短編
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不倫の話 2話 ※未完
「どうして見て見ぬふりをするんですか」
その言葉に導かれるように見渡した道の端にあったのは、母を呼び泣く子供の姿であった。
小さな顔を涙でくしゃくしゃにし、頬と目元を真っ赤に腫らすその光景は、けれども認識したところで興味のないものでしかなかった。
ならば声の主は、と鋭い切っ先に目を向ければ。眉間に皺を寄せ、険しい表情でこちらを睨んでいる女がいた。
大学生くらいだろうか、丈の短いシフォンのスカートが風に遊ばれ、ふわりと揺れている。
何の反応もない事に焦れたらしいその女は、再度声を上げて注意をした。「子供が泣いているんですよ!なぜ見て見ぬふりをするんですか!」と。
「僕に構う時間があるのなら君が面倒を見たらいいのでは」
―――最後まで面倒を見る気がないのならば、責務を果たす人間とめぐり合わせた方がいい。
そういう意味の言葉であったが、女の怒りに油を注いでしまったらしい。一層張り上げた声で怒鳴られる羽目となる。
それが、ふたりの出会いであった。
まどろみから目覚めた天井の、見慣れた染みに焦点が合う。
開け放った窓からは既に熱を孕んだ風が流れ込み、意識が覚醒するに連れて肌もじっとりと汗ばんできた。
シーツの波の中、横たわる肢体は見慣れぬ色を発していて。瞬間に昨夜の出来事を知覚したのであった。
まだ深く眠っているのだろう、ゆっくりと隆起する肩、それに触れても反応一つない。
「――――リンさん」
名を呼ぶ。その音が自分でも驚くほどに優しい音色であったことに動揺する。
初夏の高い日が急ぎ部屋を照らしていく中で、ここだけはまるで春のように穏やかな時間が流れていた。
二人で眠るにはやや狭いベットの向こう、窓の向こうに広がる青空に今日の気温が予想される。紛れもない夏一歩手前。
「リンさん、起きてください」
長く浸っていると感覚を奪われそうであった。カーテンが揺れ擦れる音が遠海の波音にさえ聞こえかねない。
とにかく今は、今が現実であるということを確かめたかった。
細い肩を掴んでゆらゆら揺らせば、くるりと身を捩る彼女は少し腫らせた目元を開かせる。
長い睫毛がちらちらと揺れて、重なる視線の不安な色味にどこか安心する。
この不安を取り除く者こそ“加護者”となるのだろう。そのチャンスを掴んだことに胸の内でにたりと笑った。
「……弁慶、さん?」
「ええ」
「………」
言葉を紡ぐ事を避けたとて、彼女の困惑が手に取るように弁慶には分かっていた。
昨日半日近い時間をかけて一つ一つ、彼女という人を紐解いたのだから。
“弁慶の言葉遊び”。何度もあらゆる人間で試してみたが、遊びに付き合える人間に出会う事は稀だった。
出会った事に気づけたとしても、それは関係を結んで幾年も経った後が多く、経年の賜なのだろうという結論しか抱くことは出来なかった。
弁慶は長く飢えていた。己と同じ視点で話が出来る人間を、価値観が近い人間を求めて。
「出会えないと思っていたんです。一生をかけたとしても」
諦めで望美と付き合っていたのではない。刺激的な日々はそれはそれで楽しかった。
けれど、彼女とは相反する性質が時に刺激的であり、満たされない隙間を作ってもいた。
結婚という人生の転機を迎えるにあたって、もしかしたら己の中で、その満たされない不安が広がっていたのかも知れない。
そんな折、見つけてしまった。何という皮肉なのだろう、弁慶は思う。
「―――僕は世界一の悪人でしょうね」
「……」
「でも、世界一幸せ者だと思います」
リンへそう告げる表情はただ穏やかに、微笑むばかりであった。
シーツの波に漂うまどろみの、音の無い浮遊感が好きだった。
ゆらゆらと水の中で踊るクラゲになれるような、なれぬならせめて他の海洋生物と手を取り踊ろうか。
そんな空想の海へとリンは投げ出されていた。決して現実はそんな清純な海ではなかったのだけれど、それでも。
穏やかに微笑む男の圧倒的な雰囲気に罪の意識が雲散される。
じりじりと目の奥を焼き付ける“不貞”の事実に広がる灰色の景色に足場を無くしていく中、ただただ無垢な微笑み一つで手を取り救い出すのだ。
「ただ本当に探していた人を見つけただけなのだ」と。
壊れてしまいそうだと思った。今まで己の人生をかけて積み上げてきた常識、モラル、概念。
それらは全て、自分がこの世界で生きていくために必要な条件ですらあったはずなのに。それを破ることを、今、自分は。
「―――怖いでしょうね」
恐怖は目から雫となって零れ落ちた。隣にいた弁慶が心の内を察する。
涙の筋をそっと拭い、添えられた彼の手は想像よりも大きく、ひんやりとしていた。けれど、どこか熱くさえある。
彼はそれ以上は何も言わない。覚悟が出来た人間というのはいつもそうだ、肝心なところで言い訳を作ってはくれない。
優しい笑顔で、優しい言葉で、何もかもを見透かして、両手を広げるだけなのだ。
いつでもその腕の中に飛び込んできて構わない―――彼は追い人であると同時に、待ち人でもあったのだ。
「…ずるいひと」
「ひどいな」
頬と手の隙間がなくなる程に身を寄せ、添えられた手に己のそれを重ね、包み込む。
伏せた睫毛を上向きに、真っ直ぐと重ねた視線の先、弁慶の琥珀は驚くほど淀みなく透き通っていて。
その琥珀に己を映した。――――まるで琥珀の中の羽虫のようだ。それが、嬉しくてたまらなかった。
自堕落生活、その言葉がぴったりであった。
机の上に置きっぱなしの携帯電話は何度も震え叫んでいた。まるで不安に喘ぐ叫びのように見えたその音でさえも、琥珀の中へは届かない。
目の端にちらりと映るその一瞬を、虫の目移りを琥珀は決して許さなかった。
これ以上ないほど密着している体をより一層一つになるべく突き立てる衝撃に、苦痛にも似た悲鳴が漏れた。
壊れてしまう、涙交じりにそう訴えれば途端、穏やかな笑顔でそっと唇を寄せてくる。
「僕だけを見て―――」
優しいのに、絶対的なのに。どうしてこの人が泣きそうな顔をするのだろうか、気付けば両手は彼の背から彼の頬へ移った。
身を起こし、悲しげに歪むそこへ口づける。泣きそうだった琥珀の瞳は驚きに間開いた。
その顔が妙に幼く見えて、リンは微笑んだ。小ばかにされたと思っただろうか、弁慶はすぐに表情を戻すと頬の手を引きはがし、シーツへと縫い付ける。
既に手のひらは焼けるように熱い。手首を押さえつける手は子供の力などではない。
抵抗の出来ない絶対の支配感―――それが心地いいだなどと、一人でいて、どうして知ることが出来ただろう。
「…あ、……っ」
思考が飛ばされる。代わりに零れていく嬌声と吐息。すでにそれを隠すことも無かった。
「昨晩はあれほど恥じていたのに…随分と慣れたものですね」
「…っ、そ、んな……っ」
大して経験などない事は昨晩で証明済みだった。その上でこうして意地悪を言うのだからこの男は本当に性質が悪い。
にこにこと人当たりのいい笑顔で近づいて、相手を物色して、その上で突き放す―――全て計算づくで。
そう、頭では分かっていても切り返せるだけの言葉はリンにはない。せいぜい、彼の本質を見抜く事で精一杯だ。
引いては突き、擦り合わせて溶け合うその熱と痺れが全身を走り、リンは再び思考を奪われていく。
頭の回転で追いつけないのなら、せめて体だけでもと、頭の片隅に残ったちっぽけなプライドが声を上げる。
「…っ、……って…」
「…ん、何です―――――?」
動きだけは決して緩める事もないのに、聞き逃すまいと覗き込む。
押して引いてとその絶妙な匙加減が、心地いいのだろうか―――いいや、もしかしたら。
一瞬の隙で紡いだ思考はけれどもそれ以上の追及を許さない。全身に与えられる痺れに、理性になり代わり現れるのは本能だった。
どうしたのかと顔を近づけるその男がただただ愛おしくてたまらなかった。
何がとは、もう分からない。胸を掻き毟られるほどに湧き上がる恋情に言葉などなかった。ただ、ただ。
「…こんな気持ち、初めてだから」
「…リンさん」
「こわい……こわいの…」
「常識に苛まれることがですか」
縫い止められていた手が離される。それが酷く恐ろしく感じられて、リンは必死に腕に縋った。
終ぞ止まった律動が、一層心を冷やしていくようだ。
「あなたという人を…知ってしまったから」
知ってしまった。
理屈も常識も道徳さえも踏み捨てても惜しくないほど、感情というものが燃え上がる事を。
言葉で言い表せない、全身が満たされていくこの感覚を。
それを失ってしまった時、自分がどうなってしまうのかという未来を。
「――泣かないで、リンさん」
「…っう、…ぁ……」
今まで積み上げてきたもの、今手に入れたもの、全てがリンの中で渦を巻いて狂わせる。
行き場の無い混乱の感情を涙で流しても止めどなく浮遊する全てを、受け止める事はリンには出来なかった。
大丈夫、大丈夫です。全てを見透かした男はそっと抱きしめ熱を伝える。
男はそれが“慙愧の念”というものであることを知っている。故に、彼女の手を掴んだ。それ以上闇へ落ちて行かないように。
ようやく見つけた運命の人を、奪われないように、しっかりと。しかし弁慶の腕に包まれても、リンの震えは止まらない。
顔面蒼白―――弁慶は意を決し、再度腰の動きを再開させた。嫌だと嘆く彼女をもう一度押さえつける。
「……堕ちていかないで」
罪の意識に飲み込まれたが最後、彼女は全てを悔やみ生きていくのだろう。そんなことを弁慶は許さない。
今はただその意識を捨てさせなくてはいけない、ただ一度恨まれることなど容易い事だった。
白い肌に青が差すほどに縫い止めた細腕を軸に、ただ揺さぶる。
罪などどこにもないと言うように。ただ今は、与えられる快楽に委ねてしまえばいい。
理性を壊す。ただひたすらに―――たとえ弁慶のエゴであったとしても、構わなかった。
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当時何を思って不倫する弁慶を書いたのか思い出せませんが
今となっては不倫するような男はごめんなので
過去の自分と解釈違い…(25.12.18公開)