やさしいひと(弁慶長編:完結)
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06.離別
ごめんなさい、との謝罪に応える言葉を見つけられずに早1ヶ月が過ぎようとしていた。
蝉が絶え、空が高くなり、雲が薄く靡いて夏は終わりを告げた。
最後の名残であろうか一節奏でる風鈴の遠い音が切なく、撫でる風はすでに涼しい。
部屋を滞りなく流れ行く風は、部屋の広さを知らしめるように私の体を冷ましては、見つめる食卓の孤独に侘しささえ与えた。
謝られても、返す言葉が見つからぬままひと月。
家主は一層家を空ける日が多くなり、比例するように外への知識が増したのは必然で、今ではもういつでもここを発つことが出来るまでになったように思う。
色々とあれからつてを増やし聞き回ったが、やはり後ろ盾無い女の寄せる場所などどこにもあるはずはなかった。
長者の傍女に。
覚悟はしていたとはいえ、やはり心の底では拒絶する気持ちがないわけではない。
どんな言葉で飾ったとしても所詮は売女である。
そこにどんな涙ぐましい努力が、過去が含まれていようが世間の目も評価も変わることはない。
ならばせめて、自らの意志で選び、意味を見出す。
どれだけの人に間違っていると言われようと、誇りだけは奪われない。
そうあろうと決めた。
家主は3日ほど連続で家を空けており、おそらくはそろそろ帰宅されるだろうと予測していた。
可能であれば今日、身の振りを伝え早ければ明日、少なくとも3日以内にはここを出て行く旨を伝えようと思う。
そう決めた日から部屋の片づけをしていたのだが、ものの数刻で終わる程の荷物である現実がただ寂しい。
持ち物と言えば今は亡き茶屋夫妻からもらった紫陽花色の髪紐と、猟師夫妻からもらったぼろの着物と、弁慶からもらった普段着だけだ。
ここへきて2年が経とうとしているのに。
「(……これっぽっちで収まってしまう)」
そんな、小さな存在。
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秋の空はいざ高く、静かな空色は霞んでいるような淡い色が一面に広がっており、気の遠くなる無限がそこにあった。
黄味を帯びた日差しを縁側で貪っても、照り反射する埃塵が輝く以外に尋ねものはない。
長い睫毛がちりちり揺れて瞼と視線が下へと落ちれば、少し荒れた庭と名残の夏草が萎れている。
ただ風を聞くだけの時間は穏やかに、けれども淋しく流れていくばかり。
まるで蜜月のようだと皮肉る程に近くにあった男がないだけで、こんなにも空っぽな家であったのかと奇妙な詰りが胸にはある。
「早く、帰ってこないかな………」
一度決めたことを実行するまでの間、待つのは苦手だ。
早く、飛び去ってしまいたい。
縁側の端、雨戸の口に凭れて目を瞑れば、夢の川への船頭がゆっくりと近づいていた。
「――――――さん、起きてください」
「……っ、……あ、」
「こんなところで眠っていては風邪をひいてしまいます」
目の前には3日ぶりのきれいな顔。
ふやけた視界でもきれいに映るその顔の目の下には薄っすらと隈が浮かび、輝いていた髪はどこかくたびれて見える。
ある程度の環境が整ったところにはいられたらしい。
全体的に小奇麗にされてはいたが、それでもはっきりと浮かぶ疲弊感に躊躇する。
温かいお茶でも、と立ち上がるべく身を正したのだがそっと左手でそれを制される。
どうしたのかと見やれば、ただ曖昧な笑みを浮かべて佇んでいた。
すっかり日の落ちた秋の夜の入りは、それでもまだ浅い藍色で、月の光もか細く照らすばかりで肝心の深い瞳の奥が見えない。
けれども、共に在った日々は決して空回るばかりではなかった事がはっきりと分かった。
彼は、さみしがっている、
それも、酷く、飢えるほどに。
「(ああ、どうしよう……今、あの瞳を見てしまったら、)」
きっと、恐れていた事態が起こってしまう。
それだけはどうしても避けたかった。
彼に求められる事を厭うているのではない。
彼がただ永劫、私を傍に置くことを貫いたとしても、それでは駄目だということを知っている。
なぜなら彼は、待っている存在だからだ。
強く鮮烈な、太陽のような存在を。
それが分かるのは、私もまた、待っている存在だからに他ならなかった。
求めているそれを易々と得られないことを知っているからこそ、自らが強くなり、そして周囲を切り捨てていく。
優しい笑顔の下の燃えるような激情を、激しい枯渇を潤せるのは…私では役者不足なのははじめから分かりきっている。
―――――嗚呼、どうか違えないで、
恩人である貴方に、不幸になってほしくないの。
共依存の名の渦が拱いているのを振り払い、放った。
「私を助けても、貴方の罪は赦されないんですよ…………弁慶さん」
見開かれる瞳、割れた薄氷、流れる痛い沈黙と秋の深紺。
もう二度が無いようにと深く、深く、形が無くなるまで抉る事が出来たのならば、と願う。
何一つ大切な事を交し合わない空疎な同居生活で探り合った互いの瞳の奥は、どちらも底が見えぬ程の深さと淀みで、ただどちらが溺れるかを待つようであった。
そう、何一つ言葉になどしていない。彼の過去に何があったのか、私の今が何であったのか、互いの気持ちすらも何一つ。
それでも透けて見てしまった彼の真相心理を砕かねばならない事が罪だというのならば、背負ったって構わなかった。
ただただ願ったのは、彼の幸せだ。そこに私という存在が、必要ないのだとしても。
男は何も言わなかった。
常のように、即席の甘味の様な言の葉で飾られることを期待した私はすぐに後悔することとなった。
刺さる胸、放たれたのは想像以上に儚く淋しい彼の笑顔、そして無言という肯定だった。
傷つけることでしか彼を救えないのなら。心を抉ることでしか彼を救えないのなら。
せめて、器だけでも。
「……………私を、使って」
乳房へと導いた手は、冷たく、震えていた。
手馴れた貴方と未経験者の私と。
引き攣れた背の傷と破瓜の鈍痛とを背負って小風呂敷を胸に抱く。
肌寒い朝の静寂が男を照らせば黄金の髪は昨夜の艶をひた隠して無垢に輝いている。
年齢よりも幼く見える寝顔に、穏やかな眉に、隈をなぞって震える指先はこの先の孤独を儚んでいるのだろうか、酷く冷たい。
何度も撫で付けた彼の手は温かいだろうか、そんな一瞬の情緒で引き寄せた掌をあの日と同じく、そっと頬へ寄せて瞳を閉じた。
じわりと広がる熱は頬だけではなく胸の奥と、瞳の奥と、染み入っては慰めるように色を変えていく。
いつかとは違う皮膚の固さもささくれた指先の小さな痛みも全て受け入れたかった。
気付いたところで全てはもう決定後の名残惜しい足掻きでしかなく、これ以上濁してはならないと遠くで反響する。
「…………惹かれていたのは、私の方」
手に入らないからと言い訳をして誤魔化して、諦めて、逃げていく私をどうか笑って、傷をつけた私をどうか憎んで。
「―――――――さよなら、弁慶さん」
名残惜しく離した手とは裏腹に、頬のぬくもりは余韻さえ認めずに瞬く間に流れていった。
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冷える風を連れて一人行く道は冴え渡る清廉な空気で満たされており、連れて背が伸び顔が上がる。
遙か遠くに霞む山の深緑が、進む毎に明度を増していくのをただ追うだけは惜しいと思えども、増える色彩と上がる温度に張り詰めていた糸が解けていくのを食い止める事で精一杯であった。
気付けば随分と歩んだ。振り返っても五条大橋は、もう見えない。
「――――――っ」
これだけは、と張り詰めていた糸が解けて溢れ出した雫が止まらない。
子供のように蹲って抱き締めて、私は枯れるまで泣いた。
不安が溢れてかなしくてかなしくてたまらなかった。
予定よりも早く五条大橋と別れることになった為、明日の暮らしの保証がないまま日の高さに甘えて行く先を決めかねていた私に、待ち受けていたのは好奇の視線の嵐であった。
京にはいられないと最初に発ったその区域の外は時代のあるべき姿のまま、手つかずの自然が溢れている。
色付き始める広葉樹や地面に積もる枯葉と木の実の破片、透かし流れ込んでくる日差しは黄色く、幻想的な秋の姿が美しい。
結局行く先決まらぬまま歩みを進めたのは、かつての茶屋の跡地である。すっかり焼け朽ちたそこに住めるだなどという期待はもちろんない。
けれども、半年以上離れていたそこがどうなっているのかをこの目で確かめたかったのだ。
何より、あの夫妻がどうなっているのか、確かめたかった。
恐怖に体が震える。
額には脂汗、背の傷が引き攣った。
抱えた包みをきつく抱きしめて、一歩を踏み出す。
今度こそもしかしたら、死んでしまうかもしれない。
今度こそもしかしたら、もしかしたら。
希望と絶望と不安とが織り交ざった混沌とした詰りが胸に溜まっては圧迫するその不快感に、嘔吐きながらも進んでいく。
一度決めてしまえば危機回避すらも出来なくなるほど無謀だという事を、この世界に来て深く知った。
それでも背を押すこの感情は好奇心なのか、それともただの義務感なのか。
ひとところに留まらない芯の無い信念は、もうすでに人のそれですらないのかもしれない、と己ながら下種た高尚感に吐き気を催す。
ここから茶屋までの約二里の道のりの間、何度同じことを悩み、答えを出し、否定し、また巡るのだろうか。
誰よりも自分を、誰よりも他人のように見つめていた。
純粋に怖いとは思う。
今思い出しても胸に灯る安らぎのぬくもりはかけがえのないもので、だけどそれはもうこの世のどこにもないものだ。
命を懸けて伴侶を追い、命を落とし魂を墜とし、残ったのは朽ちた亡骸だった。
それがたとえ間違いなのだと責め立てられたのだとしても、信念を曲げず選択した夫妻の、店主の姿が鮮明に焼き付いている胸。
思い出すだけで心が震えた。
店主としての魂が死ぬ間際の私に託した生への希望を、時代を進む手段を捨てたいわけでは決してない。
心の底から継ぎたいと願うが、けれどもそれも時が経てば答えも変わる。
揺るぎない願いなんてものはどこにあるのだろう。
考え疲れが体に出る頃、陽は随分と西へと歩を進めていた。
見慣れた山道に望郷にも似た気持ちを抱きつつ、怨霊が住まうかもしれないという恐怖とが湧き上がる。
「(………どうなっているのか)」
確かめたい。
自分だけ生き残った罪への罪悪感なのか、怨霊というものの顛末への興味なのか、ただの使命感なのか、もう分からない。
足を進める動力は一つ。
確かめたい。ただそれだけであった。