慎太郎とその妻(未完:無期限更新停止)
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20.江戸へ
北川に留まった春の日は、冬解けの陽気が見せた春霞ではないかと疑うほど、慎太郎の姿は北川にはなかった。
帰藩したと思わせながら、すぐに武市の招集で家を空ける。
はじめの内はそれでも家へと帰ってくる日があったのだが、三日、十日、ひと月、ふた月―――時を重ねる毎に帰らぬ日は増え、不在が常となった頃。
季節はぐるり巡りて秋を迎えていた。
夏も柚子の生育は思わしくなく、けれども懸命に根を生やす柚木に励まされながら北川は細々と月日を重ねていた。
頂に仰ぐ葵紋の歪みは時が経つに連れて如実にその姿を現してきていた。
幕府の力で抑えられていた若者達は志士として立ち上がり、義を得るべく狼煙を上げ始めている。
農村部に生きる民には分からぬ情勢であったが、水面下で、あるいは権力と思想の渦巻く主要都市部では日夜、血生臭い諍いが沸き起こっていたのは事実である。
鎖国体制を続ける日ノ本へと開国を迫る外部諸国の圧力凄まじく、ここの所は下田、江戸を望む異国船の影があるという噂も実しやかに囁かれた。
この国はどうなるのか…目下の志士らの活動ももちろんではあったが、人々の不安を煽ったのはこの国の行く末の不確かさである。
噂が噂を呼び、口を介し、いたずらに広まる異国の情報に、リンもまた北川で背筋に冷や水を浴びていたのである。
文久二年の秋の末、久方ぶりに家に寄付いた慎太郎の口から語られたのは、色よい花言葉などでは、やはり、なかった。
「…江戸へ?」
「……はい。此度は藩命で。詳しくは話せないが…久坂殿と行動を共にするかと」
引きとめる言葉は持っていなかった。
膝の上で握り締めた両拳だけは正直な表情をしていても、やはりそれを表に出す事は出来ない。
リンは無言で立ち上がると、柚子香るいつもの戸棚より一つの袋を取り出した。いつかの京への遠征の時よりも一回り以上大きな、金子袋である。
荒縄食い込む痛みをこらえ、こつこつと貯めたものであった。使われる日が来ない事を願いながら、けれども袋は律儀にも重くなるばかりで、言いようのない空しさを感じた日々を思い出す。
同じように、無言のまま。リンはそれを慎太郎へと渡した。
勤王に走り回るようになってから、一層伏し目がちだった彼の目が開かれる。
こんな額を。いつの間に。まるい瞳が言った。
「お上からの…大切なお勤めなのでしょう?…どうか期待に応えて来てください」
それからの慎太郎の言葉は記憶になかった。それ以上を聞きたくなくて、リンは耳を閉ざしていた。
思えばこの頃から慎太郎の瞳からは“迷い”が消えていたように思える。きらきらと輝いていた夜明け前の瑠璃色はすっかり淀み、血黒の如き沼眼を転がすような。
真っ直ぐすぎる視線だけはいつの日も変わらぬままであるのに、ただ、そこに“リン”の影だけが無くなってしまったような。
不安に膝を折ってしまいそうだと思った。
彼が望んでくれないのなら―――彼を求める事は悪い事のような気がして。
「…どうか生きて帰ってきてください」
「大げさだな」
困ったように笑う、大好きな夫の笑顔さえも、この時ばかりはおそろしくて、たまらなかった。