やさしいひと(弁慶長編:完結)
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07.初見
絹糸のように繊細な髪が散らばった夜の床に、絶品と謳われよう甘い肉が横たわり、どこまでも深い慈愛にも似た瞳は、覗き込めばさながら魔境の様。
深い深い底へと引きずり込む。
どこまでも美しく、そして浮世離れした“駒鳥”であった。
二十年も生きれば世の理の欠片を手にしたと驕る事もある。
少なくとも己にはそんな節が見られた。
けれどもそれを傲慢だと呼ぶ事をも知り得ていた狡い手管がひたすらにそれを隠し続けて笑顔という蓋をする。
そうして生きてきた。
六畳に乱雑に敷かれた布団の片隅にはあるべきはずの温もりはもう無く、仄かなそれを求めて手を伸ばしても冷たさだけが掴まれた。
一人寝を寂しいなどと思ったことは無い。
むしろ心許さぬ他人が同じ空間在ることの方が負担であった。
それは夜を共にするだけの艶女であろうが、仮初の志を共にする同志であっても同じ事で、酷く冷たい人間だと嘲笑が漏れる。
けれど、なぜだろうか。
ただの興味と好奇心で傍に縛ったはずのとびきりの小鳥の巣立ちにこんなにも虚無感を覚えるだなんて。
「(…………どうりで通じないはずだ)」
幾年の経験で得た話術の中、対女性用のものがある。
心中一笑、気持ちを整え、小首を傾げ身を寄せる。
覗き込み瞳を捉え、掠らせた音で囁く。
吐き出す音は甘露より甘く。
生まれながら恵まれた容姿を得た幸運には感謝している。
与えられたそれと得た手管を合わせ発動させれば、どんな婦女子も手の平で愚かに、かわいらしく舞ったものだ。
情報や知識を得る為ならば誰と肌を重ねることも厭わなかったし、慰みの手段に使う事とてやぶさかではない。
全ては目的を果たすための添え物でしかない世の万物。
けれども、手中にしたと思っていた小鳥は甘い時に身を置きながらも心を委ねていなかった。
己の奥深く、決して悟らせないその目的の一端に触れられてしまうほどに、気を許していたのか、はたまた――――。
蘇る、拒絶の言葉。
「(……正直、面食らいました)」
“駒鳥”は――――彼女は、この瞳の深層を見据えていたのだとしたら。
些か先走り、深読みをした選択をしたと溜息を漏らしたが、ふと動きを止めて思い返す。
胸に感じた虚無感という感情と、理屈ばかり並べて状況の受け入れを図る思考とを織り交ぜて「客観的」に見ようとする自分と。
気付いたところで頭を抱えた。
くしゃりと前髪を乱して冷たい手の平が瞼を覆う。
「(………傷つきたくない、だなんて馬鹿げている)」
感情ははっきりと淋しさを訴えているのに、素直に受け止められず、他人事の様に捉える事で気持ちに蓋をする。
状況を理解すると嘯きながら結局は胸に感じた虚無感こそが、冷たい手こそが、真実であるのに。
けれどもまだ、
「……脇目を振る事は出来ない。これで、いいんです」
贖罪が遂げられるまでは。
遂げられるのか、遂げられた後の事も分からないけれど。
叶うのならば。
誰の知恵も借りる事無いままに、僕の深層に触れた彼女には、
「(…………もっと、未来で会いたかった)」
初めて、心に触れた人。
美しい娘。人形のように白い肌に、華奢な肩。
稀なる長い脚、ゆるり流れる腰の線、甘い肉には掛け布の衣。
どんな豪奢な着物よりも神々しいと思った。
いつも不安に揺らす濡れた瞳が微笑む様を叶うならば――――――、
叶うならば。
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身を刺す厳冬。
身丈よりも遙かに広い袈裟に覆われていても暖が取れない程の熾烈さに酷く滅入った。
実りをたんまりと取り込んだ秋を経たというのにどうにもその日は心の安定が得られず、かといって自作の薬を飲もうという気にもならないまま、ふらりと夜の京に出ていたのである。
端女でも買ってやろうか、はたまた剥ぎを返り討ちしてやろうかと、まるで若い頃のように湧き上がる、どうにもできない癇気を静めるためである。
“あの一件”からすっかり寄り付けなくなってしまった五条大橋であったが、夜ならば人もおらず知己に会うことも無い。
そんな何となくからやってきたそこは、以前の姿とはすっかり変わり果てた侘しさが漂っている。
思わず胸を押さえた。
体の奥できつく絞まるそこは、癇気を鎮める代わりにこうして罪という意識を刷り込んでいく。
けれど今の弁慶にはそれが心地よくさえあった。
ここの住人達は己が何をしたのか、なぜこんなにも寂れてしまったのかを知らぬまま、顔を合わせれば笑顔を振りまいてくる。
これもまた自分への罪なのだと飲み込む事が出来るが、今日ばかりはそんな自信はなかった。
「(……すみません)」
かつて自分が身を寄せていた小屋が目に入る。
暫く留守にしているにも関わらず、遠目でも目立った風化が見られないことから、恐らくはここの住人たちが手入れを続けているのだろう事が伺える。
いっそ全てを知って憎んでくれたのならば、楽になれるのだろうに。
ここの住人はずっと信じて、明日を生きていくから。
「(………罪が赦される事は無い)」
僕が、本懐を遂げるまで。
ここへ来たのは間違いだったかもしれない。重い胸を抱え、踵を返そうとしたその時であった。
微かに聞こえる水の音。
この真冬のこんな時間に川に何の用事があるのか、と思わず橋から身を乗り出したが、視力に乏しい故に何も捉える事が出来ない。
もしかしたら住人が誤って転落したのでは、そんな可能性を弾き出した時。足は河原へと向かっていた。
枯れているというのにしつこく在り続ける草木を乱暴に掻き分け音の元へと急げば、ぼやける視界の闇の中跳ね上がる水滴が光った。
更に目を凝らし近づけば、闇の中でぼんやりと浮かび上がる白く大きな物体が確認できた。
――――人間。
理解できた瞬間には夢中でそれを引き上げていた。
声も出せぬほど暴れるそれはすぐに女性だと分かり、その細腕を引き上げれば闇夜に浮かぶ艶やかな肢体が目に入った。
均整たる芸術品の美しさに思わず見惚れるのをいなし、我が身へと抱き寄せればよほど恐ろしかったらしい。
食い込むそれに思わず眉に皺が寄った。
触れた素肌は氷のように冷たく、数刻先の別の未来を想像しては寒気が走った。
とにかく、女を落ち着かせるべく動揺を押し殺して声をかければ少しずつではあったが、冷静を取り戻していったようで、肩に食い込んでいた指も滑らかとなった。
岸に下ろしたところで女を見やる。
随分と体力を消耗していたが、足が痙攣硬直を起こしている以外は概ね健康体のようである。胸を撫で下ろした。
薬師としての面を外したところで、気立った妙齢の男の前に素肌の女というのは少々毒である。
とりあえず、と袈裟で体を覆えば恥じらいに頬を染めてくるまる女の、血の気の引いた白い肌に赤みが差す表情は、少女という幼さの中にも十分に色香が灯っていて、先程見た美しい肢体と相まり、非常に居心地が悪い。
少なくとも今の弁慶にとってはそうであった。
しかしそのままでは、自家発熱まで時間がかかると、薬師としての自分が冷静に判断を下す。迷いは短かった。
袈裟ごと抱き寄せた体は細い。
けれども触れることで分かる肉の柔らかさとしなやかさは見目違わぬ女のそれで、触れる場所にも気を遣う。
患者と、医者代わり。
普段ならば決して動揺などするはずも無いのに、この少女にだけはそれが通用しないのはおそらく。
「(……やめよう)」
今、答えを出すのは得策ではなかった。
すばやく思考に蓋をし、少女を温めることに集中する。
すると少女の方もようやく気を取り直したらしい。
何か言いたげにこちらを見上げているそれに、瞳を合わせ応えたら、言葉に詰まっているらしい小さな唇が震えた。
やはり少女は見惚れるほどにうつくしい娘だった。
しかしこのまま見つめ続けても埒は明かない。
外気に触れる肩に鳥肌が立つのを確認して、声をかけた。
「…もう、落ち着かれましたか」
呆れが混じった声になってしまったことは、この際不可抗力だと思って許してほしい。
誤魔化すので精一杯であったのだ。
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話を聞けば更に呆れる内容で、けれどそれをどこか可愛らしいと思ってしまう自分もどこか疲れているのかもしれない、と額に手をやる。
清潔にしたいという精神やよし、されどこの身を刺す真冬に衣一つ無しに飛び込むとは正気の沙汰とは思えない。
余りに突飛な返答に呆けた顔を隠す袈裟がなかったのが口惜しいが、代わりに夜の闇が包み隠したので体裁は守れたわけだが、
どうにもこうにもこの少女、聞けば既に結婚適齢期をとうに越えた年齢である。
やけくそ紛いの行動かと思案するが、恥じらいや言動などそれらから推測するにどうにもそんな覚悟も概念もなさそうに感じられる。
この年齢になれば焦りもありそうなものだが、抜群の容姿の持ち主である。
短い間のやり取りではあるが、それらから行き遅れる様な要素も見受けられない。
湧き上がる無粋な疑問に、自ら首を振り、一笑を以て掻き消す。
こちらの思惑が伝わっているのかいないのか、頬を染める少女はやはりながら愛らしかった。
冷水で体が冷えた事や元々からの疲労が溜まっていたらしい彼女はぬくもりを取り戻すに連れて、瞼の重みも増していったようで、
暫くして完全に眠りについてしまった。
彼女ばかりではない、完全に適齢期を逃しているのは弁慶も同じであったが、一人の男にこうも無防備に体を預けられては気も削がれるのが実のところで、冷えぬようにと、眠り姫となった娘を深く抱き締める。
何度抱き寄せても、柔らかく、あたたかい。
「………一瞬、……天女かと思ったのですが…。随分と―――――人間、なのですね」
ちゃんと送り届けてあげましょう。
周囲を見渡せば草の陰、河原に残されていた彼女の荷物。
持ち物から近江方面からの旅人だとの情報を得た後に、すぐに周辺の宿をあたった。
割り出した後は彼女と、荷物と少量の薬と、弁慶という名とを預ける。
深く頭を下げる彼女の保護者を後に、なぜ名を名乗ったのかとの自問が上がったが、些細な気まぐれだと考えるのをやめた。
また、貴女に会いたい。
無意識の名乗りの中にそれが含まれていたのか否か。それは弁慶自身にも、分からなかった。
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「嘆かわしい事だな………」
「しかし焦っても現状は簡単には変わりません。…機を伺い、策を練りましょう」
ピンと伸ばされた白い背を影から見やる。
たてがみのように長く、鮮やかな橙の髪が苛立たしげに揺れるのを諭すように声をかければ、納得いかぬもののその憤りを収めることはできたらしい。
まっすぐ過ぎるかの男を補助する体で友人をやって何年になろうか。
男と比較すれば、昔と比べ随分と己は歪んでしまったものだ。
かの男――――源九郎義経を見る度にそう感じる。
半ば捨て子の形で放り込まれた比叡山での暮らしを例えるならば鬱屈に他ならず、自分の立場を受け入れるには幼かった心は時に暴れて捌け口を求めた。
始めこそ大人の手で抑え込まれた丈も、気付けば振り薙ぎる程になった時には気付けば隣にはこの男がいたように思う。
やんちゃ盛りと言えば可愛らしいが、所詮は捨て子同然の存在で寺に迷惑をかけ続ける事自体、疎まれる以外の何でもなかったのだが、結局最後まで寺が弁慶を追放する事はなかった。
結局のところ、山法師として遂げる事を拒絶したのは弁慶自身で、最後まで務めを果たす事無く抜け出て行ったのである。
今思えば、あの頃の自分の不安であるとか鬱憤であるとか、経緯を全て知り尽くした上で全てを許し、見届けた僧達は偉大であり、内心頭が上がらない。
そんな幼少期を経て、その途中、まさに反抗期中に出会ったこの九郎という男とは今や腐れ縁という関係である。
郎党を組んで暴れていた頃やいざ久し、数年ぶりに再開した男の肩書きは「鎌倉殿の弟君」となっており、さすがにその時ばかりは肝を抜かれた。
暴れていたあの頃の面影や何処に、と悩まさせられるほどに真っ直ぐすぎる視線を向けて、神妙な面持ちで言い放った言葉には更に驚いたものである。
なんだかんだと結局その立場に甘んじ、今は源氏軍の“軍師”という身分に収まっている自分も自分であるのだが。
「…しかし、困りましたね。正直、平家がここまで怨霊を進めてくるとは思わなかったので」
「くそっ…三種の神器さえ取り返せたらこんな事には」
唇を噛み締め悔しさに滲む友人を宥めながら、一方水面下で思考を張り巡らせる。
情報の出し惜しみをしているわけではないが、必要だからこそ使う時節を違えてはならないことを知っている。
九郎に聞こえぬように息を吐き出し、代わり策と吐く言葉を選別するがこれだと思う適切な答えが見つからない。
唇に指を寄せ考えるが、どうしたものかと晴れぬ霧の中、沈黙を貫くほか無かった。
京周辺の小さな集落から村、田畑へと襲い掛かっていた怨霊の群れの出没が頻繁に、かつ都へと近づいている。
九郎の兄である源頼朝――――鎌倉殿の命を受け上洛した源氏一行の怨霊征伐軍は早い段階で座礁へと乗り上げることとなる。
“怨霊に物理攻撃は効かない”それが最大の問題であったのだ。
こればかりは如何に剣の腕が立とうと、目を見張る策を敷こうと意味が無い。
自分に能力が無いからだと自分をいじめ抜き、力を得て導けるのならば、と九郎はもどかしく思っているのだろう。
一方弁慶は全く異なる切り口からの解決策を練っているところであった。
知識としては得ているが、果たしてこんな解決策はないだろう、と呆れながらも提案してみる、もちろん、そんな気持ちは包み隠して。
「九郎、龍神の話を知っていますか」
――――――神子を待ちましょう。
笑いを噛み殺した喉の奥が、チリチリと痛んだような気がした。
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長い冬が明け、雪解け水で溢れる鴨川の勢いや激しく、白波の隙間にかつての夜に思いを馳せたのは、春の陽気の誘いだろうか。
軋む橋の桟に腕を預け、集落を見下ろせば徐々に、けれども確実に衰えていく屋根に人に、胸の奥が痛んだ。
数か月前の冬の日に出会ったあの娘は今頃どうしているのだろうと不意に気に留まった。
そっと落とした瞼の裏には今でも鮮明に思い出される美しい姿。
月の光に輝く姿は眩い程神々しいのに、実際の体と瞳は扇情を煽っては色香を放つ。
年齢的には適齢期を越えた位だろうとは思うが、見目に反し中身は以上に幼い。
その差に魅せられたようにも思った。
少し前に友人に今後の展開を提案してから、一線から退き、毎日その提案の裏付けを探っている。
来る日も来る日も書物と伝承の文字を追うだけの日々に疲れと嫌気が差していた事の反動か、ここ数日は部屋に籠ること無く、こうして宛のない放浪をしている。
比叡を抜け出したあの頃から現在へと、あらゆる縁をここ、京に落としてきたがやはり五条へ足を運ぶのは最後であった。
「(………少なくとも、彼女の記憶は悪いものじゃない)」
後悔ばかりが渦巻く五条の記憶を神秘的なものへと書き換えたあの娘の存在。
「もう一度」
…もう一度、なんだろうか。
停止してしまった思考のままぼんやりと眺め続けていれば、橋下の住人達がこちらに気付き集まってくる。
お得意の笑顔でそれらをいなしつつ、薬を振りまいて歩いた。
気付けばすっかり夜も更け、京邸に戻るのもどこか面倒に思い弁慶はそのまま五条の小屋に泊まっていく事に決めた。
幸い、住人達の好意で手入れが施されたそこは十分に家屋としての機能を果たしており、押し込んだままのはずの布団ですらきちんと陽の香りがしていた。
ここまで深く信頼されている事に罪悪感は煽られるが、好意は素直に受け取ることを信条としている。
そろそろいい加減元の目的、龍神伝説の調査に戻らねばならないのだから、明日辺りで放浪も終わりにしなければならない。
明日は可能な限りの家を訪れ、薬を渡しに回ろう―――そんな、明日の予定を立てていた時の事である。
「―――――!」
住民のそれとは明らかに異なる、乱雑な足音が響いた。
否、そう判断するにはまだ早い―――弁慶は近づいてくる足音に耳を澄ませた。
足早に、近づいてくる足音は1、2………しかし片方は明らかに地面を蹴り上げる音が低い。
荷物を抱えているのか、はたまた獲物を抱えているのか。
柱に立てかけた長刀の刃先を開放し、軽く構える。
2対1では薙ぎを主とするこちらの獲物ではやや不利ではあるが、この際そうも言っていられない。
「(荒事は久しい…………血を見るかもしれませんね)」
弁慶か、はたまた向かってくるそれらか。
しかしながらその問いに答えるものは存在しなかった。
音がまっすぐにこちらに向かってくる。弁慶は深く、構えた。しかし―――――
「よかった!!弁慶先生!!」
「この人を診てやってくれないか!早くッ!」
小気味良いほどに開け放たれた玄関に雪崩れ込んできたのは、この河原の住人の男であった。
思わず構えた薙刀を控える。
どちらかと言えば屈強な二人が走ってくる音となれば、野党と勘違いしても仕方がないかと本人らに知れたら抗議されそうな一言を飲み込みながら、弁慶は男たちと向き合う。
がたいのいい二人が血相を変えて飛び込んで来たわけだが、肝心の“この人”が見当たらない。
ふと思い返せば足音は二つであったが、一つは確実に“一人”と数えがたくて……と、そこで閃くと同時に、未だ緊張状態から解けていなかったらしい思考に内心舌打ちする。
闇に溶けておりよく見えていなかったが、男は大きな黒い布に包まれた何かを背負っていた。
急ぎ背に回りそれをおろすべく手を伸ばしたのだが、その黒い布の正体に気づき、手が止まった。忘れるはずも無い。
なぜならそれは、誰のものでもない、弁慶自身の五条袈裟であったのだから。
「……屈んでもらえますか。…どうやら背を切られているようです。血で固まっている今、不用意に触れることで傷を動かせばまた出血してしまう危険があります」
淀みなく、そして早口で言い放った言葉に気圧された男達は喉を鳴らし従った。
低くなったか細い背にべとりと張り付いた黒い袈裟は見た目には変わらぬ黒を見せているが、その下には深い真紅を吸いこんでいるのである。
目を凝らすと見える傷の脈が酷く大きく、深い事が伺えて冷や汗が流れた。これは、一刻も早い手当てをしなくてはならない。
そう願う気持ちとは裏腹に思考が正常に、冷静に働いていないことを弁慶は嫌というほどに感じていた。
この時代、縫合などという手術法はない。
止血といえど、背いっぱいに切りつけられているらしい患部は広すぎて、止血をする事ができない。
ぐるぐると方法を模索する。
闇夜に浮き上がる白い肌。
どす黒く染まる血塊。
絹のように繊細な白い髪。
真っ青に染まる端正な顔。
まるで走馬灯のように巡るいくつもの現実と記憶とが思考を狂わせていく。不安気に見つめる男達は気付かない、震える弁慶の指先が、ただただ凍っていることを。
「……袈裟を、外します。急ぎ、湯を張ってください」
震える声で搾り出した要請に、男達は力強く頷き、一人は盥を探しに飛び出した。
それを見やって弁慶は困惑するもう一人に近づき、背の人をそっと貰い受けた。
向かい合って抱き合う形で預かると、すぐさま男に薪を集め火を起こす様指示を出す。
もう一人を見送って、ようやく深く息を吐き出した。
見間違えるはずがない。
自分に凭れかかるその袈裟は、その人は。
かつての冬の日に合間見えた現世の天女………否、ただただうつくしい娘、その人であったのだから。
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二人の助手の力もあり、なんとか応急処置を間に合わせ一息つく。
その頃には夜はすっかり深まり周囲には静寂が訪れていた。
大きな溜息を吐き出して緊張の糸を解いた男達は屈強な姿に似合わず、眉を下げ随分と情けない表情をしていた。
疲労こそあるようだが、その瞳には達成感が滲み出ておりいい顔をしている。弁慶はそう思った。
好ましい、五条の人情なのかもしれない。
これ以上は大きな作業もなく、己一人で対処が可能だと判断されたので男二人に礼をいい、下がってもらうことにした。
娘の目が開くまでは傍にいたいとの申し出に、やんわりと拒絶を示す。
実のところ、弁慶自身にもこれ以上彼女に施術等を行うことも無く、ただただ安静に眠りについてもらうことだけが今後なすべきことであった。
それは一人だろうが三人だろうが大差はないのだが、やはり静かに安静にさせてやりたいとの気持ちがあったのである。
先生がそこまでおっしゃるなら、と男達は残念がったが引いてくれたので、一言礼を述べてその後姿を見送れば、姿が見えなくなったところでどこか安心する自分がいたことに気付く。
――――彼らが留まることに問題などあるはずがない。
安静にさせてやりたいとの綺麗事を言ってはみたが、本音の所、弁慶自身が彼らが留まることを良しと思わなかっただけであった。
「(…………ああ、本当に)」
卑怯だと自分でも思う。
けれどもこの娘を必要以上に他人に晒したくなかったのも事実で、また、そう思った自分の気持ちに困惑もした。
未だ血の気の戻らぬ白い顔が視界に映る。
物言わぬとまるで精巧に作られた人形そのもののと評しても過ぎない程だと思う。
男達の話によれば、この娘は気を失う寸前に己の名を呼んでいたと言う。
皮肉な話だと、思った。
もう一度、機会があればなどと名残惜しく伝えた己の名と預けた袈裟が、血に濡れ彼女にとって唯一の生命線となろうとは。
医師だなどという存在は生涯の内、会わなくて済むのならばそれに越したことは無い。
一人の人間として、男としての再会への期待は、他でもない己の名残によって踏みにじられることとなるだなどと、軍師である自分にすら予測出来なかったというのに、誰にならば綺麗に幕引けたというのだろうか。
「……早く目を覚ましてください」
夜半過ぎずとも構わない。
「僕に、名を―――――」
氷のように冷たい手を取り、そっと口付けた。