慎太郎とその妻(未完:無期限更新停止)
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11.羽ばたいて消える
昼は庄屋仕事、夜は武市の伴とここの所の慎太郎は多忙を極め、リンと共に過ごす時間は僅かなものとなっていた。
既に互いに語らずともその心内を量るのは容易い間柄と成り得ていたふたりにとって、言葉数少なくとも分かり合えていた部分は多く、先日の市井でのふれあいもあってか、大きな諍いもなく日々を過ごしていた。
羽織一枚では肌寒いここの所の朝晩に、体を寄り添わせる時ばかりが、二人がふたりらしい唯一の時間であり、穏やかなるそのぬくもりが染み入る感覚を、どこか楽しんでいた節もあった。
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夜の帰りが一層、遅くなってきたと感じていた長月のはじめ、いつものとおり近くの座談会場へ出かけた夫を気にかけながら、リンは月を見ていた。
中秋の名月を通り越した月は欠け行き、歪な形で空を漂っている。
それでも雲一つない墨一面に、その明かりは目映く、吸い込むような艶やかさでリンを魅了していた。
さわさわと枯草を撫でる風のささやかさと、遠くか細い虫の音以外に音はない。夜着一枚では冷えると知りながら、リンはそれでも秋の庭から離れられずにいた。
是も否も語らぬ自然の荘厳さに、リン自身も閉口する以外になかった。
こんな夜は胸がざわつく―――波紋一つない水面のような秋の庭は、自然を閉じ込めた箱庭のようで、眺めている己のみが不自然なもののように感じられた。
それを疎外感と呼ぶのかもしれない、そんな言葉を導き出したその時である。
遠く、風音の向こうから聞こえてくる土を蹴る音。間隔の狭いその音はあっという間に大きくなり、庭の左奥、門の所でぴたりと止まった。
低い塀の上から見える、跳ねた栗毛は月の光で青白く輝いている。息を切らせながらも勢いそのままに、その栗毛は庭へ入りて―――視線を重ねた。
「リンさん、土佐勤王党がついに成った!」
十七と書かれた文字板を嬉々として翳し、まるで童のように語る姿は興奮冷めやらぬといった様子で、息つく間もなく感情を吐き出している。
途切れ途切れの言葉を拾い集めて、必死で理解した顛末は、未来という明けの日に開く、華やぐ香りを放ちながらも、決してリンの心を癒すものではなかった。
多量の毒を孕んだその話を、どんな顔で聞いていたか、リンには分からない。
けれどただただ、胸に突き刺さる彼の言葉が痛くて痛くて、とうとう泣きながら述べた言葉は、心のそれとは裏腹の寂しい一言であった。
「おめでとうございます、慎太郎さん」と。
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とうとう予想が現実となる日が来たようだ。
紅潮した頬を惜しげもなく晒す夫を何とか居間へと押しやり、逃げ出した勝手処の棚前で湯を沸かしている。
明かりが惜しいと、炊いた火の赤さのみが広がるその闇の中で、ゆらめく炎に視線を落としても何の感慨も沸く事はなかった。
しんしんと音を立てて、しばらくすればふつふつと。沸いた湯を手早く急須に流し込み、盆に載せてすぐ、湯呑を残り湯で温める。
利き茶が趣味な夫の見よう見まねで始めた茶の準備であったが今となってはお手の物で、我流なれども手間の込んだ一連の仕草も滞りなく致す事が出来ている。
意味もなく、手が震えた。盆の上には用意の整った茶が揃っているというのに、足が縫いとめられたかのように、ぴくりとも動かせないのだ。
「(…行かなきゃ、慎太郎さんが待ってる)」
リンは怖れていた。
この盆の行き先、居間の扉を開く瞬間の事を。その先に広がっている光景を。
こんなところで佇んでいても仕方がない、と唇を噛み締めなんとか踏み出した一歩は、やはり鉛のように重く、引きずるように居間へと向かっていくのが精一杯であった。
それでも本当はただただ、怖れていた。
居間の襖を開けたその先、もしかしたら勤王を叫ぶ男達が集っているのではないかと。何よりも幸福に満ちた夫がそこにいるのではないかということを。
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リンの心配をよそに、襖を開けた先は何の変哲もない見慣れた居間が広がるだけであった。
さっと顔色を整え、慣れた手つきで茶を用意し、そっと慎太郎に差し出す。時間を開けた事で少し落ち着いたのか、赤味が落ちた頬が目に入った。
仏頂面で、やや強面。いつもの慎太郎がそこにいた。
「…やはりリンさんの淹れた茶はほっとする」
「先程まで、興奮していましたもんね」
「…いや、恥ずかしい。家にああいった話は持ってこないようにしていたんですが」
再度沈黙が訪れ、視線は再び別たれた。
ただそれ以上の言葉を紡ぐことはリンには出来ず、ただ静かにこの空間に在るだけの存在と化すことを決めたのだ。
慎太郎の話を広げようと思えばいくらでも広げられた。
分からない事ばかりの勤王党の実態であるとかその活動範囲であるとか、慎太郎自身はどう思っているのか。
その高揚した心の音を聞かせてもらう事はいくらでもできたのだ。
「(気付いているのに、理解しようと…手を伸ばせない私を許してください)」
ただ待つだけの存在であれればよかった。
彼の頑張る本当の理由など知る事もなく、ただ彼の活動を遠くから見守り、その成果を享受する―――待っているだけの貞淑な妻。そんな女になれたらよかった。
けれどリンはすぐに気付いてしまう―――性分には逆らえなかった。そして、それを見て見ぬふりをすることもまた、彼女の良心を苛むのだ。
知らぬまま分からぬまま―――ただ他人が咲かせてくれるのを待つ花になれたら。そんな詮の無い事を願う事もただ空しい。
段々と頭が重くなっていく感覚に、自然と従っていた。気付けば景色は居間から己の膝に。張り詰めた着物が一面に広がっていた。
ああ、またやってしまった…目の前の一つに囚われて周りが見えなくなる事もしばしばあり、気付けば日が暮れているなんてことも多かった畑時代。
あの頃と本質は何も変わっていない。そんな自分に呆れながら、顔を上げようと意を決したその時であった。
温かい何かがぐっと頬に添えられ、引き上げられる。強い力に驚きながら、顔を上げたその先にあったのは、困ったように笑う一番大切な人の顔であった。
「何を考えているか、俺に教えてくれませんか?」
「―――っ…」
「思慮深いのはリンさんの性分であり美点だと理解しているつもりです。…ですが、そんな顔をされて、黙っているなんて俺にはできない」
「…酷い顔です、か」
「ええ。隠しているつもりでしょうけど、少しずつ分かってきました」
強く見える物ほど実はとても弱いとはよく言ったもので、弱いからこそそれを悟られぬようにと強く見せるのだ。外敵から身を守る為に。
その論はリンにもよく当てはまり、幾度となく決意しては撤回してを繰り返して、今日に至っている。
能面のような顔はその葛藤をひた隠すための作られたものでしかなく、けれどそれは己を奮い立たせる最後の強がりの楯。
これを壊される事、それが何より怖かった。何よりも優しい言葉たちは刃先となり、リンへと襲い掛かってくる。
頬にある二つの温かい手。目の前にある困惑と慈愛に満ちた優しい顔。そして、共有、共感という柔らかな言葉の刀が…それでもやはり、怖かったのだ。
「…こわいのです」
はらはらと、熱い涙が目頭から零れ落ちた。すかさず両の手がそれを拭って、間入れずに問いかけられる。「何がですか」と。
「…あなたが、死へと近づいているような気がして」
それもリンの本音であり、また事実でもあった。
勤王などと高らかに叫んだとて、現在の土佐の方針でないそれは受け入れられるものなどではない。
ましてや土佐勤王党をはじめとする、攘夷の思考は上士よりも下士にこそ根付いており、身分の壁が立ちはだかるそこを突破するには幾らかの犠牲がやむを得ない事を理解している。
剣の腕が立つとはいえ、土佐勤王党の賛同者は殆どがその下士であるというから権力で抑え付けられてしまえば改革者は一気に反逆者へと名を変えられる。
そんなリンの危惧に対し慎太郎はただ相槌を入れながら聞いていた。
男もまた妻の言う事が的を外していると思っていないからであったのだが、しばしその話を聞き、それでもと立ち上がる。
大きな手を今度は妻の背へと回し、胸と胸の距離は全くなくなる。満足に食事を採らせても、一行に太る気配のない妻の体はか細く、抱きしめながら慎太郎はそれをただ憂いた。
「それでも」それでも。
いつだって次に出る言葉は決まっていた。
きっとこれから先も、変わる事もなく。
掠れた声で絞り出されたそれに含んだ夫の想いを汲み取れぬ程、リンは幼くはなかった。
喉から飛び出すべく暴れる「理解の言葉」と、相反する「本音」とを飲み下して、そっと胸に預けた唇で蓋をする。慎太郎にはどう映っただろうか―――ただ、胸に添えた唇から伝わる彼の鼓動は早く、遠くへ駆けだしていってしまいそうだと思った・
「簡単には死にません。その為に修行してきたんですから」
ぽんぽんと、大きな手がリンの背を叩く。骨ばったその感触のどこかに、固い肉刺の気配を感じてリンはただ静かに同意の意味で頷く。
唇が離れた胸に、今度は目じりを当てて涙を逃がす。どれだけ近づこうと、ひとつではない二人はそれを共有する事など出来るはずもないのに、ただ、どこまでも寄り添い、距離を無くしたいとどこかで思っていたのかもしれない。
月光が冷やす夜に、背を慰める紅葉はあたたかい。
「不謹慎だが…嬉しいものですね。あなたの心が俺にだけ向いているという事実が」
そう告げて、紅葉は一層熱く萌える。
その言葉に、込められた意味を汲み取って、リンはまた言葉を捨てていく。波立たぬように葉よりも静かに、そっと、海の底へと。
「大好きです、慎太郎さん」
「…俺もです」
底へと沈めた本音に背を向け、恐れを纏ってリンは立ち上がる。泣いてばかりもいられない、と。
意識の外に立ち尽くす少女は誰であろうか。虚ろな、けれども無機質な瞳で己を見つめているのに、抱きしめるための両腕は今は慎太郎の背へと回されていて、伸ばす事が出来ない。
大切なものは一つだけ―――。たった一言、言えないまま。今日もリンは嘘をつく。
「(あなたが私の前からいなくなる事が怖いのです。本当は世界なんてどうでもいい。あなたさえいてくれれば、それで)」
諦める事が何よりも恐ろしかった。きっとただ、それだけだった。