慎太郎とその妻(未完:無期限更新停止)
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02.あなた
その日は空澄み渡り、雲は頭上高く、風気の良い秋の日であった。
もう二十日ほどは経っただろうか、夏の名残のような夕立の日に運命に弄ばれるように中岡の若様と再会した。
連日の作業や栄養不足、更には悪天候で冷えた体に体力は残っておらず、とある小屋の中で倒れてしまったという苦い記憶だった。
その後、その若様自らがリンの家へと送り届けるという顛末であったらしく、こっぴどく叱られた記憶が未だに頭の片隅に残っている。
思い出すと気分は滅入る一方だ。
いつまでも体調管理が出来ていない事や一度ならず二度も人様に面倒をかけていること、あらゆる事柄、自分を責める理由には十分すぎて鍬を握る手にも知らず悲しみが滲んでいった。
脳裏に焼き付いた若様―――慎太郎の精悍な顔を思い出しては一人頬を染めたりと、ここの所のリンは酷く不安定である。
どんな状態であっても手を止める事は許されない。貧乏暇なし、その言葉まま、今日もひたすらに鍬を畑へと入れるのである。
「ただいま帰りました―――ど、どうしたの?何かあったの?」
囲炉裏の周り、親兄弟が落ち着かぬ様子で集まっていた。リンの帰宅を見るや否や、口火を切って話し出すのは幼い弟であったのだが、興奮に言葉を奪われており何が伝えたいのか分かりかねる。
腰のあたりをぐいぐい引いて懸命に顔を合わせようとする弟の姿は微笑ましいが、これでは一向に埒が明かない。
助けを求め、母へと視線を向ければ、困ったように眉を下げながら、説明を始める。それはあまりにも想像外の言葉であった。
「…大庄屋の中岡様がね、あなたを娶りたいといられたのよ」
開いた口がふさがらず、ひゅうひゅうと喉からから風が吹き荒れる。
思わず持っていたざるを落とすと、転げた野菜が弟の頭に当たって地面に落ちる。
冗談にしては笑えない。
転がった野菜を拾い上げて手のひらで転がす。視線は逸らしたままに―――何も言わない父も、母も、恐ろしかった。
「…まさか」乾いた喉が絞り出した言葉は頼りなげに宙を落ちていく。息を飲んだのはリンばかりではなかった、娘の動揺を汲み取ったらしい両親も言葉をかけあぐね、奇妙な沈黙が部屋に張り詰めている。
それとは別に、新たな作物開耕の提案も受けたらしい。少しでも空気を変えたいと願う母がその説明をするのだが、上擦った声に説得力はなく、ただ虚しさに拍車をかけるばかりであった。
どうして素直に喜べないのだろう、リンはまた、深く落ち込んでいくようであった。まるで沼に足を取られたかのように、ずぶずぶと静かに、そして確実に闇の中へと引きずり込まれていくのを、ただ恐ろしくも受け入れようとしていた。
何が気に入らない。沼の中から声がする。
気に入らないんじゃない。
ただ、ただ。
「―――お断りする大義なんてない。これも縁だ。大切にしなさい」
夢が現となることが、その境界線の不確かさが、恐ろしくて堪らなかったのだ。
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夢さえあれば生きていられた。現がいかに凄惨なそれだとしても、夢見ていれば生きていく事が出来た。
望みさえしなければ、期待も生まれない。期待がなければ、絶望も生まれない。ただ、あるがまま生きて、朽ちて、消え去る。
ずっと聞き続けた父の縁の話もうつくしい夢の話として、ぼんやりとそのうつくしさに浸っていただけなのかもしれない。
「これも縁だ。大切になさい」その言葉が現実として己に投げかけられた時、それで生じた音は冷たく非情で、脳に張り付いて、離れなかった。
庄屋見習いとなった慎太郎が復興の為にと推奨したのは柚子の栽培であった。
沿岸沿いでよく獲られる魚の塩代わりとしても有効な作物として、土佐のつてを頼りかき集めた苗木らしい。
震災、自然災害で壊滅的となっていた田畑の再開発を指示し、自ら庄屋仲間を回って資金繰りを行っては米を買い入れ民へと分け配ったりと、その活動ぶりは傍に在らずとも一挙一動を知る事が出来る程に有能なものであった。
己が財を減らしてまでも民の為にと走り回るその姿に、皆の信頼が集まるのは道理で、一躍慎太郎は北川の羨望の的となっていく。
慎太郎の采配により、少しばかり蓄えが出来て、生活も向上している。以前よりもしっかり食事を採る事が出来るようになっていた。
けれどもまだまだか細いその肩に圧し掛かるは大庄屋の妻としての重圧だ。
秋の嘘のような婚礼の話から早幾月。
紅葉に萌えていた山々はその葉を散らし、次第に閑散となる風景に侘しさが一層募る頃、冷めやらぬまま燃え上がるのは先にあるように大庄屋が名声ばかりで、燃え上がるたき火のようなその名声と裏腹に、一足先に真冬を迎えるリンの心は日に日に凍りついていくようであった。
「(…どうして私なの)」
その疑問をぶつけられる相手も、答えられる相手も、ここにはいない。
ここ幾月の間に慎太郎がリンを訪ねる事はなかった。
慎太郎の意図は分からないが、活躍の通り大庄屋として日々東奔西走に明け暮れているのだろう。多忙に据え置かれただなどとは申すまい。
きっと多忙が故に顔を見せる事も出来ないのだ―――名ばかりの存在ではなく、彼は一歩一歩確実に己が使命を果たしているのだ。リンは唇を噛み締める。
ぷつりと唇が切れ、鉄の味が舌先から広がった。不安なのだ、それは分かっている。
「(……なにを甘ったれた事を!)」
脳裏に浮かんだ不安の二文字を自ら強く否定する。それは逃げるように思考の奥へと追いやられた。
しかしその空いた思考の台座に、すかさず別の疑問が滑り込んで支配を始める。――不在中に両親を訪ね、婚姻の話を持ちかけてから彼は一度も姿を見せていない。
両親は縁を重んじ、話を受けたと言った。その言葉に嘘はないと信じている。けれども――――これでは、
「…売られたのと同じ」
頭では分かっていた。自分がやらねばならない事を、これから訪れる苦難の道を。そしてそこから逃げ出す事など出来ないという事を。
大庄屋に嫁ぐという話に真実味が増した頃から、両親もようやく庄屋の戯れなどではないと分かったらしく、リンに農作業から手を引かせたのである。
代わりに仕立ての良い服や作法書を押し与え、ひたすらに生活水準が上がる環境に対応させるべく、日常からの隔離を図った。
それは、夢のような話だった。夢であればよかった。そう思っては飲み込んでを繰り返し、ねじろには不釣り合いの肌さわりの良い衣の襟に頬を預ける。
雷鳴の秋の日に頬を寄せたかの外套と似た質感に、どこにいっても逃げられないと言われているようで、激しく戸を叩く寂しさから逃れるようにリンはひたすら身を掻き抱いた。
―――きっと本当に、噂の通り立派な人柄なのだろう。夫となる男の話も、引き合いに出される己の身も、いつまでも嘆いていても仕方がないと思い始めた時。
リンは鬱屈に軋む腕を払い、立ち上がった。
「―――あなたに恥はかかせません」
二度も縁を繋いで下さった、守って下さったあなただから。
新たな夢を見よう―――――貧しい家の娘が大庄屋の屋台骨を支える柱になったと、しあわせであったと、刻む夢を。
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思えばいつからこうも後ろ向きな性格になっていたのか、リンは過去を振り返れどもその痕跡を辿ることは出来ない。
元より根が真面目で他人本位な部分はあれども、年々時を重ねるほどにその傾向は暗い方へと駆け出していっている。
静かな水面は、葉一つ落ちるだけで波紋を作り周囲を巻き込んで動きを作るものだ。リンにはそれが酷く恐ろしくて、そして何より煩わしくて堪らない。
自分の一挙一動が波紋を作り出すのならば、それをいかに最小に留めるか、そればかりを考えるようになってしまった。
拍車をかけたのは震災、そして続いた台風の影響であろう。作物が満足に収穫できず、結婚適齢期も過ぎて未だ実家に居座り続ける身の置き場はごく狭く、父も母も次第に何も言わなくなってしまった。
ただ飯喰らいとならぬよう、食事を限りなく減らし、身を粉にして畑と接している内に隣人からは“畑が恋人”とまで言われる始末で、貧困を極める家の事情を改善しようと働けば働くほど、人との関わりを絶つようになってしまった。
全ては真面目すぎる故の根の詰め過ぎであるのだが、口数少ない性格も相まって、身内でさえもその張りつめた精神状態には気付かない。
いつ、ぷつり途切れてもおかしくなかった。それほどまでに、リンは無意識下、擦り切れて消えてしまいそうだったのである。
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温暖な気候の土佐の地の穏やかな冬が終わる頃であった。
慎太郎の推奨した田畑の再開発は順調に進み、荒れ野と化していた一体に植えられた柚子の苗木が健気な景色を作っている。
この対策が成功するならば、土佐の地は素晴らしい特産を得る事であろう。見るも悲しい荒れ果てた野畑に青々と茂る緑や、爽やかな香りと黄色の明かり実の景色は想像するだけで人々の心に希望をもたらした。
すぐに軌道に乗るものではないが、慎太郎の堅実な仕事ぶりは冬を過ぎても思うままで、人々は一層団結を強め復興への道を歩み始めていたのである。
リンはというと覚悟を決めたあの日から一心不乱に勉学に打ち込んでいた。
鬼気迫るその様子は声をかけるのを躊躇うものであったが、見る人によればまるでなにかから逃れるかのようで痛々しいものでもあったという。
始めは簡単な文字しか読み書きできなかったリンも、一冬終わる頃には漢字交じりの慣用句まで記せる程に上達していた。
読むことさえ出来なかった作法書も何度も読み返しては頭に刻み、実際に身につけ習得する。
日が暮れれば月の明かり、水面に己が姿を映しては身のこなしを学び続けた。時に見かねた親が止めに入るまで、憑りつかれたかのように。
心の隙間を開けてしまわば、流れ込んでくる感情の波が怖かった。
疑問も、不安も、悲しみも、喜びも、全てがどうでもよかった。
ここまで自分を追い込み失わせるほど彼女を追いこんだそれは、一体なんであったか。ただ、過去はやはり痕跡を辿る事を許さない。
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白い山々が薄紅に色付く頃の話である。
その日、北川の村は異様な歓喜に沸いていた。春風が吉報を伝え流れるように、村人達は皆一様に祝辞を述べ、噂に花を咲かせている。
“大庄屋の若君の祝言”
絶大な信頼を集める中岡の若君がついに祝言を挙げるその日である。
慣例であれば、婿が相手の家へ身を寄せるのが通常とされていたが、今回は両家の格の差の問題をはじめ、リンの家で更に一人を養いきれない生活上の都合もあり、リンが慎太郎の家へと入る形での儀となった。
それが彼女の表情に一層影を落としていたのは言うまでもなかったが、既にその手の感情を隠し通せるようになっていたリンに気が付く者はいない。
“貴方の色に染めてください”―――純白の花嫁衣装に身を包み、下げ気味の頭部を覆う綿帽子は風花のように表情を隠す。
叩きこんだ仕草は上品に、上質な衣を引きずらんとし、指先一本にまでリンの魂が流れ込んでいるようであった。
手を引かれ駕籠から降り立つ、質実剛健な邸の、人々の門構え。まるで品定めをするように感じられた。
―――毅然と顔を上げ、面々を静かに見据えれば。どこからともなく、ほう、と息が吐き出される音が届いてきた。
リンにとっては中岡の敷居を跨ぐまでの、ほんの数歩が戦いであった。はらりはらり、風に舞う桜の花びらが舞い散るのを見る事も感じ入る事もなく。
徹底的なまでに作り上げた“雑草の民嫁の飛翔”を演じ続けた。
その圧倒的なまでの清廉さに人々は慄いた。否、度肝を抜かれたが正しいだろうか。
身分は農民なれど、その中でも庄屋の役目を言いつかった中岡は無論代々続く家柄であったし、何より病床の現当主は同じ庄屋の嫁御を迎えるように進言したのだ。
十分な反論の余地さえないのは違いなかったが、その息子はその話に待ったをかけたところか、どこの馬の骨とも分からぬ貧農家の娘を嫁として迎えると言い出した。
何が不満かと尋ねれども、息子は口籠るばかりではっきりと事を告げぬ。
普段と明らかに違うその様子に不信は募れども、ただ一言、はっきりと啖呵を切られてしまってこちらが口籠る。
―――なんにせよ貧しい農家の、しかも随分と年増だというのに、正直なところ当主一同、中岡の家は冷ややかな思いで集った事は間違いない。
それが、どうだろう。迎えた娘の堂々たる身姿の、伸びた背筋に鳥肌が走る。どこか鬼気めいたものを秘めた瞳のうつくしさに魅了されたは親族か、はたまた慎太郎であったか。
「――――よういられました」
世話役の老女の言葉につられ、笑む花嫁の芽吹く目映さに視線を奪われた。桜が運んだ幻ではないのか、そう、惚けてしまう程に。
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歓迎の言葉に素直に口元が動いた。内心そっと息を吐き出す。
ずらり並ぶ人の道の、後向きな空気が変わった事にリンはそっと視線を下げる。目は口ほどに物を言うとはこのことを指すのか、深く噛み締め乱発を制した。
そっと顔を上げ眺めた人の道の奥であった。一等背の高い、端正な顔をそっと見据える。
今も瞼にはっきりと焼き付いている、大庄屋の若君、その人であった。緊張からか、戸惑いからか、分かりかねるその複雑な表情をリンはそっと見流した。
これ以上見つめていれば不安がまた襲い掛かって来そうであったからだ。同時に、不要な熱さえも上がってしまう気配を感じたからである。
「(……噂に違わぬ素敵な人)」
顔に出るのは後免だ。不要な感情に振り回されれば、せっかく携えた所作を発揮できない。
何より祝言に浮かれるような事では、この先飛翔する事など絶対に不可能なのだ。ここは、リンにとって試練の場と大差なかった。
一歩踏み出し、砂利を鳴らせばごくりとなる人々の喉音が、試合開始の合図のようで。
「―――中岡様」
次に顔を見る時には動揺を一切消し去った表情で、そっと顔を上げ一礼する。
手を引いていた従者からそれを離せば、代わりに差し出される大きくて武骨な手。そっとそれに己がものを重ねた。
顔を上げて再度映す慎太郎の表情は、もうあえて読み解かない。ただ、無機質な目玉に映し出したその顔は、やはり、ただただ精悍であったように思う。
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紛いなりにも祝い事の席である。内心、色々と試される事もあるのかもしれないと身構えていたリンにとって、祝言の儀そのものはつつがなく終わりを迎えた。
邸の佇まいも華美な事もなく、思う以上に張り詰めることなく若干肩の力を抜きつつ儀に挑むことが出来たと思う。
やはり初めの所作が効いていたのか、賛辞を述べる両者の盃は進み比較的に和やかな時間が流れたのではないかと評した。
とはいえリン側の参列者との格の違いは歴然であったし、どこか居た堪れない様子も最後まで拭う事は出来ないようであったが、その中でも父は心底嬉しそうな表情を披露していた。
「(――――厄介者がひとつ)」
―――減るからなどではない、と頭では否定するが、悪しき言葉は脳裏を駆け巡る。
こんな所で意識を持っていかれるわけにはいかない、リンは必死に悪雲を追い払うがそれでもしつこく脳裏に張り付いた悲しい想像は払いきれない。
かれこれ数刻気を張り詰めさせているのだ、弱った心に付け入られる隙も大きくなる。杯に注がれた祝い酒に情けない顔の女が映った。
こんな顔を見せてはいけないとすぐに正気に返るものの、震える手は杯に波紋を作る。
―――やめて、やめて。あと少しだから、頑張って。
必死に抑え込んだはずの“私”がぐずり始めたのか、仮面が剥がれはじめる。薄ら張られた視界の涙膜を必死に取り払うが、それも無駄な抵抗であった。
「――大丈夫か」
「…っ……あ、は、はい……その…」
「酒が苦手ならば無理に口にする必要はない、貸してください」
リンが返事をする前に、大きな手が手元の盃を浚っていく。驚いて視線で追えば、ぐい、と杯を傾ける慎太郎の喉が目に入った。
己のものとは全く異なる幹と、中央に大きな喉仏。手にやや余る大きさの盃は男の手に乗るとまるで小皿のようで、その光景に目が奪われる。
体格がよく、広い肩に羽織はよく映え、何より袖から覗く腕もしなやかに筋肉がついており、雄々しい。
空にした盃を返そうとこちらを見るその目に捕えられて、リンは知らず身を強張らせる。
びくり、と、人が見て分かる程に肩が震えたか、脳は必死に体勢の修正を指示するが、つかまってしまった体は全く動かせない。
何とか伸ばした手の震えを誤魔化すので精一杯であった、が。盃まであと少しのところでそれは急に引かれる。
どうしたのかと再度その行き先を追えば、盃の淵を拭う武骨な指があった。
「――不覚でした」
「え…?」
「…女性の扱いは不得手で。失礼があったら教えてほしい」
半ば投げるように返された盃に、慎太郎の気遣いと戸惑いを感じられたのだが混乱する脳は正常に言葉を運んではくれず、焦りと動揺の混じった空気を吐き出すばかりだ。
もたついている内に、慎太郎の視線は元へ戻され視線が離れる。空になった彼の盃に酒を注ぐだなどと気の利く事が出来るはずもなく、指の震えは次第に冷えへと変わっていく始末だ。
本当は言いたかった、そんなことありません、不自由などありません、と。
嘘のつけない心臓の、脈の速さに従うままに、素直に。
居た堪れなさも相まって、ぽたぽた落ち始めた涙が手のひらの盃へ落ちて膜を成す。
慎太郎は親類との会話でこちらのに注意は向けていない。
よかった。一人呟いて、髪を避ける仕草で誤魔化しながらリンはそっと涙を拭って逃がしたのである。
祝いの席は大いに盛り上がり、たけなわとなる頃にはリン側の親族も随分と緊張が解けて和やかな雰囲気となっていた。
春風が運ぶ桜の花びらは屋敷の中を舞い踊り、時に盃に、時に新婦にいたずらをしては二人を祝福しているようであった。
リンの花嫁衣装に乗る花びらを、そっと慎太郎が剥がして飛ばす―――そんな初々しい一瞬の仕草も、参列客は皆嬉しそうに眺めていた。
願うは北川の一層の繁栄、なによりまずは復興―――その足掛かりとして選ばれた庄屋の伴侶も、両家の心配をよそにしかと役目を勤め上げたのだ。そう、周囲は感じた。
知らぬ存ぜぬ、何より信じぬはリンばかり。
春の夜のなめらかなひと時、ただ一人冬の氷の中に取り残された彼女の心中を察する者はいない。
リンだけはひとり、この世の縁を断たれたようなそんな孤独感に佇んでいたのであった。
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「さあ、そろそろお開きとなりましょう」そんな老女のしきりで、儀が終了となることとなった。
とはいえ皆随分と盃を進めており、婚姻の儀というよりは夜桜の花見のような雰囲気と変わっていたその場、腰は重くなかなか解散とならない。
けれども新郎新婦はそうもいかず、何より重い婚礼衣装に身を包んだリンの負担は相当であった。
老女は仕方なしとため息ひとつ、立ち上がった後、慎太郎に退室を促した。
わかった、そう言う慎太郎も随分と疲れがきているのか、どこか声にため息が混じっている。
この後は体を清めて初夜の儀へと移るのだろうか―――疲れでやや鈍りがちの思考の前に、ずい、と差し出された大きな手。驚いて顔を上げれば優しく微笑む慎太郎と目があった。
「手を使ってください。その服はとても重そうだ」
「…あ………あ、ありがとうございます」
好意は素直に受ける、これも淑女の成りの手管であるのだがこの時ばかりは打算ではなく、そっと手を重ねられた。
視線が逸らせず、男の微笑に見入る。大切な事は何一つ交わす事が出来ていないはずであるのに、向けられるその優しい表情に、困惑よりも先に芽生えたのは恋情だった。
どうして、とかどうせ、とか。そんな可愛げのない言葉が手出しできない程に、男が与えたのは安心感なのだろうか。
「―――随分と冷えていますね」
「……、いえ」
冬が明けたと言えども夜はまだ冷えるこの季節。
花嫁衣裳のあつらえでも防寒が足りなかったか、そう苦い顔をする慎太郎を慌てて否定せども、彼は素直に聞き入れてはくれない。
手を包むように、両手を重ねたそのぬくもりがリンの手にじわりと伝わった。酒がまわっているのか、それともリンが冷えすぎているのか。
重ねられた手は熱い。その熱は脈を伝い、血を伝い―――リンの頬をも赤く染め上げた。
あの、あの、と幼子のように頼りない言葉を繰り返すリンを不思議に思った慎太郎は身を屈め顔を覗き込む。
恥ずかしさで瞳を伏せ、何より赤くなった頬を見て全てを悟ったらしい慎太郎も、不器用ながら目元を赤く染めて手包を解いた。
「えっと…湯殿の用意が出来ているらしい。あなたが先に使うといい」
口早に上擦りがちの声に一層身が緊張に縮こまる。こくこくと何度も頭を下げて返事とすると、裾を踏まぬように一歩を踏み出した。片手は、慎太郎に誘われたままに。
終始、慎太郎は紳士的であった。―――何も心配する事はなかったのかもしれない。リンンはそっと胸を撫で下ろす。
この後、待ち受けている初夜の儀も、肩肘張らず委ねる形で胸を借りてしまえばいいのかもしれない。
半歩前を行く、誰よりも広い背中に見惚れた。この人ならば、不用意なまでに己を責め立ててしまう性分をそっと受け止めてくれるかもしれない。
決して甘やかさず、けれども責め立てず、永く共にあることを許してくれるかもしれない。そんな希望をひっそりと胸に宿して、広間に響く愉しい声を背に新婦は部屋を出て行ったのである。
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街や宿場には浴場があるとは聞いたものの、北川の村から街までは相当の距離で、外出の必要もない身ではその光景を目にすることも無い。
無論、自宅にこのような設備があるはずもなく、せいぜい釜で温めた湯で体を拭いたり、可能であれば川へと行水に行く程度の事であった。
「普段は蒸し風呂ですが、今日は特別な日なので湯をはりました。どうぞ、お疲れでしょう」そう微笑む老女の気遣いが嬉しく、リンもつられ笑う。
身を包むお湯の温かさは染み入るようで、胸の奥からため息が出た。冷えた体に巡る血の循環を感じ、リンはそっと指先を揉む。
自分が思う以上に、中岡の家の人達は温かく迎え入れてくれるようだ。その事実が心の負担を軽くしていく。
まだ、まだ、この婚姻の本当の意味を知ることは出来ていないが、中岡の家の心遣いに応えたい。
ただの義務感ではなく心から、支えたい。そうリンは深く思ったのであった。
夜着の薄い襦袢に着替え、火照る頬そのままに寝所へと通される。静かに開けた襖の先、布団が二組ある以外に人気はない。
「慎太郎も湯をもらっていますよ」老女は何の障りなく言うが、リンにとっては十分すぎるほどの破壊力で、これまでに解した緊張が一気にぶり返してくるようであった。
「(…そう、そうだった、これから、ここで)」
疲れやら緊張やらですっかり気持ちが鈍っていたが、花嫁の仕事はまだ終わりではない。ぴしりと石のように固まってしまったリンの背を、老女はお見通しでそっと手を取る。
風呂上がりの手に、皺が刻まれた老女の手は冷たかった。けれども不思議と安心するようなぬくもりがある。
「身内の贔屓目とはいうものの、あの子はとても真っ直ぐですから、きっと助けとなれるはずです」
「―――わたしは、」
「生まれた家を恥じずともよいのです、どこに生まれ落ちても己が為人(ひととなり)に影さえなくば」
老女の目が細められて皺に溶け込む。同時にしっかりと握られた手は固く、熱く、リンの胸へ杭となって突き刺さった。
光となるか影となるか。老女の意図が汲み取りきれず、リンは言葉を失う。けれど、今は、彼女の言葉が否定を含んだものであると思いたくはなかった。
影は取り払えばいい――――そう、噛み締めて。手を引かれるまま部屋へ進み布団の上に座り込んだ。
緊張か恐怖か、織り交じった鼓動が血脈を通り全身を叩きまわる。
「(…考えたって仕方がない)」
なるようにしかならない。
そして成るように為すのだ。
老女の出て行った部屋の中、開け放した障子の向こうで春の月が見下ろしている。
流れてくる風は穏やかに、まるで撫でるように優しくリンの頬を触っていくようで鼓動が次第におさまっていく。
大丈夫。
言い聞かせるように瞳を閉じた矢先、背にしていた襖戸の向こう床がぎしりと軋む音がした。入ります、まるで他人の家のように礼を尽くして襖は開かれた。
身を正し、今度は月を背に。指をつき深々と頭を下げれば困ったような息遣いが聞こえた気がした。
風の流れが変わり、そっと近づいてくる気配は黒く、どこか熱い。ああ、人だ。風でも月明かりでもない。
「顔を上げてください、俺は殿でもなんでもないんですから」
「―――はい」
許しを得て上げた視線の、重なるその距離にたじろぐ。離れるでもなくはっきりと、目の前に映し出された“夫”の顔に思わず視線が揺れてしまう。
何か言葉をと思いながらも何も言葉に出来るだけの余裕もなく、見ているけれど、見えていない、そんな状態の己が恨めしい。
どうにか、自分の気持ちを伝えねばと意を決した時、けれども先に言葉を発したのは慎太郎であった。
「――中岡を頼みます」
ぴしり、と音を立てて入ったヒビの深さは凄まじく、のぼせ上がった体温を瞬間に奪い去った。
過度の期待は身を滅ぼす、平常時であればかわすことも出来たであろう一言一句がただただ重くリンへと突き刺さっていく。
大袈裟なそのやりとりはまるで命を削るかのようで、心中知られたならばなんと滑稽であるのかと笑われる程に、無様な不安であろう。
けれど、それでも、リンは期待していたのだ。
はじめの一言、夫は、家ではなく、私を、見てくれるのではないかという、甘い甘い夢を。
「(…だって何もない)」
続いている慎太郎の言葉はもう何一つ耳へと届いていなかった。悪癖の塊は次第に堆積を増し、鬼雲となりてリンを闇へと飲み込み始める。
思い込み激しく、感受性強く、何より、不器用なまでの真面目という愚かしさ。既にそれは本質を見誤る程にまで膨れ上がり、リンを元来のものから遠ざけるばかりで見失う。
だって、なにもない。
身分も、後ろ盾も、教養も、器量も、見目も、芯も、ああ、なにもかも。
あるのはただ、抜け殻の意志無き肉体と鞭を振るう魂と、付け焼刃の所作だけだ。
ただ、ひとこと、不安だと明かす事さえ、出来ない意気地の無い娘はもうどうする事も出来なかった。
「―――――仰せのままに」
夢も現も拒むわたしはどこへいけばいいのだろう。
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心を無にしたその夜は激しい感情の波に飲まれるがままの濁流の奥底に沈んで行った。リンはただ、泣いた。それだけだった。
朝目覚めた時、隣に重ねた肌の男はおらず、冷たい布団がまるで初めから何もなかったかのような錯覚さえ起こさせる。
中途半端に整えられた夜着を、正すべく身を起こしたところ、それでも下半身やら腰やらに痛みが走った事だけが、現である事を指し示すものであった。
「おはようございます」
「おはようございます―――あの、慎太郎さまは…」
途端、吐き出される溜息に身が凍る。しかし、その溜息はどうやら慎太郎へ向けられたものであるらしい。
家人の話によると、どうも昨晩急に宿場町の方にある友人から召集の知らせを受けたらしい。
当然、祝言の真っ只中でそれには応じられないと断った―――と、ここで家人への連絡は途絶えている。
慎太郎はきちんと断ったと話していたらしいが、けれどもここに彼の姿がないのは紛れもない事実であった。
触れた布団にも熱はなく、昨晩、リンが意識を飛ばした後ですぐに飛び出して行ったのかもしれなかった。友人のために。
「私なら大丈夫です、それよりもどうかこの家のしきたりをお教えくださいませ―――昨晩、慎太郎さまからは中岡を頼むとの言葉を頂きました。
名もなき家の生まれではありますが、私も中岡の女として一日も早く力となりたいのです」
新婚早々飛び出していく夫の話など聞いたことがない。
その妻に向けられる憐みの視線に耐えかねて、リンは一気にまくしたてたのだが、家人の心に響いたようですぐに視線の色が変えられた。
昨夜の老女さながら、思うよりも友好的なその様子に思考がやや薄まる。
「―――もとより、」
「え?」
「…もとより、人の何倍も努力せねばならない身です。どうか、お力をお貸しくださいませ」
―――もとより、望まぬ婚姻であったのでしょう。
飲み込んだ言葉が苦しげに胸の内で暴れまわっていた。
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祝言の日から幾日、慎太郎は未だ北川の村へと戻らない。
その間、リンは心を殺しなんとか邸の基礎情報を脳に叩き込んでいた。幸い、家の作りそのものは実家と大きくは変わらず、備え付けの設備こそ見慣れないものもあれど幾度か手順を聞けば自然と覚えられる程度のものであった。
それよりも何よりも、リンを悩ませたのは文字の読み書きである。嫁ぐ事が決まってから勉強は続けたものの、資料不足の前にそれははかどらぬ事もしばしばあったし、簡単な読み書きしか習得できていない状態は決して明るくはなかった。
慎太郎の「中岡を頼む」という言葉の意味はもしかしたら、不在になる己が代わりに庄屋としての役目を補助してほしいという意味であったのならば。
当然記帳するにも読み書き、計算などは必須である。それは酷くリンを悩ませていた。そしてもう一つの大きな問題―――病床の慎太郎の父親の存在である。
“隣村の庄屋の娘御と祝言を挙げるらしい”村に張り付くように流れていたあの噂の大元である。
庄屋の家は庄屋と。当然の願いの上、庄屋仲間の内で祝言をあげ、一層の団結を図ろうと考えていたのは慎太郎の父、小傳次の考えであったか。
その事実はリンの身をより萎縮させ、実家にいた時同様に、激しく鞭を振るう日々をもう一度蘇らせた。
日常の仕事とは別に、夜は微かな明かりを元に書物をひたすらに読み漁った。記入できるものは何でも利用し、古布、古紙、挙句の果ては地面にまで、リンはひたすらに勉強を続けた。
夜な夜な月明かりの下、ごりごりと地に文字を書き続ける背を家人は奇妙な目で見ていた。同時にそれが文字の勉強であると知った途端に、懸念はぴたりと止んだのであるが、その背に許しを与える人間は終ぞ現れなかった。
ただの一人、余所者が入ったとて中岡の家が廃るだなどとは誰も思ってはいない。
けれども、当主である小傳次が彼女を認めていない以上、他者が割って入るのも躊躇われ、彼女を選んだ慎太郎本人はここにおらず、と悪条件が重なっていたのだ。
ただ、老女だけは時折その背に声をかけ、自愛を促すなどしていた。彼女がリンにとって唯一の心の拠り所であったのは間違いない。
そうして連日くたくたになるまで働き抜いて、自分を苛め抜く日々は続けども、肝心の慎太郎は帰らなかった。
後ろを振り返らず一心不乱に目の前へ縋りつく日々も随分と体に馴染んでしまった頃、とうとうあれがリンの元へと帰り始めた。
――――不安という大敵である。
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その日、リンは日課である小傳次の元への御用聞きへと向かう途中の事であった。
未だ、快い表情を見せてくれない義父の部屋へと向かうこの瞬間こそ、リンが一日の中で最も気が重くなる時であった。
けれども幾度も叱咤し、魂を奮わせる。中岡の為だ、自分がしっかりしなくては、自分がしっかりすればきっと認めてもらえる、と。
いつもの通りぶんぶん頭を振って、小傳次の部屋の廊下を歩く。朝一で磨いた廊下は心なしか光り輝いているように見え、リンの背を後押しする。
よし、頑張れる。胸に微かな自信を抱いて、襖を開けるその刹那の事であった。
ぼそぼそと、聞こえる小傳次と何者かとの話し声だ。
「―――本当に、間に合わぬ娘で」
未だ、満足に帳も書けやらん。
ため息交じりのその声は、吐息に乗せた不安定な音を微塵も感じさせないままに、リンの胸を深く抉り、突き抜けて行った。
まあまあ、と宥める他者の声がその穴を空しく擦れども、突き抜けて抉り取られた心の臓はただ苦しく、血の変わりにと涙を噴出させた。
「(……まだ、まだだめなの……もっと、もっとちゃんとしないと、)」
ぼたぼたと落ちる涙が手を濡らす。ここにやってきて、這い寄る孤独を振り払い、擦り寄る不安を薙ぎ払い続けて二月程は経ったろうか。
毎日たとえひと時さえも怠惰の隙を作った覚えはない。けれど、けれども。まだ、まだ、全然足りていないのだとリンは絶望する。
涙が染み入る指先は酷く荒れて、皮がひび割れ血が滲んでいる。春は過ぎ、初夏が訪れても潤う事のない指先はまるで遠く聞いた砂丘のようで、からからと乾ききっていた。
「(泣く暇など、いとまなど……)」
奮わなければ立てなくなってしまう。零れる涙を拭きとって、襖に手をかけれどもそれを開く勇気が出てこない。
この間にも小傳次と他者とは会話を続けており、このままでは計らずとも盗み聞きになってしまうと、何とか足を動かす事の出来たリンはそっとその場を立ち去った。
今はそれしか出来なかった。
逃げ帰るように自室へ飛び込んで、リンはとうとう顧みずに泣き崩れた。結った髪が解けて床に散らばっても構わず泣き続ける。
指の隙間を滴る涙は生ぬるく、横たわるリンの頬へと溜まっていく。
こんなことをしていてはならない、悲しみに打ちひしがれている時間があるのならば、熟語を一つでも覚えた方がよい――頭では分かっていながらも、立ち上がる事が出来ない。
「…ひっ、……どうし、たら……」
一朝一夕で教養が身についたならばそれほど素晴らしい事はないだろう。けれどもそんな夢物語、見るだけでも残酷だと思った。
夢なら夢のままで構わなかったのだ。それは今も変わりない。
けれどこの夢のような境遇は紛れもない現実で、だからこそ向き合わねばならないと分かっている。
「どうして…ねえ、どうして、」
箍が外れて流れ出した悲しみの激流を、リンは止める事が出来ない。止めるための希望も、たった今打ち砕かれてしまった。
どれだけ頑張っても、成果が出せねば認められる事はない。
結局のところそうだ、嫁いだとて歓迎される土産一つ持たぬままやってきては、本来歩むはずであった安定の中岡の未来に水を差したのは自分自身なのだ。
けれども、けれども。これは私が選んだ道でも何でもないのに、無いはずなのに、どうして。
「どうして私を売ったの」
「……どうして私を選んだの」
「もう、ゆるして」
ひとつめは両親に。ふたつめはあなたに。みっつめは私に。
泣いて喚いたって帰る場所などどこにもないのに。
そう思うと、笑いが止まらなかった。
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異常なまでに自分を責め鞭打つようになったのは、重すぎる責任感と高すぎる向上心とで織り上げた不安という感情を制御できなくなってからかもしれない。
元々の心優しい性格と真面目な性質が、気付けば後ろへ後ろへと全速力で駆けるようになってしまった。それを遠く、悪癖と呼んで切り捨てた。
誰が悪いわけでもなかったと思う。誰が責め立てたわけでもなかった。
けれども誰かと関わるという事は、誰かを、名を背負う事と同意義であって、過剰すぎる責任感はただただ首を絞めるばかりであった。自分と、その誰かを。
唯一幸いしたのは、それを表立って表現しない事であった。顔に出さず、弱音を吐かず、自分との孤独な戦いであった。
そう、リンは誰の事も信じてなどいなかったのだ。
夢の中でまで出でて、自分を責め立てる存在の疎ましさにいっそ気が触れられたらいいとリンは願った。
夢か現か、ぼんやりとする思考の中で思う。
泣き腫らして眠ってしまったらしい目元は腫れており、乱れた髪は肩を滑って背と腹へと流れている。
不意に、意識が戻る。自室の畳に縋りついて泣き続けたはずの自分は、今まさに何者かに抱きかかえられている。
膝を曲げて、抱きかかえられるようなこの姿勢はいつかの雨の日を髣髴とさせた。
目の前の真っ暗な壁はとくんとくんと脈打って、まるで人の胸のようであった。少し早いその音にどこか安心感を求め、耳を近づければそれは一層速さを増す。
腫れた目は重く、再び上下が重なり合って耳へと神経が集中する。リンは温かいその壁に耳を預け、そっと意識を溶かし始めていた。
緊張も、深い思考も、自虐も、何もない穏やかな時間であった。
時折目を開けて眺める世界の、ぼやけた視界の先は群青に満ちており、やはり開け放した障子の隙間から流れ込んでくるのは風であった。
けれど、記憶に一番新しい風とは温度がまるで違った。
「…風もこんなに暑くなっていたのですね」
がむしゃらに走り続けている身では、それを確認する時間もありませんでした。
そう独り言をもらせば、壁はまるでそれに応えるように鼓動を速める。と、と、と、と。一定の間隔で刻まれるその音はまるで焦っているかのような音色だ。
その分かりやすさにリンは笑う。
「…ね、私ね、駄目な女なんです。焦れ続けた夢が現になった事を受け止められずに、言い訳ばかりして、何も信じようとしないの」
「おまけにね、器量悪しときていてね。…ちいともうまくやれないの。加えて弱虫ときていて、いつも逃げてばかり」
つらつらと出てくる己の悪口で自分自身を傷つける事も、日常茶飯事で息をするのと同じようなもので。リン自身で止める事が出来なかった。
情けなさや寂しさや、不安や。断ち切れずにぐるぐる渦を巻く思考も、こうして素直になれば分かりやすく単純な気持ちであるのだろう。
嫌われたくない、失望されたくない、縁を切られたくない―――襲い掛かる不安な事柄はきっと自分の内に敵がいて。誰に原因があるわけでも無い事なのかもしれない。
大切なものが多すぎたのかもしれなかった。
ぽたぽたと再び涙が零れはじめる。言葉に出来ない拙い想いを、外へと逃がすように。
リンの言葉に反応するかのように面白いほどに鼓動を鳴らす壁が好ましくて、ついつい言葉を許してしまう。
「きっと全て思い込み。親が私を売ったとか、お義父様が私を排斥しようとしているとか、旦那様自ら私を選んだとか、全部全部」
「――――どうしてそう思うんです」
「だって」
だって? 物言わぬ壁が鼓動を言の葉に乗せてきた。摩訶不思議な現象は夢だからであろうか。ならば何を言っても構わない。
目が覚めれば全てが幻と消えるのだから―――ごくりと喉を鳴らして、リンは掠れる声で絞り出した。
「…誰も何も言ってくれないもの」
仕草から、雰囲気から、表情から――――もらえない言葉の代わりを読み取る日々に疲れました。
弱虫な私は、直接的な言葉でそれを求める事も出来ませんでした。
「……いらないのなら捨ててくれていいのに」
庄屋の若君に恋夢見ていたあの頃に、戻りたい。
さめざめと泣くように落ち込んでいく気持ちとは裏腹に、耳を寄せた壁はどくんどくんとけたたましい音を立てていた。
まるで追い詰められているようなその焦りの音に慰めの言葉をかけたくて、リンは顔を上げる。
端のあるあたたかいその壁を抱きしめるように腕を回した途端、強い力で引き寄せられた。
突如壁を突き破って生えたかと思うほど確かに、ぎゅうぎゅうと抱き寄せるそれは人の腕のようで、締め付けられる苦しさといい夢にしてはあまりに現実的であった。
その壁は震えているのか、頭上から微かに吐息のようなものが聞こえてくる。言葉のようにも聞こえるそれに耳を澄ませば、どこかで聞いたことのある音で、囁いた。
「…いらないはず、ないでしょう」
ああ、なんて夢だとリンは思う。抱きしめる腕を伸ばした壁は、終ぞ声まで似せて、ほしい言葉を囁くのだ。
自分が見せた夢とはいえなんと卑しいのだろうか、けれど、嘘でも嬉しくてたまらない。
肯定されることで厚く塗り固めた“庄屋の嫁”という虚勢が崩れたのかもしれない、ひび割れた音のようにぽろり漏らす己が声は想像以上に頼りなかった。
堪らなくなってリンは壁へと腕を回して縋りついた。まるで人の背のように、ゆるい弧を描くその壁の広さにぬくもりを吸い上げて、リンはまた泣いた。
「……現で慎太郎さまに言ってほしかった」
「―――リンさん、俺です。夢じゃありません――現です」
「……え?」
壁が、はっきりと。名を呼び現を呼んだ。拘束を解かれた解放感の勢いまま、リンは再度顔を上げる。
暗闇の中、微かな月明かりが照らすその壁は―――紛れもない人の胸で、青白く浮かび上がる端正なそれは、リンが焦がれ続けた夫の顔をしていた。
おぼろげな意識の中で、ただただ混乱する頭では言葉を紡ぐ事が出来ない。何が現実か何が夢か、嘘か。
まるで幼子のように白黒させて夫―――慎太郎を見やるリンの目ははっきりと見開かれ、次第にわなわなと震えはじめた。
とんでもない事を言ってしまった。全ては現であるのに、ずっとずっと胸の内に秘め続けたリンの全てが曝け出されてしまった。
闇に潜んでいた恐怖と不安が一気にリンを取り込むべく襲いかかる。じわじわと嬲るように侵食を始める目が、痛んだ。
けれどそれは不意に取り払われる。闇の中から手探りで探り当てるように、大きな手がリンを掴み、引き上げたのだ。
「…っ」
軽々と腰を掴み、宙に浮く体は慎太郎を見下ろす形で向かい合う。その勢いに驚いたまま、そっと下されたのは彼の唇だった。
触れるだけの優しいそれは、けれどもリンの闇を散らすには十分で、ほどなくしてそっと離れた。
驚きで固まるリンから映るその男は、月明かりに白く輝きながらも目元を赤く染めて視線を逸らしている。
けれども腰を持ち上げるその手はしかと力が込められていて、絶対に離さないと言われているような気持ちにさえなった。
持ち上げていたリンと共に畳へと落ちる。慎太郎の膝の上に据わらされる形で向き合えば、目じりに残る涙を拭われて。
―――赤い目元そのままに、それはゆっくりと笑った。困ったように。
「―――はじめは、確かに、指標だと思いました。…ああ、少し長くなります。俺の話を聞いてもらえますか」
リンは小さく頷く。今は最早何も言葉は出てこなかったし、考える事も出来なかった。
月明かりがただ静かに照らすだけの小さな部屋に、衣擦れの音が寄り添うように響いていた。
そんな夏の夜の事であった。