やさしいひと(弁慶長編:完結)
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03.怨霊
目を覚ました時に最初に飛び込んできたのは木目走る珍しくもない天井で、夢で見たような美丈夫などではなかった。
随分とリアルな夢を見たものだ。
私は咄嗟に顔に手を当て何かを深く噛み締める。
冬の川に勢いだけで飛び込んだ意気やよし、しかし重なる運動不足と冷水による筋肉硬直によって痙攣状態に陥った私を柔らかな物腰の美丈夫が救い出してくれるという何とも夢のような…夢を見ていたらしい。
夢なら覚めなくてもよかったなどと私らしかぬ言葉をうっかり漏らしてしまうくらいに、甘く優しい夢であった。
のそのそと低血圧の重い体を起こし、外を見やれば相変わらずの雪景色。
紙貼りの戸の隙間から流れ込んでくる風は肌を刺し、ぶるり身を震わせた私は未だ覚めやらぬ甘い妄想を旨に、隣の部屋へ足を向けた。
「…! リンちゃん!!」
障子を開けるや否や飛び込んできた女将の強い声に心臓が跳ね上がる。状況が理解できないまま強く抱きしめられたのだが、不意にその体が震えているのに気づく。
戸惑いがちに声をかければ、女将はうっすらとその目に涙を溜めてこちらを見やった。
私は、その目を見た瞬間に止め処ない罪悪感を芽生えさせることになるのだが、謝る言葉一つ形に出来ず、哀れ金魚のように口をぱくぱくさせて、震えるその腕に身を預けるばかりだったのである。
昨晩の記憶が蘇った私の中には、あれはやはり夢ではなかったのだという変な安堵感と、けれども心配をかけた事実と、我儘を言った反省とが複雑に渦を作っていた。
言葉というものは不思議なもので、一度詰まらせてしまえばどんなにそれが真実からのものであっても、音に出来た頃にはどこか嘘らしく響くものである。
ごめんなさい、と謝罪したい気持ちだけが喉の奥で空回りしているだけの私を、女将は不安がっていると思ったのだろう。
昨晩の出来事の説明をしてくれていたのだが、出来ることならば忘れてしまいたい失態である、居たたまれず俯く私であったのだが、一つ。
「…あの方が、弁慶、さん?」
「そうよ。…弁慶先生がこちらの宿まであなたを運んで来て下さって…いくらかの薬も置いて行って下さったの。本当に、弁慶先生には感謝しなくてはいけないわね」
「……そう、ですか。あの人が、」
―――武蔵坊弁慶。
その名と、かつての時代の自分の記憶の人物とは似ても似つかぬ姿であった。
現代人がこちらで昨夜の彼と対峙したところで何人がそうだと気が付けるのだろう。
昼間に店主が言っていた弁慶の噂話を思い出し、私はその噂の違わぬ箇所に思わず微笑んだ。
たおやかな物腰に、優しい人柄。
失態を晒したという恥ずかしさはさておき、彼はあの真冬の川の中に濡れること厭わず駆け寄り、見目奇妙な私を救いだしたのだ。
その上に、宿まで探しだし薬まで置いて行ったと。
出来すぎているほど出来すぎている話に、けれども疑いを抱かなかったのは、この世界の人々の優しさに触れてきたから…という理由だけでは決してない。
耳に残る記憶、彼の呆れたようなけれども優しい声掛けにそれが表れているような気がしたのだ。
「(きっと、本当に優しい人なのだろう)」
借りたあの外套もいつか必ず返しに行かなければいけない。
けれども今優先すべきことは、私の失態で、すでに発っているはずの京に未だに留まっている事態を解消することである。
残念ながら今から発ったところで、茶屋の午後開店には間に合わないがそれでも明日以降の営業に向けて準備があるのだ。今からでも発たねばならない。
「心配をおかけして…迷惑かけて、ごめんなさい」
けれどもまずは、何よりもこれが先であった。
反応が怖くて俯く私に、底なしに明るい茶屋夫妻は眉を下げながらも微笑み、赦しを与えてくれる。
実の家族よりも温かいその二人がただただ愛おしくて、二度と裏切るまいと固く誓ったのであった。
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大量の物資を背負って、宿を後にする。
背に負った包みの中には、親切な薬師の外套も含まれていた。
叶える事は出来ないが、もう一度顔を合わせ、きちんとお礼を言いたい――――そんな名残惜しい気持ちと共に東海道を上っていく。
また、会い見える事をただ願う。胸に一つの花が咲いた、冬の京での思い出であった。
「はい、ただいま――――お茶、3つお願いします」
この時代は平和そうに見えるがそれでも治安はさほど良くないもので、旅行などといった幾日をかけて故郷を離れる際は決して一人での旅などは出来ない時代である。
故にこの茶屋を訪れる人々は皆、複数で行動している。
従って、客を取るということは複数人を同時にもてなすということを指していた。
ぱたぱたと指定されたテーブルへと、茶と簡単な手絞りを運んでいく。
笑顔で手渡せば、よほど喉が渇いていたのだろう、その湯飲みは直ぐに空になってしまった。
深い雪で閉ざされていた東海道も、今や花が咲き芽吹きの季節を迎えている。
身を刺す寒さも和らぎ、春眠暁を覚えず。その言葉のまま朝寝坊をする頻度が増し、女将にあきれられながら目覚めるのが日課となりつつある。
季節の巡りと共に感じられるのは、この世界への慣れであろうか。この時代に落とされ早1年と数ヶ月が経過しようとしている。
随分とこの世界の成り立ちを理解し、馴染み始めてきたとこのところひしひしと感じているところではあるのだが、それでも馴染んでいく自身にどこか拒絶が含まれるのは、心中奥深くでは己の存在がこの世にとってイレギュラーであることを理解しているからなのだろう。
茶屋夫婦は今日もあたたかく、本当の家族のように接してはくれるのだが、それでも。
「最近、ここら辺りも物騒になってきたねえ……墨俣の辺りでは怨霊が出るようになったらしいと聞く…恐ろしい話だよ」
「怨霊…ですか」
「おや娘さん気になるのかい? …あんまり明るい話じゃあないんだよ」
ここの所客の会話の中で度々耳にする存在“怨霊”。
こう言っては身も蓋もないのだが、科学技術が発達した現代に生きていた私にとってお化けの類というのはどうにも信用できる話ではなかった。
何より、心頭滅却すれば火もまた涼し。が本気で信じられていた時代だ。
怨霊といえど所詮は何かの自然現象の起こした無害の噂なのだろうと思っていたのだ。
けれども、どうして興味を捨てることなど出来ただろうか――――怨霊が人を殺す、と耳にして。
「いや、俺たちも又聞きの話になるんだがね。源平の衝突がここの所しばしばあるじゃないか。その頃からかな…怨霊が各地で目撃されるようになったんだよ」
「はじめはあぜ道、荒れ野周辺に浮浪する姿が目撃されていたんだが、最近は京周辺でも出没するようになってきたらしくてね」
「何が怖いかって、普通の攻撃じゃあ歯が立たないことだよ…しかも何でも怨霊に取り殺された骸がまた怨霊として立ち上がったとか…」
次から次へと出てくる怨霊の噂に次第に表情は沈んでいく。
正直な感想としては、どれも自分の持っている知識で説明できそうな気がするというのが本音だ。
半信半疑の立ち位置から変わることはなかったが、興味深い話だったのは真実だ。
現に、店主に指摘を受けるまで、私は、旅人の席から離れることがなかったのだから。
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陽が長くなったことや猛烈な寒さが和らいだことからだろう、客足はその後も長く途絶えることはなく、茶屋が完全に営業を終えたのは春の夜も深まった頃であった。
てきぱきと効率よく店内を片す中で思い返していたのは、昼に客から聞いた怨霊の噂話である。
怨霊という存在を信じているわけではない。
驕りかもしれないが、やはり科学技術の進歩が著しいあの時代に生きていたからこそ、まじないの類など目に見えないものを信用する気にはなれなかった。
それでも気がかりだったのは、その怨霊とやらが“京周辺にも現れている”点である。
いかにその存在を信じていないとはいうものの、確認できない以上その危険が迫っているという噂は無視できるほど楽観的な性格をしていなかった。
夕餉の席でそれとなく夫妻に話をすれば、その表情は暗く険しいものになった。
夫婦が自分と異なる感覚であった可能性を失念していた自分の落ち度に後悔したが、その表情を夫妻は不安と受け取ったのだろう。
すぐに優しい笑みを浮かべ、不安を解消するように振る舞っていた。
「でも、京には九郎様がいらっしゃるから、この周辺もきっと守って下さるはずさ。心配する事は何もないよ。
それに最近は戦奉行様も京周辺に控えていらっしゃるようだから、この辺りは大丈夫」
どん、と胸を叩く店主にたまらなく胸を掻き立てられる。いつもそうであった。
この時代の人間は皆、不利な場合でも決して希望を捨て去らないのだ。根拠ないそれが例え“愚か”に映ろうとも決して。
そしてその底の遠いその信念で困難へと立ち向かっていく。
結果はもちろん決して幸せばかりのものではなくとも、それでも彼らは信念を貫き通すのだ。
その姿は酷く鮮明に、色豊かに輝いたものである。
現代にはとうに失われつつある魂の輝きに、私はただただ目を瞬かせたものであった。
その後も二、三小話を経て眠りに就いた。
明日は女将に下準備を任せ、店主と私は大津港の方へ向かう予定である。
京へ向かうより遥かに近いその場所ではあるが、私自身はまだ訪れたことのない鎌倉時代のそこである。
どのような光景が広がっているのか期待に胸を膨らませながら、そっと夢の世界へと旅立った。
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一夜明け、出立の準備を整えて東海道を上る。
京への旅とは異なり、大津への道は1里ほどもないという。
陽が天に上るまでに用事を済ませれば、夜道を行く客の足休めは出来るとの算段で私たちは肌寒い春の道を往ったのである。
木が生い茂る道に朝日が差し込み輝く光景、空気は澄んでおり、時折聞こえる鳥の鳴き声が可愛らしい。
気温の関係もあるのだろうが、大した汗もかかず、いい気持ちのままあっという間に到着した大津港はそれは物珍しい情景で構築された場所であった。
といういい方は適切ではないのだろうが、やはりどこか現代人という身分を捨て切れていない私は、素朴なその風景を作り物の場所のように感じられてしまうのである。
今も港には多くの船が行き交い、船頭や商人らしき人物らの取引が目に入る。
琵琶湖を利用し、北陸や美濃と取引を行った事より発展を遂げた近江の商人を近江商人と呼び、本州中部の重要な経済の基点であると店主は言っていた。
事実今日こちらに用があって来たのも、船で運ばれてくる北国の品を見てみたかったからなのだという。
昨今では周辺国以外の遠い地域からさらに運ばれてくる珍しいものも店に並ぶという事で、店主も商売魂がくすぐられたのかもしれない。
私も私とて、その内容には興味があった。連れられて店を見て回れば、陳列品自体はさして珍しいものではなかったのだが、販売形態が現代とかなり異なっていると感じられた。
北の国と店主は言っていたが、東北以北の事である。代表的な作物であるじゃがいもこそ見かけられなかったが鮭の塩漬けや、毛皮などが売られていた。
京の市は日用品や山菜の類が多かったように感じられたが、やはり湖国は違う。
魚が見られるとは思っていなかったのもあり、その光景を新鮮な気持ちで眺めていたのだった。
少しの滞在のつもりが、物珍しさ故にじっくりと見て回ったせいだろう。二人で大津港を後にしたのは太陽が下降を始めた頃であった。
家で待っているであろう女将にと二人で選んだ塩漬けの鮭が麻紐の先でぷらぷら揺れている。
浸屋の得意先の舟屋とたまたま出会わせた事もあり、漁師直伝の一押しの調理法まで教えてもらい、二人で今晩の料理への期待を高め、笑った。
それでなくても、焼いただけでも十分においしそうだ。内地で暮らしているとなかなか塩気のあるものが食べられない。
塩がたっぷりすり込まれた鮭を思い浮かべるだけで、口の中にじわり唾液が満ちてくる。
「完全に高血圧なメニューですけれどね」
「メニュー…は、献立のことだったな。 コウケツアツとはなんだい?」
時々こうしてうっかり未来の言葉を発しては、店主と遠い世界の話を楽しんだ。
最近になってようやく分かりかけてきたことなのだが、どうやらこの私が飛ばされた“鎌倉時代”はかつて授業で習った歴史の中の鎌倉時代とは異なる世界である可能性が高いようである。
この世界の先に私の生きていた世界が交じっていなくとも、曲がった世界を伝えることが憚った私は、増えるばかりの疑問の言葉をいつまでも持て余していた。
そして失望するのだろう、この世界が決して己が生きていた世界のように生暖かくなどない事に。
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大津港を発ってから数十分。
随分と茶屋へ近づいた道の途中、その先から随分と慌しい足音が響いてきた。
枝や葉を踏み鳴らすその感覚や狭く、構わず突き進む我武者羅な様子が感じられた。
もしかしたら山賊や追剥ぎの類かもしれない―――店主が私の前に出で、胸元に忍ばせていた短刀を手にした。
刃物。
決して道具としての存在意義ではないその刃の輝きにぞくりと悪寒が走る。
良質な切先ではない切先は何よりも鋭く私の目を射抜いたのだ。
調理のために肉を断つ為ではない。
造形のために房を断つ為ではない。
ただその刃物はどんな正答を纏っていたとしても人を刺す為に存在している刃なのだ。
店主の服を握る手に力を込めていいのか、否か。私は答えを出す事が出来なかったのだ。
確実に近づく足音。
その姿が見えた時、店主が緊張を解いたのが分かった。
けれども次の瞬間、その惑い人は血走った目をこちらに向け、絶望の句を放ったのだった。
「こっちへ行くな! 逃げろ!!怨霊がいる!!」
「…怨霊? まさか、」
「まさかなものか! この先にある茶屋もやられた、俺の連れもだ…ああ、いいから遠くへッ!!」
茶屋が。
私たちはただ駆けた。
跳ねた枝で身を切ろうと、すれ違う生存者の悲痛な咽びを聞こうと、全てを振り払いただ茶屋を目指し走った。
獣。その言葉そのものだったに違いない。
立ち込める焼ける木の臭いが濃度を増し、辺りを霧のように覆っていた。
こちらにやって来てから住み続けたはずのその場所であるはずなのに、周囲に蔓延る煙はすべてを覆い隠してしまい、ここが本当に茶屋であるのかを疑いそうになってしまう。
耳をつんざく禍々しい奇声に怯めども、それでも店主はその煙の中へ飛び込もうとはやんでいた。重さを増す、私の足とは対照的に。
「…!!」
「…駄目ッ!! おじさん!!」
「…っ、」
言葉にならない、息を吐くだけの精一杯の会話。
血走った目と、滲む脂汗とがただただ現実を突きつける。
未だ踏み込みきれない煙の奥の茶屋。私がこの腕を離したならば、店主は瞬く間にそこへと至るだろう。
けれど、駄目だと思った。
本能が第六感の警告音がけたたましい。今、冷静さを失って飛び込んでは決していけない。混乱の思考の中で唯一、それだけが冷静であった。
「根拠なんてありません、でも!」
「……リンちゃん」
そっと肩に手が置かれる。
量りきれず、私は顔を上げて店主の顔を見た。その瞬間、悟った。
ほんの少し冷静さを取り戻したらしい店主は、いつもの優しい瞳で真っ直ぐに私を見ていた。
駄目、言わないで、その次の言葉を。
私の声にならぬ願い空しく、それは空気を裂いて射抜くように鋭く、真っ直ぐに私に突き刺さった。
「お前はいきなさい。巻き込まれてはいけない」
放たれた言葉と共に突き飛ばされた体は立ち上がること許さず、その場に縫い止められる。
顔をまっすぐに上げられた頃にはもう店主の姿は近くにはなかった。深い煙の奥で恐ろしい声が上がるのをただただ、絶望の眼で見つめるだけであった。
大粒の涙が膝を濡らした。
指先は温度を無くした様に冷え固まり、喉の奥が焼け付くように震えている。
刃がぶつかり合う音、ぱちぱちと火が木を焼く音、熱風の轟き、そして、大きな崩れ落ちる音。もう思考は正常になど働いていなかった。
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影縛りを振りほどき闇雲に煙へと突っ込んだ。
吹き荒れる熱風と沁みる灰風を掻き分け進んだ先、橙に浮かび上がる炎の館の端に見まえた女の亡骸。
頭部を覆う見慣れた着物は先ほどこの手に掴んでいたものと同じだ。掠れる悲鳴に抉られる喉の痛みに、酷く咽いでは頭を振る。
焼き飽きた炎たちは徐々に鎮火を始め、煙が薄まってくると亡骸から少し離れた土に転がっていた、事切れた男と武者の鎧。
思わず息を詰めて駆け寄れば、虫の息だがその男は意識があった。怒鳴るように叫ぶ。
「しっかり…っ しっかりしてくださいっ! 死なないで…死んじゃだめッ!!」
何度問いかけようともその身を揺らそうとも虚ろな意識は戻ることはなく、緩んだ瞼の下で白い眼球が揺れるのを見た。
縋る言霊でどれだけ意識を縛ろうとしてもそれは嘲笑うかのようにすり抜けて煙と溶け込んで雲散される。
無常。その状況の中それでも必死で叫び続けたが、終ぞ意識が戻ることはなかった。
けれども、抱き上げた私の腕に、焼け付く肌が触れる。
右腕に重ねられた、焼け焦げた、店主の、大きな手であった。
まるで諭すように慰めるように触れたその爛れた手が胸に残したものは計り知れないものとなる。涙を堪えて、私はその手に己の手を重ねた。
言葉はもうどこにもなかった。
しばしその状態から動けずに佇む内に、炎は周囲を巻き込み尽くしたのか殆どその猛々しい姿を潜めていた。
真っ黒に焼け焦げた周囲は見るも無残な炭の山と化しており、ここに本当に茶屋があったのかすらも疑わしいほどである。
とうとういなくなってしまった店主と女将だったその骸をなんとか寄せて、布を被せた。
冷静になって思い出される、あまりにも唐突な別れに、それでも心も思考も十分には追いつけなくて、ただただ呆然と骸を見下ろす事が出来ることだった。
それでも、ここにいつまでもいられるわけではなくて。
今にも崩れ落ちそうな茶屋へと近づく。
毎日律儀に畳まれた布巾も、編み上げた蔦のコースターも、木製品のものはほぼ全て見つけることは出来なかった。
足場を見やりながら住居部へ進めばここもほぼ同等で、ささやかながら充足していた暖かな団欒の場などなかったかのように黒が支配している。
吹き飛んだ陶器の欠片との床のその先、押し入れがあったと思われる場所にすすけた箱を見つけた。急いで駆け寄り中身を確認すると中には見覚えのある布地が入っていた。
「……弁慶さんの」
外套―――――もとい、袈裟であった。
取り出してみると蒸し焼き状態になっていたせいか、触った感触に生地への痛みが感じられたが、それ以外は穴などもなく無事であった。
ほとんどが焼け失われたこの家で、唯一残ったのは他人の私物で。私は思わず俯いて笑った。
抱きしめた袈裟は何も答えてはくれないが、歩みを止めることができない希望を与えたというのは皮肉である。
返さなくてはいけない、この袈裟を返すまで歩みを止めてはならない。
借りたものを返すことへ生への執着を見出すほどに、私はもう何も残されていないのだ。
「京に、行けば…………」
会えるだろうか。
その言葉は発することが出来なかった。
背に感じた熱い筋。
それが何であったか、確認をする前に凄まじい痛みが走った。
あまりの衝撃に前横に倒れ肩を抱く、しかし体を丸めれば丸めるほどに背の痛みは増した。引かれる皮膚の感触と流れ出る滴りは間違いなく血であった。
慄きながら死にもの狂いで身を転がし後ろを見れば、そこに立っていたのは人ならざるものであった。
「あ……あ…………」
頭蓋骨ままのその姿は、目玉のない暗い闇穴をこちらに向け、じりじりと距離を縮めてくる。
その頃には背の痛みなどどこかへ吹き飛んでおり、面前の異常事態に腰を抜かしていた。
逃げなくてはいけないと本能が叫んでいるが、体の手足がそれに応えられない。
がくがくと震える手足に、間開かれた瞳と全身から噴き出る汗、痙攣を続ける唇。
鈍い光を放つ短刀を手に、それは一歩一歩近づいてくる。
いつの日だったか、茶屋を訪れた旅人が言っていた。
「(何でも怨霊に取り殺された骸がまた怨霊として立ち上がったとか…)」
「ど……して………」
その人ならざるもの――――――“怨霊”は茶屋夫妻の服を纏っていた。
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「なあ、聞いたか…いよいよここら近辺でも怨霊が出たらしいな…」
「ああ聞いた。何でも大谷辺りで出たとか……東海道沿いの茶屋周辺は悲惨だったらしい……こりゃあ生存者は…いない、よなあ……」
京に程近い近江の大谷で怨霊が一地域を食い尽くしたという噂は瞬く間に人々の間に広がっていた。
事件が起こってほんの数時間後には京一帯にその噂が広がっていたほどで、人々は恐怖に震えていた。
店は早くに閉じ、傾く陽に比例して人々も散り散りである。
足早に人々が岐路につく中、その二人の男も大通りを歩いていた。周囲は徐々に橙に染まり、長い影が濃度を増す。
今晩は久方ぶりに呑もうと思っていたんだけれどなあ、と危機感よりも事態により愉しみがお預けになったことを不服そうにしている。
連れの男はというと困ったように眉を下げながらも、相方よりは不安を抱えているらしく、その足取りはどこか心もとない。
二人は所詮幼馴染の腐れ縁と呼ばれる間柄で、二人仲良く実家へ戻るところであった。
そんな時である。
道の向こうから小さな影がやってくるのを見た。
二人はさして気にも留めず通り過ぎようと思ったのだが、その人影は覚束ない足取りで今にも倒れそうなほど儚かったため、次第に不安を掻き立てられた。
浮浪者を装い追剥ぎをする輩など京にとて存在するのは事実だ。しかし相手は一人、しかも見るからに小柄である。
男達は互いの顔を見合わせ、警戒心を解いて歩みを再開したのだがそれはすぐに駆け足へと変わった。
「!! お、おい!?」
「それより見ろ、あの袈裟は…っ」
急にその場に倒れた人影に思わず近寄り抱き上げた。体に合わない大きな袈裟がはらりと落ちると、その美しい顔が晒される。
けれどもその顔面はまさに蒼白。
抱き上げた人の背に触れれば、そこから袈裟に染み渡るほどの出血が見られた。けれどもそれは固まり、袈裟が背に張り付いている状態である。
恐らくこの袈裟の下にはこちらの血の気が引くような怪我が隠されているのだろう、男達は酷く狼狽した。
この時間である、既に怪我を診られるような人間は退散していたし、常駐軍にならば専属の僧医も在ろうが生憎そんな伝もない。
「ああ…!!畜生、どうすればいいんだ、こんな時間に僧医なんか、」
「いや、待てよく見ろよ、この袈裟。さっきは影でよく分からなかったが、やっぱり」
「…本当だ、これって多分……弁慶先生の袈裟と同じものだよな?」
男の腕の中でぐったりしているその人の袈裟を差して、相方の男が言った。見間違うことはない。
「今晩は…先生は……いるかどうか分からんが…行くしかない……! 急ごうッ!」
抱き上げたその人が酷く軽かったことに戸惑いながら、男は五条大橋へと急いだ。
我らが界隈の救世主、武蔵坊弁慶の身を寄せる小屋へ向かって。
不幸中の幸いであった。
男達は五条大橋付近の河川敷で生活をしている人間達であったのである。