慎太郎とその妻(未完:無期限更新停止)
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17.非情茶
何より気がかりなのは義父、小傳次の事であった。
病を患い家督を慎太郎に譲ってから体調は安定しているというものの、日に日に衰弱が進んでいる事実は変わらない。
加え、ここ近年中の慎太郎の不在に関して気を揉む毎日だ。
思うまま自由に生きてほしいと願う親心と、家長としての責務を負って欲しい希望と。特に後者はリンにとっても大きな悩みとなっていた。
今のところ、慎太郎に代わり大庄屋の業務を担ってはいるものの、それも長くは続けられない。
リン自身も―――慎太郎と共に行くことを決めている。その為、中岡の家督相続…あるいは慎太郎、リンに代わり、仕事を継続させる為の手段を模索していた。
立つ鳥跡を濁さずを目指す…とはあまりにも虫のいい都合ではあったが、リンは出来る限りそうしたいと思っていた。
慎太郎が脱藩するだろうことも、自分がそれについて行こうとしていることも、すべては水面下の先読みの想像であり、その日が来るまで決して事実にはならない。
――脱藩は重罪である。
本人は尋ね人となるのは必至であり、のみならず家族、子孫まで処罰を受ける事が無いとは言い切れない。
「(慎太郎さんが本当に脱藩するかどうか…それは私にも分からないこと)」
ごくり喉が鳴った。
リンは“慎太郎は脱藩する”と踏んでいるものの、彼の口からそう告げられた事はもちろんない。
全ては勤王を掲げる彼の軌跡や、同郷の龍馬の影響、今の土佐では彼の目指す“夜明け”を迎えられないだろう状況を考慮して導いた“予測”。
けれどどこかで思うのだ。
もしかしたら慎太郎は自分にだけは、打ち明けてくれるのではないかと。
共に行きますか。―――そう聞いてくれるのではないかと。
しばし考えてリンは静かに首を振る。期待は身を滅ぼす。
唇を噛み、それらを飲み込んだ。
騙し合いのように、全てを静かに進めるのならば、自分は海となり全てを隠そう。リンはそう決めている。
勝手な我儘で、中岡という秩序を壊していく立場なればこそ、せめて、降りかかる厄災を最小限に留めておきたいと考える。
可能な限り自然な流れで、義父を大庄屋を託し、中岡も実家も蔑ろにならぬようにと。
「(…せめてあの子がもっと大きかったなら)」
リンの腰に抱きつきわあわあ泣いた弟の旋毛が記憶に蘇る。身体的に成長はしているものの、まだまだ実年齢が追いつかない。
それに嫁の実家の人間が中岡に出入りする事を周囲は快く思わないだろう事も、リンは理解していた。
ならばと適当な人間を思い浮かべれば、かちり、と一人の顔が浮かび上がる。
慎太郎の姉、京の養子、源平だ。
利発そうなきりりとした眉。そしてその背が蘇る。彼ならばと胸が高鳴った。
幸い源平の母、京は中岡の名を残す事を強く希望している。条件は好都合であった。
「(慎太郎さんの度重なる不在で、私達には子供がない。…お義父様のお世話で手一杯な旨を伝え、助力を仰ぐ体で―――彼を呼び寄せられたら)」
―――大庄屋の仕事の引き継ぎは成る。京ならば小傳次の世話も甲斐甲斐しくするだろう、この案が上手くいけば自分が消えた後も中岡が危ぶまれることはない。
悪い顔をしているだろう、リンは薄暗く笑う。己の我儘の為に夫の家族さえも利用しようとしているのだ、悪妻以外の何者でもない。
けれども、勝手を許して、全てを捨て置き去っていけるほどリンは強くはなかった。
小傳次と親子としての愛情も胸に灯っており、慎太郎を育んだ中岡を大切に思う気持ちもある。
だからこその煮え切らぬ態度になる事も、どうしようもないと笑う。
「…そこまで想うのなら、捨てなければいいのにね」
それは他人事のような響きで空弾かれた。優柔不断である事は百も承知だが、それでも胸に灯った決意は揺らがない。
大切なものは、何よりも欲しいものは。ここにはない。
瞬き一つ、ゆっくりとそれを開く。
慎太郎が北川を出て京へ出でて早四月ほど。
手渡した金子などとうに底を尽きているだろうし、そろそろ一時でも帰ってくるのではないかと踏んでいる。
彼が飛び立つまでに出来る限りのことを。土佐での勤王弾圧と言う名の檻が厳しく、狭くなればなるほど、中の鳥は自由を求めて羽根を膨らませるのだ。
時節を違えてはならない。来る日までに、整える事を忘れずに。固く結われた唇と瞳の端と、それらを春近い庭へと放り投げる。
まずは、小傳次の薬湯を。
近い内に京と連絡を取ることを胸に秘めながら、一滴の染みを世界へ垂らす。水面下の戦いの合図だった。
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子が無い事が都合が良いだなどと、とんだ皮肉だと薄く笑う。好都合と言うと言葉は悪いが、事実、二人の間に子が無いからこそ自由がきくのである。
慎太郎が何を考えていたのか、ただ偶然の事なのかは分からない。ややが欲しいと泣いたあの夜、覗き込むのが怖かった彼の瞳はどんな色を映していただろう。
不器用で優しい男だった。
リンは静かに首を振り思考を雲散させる。今更過去を振り返っても詮無き事だった。
それより、呆れるほどに優しい慎太郎の事だ。恐らくは共に育てたいと、勤王に走り回る未来を先読みながらも、悩んでいたに違いない。
時の神に任せていたとしていても、それはそれで構わなかった。
リンとて二人の子を育てるのならば共にがいい。
北川の村で、大切な民と柚子を育てながら、小傳次、慎太郎の背を追い、リンの胸に抱えられる―――そんな日常がよかった。
「(…そんな日も、憧れていなかったわけではないんですよ)」
いつからだったか、。
早い段階でその夢は諦めてしまった。悟ってしまった。
それでもいいと思えたのは、やはり、慎太郎がいたからこそで、彼を深く愛したからこそなのだろう。
ぽとり、手の内から柚子が転がる。耽る間にすっかり指先が冷え、柚子を転がす手の感覚は鈍くなっている。
北川に多く植えた柚子苗は根付く事に概ね成功した。
安定した収穫を得るのは幾年も先の事になるのだろうが、豊作を見る日に自分はここにいないだろうと思う。
慎太郎の功績だと、誰が知らなくても構わない。その横に自分の存在があったことも、忘れてくれて構わない。
誰に望まれたいわけでもないのだから―――最後まで見届けぬ事を恨んでくれても構わない。
しかしリンは願うのだ。この寂れた村一帯が、いつの日にか、黄色い雪洞果実で色付く日を。
北川が誇れる逸品が根付き、人々の恵みとなる事を。
ひとつひとつに思いを馳せながら、出来る限りの支度を計画付ける。
中岡の事、庄屋の事、実家の事、村の事、これからの慎太郎の事、そして―――リン自身の事を。
何を成すにも現実的な問題は発生する。婚姻が愛と金銭とで秤にかけられるのと同じように、夢にも計画と金子は必要なのだ。
柚子陳皮の下ごしらえを終えれば次は草鞋の製作、家事、庄屋引継ぎと、やらねばならぬことは多くある。
それらとは別に、リンは新たな計画を立てていた。
自身の戦闘力の増強である。
これより単独で動く事も多くなる事が予想される。ある程度の護身術を身に着けておく必要があった。
真実、龍馬に襲い掛かった時の非力な己の腕では、暴漢に襲われればひとたまりもないだろう。
最低限の小刀でも体術でも構わない。護身の為に力を付ける必要があった。
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北川にも等しく降り積もった雪が結晶する程の事である。
朝早くから支度を整えたリンはくるりくるりと自身の姿を鏡に映していた。
中岡の女が姿を映した歴代の鏡台。
心なし贅沢品であるそれに映る姿は普段姿よりも華やいで見えた。
髪を結い、着物は一回りよそ行きのものを。首元には巻布を。
手が震えているのは寒さか、それとも。
一度の深呼吸と共に開けた義父の部屋の襖戸、小傳次は布団に身を鎮めながら雪を見ていた。襖戸の音に導かれ、互いの視線が重なった。
「行って参ります。夜半にはならないかと思いますが…」
「ああ、こちらは気にせず行きなさい。けれど道中、十二分に注意なされよ」
「はい」
ぶっきらぼうな気遣いの言葉が胸に灯った。重ねた手はもう震えはしない。
リンは静かに頭を下げると足早に中岡の邸を後にする。
今日の目的は郷士―――あべまきを尋ねる事であった。
昨年の己の振る舞いを詫びたい思いと、母から聞いた祝言の話。
積んだままとなっていた問題と向き合わねばならないと思っていた。
着慣れぬ上等な着物の裾をそよがせて郷士邸へと急いだのである。
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幼い頃、父に連れられ歩いた道は恐ろしく遠く、長く感じたものであった。峠を幾つも越え、覆い重なるような化け木をくぐり、酷使する鼻緒を労わる。そんな遠い記憶。
それを想定して早朝から出発したのだが、記憶というものは曖昧なもので、リンが郷士の家に到着したのは予定よりも二刻以上も前の事であった。
感覚的な記憶とは異なり、目的地の門構えはあの日見た時の記憶そのままの姿でリンをを出迎えていた。
褥を夢見て寝転んだ藪林こそ枯野に変わっていたが、哀愁を感じる程ではなく。
覆い被さるようにすくすく伸びた木の丈も今ではそれほど恐怖を感じない。
すいと上げた腕の先、桜貝のようであった爪先は薄ら黄ばんで、端が少し欠けている。
こればかりは畑仕事に勤しんでいた頃と変わらない。女としての愛らしさの欠けた指先に、苦笑しながら戸を叩く。
「ごめんくださいませ、ごめんくださいませ」幼き頃と同じ言葉で。
出でる家主は記憶と異なる。代替わりしたこの邸の新たなる主が、驚き顔でこちらを見ていた。
「リン、何用で…」
「―――先日の非礼を」
「待て……続きは中で聞こう。上がってくれないか」
言葉は男の手により遮られた。困惑気味の足を擦りながら邸へ誘うあべまきの背に連れられるまま、リンも邸の奥へと進んでいく。
潜った敷居も門も、木の大きささえも見慣れぬ景色に変わり、まるで違う家へ来たようだと思った。それでも指先の黄ばみだけがリンを今に繋ぎ留める。動揺を誘う全てに立ち向かうように。
葦のようにそよぎ、根を生やそう。もう何者にも揺らぐまいと。
抱きしめた腕の爪先、あの人の柚子が香った気がした。
通された間に向かい合って座る。思えば、男と向き合ったのはこれが初めてかもしれない。
どう切り出したものかと視線を泳がせるあべまきを目にして、リンは構える。腕を揃えて前方で重ねた。
それを軸に深々と頭を垂れればさらりと落ちる髪の端。
息を飲む音がやたらと響いた。
「…お久しゅうございます。最後にお会いしましたのはほんの一つ歳の頃でしたね」
「……ああ。そうだな。あれからすぐに俺は奉公に出されたものだから。…いいや、奉公とも違う」
「奉公?」
男の家は郷士階級を買い入れた家である。決して金に窮していた事実もなく、奉公に出る必要もなかったはずであった。
首を傾げれば、それ以上を男は言い淀む。その顔に浮かび上がるのは哀愁と懇願の色であった。
いけない、とリンは間合いを取る。
同時に察するは男の過去。
やんちゃだった幼馴染は屈強な男に成長を遂げていた。
今の男の容貌を見るだけで空白の歴史が導き出される。
奉公と言う名の、修行と学びの日々。そしてそれはきっと。
「……もしも」
男に話をさせてはいけないと思った。先手を打つように、これ以上哀愁に飲み込まれぬようにとリンはそよぐ。
期待を持たせぬように。けれど、彼の日々を否定せぬように。
男の道の終着点であったであろう己が、蜃気楼であったなどと思わせたくはなかった。
それはリンの勝手な想いであった。憎まれたくない一心だったかもしれない。
けれど、勝手であっても、後悔をしてほしくない、そう思った。
「もしも、あなたがあのままここに在ったなら。…私はきっとあなたに嫁いでいた」
「…随分と詮無き事を言う。俺の努力を…拒否するか」
「いいえ―――私の望み得る世界と、あなたが望んだものが一致しなかっただけ…どちらも独りよがりだっただけでしょう」
中岡殿が羨ましい。男、あべまきは呟く。
己が望む世界と愛しい人が望むものとが一致しているだなどと―――最後まで言葉にはしなかった。
その言葉にリンは伏せた目を開いていく。やはりこの人は何も分かっていない。掌を明かす事の無明さを感じながら、けれどもリンは言葉をかける。
ここまで言えば、もうこれ以上はない。長い二人の歴史を結ぶための紐言葉を紡いで綴じた。
「貧し畑で朽ち果てる、そんな一生でよかった。あの人の願う日ノ本の夜明けなど、きっと、煩わしい以外のなにものにもならなかった」
「…だがお前は選んだのだろう。この先を望んだんだろう、中岡殿を選んだという事は、そういう事だ」
「今のあなたには全てが綺麗事に響くのでしょう。…そうですね。でも、あの人は私を振り返るの。自分の道をから逸れる事も…捨てる事も出来ない癖に。付いてこなくていいのだと心配しながら、けれど私が立ち止まっていないか、振り返るの。自分の道が私の幸せに繋がると信じていながらも、けれど猪突猛進しない―――あの人は、私を、私の、こころを見てくれるの」
「俺はただお前に相応しくありたいと…思って……だがそれが独りよがりだったと。お前は「このまま」を願っていたのに、と。……そう言うのか」
「…それは私も同罪です。このままでありたいという“気持ち”を、あなたに明かさなかった」
ならばなにが違う。
あべまきが力無く問う。
じくじくと胸を抉るは紐言葉。
痛い痛いと血を流す心を抑え付けて綴じ合わせる。一言、また一言と紐を潜らせ、抑えつける戻れない時間の束。
さいご一針、掬って、引っ張る。ぴん、と紐が張った。
「…あの人とずっと一緒にいたい。そんな童のような我儘でも―――受け止めてほしいと願ったから」
全部を知ってほしいと思ったから。それはあべまきには抱かなかった強い想い。
男はそれ以上何も言わなかった。
首をもたげた姿から滲む後悔の色は深く、空気を飲み込み怒涛へ変わるが、あと一歩の所でリンへ届かない。
ざあざあと音を名残に、消え行くそれは涙のような味がしたことだろう。
もしもだなどと、例えの言葉は今はただ空しい。あべまきはかつて言った。どんなリンでも好きになると。その言葉に偽りはないのだろうとリンは思う。
それほどまでに真っ直ぐなあべまきだからこそ、長い“奉公”の時にも耐えられたのだろうと。駆け抜けたのだろうと。
「…あなたは私の兄のような方です。だから…私も、あなたを真似て、ひたむきに走る事を決めました」
愛してくれてありがとうございました。
勝手をどうかお許し下さい。
三つ指を付き、とうとう深々頭を垂れる。はじめの礼より深く、額が床付くほどに。
男が息を飲む。今度は涙混じりの水音を鳴らしながら。ひゅ、と鳴る喉の緊張に、つられ肩が震えた。
「……“茶挽き子”など………どこへでも行ってしまえ」
「……あい。……“あにさま”」
幼い頃の呼び名で綴じたものは膨大な程の愛の記録。たかだか二十余の記録であろうとも、北川の帳簿よりも遥かに厚い。
かくしてリンとあべまきとの袂はとうとう完全に分かたれた。
静かに立ち去る馴染みの家も、あと一歩で永遠の記憶に変わる。
二度と踏み入れる事の許されぬ郷里への哀愁はあれども、今はどこかそれさえ心地よい。
木枯らしがどこからともなく春の香りを届けるのに、時間は然程かからないのだろう。
未だ雪残るこの地を去る日まで、きっと今日を忘れはしない。白の景色とあにさまの涙を胸に刻んで、リンはとうとう一歩を踏み込む。
然様ならば、仕方ない。
さようならさようなら。
名残惜しくしがみ付いていた最後の鎖が、切れた音がした。