やさしいひと(弁慶長編:完結)
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04.再会
春が好きだった。
眠気を誘う穏やかな日差しと優しい風に包まれるような季節は、寒く長い冬の我慢をそっと解して流していく。
若い春の草原は瑞々しく、時に花や若い命を育んでさらに季節を色付けた。
特に意味もなくふらりと散歩に出かければ、その隣には必ず母が付き添って、優しく手を繋いでいた。
道端に咲く雑草であったり、雑木であってもよく知っていた母はひとつひとつそれらを紹介してくれた。
それがとても楽しくて、毎日のように散歩をねだっていたものであった。
ある日、事件が起こるまでは。
―――誘拐。
春の陽気に誘われて花開くのは植物だけではなかった。
冬の耐え忍ぶ期間を経て、開放感に満ちる季節。
その男は間違った方向にその鬱憤を晴らしてしまったのだろう。
ある日の夕方の事であった。
いつもであれば5時には帰宅する娘が帰ってこない。
たまには少しばかり門限を過ぎることもあろうと、母親は再度夕食の支度へと戻ったのだったが、6時、6時半、7時を過ぎても未だ娘は帰らなかったのである。
しばらくして帰宅した夫に涙ながら事情を説明し、すぐさま警察へと電話をかけた。
けれども、警察はすぐには動かなかった。否、動く事が出来なかったのである。
変質者が増発する春である。
いつも以上に人手不足だったその日、夫婦の必死の懇願であっても容易に動く事が出来なかったのだった。
夫婦はその足で必死に周囲を探した。いつもの散歩コース、行きつけの公園、知人の家。
けれどもどこにも娘の姿はなく、血眼でたどり着いたのは町内から少し離れた寂れた公園であった。
「!! リン!!」
「お前…その子を離せッ!!」
娘はとある男に抱きすくめられるように抱え込まれていた。
父親の激情に男は吹っ飛ばされ、もう一発、と踏み出した父の意気や空しく、逃げ足の速い男はそのまま走り去ってしまった。
春の夜が如何に肌寒いものとて、犯人の男は、その寒さから守るために娘を抱きしめていたわけではない。
撫で回すように足に、尻に触れる男を両親は目にした。
異常性愛、夫婦は娘がその対象になったことに恐怖したのである。
目に入れても痛くない可愛い我が子であった。間違いなくそうであった。
周囲の評価然り、娘は非常に愛らしい見目をしていた。
けれども、それが災いを呼び寄せているのならば。
「髪を伸ばしなさい」
「人の目を見てはいけない」
「一人で出歩くな」
「目の届くところにいなさい」
順風満帆に、愛の溢れる家で育った両親達には、歪な束縛という愛でしか、娘を守る手段を見出せなかったのである。
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目覚めたとき、頬には涙が伝っていた。
目の前に映し出された真っ白なシーツが、日の光に反射して眩しい。
酷く、寂しい夢を見ていた。
夢だったのだろうか…ぼんやりとする思考では、何が現実なのかがよく分からない。
火がつくように熱い体からじわりと汗が滲み出す。少し体を起こせば、背中に強い痛みが走った。
「…あ、ぐ……っ、」
熱い。その痛みには覚えがある。
痛みが引いた頃、同時に思い出される記憶達は、夢の中以上に胸に暗い影を流すものだった。
現実はどう足掻いても現実である。
けれども今の私に、その現実を受け入れられるほどの元気はどこにもなかった。
「…気がつかれましたか。動いてはいけません。そのままで……」
耳に届いたのは優しい声だった。
起き上がろうとする私を、その声の主は優しい力で布団へと戻す。
あたたかい手が肩に触れ、直接的な熱の感覚に自分が服を纏っていない事に気づいた。
声の主は私の困惑を汲み取ったのか、説明を続けた。
「手当の為に服は外させて頂きました。再度整えようかと思ったのですが、やはり傷が深く、しばらくそのままにさせてもらうことにしました」
「…あ、す、すみません……あの、私―――――、」
何から説明したらいいのか言葉に詰まる。考える時間が一瞬でもできてしまうと、あの悪夢のような現実が思い出されてしまう。
その隙に付け入られた私の思考は奪われ、それ以上の言葉を発することができない。
声の主はその間何も言わなかった。
治療が出来るような人なのだ、きっと頭のいい人なのだろう事は想像がつくから、背の刃傷からある程度の状況を把握しているのだろう。
布団の隙間から素肌を撫でる春風がやや肌寒い。
ようやく落ち着いたところで疑問や不安は溢れるほどあり、何から口にすべきか迷っていた私がふと思い出したのは黒い袈裟の存在である。
死にもの狂いで転がるように下った東海道で、全てに蓋をするように包まったあの大切な袈裟はどこにいったのだろう。
「…あの、私が着ていた袈裟を知りませんか。親切な方にお借りしたものなのです」
「―――ああ。大丈夫ですよ。知り合いのものだったので、僕が返しておきました」
「……あ……そうなのですね。…ありがとうございました」
背の傷は自分で思うよりも深いようで、きっと出血も酷かったに違いない。
どのような状態で持ち主に返されたかが気になるのだが、少なくとも本人に帰ったという事実が心を軽くする。
けれども、我儘を許されるならば。
自分で会って返したかったというのが本音ではあった。
あの極寒の川から救い上げられた時も気が動転しており、相手の正確な名前もその姿も、何一つ知ることができなかったからである。
店主達はその恩人こそが、弁慶先生だと言っていた。
一目でいい。会って、お礼を言いたかった。
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その事が悔やまれるが、けれどももう袈裟は手元にはなく。
それは同時にこの世界への唯一の執着が無くなってしまった事と同意義でもあった。
じわりと視界が滲む。
溜め込んで溜め込んで、どうしようもなくなった時こうしてよく泣いたものだが、この世界にやってきてからは、ただただめまぐるしい毎日の混乱に巻き込まれて、落ち着いて自身と向き合うことは出来なかった。
お日様のにおいがする温かいシーツとは異なり、伏せたそこには涙が滲む。
朽ちた茶屋夫婦を前にして、生きることを、決意したはずだったのに。
泣いていることを知られる事は憚られたが、けれども流れてくる涙と鼻水はどうすることも出来ない。
鳴らした鼻で、気がついたのであろう。
声の主が少し間合いを詰めたのが感じられた。
ただ今は放っておいて欲しい。そんな私の願いとは裏腹に、あたたかい手が再度添えられたのだ。今度は肩ではなく、頭に。
「怖かったでしょう……女性なのに、こんな大きな傷まで残して」
それは癒しの声であった。
少し高めの音ではあったが、確実に男性のそれだ。
幼子を慰めるように優しくなでるその手は思ったよりも大きく、けれども壊れ物に触れるように優しい。
警戒と強がりとで張り詰めていたものが解かされていくようで、けれども残る意地が苦しみ、く、と喉が鳴った。
不安を押し隠すように、言い訳をして、時には作ってまで、自分を奮い立たせていたその虚像が壊れてしまう。
けれども、全てを受け入れてくれるようなかの手が嬉しくて、焦がれて止まない。
一時の癒しであったとしても、それでも私はその手に縋らずにはいられなかったのだ。
箍が外れた心の激流が、突如溢れて流れ出す。もう泣いている事を隠すことはなかった。
「住んでいた、家、が……怨霊に襲われて……っ…店主と、奥さんを……殺………っ…」
ぽっかりと魂を抜かれてしまい、ゴミのように転がされていた女将の亡骸が記憶に蘇る。そしてその脇に転がっていたもう一つの亡骸。
それらはその後、己が命を奪ったものと同じ存在として生まれ変わり、そして私に襲いかかった。
生前握り締めていた刃物が私に振り落とされた時、きっと欠片の躊躇いなどなかったのだろう。
あんなにも優しかった夫婦は、もうどこにもなかった。
「……死者が、怨霊に」
――――なってしまったのですね。
問いかけられた声にはどこか絶望めいた虚無感が漂っていて、私はただ静かに頷いた。
名前も、持ち物も、何一つ定かではなく、記憶すら疑わずにはいられなかったこの世界で、猟師と出会い、夫婦に導かれたその場所こそが唯一の存在であった。
なくしてしまったそれは、大きすぎた。かけがえのないものであった。
けれども、それは私にとってかけがえないものというだけで、他の誰も共有できるものではない。
哀れな出来事である事は否定できないが、それでも他人に落ち込ませるほどの重さを孕んでいるとは、正直なところ考えにくかった。
偲んでくれることは嬉しい、けれど――――。
しかしその時の私にはそれ以上思考を鋭くさせるだけの余裕はなかった。
ただただ、かの人の優しい声に癒され、瞳を閉じたのだった。
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背の傷はかの人―――家主が言うようにかなり深く、膿んでは度々高熱を呼び寄せた。
背を下にする事が出来なかった事もあり、なかなか深く眠りにつけない日々が続いては衰弱が進んでいく。
その度に家主は厚く看病を行い、また安心させるように幾度も励ましにやってきていた。
ここは彼の家であろうに、見ず知らずの小娘のために随分と手を焼かせてしまっている。
熱で朦朧とする意識の中で考えるのはいつもそんな自分を責め立てる事ばかりであった。
早く回復し、彼を安心させる事が報いだという自力での励ましと、今すぐにいなくなった方がいいとの自責とが、短い時間でぐるぐると思考を支配し苦しむ。
“迷惑をかけたくない。”
今思えば昔からそうであった。
親の抑圧に苦しんでいたとはいえ、反抗し、抗うだけの我を見せることはしなかったし、結局諦めて受け入れて、言い訳をして蓋をした。
そんな生き方にはじめこそ苦しんだが、板についてしまった現在ではもう遠い出来事のように、他人事のように、思う。
“わたし”は今、一体どこにいるのだろう。
熱による高熱と、連日の睡眠不足。
こうして私は変わらず、思考の海から眠りの世界へと意識を流されていくのである。
次に目覚めたとき、目の前は真っ暗だった。否、黒い布でいっぱいであった。
体が起こされ、背の傷に触れぬように支えられている。すなわち、抱き起こされている状態であった。
恋人同士でもない男性と密着しているなど、正常な頭ではまず恥じらいから固くなってしまっていただろうが、熱で思考が鈍っているからだろうか。
はたまた、医師としてこの男を信用しているのか。
答えは出ないが、ただ、添えられた手ですら優しさを見出してしまう私は、きっとこの人を疑うことなどないのだろう。
そんな取り留めのない事を思った。
彼は私が意識を取り戻したことに気がついたらしく、肩に預けていた頭にそっと手を置く。
くしゃりと撫でられたその手はやはり大きくて、心地がよかった。
「たまには起き上がって血を巡らせなくてはいけませんからね。女性に失礼だとは思いますが、我慢してくださいね」
その言葉を否定しようといくつか言葉の候補を探したが、言葉にすることはやめた。代わりにその肩口に預ける重さを増やす。
少し驚いたように身を捩ったかの人は、再度深く抱き寄せ体勢を整えると、髪を撫でたり、梳いたりと、白いそれを弄ぶ。
本当はもっと地味な色で、そしてもっと短かったそれは今や肩よりも下へ伸びるまでの長さになっていた。
夫婦が選んでくれたあの紐は、まだ私は持っているだろうか。
「――――春の夜はまだ寒い。あなたの熱さが、心地よいですね」
熱に浮かされたような声色だった。
けれど“それ以上”を決して期待していないその音に、どこか淋しさを感じてしまう。
常ならば布団に突っ伏しているだけの生活だ。こうして抱き上げられて久々に頭を頂に向けているのであれば、この親切な人の顔を見る事が出来る。
その事実に気付いた私は、預けていた頭を上げた。支える手の位置が変わる。
そしてそっと、顔を合わせた。
黒い布―――抱き締めていた、袈裟。
「―――あなただったの、ですか」
「冬の河原で一度合間見えましたね………あなたは本当、いつも命の危険に晒されている」
武蔵坊弁慶。
かの人は、その人であった。
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冬のあの日に私を包んだ袈裟を纏い、月明かりに綺麗な黄金の髪を透かし優しげに微笑んでいる。
その姿はやけに神秘的に見えた。
彼にとっては私の白髪の方が気になるらしく、夜の闇に透かしては掬い、透かしを幾度か繰り返す。
幾度かそうして遊んだと思えば、そっと慈しむように抱き寄せる。
抱き寄せる事すら、姿勢を正す以外の何でもないと知っているのに、何かしらの色を探してしまうのは女としての性であろうか。
けれども、献身的に治療を施してくれたかの人へ、溢れんばかりの感謝を抱いていたのは事実だった。
うつくしいその姿を見て、その感謝が恋心として昇華してしまうことも筋が通らない話ではない。
――――けれども今はただ、彼のぬくもりに浸っていたいと思った。
“勘違いしないで。”
確実に、けれどもひっそりと。その言葉が私へと囁かれていた。
「(待って、もう少し待って……)」
残酷な耳打ちと、またも襲い来る眠気と。
消耗に耐え切れない意識は結局、懇願を聞き入れずに意識を夢へと持ち去った。
手放す刹那、抱き締めるその距離が一層重なったことに気がつけなかったほどに、迅速に。そして、音もなく。
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背の傷もようやく落ち着き、身を起こす事が出来るようになった頃には衣替えの季節を迎えていた。
縫合技術など伝わっていない時代である。自己治癒力に頼った背の回復はやや脆いものの、何とか生命の危機からは離れることが出来たと判断できるまでにはなった。
引き攣る背に顔をしかめる事もままあるが、それよりも身を起こし、歩くことが出来るようになった事が純粋に嬉しく、弁慶のお使いを兼ねて街へとよく出かけた。
幾度も二人で出かける中で、ようやくここに至った経緯を聞くことが出来、また色々と人の力に助けられたのだと、私は幾度も噛みしめた。
五条大橋の下の集落に住んでいるという青年二人にも会った。
彼らは京に逃れた私を保護し、弁慶へ引き合わせてくれたのだという。
頭を下げて深くお礼を言えば、血気あふれた顔を更に真っ赤に茹で上げて高速で手を振り否定する。
恥ずかしがりなのだなぁと、微笑ましく見やる私に、ちくりと嫌味を投げる弁慶にはやや驚いたが、青年二人はさして気に留めることもなくからからと笑っていた。
何か、恩返しを。そう申し出た私に、青年ではなく弁慶が返事を返した事が腑に落ちないが、彼の言葉に青年二人も笑顔でうなずいてくれた。
「元気になるのが、一番のお返しです。もっとも―――皆、見返りなんて求めていませんよ」
なんていい人たちなのだろう。
私はその懐の深さにただただ感服したのである。
生憎の雨模様の京の街はそれでも雅な印象を損なわない。
紫陽花の見ごろは過ぎてしまったが、しとしと降る雨はどこか透き通っており、家屋を濡らして輝いている。
傘が一つしかない。と、ならば遠慮すると申し出た私を強引に連れだした家主は、傘を右手に、左手に私を寄せ抱えている。
現代でも過剰なスキンシップだとは思うが、どうやらこの人はもともとパーソナルスペースが異常に狭いらしい。
はじめこそ戸惑ったが、今ではすっかり慣れてしまった。
病人という立場や先の悲劇も重なり、ぐだぐだに甘やかされていると自覚はある。そしてそれに甘んじている自分も。
けれども、いつまでもこんな時間が続かないことはある種、現実としてきちんと考えていた。
どことなく、予感もあった。
自分でもよく分からないのだが―――雨を見ると、その不安が色濃くなる。
「……疲れましたか?」
「え?」
「急に僕の袈裟を握る手が弱まったので。疲れさせちゃいましたか?」
「あ、いいえ……いいえ。その、色々とこの先のことを考えていました」
この先のこと。
そう、色々と思い悩む種は多いのだが何よりそれが一番の悩みである。
そろそろ自分の力で起き上がることも、ある程度の重量を持ち上げられるまでに回復している。そうなれば、必然的に弁慶の家に住みつく理由もなくなるのである。
事実、彼が処方する薬に関する手助けができるわけでもなく、炊事能力があるわけでもなく、ただただ加護されるだけの立場なのである。
それにこの世界では18歳などとうに成人の年齢なのではないか。その事実が一層、己の不甲斐なさ、情けなく思う気持ちに拍車をかけていた。
勝手の違うこの世界で自立していこうなどと、元の世界でもできていなかったという皮肉はさておき、それでも自分の足で進んでいかなければならない。その心根だけはゆるぎないものであった。
弁慶にそれとなく伝えたのだが、話を開始した頃からか次第にその口数は減っていくばかりで結論へたどり着けない。
立ち位置の関係から、彼の表情は伺えないが、意図的な沈黙に気付いてしまった以上、それ以上を口にするのが憚られて、口を、噤む。
「……あの、…………っ」
どうして、黙っているのですか。
その疑問を口にするだけの勇気はなく唇が空回る。
結局、その場で弁慶からそれ以上何かが発せられることもなかった。
気を悪くさせてしまったのだろうかと狼狽する私をよそに、帰宅後、待っていたのはいつもと変わらぬ手厚い看護とあたたかい日常生活とで。
ただ不安だけが、心に残っていたままであった。
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昼間、干し竿にかけた布団は太陽の香りを吸いこんで、ふわりと身を包んでくれる。まだ肌寒い春の夜に欠かせない綿の布団にくるまって、そっと横たえた。
傷が引き攣る背をかばいながらの就寝となるのだが、高熱に魘されていた頃を思えばこんなものはハンデの内には入らず、私はふかふかの布団を堪能しながら夢の世界へと旅立った。
――――シャン、 ――――シャン、
ぼんやりとした意識の中、軽やかな鈴の音が空間に響いた。
夢にしてはやけにリアルで、形があるような無いような、定まらぬそこでそれだけがまっすぐに存在している。
私はただ、その音の根を探すわけでもなくけれども無視するわけでもなく、ただその音を聞いてそこに立ち尽くしていた。
次第に大きくなるその鈴の音は一種の恐怖のようなものを掻き立てる。鈴の姿などどこにもない。周囲に物影も、光も、闇もない。
足がついている事だけが空間を意識することが出来る唯一であって、それ以外は何も存在しないはずのそこで、鈴の音だけが近づいて来る感覚。
「(……なにか、聞こえてくる?)」
大きくそして鮮明になる鈴の音の中に、別の音が混じっているのに気付いた。
耳を澄ませて音を拾う。
何やら人の話し声のような抑揚のあるそれは、確実に近付いているのが分かるのだが、その内容までは聞き取れない。
しばらくしてその音はかすれていき、視界が白く薄くなっていく。
気が付いた時、目の前に映っていたのは見慣れた天井の木目であった。
「……………ゆめ」
身を起こし周囲を見渡したが、鈴の音も話し声も聞こえなかった。
聞こえたのは朝を知らせる小鳥のさえずりと少し黄味がかった日差しと、台所から微かに聞こえる炊事の音だけ。
寝ぼけているのか夢だったのか、はっきりしない思考に溜息が漏れるがただの夢であると位置づけ、身支度を整え炊事場へと向かった。
手際よく作業を進める、朝日に輝く黄金の頭。たすきで纏められた着物は柔らかな彼によく似合う若草色で、春の息吹のような佇まいである。そう思った。
こちらに気付いて優しく微笑む弁慶に、胸に渦巻いていた焦燥感が綻んでいくのを感じた。
おそらく不安なのだろう。故にあのような意味の分からない夢を見るのだ。この先の事はもちろん考えなければならない。
けれどまずは、今日は。今日も――――彼へ少しでも恩を返すことが出来るよう、働こう。
言い聞かせるように一度、こっそりと頷いたのだが、触れた己の指先は酷く冷たく。
胸に残る不安のしこりを、消し去ることは出来なかった。
「リンさん、次に座が立ったら小袖を選びに行きませんか」
それはとある春半ばの穏やかな昼下がり。まだまだ水が冷たい洗濯の後、小屋に戻ったときに受け取った一つの提案である。
小脇に抱えた洗濯物の入った盥を縁側に置き、そっと声の主を伺えばいつも通りの柔和な笑顔でこちらの返事を待っているようだ。
どう返事をしたものか。即座に答えを出さず、絞った布をはたいたらば、パンッと小気味よい音が響き、視界が真っ白に染まる。
私の沈黙を否と取ったのか、二言目は困った音色が耳に届いた。
「…いえ、そんな……私は、この服があるので大丈夫ですよ」
「君は奥ゆかしい人ですね。そういうところはとても好ましいのですが、これは僕の我侭なんです。どうかきいてくれませんか?」
有無を言わさぬ笑顔に押され、困惑しながらも頷けば、そんな可愛気のない返答でも彼は満足そうに再度、微笑むのである。
笑顔にも色んな表情があるのだと知ったのは、彼と日常を共にするようになってからのことであった。
朗らかな笑顔の下にどこか人を寄せ付けないような距離が生じている―――その事実に気がついたのはほんの最近のことであった。
特に不自由なく日常生活を送る事が出来るようになった頃、すなわち共に過ごす時間が増えたことで見えたことも多かった。
床に伏せている間、しばしば弁慶は家を空ける事があったのである。
どんなに遅くなろうとも必ず帰宅していた為、さして気に留めなかったのだが、機会がありその旨尋ねたところ、源氏軍に所属する軍師であると身分を明かしたのである。
あらゆる情報、地形、天候、敵将を読んで作戦を立てる軍師という立場上、人との駆け引きも行うのだろう事は想像に容易い。
交渉を有利に進めるための、感情や表情のコントロール術だとすれば。その能力ゆえの、笑顔だとしたら。
「(それは、とても、淋しい)」
そんな呟きが浮かんではそれをそっと心の奥へと押し込んでいく。
この世界に来て私を包んだ“人々の温もり”が無くなってしまった淋しさと、彼の親切心とが重なることなどあるはずがないのに、淋しさで弱った心に彼の笑顔は甘く、深く沁み広がるのだ。
まるで、特別な人だと、言われているような錯覚すら抱いてしまうほどに。
同時に、彼の親切心からの行動を疑う事に嫌気も差す。
きっと本心から助けてくれた。
そう信じていたいと願うのに、けれども弱い心はすぐにそれを疑ってしまうのだ。
せめて、せめて私に、私たるための“存在理由”さえ、手に入れられたならば。
「……弁慶さんが、そこまでおっしゃるなら、」
――――――ぜひに。
誠であっても、偽りであっても。
彼の笑顔と優しさを受け入れる事が出来たのかもしれない。そう、思った。
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この世界に来た時に着ていた学校の制服は気付いた頃には手元から無くなっていた。
猟師の小屋で一晩を過ごさせてもらったあの時に、目立つからとお古の着物を受け取ったのだが、今思えばあの時にどこかに置き忘れてしまったのかもしれない。
その後すぐに茶屋で世話になる事になったので、普段着といえば給私服となり、特別な私服など持ってはいなかったが、特別それで困ることもなかった。
時代が時代である。
物に溢れている現代と異なり、オシャレの為に購入することなど滅多にない時代である。
見る人によっては貧しい家の娘のようなボロでも、特別目立ちすぎることもなくある程度弁えていれば十分に普段着としても通用するものであった。
座の立つ大通りは五条大橋から目と鼻の先である。
消化によさそうな優しい朝食の後、川へ向かい簡単に洗濯を済ませ宅へと戻れば既に準備の整ったらしい弁慶が待っていた。
「弁慶さん、わくわくしています?」
「おや、分かりますか? 美しい女性の服を選ばせて頂くなんて、男冥利に尽きるというものですよ」
空疎な言葉。
ちくりと胸が痛んだ気がしたが、きっと気のせいだ。そう言い聞かせ洗濯物を手早く干しにかかる。
茶屋にいた頃は楽しみだった座への外出が、今日、億劫に思われたのは気のせいなどではなかった。
大通りに向かう途中、隣に立つ男を見やる。特別意識したことはなかったのだが、随分と華やかな着物を着ていると思った。
記憶にあったのは闇の中の黒い袈裟だけであったが、実はその下に纏う着物は若草色を基調としたコーディネートがされており、上品ながら洒落たものである。
幾重にも重ねられた羽織はとても雅で、色とりどりの控えめなそれらは紫陽花を彷彿とさせるような爽やかさである。まさに今の季節そのものだ。
引き換え、自分を見下ろせばその身なりは言うまでもない。
誰が指差して笑おうとも、これは猟師夫妻の思いやりの詰まった一着で、恥ずかしいなどと思うことはない。
―――――そう、思っているのに変わりはない、けれど。
「(……………やっぱり、目を引くよね)」
さまざまな視線が突き刺さっていた。京で名高い薬師を見る視線、薬師の美貌に惹かれる視線、その隣の汚れた女を見る視線、白い髪を――――。
私は咄嗟に地面を見た。
顔を上げる事が怖くなってしまった。
学校で毎日のように感じていた視線の恐怖だ。好奇の視線。
なぜ、おまえが。
なぜ、あいつは。
なぜ。
なぜ。
普通じゃないのか。
この服を着ることに後ろめたい事があるわけではないのに。
それを認めてしまえば猟師夫婦の心意気を踏みにじるのと同じなのに。――――なのに。
「(……弁慶さんもきっと恥ずかしいんだわ)」
猟師夫婦への恩と、弁慶への恩と。 両立しないそれらに、触れられるのが怖かった。
茶屋で看板娘だなどと囃し立てられ、自分の居場所を見つけた気でいたのかもしれない。
どこか驕ってしまっていたのかもしれない。
こんなにも私は、違っているというのに。
この世界にイレギュラーな存在であるのに。何を勘違いしていたのだろう。
ネガティブな思考を忌み嫌う自分と、けれどもそれが私なのだと肯定する自分と――――どちらも消し去る事ができないジレンマに、ただ、逃げ出してしまいたかった。
「ここですね」
「………あ、」
ぐるぐると練り混ぜていた葛藤がかけられた声に途切れる。悩んでいる表情を見せてはまたこの人に迷惑をかけてしまう、と背が冷えたが、彼の変化ない様子を見て心身共になんとか体温を取り戻す。
そういう不安を表に出さない事が話をこじらせる原因だと理解はしている。けれどもそれを表立って見せる事は躊躇われた。
また、迷惑をかけてしまう。とか、心配をかけてしまう、とか、これは私の問題なのだ。とか。
いつもこうして自分への様々な責務を一方的に作り出しては背負い、八方塞になる私を笑い飛ばしたのは誰だったか―――豪快な笑い声が聞こえた気がした。
「普段着ですから、あまり奇抜ではない方がいいでしょうね。通年着られる感じで……」
「…私あまりよく分からないんですが………その、どこまで華やかなものが許されるんでしょう。こういう時代…いえ、あまり……、」
はっとして口を噤んだ。
自分の意見を言わないのは何も主張が苦手だからというだけではない。
自分がこの世界の住人でないことを知られるのを憚ったからである。
茶屋夫妻の元で働いていた頃は客とのやり取りもあり、色々な話を交わしたし、自分の意見を述べる事も多かったため、それを見て夫妻は自然と感づいていた。
しかし、立場が変わった今は、自分がこの時代の人間ではないという異質な事実を明かすことはなかなか気が重かったのである。
ただでさえこの見た目である。
ある意味茶屋の看板娘という仕事は「見世物」とどこか意義が似ている部分もあったため、多少の奇抜さは認められていたと思う。
しかしながら今は一般の人間に混じって生活を送っている身分だ……人と異なるということはそれだけで排他に繋がる。
それを知っているからこそ、迂闊な行動を自制していたのもある。
ちらり弁慶を伺うが、特段気にした様子は見られなかった。
顔色を伺う私をどう捉えたのか。「僕も女性の衣服に関してはそこまで詳しいわけではありません」とにこやかに返すだけである。
いつまでも出方を伺っていても、探っていても何かが分かるわけでもない。とうとうそこまで思考が投げやりになったところで、私はそれこそ適当に着物を選んだのであった。
丁寧に包まれた着物を抱え、賑やかな街を行く。どこか上機嫌に見える弁慶の少し後ろ、彼に隠れるようにその後を付いた。
道すがら彼を知る人々は足を止め、薬の相談や今後の予定などを聞いているのを見れば見るほど、彼の存在理由の大きさに押しつぶされそうになる。
先ほど一旦追い払ったはずの暗雲は瞬く間に心に広がり、表情に影を落としていたのだが、客との話に夢中な弁慶が、それに気付くことは勿論ない。
母親の井戸端会議を辛抱する子供のように、私はただただ時間が過ぎるのを願った。
そうして幾度となく足を止めているうちに、時刻はあっという間に昼を過ぎ、夕へと差し掛かっていた。
日が沈むに連れて下がる気温に、肌が震えている。みっともないからと半ばやけくそにまとめていたひっつめを解くと渇いた音と共に首元に温もりが戻った。
境界が消える程に藍が濃くなっていた岐路で、ようやく会話らしい会話が成立したのだが、胸に張る不審が邪魔して上手く話せない。
胸のうちを気付かれる事だけが恐ろしく、拠り所無い心を揺らせたが、その不安やいざ知らず。相手はそこまでは踏み込むつもりがないらしい。
構えた心がずるりと滑り、肩透かしを食らったその刹那、かの手が髪を梳いた。感慨深そうな、指先で。
「君の髪は本当に不思議ですね……こうして闇に溶けてなお、絹のように輝いている」
「……よく、鬼子のようだと言われました。……そんなに良いものではありません」
進む足がぴたり止まる。
不興を買ったかと心凍らせながら振り返ると、眉間に皺を寄せて難しい顔をした弁慶と目が合った。
闇に溶けた袈裟の下は慣れぬ闇が捲いており、細かな表情を汲み取る事ができない。けれどもこの雰囲気は決していつものような穏やかなものでは決してなかった。
「……早く、近くに行きたいものですね」
私の横までやってきた彼は、進むようにと合図をする。それに従い歩みを開始したのが、ただただ胸には言いようのない濁りが残った。
沈んでは浮き上がり、また濁っていく。変わり行く心の明度と思考の尺度と。
どうしてあるがまま生きられないのだろう。行動するよりも、気持ちよりも先に思考が働いてしまう。
そんな私を、何より私が一番嫌っていた。
----------
京の自由散策の許可を申し出た時の弁慶さんの表情が今も忘れられない。
「…どうしてですか?一人で行きたいだなんて」
「お恥ずかしながら、その、私あまり世間を知らないんです。見聞を広めたいと言うと大げさですが、もう少し世間を知りたくて」
「……僕の知識だけでは不足なのでしょうか」
「違うんです、私の、」
「言い方が狡いですね、すみません。これでも心配しているんです、君は目立つから」
幾度かの説得を経て何とかもぎ取った外出許可を抱いて逃げるように家を出た。
着慣れない真新しい着物はまるでわざと足止めを食らわせているのかと思ってしまうほどで、苛立ちを深める。
理不尽な苛立ちを浮かべながら、とにかく街の奥へと逃げ走った。
調べ物をするにもパソコンもインターネットもない街の中、見渡せどもちろん図書館なども存在するはずがない。
人づてに聞きたい情報を得ることも考えたが、如何せんこの形で人の信頼を得、情報を引き出すことなど出来るはずもないのは明白である。
「(……見透かされてるのね)」
少し泳がせれば、自分の見通しの甘さに頭を冷やすだろう。そんな、彼の無言の意味を読み取って唇を噛んだ。
胸で握り締めた袈裟は彼が強引に押し付けたもので、身に余る大きさにすら引け目を感じてしまう卑屈な心。
しかしどうしたものかと街を往くが一向に疑問も目的も果たす事が出来ないまま時間ばかりが過ぎていく。
けれども無理を喚いて勝ち取った自由なのだ。そして自分で決めた目的もある。
必要なのは分析ではなく行動―――水を得た魚のように。
自分でも笑ってしまう気持ちの切り替えの早さに、自然と足が軽くなる。
顔を上げて見た景色はとても明るく、晴天の日差しを受けて輝いてさえ見えた。高揚する心がどこか楽しい。
少し前向きに、一歩を踏み出した。
土地勘のない場所であるが、街自体は十分な繁栄を誇る土地ゆえに、どこへ行っても寂れた様子はない。
現在の政治の中心は鎌倉に移ったとのことであったが、それでも第二の都市として名に恥じない姿がある。
絢爛な作りの鉄細工は彫り細やかで職人の腕を感じさせる一品が惜しげなく使われ、どれも人の手で作られた事実を思えば、どれも目を見張るものばかりである。
大量生産大量消費、モノは基本使い捨てで成り立つ現代とは全く異なるものへの価値観はどれもうつくしく誇っていた。
歩きなれない、舗装されていない砂利道は未だ不自然な動きにはなるが、それでも街を往くのは楽しく、時折足を止めながら進んでいく。
気付けば、周囲の目を気にしない自分がいた。
真っ白な髪に、この袈裟はそれだけで注目を集めると思われたが、道行く人々の視線はさほどこちらに向けられることはなかった。
「(自意識過剰……なのよね)」
思慮深いといえば聞こえはいいが、決してそんな高尚なものではないことは分かっている。
こうして一人で思いつめて自分を責めて解決すればそれでもいいが、結局朗らかさを失い、周囲に心配をかけ不信を煽っているだけなのである。
分かってはいる。分かってはいるけれど。
自分を肯定できるだけの理由や立場、そして犠牲を厭わない強さを、私は持ちえてないのである。
「(いけないいけない。すぐ時間があればどうしようもないことを、考えてばかりいて)」
頭を振って暗雲を払い先に進む。
気付けば随分と街の奥へと進んでいたらしく、華やかな建物は遙か後ろに見えた。
このまま先に進めば森に入っていってしまう、そう踏んで踵を返そうと思ったのだが、その寸前見やった森の中に懐かしい色を見つけて、立ち止まった。
どうにも信じられないという気持ちと、けれどもそうであったらという希望とが織り交ざって、足を進ませる。
日は翳り始め、森の奥は既に深い闇色に満ちている中、知識のない自分が踏み込む事が危険だと警告音が鳴っていたが、それでも。
派手に音を鳴らせばこちらを振り返るはずとの算段で、わざと音を出しながら進むが意中の色はなかなかこちらを振り返らない。
その距離約50メートル程だろうか、向こうも奥へ進んでおりスムーズに近づけない中、生い茂る木の幹に阻まれ姿を見失う事が恐ろしい。
既に後ろを振り返っても町並みは木に隠されていた。思えば、向こうは男性、私は女性である。歩く力にだって差がある。
覚悟を決めて、声を振り絞った。
「有川君!止まって!」
ぶつかり合ったその青色は酷く懐かしい色を放つ。遠くからでも分かる程に強い眼差しは刺さる程の威力を持っていて、その熾烈な熱に引き寄せられる。
草木を掻き分け近づけば、そこに見えたのはやはり懐かしい旧友の姿であった。
記憶よりも髪が伸び、スマートだった身姿は逞しい男性のものになっていたが、衣装は違えども中身は彼だ。瞳が、そう言っている。
上がった息を整えて近づけば驚いた表情が伺えた。当然だろう、こんな時代に飛ばされているだなどと予想できるはずもないし、何より私は随分見た目が変わってしまった。
「ほ、本当に……有川君だった……」
「お前、遠坂……なのか?」
「酷い白髪でしょ………ふふ、笑っちゃうよね、ストレスで髪が真っ白…だなんて、おとぎ話の中だけだと思ってたのに」
膝を離し身を起こして彼を映す。下がる眉に泳ぐ視線は熱血的な彼に似合わず濁った色を携えているように思えた。
彼の方はというと変わらずの健康的な肉体を誇っているようであったが、その頬はややこけており、よくよく注目すれば身に纏う衣装にも損傷が見られた。
伸びた髪も、整えられてはいるが以前よりもくすんだ様に見えてしまって、堪らなく胸が痛む。
彼も“一緒”だ。そう、思った。
「……有川君はいつからここに?」
「どうだったかな、三年くらいか。年数の数え方が違うからあんまり正確にはわからないけどな。…遠坂は」
「私はまだ…一年と少し。私がここに来た時は冬だった……気付いたら酷く寒い、何もない雪原に倒れていたの」
身を凍らす非情な雪の日が蘇って身を震わせる。死を覚悟させられた恐ろしい冬の魔物は今でも全身が覚えている。
思わず脇へと差し込み、感じたぬくもりはあの日とは似ても似つかぬものであった。
白昼夢だとしてもあの白銀の絶望は二度と触れたくもない孤独だ。
気を取り直し将臣を見やれば、その姿は儚さを秘めてはいるものの出で立ちは堂々としている。立派な装飾具のせいであろうか。
一般人とは異なるその武装に、一筋の汗が流れる。
「有川君、もしかして、怨霊と戦っているの?」
「……怨霊を知っているのか」
「……………知ってるも何も、」
背の傷が張った気がして、顔を顰めた。
憎む事ができたらどれだけ楽なのだろう、けれどもその怨霊は恩人であり、恩人は我が仇と化した今となっては、怨霊に対し抱くのは恐怖のみ。
ただそれを将臣に説明すだけの言葉を持たなかった私は、俯き深く噛み締めるに留まった。
珍しく歯切れの悪い将臣が頭を掻きながら言葉を捜しているのが奇妙だと思ったが、終ぞ続ける言葉を掴むこと叶わず、無言が場を支配していた。
陽は更に降下を続け、辺り一帯は既に闇の中である。ほんの数歩先の将臣の髪の色すら、識別が困難なほどに。
「お前、家はこの傍か?」
「……うん、五条大橋のあたりだから、多分そんなに遠くはないと思う」
「送ってやるよ。この時代はまだ街だからって一人で出歩くには危ねえんだ」
「それは心強いけれど……ごめんね、呼び止めてしまったのに、今更だけれど……何か、用事があったんじゃない?」
さした用事じゃないと、私の不安を掻き消してくれたその時には、彼は「彼」へと戻っていた。
懐かしい「彼」を垣間見て、学生服を着て一緒に係の用事を済ませていたあの頃が不意に蘇って消える。
けれどもあの頃とは決して重ならない空白の時や、互いの見目はもとより、将臣の瞳に秘めた淀みの正体にただただ嘆きが収まらない。
ここへ来てから彼は一体どんな試練を乗り越えたのだろう。
一介の高校生でしかなかった彼が、そんな覚悟を秘めた目をするほどに、受けた運命の重さを思えばこそ私はただ、彼の先の安寧を願わずにはいられなかったのである。
「…ありがとう、この辺で、大丈夫」
「ああ、じゃ、俺は行くぜ」
「うん。気をつけてね」
ここで別れるのも違和感はある。
互いにここにいる事がおかしな事のはずなのに、共にいるという選択肢を互いに打ち出せなかったのには、一体何が邪魔をしたのか分からない。
遠ざかる砂利の音に堪らなくなって、私は振り返り、叫んだ。
「帰られるよね、私たち――――」
返事はなかった。
けれども闇を裂いて赤い腕が掲げられる。将臣らしい無言の肯定だった。
記憶よりも広くなったその背が闇に溶けきったのを確認して、踵を返したがただただ言いようのない不安だけが胸中に渦巻いている。
帰りたいわけじゃない。
帰ったって平成のあの世には自分の居場所なんてどこにもないのだ。
帰りたくないわけじゃない。
ここに残ったとて、身を寄せる場所も理由もどこにもないのだ。
迷い人としてここに足をつけているだけの意味のない存在。
闇に溶け行く彼のように、帰る場所があるわけではない…自責で痛めつけた心を抱え、とぼとぼと足取り重く朝出てきた道を戻っていく。
春の夜の風は冷たく、冷めた心に一層の侘しさを吹き付けてはせせら笑っているようだった。
京の町とて明かりは少なく、目と鼻の先にあるはずの五条大橋すら目を凝らさないと見えないほどで、いたずらに一層不安を掻き立てられる。
どんな顔をして帰ればいいのか―――視界に戻るべき家を捉えたその時、かけられた険しい声に肩が跳ね上がった。
恐る恐る振り返った先には、松明片手に、息を切らせて睨む家主の姿があった。
未だ見たことのない厳しい表情に、思わず足が後ずさる。
謝らなければ、咄嗟にそう思ったものの言葉など出ず、唇は空しく空回りするばかり。
一歩、一歩と普段の彼ではありえない大股で近づくそれが、0になった時。
振り上げられた腕に、反射的に目を閉じ身を固めた。
しかし覚悟とは裏腹に、訪れたのは力強い抱擁、そして全身のか細い振動。
「……心配、したんですよ」
掠れた声。次いで包まれた腕が更に絞まり、二人の間の距離は完全になくなった。
苦しいほどに密着した体に移り来る熱が心地よく、合わせた胸に反響する臓の鼓動がいやに激しい。
己のそれか、果たして彼のものか。
不安を埋める彼の抱擁にたとえ期待した意味などなくても、触れられたその手の強さに溢れ出た嘆きの雫は留まるところを知らない。
大粒のそれが両から落ちて黒い袈裟を深く染めたが、闇にまぎれてそれは誰にも気付かれることはなかった。
ただただ、私は、立つ瀬ない混乱の海をいたずらに覗き込んでいるだけの迷惑な迷い人でしかないのだろう。
深く、深く、そう思った。