慎太郎とその妻(未完:無期限更新停止)
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13.白濁の海
止められないのは進む足ばかりでなく、季節も同様で手の内から滑り流れる水のように形無いそれらは、気付けば随分冷たくなったと思う。
秋深い風は冷たく、作業中の指を芯から冷やしていくが、それでも手を止める気にはなれなかった。
荒縄を引いては隙間なく詰め、けれども足にしなるように一定の隙間を作り、手早く編み込む。
間隔のない指先で潜らせた荒縄を引き上げればまた一段、草鞋の形が出来上がっていく。そこまでで一旦区切りをつけて、リンは火鉢に手をかざした。
じわりと温まる指先、通う血の巡りを感じる度に「ああ、生きている」と。そんな不思議な気持ちになる。
年代物ながらしっかりと暖を取る事が出来るこの火鉢は、つい先日義父が蔵奥から引っ張り出してきたものだ。
まともに使った事のないそれらを、かつて詰め込んだ知識で炊き起こしたのだが、まともに扱えるはずもなく。
燻るようにぷすぷすと音を立てるのは火鉢か、それとも別の何ものかか。
不意に背に感じた視線を振り返れば、襖の向こうより様子を窺っていたらしい義父は肩を震わせ笑っていた。
貧しい実家にあるはずもないその用具を書物以外の場で見られた興奮は十分で、リンの好奇心は珍しくも煽られる。
長火鉢と呼ばれるそれを義父の指南を経て熾せば、覗き込む顔に次第に熱が集まってくる。それを確認して、帯の中に忍ばせた小帳に手順を書きこんだ。
そんな事まで“勉強”するのかい。
苦笑する義父の顔は夫の顔によく似ていて、思わず言葉を詰まらせた。
胸がいっぱいになり、苦しいのを隠しながら一言、紡いだ言葉は「はい。これも勉強です」と。味もそっけもないおうむ返しでしかなかった。
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家主―――夫がいなくても、いや、いないからこそ成すべきことがある。
ここの所のリンは慎太郎の抜けた穴を埋めるべく、庄屋仕事に家事に内職にと隙間なく働いている毎日であった。
庄屋仕事そのものはリンひとりで補えるものでは到底なく、義姉を頼ったり、義父を頼ったりしながらの作業であったが、領民自体もその事情を知り得ているのか、大して大きな事件も起きぬままつつがなく毎日が過ぎて行こうとしていたのである。
なんにせよ、忙しい毎日はリンにとって好都合であった。
やらねばならぬことに、朝から晩まで、それこそ眠る直前まで勤しむ現状は、慎太郎の事を考える余裕など無かったし、秋風が運ぶ物悲しささえも感じる隙を与えない。
時は金なりとはよく言ったもので、こうして空いた時間に草履を作ればそれが巡って金子となる。迷って、足を止めているよりもよっぽど有益であるとリンは思っていたのだ。
「リンちゃん」
「お義姉さま、いらっしゃいませ」
自分に言い聞かせているところで、客人がそっと顔を出す。
慎太郎の腹違いの姉である京であった。
その横、ひょっこりと顔を出す男児を源平と言う。慎太郎と京、京と源平、そのどれもがあまり似ていないのは源平が京の養子であったからである。
京によって厳しく躾けられているのか、源平は人見知りをすることなく、しゃんと背を伸ばしてリンに挨拶をした。
その姿に心を解きながら、そっと火鉢へと案内した。干しておいた座布団を三つ、仲良く並べながら。
すっかり板についた茶の美味しい淹れ方。温めた茶器に注いだ秋の残りの茶の香りは、慎太郎と秋刀魚をつついた思い出を蘇らせる。
「(辛気臭い顔をしてはいけない)」
ふわり漂う愛しい思い出を湯気と共に雲散させる。
小さな盆に並べた緑の茶は無邪気にも、夫の淹れたものと寸分変わらぬ色合いで、リンを苛めるばかりであった。
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「熱いのでお気を付け下さい。さ、源平殿も」
「ありがとう」
「ありがとうございます」
その他の所作に自信はないが、茶に関する事だけは慎太郎仕込みの技術がある。
日中でも羽織が無ければ震える気温の今日この頃には、少し熱いこのお茶が体を温めるだろうと考えていた。
くいっと飲み干される京の仕草は綺麗で、細い首が晒される度にその白い喉に目が捕らわれた。はしたない、そう思い誤魔化すようにリンも茶に口を付ける。
「美味しい。本当に慎太郎さんは茶に関してだけは一人前ね」
慎太郎には三人の姉がいる。長女に縫、次女に京、三女にかつ。三人とも慎太郎とは母が異なり、後妻として入った丑による長男が慎太郎であった。
歳が離れている事、また三女共に既に嫁いでいる事から滅多に顔を合わせる事はない。
貧しい農民の娘が中岡家に入ったということで、婚姻の当日まで肩身の狭い思いをしているのは事実であったし、またリン自身に庄屋の嫁としての責務が果たせているとは思えなかった。
故にこうしてふらりと親族が訪ねて来た時、まるで蛇に睨まれた蛙のような態度になってしまうのも仕方が無い事であった。
そんなリンの緊張を知ってか知らずか、京はその鋭い視線をリンから離す。
そっと視線を余所にやっているリンに、彼女のそんな気遣いは伝わらないのだが、京は京なりに“義姉”として“義妹”を案じていたのである。
「―――最近土佐も騒がしくなってきたわね」
「…はい。慎太郎さんから聞きました。土佐勤王党が結成されたのだと」
京へと戻した視線の先、彼女は開けた襖の向こうを見ていた。朽ち落ちる葉の音さえ響くこの家に気付いたようで、大きなため息を一つ、風へ乗せて流していく。
その意味をリンはよく知っていた。それによく似た横顔を、何度も見ていたからだ。
“庄屋仕事を放って志士活動”言葉は異なれど、ため息に隠された言葉が分からない程リンは楽天家ではないのだ。けれど京の不安を解消する手段も言葉も持ち得ていない。
折角上げた顔はまた下へと引き寄せられていく。
「責めに来たわけではないのよ」
京は小傳次の意思を強く引いた娘であった。血の繋がりということ、それらを守るということに一倍責任感を感じていたのだ。
女ばかりの中岡家にようやく生まれた男子であった慎太郎を誰より可愛がっていたのは京であったし、待望の長男の存在に心強さを感じていたのも彼女であったという。
嫁いだものの中々子宝に恵まれない事を受け、京は源平を養子とする道を選んだ。源平は親戚の子であり、遠かれど中岡の血を引いているからこそであった。
そうした決断を経た京だからこそ、慎太郎とリンの夫婦をただ見守るという事が出来なかったのかもしれない。
「あなたに言っても仕方が無い事だと分かっているんだけど―――でも、引きとめるならまだ間に合う気がして」
今ならまだ志士活動から離れる事も出来よう。京はそう言った。
その言葉にリンの胸にどっと淀みが押し寄せる。ぐるぐると渦を巻きながら臓を占める毒霧に眩暈がするようで、思わず着物の襟を掴み、気を持たせた。
何とか返事をしなければ。
気ばかりが逸り、言葉が紡ぎだせない。
慎太郎がただ、己の信念の為だけに家督を放棄し志士活動に準じているのならば、もっと答えは簡単であっただろう。
ただ彼は祝言を挙げてからいつだって言うのだ。“あなたの幸せの為に”と。
その言葉が誠であるのならば、慎太郎は“リンの為に”勤王に取り組んでいるという事なのだ。
その事実を、どう話していいのか分からなかった。京はきっと慎太郎が勝手にやっている事と思っているに違いない。
リンと慎太郎との間だけで密やかに交わされた誓い―――一人の女としてそれを守りたい気持ち。
けれど妻として、中岡の女として、彼を止めねばならない道理とがせめぎ合い、何も言えなくなってしまっていた。
押し黙るリンに何を思ったか、京は更に続ける。
「勤王だなんて志掲げて、藩主様に背いて…その先に未来などあるのかしら。目の前の生活も保障出来ないのに」
「―――で、すが」
「え?」
弾かれたように顔が上がった。きりきりと痛むのは胸と喉奥で、視界は薄らと涙で滲んでいる。
優柔不断なこの心は是も否も、未だ導き出す事は出来ないが、それでもその言葉だけは聞き捨てならなかったのだ。
「慎太郎さんはもっと先を見据えているのです。…ただこのまま、命尽きる間だけ生きられる事を望んでいるのではなくて、もっと、先を」
「……」
「子孫がいつまでも幸せで暮らしていける世の為に」
最後の方は言葉にならなかった。吐き出す息が震えるように、下がっていくのは体温と指先の生命力で。
震える様を見せたくなくて、茶器へと手を伸ばしたが既に空となっていたそれらはリンの指先よりも遥かに冷たい。
よもや自分の力では収拾不可能となったこの場をどうすればいいのか分からない。白紙の帳のように、ここには何もなかった。
けれどとうとう一点、帳に墨が置かれる。それはすらすらと淀みなく、迷いなく帳を滑って行っては―――リンを大層驚かせた。
見開いた瞳は戻らない。悠々と滑るその文字を掴むには、己も筆を取るしかなかった。不慣れな文字が、言葉が、帳を、空気を震わせる。
まるで親の顔色を窺う子供のように。そっと盗み見た義姉はただ、笑っていた。
どこか寂しそうに、諦めたような瞳で。
「…慎太郎さんならそうなのでしょうね」
「……お義姉さま」
京の立場を思えば当然の事であったのかもしれない。誰もが自由に己を極めるのだとすれば、集団などという枠は崩壊してしまう。
けれど人は個では生きられない―――故に家族というものがあるのだとすれば、個も、集も、いずれも無くてはならぬものなのだ。
慎太郎は個を、京は集をそれぞれ重んじている。慎太郎が個の為に生きる事が出来るのは、集の為に生きている京や小傳次の存在あってこそ。また、逆も然りである。
「…どちらも、辛ろうございます」
「いえね、私はこれでも家を守る事を楽しんでいるのよ。血の繋がりを尊いと感じ、次はどんな巡り会いがあるのかと、その流れを楽しんでいるのだわ。慎太郎さんとてそうでしょう、動乱の中、生きづらけれども、願いに向かって走っている今、それさえ愉悦なの」
きらきらと少女のように、京は語る。その横顔を美しいと思いながら、リンは目の前が霞んでいくような気に囚われた。
中岡の血筋は清廉であるとリンが思うのはこういう所である。苦労を厭わず、一つの道を決めて信念と共に進んでいく気高い姿。
本人達はただ“楽しんでいる”と評すが、リンにとっては理解が至らない部分でもあった。誰かの為に生きているようで、決してそうではない。
そんな姉弟が、心底、羨ましいと思った。
「話が逸れたわ。…そうね、あなたが慎太郎さんを支えたいのも分かるわ。でも私はやはり家を守る事も忘れないでいてほしいと思うの」
「はい、心得ております」
「…きちんと慎太郎さんにぶつからなければだめよ」
見透かしたようなその言葉に、寒気が走った。逃げていると、言われたようで。
何とか体裁だけは取り繕い、にこやかに返答をした。その返答に満足したのか否か、京は一度小さく頷く。
何時の間にやら庭へ出ていた源平を呼び寄せると、茶の礼を言い残して京は邸を後にする。
木枯らしの交う道をまっすぐに進んでいくその背は、どこから見ても中岡のそれであり、恥一点もない清廉さで小さくなっていくのだ。
とうとうその影が見えなくなったところで、リンはそっとその場にしゃがみ込む。抱えた膝も腿も、随分と震えていた。
「(…私は、どちらを)」
選ぶべきなのか。ぶつかるにしてもどちらか一方の意見を持たねば、話し合いを設けたところで意味などはない。
ぐるぐると淀みが脳へと忍び寄るのを止められる気力は残されていなかった。冷たい沼に浸るように、ずぶずぶと沈んでいく錯覚。
慎太郎がここにいたのならば、力強いあの腕で引き上げてもくれようが、生憎彼がいるのは遠い遠い花の都、京の街。
自分の心持ちでさえ人任せなところを、責め立てる声も届かない漆黒の沼の底で、リンはそっと泣いた。
「(だって、そばにいてくれるだけでよかったの)」
「(選んでもらえた事が嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて、それ以上なんて、その先なんて)」
もしもたった一つだけ望みを叶えられるとしたら、この悲しい愚かな声を、あの人にぶつける勇気が欲しい。
全身を覆う冷たい沼の中で、そっと、手を合わせて祈った。薄れ行く意識が今を奪っていくのさえも、心地よかった。
海のようだと龍馬は言った。
淀み汚れた沼となってしまったわたしでは、きっと鳥も、風も、寄り付かないだろう。
そんな事を思いながら、リンはもう一度だけぽろりと涙を流した。