慎太郎とその妻(未完:無期限更新停止)
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12.涙の草鞋
江戸遊学中の龍馬が土佐に戻ったとの話で、リンと慎太郎は揃って高知城下へと赴いた。
波のように流れる茶の髪を揺らしながら、身振り手振り、江戸で見た全てを語る龍馬は相変わらずの様子であった。
からからと笑う、日輪のような目映さにリンはどこか気圧されがちなのだが、慎太郎はというとそうでもないようで、眉間の皺を増やしながら龍馬の話を整理していた。
更紗、伊勢型紙、舶来のギヤマン、拳銃、船、大砲―――工芸品から軍事に関わる全ての最新鋭を、映し出すかのように話す龍馬は生き生きと遠くを見ているように感じられた。
ただ物珍しさに感動しているのではない。それを今後どのように使っていくのか、どうすれば更なる発展を見込めるのか―――琥珀の瞳は遠く、遠くを見ている。
ぞくり、と背が粟立った。
透き通る琥珀の中、閉じ込められた虫がまるで意志を持って動き出すかのように、先を先をと見据えていくのだ。
リンの理解など到底及ばぬ速さで、どんどんと進んで行ってしまう。風は、留まるところを知らない―――そして、風に乗る、鳥もまた、そうなのだ。
「―――ま、」
「武市さんが奮迅している。…だが、やはり弾圧の手が厳しくて勤王は進んでいないのが現状だ」
待って。話を変えようと踏み込んだリンの言葉は、慎太郎の続きによってかき消された。薄く開いた唇は行き場を無くしてか細く震える。
けれどその先もまた、紡ぐほどの力を持ち得なかったそれは、まるで初めから開いてなどいないとばかりに、そっと閉ざされ一文字となる。
気付かぬ慎太郎は勤王党の動き、武市の采配、また、土佐の現状について事細かく龍馬へと報告していた。
知りたくないと耳を塞ぐことも出来ず。リンはただ、暗雲香る改革者らの言葉を聞き続けるほか、なかった。
「……まあ、そうなるだろうなあ。今の土佐が攘夷に転がる事はないだろうし…、それになあ…武市さんが気になるな」
「というと?」
「物騒な事を考えかねんからな。勤王の為と志掲げて、どうにも他を排除しようとしているようにしか思えん」
「あんた…!」
突如発せられた慎太郎の怒声に驚き、身が縮こまる。何かの間違いかと、隣の夫を急ぎ見やれば、膝の上で固く握られた手がぶるぶると大きく震えている。
いや、それだけではなかった。
大きな肩も、背も、全身を赤く染め上げてその全てで怒りを露わにしていたのだ。
決して飛び掛かりはしない。しないが、一触即発とはまさにこの事で、次の龍馬の言葉次第では飛び掛からないとも限らない。さっと顔から血の気が引くのが自分でも分かった。
こんな夫の姿など見た事はなかった。
家で志士活動の話などしたことはなく、したとしても深く語る事もその想いを口にすることもなかった。
全てを胸に秘めて堅実に活動しているのだろうと思っていた、その理解は恐らく正しいが、このように怒りを露わにするほど、情熱を傾けている姿は想像出来なかったのだ。
「(ああ…この人は本当に己の全てを懸けて…国を変えようとしている)」
琥珀の導きにつられ、浚われてしまうと恐怖したことなど、上塗りされてしまう絶望に似たこの感情を、表す力も言葉も、リンは持ち得ていなかった。
猛る獣のような激しい願いをひた隠して、中岡という名の檻に戻ってきているだけなのだと―――リンはそう理解した。
“私がいるから” 慎太郎の不器用な愛の言葉を疑う余地はない。だが、だからこそ“私がいるから”、彼はいつまでも飛び立つことが出来ず、檻へと戻るしかないのだと。
目の前で繰り広げられる思想と思想のぶつかり合いを、どこか遠くで聞いていた。
火花を散らすそれはリンにはただ熱く、触れる事さえ出来そうもない。
海ならば、火を消す事は容易だった。今まで、何度だってそうしてきたのだから。泣いて、影差して、ありとあらゆる手段で、リンは慎太郎を沈め続けてきた。
諦めているのは、彼も同じだった―――何度、海の底へ沈めただろう。本当の願い、を、掬い上げるならば今なのかもしれない。
不意に二人の言葉が途切れた。
穏やかではない沈黙が辺りを支配している。けれども先ほどまでの怒気が和らいでいるのだけがリンの救いであった。
願う国の未来はただ一つ、平和であるのに、どうして至る手段が異なってしまうのか。
その異なりをただ表面上しか見られない集団は衝突するばかりで、理解を得られぬまま無益に血が流れていく。
「…願うのはこの国の未来だけのはずなのに」
皆が皆、正しいものを信じて突き進んでいる。時には他者を蹴落として、命さえも奪って。
その激動の渦の中に、目の前の志士二人も飛び込もうとしているのだ。―――否、既に片足を浸している。本当はきっと、今すぐにでも。
「龍馬さんは…土佐を去るおつもりですか」
「!」
「―――ん、それも止む無しだな」
困ったように顎に手を当てながら、けれども飄々といつもの調子で言葉が返される。彼ら二人の話の内容は分からずとも、龍馬自身がこの土佐に限界を感じている事は話の節から感じられた。
土佐を去る――すなわちそれは国を捨て、浪人となる事を指している…つまるところ脱藩だった。
二度とこの土佐の地を踏めない対価。そして、御尋ね者となる覚悟を経てでも、その琥珀の瞳に秘められた信念を貫きたいのだと、リンはただ静かに理解をする。
肯定も、否定も出来ないまま言葉を無くす中岡夫妻を前にして、龍馬は口を開いた。
「近いうちに武市さんにも言おうと思ってたんだがな。この土佐ではとてもじゃないが俺の考える未来は作れん」
「…それで、脱藩して、その先どうするんです、大体、無事に出られる保証なんてどこにも…」
「江戸遊学中に、黒船を見てきた。海外の技術進歩は凄まじいと思ったよ―――土佐にいてもこれ以上はもうない。細かい方針はまだ決めちゃいないが、海への憧れも捨てられん」
「まだ、迷っているということなんですね」
龍馬は軽く頷く。ただその琥珀に宿る意思の迷いは、脱藩へのそれではない。
その先の、身の振り方。己の志を貫くための道筋を迷っているだけなのだと。慎太郎も、リンも感じていた。
ごくり。嚥下音に思わず振り向く―――夫が、静かに喉を鳴らしていた。誠実な男だと思っていた。静かに、虎視眈々と堅実に、歩を進める人なのだと。
けれどもこれもまた志士であり、やはり男なのだとリンは思う。
目の奥に滾る炎はめらめらと揺らめいて、龍馬の話に耳も心も連れて行かれていた。
連れて行かれてしまうかもしれない、など、なんて物の見えぬ思いであったか。既に夫は――慎太郎は。とっくに土佐のその先まで飛んで行こうとしていたのに。
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「リンさん、話があるのですが」
「ええ、私も、あなたに話があるのです」
涼しさから寒さへと、随分と冬が近づいた晩秋の風は虫の音を届けるばかりでなく、改革さえも運んでいくのかとリンは内心笑った。
随分と数の減った虫の楽団はか細い音を奏でながら、秋の夜をただ演出する。時折強く吹く風は木々を散らして、闇空へとその葉を放り投げた。
天高く昇る月に照らされて、黒い影が頭に落ちる。まるで雨のようだと、どこかで思った。
差し入れた座布団に手繰り寄せた慎太郎の左側から月が、リンの右側から月が差し込んでいた。造りの良い精悍な顔立ちが月明かりで一層妖しく浮き上がって、その美しさに見惚れる。
けれどもその美しさにありありと刻み込まれた困惑と怯えの色に、気付いてしまうのが幸か不幸か。
口出す前に、先手を取ったのは慎太郎であった。
「…実は、勤王党の動きが活発になってきています。武市さんの弟子として俺は…多くの任務を言いつかっています」
無言で頷く。今、言葉を遮る事はしたくなかった。
慎太郎は言いにくそうに、唇を空回らせては小さく息を吐き出している。伏せた瞳に困惑をこれでもかと溜め込んで、けれども決して逃げる事だけはしないのだ。
長い睫が悲しげに揺れて、落ちる先を探しているように。けれども、まっすぐ、もう一度持ち上げられたそこにあったのは決意の瞳であった。
「京への潜行―――許してほしい」
それは決して是非を問う言葉ではなかった。既に決まった運命をとうとう告げただけの、一方的な決断の言葉で、その突き放した音にリンは密かに震えていた。
どこかで期待していた。
彼がまだ、迷っている事を。
何度も何度もそんなはずがないと、可能性を砕かれる日々を経験しているというのに、それでもなお、なお。
口を開けば出てしまいそうな弱気な言葉を何とか飲み下して、月影を利用して表情を隠す。己のものと、彼のものと。今、真っ直ぐに視線を重ねる勇気はなかった。
しかしながら、夫の言葉を予想していなかったわけではない。
何とか隠した動揺を悟られぬ前にと、リンは背に隠していた小袋を引き出した。
見た目に反してずっしりと重いその袋を、二人の間に置く。紐で固く縛られた巾着の中に詰められているのは、リンが貯めた金子であった。
「これを――使ってください」
「これは?」
「いつかこんな日が来た時の為にと…用意していたものです」
龍馬の口添えもあって、内職―――草鞋は想像以上に販売数を伸ばしていた。実家での経験を生かせたことが単純に嬉しく、気付けば一回り、また一回りと売上袋は大きくなっていた。
気付けばどっしりと、慎太郎が志士活動を行う上でのある程度の自由な金子としての金額が揃う程になっていた。
思いがけないリンの援助に、慎太郎はただ目を丸くさせそれらを見ている。何かを言いたげに視線を泳がしているが、言葉を選びかねているらしい。
優しい慎太郎の事だ、きっと色々と思案して言葉を探しているのだろうとリンは笑う。そっと、助け船を出す。
「あなたはあなたの信じる道を進んでください」
そう告げた言葉は震えることなく、先ほどまでの不安が嘘のように晴れていたことにリン自身も驚いた。
夫の背を押したいという気持ちと、ずっと一緒にいたいという気持ちと、せめぎ合っていた事が信じられない程、澄んだ空気を吸い込んでいる。
「(あなたの幸せが、私の幸せ)」
唇は自然に弧を描き、彼に対して微笑んでいる。どこか眉が下がり気味ではあったが、この薄暗さならそれにも気づかれないだろう。
吹っ切れたとまではいかないものの、それでも今は彼の背を押したいと、また、押すことが出来る位置にいる自分が誇らしく感じられる。
慎太郎は幾らか視線を彷徨わせた後、間に置かれたそれをそっと引き寄せて、膝の上にと乗せた。想像以上に重かったのだろう、少しその目を開いて。
結局、どれだけ考えても、慎太郎自身、納得する言葉を選び出す事は出来なかったらしい。
歯痒そうに唇を擦り合わせては離して、を繰り返して。「―――ありがたく使わせてもらいます」とうとう選び抜いた一言は、やはりどこかそっけないような、不器用な彼そのままの感謝の言葉であった。
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門まで出でて、再度背を見る。
押し寄せるような山並の狭間にあるここ北川の景色は田舎の木々の風景である。赤に黄にと目に鮮やかな広葉樹は少なく、夏の間に茂った緑が終わればただ茶に色抜け、朽ち逝くだけ。
一本、また一本と物悲しくなる枯れ木の山を眺めながら、慎太郎は何を思うのだろうか。思えば今まさに紅葉の季節なれば、京の景色はさぞ逸品なのだろう。
背に風が走りそうになるのを跳ね除けて、リンは慎太郎を見つめた。
重ならない視線の先、見据えているは京の方角か。
肩に食い込む鞄の紐が、長旅の指標そのもので、どうしても言葉数が減ってしまう。それでも、笑顔で送り出したかった。
一等丁寧に編み込んだ草鞋を見やって、視線を引き戻す。枯れ木を映したような茶の瞳は、リンを見ていた。
「京への旅でもきっと悪くなりませんよ、それは、私が編み上げた渾身の一作なのですから」
「ありがとう、大切に履きます―――どうか、息災で」
別れの言葉も簡素で、慎太郎は背を向けて歩き出した。送り出しの言葉さえ待たぬまま、足早に進むその背をリンはただ追う事しか出来なかった。
童のように大声を出す事も出来ず、焦燥感にも似た焦りの気持ちだけが胸で渦巻き、言いようのない空しさを残していく。
ただの遠征であって、今生の別れなどではない。龍馬と違い、脱藩の日というわけでもない。なのに。
「……しん、たろうさん…」
何か大切なものが剥がれていくような、強烈な喪失感にリンの膝が崩れた。秋風に運ばれた枯葉がどれだけ吹き付けようと、身を起す事は出来ないまま。
遠くなる慎太郎の背がとうとう見えなくなるまで、見えなくなってもリンはそこから動く事が出来なかった。
帰ってきてねの一言も、頑張ってきてねの一言も、何一つ言えないまま、行ってしまった夫への剥離の痛みだけが身を縛り付けている。
建前、本音、理想と現実。その全てがぐちゃぐちゃに煮え滾った一つに放り込まれて、全てを見失っていた。
どうしたらいいのか、どうすればいいのか、自分の道が決められない。
だってそうだった。初めはただ生活の為に生きていた。祝言を経て庄屋の妻として生きる事を決めた。そして愛する人の為に生きると決めた。それなのに。
今やその人は遠く離れ行き、いつ戻るかも分からない。ここにあるのはただ、目に見えない誓いと、心の残り香だけなのだ。
「(生きているの…死んでなんかない、ただ、遠くへ行っただけ)」
何度そう言い聞かせても全てが空しかった。まるで信憑性のない約束を只管に待ち続ける哀れな女でしかないのだから。
そこで、リンの思考は考える事を放棄した。そんな自分が嫌だったからだ。
嫌ならば、変えるしかない。間違っているなら、正すしかない。ゆらりと立ち上がったのは身か、はたまた精神か。茨の鞭を片手に勢いよくそれを振り下ろせば、溢れ出る血と涙。
「生きるしか、ないのに」
痛い。痛い。
これを恋と呼ぶのなら、知りたくなかった。
ただ、愛だけで生きていたかった。
雁字搦めの呪縛のように解く事の出来ないそれらを抱いて、背を叩くように歩けと命令するのは、それでも愛の言葉でしかなくて。
“あなたに夜明けを”その愛の言葉は、リンに“今”を許さない。