やさしいひと(弁慶長編:完結)
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05.長者
毎日のようにニュースで耳にした熱中症注意の言葉が遠い記憶のように感じられる程に、穏やかな気温が続いている。
それでも相当の気温である事に変わりはないが、日を浴びるだけでくらりと酔う熾烈な暑さはどこにもない。
夏風に誘われちりんと歌う風鈴は涼やかに、流水の音色と混ざっては耳に留まる。
透き通る音色は淀みなく私の体を突き進んでいった。
どこまでも青い林と森と、その先にある晴天と白い太陽。
右手に阻まれる水の流れにゆらめく白い布をぼんやり見つめている心はただただ平穏であった。
輪郭をなぞり、顎から落ちる雫が川へ飛び込む音で意識が覚醒する。
それを合図に、休めていた腕を動かし、私は作業を再開した。
「………夏、」
そう、季節は巡り、夏が訪れていた。
灼熱とまでは言わないまでながら、刺す様な日差しは暑く、遠く見える五条大橋には陽炎が現れている。
暑いから日陰で作業するようにとの家主の忠告どおりに、洗濯をしていたはずであったのに今やこの身に降り注いでいる熱射に蕩けているのは、思考か、はたまた時間か。
季節の巡りとは残酷で、追いつけない心と裏腹に振り向くことなく進んでいくそれは、気がつけば麻の着物が馴染むまでに進んでいた。
ここにいること
その答えはまだ、出ていない。
ぱしゃん、水に落ちる音と共に全身に纏った水の温度。
ああ、また、心配させてしまう。
穏やかなあの声が荒立つのを聞きながらけれどもその表情には霧がかかったようで、見ることが出来ない。
一人では立てない己の弱さに酔いながら、流される身を他人事のように見ている私に、どうか。
「(生きる理由を、ください)」
泣いていたのは怖かったからじゃない、ただ、空しくて情けないからだなどと、どうしたら口にする事が出来ただろうか。
「本当にびっくりしたんだからね!!」
「す、すみません……」
この年になって大目玉を食らう羽目になるとは思う由もなく、元より自主性に欠ける性格もあってか、決められたルールを破る性格ではなかったし、
はいはいと指導者に従い尽くしてきたこともあってか、この状況が上手くのみ込めず混乱していた。
とはいえ川を御伽噺の桃よろしくどんぶらこと流されてきた状況に立ち会った人間からすれば血相変わる光景であったに違いない。
ようやく現状を理解したところで、罪悪感が後追いでやってくるのは些か都合がよすぎる気がしなくもなかったが、ふかぶか頭を下げる。
ぽたりと落ちた雫が地面を染めたが、すぐに乾いて消え去った。季節は夏。
どこまで心此処にあらずなのか、呆れるほどに他ごとばかり考えている。
私の思考は今、あの冬の川の中へと戻っていた。
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思えばあれからもう半年が経過した。
河川敷を草を掻き分け進みながら凍てつく冬の日を思い出していた。
あの頃から勝手な無茶をしては誰かに迷惑をかけて叱られて、呆れられて…の繰り返しばかりしている気がする。
行く手を阻む着物の重さに辟易としながら元作業場、盥を置きっぱなしにしていた場所まで戻った。
始めは翳っていただなどと想像させない陽の照りっぷりに溜息を一層深めながら、どうしたものかと立ち尽くせば、本日二度目の大目玉を食らう羽目になった。
放ったのは勿論家主の弁慶である。
なんだか私は最近この人を煩わせてばかりな気がする…、少しは安心させるべく動くべきなのだろうか。
しかし、どこかしっくりこない。
「これ以上君に制限をかけたらそれこそ軟禁状態になりかねない…ああ、本当に君って人は」
「………、」
ごくりと言葉を飲み込んだ。
放ってしまえたら楽だったとは思うのだが、どこか自分の中でそれを放つことを許可できるだけの根拠もなかったのだ。
代わりに彼を見つめる。彼に関してはよく分からない事だらけだったからだ。
何の役にも立たない私を半年以上もここに住まわせていること、甲斐甲斐しく世話を焼くこと、家族のように慈しむこと。
その瞳は、何一つ欠けているものなどないと、こんなにも語っているというのに。
「……のに」
「…え? なんです、リンさん」
「……いいえ、いいえ」
あなたに私なんていらないのに。
「――――さん、」
「…っ」
「すみません、迷っていたのですが…」
船沈没。夢の国への船が消え目が覚め、最初に耳に届いたのは近すぎる囁きであった。
どうしてこう、この人の前では失態ばかり見せているのか、と頭を抱えたくなったがそれより先、とにかく身を離さねばとそっと肩口から傾きを正せばくらりと脳が揺れ、視界がまだらに蕩ける。
ここの所ずっと考え事に囚われ続けていたせいだろうか、きっと全てが疲れているのだろう。
「…寝不足ですか。目の下に、ほら……隈が出来ています。綺麗な顔が台無しですよ」
まるで涙を拭うように、自然に目元へと手が寄せられる。
拭うような仕草を見せた後それはそっと離れて、彼の口元へ。
どこか誘うように、優雅な仕草の中に本心をちらつかせるのは彼の手管なのだろうか、これではきっと泣かせた女性も多かろうと人知れず溜息をつく。
優しい事は否定しない。けれど、どこかその目にはいつだって揺ぎ無い何かが壁を作っていて、その奥へたどり着かせてくれないのだ。
甘い言葉も、過剰な距離の詰め方も恐らくはその奥に隠された本心が成せる彼の処世術で。
けれどもいっそそれに酔わされてしまえたならば楽であっただろうに。
ぼんやりと虚空を見つめる癖が酷くなればなるほど、内に渦巻く悩みは増えている。今もこうして一つ、考え事が増えた。
彼はどこまで見抜いているのだろうか。
「暑くて、寝苦しくて、……あ、いえ、環境が悪いとかでは、ないんです。ただ、その」
「君は本当に変わりませんね。…僕にそんな気遣いは無用だと言っているのに…こちらに、来ますか?」
袈裟を脱げば想像通りの華奢な腕がすらりと伸びている。
日に焼けていない白い肌が夜闇に浮かんでどこか青白くさえ見えた。
夏の終わりの儚い蛍がゆらり窓の外、照らしては隠し、幻想的な光を灯す。空気に酔ってしまいそうだ。
誘われるがままその腕に身を預ければ、ゆるりと体勢を変えられてそっと身を横たえる形となる。
左手で、股で私を横たえ瞳を合わせれば、浮かび上がる微笑にゆっくりと思考が蕩けていく。
空いた手で私の髪を梳いて遊ぶ。これもいつものよくある光景で、こんなにも整った情緒があるにも関わらず彼が私に求める事は唯の一度もなかった。
妙齢で独り身―――この世の常を知り得ている訳ではないが、人が永く生きられない時代だ。
次世代を設けるのもやぶさかではなく、言い方を違えば生き急いでいるこの世で、二十半ばになっても孤独に生きる彼は既にもう捨ててしまったのだろうか。
けれども今宵のその目はちりちりと焼け付く炎を携えている。
緩やかに微笑むその笑顔の裏にひた向きに隠す荒々しいそれを、なぜ、
「眠りなさい。僕がついているから、怖いことなんてありませんよ」
それでも髪を撫でる手はただただ優しい。
今日ならばあの鈴の音も届かないかもしれない―――――淡い期待を抱きながら、私はついに眠りに落ちたのであった。
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昨今、熟睡できない理由は先に挙げたとおりであるが、一番頭を悩ませているのが「鈴の音」であった。
眠りにつくとどこからともなく聞こえてくる澄んだその音色は回数を重ねるたびに大きく、鮮明になっている。
夢の中の出来事だと高をくくっていたのだが、夢の中で聴こえたそれは目が覚めても耳に執拗に残っており、忘れる事が出来ないのである。
けれどもどこかで聞いたことのあるような気がする―――そのあやふやな記憶こそが思考から追い出せない原因で、ひたすらに頭を抱えていた。
時折その鈴の音の奥から人の声のようなものすら聴こえてくるから尚の事厄介なのである。
けれどもこの日は鈴の音も届かない。少し熱いかの人の肌がどこか心地よくて、安心して、そして、切なくて堪らなかった。
この奇妙な同居生活に終止符を打つとすればやはり私の選択肢一つで、そしてそれは長引かせるべきではないのだと思う。
知らぬ間に横たえた身のまま、ぼんやりと瞼を上げて映した幼い寝顔に内心戸惑う。
幼いとは見目ばかりで目の前のその人は十分というほどに成熟しており、年齢だけを言うのであれば私よりも7は上だろうか。
以前何かの機会に聞いたことがある。
ゆるやかに弧を描く黄金の髪が瞼を隠し、長い睫毛が時々遮る髪の先はとても柔らかそうで食んだのならば、焦がした鼈甲飴のようにほろ苦いのかもしれない。
きれいな人。
けれど内には激しい気性を秘めている。時折瞳を通して透けて見えるそれらの不安定さがこの人の魅力なのだろう。
恋仲でもなければ、かといって家族ほどの親愛もなく、けれども医師と患者としてでは近すぎる、奇妙な関係。
私の心とて恋の種がないわけではないのだろうが、彼に対してはただただ感謝の念と恩を返すことが出来ないもどかしさが大きかった。
故に火が点けられないのかもしれない。そしてなにより、私は自分にそこまで自信があるわけではなかった。
「(きれいなひと)」
ただの薬師ではないのだと悟ってしまう自分の目敏さがただただ憎い。
背に回る少し大きな手は戦い慣れをした武者の手であり、本心を隠し立ち回る愛想は経年の処世術の賜。
利用しているのなら、それでもかまわない。彼の、恩人の、役に立てるのならば。
けれどそれが見当たらないから、苦しいのである。
奇妙な見た目の物知らぬ娘など傍に置いたとて役立つはずもなく、むしろ未婚の男女が一つ屋根の下にいるという不名誉な噂が立つだけではないのか。
ぐるぐると、またも思考が濁り始めたところで私はそっと瞳を閉じた。
「(こうして考え込むことも、迷惑なのだと)」
知っている。
けれども答えの出ない悩みほど張り付いて離れないもので、誤魔化すようにかの手を引き寄せた。
私と、彼との間に添えられていた手。武者の手。
起こさぬようにとこっそり引き寄せ重ねれば、自分のそれより少し大きく、太く、逞しく。
けれども繊細でもある指先に見惚れた。うつくしい人はただ一部とて美しいのか。思わず溜息をついてしまう。
「(………いつか扉を開けてあなたを助ける人が現れたらいい)」
それは私ではないから。
優しい視線の奥にひた隠す孤独を受け止めて、包んで、逃がしてくれる優しい人がきっとどこかにいるはずだと願わずにはいられない。
「………」
最後に、と遊んでいたその手を頬へと引き寄せた。
思うよりも大きなそれから、頬から耳にかけてぬくもりが伝わる。
どうしてだろう、酷く、寂しい気がして、私はそれに撫で付けるように頬を合わせた。
この手が間違ったものを求めてしまう前に離れなくてはいけない。
それだけがただ、真実であった。
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毎日のように決意をし直し、立ち上がらねばと叱咤する茶番の繰り返しが空回りを続ける中で、けれども流れた時だけは戻らない。
相も変わらず押しも引きもない奇妙な同居生活の唯一の変化と言えば衣の素材、厚さくらいで、住人どちらも腹を割ることも無ければいたく平和な日常が流れていたのである。
似た者同士と陰で微笑ましいと笑われようが、当の二人は露知らず、けれども深く探ることもせずと身ばかりがその距離を徒に縮めるばかりで埒が明かない。
一人歩き禁止の言いつけを少しばかり窮屈だと感じ始めた頃、蝉の音も止み始めていた頃の事である。
陽の落ちが早くなった残暑、淡い明かりに照らされる台の上には二人分の食事が空しく置かれている。
私はそれをひたすらに見つめながら、誰がいるわけでもないのだが聞き取られぬようひっそりとため息をついた。
すっかり冷めきってしまったそれらを保存するだけの設備などあるはずもなく、この気温下では腐敗が進んでいるかもしれないそれらをさすがに放置できないと思ったのは、
台とにらめっこを開始して幾刻過ぎた頃であっただろうか。数え人はどこにもいない。
「(……今日も、帰らないのかな)」
家主がしばしば一夜空けるようになって幾十日。
始めこそは人伝いになんとか連絡をもらったものの、さすがに向こうも慣れてしまったのかここ数日は連絡もないまま外泊が発生していた。
とはいえ連泊ではなく必ず次の日の夜は帰宅していたし、さほど気にも留める事ではなかったのだがその理由も、何一つ語られることはなく、
ただただしかし、こちらも外出禁止を言い渡されている以上、禁を破って外へ情報を集めに行くのも気が引けた。
何より重く飛び越えられない、尋ねるという選択肢が立ちはだかっている。
「(踏み込んじゃいけないんだ、私は何でもないのだから)」
きっと聞いたとてなんの力にもなれぬことは自分自身が一番分かっている事である。薬草集め一つにしてもそうだ。
知識もこの世界の秩序も慣習も、まともに習得していない自分が出しゃばって関わっていいことではない。
話されないという事はそういうことだ。信頼が、ないということ。…けれども、せめて世間の日の流れくらいは耳に入れておきたい。
今夜帰らないという事は、明日の夜までは帰ってこない。チャンスは今しかない。
「…少しくらいなら……だって、仕方がないもの」
目の前の食事を片しながら、明日、京の街へと赴く支度を整える。
情報こそ手に入れにくいのは前回のプチ家出で承知している事ではあるが、困難を知っているからこそ回避策を打つことが出来る。
悩む時間が長い故に、そこから出た結論を通す覚悟は誰よりも重い。すなわち頑固な性分を、今回は精一杯発揮してみよう。
珍しく前向きになった心を抱いて明かりを消せば、やはり一人の家に寂しさが感じられるが決意を胸に横になった。
「(きっと、生きていく手段を知ってみせる)」
そしてきっと離れた後は、あの人が幸せになるまでの道を少しでも手伝えたらいい。
元の世界へ帰るまでの短い間でも、構わない。
「そんな自己犠牲なんてしてみたところでいいことないぜ」
かつて将臣に言われた一言が、意識の淵で聞こえた気がした。
支度を整え施錠をし、なるべく界隈の人間に見つからぬように街へ繰り出す。
座も何も立っていない京の日ではあるがそれでも行き交う人々は多く、賑やかで華やかである。
夏の朝の澄んだ空気が気持ちよく、ぶらりと道を往けば各家庭のそれぞれの朝が垣間見えて微笑ましい気持ちになる。
五条大橋からやや南東を宛てなくふらついていたところ、不意に後ろから声をかけられ振り返った。
自分よりも少し大きな背丈の、年頃も大差なかろうか、青年が意味深な笑みを浮かべて手招きをしている。
何より驚いたのはその髪の色であった。夕焼けの空のように朱く、この時代にしては奇抜な耳飾りをしている不思議な青年である。
更に言わせてもらうのであればやたらと露出が過ぎている気がする。
現代で言うなれば夏に黒のタンクトップで自転車を漕いでいるやたらと細越しの…と、それ以上は悪口となるので心を閉じた。
…という不思議な青年がいたのである。
どうにも不審に思ったらしい私の警戒心が彼の手招きを拒んでいたところ、大きくため息を吐いて見せたその人は、諦めたように自らがこちらに向かってくるのである。
「(あ、これやばいやつ!やばいやつ!!)」
今すぐにでも背を向けて走り去りたい衝動に駆られるが、意味のない彼への気遣いが邪魔をしてそんな無礼…言い換えれば自己防衛なのだが、を実行することができない。
ぐだぐだと考える癖が仇となったか、青年はあっという間に目の前へとやってきた。
「美しいお嬢さん、こんな朝早くからどこへ行くんだい?」
どこか鳥肌が立ったのは朝の涼しさのせいだろう、でなければ彼に失礼だった。ついでに行先については答えたくないとも正直思ったが、どうにもこうにも勇気が足りない。
正直に現在の状態、困っている事を語ってしまった。
「……へえ。変わってるね…あんたみたいな美人ならそこらの男が放っておきそうもないのに」
「その、よくしてくれる方の負担になりたくなくて、どうにか独り立ち出来ないか…と、その手段を探しに来たんです」
この軟派にどこまで話していいものか悩んだが、今後合う事もなかろうと思えば身の上話も意外と気軽に話せるものである。
とはいえ雪の上に行き倒れていた事や、別の時代から来たなどとはもちろん話せるはずもないため、とりあえず弁慶に拾われたあたりから、独り立ちをしたい旨について、そしてこの時代の事を知らないことを伝えたのである。
飄々とした雰囲気の軟派さんは一瞬何か思うところがあったのか、纏っていた空気を一瞬殺した。その不自然な間に、体がこわばる。
だが心配とは裏腹にすぐにまたつかみどころのない様子に戻ったため、彼の何に触れたのか知り得ることはできなかったが、以降彼が隙を見せることはなかったため、しばらくすると私の記憶からも消えることとなった。
我ながら赤裸々に五条下での暮らしを話したものである。
それだけ目の前の軟派――――ヒノエの聞き上手なところに引き出されたのだろう。
話し過ぎたかもしれない、と気がついた頃には手札はもう出尽くした後であった。
「でもさ、正直、右も左も分からない女が一人で生きていける程お気楽な世の中じゃないぜ?」
呆れながら見通しの甘さを突く目は笑いながらも真剣味を帯びており、気圧される。ヒノエの言い分は最もで現実的な問題をどれだけ都合よく考慮したところで、彼を言い負かせるだけの要素は持ち得ていない。
ただそれはあくまで“娑婆”であった場合の話である。彼がどこまでその生活限度を見ているかは分からないが、少なくとも水準を下回っていることはなさそうである。
男性に相談するのは余りにも無粋であるが故に、聞き出せない悩みを抱えているのだが、果たしてヒノエに聞いたとて望む答えが得られるとは思えない。
口に出せない本当の目的―――――“聞きたいこと”の答えはどうしたら得られるだろうか、気付いたら二人で京を散策しているこの時間を壊すのもやや忍びない。
気付けば時間は進み、最早時刻を朝とは呼ばなくなっていた。何となくぶらりと街を巡っていたところでヒノエが気を利かせたのか木陰へと誘う。
ずっと歩き尽くだったためか、知らず疲労は溜まっていたようで、申し出に感謝しつつ素直に従ったのであった。
差し出された竹の湯飲みを受け取れば、中には水がなみなみと注がれており、ありがたく喉を潤した。残暑の日射から逃れるように座った木陰はさわやかに、コントラストの下を風が通り抜ける。
「ヒノエさんありがとうございます…これの、お代は、」
「いいよ。そんなことよりさ、もっとあんたの話を聞かせてよ。 そうだな、例えば、ほら……その男のところに世話になる前の話とか聞きたいんだけど?」
「………それは、」
「あんたさ、東海道沿いの茶屋で働いてただろ?」
思わず振り返って視線を交わすと、私の感情を動かしたことに気を良くしたらしい、弧を描く瞳とぶつかった。
飄々と掴み所のない男だがふわりと笑う顔は年相応の幼さが残り、可愛らしいと思った。どこかその柔和な顔に家主を思わせたが、そっと首を振ってかき消した。
けれどもなぜ茶屋にいた事を知っているのだろうか。少なくとも彼みたく特徴のある見目の顧客を忘れるほどに繁盛していたわけではない。
疑問をぶつければ特に来店したことはないとのことであったが、何やら風の噂で私を知ったらしい。
「だから私に声を?」
「きっかけはね。でもあんたが噂以上の“看板娘”だったからさ…ちょっと離れがたくなった、って感じかな?」
冗談なのか本気なのか分からない口説き文句に、耐性があってよかったような複雑な気持ちである。
家主も近しい事を惜しげなく口にするが、あれは本気ではないこと知っているから平常心でいられる。
過剰だと自覚のある触れ合う距離も、そこに意味などないと知っているからこその心の平穏なのである。
息をするのと同じだと言わんばかりに、自然に受け入れた腕。
添えるべく差し出された青年のその手を、そっと拒絶したのはただ、それだけの理由だ。
慣れていない。意図が読めない。警戒心故の拒絶。
それだけのはずである。
けれども、けれども。
胸に渦巻くのは拒否をした罪悪感だけではない、しこりのような不快感だ。
溜息混じりに、呆れたような声が振ってきて、私は声の方を再度見た。
「……相手の男も、あんたも。まどろっこしいな、その男に触れさせて俺は駄目ってのは、少なくともあんたの方は答えが出てることだろ?」
その問いに力なく首を振る。
もし、万が一にも家主の目に男が宿ったのならば当の昔に低かれ高かれ一線は越えているはずである。
ただの同居人としては過剰すぎるスキンシップであることは否定しないが、けれども二人の間に流れていたのは艶やかなそれでは決してなかった。
それは、私にだけ分かる、私にしか分からない空気でしかない。
「本当に、そんなんじゃないんです……でも、あの人が、救いを求めていることは、分かるから、」
「あんたが救いになってやればいいだけの話だろ?
少なくともそれだけ他人を拒絶してる男なんだから、あんたが十分懐まで滑り込んでるのは明白じゃないか」
「………いいえ、でもあの人は私を求めてはいない。…だから、飢えが過ぎて、間違えて私を求めてしまう事があったら、いけないの」
その前に、離れなくちゃいけない。
「だから、出て行きたいの」
「…分からないな。まあ、俺の知り合いにもその男みたいな奴がいるけど……まあ、余談だね。あんたが好きに決断するのはいいけどさ…」
欲しいものがあるなら、考える前に感情まま従った方がいいぜ?ヒノエは綽綽と言い放った。
無責任でけれども力強いそれに気を悪くすることはなかったが、けれども頷けなかった事が気にかかる。
彼はすっかり私が弁慶を慕っていると思っているようだが、それは私にもよく分からない気持ちなのだ。
感情まま、素直に。
欲しいものはいつだって闇雲が遮り隠している。ただただ今、自分に分かるのは、
「…あの人の、邪魔になりたくないの」
ただ、それだけであった。
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すっかり滅入ってしまった空気にいたたまれなさで小さくなったまま、頭を抱えていたのだが、当のヒノエ自身はさして気に留めていないらしく暢気にけ伸びをしている。
その自由奔放な姿を見ていると、じめじめと悩んでいる事が詮無き事だと思えるようで小さく笑いが漏れた。
目敏く見つけられたそれを咎められ、ありがとうと返答をすれば面食らったように目を間開いている。余裕という仮面を崩した彼はやはり随分と可愛らしい人だ。
更に笑みを深くすれば、取り繕い体勢を立て直していたが時既に遅しである。ばつが悪そうに髪をかきあげる彼が、面白かった。
「あんたも結構意地が悪いね」
「ヒノエさんが、可愛らしいから」
「本当よく似てるよ、知り合いと。…あんたとその男も相当似てるんだろうね。何だって俺の周りはこんな奴ばっかりで」
「ふふ、でも、本当に……お礼を言うようなことではないのかもしれないんですけれど…でも、とても心が軽くなったから」
聞いてくれてありがとう。
もう一度伝えたら、今までと全く異なる反応が返ってきた事に、面食らったのはこちらであった。
少し日に焼けた健康的な肌が薄っすらと染まり、隠すように顔を逸らす。思いがけない反応に、その熱が伝染するのも早く私の頬も熱く火照った。
掴みどころがなく余裕を見せてはいても、やはりまだ十代なのだと笑ったが、身を正した彼は不意に距離を縮めた。虚をつかれ驚いていると、今日一番の笑顔で言った。
「笑った顔の方が、サイコーに美人だよ、リン。…あんたは幸せにならなきゃ駄目だ」
神に愛されるために生まれた、そう言っていいくらいあんたは恵まれた美貌がある。
そう言い放って先を進む彼の背を、直ぐに追う事が出来ずに見つめていた。投げられた過剰すぎる賞賛にまるで他人ごとのようにその言葉を見つめることしか出来なかったのだ。
いつものように卑屈に否定することもできなかったが、けれどもその言葉のまま受け取り、喜ぶ事は出来そうもなかった。
「……もったいない。でも、」
不快な見た目じゃないなら、いいの。
全てを否定し続ける女にはそれが精一杯の許容量であった。
その後も京の街を巡った。
一人では分からなかった小道の奥や、華やかさの裏、政治の成り立ちを建物見学を交えながら学んでいく。
ヒノエはどうやら各所に顔が利く人物らしく、彼に引っ張られるままあらゆる疑問を一つずつ片せた事が何よりの収穫でもある。
長く続く瓦飾りの塀を曲がった先、不意に目に留まった一人の女の後姿。客をもてなし、誘うように見受けられたのだがどこか様子がおかしい。
不思議に思い、ヒノエに尋ねた。
「ヒノエさん、あそこは…」
「ああ、あれは長者の邸だね。長者は…富豪の成れの果てって思ってくれればいいかな」
「長者……あの女の人はその主人の奥さんですよね。 でも、何て言ったらいいか、なんか…」
不躾とは思いながらも、客人と女のやりとりを眺める。すると次第に不審な行動は深まり、明らかとなった。
ただの邸の婦人と客人とでは説明がつけられないほど密着した二人の姿はさながら恋人であり、男の回した手は腰に、次第にその下へと落ちた。
俗に言う不倫の現場を目撃してしまったバツの悪さと嫌悪感に顔を顰め、ヒノエを振り返れば彼も同じような表情を浮かべていた。
心地いいものではないため、仕方がない反応だと思ったのだが彼の嫌悪感は少しばかり質が異なっていた。
「…あんまり女にする話じゃないんだけどな。…まあ、あれは長者邸のもてなし方なんだよ」
「もてなし?…不倫現場とかではなくって?」
この時代には存在しなかったらしい不倫の言葉に首を傾げていたが、気を取り直して長者邸の在り方を語り始めた。
長者邸とは現代で言うところの性的対応を含めた接待を行う場所であり、驚く所は長者邸への客の夜伽の相手として、家主の妻がそれを勤めるという点である。
もちろん客は文字通り、主人の客人であるのだが、対するもてなしとして己の妻に伽をさせるという常識外れの成り立ちに驚きは隠せない。
驚きと嫌悪とが入り混じり歪んでいた眉が、次第に元へと戻っていく。
ヒノエは気がつかなかったようだが、彼の答えた質問こそが、今回の京都散策の核となる疑問であったのだ。
そうとは知らず詳細を続けるヒノエの言葉を一言一句、聞き逃すまいと耳に刻む。
いつの時代もそうだ。
身寄りのない娘はその身を対価に生を得るしかない。
この時代にそういったサービス業が存在している事を知らぬ以上、どこかで情報を得ねばと思ってはいたが、負の面が多い職業である。
街の安全な場所だけを歩いていても隠されたそれらに触れること叶わず、情報とて得る事ができない。
私は心底、彼について来てよかったと思った。
「最近ではさすがに躊躇する奴も多かったんだろうな、そういう伽目的の女を雇う流れも出来てきてるらしい」
雇う方もそうだけど、雇われる女もどうかしてるとしか思えないね。
ヒノエの放った一言がいやに耳に残ったが、悩み悩んで弾き出した一つの可能性は言葉一つで揺らぐほど柔くはない。
「(……覚悟はしておかなければ)」
もちろん選ぶなれば、最後の最後まで取っておきたい選択肢である。
けれど、これに至るまでの道のりは悲しいかな長くはないように思った。
「ヒノエさん、ありがとう。…私、そろそろ帰らないといけないと思うの。今日はたくさん付き合ってくれて本当に助かりました」
「ああ、俺も久々に京を回れてよかったよ。何より、隣にずっとサイコーの別嬪さんがいたわけだしね」
最後まで褒めちぎる姿勢はそのままで。
偶然の出会いではあったが、本当に助力をもらえて感謝している旨を伝えた。
改めて下げた頭が上がる頃には彼の姿はかなり小さくなっており、幾度目かの瞬きの後には完全に街に溶け込んで消えていった。
楽天家でけれども芯は揺るがない、バランスのよい精神が眩しい男であった。
もし次に合間見える機会があるのならば、そのときはきっと。
「独立して、立派な姿を見せるわ」
それが彼の提案した未来ではなかったとしても。
選択した事を後悔しない姿を見せたい。心の底から、そう思った。