慎太郎とその妻(未完:無期限更新停止)
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10.市井にて
互いが互いを量るあまりに、ここの所沈みがちであった慎太郎とリンの両名。
二人とも顔に出さぬ性分ではあったものの、砂糖菓子を髣髴とさせる甘ったるい空気はここの所、感じられる事が無い。その変化にいち早く気付いたのは小傳次であった。
息子にまで意地っ張りだと指摘された小傳次、二人の空気が気まずいものになっているのには気づきながらも、どうそれを解消してやればいいのかが思いつかず、ここの所、彼もまた悶々を続けていたのだが、清々しい夏が名残で後を押したか、とうとう口を開きて若夫婦に物申したのである。
「市井にでも行って来い」と。
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「珍しいな、父がああ言うとは」
「…お義父さま一人残してきてしまって大丈夫でしょうか」
残暑は未だ続けども、あぜ道の草は生え変わりつつあった。目を刺すような濃い緑をありありと見せつけていた林も、とうとう水を切らしてはその身に茶色の老いを見せ始めている。
かさかさと風が通る度に鳴らす声も、どこか落ち着きを含んだような繊細さでリンや慎太郎を後押ししていた。
ささやかな風音さえ聞こえ届く程に二人の間の会話は少ないものの、領内を連れまわる時より、格段に口を開く頻度は増している。
つとつとと頼りない様子ではあるが、リンも慎太郎に話しかけていたし、逆も然りという体で、夫婦はゆっくりと市井に向かって歩を進めていた。
風も日差しも随分と和らぎ、遠くの山々、棚引く雲は淡色の青空に溶け込んでいる。広く、長く広がる空の彼方が途方もなく感じられて、リンはそっと目を擦った。
吸い込まれそうな程の壮大な空を、久々に見たような気がする―――自分は飛ぶことが出来ないが、あの空を自由に往くことが出来たならば、どれほど気持ちがいいのだろうか。
そんな空想を抱きながら。
「…こうしてゆっくりと歩くのは久しぶりですね」
「そうですね。ここの所は勤王党の会合も多くなってきたからな…。…す、」
―――すまない。その言葉は最後まで発せられず、慎太郎はそこで口を噤んだ。リンとてその方がよかった。
謝られたとて彼が何かを間違えているわけではないのだ。何度も繰り返すそのやりとりは嫌と言う程身に沁みついている。
相変わらず慎太郎は土佐勤王党にて勤王活動に励んでいるとの話を聞いている。本人からの話もあれば、領内での噂話からの時もあった。
龍馬の遠縁にあたる武市半平太なる人物が結成した“土佐勤王党”。
今では龍馬もそれに加盟しているようで、相変わらずの突飛な提案を党内で披露しているらしい。
「私は心配なのです」
「…リンさん?」
「ここ」
振り向いた慎太郎に見せつけるように、リンは己の眉間へと指を当て示す。思い当たる節がないのか、慎太郎はきょとんとした表情で足を止めた。
「しかめっ面ばかりして、戻らなくなったら嫌ですよ」そう伝えれば、二三の瞬きの後、綻んだ慎太郎の笑顔。酷く懐かしく、何より眩しく映った。
龍馬の発言によって武市が動き、武市を尊敬している慎太郎はその命を受けて立ち回る。直接的に意志を交わしたわけではない人づての思想からの行動は、要点を掴むのにも苦労するのだろう。
日に日に深く刻まれていく眉間の皺が、気になったのだ。本来のこの人は頑丈な見た目に反し、とてもあどけない表情を見せる人だとリンは知っている。
恥ずかしい時に誤魔化すように笑う表情や、今しがた見せたような、きょとんとした表情。
瞼の裏に焼きついたそれらをそっとリンは心へと保存する。誰より近くで見られる存在である事が誇らしかった。
それから少しして街道らしい場所まで出ると、行き交う人々も増え程なくして市井が開かれている宿場へとたどり着いた。
京の都や江戸に比べればささやかな規模ではあるが、徳川のなってからというもの建物や治水も整い、随分と便利な生活に代わってきていた。
組まれた小屋の障子に書かれた蕎麦の字や、風に靡いてゆらめく提灯看板、簾の向こうのほくほく顔の嫁さんと、懐の軽さに青ざめる旦那と。
平和で賑やかな町の様子に、リンは少し呆気にとられた面持ちであった。時折、外出する以外の殆どを北川の畑で過ごしたリンにとって、市の、あるいは宿場町の光景などは夢のまた夢の光景であった。
「…これほどまでに賑わっているのに、それでもまた駄目なのですね」
「―――そうだな、随分と根が腐ってきている」
「それは―――」
何故に?尋ねた言葉は悲鳴によってかき消された。視界がそれを捉える前に、慎太郎の大きな背に全てを隠される。密着する胸と彼の背、左の後ろ手に抱えられる体。
いつも領民と土に触れるあの右手は、刀に添えられていた。その光景にぞっとする。
一体何が起こっているのか、確認したくとも慎太郎に遮られた視界ではそれを見る事も叶わない。
ただ、聞こえてくる周囲の声は次第に鎮火していくのだけは分かった。湧き立つ女性の悲鳴も遠くなり、代わりに聞こえてくるのは労いの言葉だった。
ようやく安全が確保できるようになったのか、慎太郎が腕を離す。
それを機に視界を広げた先には、転がっている男の姿と駆け寄り、手を差しだす民衆の姿があった。
倒れている男が土まみれで、口元が赤い所を見るとどうやらけがをしているらしい。
「上士が通った」
「――――あ…それは…」
「嘆かわしい事だ、いつまでこんな意味を成さない上下階級を守り続けるのか…俺には分からない」
吐き捨てるような、冷たい声色だった。
決してリンに対して吐きかけられたものではないはずであるのに、背が凍てついてしまったかのように、強張って動かす事が出来ない。
勤王の志を掲げながらも、慎太郎は家にその思想を持ち込む事はなく、また周囲に言って聞かせる事もしなかった。
一人で、もしくは同志を探し歩を進めてようやく行きついたのが武市半平太という人物の懐で、リンの手の届かぬその世界で日夜弁を交わしているのだろうことは容易に推測される。
田舎に籠っていると世の流れから外れてしまいがちである。大きく変化しない緩やかな日常をリンは殊更望んでおり、変化する事への抵抗さえ感じていた。
無意識下でそれが邪魔をしていたか、慎太郎の志士活動に関して大きく口出しはせず、理解を示す立ち位置でいたものの―――その内容に自ら触れる事はなかった。
ここ土佐では上士、下士の階級差別は凄まじく露骨に現れていた。
生まれ落ちた家柄、身分そのままに上下の区分を突き付けられ、個人の能力が優れていれども、身分伴わなくば政に参加する事はおろか意を口にする事さえも許されない体制が根強く残っていたのである。
大庄屋という肩書はあれども、身分としては農民である中岡も所詮下士でしかなく、武市率いる土佐勤王党の党員もまた、その殆どが下士の党員で占められていた。
故に、土佐の勤王思想への改革は思うように進んでいないらしい。
どれほど嘆願書を提出しても改善提案を申し出ても、全て上士に握り潰されその上へは届かない。
太平の世が訪れても、国が、土佐が抱き続ける武家社会の古き風習を、その概念を、打ち砕く―――外を知った瞳は、留まる場所を見失ってしまった。
それから黙ってしまった慎太郎の背を追い、リンは早歩きで進む。そのリンもまた、言葉を失ってしまった。
是も否も唱えられるほど世界を知らない。
何より深く深く物事を追求する性質の夫である、リンがたとえ誠意を尽くして言葉を乗せたとて、きっとそれは空疎に響き渡るだけの音しか持たないのだ。
それが分かるからこそ、何も言えなくなってしまうのだった。
急ぎ足でどれほど進んだだろうか、不意に前を行く慎太郎の歩幅が縮まる。上がり気味な息を整えて、とうとうリンは慎太郎へと声をかけた。
くるり振り返った男は申し訳なさそうに、そっと手を差し出す。
戸惑いながらも己のそれを重ねると、掠れるような弱々しい声で謝罪を告げられる。
その言葉で―――隔てられた、そう思った。
「…慎太郎さんは広い世界で、色んなものを見てきたのでしょう?そして、このままではいけないと思ったのでしょう?」
一番の理解者でいたいとか、そんな願いは全て自身の我儘でしかないのだ。湧いてくる劣等感などに気遣ってもらう必要もない。
リンの言葉に決まりが悪そうに視線を落とすところから見ても、攘夷や勤王の話題を出したことを後悔しているのだろう。
リンは脳を支配する考え一切を振り払い、“妻らしい”言葉を続ける。
それは凛として気高く映ったが、重ねた手だけは素直に、真実、嘆くように震えていた。
「ならば、後ろなど振り返らず突き進んでください。走り抜けたその先、夜明けがきっとあるのでしょう?…私も見てみたいのです。あなたの導く、この国の夜明けの光を」
本当は変わらなくたっていい。
短き一生、心から愛したあなただけを映して、細々と生きていくだけでいい。
そんな本音にそっと背を向けて、ひとつ、またひとつとリンは海の底へとそれらを葬っていく。
どんな嘘も唱え続ければ本物になるのだろうか―――歪んだ笑顔をどうにか整え、慎太郎を見上げた。振り返らなければこちらの顔など気付かないのだから、どうかそのまま走り抜けて行ってほしいとの願いを込めて。
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「ありがとう」と短く返された礼の言葉に、謝罪の意は含まれてはいなかった。リンのひた隠したそれに気づいたか否か、それはリンとて量る事はない。
内へ内へと進む足をどうにか塞き止め、リンは今一度顔を上げて空を見る。
今日はせっかく義父が気を利かせて作ってくれた時間なのだ。その気持ちは素直に受けたいと思う。沸々と次々に湧き上がってくる後ろ向きな思考をどうにか放り投げて、一歩踏み出した。
慎太郎の横に並ぶ形となって、重ねた手に力を込める。驚いた彼の声が届いた。
「…あまり市をゆっくり見られたことがないのです。まずは、リンにこの世界を教えてくれませんか?」
「―――ええ。お安い御用です。今日は俺がついているから…少し、裏通りの方も歩こう」
重ねた手に力が込められて、そのまま引かれて歩き出す。敬語とそうでない言葉とが混在する慎太郎の言葉の変化も、リンにとっては愛おしく感じられた。
どちらの言葉も柔らかい声色で、よそよそしさはとうに無い。自分にだけかけられる心地のいいそれらが、リンはとても好きだった。
賑やかな大通りと、人気の疎らな裏通りと。リンひとりで街へ繰り出す際は必要最低限の場所にしか滞在しない為、どちらの道も目新しく、活気にあふれた様子が面白かった。
じっと店を見つめれば、それに気付く慎太郎が説明を加える。「あそこは紙屋です、時折、帳用の束を頼んでいますよ」と。
嫁ぐ前とその後と、必死になって叩き込んだ知識は、所詮知識でしかなかったのだと思い知る。こうして実際に目で見て、触れなければそのものの在り方などは分からないのだと、この時リンは深く思った。
慎太郎が各田畑の収穫量の報告を聞きながらも、それでもと足を運びて“己が目で確かめに行く”こと、これに通じているのだと思う。
報告を疑うのでは決してないが、実際に見て触れ合わねば分からぬ細やかなものを、あるいは目に見えぬ息遣いを感じに行っているのだろうと。
「(やっぱりこの人は素晴らしい人)」
幾度となく思うこの気持ちは、決して裏切られる事もなかった。
知れば知る程、その奥の深さに触れてより一層いとおしくなってしまう。
だからこそ、こんな小さな檻の中に囚われるべきではないのだ、とも。それはリンの胸の中に言いようのない寂しさを生むものであったが、それを喚くほど、分からなくはなかった。
ふと、慎太郎の足が止まった。連られ足を止めれば、視線の先にあったのは甘味所であった。野点を模した赤い傘が華やかに店先を彩っている。
「食べていきませんか、ここの団子は美味いと評判です」
「まあ…お団子、ですか」
リンの返事を聞く前に、慎太郎は暖簾をくぐり、中へと入ってしまった。慌てて後を追えば、既に注文を済ませたのか振り返って手招く姿が目に入る。
軒先へ誘われ、言われるがまま腰を下ろし、慣れぬ甘味所の雰囲気にどぎまぎしている内に、あっという間に菓子が運ばれてきた。黄金色の蜜がたっぷりとかけられた団子は、とろりと皿に流れながら整列している。
その隣には黒蜜だろうか、少し鼻を刺すような独特の黒糖の香りが漂い、茶の湯気に乗って二人の胃袋へと届いてくる。
慎太郎の説明によると、黒糖蜜の団子は珍しく、知っている限りでもここでしか食べられない品だと言っていた。
促されるがまま手に取り、結局、食べたことがないという一言も言えぬまま、リンはそれを口に含んだ。
「…っ、おいしい」
「よかった」
串を引き抜くだけで伸びて絡まる団子の柔らかさに驚いた。絡まる蜜が雫を作るのを慌て掬うと、餅も負けず劣らずゆるり形を変えて垂れてくるほどに。
何分、正月の餅さえも満足に買えなかった実家である。
買えたとて、もちろんつき立てのものなど手に入れられるはずもなく、ひび割れカビが生えたものを安く買い、処理をして食べた経験しかない。
今年の正月は初めて実家以外で迎える正月であったのだが、もちろんその豪華な振る舞いにも驚きながらも、けれどもつきたての触感は経験が無く。
例えがたい柔らかさの、なめらかなのど越しにリンは深く感動していた。
団子ひとつで大げさなと夫は笑うかもしれないが、甘味など滅多に口に出来なかった暮らし故にその美味さは別格であったのだろう。
ひと玉、またひと玉と、快調に手が進んでいた。
その間の慎太郎はというと、嬉しそうに団子を頬張る妻を見て満足したのか、茶に興味を移していた。慎太郎の趣味は利き茶である。
湯呑になみなみと注がれた緑の茶の、産地を当てるべくゆるりとそれを楽しんでいたのだが、不意に何かに気付いたのか、隣のリンへと顔を近づける。
どうしたものかと接近する夫の仕草に目を取られていたリン。
己の物よりずっと大きな親指が、口の端に押し当てられた。
湯呑で温められたそれは、じわりと肌に温度を移してそっと離れる。
「蜜がついて――――いた、ので」
語尾の歯切れが悪くなったのは他でもない、慎太郎自身が己の行動に目が覚めたためであった。耳まで真っ赤にして狼狽える夫の、行き場のない手が膝へと宙へと忙しなく動かされる。
童のように口元を汚し、あまつ夫に拭われるなどと、リンとて顔を赤く染め上げている状態であるが、それよりなにより夫の焦る姿はその上を行く。
僅かに冷静だったリンは、小手拭いを取り出し、そっと空いた手で慎太郎の手を取った。湯呑で温まっていたはずのその手は、今は沸騰しているように熱い。
リンの口元を拭ったその指を、夏の領内行脚の時のように、そっと拭き取り小手拭いへと汚れを収める。言葉が浮かんでこないのか、口籠る慎太郎に、リンはただ微笑んで告げた。
「いつも慎太郎さんが童扱いするなと言うのが、よく分かりました」
「…そ、そうですか……それは…よかったです」
「でも―――恥ずかしかったんですけど…なんだか嬉しくもありました」
それは。慎太郎の問いかけには答えずに、誤魔化すように団子を頬張る。先ほどより幾分か冷めても、変わらず柔らかいそれは絶品であったが、今のリンに味など感じる余裕はなかった。
せっせせっせと食べ進め、食べっぷり見事と言われんばかりの捌きを披露し、くいっと茶をも飲み干す。茶の熱さも分からぬ程、リンの顔もまた熱くなっていた。
人気の店だし、あまり長居しては迷惑でしょう、さあ行きましょう。早口でまくしたて、店の中に礼を言い慌てて立ち去るリンのその背を、今度は慎太郎が追いかけた。
妻の言葉に持っていかれた思考はようやく戻り、けれども未だ冷めやらぬ頬の熱が心の鍵をも溶かしたか、速足で進む小さな彼の背にそっと呟く。
「…そんなのは俺も一緒です」
あまりに小さなそれは、喧騒にかき消され妻には届かなかった。
けれども、ようやく追いついた慎太郎の、今度はと並んで歩く二人の顔に幾日前の暗い影はとうに無く。
離れた北川の庄屋屋敷、何かを感じ受けた義父だけがひっそり甘砂を吐いていたとか、いなかったとか。