慎太郎とその妻(未完:無期限更新停止)
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16.明けの日
枯葉は雪に。侘しい農村にも等しく降り積もるそれは、純白という清廉な装いを北川にも授けていく。
ぱちぱち、ぱちぱち、とささやかな音量の囲炉裏囃子を聴きながら、リンはそっと薪をくべては火の番を続けていた。
ちらりと目をやるは、脇に寝転がる義父の小傳次で、時折彼の足元に入れた湯たんぽの具合を確かめながら、続けるは日課となっている草鞋作りである。
き、き、と鳴る声を聞きながら手早く編み込む実家の知識は相変わらずの好評で、金子の慰みにと始めたそれは、思いの他多くの収入源となっていた。
すっかり、小傳次ひとりが男手となってしまった中岡の家は年の暮れだというのに随分侘しい。
かたかたと風が叩く戸の向こうで、今日も雪が音を食らうてしまうのも大きいが、特別広くもないこの家でさえも、まるで無音の穴かのように思われてしまうと、リンは不意に思う。
魔が差す。男手不足の日々で冬の水汲みが一番つらい。固くなった指先の皮膚、ぱっくり割れた赤い紅の間に藁が差し込む度に、リンは小さく悲鳴をあげた。
「…リンさん?」
「あ、すみませんお義父さま。起こしてしまいましたか?」
「いや、いい」
のそり起き上がる小傳次の、布団から覗く手は酷く細い。ここ数か月の間にまた一層痩せてしまった気がする。
皺が目立つその古枝のような腕を擦りながら、小傳次はリンへと向き合った。
見目、すっかり老けてしまったと言えども、やはりこの男は慎太郎の父以外の何者でもないと思わせる、真っ直ぐな瞳を携えながら。
「暮れの準備はいかがか」
「はい、必要なものは全て一式そろえてあります。おせちも…細やかですが概ね詰めてあります」
「そうか―――なあリンさん、今年の正月はあなたは実家で過ごすといい」
「…え?」
予想の範囲外の言葉に、しばらくその意味が分からなかった。ようやく頭が働き、意味を理解したとき胸の内に湧き上がってきたのは喉を焼く、酸のように激しい感情。
波に乗って運ばれてくる疑問の言葉に困惑が織り交ざる。これ以上漏れ悟られるのを防ぐべく、閉じた喉がひゅうと鳴る。
どこから持ち出して来たか。秘蔵の言葉が風に乗った。
「お義父さまをひとりになどさせられません」
「いや、俺は大丈夫だ。ここの所調子もいいし、馳走もあるのだろう?飢えの心配もない」
冗談か、はたまた皮肉か。皺が深く刻まれた義父の目元が細むのを眺めながら、リンはとうとう言葉を無くしてしまう。
彷徨う視線が映した男の指先は微か赤らんでおり、言葉の通り、義父の好調を確認するに至ったわけだが、その事実はただリンの逃げ場を無くすだけである。
一文字に結ばれた唇は再度開かれず、「昨年帰られなかった分まで、孝行してきなさい」―――その言葉と細い笑顔とに、逆らう言葉は見つからなかった。
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土産にと持たせてくれた野菜と柚子加工品、いくばかの餅を抱えてとぼとぼ歩く実家への道はただただ寒い。
四季折々に実りを誇った畑らも、今はその役目を終えて眠りについているそこは、だだっ広い土色と枯れ木色が並んでいるばかりで、リンの気持ちを察する事もなかった。
さすがに年の瀬、最早、際と呼ぶに相応しい大晦日の夕暮れ時である、今頃であれば本来、自分も中岡の邸にて義父と温かい汁物でもすすっていたかもしれない。
その証拠に、先ほどから村人一人、すれ違わない。
遠く遠くに見える小さな茅葺きにどこか温かさを感じては、木枯らしに乗ってかすかに聞こえる団欒の音。
一層、気分は滅入る一方であった。白い溜息がすぐ消える。
「…だって」
先程から文句ばかり垂れ流している自分に気付く。向き合わねばならないのは辺りの大晦日の風景などではなく、実家へ帰る事、その意味であるというのに。
昨年は新婚だからとか、まだ中岡に慣れていないからだとか、なんやかんやと理由を付けて実家挨拶を拒んだものだ。
「(…もう戻らない覚悟で出てきたんだもの)」
言葉と裏腹に、進む足は止まらない。引き返して戻ったとて、今の自分に帰る場所などないのだ。
―――もとい、実家とは名ばかりで、そこさえも“帰る場所”などではないのだが。
あぜ道を進み、枯れ藪の鳥居をくぐって見えてくる隣人の家。それを通り越して少し行けば、実家であった。
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それを一目見て、リンは驚いた。まるで別の建物に生まれ変わったかのような錯覚さえ起こした。
ぱちぱちと幾度かの瞬きを経て、間違いないかと目を開け直しても現実の光景は変わらない。
上を通るだけで大きく軋んだ朽ちた柱の代わりにと、縁の下で力を魅せる真新しい木の柱。
ぼろぼろで穴開きばかりの障子は、伸びた背筋のようにぴしりと張られて冬の風を防いでいる。他にもいくらか、補修された跡の見つかるその小屋は、紛れもなく実家だった。
呆気にとられて立ち尽くすリン前、玄関の扉が左へ開く。目があったのは、母だった。
「リン!」
「…母さん」
辛うじて発した言葉が掠れる。心の準備も出来ないまま再会を果たした実母は、小奇麗になった家とは対称的に見慣れたボロの衣を着ている。
決して健康とは言い難かった頬が微か丸みを帯びていたのが変化であったか、どういう顔をしていいのか分からず、立ち尽くすリンに伸ばされた手は変わらずひび割れ、がさがさとしていた。
ただいまも言えないまま、がさがさの手が身を引いていく。結局、間へと向かうまでの間、リンは一言も言葉を発する事は出来なかった。
「よく帰って来たね、昨年は忙しかったの?」
「……ええ。義父が病だから、出来る限り近くについていたかったの」
ぱちぱちと焚ける囲炉裏の前で当たり障りのない会話が続く。そっけないリンの言葉でも母はよく拾った。
困惑することもなく、煙たがることもなく。その柔らかな対応はリンを一層混乱させていく。売りつけるような形で追い払った娘の機嫌など取ってどうするのだろう。
家が改修されているのも、おそらくは中岡家の計らいなのだろう。だとすればやはり私は体の良い資金援助の形代であって、機嫌を取るのも頷ける。
「(なんて醜い考え)」
胸の辺りを抑えれば、ずきんずきんと臓が鳴いている。自己嫌悪で押し潰されてしまいそうだった。俯き、醜い顔を悟られぬよう押し隠す。
どんな理由あれ、今日まで育ててくれた恩義も忘れ、感謝もせず、蔑み憎むだなどと、そんな己の考えが恐ろしかった。
どうしてこのような考え方をしてしまうのだろう―――あべまきも言うように、昔は明朗活発な少女であった。
好奇心の赴くまま、右へ左へ、着物が汚れるのも忘れて藪を走り、木をのぼり、花を摘んだ。
泥だらけで帰る度に父にも母にもはしたないと叱られたが、花を差し出し笑顔になれば、家の中は明るい光で満たされていたのに。
「…今の生活がつらいの?」
不意に母が言う。弾かれたように顔が上がった。
しまった、と思うより早く目に飛び込んできたのは母の悲しげな顔。
問いに答えねばと脳が叫ぶが、腹に淀む言葉達は鈍く留まり、外へ出すことが出来ない。掠れる息が空しく舞った。
「……だ、って」とうとう口に出たのは非難の枕詞。一度箍が外れれば、外へ出るのは容易だった。つらつらつら、刃物のような鋭利な言葉が、母目がけて飛んでいく。
目の前が赤く染まる様だった。まるで血飛沫のように、ひとつ言葉を吐き出す度に、ぴしゃり、と頬を伝った。
ぬるり伝うそれに背筋が凍った。息を切らせてそれを拭っても、手の甲に光るのは透明な汗雫でしかない。気が、狂いそうだ。
いつからこうなった、なんて、誰より私が知りたい。
あべまきと会えなくなった頃からだろうか
弟が生まれた頃からだろうか
「…違う、違うの…母さん……」
人懐こかった私は好奇心を追い風に、いろいろなものに触れてきた。無邪気な笑顔で、時に貪欲に飲み込んできたそれらは私に“知識”を与えた。
知識を得る事は楽しかった。新たな世界が開けていくよう、厚い葉の向こう、開けた無限の景色に触れた時のように。
気付けばそれらが、知りすぎたそれらは―――世界を閉じ込め、足元を揺らがせるようになった。
右を選べば左が背を刺し、左を選べば右が背を刺し、左右に手を触れれば、次は前から後ろから、360度手を変え顔を変え、この身を貫き続けるのだ。
自分の心が閉ざされる。これ以上傷つかないようにと、これ以上知ろうとしないようにと、ひたすらに有限を求め、その中で生きるべしと、声が聞こえる。
わたしは、知りすぎてしまったのだ。
わたしは、大人になってしまったのだ。
「昔から、泣き虫だったけれど、ね」
ふわりと温かい何かが体を包む。押し付けられる母の胸、掠った鼻先に広がる藁の青い香り。酷く懐かしい香りだった。
母は続ける、気付かなくてごめんね、と。ここまで自分を追い込んでいたと気がつけなかった、と。
抱きしめる母の腕に一層力が籠る。押し付けられた青い衣に、涙が移った。
母は言った。決して身売りなどをしたのではない、と。
親の心子知らずとはよく言ったもので、ここの家族もまた、同等であった。
娘は家を重んじ、貧しい暮らしを支える柱となりたいと願い、せっせと働けども、だが親は娘が柱になる事を願っていたわけではない。
そこに舞い込んできたのはこれ以上無いほどの縁談であった。村の大庄屋の子息との縁談話である。
残暑の名残の陽炎だろうか、信じがたいそれに親御は酷く迷った。同じ農民身分とはいうものの、生活の水準も触れて来たものが、求められるものが遥かに違う。
貧しい暮らしから脱し、娘のこの先には願ってもない支えとなろうが、それに見合うものを持ち得ていないのだから。
「…あなたには黙っていたけれど、郷士さまの家からもね、縁談を頂いていたの」
あべまきの家の事だった。
「でも、そこへは出さなかった」
「…どうして」
しばし沈黙が続いた。ぱちぱちと薪が火花を散らす音だけが支配するこの間の中で、横顔の母の唇だけが結われたように閉ざされている。
問いをするだけの喉は、かける言葉を放つ力を失っていた。ただただ時間だけが戻らない今を静かに流れていく。
常ならば、次の言葉を、無言の意味を予測出来ているはずであるのに。
また、それが出来ない、先の読めない未来に不安と戦っているはずであるのに。
どうしてだろうか、リンの胸は、酷く凪いでいた。
まるでそれは、嵐の前の静けさすら楽しんでいるかのように。
――――からん。薪が炭に変わって均衡を崩す。その音が、一斉に帆を張った。合図を告げる、結ばれた口紐は解かれる。
髪に冷たい雫が落ちる。母は、泣いていた。
「……暁を、見てみたいと願ってしまったから」
瞬間、リンは全てを理解した。まるで今日までの全ての映像が流れ込んでくるような、圧倒的な空気の震えに身悶える。
胸を押さえて呼吸を整えても、整えても、加減なく流れ込んでくる、全ての回路が繋がったような強烈な流動に声なく喘いだ。気付けば、リン自身も涙していた。
「慎太郎さんの…目を、見たのね」
母は頷く。海老の背のように丸まっていくその背に、手を回した。びくりと大きく揺れるそれを慰めるようにと擦れば、刻んでいた震えが止まり始めた。
母も恐ろしかったのだろう。心無い人にも言われたに違いない。リン自身も思ったように――“金と引き換えに娘を売った”のだと。
どうして気がつけなかったのだろう、自分の事でいっぱいで、手放された先で背を張る事ばかりに囚われて、多くのぬくもりを手放してきてしまった気がする。
暁を夢見た親を恨む事など出来るはずもない。自分とて、彼の人のその夢に惹かれて、焦れて、たまらないのだから。
「…ただ、相応しくありたかった。捨てられたんじゃなくって、その場所に見合うからこそ送り出されたのだって、信じたかったから」
けれど誰もそれを肯定などしない。…本当はきっと、肯定も、否定もなかったのだ。ごくりと生唾を飲む。
ただ自分が作り出した“大庄屋”という肩書の力、中岡という名の重さを量り、己の生まれと天秤にかけていただけなのだろう。
縁を重んじる父を、貧しいながら家を支え続けた母を、そこで育った弟と己と、恥じる事などなにもなかったはずであったのに。
「あの人は…きっとこの国ごと愛しているの。私を含めた、この国を。…だから私は、あの人を愛さずにはいられない。あの人も、あの人の夢見るこの国も、暁も」
息を飲む音が聞こえる。抱きしめる力が強まるのは、母の怯えだろうか。海が遥か水平線先まで広がる事を、純粋に案ずる故の怯え。
父も、母と同じ気持ちだろうか。縁と言う言葉で、許してくれるだろうか。
「…きっと、いっぱい迷惑をかけると思います。今度は、本当に後ろ指を指されることになると、思うの」
「ええ」
「…でも、それでも……わたし、慎太郎さんと夜明けを見たい」
茶色の瞳いっぱいに広がっていた紫色の朝焼け、日の一番のまあるい旭。薄小金の目映い光を携えてきらきら輝く澄んだ雲海。
葵の紋の元に雁字搦めになっていた本来の日ノ本の自然を解き放ってみたいみたいのだ。百年続く呪詛から。
その想いは、景色は、母にもよく伝わっていた。母はただ泣いていた。押し殺した喉の奥から嗚咽のような涙が漏れるのを、リンはひとつ残らず胸に秘めて。
ひとときの悲しみを、離別の悲しみを、溢れ出んばかりの愛情を――――愛されていた事を、決して忘れはしないために。
かたん、襖戸が揺れる音がした。
格子窓の薄紙の向こうに見える、二つの影にリンは笑う。声をかけ促せば、控えめに開いた戸の向こうには父と弟があった。
二人とも鼻と耳を赤く色付かせ、おろおろと視線を彷徨わせている。弟の方は分からないなりにも、今生の別れの時を感じ取っていた。
大きな目に溜まった涙を隠しもせずに、とうとうリンへと駆けよる。知らぬうちにすっかりと力のついた、幼い少年の力を全力で受け止めた。
「あねさま、あねさま」
「ごめんね、ごめん……姉さんは……行くね。父さんと母さんを、しっかりとお守りしなければだめよ」
わあわあ泣きじゃくる弟に、男の子なのだから、と叱れば、真っ赤にした鼻をすすって、けれどもきらりと光る目を見せた。
幼いながらも姉を送り出そうと立ち上がる弟にいとおしさが募る。本当はもっとしてやれることがあったのではないかと胸を刺す痛みはあるが、けれども、とリンは頭を振った。
もう、揺らぐことはない。決めた事なのだから。
そっと弟を胸から離し、玄関へと歩を進める。立ちふさがるようにある父と向き合った。おろおろと彷徨わせていた視線を己の物と重ね合わせて、決意を述べようと息を吸う。
けれども、先に言葉を発したのは父であった。
「…お転婆で、危険な事にばかり首を突っ込んで。やっとしおらしくなったと思っていたんだがなあ」
「!」
「……でもこれがお前なんだろう。お前はお前を取り戻せたんだろう、慎太郎君のおかげで」
―――行きなさい。
父は皆までは言わなかった。皺で隠れて小さくなった瞳で、語る。
今まで育てて下さり、ありがとうございました。頭を下げて脇をすり抜ける。扉の敷居、これをくぐれば今生、会う事も親子と呼び合う事も出来ない。
今までの思い出が言葉が走馬灯のように巡るのを感じながら、リンはとうとうそれを跨いだ。じゃり、敷居の向こうの土が鳴る。
振り返る事もないまま、歩き出した。見慣れた寂れた景色も、今は全てが思い出に変わる。見上げた空は鈍色で、今夜は雪になるのだろう。
「…これも、また、私の縁なのですね」
元旦の朝は雪景色。それが惜しいと思いながら、リンは家路を辿る。ただ一つの“夜明け”が見られない事を寂しく思いながら、けれども顔を上げ続ける。
やらなければならない事がある。
いつか本当に、家を出るその日までに。
愛し人を慈しんだ“中岡”を、大庄屋の歴史を受け継ぐ為に。とうとう娘は己が道への一歩を踏み出したのである。
文久元年の師走末、中岡リン二十余歳の事。