短編
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軍師の本領
目が覚めたら夜着の袖が伸びていて、腰紐は緩み、長い裾を踏みつけて盛大に転んだ。
お約束の失態に頭を抱えてみるがその風貌や、常の姿とは似ても似つかず。
様にもならない己の姿を想像してため息は深まるばかりであった。
「えっ、ちょ、ど、どうしたの?え?…べ、弁慶?」
最初に発見したのが景時で心底良かったと、弁慶は深く思った。
変わり果てた弁慶の姿を見た後の景時の行動は早かった。
どこから持ってきたのか、ほつれ一つない小児用の着物を運び弁慶に着せ、他の人間が不用意に入らないようにと居間にいる仲間達に伝えた。
何がどうしてそうなったのか、弁慶の体は今や童となってしまっている。
景時の見立てた衣の丈がぴったりなのに少し空しさを抱きつつも、意識だけは年齢のままらしい。その卓越なる頭脳をフル回転させていた。
しかしながら、昨日のおはようからおやすみまでを思い返しても、この珍妙な姿形になる要素は思い浮かばず頭を抱えた。
景時が恐る恐る声をかけてくる。
「いや~~なんていうか、参っちゃったね。どうしてそうなったか全く見当つかないんでしょ?」
「そう、ですね…思い当たる節は何も。昨日は特別何か行動を起こしたわけでもありませんし……うん、夢ということもなさそうですし」
頬をつねれば普段よりももっちりとした感触がある。
そういえば指もふくふくとしていてどこか腫れぼったいような、動かしにくさがあった。
元々高めの声質ではあるが、失われた喉仏が振るう今の声は更に高い。
下手すると幼い白龍よりも幼いのではないだろうか。
しかしどうしたものかと思案を深めるが、解決策も原因も見出すことが出来ず、目の前の景時を見やってその表情に益々落ち込んでいくようで。
「この姿を見られることに問題はないのですが…」
「うーん、でもさ、色々とやり辛いんじゃない?ほら、特に九郎なんかは受け入れるのに時間がかかるだろうし」
「……ああ」
そうですね。
橙の傾いた髪が記憶の中で揺れる。
あの堅物で融通の利かない友人が意味もなく混乱し騒ぎ出す姿を瞬時に思い浮かべ、二人は深くため息をついた。
けれども落ち込んでいても埒が明かないのは尤もである。
景時が気を利かせて人払いをしてはくれたが、これはある意味仲間達の新たな情報を得るための絶好の機会ではないのだろうか。
そう考えた弁慶はこの境遇を目一杯利用してやろうと考えたのである。
「景時、僕を――――」
「弁慶さん、風邪だと聞きましたが……あら…、」
策を敷く前からやってきてしまった訪問客に二人は瞬時に固まる。
流行りの風邪だと、移り易いからと牽制したその意図を組みながらも、内に秘めたる想いは静止を跳ね除けてしまったらしい。
弁慶の好い人――――もとい、両片思い止まりの心優しい娘がやってきてしまったのである。
不安気に目を伏せながら、手に抱えるは消化によい粥であった。居心地が悪そうに弁慶の部屋の中を伺う。
部屋の中に目的の人物がおらず、そして代わりにその人に良く似た童が座っているのを見て、目を開かせたのを弁慶も景時もしかと捉えていた。
すかさず、景時がフォローに入る。
「あ、リンちゃん。来ちゃだめだって言ったのに~~、あ、お粥持ってきてくれたんだね~」
「景時さん、弁慶さんはどちらに?」
「あ、ああ~~弁慶はなんかちょっと用事があるんだってさ。さっき裏口から出かけたよ。いつ帰るとは言わなかったけれど」
饒舌に語ってはいるが、人はやましいことがあればあるほどよくしゃべるものである。
間入れずに弁慶に関して話す景時にリンは困ったように微笑みながら、そっと盆を端へと添え、姿の変わった弁慶へと近づく。
どうするのかと息をのむ景時を余所に、リンは童を抱き上げた。
そっと包み込むように胸元へと引き寄せる。
「かわいそうに、鳥肌が……寒いのね。景時さん、この子用にもう一枚羽織るものってありますか?」
「え?あ、あー、うん。あると思う。も、持ってくるよ」
困惑交じりにそそくさと部屋を後にする景時の背を見送って、リンは再度弁慶を胸元へと引き寄せた。
じんわりと重なる場所にぬくもりが灯る。童へと戻ったせいか、体温の高さ故に外気温との差に体がうまく調節できていないらしい。
尻と背に回されたリンの腕の細さに心配しつつも、柔らかいぬくもりに弁慶の胸の内に妙な安心感が広がっていく。
「もう少し待っていてね、あのお兄さんがきっと暖かい服を持ってきてくれるから」
どうやら、彼女はこの童こそが弁慶その人であることに気付いていないらしい。
よく似た親戚の子供とでも思っているのだろうか。
その真意こそ分からないが、「この境遇を目一杯利用してやろう」この目的は果たせそうだ。
知る人ぞ知る弁慶の悪笑み。防寒用の衣を持ってきた景時がその表情に気付いたのが、果たして良かったのか悪かったのか。
これから起こるであろう騒動を思い、景時は密かにため息をついたのだった。
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綿の入ったお包みのような衣に包まれ、リンの腕に抱かれるまま居間へと連れられれば、一斉に広がったのはどよめきであった。
「あー…俺のいた世界でなんか薬で子供に還っちまった男の漫画ならあったぜ」
「それは漫画の中だけだろ」
有川兄弟が何やら似た症状に覚えがあるらしく言葉にしていたが、景時とリンがそれをそっと否定する。
景時の言った「用事があって出かけた」との言葉を信じているリンだからこその否定であったのだが、周囲の視線はやや冷たい。
特に冷たいのは弁慶の甥であるヒノエであった。
「アンタも大概人が悪いよね」と、皆に聞こえないように発しただけまだ可愛いのかもしれないが、その目は蔑みの色が滲んでいるように思える。
望んでこうなったわけではないと訂正したいところだが、この状況で声を発するのはあまりに立場が悪い。
元々、周囲の反応を見てやろうと思ったところだ。
弁慶はだんまりで周囲の反応を伺うことに徹すると決めたのである。
薬で縮んだだとか、卑怯な策ばかり考えているから罰が当たったんだとか、嘘ばかりついているからだとか、夏でも暑苦しい袈裟を着ているからだとか、仲間の評価は散々である。
さすがに言いたい放題の評価という名の悪口に弁慶の目元も引き攣る。
「(僕の事をそんな風に思っていたんですね……)」
包まれた衣の下で弁慶はこぶしを固く握りしめていた。
人の興味など長くは続かないものである。
今日は大事を取って休む日だと九郎が伝えを飛ばしたことも重なってか、数刻もすれば各自別所へと散って行った。
好き勝手言い去った八葉の薄情さいざ知らず、リンが弁慶を離すことはなかった。
時折目を合わせては優しく微笑んで、その細い指で顔にかかる髪を避けたり時々揺らしてあやしたりと、すっかり母親のような姿となっている。
ねだる望美に渡したり、朔と覗き込んだりとやはり子供の相手は女性が好むものなのだと弁慶は心中で思った。
「あ、でもごはん……譲君にお願いすればいいかな?」
「そうだね、譲君なら離乳食とかも作れそうだし、私、頼んでくるよ!」
「私も行くわ。リン、この子をお願いね」
望美の手から再度リンの手へ。
どれも一緒に見える抱き方一つでも、抱えられる方はその心地が違うものであるのだと知る。
「…おなかすいたでしょう。少し、待っていてね」
リンの抱き方が一番心地がいい。
いつもよりも数倍優しい声が降ってきて、思わず揺れる心に狼狽する。
ただでさえ好ましいと感じている、端正な顔立ちが何よりもそばにあるのだ。
特別意識はしていなかったが、自覚するとその状況の恥ずかしさに居た堪れない。
いつもならば少し離れたところから見るだけの、さらさらと柔らかそうな髪も、長い睫も、透き通る瞳も、今は誰よりも近くにあるのだ。
心を整えてその顔を覗き込めば、花が咲くように微笑むその一瞬で、やはり心を持って行かれる。
「(……君は本当にきれいな人ですね)」
少しずつ高度を増す太陽の差し込む光に照らされて、部屋の中が真っ白に輝き始める。
肌には少し冷たい秋の風を遮り、温め守るように再度深く抱きしめられた。
寄せられた胸元のその先、鼻をかすめる首元からは甘い花のような香りがした。そんな気がした。
離乳食という望美達の世界の食事は理に適ったもので、一つ弁慶の知識として取り込むこととなった。
その後は女性陣のおもちゃのようにくるりくるりと回され、あやされたりと童を満喫している。
薄情にもさっさと退室を決めた八葉の男連中も、なんだかんだ気にはしているらしく、外に出たついでにと土産を持って帰宅していた。
庭には景時の洗濯物がゆらゆら揺れ、朔によって切り分けられた柿が縁側に並んだ。柿は九郎からの差し入れである。
完熟には少し早い柿であったが、ひとくち齧れば秋の音が十分に奏でられる。縁側で日の光を浴びながら、皆思い思いの秋を感じていた。
「そろそろ夕飯用に買い出しに行きたいんですが、どなたか付き合ってくれる人はいませんか」
譲の申し出にヒノエが頷く。
出ていく二人に将臣と望美が献立の希望を投げつければ、譲の呆れた声が返ってくる。
そんなほのぼのとした平和なやり取りに周囲が和む中、ヒノエは弁慶へ厭らしい笑みを投げつけて部屋を出ていく。
彼だけが唯一この童が弁慶本人であるということに確信を持っているらしく、意味深な笑みを向けてくる事が癪に障るが反論の手立てはやはりない。
「ヒノエ君、疑っちゃだめだよ」というリンの一声にヒノエは曖昧に笑う。その微妙な表情が弁慶にはやけに印象的に映った。
この鋭い甥は時々、弁慶には理解し難い不思議な感情論を拾ってくる時がある。
結局その曖昧な表情の答えは見つからず、買出し班は屋敷を後にしたのだった。
リンに抱きかかえられ京邸の中庭を歩く。
譲が世話をしているという花畑には、紅色、白の秋桜が手入れされていた。
「夏は向日葵が植えられていたの。譲君、ガーデニング……えっと、園芸も出来るみたい。全部、望美のために植えたものなのよ―――かわいいでしょう?」
くすくすとリンが笑う。
譲の望美への熱烈な愛情を知っている故のからかいのような笑みであった。
弁慶の目から見ても、譲の望美への思慕は明らかである。
恐らくは他の八葉全員が気づいている程であろう。
その上で互いが出し抜かぬよう、けれども虎視眈々と神子の隣を狙っているものだから人間とは面白い。
弁慶はそうも評価していた。
弁慶自身も、白龍の神子である望美の強く眩しい姿を好ましいと感じており、その存在を稀有な姿を守りたいと願っている。
それが恋という気持ちへ昇華しなかったのは、ひとえにリンの存在があった。
望美と共にこの世界へ渡ってきた、異世界の女性。
共に渡ってきた全ての仲間は皆、この世界に必要とされて呼ばれた。
将臣、譲は八葉として。望美は龍神に選ばれた神子として。
そのどれにも当てはまらず、いつも覚束ない存在感で儚く揺れるその姿は酷く不安定であった。
それなのに誰に寄りかかろうともせずに、一人で震えるその華奢な背を抱きしめたいと、彼女の生きる理由になりたいと願ったのはいつ頃だっただろうか。
未だ思いを伝えることは叶わないが、いつか、他の男を出し抜いたとしても手に入れたいと弁慶は願っている。
そっと、身を乗り出した。
「あ、危ない……って、どうしたの?コスモスが欲しいの?」
バランスを崩し、抱き直すリンを巧みに誘導し秋桜畑へと近づける。
その中で一番形のよい花を見繕い、弁慶は手折った。
引き寄せてそれをリンへと差し出すと、儚げな瞳が見開かれた。
「……私に?」
こくりと頷く。濃い紅のその花は彼女の白い手とのコントラストで一層色づいて見えた。
元の姿であれば伝えていたであろう、彼女への賛辞を述べられないのは歯がゆいが、きっとその寂しげな瞳を喜びに染めてくれるだろうと弁慶は思ったのだ。
けれども、弁慶の思惑とは少し違っていた。受け取った花をそっと見つめた瞳は、一等深いところで蕩けて淀んでいくようにさえ見えたのである。
「………ありがとう。貴方はやさしい子なのね。そんなところも本当に、そっくり………」
礼を述べながらも、リンは今にも泣きそうな顔をしていた。
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譲とヒノエが帰宅した頃には、空はすでに橙よりも藍色に染まっていた。
西の空にはよいの明星が輝き、譲と朔が入った厨房からは食欲を誘う香りが立ち始め、将臣が盛大に腹を鳴らす。
夕餉を待つ中、ヒノエがリンへと声をかけた。
「ちょっとその童、俺に預けてくれないかな。お前も抱きっぱなしじゃ疲れるだろ?」
その申し出を受け入れたリンの腕から弁慶が移る。
昼間のからかう姿を思い出したのか、リンは不安そうな視線を送り続けていたが、ヒノエはそれを口八丁で丸め込むと弁慶を抱きかかえて庭の木の上へと上がる。
太陽の沈んだ庭は暗く、葉の隙間から満点の星が輝いていた。
その空を遮るようにヒノエが覗き込んでくる。思わず眉間にしわが寄った。
「わざわざこんな薬作って飲むとか悪趣味も極みなんじゃない」
「僕は何もしていませんよ。朝起きたらこの姿になっていたんです」
「そうだとしても、この状況さえ利用して情報集めとはアンタも人が悪いよね」
「熱心と言ってください。それに、僕の思惑を読み解く君も、根本は同じということでしかありませんよ」
「よく言うよ」
深いため息を吐きながらも分別は弁えている男だ。
ヒノエの呆れ顔など見慣れたもので、今さら悪辣な言葉を吐かれようと動じることもない。
そんな嫌味を投げる為だけに行動する男ではない事は分かっていて、ヒノエの次の言葉も弁慶には想像がついていた。
「元に戻れる方法」それを伝えに来たのだと。
「原因を知っているのですか」
「…いや、知っているわけじゃないけど。ただ、朝の将臣とかの話と、渡来本の物語とかを照らし合せたらこれしかないんじゃないのかって思ってさ」
「あぽときしん…でしたか。将臣君の言っていた薬剤の名前は。残念ながら聞き覚えのある名前ではありませんでしたが。それで、ヒノエの答えを聞きましょうか」
ずばり、“寝たら治る。”
斜め上すぎる解決策に、思いがけず転げ落ちそうになってしまったのは仕方がない事だったに違いない。
ヒノエの言葉が真実であれば、同じ布団で眠ることはとても危険である。
目が覚めたとき、彼女よりも早く目覚めればいいのだが、もし彼女が先に目覚めてしまった場合は大層面倒な事になるのが目に浮かぶようで、弁慶はどうしたものかと考えていた。
そんな時、景時のフォローで弁慶の部屋で眠る事になったはよかったが、一人で眠らせるのは心もとないと食い下がるリンを説得するのに時間を要した。
その間ヒノエがにたにたと笑っているのに悔しさを抱きながらも、何とか一人寝を勝ち取り、布団へと横たわらせられる。
弁慶からそっと手を放したリンは景時を振り返り、寂しそうに問うた。
「……弁慶さん、まだ帰ってこないんですね」
「あ~~~……そ、そうだね。帰ってくる時間までは言ってなかったし…でも大丈夫だよ。どこかで情報とか探ってるんじゃないかな?」
「………ええ、そうですね。じゃあ、景時さんおやすみなさい」
リンの口から名を呼ばれたことに動揺する。
同時に思い人をだまし続けている事に関し、罪悪感が心を苛んでいた。
今日一日、片時も離れることなくリンのそばにいて分かったことは、やはりこの女性は何よりも優しいということ、そして、この人が愛おしいのだという自分の心だった。
「(誰にも取られたくない)」
優しく美しいこの女性と共にいたいと願う男は恐らく星の数ほどいるのだろう。
今は八葉と神子という少ない関わりの中でだけ接点を持っている彼女であるが、これから戦が深まれば自然と軍の人間と触れ合う機会も増える。
そうなれば彼女の魅力に気づく者も恋い焦がれる者も現れるであろうし、己の居ぬ間に横から攫われていく可能性だって考えられる。
そうなってしまう前に、引き寄せたい。弁慶はそう感じたのであった。
「(元に戻ったら、君に伝えましょう)」
――――あなたが好きです。と。
肩を撫でる風の冷たさに目を覚ました。
覚醒する意識と共に身を起こして眺める己の姿。長い手足、大きな手があるのを確認して胸をなでおろす。
「戻りましたね、本当によかった…」
尻に敷いている破れてしまった小児の衣をかき集め、まずは弁慶自身服を着なければならない。
生憎普段の着物は景時に奪われてしまったので身近に置かれていた大人用の夜着に腕を通す。
馴染んだそれにもう一度安堵のため息が漏れた。
耳を澄ませば遠くの厨房から軽快な調理音が聞こえてくる。
どうやら譲は既に朝食の準備に取り掛かっているらしい。
時間を考えるとほどなく八葉も居間へと集合を開始するのだろう事を想定して、なんと言い訳を通すかを考えていた。
別に隠し通すような話ではないのだが、少なくともリンを含む女性達と白龍に関してはあの童が弁慶自身であった事に気が付いていないようで、真実を伝えるにはやや気が引けるという事情もあったのである。
顎に手を当て、しばし考えてはみたがあまり良い言い訳が思いつかない。
ふと、廊下を歩く音が響いた。
静かで控えめな足音。これはリンの足音だ、弁慶は身を正して襖の方を見やった。
合図とどうぞ、の声から開かれた襖の先、現れたのは予想通りの人物であった。
目が合った瞬間に弁慶の内には昨晩の決意が芽吹いて、その鼓動が少し早まった。
童の様子を見に来たらしいリンは、予想外の部屋の主の在住に驚いていたがふっと視線をそらし目的の人を探している。
「おはようございます弁慶さん。あの……男の子は、どこへ?」
「リンさんおはようございます。あの子は僕の親族の子でして、朝早くに迎えが来ていたのでそのまま帰しましたよ」
「――――そう、でしたか」
「……リンさん?」
「――――――――いえ、何でもありません」
何でもないのにそんな顔をするはずがない。
弁慶の追及を避けるように部屋を出ようとするその手を掴んで引き留めた。
引っ張られてバランスを崩したリンはそのまま倒れるように弁慶の胸元へと引き寄せられ、弁慶は逃がさぬようにと腰を掴み固定する。
頑なに顔を逸らそうとするその顎を捉えて上を向かせれば、大きな瞳には目いっぱいの涙が滲んでいた。
予想外のリンの涙に弁慶自身も戸惑ってしまう。
けれどもここで引いてしまったならば、リンという女性は二度と手の届かないところまで流れてしまう事を知っている。
心に鬼を住まわせ、言葉を紡いだ。
「何も無くて、このように涙は流れません。僕にも話せませんか」
「………」
俯き、回答を拒否するリンに更に問いかけを被せる。
再度言うが、引いたらそこで終わりだからだ。
「あの少年が気になるのですか」
「………、」
「彼なら心配いりません。無事に親元へと―――――リンさん?」
子供の話に反応を示したことから、子供に関する問題がリンを苛んでいるのだと見当をつけた弁慶であったが、続ける言葉を不意に遮られた。
左腕に縋るように身を埋めるリンの後頭部が小さく震えて、その下に隠された場所からは微かに涙声が聞こえてくる。
こんなにも近くにいるのに、触れているのにも関わらず、必死に隠そうとするリンの心に触れさせてはもらえない。
その悲しい事実に弁慶の瞳も歪み始めた時、決心したようにそっとリンが顔を上げた。
涙に濡れた真っ赤な瞳で、それでも弁慶をまっすぐ見据えて―――微笑んだ。
「……もう、大丈夫です。貴方の幸せを、きっと願えます」
「……僕の幸せ、ですか」
リンは深く頷く。
前髪が左腕に垂れ、端に溜まっていた涙の雫が袈裟にこぼれた。
もう一度だけ儚く体を揺らして、けれどもはっきりと告げる。
「―――――大人しくて、賢くって、そして優しくて。…可愛い子でした。きっと奥さんも美人で聡明な方なんでしょうね……」
「…奥さん?えっと……それは、」
唇にそっと指を当てられ、言葉を遮られる。
やはりその瞳には溢れんばかりの涙が貯められていて、指が離れた振動で崩れて落ちた。
彼女はその悲しい笑顔を一層深めて、目を細める。
笑っているのか泣いているのか判断しがたいその表情に、心が抉られるような痛みと同時に湧き上がるのは焦燥感だ。
それを言葉にできぬ内に、彼女は続ける。
「私には、家族がいないから………大切に、してあげてください。幸せに、してあげて」
そう一方的に告げて、拘束力の弱まった腕からするりと抜けようと姿勢を変える。
焦りで鈍っていた思考が弾けて、瞬時に力を込めてそれを拒否すると、どこにそんな力があるのか。
弁慶の腕を引きはがすべく抵抗を強められる。
彼女はとんだ誤解をしているのだ。
冗談ではない。弁慶は酷く焦りながら形勢を立て直すべく策を練る。
なかなか言葉に起こせない弁慶を、リンはどう思ったのかは分からない。
けれども悲痛に歪む嘆きの声が絞り出された頃、弁慶はなりふり構わずに言葉にしていた。
「僕と家族になるのは貴女だけだと決めています…!」
「!」
唐突すぎる求婚に空気が固まった。
リンはその目を間開いて困惑を露わにし、弁慶は支離滅裂な己の言葉に頭を抱えている。
けれども、本心である事は間違いない。一度ため息を吐き出して、リンを向き合う形で姿勢を正させる。
華奢な方に手を添えて、そっと囁いた。
「誤解なんですリンさん。僕は誰とも夫婦の契りなど結んではおりませんし、もちろん子供もいません」
「…そんなの、嘘です。あの男の子は間違いなく弁慶さんの血を引いていました。貴方の事をずっと…ずっと見ていたんです。見間違えるはずがない…っ」
「―――あの童は僕だと言ったら、リンさんは信じますか」
「……う、そ」
僕はうそつきですけれど、貴女を不安にさせるような嘘はつきませんよ。
どうしたら信じてもらえるのか分からずに、けれども本心をありのままに伝えた。
掴んだ肩にじわりと汗が滲むのは緊張の証。
涙を溜めて震え続けていたリンであったが、弁慶のまっすぐな眼差しを受け止め、次第にその目の端には赤が差し込んでいた。
困ったように視線を落としてふるふると震える睫毛が全てを物語っていた。
もう、大丈夫だ。
肩に置いた手をそっと頬へ。
優しく包み込めば、真っ赤な顔が飛び込んできた。その赤さに弁慶も笑う。
「…信じて、くれるんですね」
「………ごめんなさい、私、勝手な勘違いを、その…」
「君のせいだけではありません。僕はそれだけの行動をしてきた人間ですから」
それに、君が己を犠牲にしてでも相手を幸せにしたいと願う、優しい人なのを知っています。
そう告げれば、もう一度泣き出しそうな瞳を向けられて、弁慶は息が詰まった。愛おしさが胸にあふれて、止まらない。
二人の間の距離が0になる程に引き寄せる。驚いたリンをまっすぐに見つめて、そっと囁いた。
「僕と添い遂げてくれますね、リンさん」
想いの告白を越えて将来の約束を願い出れば、言わずもがな困ったように泣き笑うリンがいて。
けれどもしかと、深く頷いた。
それを見て泣きそうになってしまったのは、もう、仕方がなかったのかもしれない。
漆を塗られた柱が月の光に照らされて街灯のように優しく輝いていた。二人しかいない部屋の中、妻となる娘を抱き寄せ弁慶はリンに告げる。
「君が優しいのは知っていますが……いつか、僕を諦めないでいてくれるようになったらと思いますよ」
「……私にとって大切なのは弁慶さんで……弁慶さんが幸せなら、私は……」
“二人でいる事”が弁慶にとっての最上の幸せなのだと、気づいてくれる日が来ることを信じている。
今はまだそれが伝わらずとも構わなかった。災い転じて福となす。
その言葉通りの不思議な二日であったが、得たものは果てしなく大きい。
どうしようもなく控えめで、何よりも優しいリンを自分なしではいられなくするには―――――月明かりの下、新たな策を成すべく、弁慶は密かに笑った。