慎太郎とその妻(未完:無期限更新停止)
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14.あべまき 前編
植樹から幾年、柚子の根は張られたものの、実はまだまだ安定には遠かった。
手のひら大になり損ねたそれらは木の根元にころころと転がり、息を止めている。
土に栄養が足りないのか、それとも塩分が多すぎるのか、土地が抱える問題をそれぞれ洗い出しては今後の栽培へと生かしていく。
定期的に開催していた報告会での意見を取りまとめ、慎太郎はよく悩んでいたものだ。
新しい事を始めれば上手くいかない事もある。そんな中でも決して後ろ向きにならず、どうすれば良くなるかを考えていく慎太郎の背は、いつだってしゃんと伸びていて。
リンはそんな彼の背が、愛おしくてたまらなかった。
かぼすと見間違える大きさのそれらを、全て回収して皮を剥き、天日に晒す。
細く切り刻んだそれらは時を経てもいい香りを携えており、食用とはいかないまでも、なにか使えるのではないかとリンは思う。
そうして作り溜めた乾燥陳皮を紙に包み、棚へ収める。気付けばその棚の一角は柚子の香りで満ちる、爽やかなものとなっており、その戸棚を開けることが楽しみになっていた。
鰹の旬も過ぎた秋の暮れから、農閑期となる北川村でも冬支度が始められていた。
大庄屋であるため、農作業そのものや農具の調達、製作の仕事こそなけれども、冬の入りまでに薪を集めなければならなかったり、何かと忙しいのがこの季節である。
小傳次の為に家をなるべく温かくしていたかったのもあり、リンはここのところ薪集めに、連日家を空けている事が多かった。
紅葉もほぼ終わり、山の風景は随分と寂れたものになっていた。風が葉を揺らして遊んでいた春の光景が、まるで百年も前の事のようにさえ感じられる。
秋の物悲しい雰囲気を噛み締めながら、リンは手始めに近場の枝から拾い集めては、背のしょいこへ重ねていく。
とうとう重くなってくると屈むのさえも大変で、前に体が持っていかれそうになるのを必死でこらえるしかない。踏み込んだ落ち葉がくしゃりと鳴いた。
見た目、ただの枯れ木であっても、これが時にいい楽器となる。屈む度に転がる背の薪がからん、と音が鳴るのを聞くのもリンの楽しみの一つであった。
「…なんだか、ひとりみたい」
不意に寂しさがリンを襲った。
実家にいた頃は歳の離れた弟を連れて、木の実を採りに出たりしていたものだった。
あれはこれはと新しい木の実を見つける度に尋ねる弟が可愛くて仕方がなく、リンは飽きることなくその質問に答えていたものだ。
どんぐりひとつでも、くぬぎ、あべまき、こなら、かしわなど、たくさんの仲間がある。少しずつ形の違うそれらを並べて、知り合いに例えていたのが懐かしい。
くぬぎは、どっしり頼りがいのある父。こならは、すらっと可憐な母、小さなあらかしはリンや弟、そして“父”の存在を追い続ける「あべまき」は―――
「…もしかしてリンか?」
からん、背の薪が鳴く。生い茂る木の向こう、寂れた風景の中にくっきりと浮かび上がる青年の影は風を纏っていた。
いたずらに揺らされた木々から落ちる、木の実は雨のように。青年とリンとの間に降り注いでいた。落葉樹―――まるでくぬぎと見紛う「あべまき」がそこにあった。
「“あべまき”―――ですか」
「―――勘弁してくれよ、まだその名で呼んでいるのか」
「…本当に?……ああ、久しぶりですね」
“あべまき”はがっくりと落とした肩を起して、一歩リンへと近づく。
先程までくっきりと浮かび上がっていたその影はリンの呼び声ですっかり毒気が抜けたようで、脱力感を全身で体現している。くにゃり、と折れた腰を見ていた。
距離が縮まり、見上げるその顔はリンの記憶のものとはすっかり異なっている。
「…随分久しい気がする。かれこれ十年ほど会っていないか」
「そうですね。最後にお会いしたのは…まだほんの子供の頃でしたし…面影がないのも当然でしょうね」
「まったく」
あ。とリンは思う。
何となく導き出された“あべまき”の名であったが、その人が本当のあべまきである確証も自信もなかった。
けれども自分に男性の知り合いなど皆無であるし、何より中岡に嫁いでからのリンは“大庄屋の人間”であり、砕けた態度で声をかけられることもない。
しかし、たった今悟った。
彼は間違いなくリンの知り得ているあべまき本人であるという事を。
時間が、環境が人を成長させても変わる事の無かった――――その笑顔を。彼は小さな頃から呆れた時にこう笑うのだ。「まったく、お前という奴は」と。
ようやく落ち着いたのか、とうとう目の前までやってきたあべまきはその腕をリンの肩へと伸ばす。
がっしりと掴まれた両の肩、その手はがっちりと筋張った男の手で、リンと繋いでいたあの頃の手とは似ても似つかない。
顔の造形こそ面影はあれど、あべまきはすっかり“くぬぎ”になろうとしていたのだ。真っ直ぐな瞳がリンへと突き刺さる。
「…綺麗になったな」
「あなたは随分大きくなりましたね」
幼少の頃、足繁く通った郷士の家の子。あべまきはリンにとっての幼馴染だった。
ただの農民身分でしかなかったリンが今に至る文字の読み書きを出来るのも一重にあべまきの家の心遣いのおかげである。
記憶は随分と不確かなもので、なぜあべまきの家へと通わなくなったのか定かではない。
年を重ねたリンが、農作業の労働力として成長したからか、幼馴染が“武士”として歩み始めたからであったか―――ただ真実は、この再会までに十年ちかい年月が経ったということ。
繋いで離さなかった、柔らかな手はすっかりと“男の手”へと変貌を遂げていた。
ところで。不意にあべまきが問いかける。
真っ直ぐな瞳はそのままに、遠慮なくリンを突き刺した。
「大庄屋の息子と祝言を挙げたと聞いた…本当なのか?」
「はい。もう一年以上前の事になりますが…北川村の話なのに、ご存じなかったのですか」
「…ああ、まあ。こちらに戻ってきたのは最近の事なんだ、ずっと外に剣術修行に出ていたから」
「そうなのですね…どうりで」
衣に隠れた太い腕にいくつも傷跡が見られた。実戦の生々しいそれではないにせよ、その後は彼の努力の時を物語っている。
時折、行き場無く頬を掻くその指にも武骨な男の香りが染み入っており、それは少なからずリンに“男”を意識させるものであった。居心地悪く感じ、視線が逸れる。
不意に、詰まる息の音が聞こえた気がした。逸らした視線の先、枯葉にかかる男の影がゆらりと揺れて、まるで陽炎のようだった。
秘めたる想いが熱を上げ、とうとう外に漏れ出たように。あべまきは言った。「お前は全然幸せそうではないな」と。
吐き捨てられたそれに思わずカッとなって睨み返す。あべまきの鋭い視線はあのままで、互いの視線が火花を散らして混ざり合う。
決して相容れないそれらの熾烈さに、慄くは自然ばかりで、はらはらと散り行く木の葉は二人の間を避けるように落ちていく。
先に口を開いたのはリンであった。
「…あなたには分からないわ」
吐き捨てるようにそう告げて、リンは刃を鞘へと戻す。これ以上話す事は思いつかなかった。
あべまきに背を向けて、撒き拾いを再開すべく山の奥へと歩き始めたのだが、しかし、男はそれを許さない。
一歩一歩と距離を詰めては、刃を振りかざす。
「所詮、農民風情が庄屋の嫁だなどと、無理な話なんだ。身分が違い過ぎるだろう」
「…確かに身に余る肩書です。一朝一夕で認められるものだとも思っていません」
「そのように背伸びをしてまで!俺には分かっている。お前は大庄屋の肩書などが欲しい女子ではないだろう。ならば……つッ!リン!」
手から放たれた薪は男の腕に当たり、からん、と音を立てて地面に落ちる。驚いたような、けれども悲しい瞳と目が合うが、今はそれさえも憎らしく見えていた。
放った手のひらが大げさにぶるぶる震えては声にならない感情を炊き上げる。
何が言いたい、この男は。幼馴染だとて私の全てを知り得た気にでもなっているのだろうか。
「……私を蔑むは我が夫を蔑むも同じです」
「違う、俺はそのような事を言いたいんじゃない!」
「ではなんですか、私が幸福そうに見えないから――あなたが代わりに幸せにするとでも?」
「……リン!」
「………まあ、厭だ」
もう秋は過ぎたというのに、目の前の景色が真っ赤に染まる。季節外れの幻のようなそれを世界から追い出したくて、リンはじろりと睨みあげた。
上げ足を取るような物言いだった事は否定しないが、けれどもリンとて決して引き下がる事が出来ない内容であった。
欲しいものがあるのは結構だ。
それが例え他人のものであっても、思うだけならば自由であるとリンは思っている。
しかし、実際に手を伸ばそうと行動する事そのものを推奨する事はない。
どれだけ“相手を想って”だなどと言葉を連ねたところで、相手の意思を確認しない限りはそれはただの妄想であり、言い訳でしかないのだから。
実際、リン自身、慎太郎を愚弄されただなどとは思っていない。
リンと慎太郎と、二人の間で交わされた“夜明けの誓い”は二人にしか分からぬことで、また、多数に支持されるような誓いなどでは決してない。
分かってくれと言うわけではない。
ただ、そっとしておいてくれたらいいのだ。
「…自分の要求を通したいとて、他を悪く言うような器の小ささで、どう海を囲うおつもりで」
言わんとする事が伝わったか否か分からない。
しかし、男からの返答はなかった。
もう一度それに背を向けて薪拾いを再開するが、男がその場を去る気配もない。ただただ気まずい沈黙が走る寂れた山が、再会の苦さを濃く演じ上げる。
じわじわと胸に芽生える罪悪感がどす黒い闇に変わる前に、男には立ち去ってほしかった。
しょいこに溜まる薪の量は予定よりも少ないが、早く山から立ち去る方が心持ち楽になりそうだと、リンは薪拾いを諦め、身を整える。
反転、男と向き合う形となるが視線は交わさぬまま、その横を通り過ぎようとした。
その刹那、男は口を開く。
思わず足を止め、それに耳を貸せば、つとつとと語られるのは彼の胸に広がる海の深さであった。
それはリンのものよりもずっと透き通り、清らかな光を反射している。
清流のように、淀みない綺麗な言葉の数々に心が震えた。
信念を持ち、願いを抱き、その道をひた走った彼の軌跡。
その輝きは夫の持つそれとよく似ていたと思う。きらきらと反射するその流れに憧れども、それでもリンは手を浸したいとは思えなかった。
あべまきがなぜ、淀んだ海に焦れたのかも分からなかった。ただ、父のように、武士のように、誇り高く己を鍛えて、くぬぎになりたかっただけではなかったのか。
「……どうして私なの」
「どうして、とは」
「あなたと共にあったのは本当に幼い頃。それからずっと、今日の今日まで会わずにきて、それでも私を好きだなどと、喜びよりも戸惑いを感じます」
あなたは一体私の何を知っているというのか。思わず出そうになった言葉をごくり飲み込む。
遠慮のない言葉だったと反省しながら、窺うようにそっと男を見上げれば、そこにあったのは想像よりも遥かに穏やかな笑みであった。
まるで幼き日の彼の笑顔、そのままに。
「――きっと、どんなリンでも好きになると思ったんだ」
「………」
男は言った。「たとえ、長い時間が二人の間にあったとしても、どんな誰が、あなたを変えたとしても、好きにならないはずがない」と。
何の確証もないそれをさも当然の事のように語る男の頬は赤い。一足先に息吹の喜びをかみしめるかのような芽吹き顔に、ただただ胸には困惑が広がった。
どんなきれいごとを述べたとて、所詮リンは“人妻”であり、中岡慎太郎以外の誰のものでもない。
それを知りながらも男は己に接近を図るのか―――その行為は、リンの胸に告白の喜びよりも早く、深く“嫌悪感”を抱かせた。
沸々と焚き上がる陰の気に、心が凍りついていく。これ以上浸食されないように、触れられないように。
「本当は、遠くから見ているだけでよかった。…だが、お前があまりにも辛そうに見えたから、いてもたってもいられなかった。俺ならば、お前にそんな顔をさせない。…だから、リン。考え…」
「あなたには分からない」
「お前は本当は天真爛漫な性格なのにそれがどうだ、今のお前は――――、っ、ありのままのお前でいられない相手と夫婦など、苦しいだけだろう!」
「あなたには分からない!」
木霊のように響く男の叫びに背を向けて、リンは林の中を駆け去っていく。呼び止める声が空しく響くが、振り返る事はしなかった。
背の薪が鳴くのさえ疎ましく感じ、ただただ静寂を求めて山を転がり落ちていく。
一人になりたいと強く思った。
とうとう男の声も気配も、リンの世界から追い出したところで、沢らしいそこで己の顔を映してみれば、反射するそこに浮かび上がる泣き虫の女の輪郭。
上がる息が水面を揺らして、不安定に映し出される輪郭がまた泣き出す。ぐさり深く突き刺された言霊刃を、一本一本と抜き取るように。
「…どうして邪魔するの」
閉鎖的な彼女の世界に干渉するもの、リンはそれを全て“邪魔なもの”だと思っていた。
誰に知られる事もなく、ひっそりと誓い合ったこの国の夜明けも、夫の願いも、作り上げた二人の世界の秩序であって、誰が触れていいものでもなかった。
鬱々と考えるばかりで、前に進む事もせず、嘆いているだけのように見えるのかもしれない。けれどそのどれもが、この世界を守る為に必要な事であった。
誰が理解できることではなくても。正しくなどなくても。
大庄屋という身分が大切なんじゃない。
中岡という姓が大切なんじゃない。
不自由ない生活が大切なんじゃない。
それだけは変わる事の無い真実であるのに、それでもその為に生きられないのはなぜであろうか。
立つ瀬が流されていく様を受け入れるばかりで抗わない理由は、ただ。
呼吸が深くなり、気配が消えていく。これ以上を望んだとて答えが出なくなったとき、まるでそれらを遠くへ押し流すように、リンは意識を手放していくのだ。
何もいらないふりをして、諦めたふりをして、また一つ。“ ”を捨てていく。
たわむ意識の糸が切れそうになる瞬間、不意に光が差し込んだ。思わず覚醒する意識と気配を取り戻して、立ち上がる。
藪の奥、冬の霞みに散布する陽を背負って、それはいた。
「龍馬さん…?」
年中変わらぬ太陽が、そこにあった。
家に聞いたら裏山だって言ったから。そう笑う龍馬は変わらない。慎太郎の不在を伝えれば、残念そうに眉を下げながら小さなため息が漏れる。
そんな何気ない仕草が、今のリンにはやたら目についた。
何気なくその意味を問えば、予想に反して龍馬は言いにくそうに口籠る。
きょろきょろと周囲を見回しては、刹那の間を作り出した。気付かぬ者には気付けない程の、刹那の奇妙な間である。
不安が高まるリンを余所に、とうとう決意したらしい龍馬は一歩彼女との距離を詰めた。出来るだけ自然に、他愛もない事のように言う。
「藩を出る事を決めた」
けれども小さな声で。冬の静寂を割って入ったその言葉は恐ろしいまでにリンの心を凍らせた。
耳に入った瞬間に、きやり走った胸と気管支への痛みは紛れもない本物のそれで、瞬間にして指先まで走っては血と熱を奪い去ってしまう。
目の前にいるのは坂本龍馬、その人でしかないはずなのに、同じ背丈が、広い肩幅が、“その言葉”が、慎太郎と重なって振り払えなかった。
何と言っていいのか分からず俯くリンに、龍馬は同じ調子で話しかける。
ただ、その声にはすでに気遣いの音が含まれている。
何もかもを見抜いてしまうこの男を恨めしく思うより先に、体がその場に崩れ落ちた。からん、と音を立てて薪が幾本か転がって、視界の端に龍馬の手が写り込む。
手渡された薪を受け取る為にとうとう顔を合わせたのだが、移った彼の顔はやはり、坂本龍馬でしかなかった。
「なあ、リン。教えてくれないか」
「…な、にを……でしょう」
よろよろと立ち上がり、視線を近づける。迷いのない甘茶色の瞳は、場に似つかわしくない、優しさを映し出していた。
まるで琥珀の中に囚われた虫のように、身動きが取れない。
「あんたをそんな顔にさせるのは誰か分かるか」
「…………」
「なあリン」
「私自身、ですよ」
海の中へと落ちていくように、視界の滲みは深くなり龍馬が色へと変化する。
苦しくて息が出来ないここは、寂しくて疎んでいるはずの場所であるのに、リンに奇妙に安心を与える。まるで水の盾で守るかのように。
龍馬色がゆらゆら動いて、海老茶色が波紋を作る。あれは口がある辺りだろうか…必死に何かを紡いでいるのかもしれないが、水の膜に包まれたリンに言葉は届かない。
だって答えは決まっている。
淋しい想いに囚われるのも、明るい場所へ連れ出そうとするあべまきを踏みにじるのも、いつまでたっても一歩を踏み出さないのも、すべて自分のせいでしかないのだ。
欲しい未来があるのなら、その為にと走り出す龍馬とは違う。慎太郎とも違う。
傷付くのが怖くて、失う事が怖くて、あれよこれよと理由をつけては、同じ場所へと戻っていくのは誰のせいでもないのだから。
「知っているの」
ぶくぶくと、泡が漏れる。龍馬には届いただろうか。随分深くまで潜ったからか、リンのいるそこまで光は十分に届かない。
深い青の、黒冷えるその海域で見上げた空は、酷く眩しい。鳥が、風が、自由に行き交う綺麗な世界。
「私 本当は 聞き分けなんて、よくないのに」
ぽろぽろと涙があふれるけれど、それは全て海に溶け込んで消えていく。人の涙が海を作り上げたのだとしたら、泣いてばかりの私は、やっぱりここがお似合いで。
からから笑う龍馬のように、困ったように笑うあの人のように、空で生きていく事は出来ないのだ。
憧れの光の空から、視線を外して丸くなる。
膝を抱えて小さくなった体は浮力を失いゆるりゆるりと深海の底へ誘おうとする。
冷たい、暗い、けれども懐かしいそこから聞こえてくるのは優しい声だ。
だからあんなに言ったのに、馬鹿ね。と。
それは自分の声に酷似していた。
その声に、伸びてくる深海の手に、実を委ねようと手を解いたその時であった。
大きな音と泡を纏って、男の腕がリンのそれを掴み、強引に引き上げていく。痛いほどに力の込められた指先が腕に食い込み、リンは顔をしかめるが、お構いなしにそれは連れ去る速度を緩めない。
海の闇が段々と遠ざかっては、水面へと近づくにつれて色彩を得る己の体。見上げるだけの、憧れるだけの目映い空がすぐ目の前に迫っている。
龍馬色のそれが、だんだんと形付いて――――龍馬へと、帰った。
「あんたの、悪い癖だな」
地上の、新鮮な空気に馴染みない肺が驚きに震えていた。
先ほどと何も変わらない景色なのに、酷く眩しいその台地は、朝の目覚めの刻のように清らかな空気を放っている。
これ以上傷つかぬようにと耳を閉じ、意識を閉じ、思考を閉じて空想へ逃げ込むリンを、龍馬は叱った。悪い癖だ、と。
「さっきみたいに言えばいいんだ」
「…さっき?」
「“聞き分け”よくないんだろ?なら、我儘言っちまったらいいのさ。前にも言っただろ、あんたの我儘一つ叶えられないほど、慎太郎は小さな男じゃないってな」
ちりちりと目の端が焦げ付く。次第に強さを増していくそれは雷を落としていくように、リンの目の前を走っていった。
目映い光のようなそれは鋭く、けれども決して痛みは伴わずに鮮烈な影だけを残して思考の霧を払っていくのだ。まるで、旋風のように。
「…ずっと、一緒にいたいって…言っていいんですか?」
「ああ。慎太郎、喜びそうだな」
からり、と龍馬は笑う。羨ましそうに、少しだけ目を細めながら。
「どうせ慎太郎の事だ、日本を開く己の信念、大義名分にリンを重ねているんだろう。だが、あんたの願いは、直接的にはそれじゃない」
―――なら、それを教えてやらなくちゃ、あいつは一生勘違いしたまんまだぜ。
その言葉を皮切りに、箍は外れて再び涙が溢れ出した。幼子のように、泣きじゃくるように、肩を弾かせて。
かつて龍馬に言われた。「そうだ、あんたが望む事を言えばいいんだ」と。
あの日、慎太郎へ己の想いを伝えたはずであった。
彼はどうだったろう、大きな腕で包み込んで、決して離さないと誓ってくれたはずだった。
ずっと一緒にいたい。
あなたの一番になりたい
。―――とうに一番だと、彼は言った。
分かってくれたと思っていた。
「誰にでも間違いはある。世間が“間違い”だと言っても、あんたは“自分の我儘だから”と、伝えるのを避け続けてたら―――慎太郎は“家を蔑ろに志士活動に没頭する道楽者”になるってこった」
「そんな…。でも、」
「慎太郎はあんたが一番だって言ったんだろ?なら、世間の意見が正義なんじゃない、あんたが正義なんだ。あんたがあいつの手を引かないで、どうしてあいつが正義を貫ける?」
龍馬の話は難しい。ひとつひとつの言葉を逃さぬようにゆっくりと受け取っては、飲み下す。
慎太郎も間違える?家を蔑ろにする道楽者?いいえ彼は己が全てで未来を切り開く素晴らしい人――――けれど、
「私が、手を引く…?」
「後ろを歩いて見送るばっかりじゃだめだ。隣に立ったって誰も咎めやしないんだからな」
大丈夫、リンなら傾城にはならんだろう。根拠のない言葉に戸惑う視線を返すが、龍馬はどこ吹く風といった様子でそれをいなしていく。
流れていく風の根元に、暁の日があるというのならば、それこそが己の求める“夜明け”なのかもしれない。
深い霧が明けるように。
視界の先が開けていく様に、飽きもせずに溢れるのはやはり、涙であった。
農具を握っていた腕は、記帳を記す細腕となった。
けれど同時に圧し掛かった“中岡”の重責、そして“大庄屋”の肩書。どんな農具よりも本当はずっと、重かった。
もう、いいのだろうか。
あの人は、ふたりのはじめの日“俺と共に苦難の道を歩んでほしい”―――そんな事を言っていた、気がする。
それは、どういう意味だったのだろう。
「…いいえ、ずっと、……ずっと」
「リン?」
「……ああ、……どうしましょう」
ぱちり。黒が支配する盤上にひとつ置かれた白の石のように。久しく忘れられていた気配を辿って、周囲は大きくどよめいた。黒が、見る見るうちに白へと変わる。
まるで、一面の、清らかな雪原のように。導き出されていく、忘れられた記憶。
「ただ、“俺と共に在って…笑って欲しかっただけ”」
私が泣く度に、私が苦しむ度に、同じように苦しんで、怖れながらも手を差し伸べ続けてくれた。
彼が望むものも、追い求める夢も、何もかも、ずっと変わらなかったではないか。
「……わたし、捨ててもいいのね」
独り言であったか、問いかけであったか。
冬の静寂に消えていったその言葉を追う者はいない。
無性に泣き出したくて、リンはその場を静かに離れる。龍馬はその背を、追いはしなかった。
冬籠り前の山の水は多くもなく、少なくもなく、ただ平然とあるがまま流れては、美しさとは程遠い朽ちた枝を葉を運んでいく。
微かな川の音をかき消すように、リンは、声を上げて泣いていた。