やさしいひと(弁慶長編:完結)
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08.夢想
怪我から処置までの時間は決して早かったとは言えなかったが、彼女の強運か生命力か。
命の危機に瀕するような悪化が見られなかった事が幸いであった。
けれども大きく裂かれた背の傷は見る度に痛々しく心に突き刺さる。
傷からの高熱でここ幾日も意識は保たれず、その間は弁慶がつきっきりで様子を見ることとなった。
自力で栄養分を摂取できないこの状況下で、せめて水分は取らせなければならなかったからである。
予定していた龍神調査に関しては、九郎に対し文を出すことで何とか示しはつけたつもりだが、今頃は堀川で悶々としているのだろうか。
右へ左へ、難しい顔をしてうろつく友人の姿が手に取るように浮かび、思わず噴き出した。
「……ん、」
「(………おや)」
膝に抱える娘が身を捩るのに反応する。
意識が混濁して早三日は過ぎようとしていた。
体にいくら蓄えがあるとて、あまり栄養が採られないまま日を重ねるのは先への希望が薄れていくだけである。
目覚めるのかと少しの期待を胸にそっと顔を覗き込んだのだが、閉ざされた瞼はそのままであった。
眉間に皺と、額に汗と。
そっと拭って再度抱きかかえる。
儚い重さ、細い腕、生気の無い肉体に次第に弁慶も焦りを感じていた。
湧き上がる不安をかき消し、水を飲ませるべく近くの器へと手を伸ばした時だった。
娘が微かに言を発した気がして、唇に耳を寄せる。
「………す、ず」
―――――すず。
意識が冴えたのかともう一度その顔を覗き込んだが、やはり苦しそうな表情を浮かべる以外に変化はない。
うわ言だと聞き流せばそれまでの「すず」の言葉がやけにひっかかったのは、積み上げられた龍神伝説を読んだせいであろうか。
彼女の発した言葉が、鈴であるのか、錫であるのか、はたまた別のすずであるのか。それは本人にしか分からない。
けれども、もし「鈴」であるのならば。
そんな確証の無い情報でさえも見逃すことは出来なかった。
言い伝えの域を出ないが、京に古くから伝わる龍神伝説がある。
それは文献であり、人々の口承でも確かに現在にも根付いている物語であった。
ここ、京の街を古くから黒と白の対たる龍神が治め、平和をもたらしているという。
永く留まり京の安定と平和を支え続ける存在であるが、神の身では成せぬ怪奇を鎮める為に“神子”なる存在を選出し、意思を交わすのだという。
その龍神は鈴の音と共に姿を現す―――――書物の端に記されていた句。
龍神は神である。
姿を存在させているばかりが神ではない、そしてそれは人知をも超える存在であるとするのならば、夢の中への干渉とて考えられる。
そっと、弁慶は娘を撫でた。
「……利用するだけですから、きっと、僕は」
君が選ばれなどしないように…と願う。
龍神の神子などに選ばれてしまったら、凄惨な戦いの渦へ引きずり込まれるだけなのだから。
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違和感を感じたのだ。
高熱が続き、生死の境を彷徨いかけた身であるというのに、己の体調よりもたかが袈裟の行方を何より気にするその価値観。
執着癖があるのかと思いきや、その持ち主の名前を口にしないところを見ると、ただ一途というわけでもないように思える。
ひとつ分かったのは、目的をこれだと決めたらばそれを達成すべく奮迅する…しすぎる性格なのだろうということであった。
引きつる背に顔を顰めながら声をふり絞る姿は奇妙にも映り、弁慶の反応が鈍る。
朝の光に照らされて輝く白い髪も、何も纏わぬその背も曲線ただ美しく、清らかな香りが漂っているというのにどこか、微かに香る色の出所は伏せられた目か、震える睫毛か。
非常に不安定な少女だ。娘の第二印象は、そんな肯定とも否定とも取れない微妙なものであった。
必死に起き上がろうとする娘を宥め、安静にするように微笑み諭せば、悲しげに瞳を揺らしそれに従う。
その表情が気にかかったが、それよりも今は聞かねばならない事が山ほどあった。
聞こうと決めていた事も、である。
けれども今は平穏を優先させた。
これから彼女が旅立つまで、聞き出すくらいの時間はいくらでもある。
しばし無言を貫けば、すんすんとか細くすすり泣く声が聞こえる。どんなに凛と見えていてもまだ十代そこらの娘だ。
体力的にも精神的にも消耗していよう、病は気からというように、気が滅入っていては回復も遅くなる。
彼女が安らぐようにと背に手を添え、再度囁きかけた。
「怖かったでしょう……女性なのに、こんな大きな傷まで残して」
ほろほろと、音も無く綻んだ彼女の涙腺がひとつ、またひとつと敷き布に円を作る。
朝のしじまの中、小さな口がしゃくりあげ語る記憶に引き裂かれたのは安穏か、それとも咎人の心か。
黒き龍の形見を留められなかったのは誰の罪か。
こうして一人、また一人とおぞましい亡霊の餌食となる犠牲者の嘆きを浴びる度に、深く、深く、沈んでいくようだ。
「……死者が、怨霊に――――なってしまったのですね」
僕が平和な日常に甘んじている間に。
風波は平穏を貪り大きくなっていただなんて。
怨霊がまた怨霊を生み、世に蔓延る―――――逆鱗が、黒く鈍く、光ったような気がした。
そもそもの事の起こりとは何であったのか。
その質問は弁慶を時に己を追い込み、時に空想へと逃避させた。
どの世にも支配者というものは必須で、それは名君暴君の是非を問わず唯一無二の真実である。
ただ、この世は深く乱れ荒廃の一途を辿った。人とはかくも貪欲である。
自身の血を残したいと願う本能と、野望を実現させる知能とが混ざり合えば、きっかけ次第で実質的な支配者にだってなりうるものである。
かの男はまさにその貪欲な暴君ままであった。
しかしその男もかつては沸き立つ紅の髪を靡かせ、名門平家の血で日ノ本を染めるべく奮迅した名将でもあったのである。
けれども時代の流れは彼を追わず、老いの宿命の元、男は志半ばでこの世を去ったはずであった。
今から二年強ほど前の事であろうか、信じ難い噂話が届けられた―――――平清盛、黄泉還り、と。
信じ難いその噂話を受け入れたのは早かった。
知識の泉から湧いて出た呪術・死反―――会得していたとは思い難かったが、それ以外の答えはない。
弁慶最大の誤算である。
しかし蘇った者は既に人のそれではなかった。
人知を越えたる怪奇―――怨霊として還った清盛は野望を果たすべく日ノ本の各地を沸かせた。
書物を読み漁っていた事が幸いしたのか、不幸だったのか、それはもう分からない。
けれど過去に手に取った龍神に関する伝説、そして何より龍脈を穢し秩序を壊した張本人は、清盛の所業を見過ごすことは出来なかった。
黒と白の対なる龍神、応龍の果てなき力に目を付けた清盛はそれを意のままに操るべく、呪詛の種を龍脈へと植えつけた。
果たして顕示欲のそれか、清盛の狭心に反発を抱いたか、今となっては詮無きこと。
山法師は自身における知識を結して呪詛返しを完成させ、陰陽の均衡を崩し清盛を屠った。
はずであった。
死反の術で怨霊として蘇った清盛は崩れなかった野望を一層燃やし、各地の怪奇現象を更に増長させていく。
人ならざる存在――――怨霊の闊歩、龍脈の穢れ、世は混乱に喘いだ。
誰かが、止めねばならなかった。
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書を積み上げ山を作り、痺れの残る目頭を押さえた。
薄い唇はその間もぼそぼそと動き、音にならぬ呪詛を紡ぐ。
正義感ぶって立ち上がる…そんな英雄紛いの役割は御免である。
そんな華々しい役は九郎の方が適任だと、呆れながら一人ごちた。
けれども今はそうも言っていられない。気を引き締め、文句を反唱する。
一瞬の隙とて許されない。一言一句を正確に叩き込まねば思惑は崩れ去ってしまう。
架せられた使命、その壮絶な重圧と過去の過ちの重さに塞ぎがちとなる弁慶に、豪快な気合いの平手が飛ぶ。
背に落とされた勢いそのまま前にのめると、叩き手は豪快に笑った。
似ても似つかぬ実兄である熊野の猛者、藤原湛快である。
「…句が飛んだらどうしてくれるんです」
「眉間に皺寄ってるぜ、らしくもねえ。いつものしれっとした顔はどうしたよ」
海の男さながらの焼けた肌、針に裂かれた傷跡は腕ならず顔にまで及び、大柄な体格は更に湛快を粗暴に見せる。
叩かれた背には立派な紅葉が刻まれているのだろう事を思い、人知れず溜息をついた。
「お前今結構失礼なこと考えただろう」
「まさか。随分緊張感がありませんが、覚悟は十分なのでしょうね」
「誰に向かって言ってる?」
剛と柔、対照的な二人の男は不適に笑う。
質は違えどさすがは同郷と言うべきか根に違いはない。互いの獲物に力を込め直し、進み始めた。
刺し違えてでもきっと食い止めてみせる。そんな、希望と決意と共に。
けれども砕けたのは、希望だけであった。
襲い来る悪夢が醒めた。
あまりにも鬼気迫る恐ろしい悪夢――――けれどもその全てが真実であった。
時折こうして思い出し夢に見るのは慙愧の念が見せる幻なのか、乱れた調和により命を落とした者の声なき遺恨なのか、どちらにせよ全て真実。
それだけが誠だった。
常時気を張り隠し続ける事は元の性質もあってか決して難しい事ではなかったのが救いだろうか。
けれども四六時中他人が近くにいるのだけは許し難く、時折一人の時間を作る事はどうしてもやめられない。
そう、思っていたのに。
「(怨霊の、この荒廃する京の被害者など、傍にあるだけでも苦しいはずなのに)」
なぜ、追い出すことが出来ないのか。
女性だからだとか、行くあての無い娘だからだとか、該当する理由はあるがそれだけであればとうに放り出しているのは過去の自分を思えば当然のことで。
ましてや見知らぬ他人が気の置けない距離にいるというのは考えられない事である。
夜半だからなのか、悪夢のせいだろうか。
いやに冴える思考が言葉を吐き出し続けるが、しばらくしてその全てを払い捨てた。
忘れてはいけない、己の罪を、その贖罪を。
考えなければならないのは、一つ。
欲しいものは、そう、一つだけ。
「………楽に、なりたい」
僕を構成するすべてが滅んでしまえば、いい。
今思えば、彼女に夢を見ていたのかもしれない。
地上の汚れた空気では耐え難い息苦しさを紛らすように、娘はいつでも虚ろな空気を纏い、その意識を宙へと漂わせていた。
白くしなやかなその背に生えた翼は、どこにも休める場所がないと喘ぎ、瑠璃のように透き通った瞳には何も留まらず、俗世の全てに興が無いと語っているかのようであった。
欲しいものを訊ねても首を振り、甘い言葉を囁けど動揺する事も靡く事も無い。
ただ全てその瞳の奥へと流れて消え去っていくのみ。
ここではないどこかへ行きたいと願う娘を、それでも離したくなかったのは他でもない己であった。
自分を責めては苦しみ、居心地の悪さに戸惑い足掻く姿を、いとおしくも見続けたいと思ったこの歪んだ感情は何であるのか。
自分と重ねるには些か透明すぎる娘である。
苦しむ姿を見続けたいだけであったろうか。
しかし一方で今すぐにでも解放して羽ばたかせたい気持ちも強くある。
この複雑な感情に名を付けることは、できなかった。
季節が巡り、背の傷が薄くなるに連れて一層、娘は苦しさに喘いでいた。
泣き出しそうで泣かない、その潤んだ瞳や艶やかで、耐え忍ぶ姿はいじらしい。
だが一言で表すならば“愚か”だ。
けれどもその愚かなまでに己を痛みつけるその姿が、やはり、たまらなく、いじらしいと思ったのである。
――――うつくしい。心の底からそう思った。
趣味の悪い幻想を彼女に重ねている事は自覚している。
助けを求め伸ばされた手を掬い、恩という種を植え付けたのは自分自身であった。
受けた恩を返したいと右を左を、覚束ない視線で追う姿は年齢よりも遙かに幼い。
何よりも近しいものの考え方をしているのに、その感覚は遠く交わらない。
その不思議な感覚に惹かれているのだろうと思う。無論、観察対象として。
「(どのように反応し、考え、答えを導き出すのだろう)」
さあ僕の掌で美しく、そして何より愚かに舞って。
そして考え付かない目を見張る答えを羽ばたかせて。
そして今日も僕は底意地の悪い笑顔で君の首を絞めるのだ。じわじわ、じわじわと。
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背の傷はほぼ塞がったというのに、気温が上昇するのに連れて彼女は衰弱していった。
連日の猛暑が彼女をそうさせているのかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。
少し動くだけでも頬から顎にかけてぽたりと汗が滴る季節であるというのに、彼女は驚くほど涼しげな表情で簾の向こうを見ている。
その理由を問えば、元いた場所よりもここは遥かに涼しいのだと、呟くように答えた。
白い肌に白い髪、どう見ても南国の出身だとは思いにくかったが、何より不可解な事が多い娘だ。
感じた矛盾もさして気にならぬまま、けれども彼女の衰弱を探る。
薬師の元にありながら体調を崩すだなどと己の誇りが許さなかったし、何よりも純粋に心配していることもある。
薬湯を煎じた所で原因が分からぬままでは対処のしようもない。
多大なる心労がたたっていると括るには些か説得力も無い。
どうしたのだろうかと知識を総動員させて分析してみるが、終ぞ答えは出ず、そしてまた「直接本人に聞く」という至極単純な答えすらも出なかった。
一体、どうしたというのか―――今日、帰宅出来たらあの薬を、
「――――慶、おい弁慶!!」
「……おや、どうしました九郎。そんなに大声で」
「暑さで呆けているのならその袈裟を脱いだらどうだ。 先程から何度呼んだと思っている」
橙の豊満な髪を逆立てて睨みをきかす友人を軽くいなす。
脇に転がったのは膝から転がり落ちた巻物達で、目の前にずり落ちているのは支えていた筈の書状の端。
そこでようやく現在の状況を理解したのである。
「珍しいね、弁慶がそこまで上の空になっちゃうの。何か心配事でもあるの?」
「……そんなに抜けていましたか」
「…う~ん、そうだね。結構、深刻そうな顔してたけど」
傍に転がっていた巻物を集める手が不意に止まった。
考えていたのは家に残してきた“駒鳥”の事である。
九郎達との約束もあり、最後の最後までしつこく体調不良の原因を探っていたのだが結局その結論は見出せず、
後ろ髪引く思いで出てきたわけだが、まさかここまでその事で頭がいっぱいになっているだなどとは露にも思わず。
冷静に考えれば、たかが衰弱でやや塞ぎ込んでいるだけの状態である。
少なくとも後者においては自分の所業あってのことであるし、こうまで思考を取られる必要などどこにもない。
どうにも思考と感情とが相反しているようで気分がよくない。
笑顔を作る程の距離感でもない二人を前にしてか、不快を内から追い出すために目を細めたのだが、空気の読めない堅物の反応に眉間に皺が寄っただけとなったのであった。
じっとりと湿度の高い部屋の気温が一層上がりそうな九郎の苛立ちを抑えるべきか否か、いつもならばあしらう様に流してしまうそれも先ほどの一件で気乗りがしないまま、だらだらと取り留めのない空論を交し合うばかり。
命からがら逃れてきた小鳥との生活は新鮮で面白いものであったが、弁慶は己の立場を忘れるほど夢中になったわけでもない。
こうして軍師として源氏軍の今後の行く末を提案せねばならなかったし、何よりこの堅物大将におとぎ話という絵空事の策をきかせたのは他でもない自分だ。
その後始末を兼ねてこうして源氏の幹部が顔を合わせ今後と平家の動向を報告し合っているのだが、残念ながら世の流れは決して良い方に向かっているとは言い難い。
小鳥と戯れている間に調べた“白龍の神子”に関する伝説、伝承を述べてはみるのだが、その存在は未だこの地に降り立っていない。
焦りが九郎を一層苛立たせているのは明白であったが、こればかりはどうしようもない。
声が大きくなる男を景時が宥めるが、内心その心も複雑だろう。
景時の妹御、梶原朔――――彼女こそ龍神の神子の片割れ、黒龍の神子であるからして、なおの事。
「白龍の神子の伝説だなんて所詮はおとぎ話なんじゃないのか! 怨霊を封じる力があるだなどと胡散臭い上に、対の神子が在っても現れないのがいい証拠じゃないか」
「…う~ん、こればっかりは俺もなんと言ったらいいのか…黒龍は確かにいなくなってしまった。朔の、黒龍の神子の存在も確かに今となっては不安定なものかもしれないけれどさ、それでも選定は行われたんだ。白龍が在るのだとすれば、必ず神子は現れるよ」
「しかし…!」
「九郎は焦っているのでしょう?仮に龍神の神子の伝説が真実であったとしても、いつ現れるか分からない存在を待つことはできない。それには僕も同感です。しかし現状、怨霊に対する効果ある対策が取ることが出来ないのも事実です……怨霊はまた新たな怨霊を生む。野放しにしておけば京どころか、日ノ本全体が怨霊の手に落ちてしまう事でしょう」
危険を承知で三種の神器の奪還を試みるか。
今できることと言えばその大義名分の元、平家に対し旗を揚げる事しかできない。
景時を見やれば複雑そうに、けれども諦めの混じった表情で九郎を見つめていた。
戦奉行として頼朝の勅命を授かる立場の彼が何よりも矢面に立つだろう事は想像がつく。
おそらくはこちらから言いださずとも、あの冷徹非情な源頼朝の事だ。
既にその手筈を整えつつあるのだろう。
鎌倉から京へ勢力を二分させているのが証拠である。
遅かれ早かれ三種の神器の奪還を命じられて源氏と平家は全面衝突に発展する。
後白河上皇のぼやき一つで火蓋が切って落とされるその日までには、何とか戦況を先読みし、謀を幾重にも巡らせねばならない。
「(これから忙しくなりますね……帰られなくなりそうだな)」
情報収集に各地を飛び回る己の未来を想像して、弁慶は深くため息をついた。