慎太郎とその妻(未完:無期限更新停止)
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01.わたし
西へ東へと奔走するかの男と祝言を挙げたのは僅かに数か月前、現を夢世界へと誘う桜木がはらりはらりと役目を終える、春の終わりの日の事であった。
---------------
果て無く続く大海原、ぷかりと浮いたその孤島の更に南に横たわるは土佐国。二人はそこで生まれ、出会い、縁を結んだのである。
かの男の名は中岡慎太郎―――土佐安芸北川村の大庄屋の長男として生を受けた男だ。
幼少時より厳格な父親より厳しく躾けられた少年は、決して根を腐らす事もなく、言い付けを良く守り育ったのだという。
機転が利き、深く努力する誠実な人柄は少年の故郷を越え広く知れ渡る程で、多くの人々に見守られながら少年は青年へと成長を遂げていった。
“――大庄屋中岡の若様が家督を継ぐらしい”
そんな噂話は村外れへも流れてきていた。
隣人の喜声と共に流れてきた男の噂話に、リンはそっと溜息を零す。重くなる気分を紛らわすように土に指を入れた。
今年は雨の降りもよく、養分がよく運ばれているのか土の調子がいい。
昨年、土佐を襲った地震災害の余波は村へ根強く残り、作物はおろか漁さえも十分でないこの現状、貧困を極める日々に感じ取った微かな吉兆。
収穫を終えようとしている里芋の葉を掻い潜って、畑に鍬を入れる、てこの原理で掘り起こした里芋のあどけない姿に笑みが浮かんだ。
そんな様子を見て、呆れるのもまた隣人の役目だ。お決まりの日常。
「リンちゃんは本当畑が好い人ってもっぱらの噂で。それじゃああまりに色がないってもんじゃあないの」
「…噂話は不得手で。こんなご時世だし、噂よりも今は目の前の毎日でいっぱいだもの」
がっくし、と肩を落とす隣人はつまらないと背を向けて、葉の奥へと姿を消した。
繁々と連なる里芋の葉の波に満ちる畑の片隅、掘り起こした里芋を手早く籠に放り投げ、リンは次の畝へと鍬を下ろす。
ぼこ、と小気味よい控えめな音と共に姿を見せるその作業は楽しく、噂話などはすぐに忘れ去り、作業に没頭していた。
とはいえリンとて年頃の娘である。
故に、寂れた農村に流れてくる華やかな噂話に興味がないわけではなかった。
けれども“適頃”と評すにはやや行き遅れの年齢になってしまった事もあってか、華やかな話題など遠い遠い夢物語のようにも思えて、気乗りがしない時は全くの無関心という立ち位置に徹していた。
「あ、いけない」
雑念は毒。
鍬を下ろす角度を誤り、削れ欠けた芋の肌白さに己の顔も白くなる。
これは夕餉用に煮っ転がすかとため息と共に拾い上げた里芋を別籠に。その折、不意に己が爪へと目が留まった。
特別手入れもされていない、削れた爪の間に詰まる茶色く濁った土の塊。
今にもひび割れそうな爪の間から顔を除くそれは、いつか見たような士の娘子の桜貝のようなそれと同じものと認識するのも難しい。
今になってそんな感傷に浸る理由も、全ては隣人の噂のせいだと心の中で毒づいた。
“――大庄屋中岡の若様が家督を継ぐらしい”
ただ、それだけの話であるのに。
---------------
つるべ落とし。秋の日は落ちるのが早い。
収穫籠を手早くまとめて、隣人と共にリンは畑を後にする。
噂好きの隣人はその間も“中岡の若様”の話を尽かせることなく、まるで自分の事のように興奮して話していた。
かく言うリンとて、繰り返すが、そういう華やかな噂話に興味がないわけではない。ただ今はどうにも気乗りがしていなかった。
「ああ、若様もこちらにいらっしゃる事があるのかしら」
垣間見たい、ただの一目でも構わない。頬を染めてうっとりとする隣人の、とろけるような声色に思わず笑んだ。
大庄屋の跡継ぎが、わざわざ農民の末まで見に来るだなどとありえない。
けれども否定の言葉で言いきってしまうにはあまりにも無粋で、ただの戯れ事なのだと言い聞かせ、言う。
「せめて一目、見てみたいよね」
「ああ本当に。本当に。噂話ではもうお姿が手に取る程に聞き飽いているっていうのに、肝心のご本人を見たことがないなんて」
茶番よねえ。
よよよ、と大振りに芝居する隣人に、更に笑みが深まった。
夢のまた夢のまた、夢。秋の夕暮れを背に浴びて、伸びる影はただ長く、黒い。
汚れた畑装束をずるずると引きずって、重い鍬は錆走り、手の爪も浅黒く、背の籠は収穫の重みでぎしぎし鳴った。
桜貝の爪をきらきらさせて、揺れる簪、艶やかな衣。
つやつやと輝く黒い髪の、そんな女子に囲まれ生きているのだろう“大庄屋の若様”の目に留まる事もない私達―――笑みの下に隠した劣等感は影に負けない浅黒さで。
「可笑しくて仕方がない、ね」
「本当にね」
ふふふと乾いた笑いが漏れる。背の籠は、鳴ることはなかった。
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リンの家は裕福な農家ではなかった。けれども両親共に貧しいながら誠実な人柄で、苦しい生活でも腐る事もなくせっせと家の為に働く人達であった。
そんな直向きな姿勢が目に留まったのだろう。とある土佐郷士の家と懇意となった事は歴代一の幸運であったと父は幾度も口にしている。
寡黙な父が噛み締めるように笑みを湛えて語る“縁”の尊さは家族に染み入り、やがて一族の誇りとなっていった。
その郷士とはかつては豪農であり、もともとリンの父とは旧知の仲であったという。
困窮対策からか、当時の国内では郷士身分を譲渡する動きが各地で見られ、その知り合いは土地を売却し郷士身分を手に入れていた。かの家もまたそうであった。
たまたま子供同士の年齢も近く、リンの幼い頃の遊び相手と言えばその郷士の子で、彼らが受ける文字の読み書き、簡単な算学なども学ぶ機会を与えられた。
ただの貧しい農家の娘が識字の能力があるだなどと宝の持ち腐れだとリンは笑い話としていたが、それでもこれも縁にもたらされた恩恵と思えば、父の教えは正しいのだと子供心に誇らしく思ったものである。
この日もリンはいつも通り畑にいた。日に日に下がる気温と太陽の高さが、秋を身に知らしめる。
ただ、この日はいつもよりも遥かに涼しく感じられた。
それを言うのもおしゃべりな隣人の噂話のせいである。
「…若様の祝言、か」
独り言は高い空の向こうへと吸い込まれていく。今朝届いたばかりの速報に、気は沈む一方であった。
“隣村の庄屋の娘御と祝言を挙げるらしい”
落胆混じりの興奮冷めやらぬまま、現の厳しさを味わったとでも言うような隣人の顔が忘れられない。
とはいえ自分も相当残念な顔をしていたのだろうと思う。
あれから少し時間は経って、ようやく畑に入れる鍬にも魂がこもった…かと思ったのだが、胸を吹き抜けていく風は秋さながら未だ冷たく侘しい。
隣人や村の若い娘達がどこからともなく手に入れる噂話で膨らませた偶像にただ憧れ、空想の恋心に火を灯すのが最近の遊びのひとつで、ただそれだけであったはずであった。
遊びに夢中になった心は夢と現とを思う以上に混濁させてしまったようで。
指が、腕が、心が。連れ去られてここにはなかった。
リン自身に“大庄屋の若様”とのはっきりとした面識はない。
はっきりとしたというのはリンにその記憶がないだけで、周囲の話によれば一度、リンはその若様と会ったことがあるのだという。
もう随分と昔の話であった。まだリンが乙女であった頃、いつもの通り遊び相手の郷士の家を訪ねた時の事であった。
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いつもは静かなそこが、やたらとどよめいていた。
どうしたものかと好奇心半々調子で覗き込んだ敷地の奥に見慣れない人影を多数見つけ、驚き隠れた藪の中。
一目見て分かる上質な着物の、いかつい背の波に恐怖を覚えたのである。ただひたすら藪の中で彼らが出ていくのを待ち続けた。
―――そこで思い出は途切れている。リンが藪の中でそのまま眠りについてしまったからであった。
見慣れぬ大人の群れ、声を上げてはならないという絶対の緊張感。
緊迫した状況に気絶していたというのが正しかったかもしれない。
そこまで記憶を辿った所でリンはひとり、苦虫を潰したような表情を浮かべる。思わず左頬を抑えれば、ざらり土の欠片が肌を刺した。
これも後に両親に聞いた話であるのだが、藪の中からリンを連れ出し、郷士宅へ運んだのがまさにその“若君”であったというのだ。
リンにとっては若君との関わりよりも、粗相をしたとの事で頬を叩かれ叱られた記憶の方が強く残っている。
自業自得ではあるのだが、善悪の境界があやふやであった幼少時代に肉体的叱責を受けた記憶というのは根深いもので、今でもリンは他人に迷惑をかけるという行動に強い躊躇いを示している。
随分と改善してはきたというものの、未だに人が腕を上げるだけで体がびくりと硬直してしまう―――叱られたらどうしよう、怒られたらどうしよう。
善良でいなくてはならない。
そんな脅迫めいた思考にとらわれてしまう事もしばしばで。
「―――駄目ね、本当に」
リンにとって若様との思い出とは恐怖と表裏一体。
思い出す事はほぼない、幻の記憶のようなものであったのだった。
―――とまあ、ここまでが親から耳にたこが出来るのではないかと言う程に聞かされた話である。
幼き日の粗相をあれやこれやと引き合いに出され、叱責へと向かうこの話題はリンとしては避けたい話題の一つであった。
けれども幾度も幾度も聞かされた光次―――今は名を改め“慎太郎”若君の話は深く印象付けられ胸にある。
だからこそ、たかが噂であっても、どこか胸がざわつく思いがあるのだろう。そんな風にひとりごちて手際の悪い一日に終わりを告げた。
畑が端、あぜ道の方へと目をやれば橙に染まる黒影がこちらに手を振っていた。隣人である。
大きな籠には収穫作物がこんもり盛られており、己のそれとは対照的だ。
些細な事柄にさえも憂いを呼び寄せる悪癖に、それも今日という日がそうさせると乱暴に話題を変えて思考を払うが、なかなかどうして隣人は気が利かない。
「わざわざ祝言の為に江戸から呼ばれてるらしいのね」
ああまたこの話題だとリンはがっくり肩を落とす。悲しいかな気分は減り込む程にぼとりと落ちているのに、内容は酷く気にかかるのだ。
困惑と焦燥と焦れとで歪む顔をそっと覆い隠して空を仰ぐ。大空の彼方、薄く張り伸びた雲は高く、天頂を境に背には橙。面には濃紺。
日が落ちれば治安も悪くなる。ぺらぺらと喋り続ける隣人を急かした。無論、その内容はしっかりと聞き拾って―――である。
「――ね、その話がこんな所にまで伝わっているということは…もう若様は江戸から戻られているということよね」
「多分ね、きっと今頃邸の方にいらっしゃるんじゃあないかしら」
だとしたら祝言の話は既に細部まで進んでいるであろう、とか家督を継ぐという事は土佐に留まるのだろう、とか。
若様の動向であれば聞きたいことは山ほどあった。
けれどもどれを聞き出そうにも恐らく質問攻めになる事が予想される。隣人に徒に心の内を踏み荒されるのは避けたかった。リンは再び口を噤む。
足早に駆けるあぜ道、伸びた影が闇へと溶け込んでいく。微かに残っていた己が分身は心を映してか否か。
ぶるりと大きく揺らいでいた。そんな気がした。
陽の長さを見誤り、家へと戻った頃には既に家族は就寝体制となっていた。農家の夜は早い。
明かりを得る為の菜種油があったが、それは大変高価なもので、一介の農民が自由に購入出来るような代物ではなかった。
非常用にと幾分かの備えはあれども無駄遣いはよくない、この頃の農家は朝早く目覚めて暗くなれば眠る生活様式であったのだ。
「遅かったのね、大事はない?」
「あっ……ご、ごめんなさい。考え事をしてて遅くなっちゃっただけなの」
籠を下ろして手桶を受け取る。なみなみ張られた水面の波紋に飲み込まれたのは不安な気持ちであっただろうか。
手早く身を清めて布団へと潜り込めば、綿を入れ直したのだろういつもよりもふくよかな厚みが身を包み温めてくれる。心が自然と落ち着いていった。
忘れてしまおう、全て。
リンは深く瞳を閉じる。夢は夢のままで構わない、でなければ自分が苦しくなるだけなのだから。
そんな言葉を己に吐き捨てたところで、じくじくと痛み出すのは胸奥だろうか。もしも胸の内に小さなわたしとやらがいるのだとすれば、今頃大声を上げて泣いているのかもしれない。
現実を知らず夢を追いかけ、わあわあ駄々を捏ねるそのわたしに、私はひたすらに背を向ける。そんなものは生きていくのに必要ない。
「(夢と現とまだ、弁えられていなかった、だなんて)」
いい年の女が夢見がちで、だからこそ行き遅れているだなどと噂となれば恥をかくのは両親だ。
先見は悪しき方向へとどんどんと転がり落ちていく、とんでもない悪癖の一つだ。分かっていれども思考が今宵ばかりは振り払えない。
ぽろりぽろりと零れ落ちる雫の意味は何であろうか―――いいや何であろうと構わない。取り巻く全てに背を向けよう。
「(さようなら、どうかしあわせに)」
それは誰へのはなむけであったろうか。
闇に溶け込む夢船の、通り過ぎた波紋の向こうで誰かが泣いている。
耳障りな子供の声だと一蹴した背に後悔も慈悲も滲んでいない。ただ、海のような塩水がぽろりぽろり零れ行くだけであった。
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「…一雨来そう」
見上げた空の西の彼方、今朝ほどは形なかった暗雲が押し寄せてきている。
まるでこの場から追いやるように、足早に近づいてくる雨の時を察知してリンは手早く荷物をまとめた。
昨日に続き、収穫は捗らないままため息一つ吐き捨てて畑を出た時、思う以上に迫っていた雨雲はぱらぱらと地面へと落ちてきた。
暗いだけの雨だと思い込んでいたが、相当に性質の悪い雲であったらしいそれは遠くから轟々唸りをあげ、威力を増して襲い掛かる。
「…雷だなんてっ」
閃光が目に焼き付いた。雨は容赦なくリンの身へと降り注いでは着衣に沁みこみずっしりと伸し掛かる。
ここの所の作業の遅延を挽回すべく、一回り大きな鍬を持ち出したことが仇になったか、農具の重さに加え雨の沁み込んだ衣の重さが足を鈍らせる。
それでもと何とか一歩踏み出し家路を急ぐが、足の速い秋の空はあざ笑うかのように迫ってはリンを弄ぶ。雨脚は強まる一方で、雷も次第に近づいてきていた。
リンは仕方がなく、近くの小屋へと避難する事を決めたのであった。
砂埃の舞うそこは随分と長らく放置されていたのか、屋根板は朽ち割れ、軒を支える柱も随分と脆く弱っているように思えた。
天板に叩き付ける雨の容赦ない矢に震える小屋なれども、リンを守る砦である事に変わりなく、ここにあってくれたことに感謝している。
結い髪を解き、絞り落とす雨水は冷たく肌に一層張り付いてくるようだ。ぎゅうぎゅうと握り締める髪の、軋む悲鳴と共に漏れ出る溜息。
身を揺らせば座った地面の砂利がじりじりと尻を引っ掻く。無用に動く事さえ躊躇われ、そっと穴の開いた空を見上げた。
ぴかりぴかり光る空に次第に不安が込み上げてくる。体ばかりか、次第に冷えていくのは心だ。
そういえば今朝は急ぎ家を飛び出したせいで朝餉も取る事ができなかった。昨晩も遅く帰宅したのもあり、丸一日何も口にしていないことになる。
ぐるぐると悪い思考が渦を巻き始めていた。人間気弱となると全てが絶望的に思えるものである。
この雨は一生止まないのではないかとか、この小屋は雷で燃えてしまうのではないかとか、そんなくだらない事であっても。
「……ばか…」
ほろほろと涙が零れて雨と混じって頬を伝う。なんと面倒臭い女なのだろう、意識の世界に住んでいるもう一人の自分の言葉が脳に響いた。
傷口に塩を練り込むような苛み方をどこで覚えたか、リンにその記憶はない。けれども自責の念に思考を埋めている間だけは、どうにか自分というものを保っていられるように感じられたのだ。
もっと努力しなければ、もっといい子にならなければ、自分の所には何も恩恵は与えられない。
苦難は耐え、活路を見出すのは己自身だとリンは強く信じている。雨がなんだ雷がなんだ、命さえあらばいくらでも立ち上がる事が出来るはずなのだ。
そう脅迫めいた言葉がずらり並んで、リンを雁字搦めにしている。果たして寒さか、それとも精神の限界であったか。雷の音から逃れるように身を縮こませたその時であった。
ばんばんと戸を叩く乱暴な音が耳に届いた。こんな雨の中、一目見て分かる程に朽ちた小屋に尋ね人などありえないとリンの思考は一層の恐怖を叩き付ける。
息を殺し黙っていれば通り過ぎるだろうか、そんな浅はかな知恵はすぐに破られる。どんどん、ばんばん、次第に大きくなる音。
耐えかねてリンは立ち上がった。濡れた衣は地面に張り付き、まるでリンを引きとめるかのようであった。
それでも、放ってはおけない。そう思われ、震える手に力を籠めて、そっと扉を開いたのである。
「―――すまん、ここの家の者か」
「い、いいえ、いいえ…雨宿りに勝手に入り込んだ、だけ…です」
勢いよく引かれた扉に体制を崩しながら、尋ね人を見上げる。まるで夜の森のように伸びたその黒い影は高く、幅太に生え誇っている。
何とか言葉を絞り出したものの、そもそも自分とて尋ね人だ、ここに入る権利も人を招き入れる権利も持ち合わせていない。
目の前の雑木影は一言問うたまま黙り込んでおり、意図が全く窺い知れない。雨音の雑音響く中で、ただその沈黙が恐ろしかった。
すると目の前の影はようやく思考が固まったか、一言声を発する。すまないが俺も入れてもらえないか、と。断る理由はやはり持ち合わせてはいなかった。
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背の高い影に小屋の背は見合わないのか、体をやや折り曲げて腰を下ろす。
暗い室内で影の姿はよく見えないが、身に着けている外套、袴の仕立ては間違いなく己の物とは格が異なっていた。
そんな砂利に腰を下ろしては汚れてしまう、そんな一言をかける度胸さえなく、リンは困ったように右へ左へと身の置き場を探し惑っていたのだが、不意に影に声をかけられる。
「…この先にあるらしい御宅を訪ねる予定だったんだが、途中で雨に降られてしまってな」
「…まあ…それは…。お供の方もさぞご心配をされているのでは」
「いや、俺一人で勝手に飛び出して来たんだ」
歯切れ悪く淀む返答でも、影―――男はさして気にしないらしい様子で、リンも心持ち少し軽くなる思いであった。
男はこの先を訪ねる予定であると言っていた。この先にあるといえば隣人の家か、もしくはリンの家である。
目が慣れてきたとはいえ明かり一つない小屋の中は夜のようで、男の詳細は知れない。けれども軒先で見た逆光の影はやはり男が一般的な身分ではない事を語っていた。
分からない事ばかりだ、ただの雨宿りとは訳が違う上にただただ気まずい時間ばかりが過ぎていくのに、どこか耐え難い気持ちを抱き始めた頃。再度男は口を開いた。
「このような天気ではさぞ家人も心配しているだろう、雨足が弱まったら送ろう」
「い、いえ…そのようなお手間を頂くわけには―――私はこの先、目と鼻の先がねぐらにございます、送迎には及びません」
自分で捲し立てながら随分冷たく卑屈だと思ったが、放った言葉は取り戻せはしない。
男はどうやら思う以上に生真面目な性格であるのか、リンの言葉を聞いて気分を害する風もなく、けれどもどうしたものかと唸り思案しているようであった。
男は諭す。しかし、この暗い中女人を一人歩かせるのは忍びないと。
先程遠目にあなたが歩いている姿が見えていたが、そんな大きな荷物を抱えて帰るのも大変だろう。
足取りは随分と頼りなかった、見知らぬ男に警戒するのは分かるが、俺は、
「北川の大庄屋の見習いの者で、これから世話になる縁なんだ。少しでも力になれないだろうか」
「………え」
リンを案じる言葉の最後、とんでもない一言を聞いた気がする。雷と雨音に遮られたはずのそれは、けれども耳に突き刺さるように通った。
幾度も雷光が小屋内を照らせど、照らすは己が顔ばかりで未だ男は闇に溶け込んだまま。
けれども、間違いでないのならば。この人は夢の向こうの人でしかない、噂に練り固められた、存在であったはずだ。
喉が、震えた。
「―――中岡、慎太郎さま」
絞り出た震えたそれに呼応するように、一等強い雷光が小屋を照らした。
初めて見た男――――中岡慎太郎その人は、驚きの表情でこちらを見ていた。
雷光飛び去り再び闇が包み隠した後も、噂に違わぬ精悍な面立ちが、目に焼き付いて離れなかった。
慎太郎は深くは聞かなかった。
この土地の大庄屋の息子が跡を継ぐとならば周辺民家に話が及ぶのは容易に想像出来る事であったし、知られたとて説明する手間が省けて都合が良いと思っていたからである。
けれどもリンはそうではなかった。
遠い存在とはいえ自由勝手に随分と噂を立てたのだ。
中には非難めいたものもあったろう、本人を目の前にするとその浅はかな己は恥ずかしく、罪悪感を感じずにはいられない。
悪癖に飲み込まれまいと意識沼から抜け出して、雨音に意識を置けば随分とそれは遠くなったようで、今はもう微かな悲鳴となっている。
そうと分かればここを立ち去る時も間近であろう、それに気付けば随分とはしたない姿で滞在していた事に気付き、リンは髪を結うべく手を上げた。
しかし雨で冷え切った指先は思うように動かせない。仕方がないと傍らにあった古枝を手に取ると簪の要領で纏め上げる。
この雨ならばもう家まで戻る事ができよう、何よりこの場にいるのが居たたまれなくて仕方がなかったリンは農具をまとめ始める。
その様子を見た慎太郎が手伝いに入るが、それを柔く制して頭を下げた。
「随分と失礼を致しました。どうかこの雷雨に免じてお許し下さいませ」
「いや、それよりも」
それ以上の言葉は聞く気はなかった。胸の内を量られることもこれ以上踏み込む事も躊躇われた、彼の人は夢の住人であってほしいという勝手な願い故である。
頭を上げ毅然と立ち去る―――はずであった。立ち上がったリンの視界はぐわんと歪み、反転する。まるで底なし沼の中のように転地宙全てが闇であった。
頭部は殊更重く、鉛のように伸し掛かりリンを地面へと引き寄せたのだ。だが、地面に叩き付けられるはずであったその衝撃はリンの身にはない。
反対に柔らかく、温かい塊に支えられた。頬に触れるそれは触りの良い布生地で、脇下から支えられるは―――人の腕であった。
「―――軽すぎるぞ、ちゃんと食べているのか」
「昨晩から、なにも―――いいえ、日頃は、少し、は。けれど、蓄えが十分では、ないので、」
朦朧とする意識で届く質問に無機質にも答える。視界は未だ霞んでおり、ぐるぐる脳ごと揺らし惑わすような激しい眩暈が思考を奪う。
食事をきちんと採らなかったのは単に時間がなかっただけではない。
震災の余波は根深く、農村の被害は相当なもので、地は割れ作物は潰れ、満足に漁にも出られず皆が貧困に喘いでいたのだ。
食べなくて済むのならば、眠ってしまえばいいのだとそう思っていた。次第に空腹は感じなくなっていった。
ふわりふわりと覚束ない足元は農具が重いから。抜け落ちたように思考に空白が訪れるのは夢に囚われているから。
そう思えばいくらでも働ける気がしていた。この身ひとつ朽ちたところで、泣くのは親兄弟だけであろう、ああ、もしかしたら隣人も泣いてくれるかもしれない。
けれども皆が皆、極まる飢えに嘆いているのだ。手を差しだし命を繋ぐそんな“縁”など、もうこの国のどこにもないだろう。
どれだけ言葉になっていただろうか、もしかしたら全てであったかもしれない。そうリンが思ったのは、抱き留めた腕に激しい力が籠ったからだ。
怒っているのですか、嘆いているのですか。
もうその言葉を紡ぐだけの体力もない。
ただ、苦しいまでに抱き寄せられたその胸の逞しさに、温かさに、かけられる言葉があるのならばよかった。
風前の灯火さながら、意識の片隅から決死でつかんだ言葉は酷く恨めしい色に染まっていた。
「―――せめて人らしく生きられたならば、」
ありもしない夢に縋って生きる事もないのに。
疲労困憊の体はそこで意識を諦めた。意識を切り離す刹那、名を呼ばれたような気がしたけれど、それも確かめる術はない。
ただ、そうであったならばいい。そうしてリンは物言わぬ冷たい肉細工と化したのである。
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「…今、音がしませんでしたか」
「音?気のせいだろう、それよりも」
わらわら群がる大人藪の中で一人、敷地外へ目をやる少年がいた。
大庄屋の父の仕事を見学したいと同行を願い出た幼き日の中岡慎太郎―――この頃は名を光次と呼ばれた、その人である。
耳に届いた藪の音、父の言うとおり気のせいなのだと聞き流すことは容易かった、けれども先日剣の師匠に習ったばかりの一言が脳裏を過った。
まさに今、父の仕事の本領発揮と言わんばかりに、大きな背をゆらゆら揺らして取り仕切るこの機会を逃してしまう事は躊躇われた、
けれども藪の音―――「敵襲とは人の在りえないという概念を突いてこそ敵襲である」…その言葉が焼き付いて離れない。
寂れた農村のたった一軒の家の外。とはいえその油断こそが師の言う“ありえないという概念”なのではないのだろうか。
その結論に至った時、光次はそっと敷地外へと足を踏み出していたのである。
「――――」
ところが、どうだろう。ごくりと唾を飲み込み、覚悟を決めて近づいた藪の中。
深く観察しても殺気も感じなければ気配すらもあやふやで、けれども何だか“いる”のを感じて離れられずにいた光次の目に飛び込んできたのは草根に包まれ寝息を立てる小さな娘だ。
瞬時に光次は理解した。
先程から家の幼子のやたらと落ち着きの無い様子を思い出したのである。
恐らくはこの娘が来ることを知っていたのだろう、幼心ではこの庄屋達の来訪がどんな意図であるのか分からず、きっと不安だったに違いない。
それは娘も同様で、慌てて藪の中にでも逃げ込んだのだろう。出ていくタイミングを失って、結局この中で眠ってしまったと―――何ともはしたない娘だ、光次は呆れ交じりで笑った。
「おい」
声をかけても娘は起きる気配は見せない。仕方なしにと抱き上げた娘の身の軽さに、光次は酷く驚いた。
自分が通っている稽古場の娘に同じような年頃のがあったが、このようにか細い事はない。身に着けている衣とて、もう少し質のいいものであったと記憶している。
不健康には見えないものの、けれどもやはり農村の外れに豊かな生活には縁遠いのかもしれない。
眠っているのに固く握りしめられた拳が、答えだろうか。可哀想に、さぞ怖い思いであったのであろう。
光次は抱き上げた腕を緩め、娘の心地を確かめた。心なしか娘の目元と拳が緩んだ様に思われ、彼の口元も微かに解ける。
ようよう見てみれば、さぞかし愛らしい顔立ちなのだろう、深く切り開かれた瞳の口は広く、開いたならば大粒の瑠璃を拝めるだろう。
鼻筋も嫌味なく通り、小さな唇は薄く淡い桜色がまた愛らしい。
「(動くところを見てみたい)」
そんなどうしようもない感情が湧き上がれど、もちろん娘を起こす事など出来るはずもなかった。
名残惜しくも一歩、また一歩と敷地内へと進んでいく。大人達はどうやらちょうど役目を終えたところであったらしい。
真っ青な顔でこちらを見やる家主に手渡した娘は、やはり未だに深く眠りについていて起きる気配はなかった。
幾度も頭を下げる家主に、そう揺さぶっては起きてしまう、と父が笑うと途端場はふわりと和んだ。
その空気に乗じてか、娘の遊び相手らしい家主の子が親が腰に抱きつき、リン、リン、と鳴いた。
「その娘はリンと言うのか」
「あい」
怖じ気なく真っ直ぐに言う子供の何とも柔らかな笑みにつられる。
慎太郎とてまだまだ若年の身ではあるが、昔からやれ神童だのやれ高潔だのと持て囃され、気付けば屈託なく己の感情を表現する方法を忘れてしまったように思う。
無論、己を律しているのだと後悔は感じた事はないのだが、けれども邪気のない子のそれに、男の中で何かが紐解かれたのは間違いない。
そんな子供の変化を目ざとく見つけたらしいその父は、なんだ光次、娘さんに惚れたか。などとからかいつつくが、光次はそれに構う事はなかった。
「良い名だと思う。どうか彼女の親御にも宜しく伝え下さりませ」
光次としては“ただ健やかに育ってほしい”の一心で頼み出た一言であったが、周りの大人はそうとは捉えない。
ざわざわと勝手に春めくその場に、深く深く頭を下げる家主。
混乱に満ちた一瞬であったが、当の本人は困惑気味でただ唯一変わりの無い様子の子供を見やる。
盛り上がる大人たちの喧騒を余所に、光次はやはり「民なくして国はなし」そう深く胸に刻み、己が道に間違いが無い事を噛み締めていたのである。
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高知、江戸へと渡り、只管に学びの道を駆け抜けていた。
少年が青年と呼ばれる頃には彼の背丈はすらり伸び、約六尺はあっただろうか。
鼻の付け根から凛々しく茂る眉の秀麗な様はただ豪胆で、けれども根は生真面目繊細。
聡明故に口はやや先走り粗雑な物言いもあったが、そんな一面をさておいても青年は世に言う男前の部類であっただろう。
けれども青年は周囲の黄色い声も好奇の視線にも靡く事はなく、己が胸に抱いた新年と共に只管に勉学、武芸の道を究めるばかりなのであった。
この頃、慎太郎と名を改めていた青年は、江戸の桃井道場にて一層の剣術修行に励んでいたそんな折である、地元の土佐より運ばれた父の凶報であった。
急ぎ反転、土佐に戻った慎太郎が見たのは病魔に蝕まれた父の姿であった。幼き頃より中岡の名を背負う男として厳しく躾けた、かの父親の背の弱々しさに胸のざわつきは止められない。
けれども幾重もの人々との出会いに心身ともに慎太郎は成熟しており、心の底、今後への覚悟は決まっていたのだ。無論、江戸に残した剣への未練はあれども、滞在し、託した時に後ろめたさはない。
これよりは父の後を継ぐべく腕を振るえばよいのだ、慎太郎は強く自負していた。
しかしこの時、既に青年の齢は二十三となっている。中岡を継ぐという事は“大庄屋”の役目を継ぐという事。
思想、武道共に申し分ない腕はあれども、庄屋としてはまだ見習いでしかないのだ、しかし父は病魔にやられており満足に指導できる様子もない。
「慎太郎、お前、嫁御を娶れ」
親というものはいくつになっても親というもので、子供の一挙一動、隠してあるそれでも鋭く見つけては刃を入れるものだ、慎太郎は深く感心した。
しかし耳に届いた言葉はあまりに性急で、言葉に戸惑う。
父親の話では隣村の庄屋仲間である利岡の娘御が齢十五で、ちょうど相手を探しているのだという。
自分はこの有様で庄屋業務を指導することも叶わず、ならば昔より縁のあった庄屋仲間と関係を深める事もやぶさかではなかったのであろう。
慎太郎としても、右も左も分からぬ庄屋業務、父の補助なく一人で駆け回る事に躊躇いはあった。何より良縁なのだろうと、心より思った。
―――けれども、何か。何かが引っかかる。
「しばし俺に時間を下さい」
気が付けば自然とそんな言葉を紡いでいた。驚いたのは父ばかりではない、慎太郎も、同じであった。
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婚姻の話はさておき、庄屋見習いとして慎太郎は故郷の地を踏んでいた。
まずは領内の現状を把握せねばならないと足を運んだ慎太郎の目に飛び込んできたのは、震災で壊滅状態となっていた凄惨な土佐の地の光景であった。
江戸にいる間にその話を知らなかったわけではない、けれども父や家族からの知らせでは被害はあれどもすぐに復興するものであると聞かされていたし、慎太郎もそれを信じていた。
けれどもどうだろう、実際に目にした土佐の懐かしい光景は荒んでおり、この季節、畑を賑わせていた茄子の光景さえも満足とは言い難かった。
人々に聞いて回って知ったのは、やはり震災の影響で田畑は荒れ、漁も以前と比べると満足に出来ない状況なのであるという。
その光景に、人々の話に、慎太郎は胸を酷く痛めていた。
同時に、胸に湧き上がる“庄屋”としての責務。
けれども慎太郎は周囲の不安を余所に、熱く滾らせていたのは未来への道筋であった。責任の重圧を感じるよりも先に燃え滾った魂が瞳に炎を炊き上げる。
不安に陰る人々の表情とは裏腹に、慎太郎は遥か先、土佐の復興を見据えていたのである。
そうと決まれば行動は早かった。
海陸共に細かな情報を聴きまわり、記録を取ると同時に中岡の私財状況の把握に努めた。
目先の救済措置はもちろん、長く土地に根付く産業を発達させねばならないと慎太郎は庄屋として、また一人の土佐の民として尽力したのである。
暇さえあらば算盤を弾き、記帳に報告を記す。土佐に入り、幾日か経過したある日の事である。
一瞬の隙も見せず、走り回る子供の背に気を揉んでいたらしい病床の父が、慎太郎に一時の休息を言い付けた。
慎太郎自身は体力も豊富な成人男児で、疲れなどは感じておらず使命感に燃えていたのであるが、それでも親心はありがたく、一日だけ暇をもらう事を了承したのであった。
とはいえ暇となるとやる事も思いつかず、既に周辺に慎太郎に敵う剣の腕を持つ人間はいなかった。
暇を持て余し、そっと浸るは思い出達。柱にそっと背を預け、差し入れられた湯呑に口をつければ、腹に染み入る懐かしい故郷の茶の味。
和みの時間と緩んだ気に、流れ込んでくるは古い思い出達であった。
思えば今日まで、弾丸のように走り抜けた毎日で後ろを振り返る日などなかったかもしれない。
窓の外、遠く広がる野根山は橙や紅に染まり、吹き込む風の水気は減った。風気良い爽やかな気候に、秋の訪れを初めて感じる。
さわさわと草木を撫で行く風の音から、不意に慎太郎は一つの記憶を掴みとる。
まるで風が運んだようなその記憶の断片、浮かび上がるは幼い日、光次の名と「民なくして国はなし」、その言葉。
その言葉を深く刻み付けた、か細い藪の中の、娘の存在。
「……リン」
その名を呼ぶのは十年以上も久しぶりだと言うのに、淀みなく慎太郎の記憶に蘇った。
早熟な己の腕に、羽のように軽く抱かれただけの娘であるのに記憶に深く刻まれているその事実に、驚いたのは慎太郎自身であった。
別れの時が来る最後まで、彼女の瞳は開かれる事なく随分それを残念に思った記憶もある。
今頃息災であったならば、よい女人になっているのだろう、不意に胸に色が灯る。
「ここからさほど遠くはなかったな」
今日一日暇をもらったのだ、好きに使っていいだろう。そうと決まれば支度を整えよう。時間はいくらあっても足りないのだ、慎太郎は身を持って知っている。
夢中になったら何も聞こえない。手早く身支度を整えた途端に家を飛び出すその背に、兄弟の声は届くはずもなく。
「ああ…行ってしまった……。雨の気配があるというのに」
そう呟いたが先か、ぽつりと地面に落ちた雨粒。
雨が、降り始めた。
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「(ついてない)」
古き記憶を道のりに、作物が少なく寂しい畑を進む慎太郎の頭に雨が落ち始めたのは家を出てすぐの事であった。
寂れた田畑の風景、雨宿りが出来そうな家屋も大木も見当たらないが、雨はそんな事情など知らぬ存ぜぬで慎太郎を濡らしにかかってくる。
始めはぱらぱらと小雨であったそれも、どうしたものかと思案している内に大降りになってしまい、既に身に着けていた外套は色が変わりきっている。
ぽたぽたと髪から落ちる雨粒に溜息と苦笑を溶かしても栓はなく、あぜ道は雨を受け入れてはぬかるみ、進行を遮るばかりだ。
しかも背には雷鳴と来ている。これはとことんついていない―――何とか雷を避けるべく、屋根を探し走り出した慎太郎の目に映る、道の遠くの小さな人影。
身の丈に合わぬ農具を引きずり、必死に進むその影を追って目を凝らせば見えてきたのはぼろぼろの農小屋である。
人影もどうやらそこで雨をやり過ごそうと考えているのか、見ているこちらがやきもきするような覚束ない足取りで道を外れる。
「(―――俺も世話になるしかないな)」
目が焼ける閃光に、あぜ道に己の影が照らされた。遅れてやってくる雷鳴の間隔がどんどん狭まっているのだから、これ以上の進行は難しい。
慎太郎は急ぎ、小屋へと足を急がせたのであった。
後ろからずっと見ていたなどと、まるで覗き見のようで居たたまれなく、わざと「この家の者か」などと聞いた。
結果として、その目論見は成功したと言える。人影が女であったからだ。緊急事態とはいえ、見知らぬ大男と小屋の中で二人きりとあればその恐怖は計り知れないだろう。
ただでさえ不安定な天候の元なのだ。無論、丸腰の女人をどうこうしようなどと欠片ほども思わないのが本音ではあるが、不要な衝突は避けて然るべし。
普段よりも幾倍もやわらかい声色を意識して、話しかけた。
「このような天気ではさぞ家人も心配しているだろう、雨足が弱まったら送ろう」
実際、女の足取りは酷く不安定であった。彼女の行先がこの先であるというのならば、己と同じ方向なのである。
鍬の一つや二つ、例え雨に濡れていようがさした重さでもないのだから。
そんな気持ちであったのだが、なかなかどうして伝わらない。恐れ多いと只管に委縮する音が聞こえてくるようであった。
どうにもこの女、こちらを役人か何かと勘違いしているようにさえ思われる。
いや、元々の性分なのであろう、山間の人里離れた農家の娘にしては言葉遣いも所作もそれなりに整っており、礼儀を欠いた様子はない。
どことなく卑下した物言いは若干気になるものの、雨音を裂いて届く女の声は涼やかに、けれどもまっすぐ慎太郎の耳へと響いた。
時折雷光が屋根の間を割って中を照らすが、座っている位置が位置か、照らされるは慎太郎ばかりで女の姿は闇に溶け込んでいる。
―――姿を見てみたい。
不意にそんな衝動が湧き上がって、ふと慎太郎は懐かしい気持ちにかられた。
「(…リンの時もそう思った)」
目を開けてほしい、彼女のあるがままの姿を見てみたい。そもそもの今日の外出の目的がそれなのだ。
滅多に他人、ましてや女人に興味を示すなどと稀な己である、なんだか本当に今日はどうかしている、そんな呆れも混じってきて、一人笑いをかみ殺した。
何にせよ、女を一人歩かせるのも了承しかねる。
しかし女にいくらそれを諭しても、困惑混じりの曖昧な返答を返すばかりで話が進まなかった。
警戒しているのであればその警戒を解く歩み寄りも時に必要だ、そう結論付けて再度話しかける。
これから共に村を、国を築き上げていく“民”に。
「北川の大庄屋の見習いの者で、これから世話になる縁なんだ。少しでも力になれないだろうか」
ば、と顔を上げる音がした。
確かに目の前に庄屋の人間がいるとあらば、困惑もあろう――そう悟り、もう一度声をかけようと息を吸ったその時であった。
「―――中岡、慎太郎さま」
届いた女の声に意識が攫われる。間近に落ちた雷の、眩い光に照らされ浮かび上がった女の顔。
どこかで、見たような気がした。
記憶というものはあやふやで不確実なものだ。けれども、一瞬の光に晒された女の顔は、幼き日に抱き寄せた娘とよく似ていた。
娘が成長したらこんな感じであろうか、そう思える程に想像で組み上げたそれと、その女はよく似ていた。
とはいえ全ては慎太郎の想像でしかなく、何より自分は娘の瞳を開けた瞬間を見ていない。全てが不確実なものであった。
名を呼ばれたきり黙ってしまった女に、声をかけるきっかけを完全に失ってしまった。
ただむなしく雨音が二人の間を遮っていたし、今になって雷も頭上を通り過ぎて行ったのか、小屋の中はやたらと静寂がうるさくなっていく。
「(この女人が本当にリンならば)」
うなじに小さな黒子があるはずだ。それを確かめれば済むこと―――しかし、生憎小屋の中は真っ暗で、女は雨に濡れた髪を解いてしまっているようであった。
それにしても先程の一瞬の雷光、それに照らされた女の端正な顔立ちが焼き付いて離れない。
特段、女好きというわけでもないはずなのだが、美しい女と二人小屋にいると知った途端、どこか居心地が悪いのも事実で。
けれども気になって仕方がない、気がそぞろとなる慎太郎であったが、対する女は淡白にも気にした様子もなく農具やらなんやらをまとめ始めたのである。
「―――手伝おう」
しかしそれも丁寧に断られる。取りつく島がないままに女は手早く荷物をまとめると、闇から抜け出し面前へと出でた。
艶のない髪から微かにしたたる水。下げた頭の髪の隙間から見ゆる首筋は酷く青白く、何よりも細い。
軽く礼を述べ、このまま立ち去ろうとする女を引き止めたくて声をかけても、女はまるで拒絶するかのようにぴしゃりと言い放つ。
次の言葉を待たず女は、反転、身をひるがえし慎太郎に背を見せる―――その瞬間、それは音もなく膝から落ち、慎太郎の視界から消え去った。
「…っ!」
間入れずその体を引き上げる――――その軽さに、ぞっとした。背を走った粟立つ津波は凄まじく慎太郎の肝を冷やした。
手早く身を抱き寄せ、己の胸と膝へと抱きかかえると、か細い体の体温を直に感じられた。肝と同じかそれ以下か、青白い首筋の語るがまま、死人のように冷たい身であったのだ。
これほどまでにこの地は貧困を極めていたのか、慎太郎は愕然とした。庄屋の家柄、生活に不自由をしたことはない。
むしろ、より良き人間となるべく思想も勉学も、武道も鍛錬を怠った事はなく、ただひたすらに与えられた使命を果たしていたと思う。
しかし、それも最低限衣食住の確保が成り立った上の生活であるのは言うまでもない。庄屋は庄屋、農民は農民、それぞれ役割は違えども、分かっていても、それでも。
「(民無くして国はなし―――これでは、)」
女は先程までの毅然とした態度を繕う力も残っていないようであった。大人しく胸に体重を預け、彼の体温を受け取っているようである。
その胸に頭を預ける女のうなじ、髪が選り分けられた隙間から見えたのは小さな黒子であった。いつかの日に見た、記憶のよすが。
慎太郎は現実を突き付けられたような、言いようもない喪失感に苛まれた。
いつか見た幼き日、小さな娘の姿に国の平和を見た。雁字搦めではぐれた皆の心の欠片を一つに、国の夜明けを誓った。
―――その一歩を見るはずであったのに。現実は真逆の方向へと風向きを変えていたのだ。
思わず、胸に抱く背に力がこもる。女の頬と己が心臓との距離が限りなくなくなるほどに、近く、近く。
「―――せめて人らしく生きられたならば、」
女の抑揚のない声が突き刺さるように響いた。擦れたそれは泣きそうな彼女の悲痛な叫びのように思われた。
掻き毟る程に心臓が苦しい。血を流し雄叫びを上げ、これでもかこれでもかと吠えたまま、濁流に意識が持っていかれてしまうようだ。
こんな激しい感情が、己の中にあったのか。ただ、慎太郎は思う。
この細い手を、細い背を、消えてしまいそうな存在を、幸せにする事こそが己が信念なのだと。
泣いていたのは女か、それとも幼き日の決意の言葉であったか。
「民が幸せに暮らせる世を作ってみせる―――リン、あなたに誓おう」
折れそうな体を抱き上げて熱を移す。
ゆっくりと上を向かせた女の頼りのない顔は、けれども慎太郎の熱を分けられたのが幸いか、微かに色を変えている。
それにようやく息を吐き、落ち着いたところで今一度女を抱きしめる。
庄屋としてか、思い出のよすがか、それとも女人としてか、慎太郎にはまだ分からない。
けれどもただ、目の前の女がいとおしい、それだけが真実であった。