敦盛日記(ヒノエ夢:未完)
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02頁.6月30日 曇り
私の助言を真に受けて、ヒノエは意中の人にアプローチを仕掛けたらしい。
ちゃらんぽらんに見えて、ヒノエは人を良く見ている。洞察力に優れていた。
小さな頃はそれを利用し、熊野の森でよく悪戯を仕掛けたものであった。
大人さえも手玉に取るその巧妙な罠―――その年上の女性は、どうなのだろうか。
幸せそうに顔を緩めるヒノエを見ていると…正直不気味なので、破局してもいいのではないかと最近思うようになってしまった。
長い雨が上がりさえすれば、雲を裂き広がる青い空に白い雲。夏の風景。
遠足の前の晩の子供のように、期待を込めてその日を待っている。
季節はまだ梅雨―――初夏の日が恋しい。
時計の短針が七を通り過ぎた頃、携帯の画面、送信ボタンに指を添える。
“メールが送信されました”―――たわいない世間話と、本題とを乗せた電子文書が手元を離れていく。
社会人である彼女だから、あまりに早い時間では迷惑だろう。
そんな小さな気遣いはそっと隠して、けれども込められた情熱は燃えるように熱い。
ヒノエはソファに腰かけながら、テーブルの上に置いた携帯電話をそっと見つめていた。
「送ったのか」
「ああ」
敦盛の言葉に短く返事を返す。
彼女―――“遠坂リン”さんはどんな返事を返してくるだろう。
想像すると口元が緩んだ。
敦盛の助言から、行動を起してゲットした彼女の連絡先。メールアドレス。
あれから幾度かメールでのやり取りを経て、今日、ついに“お誘い”をしてみたのである。
ヒノエにとっての「本題」。
駅前の広場で感じた彼女の印象と、メール本文での印象とは全く違わず、穏やかで優しい人柄がとって見えた。
そして年齢に合わず、どこかぼーっとしている事も。
やたらと食事の話題を振ってきたり、小動物の話題を振ってきたり。
必要以上に自分を良く見せようとしない、その素直な人柄を好ましく感じたのだ。
そんな彼女だから、ヒノエからの誘い文句も、思う以上に自然体で出てきたのだろう。
自信満々に、口にする。
「“この間のお誘いだけど、終末に叶えてやれるぜ”…これほど完璧な誘いもないよな」
「………………ああ、そうだな」
自分に酔っているヒノエは気が付かない。敦盛の間に、表情に。
出会ったあの日、駅前の広場で声をかけられた。しかしあの日はヒノエ自身にも約束があり、リンの要望に応えることが出来なかったのだ。
それをヒノエは酷く残念がっていた。そう、敦盛は記憶している。
しかし、自分の思い違いかもしれないが、確か彼女はただ世間話を振っただけであって、食事を共にする意思はなかったように思われる。
疑問を消化出来ず、敦盛はヒノエに問うた。
「…遠坂さんはヒノエを誘ったのだったか?」
その問いに返されたのは両手を広げた呆れのポーズ。半目の表情が妙に苛立たしい。
いや、絶対言っていなかった。
ヒノエ自身の口から語られた情景だ。聞き違えるはずもない。
敦盛は絶対の自信でヒノエを見つめ返すのだが、彼のその呆れ顔は変わらない。
「分かってないな。女性っていうのは理由が自分にあるって状態を嫌うんだぜ?」
「…それとこれと何の関係が?」
「俺から誘う事で“俺が誘ったから”って言い訳が出来るだろ?誘いにも乗りやすくなるんだよ…ほら」
ヒノエの指差す先、テーブルの上の液晶画面には“メールを受信しました”の文字。
携帯の震えを愛おしげに手に抱くと、慣れた仕草でそれを開く。
中に綴られていた、彼女の返事は――――
「『何のことだったかな?』…と書かれているが」
「………」
「伝わっていないようだ、ヒノエ」
「………一筋縄ではいかない姫君だね」
余裕ぶった台詞だが、声が上ずっている。
覗き込んだ両の瞳は動揺に激しく揺れていた。
まさか自分の思惑が外れるとは予想外だったのであろう。
けれどもこの返答の内容は誘いを断っているわけではない。
気を取り直して誘い直す文章を作る、ヒノエの背中のなんと丸い事か。
先程までの自信に満ちたドヤ顔が遥か遠くに霞んで見える。
ヒノエは改めて食事の誘いを打ち直し、結果的にその約束は成立したらしい。
『照れているのかい?可愛いねリンさんは。深紅の薔薇のように染まる頬を間近で愛でてやりたいよ。来週水曜、いつもの改札で』
どうして普通に誘えないんだ…。
敦盛は生温かい気持ちを逃がす事が出来なかった。
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今思えば相手の都合も聞かない強引な約束ではあったのだが、リンの性格を計算すればこのくらいの強引さが丁度いい。
学校が終わり、時計を見やりながら約束の時間の十五分前。
彼女の最寄りの駅改札口で背を預けて人の波を眺めていた。
取り出した携帯電話、画面に映すは予約した店までの地図である。
「(今注目の創作イタリアン。特にニョッキのトマトクリームが絶品だったな)」
女友達から聞き出した穴場の店。
とはいえここ最近は注目を集め始めているらしく、予約を取るのに手間取ってしまった。
女との食事にはクリーム系とパスタが好まれる。
経験と統計はヒノエの中できっちりとファイリングされており、確信に満ちているのだが、それでも、と今回友人を頼ったのだ。
好まれる食事。人気の店。
既に手配の行き届いた演出。
どれをとっても完璧な“大人の男”の対応だ。
思わず誇らしくなって笑みがこぼれる。
「(早く驚いた顔を見せてくれよ)」
ちらりと目をやった携帯の端。
デジタル時計が約束の時間になったその時であった。
「あ、ヒノエ君?…もしかして、待たせてしまったかな?」
人の波をかき分けて。
ボブカットをふわりと揺らして現れた花のようなリンさんに目が釘付けになる。
ととと、と子犬のように駆け寄る姿の愛らしさに、意図せず背筋が伸びてしまうが何とか抑え込んで体裁を取り繕う。
大人の男。俺は大人の男。
「いや、一秒でも長く一緒に居たくて早めに来てたんだよ。さ、行こうぜ」
さりげなく彼女の鞄に手を出して。スマートに受け取り、エスコートする。
…つもりであった。
つん、と引っ張られる鞄の紐。
鞄の手綱の先には疑問符をたくさん浮かべた困惑顔のリンさん。
うんうん唸りながらも鞄を握る手は決して離さない。
そんなささやかな抵抗が可愛い。可愛いのだが。
「…どうかしたか?」
「そ、そんな急がなくてもお店は閉まったりしないから、大丈夫だよ?」
「………」
どうやら彼女は俺が早く店に行きたくて急かしていると勘違いしているらしい。
あれーおかしいなー 普通ならここは
『あっ、鞄くらい自分で…っ』
『仕事終わりで疲れてるだろ?これくらい持たせてよ』
『…ヒノエ君……ありがとう。優しいんですね』
…こんな展開になるはずであるのに。なぜだ。
ちらりと視線を戻し眺めるリンさんは、まるでひったくりを警戒しているかのように鞄を抱きしめている。
俺の困惑の視線に気が付いたらしいリンさんは、安心させるかのように笑顔を向けてくれる。
ふんわりと、空気が和むのにつられて俺の目元も緩む。しかし、
「ヒノエ君って意外と子供っぽい所もあるんですね」
「――――さ、行こうぜ。予約はもう取ってあるんだ」
アンナイシマスヨ、オヒメサマ。
声が上ずったのはもう見て見ぬふりをしてほしい。
大人だと思われたいのになぜ子供だと言われてしまうのか。
笑顔一つで天に連れ上げ、言葉一つで地に落とす。リンさんは魔性の女神だ―――。
出会って数分、既に心が悲鳴と血を噴き上げる中、なんとか気力を奮い立たせ店へと連れ立つ。
大丈夫、この後お墨付きの食事が待っているのだ。
そこで挽回すればいいのだ。
「ま、楽しみにしてなよ」
誰に向けて言った言葉か―――ヒノエはただ、彼女の笑顔が見られる事だけ信じていたのであった。
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イタリアの青の洞窟をイメージしたその店は、薄暗い岩肌で店内を覆い、所々置かれた青のキャンドルが美しく輝いている。
特に店がこだわるのは最奥に作られた水際の特別席。
青の光を水面に映し出す、幻想的なその席は一等人気の場所で、予約もなかなか取れないと噂である。
「すごく人気のお店だって聞いた事あるよ…ヒノエ君、予約取ってくれたんですか?」
「ああ。リンさんが喜ぶと思って。――予約の藤原だけど」
―――こちらに。
カメリエーレの案内で開くディナーへの道。
この店を訪れる者ならば誰もが憧れる水辺の席の予約者がやってきた、と客達の視線が集まってくる。
まるで祝福のシャワーのように降り注ぐ羨望の眼差しが心地いい。
最高の演出だと、ヒノエは鼻を鳴らした。
優美な仕草で誘われた席、ご予約席のプレートが除かれた瞬間、ヒノエのショーが始まるのだ。
「さあ、姫君。どうぞ?」
椅子を引き、着席を促す。
目の前の青の水辺の光景に見惚れていたのか、リンは一瞬弾かれたように慌てると、素直にヒノエのエスコートに従う。
着席を確認し、ヒノエは向かいの席へと腰を下ろした。
ゆらゆら、揺れる水面の青の輝きがリンの瞳に映り込み、艶を増す。
まるで揺らぐ心の動揺を悟られているかのようで、ヒノエはそっと瞳を逸らした。
無言。けれど、心地いい。
水の中にいるかのような穏やかな静寂に、ヒノエは酔いしれる。
「…リンさんといると心が安らぐ」
飾り気のない、本心からの言葉。
誘われて顔を上げるリンの瞳と己のそれとを重ねれば、先程までの高ぶる熱情さえ穏やかに凪いでいくようだ。
薄暗い店内、ブルーライト。
影となる彼女の横髪に隠されてしまった表情を、読み解くことは出来なかったが、ちらちらと揺れる伏せた睫毛は艶を増した。
そう、ヒノエの目には映っていた。
「こういうお店にはよく来るんですか?」
「いや、今日が初めてだよ。どうしてだい?」
内心、どきりとする。
深読みをし過ぎだろうか。
リンの中の自分の印象がどのようなものか、ヒノエはまだ把握しかねている。
事実をそのまま伝え、その反応を伺うが、短い相槌と再度の沈黙。
特別、意味は無いように感じられた。
本意を汲み取りたくて喉を膨らませたが、食前酒と付け出しが運び込まれ―――会話が途切れる。
まずは食事を楽しんでもらおう。
ここの料理はきっとリンさんの心も満たしてくれるさ。
「美味しそうですね」
「ああ。その笑顔が見られただけで俺としては満足しちゃいそうだよ。さ、もらおうぜ」
ぱちん、とウインクも忘れずに。
思ったよりも控えめな反応に少し気になる部分はあったものの、フォークを持つ手は止まってはいない。
かちり、かちり。
皿を奏でる音すら特別に聞こえて。
最後のドルチェ、カフェが終了するまで、ヒノエはその演奏を楽しむことが出来たのであった。
「ヒノエ君、お代は…」
戸惑うリンに背を向け、そっと手を取り連れ出す。
まるで攫う様に連れ出した店の外、ようやく事情を把握したらしいリンが覗き込んでくる表情を楽しんでいた。
慌てて鞄に手を入れる様子をそっと制す。
そんなに困った顔をしないでほしい。
ただ、今日の食事会を楽しんでくれればそれで十分なんだから――――ヒノエは引き寄せた手に口づけを落とす。
「リンさんの笑顔が見られたから俺的にはそれで十分だよ」
「…でも」
「じゃ、次はリンさんがご馳走してくれるかい?」
さりげなく。次を取り付ける。
その言葉に、真面目なリンは小さく頷くと、ヒノエからそっと手を放した。
特別照れるわけでも、笑うわけでもないが、彼女の中で話の折り合いはついたらしい。
唇を添えた手をそっと胸の前で重ね、ふんわりと微笑んだ。
なにその笑顔超可愛い。
一瞬にして紳士の面が壊れてしまった。でれでれと伸びそうになる鼻の下を戻すので精一杯だ。
「今日はありがとう、とっても美味しかったです」
「姫君の為ならどうってことないよ。また連絡してもいいよな?」
「うん、ごはんのお礼もしなくちゃですしね。また連絡します」
何時の間にやら到着していた駅の改札、胸の横で控えめに手を振った後、彼女は去って行った。
ふわり、ふわり。季節は初夏に差し掛かっているというのに彼女の周りは常に春のようだ。
その優しい陽気に当てられて、意識がなかなか戻ってこられない。
千鳥足でおみやげを持ち帰る酔いどれ親父のように。
右へふらふら左へふらふら。
ヒノエが自宅へ戻ったのはリンと別れてから二時間も経過した後であったという。