慎太郎とその妻(未完:無期限更新停止)
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09.狂り狂り
北川村の中岡家には家主の小傳次、その長男の慎太郎、その妻リン。その三人が住んでいた。
慎太郎の実母である丑は彼が十四の頃に他界している。小傳次には慎太郎の他に母違いの三人の娘がおり、皆他家へと嫁いでいた。
後妻の丑の実子である慎太郎は事実上の中岡家の長男であり小傳次も彼に家督を継がせるべく、幼き頃より厳しく躾けたのだという。
北川村の大庄屋をいずれは継いでもらう…そのつもりで、己の体調悪化を理由に江戸から連れ戻したのはほんの二年ほど前の話である。
慎太郎の三人の姉に子供はあれども、皆が皆他家へと嫁いだ身であり、中岡の系譜からは一歩引いた立場となる。
小傳次も病床にある上、年齢的にもこの先が長いとは考えられず、誰もが中岡の家の存続問題に気を揉んでいたのは事実であった。
そこに舞い込んだ慎太郎の婚姻の話に、誰もが胸を撫で下ろしたのは違いがない。嫁の生まれに後ろ盾は望めないものの、政略的ではないその縁に子宝の夢を見たのも早かった。
子孫さえあればその先は希望を抱くことが出来るし、何よりも仲睦まじい二人ならばその機会も多かろうという皆の認識である。重ねて幸いなのは大庄屋という身分もあって、食い扶持に困るような家ではない。
男子が生まれるまで何人でも産めばいい。それだけの余裕はあると、皆、どこかそんな心持ちでいたのである。
慎太郎とリンが夫婦となりて、早一年と数月が過ぎようとしていた。ここの所はその仲睦まじさを道行く農民さえもからかうほどで、誰もが二人の子などすぐにできるものだと思っていた。
しかし未だ二人に子の知らせはない。決して仮初の夫婦でもなく、仮面のそれでもない事は民達自らがその眼をして確認しており、本当に、なぜ子の知らせが無いのかということを皆が疑問に思っていた。
どんなに善良な人間も、大抵は心に微かな闇を飼っているもので、それは無意識の内に意識から這い出ては、行動に、発言に、その姿を現しては仲間を呼び寄せ、肥大していく。
此度の噂も例外ではなかった。
一人、また一人と、若い庄屋夫婦の次世代についての話が広がっていく。
一滴の染みは次第に数が増すごとに重なり、広がり、大きな水溜りとなりて浸透していく。それが善意であれ、悪意であれ。本人達の真意を置き去りに、今日も密やかに広がっていくばかりであった。
残暑厳しき空の中にも、所々に秋の気配を感じ取られる葉月の末の日。
リンは開け放した障子の向こうから夏の庭と同じ景色を見ていた。
陽の光を反射して瑠璃のように照り輝いていた緑木も、ようやく気張った肩の荷を下ろす頃合いを見計らったか、くたりと力を抜いた様子で風に揺られている。
まろやかとなった日差しは黄味がかり、既に蝉の声はまばらとなっていた。ほんの数日前には油蝉に代わり、ひぐらしの声があったというのに、それも今は静かなもので。
秋風に吹かれりん、りんと鳴る風鈴もそろそろお役御免かと感じながらも、それを片付ける気にはなれなかった。少しでも騒がしくしていたい。祭囃子が遠く遠くになっていく夏の終わりを名残惜しく眺めるように。
飛び立つ蝉の亡骸に覚悟を決めたあの日から早数日。夏囃子が鎮まれば鎮まる程に、間を縫い流れ聞こえてくるのは謂れ無き噂話だった。
「人は、役目を背負い、生まれ落ちるものだと聞きました」
「ええ」
「遅かれ早かれ皆、役目を果たさんがため生きるべしと…なれば」
リンは隣の老女を振り返る。決意を秘めた視線は固く鋭くも、老女は狼狽えることなくただ微笑んでそれを受け取った。
老女は二人の祝言の時、甲斐甲斐しく花嫁の世話を焼いていた“ばば様”であった。
後に知った所によると、彼女は小傳次の姉で、慎太郎にとっての祖母であった。後妻として中岡に入った丑に配慮し、実家に顔を出す事はなかったらしいが有事の際には身動きの取れない慎太郎の姉らに代わり、世話を焼いていたのだという。
敵中に赴くにも似た祝言の時、リンを叱咤し手助けてくれた縁もあって、リンはばば様を深く信頼していたのである。
久方ぶりに北川を訪ねると聞いてリン自らもてなしを申し出たのだ。年齢に反し、しゃんと伸びた背筋は真っ直ぐに、穏やかながら鋭さを兼ね備えた面持ちは柔と剛が見事に存在しており、ふれ合う者に安心感を与える。
「迷うているのですか、リンさん」
「…役目は見えているのです。ただ、踏み込む事を恐れているのは事実です」
「それは何故でしょう」
「………私が未熟だからです」
“愛おしくて愛おしくて、一時も離れたくない”そう言えるだけの度胸は、リンにはなかった。あまりに幼い願いだと分かっているからこそである。
「慎太郎さんが…いつかここを離れ、遠くへ行ってしまう事は、分かっています…それが、お義父さまの意に反するという事も」
「慎太郎は待望の中岡の長男ですからね、小傳次が望むのも至極自然な事です。あれは家と言うものをよく分かっている故に」
「…なれば、なればこそ」
そこまでで、リンの言葉はとうとう尽きてしまった。思いはあれども、音にする事は酷く憚られて、睫毛を伏せて瞳を逸らす。どうか問うてくれるなと老女を拒絶するかのように。
老女は老女でそれ以上何も言わなかった。ただそっと残暑の色濃い邸の中で、残り短い蝉の声に耳を傾けている。小柄な老女の息遣いはリンには届かず、まるで部屋に一人いるかのように感じられた。
咎められない。けれども望まれもしない。それが今は心地よくも悪くもあった。
もし老女が“中岡の人間”の色を強く持っていたとしたら、迷わず口にしたであろう。「慎太郎を引き留めろ」と。
小傳次の子供は全て婚姻を済ませ、あとは家督を継ぎ、名を紡ぐことだけを見据えていけばよかったはずなのに。妻であるリンの役目はそうであるはずだった。
けれど、一人の女として、リンは慎太郎を中岡という檻に、夫婦という籠に、閉じ込めておきたくはなかったのだ。
役目に苦しみ喘いだあの夜、確かに誓い合った。この目に夜明けの光を宿すまで、共に苦難の道を歩き往く、と。その夜明けの為には慎太郎の背を押さねばならない事を、リンは深く知っていた。
「(あの人の背を押し、中岡を守り…そして幸せになる)」
それが、リンの役目だった。
それが例え、慎太郎との離別を意味していても、遠き先の未来できっと幸福は交わっているのだと受け止めなくてはいけなかった。
離れていても心が同じならば、きっと幸福に満ちているはず。―――そう、何度も言い聞かせて。
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陽が落ち夜が訪れれば、草むらの奥から始まる鈴虫の合唱が始まる。
風鈴のそれとは異なる透き通った音色は涼やかに、内側から清められていくような繊細なものだと感じた。
まるで清流に身を預けているような清廉な音色に、しばし耳を傾けていた。縁側から見える景色は昼間のそれと打って変わって漆黒が蔓延り、蝉の木さえも見つけられない。
今宵は月も密やかに輝くばかりで、一層、耳が働いた。吹き抜ける風を浴びながら、鈴虫の姿を探してみてもやはり見つける事叶わず、ただ、ぼんやりと草むらの方向を眺めてみる。
次に月が満ちたら聞いてもらおうか、この胸に渦巻く利己的な想いを、全て。許されなくても構わない。
鈴虫の音に浄化されただろうか、少し時間を置いてから今、ついにリンは立ち上がる。向かうは寝所へ。揺れる心はもうどこにも見当たらなかった。
障子を開けた先、見慣れた寝所の並んだ布団はほのかに白光った。月の光が弱い今夜は、上手く部屋を見渡す事は出来ない。
隣の布団は既にこんもりと膨れ上がっており、既に慎太郎が横になっていた。月の光を背に、伸びた影のちょうど頭の所に彼の枕が重なっている。
障子を開けても反応はなく、既に眠りについているようであった。
素早く障子を閉め、リンは布団へと近寄り、それを確認する。慎太郎はやはり、眠っていた。
「……ごめんなさい」
聞こえていなくても、謝っておきたかった。すやすやと小さな寝息を立てて眠る慎太郎の寝顔は幼い。
肩の広さなどリンの倍はあろうかと思う程で、肩の位置もその形も、自分のものとは異なっている。
そっと、布団に手を差し入れて熱を探した。すぐに突き当たった脚は筋肉質で固く、けれども今は休息に力を預けてだらりと伸びていた。
爪先から股の付け根へ、ゆっくりと手を滑らせれば突き当たるそれに、そっと手を這わせた。
夏場の環境に疲れているのか、深く眠りについている男は起きる気配はない。リンはふっと息を吐き出した。
手のひらに感じる熱は彼のものか、それとも私のそれか。いずれにせよ夏がそうさせたのだと言い訳をして、リンは手を動かしていく。
起きてほしいような起きてほしくないような、複雑に入れ替わる二つの意識に苛まれながら、それでも手を止める事は出来ない。汗か、はたまた別の何かか。
触れた先がしっとりと水分を含んできたところで、とうとう慎太郎が目を覚ましたのである。
「な、何をしているんですリンさん…!」
「あっ…」
目覚めと同時に、腕を引き上げられ体勢を崩し布団へと倒れたが、その先は所詮慎太郎の足の上である。常ならばすぐに対処法を思いつけども、今はそれさえも熱と共に溶け行き、まともな思考回路ではなかった。
理性を失った雌のように、執拗に脚に絡まり熱を探せば、ぼんやりと蕩ける思考の向こう、困惑顔の慎太郎が映ったように思う。
ああ、困らせている。頭のどこかでそれを理解していたが、リンにその気遣い、最後の良心を行動に表すだけの理性はなかった。
触れる体はどこも熱く、自分の内面も焼けるように滾っているのに、視界の先の滲む風景だけがただ冷たく映っていたように見えた。
それがただ悲しくて、熱に溶け込んでしまいたいとリンは顔を埋めて口付ける。
びくり、と彼の体が大きく揺らいだ。
「ほ、本当に落ち着いて下さい、まずは身を正してくれませんか」
ぐだぐだと転がる内にリンの着物は肌蹴けて肩や胸元が晒されていた。直接触れ合う肌故に熱かったのかとそこでリンも気づいたのだが、掴もうと手を伸ばす慎太郎に抵抗して、脚へとしがみ付いた。
離れたくない、離されたくない。子供が駄々を捏ねる姿ままの光景に、慎太郎も困惑を通り越して動揺やら呆れやらを表していたのだが、どうにも埒が明かぬ状況を悟り、そっとそれを諦めた。
何がどうしてこうなった、話を聞きたくともリンはどこか錯乱状態であり、まともに向き合って話をすることも出来ないようで、ならばせめてと彼女の言葉を待つことにした。
リンは慎太郎の足元に蹲ったまま、小さく肩を揺らすばかりで言葉を発さない。
「…何がありましたか」
「………なに、も」
「何もなくてこうはならないでしょう。俺にも言えませんか」
「………」
いつもならば月の光に浮かび上がる白い肌も、今宵は闇に浚われてしまって、目を凝らさねばその姿が捉えられなかった。
薄らと視界に映る小さな肩は小刻みに揺れていて、すすり泣くような小さな音が聞こえてきた。
ああ、また、何か溜め込んでいるのかもしれない。慎太郎は思った。
聞き出そうと喉を膨らませた時、先に発したのはリンの方であった。
「……が…ほしいのです」
微かに空気が震える程度の、かすれ声だった。もう一度と身を寄せたところ、とうとう妻が動く。震える手で、震える吐息で慎太郎の胸へ縋りついたと同時に、もう一度言った。
「ややがほしい」と。
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心当たりがなかった。
少なくとも慎太郎が知っている限り、領内で跡継ぎに関する噂などが出回っているわけではなく、また親族に催促された記憶もない。
リン自身が望むのであればやぶさかではないが、そんな一言を言えぬ程夫婦関係が不良だとも思えなかった。
時間さえ合えば未だに領内の視察へ共に出ているし、ここの所は勤王党の役目でしばしば同行できない日にも、大きな変化は見られなかった。
様々な可能性を考慮しても、リンがこれほどまでに追い詰められ、跡継ぎを望む理由が思い浮かばなかったのだ。
そこで思考を脇に、横に眠る妻を覗き見る。泣き腫らした目元は痛々しく、壊れてしまった人形のように動かなかった。
結局、リンの言葉に誘われるがまま情を交わしたのだが、心が通じていない虚無感を抱きながらの情交はただ空しく、熱だけが空回りしていたように思う。
きっとその理由を問うても、妻は決して語らないだろう。
ただ、一つ言える事は、不安だとか苦しみだとか、そんな単純な想いがそうさせているのではないのだろうという推測だけだった。
「(…俺が何か言える立場ではない)」
事実、リンが中岡の後の事を考えてくれるのは嬉しかったのだ。叶うならば隣で、二人で育んでいきたい家族の時間を、けれども慎太郎は自ら手放す事を覚悟している。
その覚悟を滲ませている中で、時折振り返りそうになる弱さを隠しながら、妻の後押しあって進んでいる状態なのである。
リンがどのような事で悩んでいるかは分からない。
助けられるのならば手を貸したいと強く願う。けれど、きっと。
「(…俺があなたを苦しめている)」
一生恨まれる覚悟は出来ている。
けれども、関わりを断つことだけはどうしても出来なかった。
離縁して、真実、他人の関係に戻った時、彼女が新たな伴侶を横に迎える事だけは慎太郎には耐える事が出来なかった。
それがリンの幸せであったとしても―――慎太郎は己の力で彼女を幸せにしたいと強く願っていたのである。
縛っているのはリンであったか慎太郎であったか。二人にはそれは分からない。
「思慮深いとは不幸なことだな…」
ただ心の思うがまま、あなたを抱いて静かな世界で生きていけたらよかったのに。
叶う事の無い願いと知りつつ、けれども捨てる事も諦める事も出来ないまま、二人は同じ理の輪を巡り続ける。
ただ相手を追って、只管に。
どちらかが留まらねば重なる事もないそれがただ空しく、今宵もくるくると回るばかりなのである。