紗袋。そしてその中の“夫婦の証”。
「……う……うう…」
強く握られた更紗袋は歪めどもその中、櫛だけは無傷でリンの手に抱かれている。襲われたというのに奇妙だが、彼女はそれに酷く安心していた。
病める時も健やかなる時も共に。慎太郎がリンとの祝言の証として送ったこの櫛をリンは殊更大切にしていたし、また唯一、目に見える夫婦の証として拠り所としていた。
櫛を守れた喜び、鍛錬の成果が為せていない現実、そして、男の腕力という恐怖に、リンの心は乱されていた。櫛を探し、込められたあたたかな記憶に縋らずにはいられぬ程に。
「(櫛を守れてよかった…でも、全然…太刀打ちなんて…出来なかった)」
喉が痛む度に薙刀が残した手への痺れが蘇る。まともな抵抗も出来ないままに力でねじ伏せられた現実。
死への恐怖、抗えない暴力。それらはリンにひたすらに悪夢を見せ続けた。
どれくらいそうしていただろうか、小傳次が差し入れた夕餉もすっかり冷え切って、月が煌々と輝く夜半の頃。邸の奥――入口付近から夜の静寂を切り裂く足音が響いた。
それは夕暮れの侵入音と酷似しておりリンは体を強張らせた。荒々しい音は近づき―――戸を開ける音へと変わる。
「…リンさんッ!」怒号にも似たその声は、誰より愛しい夫の声であった。どれほど混乱していようと聞き間違うはずもない。
それは普段の行儀良さを取り払った騒々しさで邸を駆け回っている。リンが声をかける間もないまま、襖は開かれ、慎太郎が夫婦の間へと出でた。
リンが凭れる書院から南の空月は慎太郎のいる北襖を照らし、真っ白な夫の顔が浮かび上がっている。
いつもは几帳面に整えられている髪は乱れ、顎を伝う雫はきらりと光る。
広い肩は上下に大きく揺れ、普段閉じられがちな瞳はまるく、まるく見開いており―――リンンの姿を捉えるや否や、そこへと駆け寄った。
「………っ」
「…慎太郎、さん。なんて顔」
「俺の事などどうでもいい!」
この後に及びても感情的になれない女が放った軽口に、返されたのは感情ままの怒声だった。予想しない大きさにリンの肩が大きく跳ねた。
間入れずに伸びてきた男の手はリンの両頬を掴んで上を向かせる。既に影に入った夫の瞳は暗かったが、ギラギラと燃える怒りの気迫を感じ取っていた。
怒りは怖い。リンの心臓はぐらぐらと揺れ、痛みを交えて助けを請うていた。何に怒っているだろう、この男は。
賊の所業にだろうか、家を守れなかった女の弱さにだろうか、それとも――――。
隠しきれない程に怯えているくせに、それを唯一の夫にさえも隠そうとする妻の愚かさにだろうか。
「…ごめんなさい、守れなくて。でも、私、頑張ったんですよ。源平殿も本当に立派に力となってくれました。私、もっと己を鍛えます。此度の騒動で学んだ事がたくさんあるんですよ。次はきっと―――ううん。次が無いような、そんな北川村にしてみせますし」
「――――っ、リンさんッ!」
「だから!………だから…」
「先程から勝手ばかり―――…っ、俺はあなたの何なんです!」
突き抜ける猟丸のようだった。闇を切り裂く叫びはリンの楯をも裂き、真っ直ぐに月へと昇って行った。
ぬるりと滑る男の手のひらがリンの頬を滑り堕ち、力なく畳に転がる。暗く燃えていた瞳は既に淀んでいた。底の無い沼のように冷えたそこに、夜明けの光は見つけられない。
ああ、駄目だ。リンは思った。また、この人を足止めしてしまっている。と。
リンはただ願っていた。慎太郎が己が夢を叶える日を。この国の夜明けを、愛し人が生きるこの国を暁に照らすと誓ったあの願いは、決して慎太郎だけのものではないのだ。
彼のように志士として大地に出でる事は出来ない。海のように包む事が出来るわけでもない。
なれば、ただ、彼が真っ直ぐに道を往けるように道を整える事こそ己が道だと思っていたのに。何が足りないのだろう、リンはぐるぐる思考を回す。
「(だって)」
諦めにも似た思考の端で、音にならない言葉が浮かんで消えた。“だってあなたは気付きすぎる”
しっかりした妻を演じようと家事も仕事も武道も、頑張ってみたところで、この男はそれに騙される事は無い。
その奥にあるリンの孤独と強がりを見抜いてしまうのだ。そしてそれを助けたいと思い悩む―――それはまた、彼の夜明けへの歩みを止めるものでしかないのに。
いっそ責めてくれたら楽だった。“振り返られたくないのならば、そう振舞え”と。
真綿で首を絞められるのはもう耐えられなかった。
「(こんなに愛おしいのに、どうして息が出来ないの)」
どうしてうまくやれないの。涙ながらに絞り出した言葉に、慎太郎は大きく震えていた。
顔を逸らせば口づけしてしまいそうなゼロの距離で、けれども二人は触れ合えない。しゃくり上がる肩を堪えて、喉の痛みに顔を顰める。
慎太郎はもう、何も言わなかった。
「………あなたの事を愛しています。ただ、それだけなんです」
騙されてほしい。そうでなければ嘘をついて、酷い男を演じてほしい。
勝手な願いを乗せて呟いたあいのことばは、それでもリンの本心だった。
慎太郎はやはり何も言わず、ただそっと息を殺してリンの傍に在った。どこかで軋む音がしたのは心か、それとも彼の奥歯だったか。
とうとう顔を上げる勇気も出ないまま、夫婦とは名ばかりの二人の男女は夜を涙で滲ませる。夏も近づく初夏の夜であるのにこの日ばかりは殊更寒く感じられた。