慎太郎とその妻(未完:無期限更新停止)
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15.繋いだ手離した手
随分と上の空だ。聞き馴染みのない声に振り返る。
たん、とやや乱暴に開かれた襖の向こう、明かりの乏しい薄闇の中から出でるは、長州藩士、高杉晋作だった。
同じく長州藩士、久坂玄瑞との会談の回数も気付けば随分数を重ねた。
今日で十にはなるだろうか。すっかり気慣れた間柄となった彼が、茶でも、と席を外した直後の事―――と慎太郎は思っていたのだが、男の言葉をするならば、結構な時間が経過していたらしい。
身を正して、男、高杉と向き合った。
「考え事か?貴殿は相変わらず振り回されていると見える」
「ああ、いえ。大したことではありません」
地を這うように低い高杉の声は意図せず慎太郎の胸を掴み、揺さぶりにかかる。
他の人間ならば同じ質問をされたとて、大した響きもないのだろうが、どうにもこの男のものは駄目であった。
寡黙な性質もあるのだろうが、他の誰より考えが読みにくいのだ。意図するところを掴み切れない不穏な気は、彼が黒尽くめの衣装を纏っているからであろうか。
いずれにせよ中岡慎太郎にとって高杉晋作という男は、一言で言えば“油断ならぬ人物”だったのである。
「――そうか?いや、いつもの中岡殿では考えられぬ呆け振りだったぞ。それこそ一太刀、あっさり決まったであろう程に」
嫌味に近いその言葉に困惑するよりも先に、慎太郎の目の端に宿ったのは熱だった。
その熱の変化は誰が気づく事もないような些細な変化であったのだが、生真面目な性分のこの男は上手く隠す事も出来ずに、あっさりと動揺を高杉へと明かす。
熱の籠った焦りの、初心な反応に、面食らったのは高杉の方であった。
切れ長の鋭い目をぱちり開きて、戸惑いを眉に表す。しばし考えるように視線を泳がせた後、切れ長を正して、慎太郎に言った。
「……故郷恋しさにも程度というものがあると思うが」
「な……い、いえ、本当にさした事では」
今更取り繕っても意味はなかった。
赤く茹り上がる顔が何より証拠で、幼子のように素直で明け透けな反応に高杉はとうとう呆れをため息にと乗せる。
高杉にとって、志同じくする者というのは、たとえ長州と土佐という藩の隔たりがあったとしても同志であると考えている。
高杉と慎太郎との直接的な関わりは薄かったが、長州藩にて力を振るう久坂を通じ、慎太郎の話を幾度も耳にしていた。
高杉にとって慎太郎は同志との認識があったのである。
もともと大庄屋の出という事もあって、政治的な問題には明るくないようであったものの、長州を、久坂を頼って出入りを繰り返している内に随分と親しくもなったもので、志に向け、努力を惜しまぬ姿勢も高杉は好ましく思っていた。
――――のだが。
「貴殿の嫁御はなかなかの器量良しだと聞いたが。夫居ぬ間の虫払いの心配でもしていたか」
確信に迫る言葉で問えば、漏れ出るばかりの是の顔色には情けなさやら呆れたような、緩んだ間が生じてしまう。
高杉は慎太郎の事を少なからず好んでいたし、その働きぶりは今後の倒幕に際して大きな力となるだろう事も予想している。
だからこそ、気が削がれるような“弱み”は早い内に克服すべしと考えているのだが、この茹蛸男にどう言えば効くのだろうかと、先ほどから脳内で言葉が踊る。
慎太郎の立場で物を見てみたいと思うが、生憎自分には妻も、好人もいないものだから、話にならない。
「…高杉殿はどう思われますか」
「は?」
あれやこれやと言葉を眺めている内に、茹蛸男は元の慎太郎へと姿を変えていた。先ほどまでの浮かれた色合いを抜き取ったその顔は、どこか青ざめてさえ見える。
主語の無い疑問が耳に届いたが、要領は得られなかった。
何をと問い返し、続かれたのは“所帯を持つことへの苦悩”である。
常ならばハキハキと紡がれる慎太郎の言葉が、この日は一等揺らいでは、躓き、何度も塞き止められる。奇妙な節を刻むその間の言葉に、けれども高杉は悪い気はしなかった。
慎太郎の悩みをつま弾き、弱々しくも芯を携えて奏でられていく。たどたどしい音色が止んだところで、高杉はいつの間にか閉じられていた瞳を開けて彼を見た。
遠く、襖の向こうを見る瞳に映るは故郷の風景だろうか。己よりも幾分大きな図体で随分とか細いそれに、低く沸き起こったのは嗤いだった。
「貴殿がそれでは何も為せまい」
「…では高杉殿は――――いえ、あなたは最初からひとつ、揺るぎないものを選んでいましたね」
「いや、俺とて幾道もある中、この一つを選んだに過ぎない。俺が選んだのは同志の志を背負い、その願いを背負い、行く事。そうだったまでのこと。色に興味がないわけではないがな」
貴殿も、そうだったはず。最後の言葉に、慎太郎は一度振り向いた顔をまた元へと戻した。髪が揺れて隠した横顔に、先ほどまでの郷愁は見当たらない。
「貴殿の嫁御は引きとめるのか」
「いいえ。あの人は何も言わない。…いや、資金繰りを考えてくれたり、庄屋仕事を覚えたり、家を守る事も果たしてくれます」
「いい女だな」
「―――ですが、酷く辛そうで」
その後しばらくその間には静寂と思案だけが残ったように思う。慎太郎も高杉も、両者言葉はなく、ただそれぞれが想いを馳せていた。
高杉から見れば、慎太郎の悩みというのは“軟弱”、その一言に尽きるのが結論であったが、けれども自分は“夫”を知らない。
ただ一言、軟弱だと、自分の視点で切り捨てるには、惜しいと思った。
けれども、今の慎太郎の状態を許しても、このままでは両者が幸福へ歩み寄る事も無いのだろうことも理解している。
高杉の中で不慣れな指先が算盤を弾いた。ぱちん、ぱちんと組み立てられていく、要素と立場と、価値観。静寂を裂いた弾音に、慎太郎が顔を上げた。
「交わらない願いを捨てられないのなら、支えとなるしかないだろう」
「それは…どういった意味です…?」
「貴殿がそうして揺らぐから、嫁御も揺らぐのだろう。…中岡殿も男ならば、その背に女の願いひとつ、背負ってやる甲斐性を見せてはどうなんだ」
高杉の言葉は抽象的で難しい。慎太郎は辛うじて拾ったその言葉を繋いで、しばし考えた。
全ての札が箱へと収まる頃、同時に高杉は語る。既に慎太郎の胸の中には同志の種が埋まっていた。
「藩を出ろ」
その言葉にくしゃりと慎太郎が歪んだ。導き出された結論は同じで、その言葉の意味が、先の高杉の言葉の真意が分からぬわけではない。
高杉は言うのだ。後ろを振り返らず走り抜けろと。妻が、己を支える事で自分の在り方を定めているのならば、その軸になってやれ、と。
「貴殿の“妻を思う優しさ”が結果、妻を苦しめているのだろう」
それは勝手な貴殿の思いやりの押しつけで、優しさなどではない。高杉は最後まで手放しはしなかった。はっきりと通る口調でそう放つ。
その言葉は毛羽立つ事もなく、真っ直ぐに慎太郎の真を貫き鼓膜を震わせる。痛みを受けながらも、それでもどこか笑いさえ漏れていた。
分かっていたつもりであった。反芻し、慎太郎は何度でも笑う。
とうとうおかしくなったかと、高杉は慎太郎を見やるが、下げられた頂点の旋毛が微かに揺れる以外に、かの男も隙が無い。
舞い上げるように、勢いよく顔を上げた時、そこに、落日の色はなかった。玩具を見つけた子供のように、きらきらと。
薄く濡れる瞳が、夜明けの朝露を想わせた。
「あなたは他に無いほど男前だ」
「からかうなら俺は行くぞ」
大げさに外套を翻し、高杉は部屋を後にする。計ったかのような間合いで、その代わりにと部屋に戻ったのは久坂だ。
白い顔を一層白く血抜きをして、慎太郎に詰め寄ってはおろおろと視線を泳がせている。高杉に悪さをされなかったか、と案ずる久坂の目は真剣で、慎太郎の苦笑を誘った。
確かに抉られた胸は痛むし、ぽっかりと穴が開いているような物淋しさを感じる。
だが、あれほど面と向かって正論を投げられたのは初めてであった慎太郎にとって、高杉の“熱さ”は心地よかった。今も残された焔玉はちりちりと胸を焼いている。
灯した火を消さぬようにと、冬風を遮るように慎太郎は襟元を正し、久坂と向き合った。
「―――勤王党への処遇は依然厳しいままでいます。いずれ、厄介になるかもしれない」
「! 私は一向に構わない。高杉も…あれがどういう言い方をしたか分からないが、同志を迎え入れる事には賛成している。その時には力となろう」
女人と見紛う久坂の顔が綺麗に笑った。明るい髪色に、不意に、愛しい人影が差しこんだように思われて、慎太郎は瞬く。
その間にと、差し出された久坂の右手。
応えるよう己のそれを重ねて深く握れば、けれどもやはりそれは苦楽を重ねた男のものであり、恋しいかの手とは似ても似つかない。
当たり前の事に、ひとり笑うとぽかんとした久坂が顔を覗き込んでくる。二、三の言葉でそれをいなすと、慎太郎は荷物をまとめるべく、久坂の手を離した。
熱い手のひらが外気に触れると、一気にそれが冷えていく。その様がどこか怖くて、もう一度襟元をしっかりと重ね、正した。
「世話になりました」
「今更なにを水臭い。いつでも来てくれ―――案外近い内に会う事になるかもしれないが」
ひらり手を上げ、慎太郎は背を向ける。薄黄色に光る日中の陽が照らす道の先には何もない。
じゃり、と一歩を踏み出すたびに溶け込んでいく光の奥。
夜明けに似た輝かしい未来の果てが孤独な世界であっても、それもまた己にとっては幸福な世界なのだろうと思った。
その思いは背に担ぐ荷より、慎太郎に重力を与える。思わず止めてしまいそうになる足に低く唸った。
守った焔がちりちり燃える。いつの間に目元をも焼いただろうか、端が痛んで、たまらず視界を覆った。冷たく冴えた手のひらは骨ばっていて、やはり、あの手とは違う。
「(こいしくて、たまらない)」
愛し人の為に生きられる歓びと、誇らしさと。
それは慎太郎の背を美しく張らせたが、同時に爪先から裂けんばかりの痺れを走らせて苛む。
焔から上がる悲鳴に甘い嘆きが混じっては、吐息に混じって外へと流れるあいのことばに、もどかしささえ感じ始めた頃、いっそ胸が裂けてしまえばいいのにと、慎太郎は薄く笑った。
こんなことではまた、鴉の男に嗤われると知りながらも、けれども心は正直であった。
無くさないと分からない。
堕ちてみないと分からない。
「いつまでも貴女をあいしている」
決して二度、口にすることが叶わぬそれを、今だけはと虚空へ飛ばした。
時代の風は慎太郎を進ませるべく背に添うては追い風となるが、今だけはどうか、この想いを届けてくれるなと囁きかける。
時代の先に決して持っていけないそれを、埋めるように。あるいは遠く遠くへ投げるように。
明日よりも遠い空を見上げ、慎太郎はいつまでも“リン”と呟いていた。