慎太郎とその妻(未完:無期限更新停止)
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08.蝉はなく
幾日前に熱中症で倒れた夫もすっかり元を取り戻した頃の、明と暗の境目が際立つ午の刻。家の事があるからと同伴を断った夫から顔を隠すように背けた先は暗の影で、明へと出でた大きな体を押すべく届けたのは言葉だけ。
気にした様子もなく出かけていったのが救いであった。闇に体を預けたまま、開け放した襖を撫でていく風は生ぬるく、決してリンに優しくはなかった。
じわじわと上がる湿度と、立ち込める畳の香りがまるで藪の中にいるかのような錯覚を起こす。陽に当たってもいないのに、くらりと眩暈がした。
目の届かぬところで命を落とす事がある。当たり前のそれに触れたあの日から、リンは随分と心を弱らせていた。
腰に携えた刀はなまくらなどではなく、また、獲物を捌くためのものでもないのに、毎日見続けているが故にすっかり見誤ってしまっていた。
視る力に長けていると驕ったのかもしれなかった。それは人を斬る為に、あるいは生かす為の刃物だというのに。
「(…何も変われてなどいなかったのね)」
慎太郎と思いを交わしたあの夜から、二人の距離は縮まったのは事実であった。真実、リンも彼によく話をするようになり、他愛もない話から、ちょっとした要望まで幾度も言の葉を交わしては、いくつもの顔を見てきた。
困った顔、笑う顔、拗ねたような顔。そのどれもが自分に向けられている事実に胸が躍ったし、知れば知る程愛おしさは増す一方で、けれども同時に湧き上がるのは離別の寂しさと、不安だった。
追いつかれまいと必死に走れど、手を引き走る慎太郎があっても、その手はいつか離される。一人でも走り続けられるよう、しっかりしなくてはいけないのにと、リンは幾度となく自分を責めていた。
庄屋仕事への知識は随分とつき、その家の者としての所作も大方身に付いた事は事実だ。
いつかの龍馬のように侵入者紛いの不意打ちであっても、それなりに対処できるよう簡単な護身術と棒術は日夜勉強を続けている。
表面上のお役目という意味では、ある程度の成熟を感じられることができていた。だからこそ、意識が向いてしまう、心の問題なのだろう。
リンは立ち上がり、闇の中から光を覗き込んだ。真夏の光は恐ろしく眩しく、ひと浴びるだけで蒸発してしまいそうだと思った。
縁側の外、砂地を照らす光は元の生成り地をかき消すほどの目映さで、真っ白に焼けつけてリンの目を襲う。
そんな中でも遠く聞こえる蝉の鳴き声は、幾重にも連なってひと夏の懇願か、はたまた泣き声か、絶えることなく響き渡っては聴覚を奪った。
ぼんやりと外を眺めているこの時間が無駄であると、これまた生真面目な脳が指令を送れども、リンはそこから動く事が出来なかった。
木の下に転がる、あるいは偶然がそうさせたか。既に身の無い蝉の抜け殻の如く、彼女もまた、ただそこに在るがままとなっていた。
耳煩いまでの蝉のなきごえ。何を請うているのだろうか。
鳴いているのだろうか、本能のままに。泣いているのだろうか、心に沿うて。
「七日間しか生きられないのだものね」
まだ畑と戯れていた頃、夏になると隣人が言っていた。二人の会話をかき消すほど騒々しい蝉の声に文句をつけるリンに、得意げに薀蓄を流してそれを諭す。
蝉は十年近い間、外にも出られず土の中でじいっとその時を待っている。ようよう外の世界へ出られても、そこでの命はたったの七日。それまでに愛し相手を見つけ出し、子孫を残さねば、それまで。
人と比較なんてしない彼らは、命が短い事をきっと知らないけれど、刻一刻と迫る終焉の瞬間をきっと本能が知っているの。
だからこそ声が枯れても、それこそ絶え間なく哭き続けるのね。自分の生きていた証を残さんが為に。
一瞬の煌めきの為に、その何倍もの時間を孤独に耐えうる蝉の定めを不幸だとは思うまい。
速かれ遅かれ生命はいつか必ず終焉の時を迎える。使命を果たさんが為に奪い、奪われが常の理で、それにより無残に散らされる若い命であってもそれは仕方が無い事だと、どこか思っていた。
「…勝手な言い分」
熱射に撃たれ、転がっていたあの人。それで死んだら仕方がない。それが運命だ。なのに。
そればかりは当てはまらないと思ってしまった。
親鳥が息絶え、風が舞い上がって鳥を浚い、また鳥も己が意志で飛び立ち、季節が巡っても、籠は籠のまま、海は海のまま。籠はいつか朽ち逝けども、置き去りとなればお役御免で、危機に晒されることもなければ、ただそこに在るだけの意味のない存在と化す。
海は干上がる事は許されないが、決して干上がる事がないからこそ―――また、それが消える事はない。海と鳥は永遠に共存することなど出来ないのだから、在り続けるだけでは報われることもないのだろう。
いっそ海の中へ屠ってしまえばいい。
錆びつき、誰に見られることなく海底で時を止めるその運命に憧れた。生きる事はとてもつらいから。
いらなくなるのは、とてもつらいから。
ジ、と短く一鳴きして、庭端の木から蝉が飛び立った。
ばたばたと忙しなく動かす羽根は不安定で、飛び慣れぬ印象を受ける。
大きな翼を広げ、悠々と風を纏い、空を舞う鳥とは似つかぬ姿に、思わず笑みが漏れた。あんなに小さな命でも自分の役目を背負い、生きる意味を知っている。
不格好だと笑われ、声すら疎まれても、彼らは誰に気負う事もなく己が命を全うしているのだ。それは時に愚かであり、けれども今のリンにとっては羨ましくて仕方がなかった。
「目を逸らしてはいけないのね」
分かっているつもりであった。
慎太郎のやらんとすることを。
理解した気になっていた。
リンはそっと首を振る。否、それは分かっているのだと。安全な空間から一歩踏み出せば、その先は酷くぬかるんでいて気を抜けば一気に飲み込まれてしまいそうな、不安感が纏わりつく。
それでもいい加減前に進まねばならないと思った。一歩踏み出して、思考を紐解く。形の無い思考を、思いを、心を。具現化しなくてはいけなかった。
気持ちだけでは生きてはいけない。
「…私は、私がしなくてはいけないことは」
生き続ける事―――慎太郎が成し遂げ、平和となった日ノ本で幸せに生きる事。
それが慎太郎の信念と願いであり、その為に彼は志士活動に踏み出している。
庄屋仕事を妻と共有し、同志を集め、思想を学び、そして共有する。願う未来を作る為にその先を見据えて行動しているのだ。
地を這うような蝉のなきごえが再び届けば、じりじりと焼け付く瞼の裏に浮かび上がる子供の姿。眉を下げ、睫毛で隠した瞳には溢れんばかりの涙をためて、短い着物の裾を目一杯握り締めて震えている。
小刻みに震える体に揺られた頭部、涙が雫となり地面に落ちれば、それが合図であったか。顔を上げて両手を突き出す。小さな白い手は、リンの背に触れた。
焼ける手は「もうもどれないよ」その言葉と共に、彼女の背に紅葉を刻み、先へと押し出す。
八日目の蝉は泣き止み、夏は、終わりを告げた。