慎太郎とその妻(未完:無期限更新停止)
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18.真綿の春鎖
何もかもを傷つけずになど、不可能な事、知っていたはずなのに。
雪が溶け、小川の水は零れ落ちそうな程になみなみ蓄えて止まるところを知らず流れいく。
陽の光でゆるやかに溶け、地に沁み、地層を経て濾される地下水の、ここのところの質は上等で、澄んだそれらを味わう事が日々の小さな楽しみとなっていた。
紫に染まる夜明け雲。
次第に空色に溶け込む頃合いで、手早く身支度を整え外に出る。リンの両手には手桶があった。
まだ少し薄暗いその時間、人々に触れられていない一番の水で米を焚くのがリンのこだわりだった。その為ならば、毎朝の重い水汲みであってもさした苦痛でもなかったのである。
光が無くとも透明度が分かる程に澄んだそれらが桶に溜められていく様子は、何度見ても清々しい。
まるで手酌の酒のようだ。
とくとく、なみなみと溜められていく淀みない水のさまが、心を洗うと表そうか、朝の静けさに添うような慎ましい空気が心地よかった。
春の朝の、ほんの少し肌寒い気温さえ受け入れてしまいそうになるこの瞬間もとうとう終わりが訪れる。
桶の水面が冴えた。
さてこれからはこの水を零さぬように戻るだけ、そう思い立ち上がったリンの視界の端、右脇に抱えた両桶が突如姿を消す。
驚いて後ろを振り向けば、そこにはまだ眠っているはずの人の姿があった。
「慎太郎さん」
「…あなたは。いや、…俺を頼ればいいと言ったはずです。この水の量、運ぶのも一苦労だろう」
「けれどもぐっすり眠っていたので。起こしたくなかったのです」
ひょいと桶を持ち上げる逞しい両腕。身支度を整えたリンとは違い、寝間着のまま飛び出して来たらしい慎太郎は困り顔のままため息をついている。
よくよく見れば髪は跳ね(とはいえいつも外に向かって跳ねてはいるのだが)、目はいつもよりも閉じ気味だ。
ぐっすり眠っていたと思っていたのはリンだけであったか。いいやそうでもない。確信する。
大方夢の端で己の背中を見かけて、慌てて追ってきたに違いない。
事を察して、リンは笑った。
慎太郎と同じく、困ったように。
「笑い事じゃないでしょう」
「はい、ふふふ。ごめんなさい。けれども、ふふ、あまりにも」
何月も家を空けていた人の言葉だとは思えませんね。可愛げのない言葉はそっと飲み込んだ。
少しばかりの小言を吐きながら、けれども決して妻に手桶を持たせない。前を行く大きな背中は夜寝の皺で乱れていても、しっかりと男のものであったのだ。
それが酷く安心したなど、慎太郎には分かるまい。ふふふ、というからかい笑みに隠した「さみしいきもち」を彼はこの先知る事はない。
それが妻として誇らしくあり、また、女として寂しくもあった。
歪んだ笑顔。孤独のサイン。
男はいつものように見落としてしまう。慎太郎はそういう男であった。
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あべまきに別れを告げて十数日後の事であった。慎太郎が北川へ戻ってきたのである。
近いうちに帰るだろうと予想していたリンに、大きな驚きはなかったものの、帰って来たという事実に安堵した胸の心地を今も覚えている。
信じていても、理解していても、やはり心と頭は別物だという事を実感した。けれども慎太郎がいるという安心感はリンを動揺から遠ざける。
多く望む事はない、ただそこにいてくれて、同じ時を共有出来る事が何よりも嬉しかった。
出ていく際に拵えた遠出の装備はどれも無くしてしまっていたが、質が良いとの言葉は嬉しく、リンの自信に花を咲かせた。
久方ぶりに見る夫の顔はやつれもせず、目の光さえ失われず。
変わらない姿に喜びがあふれていた。
その姿を支えたのが自分で無い事が寂しくもあったが、よい人々に恵まれたのならばよかったと、純粋に思えるまでになれたのはリンの成長である。
慎太郎の口から京への旅の記録が語られる事はなかったが、リンもまた、己が北川で綴った記録を語る事はしなかった。
今はまだ互いの道は重ねられない。そう、どこかで思っていたのかもしれない。
「慎太郎さんが育てたものですよ」
まじまじと椀を見つめる夫に笑いかける。澄まし汁に浮かべた柚子の皮。
これを添えるだけで素気ない汁椀が一変。上品な味わいになることを知ったのはつい最近の事。
「まだ、安定した収穫は出来ていないんですけど、少しずつ育ってきているのを記録してあります」
「そうか、よかった。根付くのに時間のかかるものだとは思っていたが、思う以上に早く成果が見られるかもしれない」
武骨な指と箸の繊細な動き。相反する二つの要素の差に見惚れながら、慎太郎の口へ柚子が運ばれるのを見ていた。
ここの所は京の息子、源平に領地視察を任せている。今、椀の中で踊っている陳皮は彼が検品したものだった。
不格好な柚子であっても、多くの人が関わり育てた大事な北川の果実。
生みの親のような存在である、慎太郎の口に運ばれるのが嬉しかった。
この時の月は弥生。室戸の海でも鰹があがる頃の事である。
慎太郎居ぬ間の仕事の状況の説明、源平を迎え入れている事などについて、慎太郎は少し驚きはしたが責める事はなかった。
降りる瞼に懺悔の重みを垣間見て、リンはただただそれに苦笑う。音にならない許しと謝罪が二人の間で静かに交わされた。
この他大きく変わった事と言えばリン自身の事である。
慎太郎が北川へ戻り、両者のよそよそしさが溶けたある日の夜明け前の事。
久方ぶりの熱を受け止め、疲労に転がるリンの体の変化に気付いたのは慎太郎であった。「何か運動でもしているのか」と。
この頃、リンは身を守る術として武術訓練を始めていた。
身の回りのどんなものであっても有事の際には武器として扱えるよう、仕組みを考えたり、日々の動作の端に攻めの動きを取り入れてみたり。
領地の童達が剣術の真似ごとをしていては、そっと近づき動きを盗む。時には教えを請うたりと、ささやかではあったがリンなりの修練を積んでいたのである。
慎太郎の記憶と違う程度には筋肉がついていたらしい。腕を掴んでは、眺める男は、けれども喜びの表情を見せる事はない。
「…あまり無茶をしないように」
呆れたようにも聞こえるその言葉も、それがそのまま本心で無い事を妻は分かっていた。
彼の全てから微かに漏れる本当の思いを優しさと評してリンは受け取る。たとえ一滴ぽっちのものであっても、何よりも尊いものであったのだから。
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高杉の言うとおりだと慎太郎は思う。
勤王の旗掲げ、京を闊歩しても、ふとした瞬間によぎる妻の顔はいつでも泣き顔であったはずだ。
しかしそう思っていたのは自分だけであったのだ。
聡い故に脆く儚い愛しい人は、己を支えるために前を向いて生きていたのだ。自分のいない、北川の土地で。
仕事を覚え、後継者を育て、自身を鍛え、家事を行い、資金を造り――――己が持て得る全てで今を支えようとしている姿は気高い。
泣いて縋られたら。その時は自分は。
心のどこかでそんな妻を望んでいたのかもしれなかった。慎太郎は淀む気持ちを抱きしめる。
妻は自分の足で立ち上がっているのだ、夫である自分を支えるために。
はにかみながら現状を伝える妻の背は、泣いているだけ女ではなかった。
そう思った時。
絡まった糸が、最後の繋がりが、解けた気がした。
「(…俺があなたに渡せるものは……あとは、離別、だけか)」
然様ならば、仕方ない…そう思えたら楽だったと嘲笑を噛み殺す。
あれだけ放っておきながら、それでも頼られたいだなどと勝手にも程がある。内心で責めを並べ立てては断罪した。そうすることで己を慰めていたのか今の男には分かりかねた。
人知れず震えた唇の奥、歯だけが小さく、かちりと泣いていた。
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情勢の緊迫が張り詰めていく一方で一線退いた民間の暮らしは思うよりも長閑である。山からは雪が解け、風に揺れる木々は芽を膨ませ、近い内には花が咲くだろう。
閑散としていた田畑に活気が戻り始め、気がつけば季節は春を迎えていた。桜を愛で、菜の花を眺める時間はうららかに、穏やかに流れていく。
慎太郎はいつの日か、リンが作った桜餅の味を思い出していた。見上げた桜木に葉はまだないが、これもあと十幾日もすればがくが落ち、葉が茂るのだろう。
先日、リンを訪ねてやって来た“桜餅の師匠”。思えば祝言を挙げてから家に縛り付けたまま、友人と会う時間さえ持たせてやれなかったことに慎太郎は気付く。
今更気付いたとて詮が無いと感じながらも、友人と話すリンの笑顔が眩しく、後ろめたい気持ちは雲散していく。
帰り際、桜餅の礼を告げた後の、娘の言葉が慎太郎の鼓膜に再度響く。顔を赤らめながらも、けれどもまっすぐに放たれた言葉。
「リンはああ見えて寂しがりなんです。どうぞよろしくお願いします」
―――今も脳にこびりついて離れない。
深呼吸一つ、慎太郎はそれを剥がしては桜風に飛ばした。揺るがせられない意思がそうさせた。
「…春は淋しいものだな。秋よりもずっと」
はらはら舞い散る桜の吹雪。風流な景色を無粋に裂いて、積もる雪桜を舞い上げ走り来たのは勤王党の仲間だった。
ぼろぼろの草鞋を蹴り上げ戸を叩き、届けた言葉は「龍馬脱藩」の四言葉。
急ぎ武市の元へ向かい事情を聞けども、詳しい事は分からなかった。
裏切りだと怒り、打ち震える党員を尻目に、慎太郎は遠く遠くを見ていた武市の目を気に留める。声をかける事を躊躇った彼の目が「あいつは土佐一つに収まる男じゃないからな」と。
そう言っているように思え、海をも越えて世界へ飛び込む知己の背に、たまらなく心をかき乱された。
自分とあの人と、同じ性分でないと分かっていても。全てを捨てて己に生きるかの旋風に惹かれてしまった。
「慎太郎さん」
「リン、さん」
ぐるぐる巡る思考の川に差し込まれた妻の手。思わず勢いを止めて向き合えば、下げた視界に入った茶の用意。
淀む事無く流れる湯気の無垢な白色に香りよりも先に意識を奪われた。内原野焼の湯呑は浅黒い緑茶色をしており、淹れられた茶と同化している。
湯気の根元が導く茶の気配を辿る中、茶面に幾重か輪が生じる。リンが近寄っていた。
次に意識をそちらへと向ける。綻んだ笑顔がもたらす一足早い春の息吹を浴びながら、彼女はその指を眉間へと寄せ言うのだ。「皺、増えていますよ」と。
呆れを含んだ笑顔が咲かせた。他愛ない仕草でさえ慎太郎の心を揺さぶる。こちらは、優しく撫でるかのように。
たったこれだけであったが、慎太郎の胸には愛おしさが募った。あと引く想いが、この時ばかりは憎く思えた。人の気を知らないで、などと勝手な言葉が浮かんでは消えていく。
誤魔化すように慎太郎は乱暴に茶を流し込んだ。湯気立つどれは一気に飲み干しても喉を焼く事はない。機転を最大に利かせた妻の心遣いがまた、この時ばかりは憎らしかった。
「桜もあと数日で終わりますね」
「………ああ」
家を訪れる花びらをゆるり掬いて息を吹きかける。まるで風に乗るように踊る桜弁に浮かび上がる祝言の日の影は酷く儚かく見えた。
消えてしまいそうだとあの時思った。抱きしめるだけで折れてしまいそうだった細い躰も、今では獲物を扱うしなやかなものへと変化を遂げている。
地に伏せてばかりの潤んだ瑠璃玉も、ちらちら揺れた長い睫も、今では天を仰ぎて強い意志を映し出している。
彼女がここに在る事を認めざるを得なかった。
虚しさは慎太郎を苛み続ける。ここに在ったはずの己はいつの間に影すら失ってしまったのだろう。掴んだ着物の皺が深まる。ぎり、と色が悲鳴をあげた。
激しく波打つ苦悩と愛とで織り上げたこの想いを、抱きしめ慈しむ腕を慎太郎は持たなかった。
持て余す激しい波に飲み込まれそうになりながら、穏やかな時を壊さぬように塞き止める。今の男は鳥ではなく、箍となっていた。
確実に別れの時は時節を刻む。優しくも残酷に。
胸を掻き毟る強いこの愛情も時が経てば冷めてしまうのだろうか。手に持てあます湯呑が問いかける。
リンが言う程、自分は大人でも聖人でもないのだ。「忘れていい」だなどと思えるはずがない。
いつまでも忘れないでいてほしい。
他の誰もこの先愛すことが出来ないくらい傷つけてしまいたい、そんな恐ろしい考えさえ浮かぶほどに。
視界の端に入ったのは藁縄だった。慎太郎は既に、その恐ろしい考えを律する事も諦めていた。
不穏な気を感じ取ったらしい妻は、けれども逃げる様子を見せない。眉を少しだけ下げて、それでもやはり笑っていた。
弄ばれているのはいつだって慎太郎の方であった。逃げる事など無いと分かっているのに、それでも強い力で細い腕を掴む。
容易く包まれてしまう手首を手早く藁縄で縛り上げると、柱へと括り付けた。ぎしり、と軋んだのは縄であったか、それとも。
「…まだ、日も高いのに」
せめて桜を追い出してください。この期に及んでも“リン”を崩さない妻がやはり何より憎らしい。
もう何にも気を取られぬようにと深く覆い被さって、完全に妻を飲み込んだ。鼻を近づけ盗んだ彼女の香りに湧きあがる劣情とは裏腹に、すっと消え去るのは憎悪だった。
ないたのは妻であったか、藁縄であったか。それとも己か。
「(忘れないでいてくれ)」
一番言いたくて、一番言えない言葉を慎太郎は腹の奥の奥へと流し込む。
打ち付ける思いの丈に溢れるばかりの矛盾と混乱は、昼夜さえも捻じ曲げて情事へと耽らせるばかりで。
ただただ真っ直ぐ愛せさえしたらよかったのに。そんな弱音を作り出す。
しんたろうさん、しんたろうさん。
童のように名を呼ぶ声がただただかなしくて、封をするように唇を寄せた。
そうでなければ何もかもが嘘だ。
男には今、全てがそう見えていた。