慎太郎とその妻(未完:無期限更新停止)
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21.善哉と更紗
眠れる獅子の懐で共に眠りについていたはずの子獅子の泣き声は、ある時を境に冴えた“声”へと変化を遂げる。
子獅子は言葉を覚え思想を携え、あらゆる声で獅子の目覚めを誘った。
死んだように眠る老獅子は微かに瞼を動かしたが、けれどもその目を開かせはしない。
これでもか、これでもか―――折れぬまま鳴き続けた子獅子はいつしか若獅子となった。各地で己が風雲をと胸に抱き、信念を刀に乗せ振るい舞う。
血が血を洗う戦国の世は終えた―――太平が訪れた葵の世は今や腐敗し枯れ行くばかり。
「今こそ夜明けを。輝ける日出る国を、今一度ここに」若獅子らが揃い抱いたその想いは今日も各地で叫ばれている。
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雪が降り、幾度目かの暮れ、正月を経て、リンはまだ北川で空を見上げていた。
この日の天気は生憎の曇天。
吐き出した白い息がこの後の雪を暗示している。
幾らか羽織を増やし、リンは庭で組んだ石の釜戸で小豆を煮ていた。
傷物だからと近所よりもらったものであったが、小判型の赤茶色の曲線はふっくら盛り上がり、豆特有のほろりと崩れる食感を楽しませてくれるだろう。
そんな想像に期待が膨らむ。蒸気で曇る鍋の中へと入れるのは大切に保管しておいた砂糖だった。小豆も砂糖も、幼い頃より憧れたハレの日の食材である。
作っているのはぜんざいだ。源平もさぞ喜ぶ事であろう。想像で、心の中は賑やかになり口は綺麗な弧を描いた。
「おいしいです」
「よかった」
頬を赤くし帰って来た源平を火鉢に寄せ、なみなみ注いだぜんざいを差し出せば、一層頬を赤くして喜ぶ姿を見せてくれた。
周囲に一人前だと称されても、いくら大人びていようとも、源平はまだまだ十にも満たない童である。愛らしい反応にリンもつられて笑った。
仕事の方はどうだと尋ねれば、胸を張って答える庄屋代理に、心強さと少しの後ろめたさを感じる。後者を器用に隠してリンは一度微笑んだ。「ありがとう」と。
いつもならば奇妙に首をかしげる源平も、今日ばかりはぜんざいに夢中で気にも留めない。
一歩、また一歩と確認する北川への置き土産を記しながら、右の二の腕に手を這わせれば、そこもやはり、力が付いてきていた。
「リンさんはもうお聞きになられましたか。江戸の公使館襲撃の話です」
「噂では、少し。長州藩が関わっているとか――――」
二の腕がぶるり震えて椀の中がのろりと波紋を作る。リンは国の外の事を詳しくは知らない。
小さな北側の山間でひっそりと暮らせられたらそれでよいと願った娘だ、いくら書物を読み漁れども途方もない海の先の世界の話など、興味が持てるはずもなかった。
それでは駄目だと思いながら、震える手で書を開いたのはほんの幾月か前の事で、けれども量に乏しい外の世界の事などは、知る事も出来なかった。
遠い遠い江戸の海域で繰り広げられる思想蠢く政治話も、北川に伝わるのは幾月も後の事。
人伝いに蔓延する噂はただただリンの耳に恐ろしい想像を掻き立てるものばかりだった。
思えば十年ほど前の事―――浦賀の港に異国のそれはそれはおぞましい黒船が現れたという―――外の話。
「…外の国の事は私にもよく分かりません…。でも、長州と行動を共にする事の多い慎太郎さんだから―――大事無ければ、いいのだけれど」
「これも噂ではありますが、慎太郎さんは藩でも名のある藩士様と行動を共にされているとの事ですから…リンさんが心配する事は無いと思います」
「ええ―――……、そうね」
黒い霧を振り払い、リンは源平に微笑む。少し冷めたぜんざいを含むと、変わらずの甘みが口の中に広がった。
優しい心根の源平はリンの些細な表情の変化を読み取り、よく励ました。
利発そうな眉立ちが日に日に自信を得て、きりりと整い行くのは逞しく、また、保護者のように微笑ましくも思う時もある。
今では庄屋仕事の大半を源平に任せており、リンは御用聞きを担う形で北川村を支えていた。
源平が視察へ向かう間に家の中の事をこなし、合間に武術の真似ごとを行い、十日に一度、近所の若者に護身の稽古を付けてもらう。
畑に出でた頃のように季節を感じ、野菜の成長を見守る事が無くなったものの、日に日に変わっていく己に、源平に、世の中の動きに、飽きる事も満足する事もない。
ただただやらねばならぬ責務をこなし、淡々と鍛え上げるリンの姿は、どこか慎太郎に通ずるものがあったのだが、それに気付く者はここにはない。
ただ、聡い童庄屋だけがリンの視線の変化に気付きつつあったのだが、けれどもそれを解き明かす程の経験はなかったのであった。
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慎太郎が江戸より役目を終え帰藩したのは、冬が明け、桜が散り、地面が臙脂色の萼片で染まる卯月の末の事である。
長州絡みの暗い噂に辟易しつつも待ち続けた甲斐があり、怪我なく帰藩した慎太郎であったが、その目に映していたのは見た事のない複雑な色だった。
江戸での経験が更に彼を大きくしたのだろうか。困惑に満ちていたかつての揺らぎは鳴りを潜め、安定していた。けれども昔のようにただ純粋な夜明けの輝きを秘めているだけではない。
言うなれば不透明な鈍い輝きだとリンは思った。そっと近寄り、声をかける。
するといつも通りの柔らかな―――不器用な笑みを湛えて、微笑みかけるのだ。「リンさん、ただいま戻りました」と。
そんな何気ない一言にリンがどれほど喜んだのか、慎太郎は知らないだろう。泣きそうになる緩い涙腺をキッと引き締め、迎えの言葉を浮かべた唇は、不器用に吊り上っていたのに。
「江戸はいかがでしたか」
「いや、思う以上に進んでいるようでした。何が、とは説明し難いのですが…とにかく―――いや、リンさんの蓄えがとても役立ちました」
「…無事でなによりでした。…ここにまで江戸の公使館襲撃の噂が入って来ていましたから」
江戸での活動につき、曖昧な言葉で語ろうとしない慎太郎を咎める事は出来なかった。
何より彼が無事に帰って来たことに満足していたリンの胸はようやく萎んだといった具合で、それ以上を追求する余裕はない。
久しぶりの帰宅事情も相重なり、来客とその対応に追われている内に日は暮れ、リンと慎太郎もようやく二人で向き合えたという状態である。
既に陽は落ち、辺りは暗闇が満ちる紛れもない夜。見上げた夜空の彼方、春の霞みに輪郭を溶かす月が浮かぶその下で、傾ける盃に注ぐのに忙しかった。
「…もうお休みになりますか?」
初めは上々に流し込んでいた慎太郎の酒手も、五杯傾けたところでぴたりと止まる。宵闇が隠す夫の視線もどこか虚ろで、目尻に疲労が見て取れた。
酒が回って体が温まった効果か、はたまた家に戻った安堵で気が緩んだか、いずれにせよ全身から垣間見える疲労の色が気になったのである。
返事のない夫を尻目に、リンは寝床の支度を勧めた。この日の為にと頻繁に干しておいた布団は陽を吸ってふわりと膨らみ、触れるだけで優しい温もりに包まれる。
きっと慎太郎も心地よいだろう―――そう思い声をかけたのだが、反応が薄い。小さく相槌を打つような声が届くのに、心ここに在らずと言った様子であった。
「具合が悪いのですか――悪い酒でした?」
「………いえ」
疲れに注ぎ込んだ酒が悪酔いを引き起こしたかと問うても返ってくるは生返事。どうしたものかと首を傾げて思案すると、とうとう何かを決意したかのように慎太郎が動いた。
のそのそと熊のような動きで部屋の隅にまとめた風呂敷を漁り、ひとつ掴んで戻ってきた。突き出された手から受け取ったのは一つの小さな布袋。
夕陽を思わせる茜色や桜園の地を染める萼片の臙脂のような。何かの植物を象ったような緻密な曲線で描かれる文様は馴染みの無い、異国の様相を思わせる。
美術品に明るくないリンの目をしても、それが良い品物である事が分かる。思わず手を出し受け取ってしまったが、どうしたものかと慎太郎へと訴える。
「これは?」
「江戸更紗という染めの一品です。元は印度より伝わった染めの技術らしく、…その、物珍しかったので」
「…私に?」
「―――ええ。思えば気の利かない事ばかりだと、源平に諭される事もありましたから。…その、夫婦の証である櫛でさえも満足に選べなかったくらいでしたし」
祝言を挙げてからも慎太郎は何かと忙しく、龍馬に呼び出されては家を空ける事が多かった事を思い出した。
あの頃もこんな春の日で、慣れない大庄屋の慣習に追い詰められて泣いていた夜。まだ肌寒い夜、朧気な意識の中で滲む視界そのまま、強く厚い胸に抱きしめられた事を覚えている。
幼子をあやすようだった優しい抱擁が酷く懐かしい。つとつとと話す慎太郎の言葉選びも、風貌も、二人の関係も何もかも変わってはいないはずなのに。
手元の華美な更紗袋が「違う」と告げていた。
慎太郎、そしてリンを取り巻く世界は確実にその範囲を広げている。
「櫛を入れても?」慎太郎の返答を待たず、髪から櫛を抜き取れば静かな間に枝垂れる髪音がやけに響いた。厳かな儀式のようだった。
祝言の折にそっけなく渡された櫛ではあったが、二人を夫婦付ける明確な証であるそれをリンは深く慈しんでいた。それを今度は更紗へ閉じこめる。
悲しいくらいにそれはぴったりと収まった。
櫛を外す日など、来るはずもないのに、まるでここが定位置であるとでも言いたげなようで。
「ぴったり、ですね」
胸に落ちた淀みを誤魔化すよう、わざと明るい声でおどければ、慎太郎もつられて笑った。
近しい大きさのものを選んだけれど、まさかここまでちょうどいいとは思わなかった、と。
久方ぶりの顔合わせだというのにまるで日常な会話を続ける今に、リンは言いようのない空しさを覚え始めている。
もっと、感極まると思っていたのに。この更紗は―――いったいどんな気持ちで選んだのだろう。それは慎太郎の口から語られる事はなかった。
源平の助言で選んだだけなのだろうか。櫛を外せと言いたいのだろうか。ただ単に物珍しい江戸の土産のつもりで選んだのだろうか―――疑問が溢れて消えていく。
他愛もない疑問の言葉でしかなくても、今のリンにそれを問うだけの度胸は無かった。恐ろしいまでに臆病をこじらせたこの胸が痛もうとも、それでも。
「―――大切にします」
それよりお疲れでしょう。襦袢を用意しますから。慎太郎の顔をこれ以上見る勇気はない。
返答を待たずてきぱきと床入りの準備を進めるリンを慎太郎も引き止めなかった。やはり酔いも回っているのか、いつもよりも覚束ない足取りがその証拠で。
ありがとう。届いた言葉にそれ以上の意味は含まれていなかった。
淋しかったのは私だけ。
嬉しかったのも私だけ。
こんなに近くにいるのに遠く遠く感じる夫の存在に、いつかの春の夜が重なった気がした。
あの頃よりも生温かい春風が吹きこんでくる床の間に、月の光がただ冷たく差し込んでいる。いつかの春の夜のような祝福の桜吹雪はない。
あたたかい布団につつまれた慎太郎は程なくして眠りについたのか、微かに寝息が聞こえている。二人の間に、二人がいる。決して夫婦と言う一人でもなく、ただ、二人。
「(とうとう必要なくなってしまったでしょうか)」
共にここを捨てる覚悟は出来ている。
もしも彼が置いて行こうとしたのなら、後を追う覚悟も出来ている。
けれど。
「(私に愛想を尽かしてしまったのなら―――わたしは、)」
追って行けるだろうか。
あの優しい顔で否定されたら―――私はその時、立っていられるのだろうか。
その時を垣間見て、リンの背に氷のように冷たい戦慄が走った。真冬の極寒のような心地で思わずその身を抱きしめると、両腕はいつかの腕とは似ても似ない。
しなやかに鍛わった腕に、体に。その為に毎日を過ごしてきたというのに、今さら何を迷う事があるのだろう。
「泣くな。泣いたって何も変わらない」自分に向けて投げかけても、両の目から溢れる涙は止め処ない。
ふたりでいても拭えぬ不安の霧を、どうすれば払う事が出来るのかなどと、リンには皆目見当がつかない。
ただ一言「不安なのです」そう告げればいいだけだと知りつつも、もしも拒絶された日をと思えば、その言葉すら飲み込んで踏み締めた。
愛されているか分からないなどと、恐ろしくて言えるはずもなかったのだ。と。