やさしいひと(弁慶長編:完結)
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29.プロローグ
白銀の季節は過ぎ去り、京の街に華やかな春が訪れていた。
五条の橋から眺める景色も以前のものとは打って変わり、活気に満ちた賑やかな声が響いており、川の流れも淀みない。
遠く見える鞍馬の山には雲珠桜が咲き乱れ、淡い桃色を春の景色に添えている。
川原で洗濯をしながら世間話に勤しむ主婦らの会話こそ聞き取れないが、目を凝らして映るその口元の緩みに見える、平和の証。
つられ、弁慶も微笑んだ。
「あ!弁慶先生…!」
「本当だ、先生!お久しぶりです!」
掛けられた声に振り返ると、そこには五条の若き青年二人が息を切らせ走り寄ってくる光景が映し出される。
思わず後ずさってしまいそうなその迫力は春の穏やかな日に不釣り合いにさえ見えるが、その笑顔は朗らかで温かい。
薬でも切れたのかと尋ねれば、青年二人は静かに首を振る。
ならば何かご用でも、そう質問を変える弁慶に、青年二人は恥ずかしそうに頬を掻きながら「相変わらずですね」と苦笑した。
「いや、先生がご機嫌そうに見えたので。なんとなく声をかけちまっただけです」
「おや…それはそれは」
「ここにいた時も、先生はずっと固い笑顔を崩さなかったからな」
洞察力に言葉が詰まる。
さすがは五条の豊かな人々…と賞すればいいのだろうか。
どれだけ貧しくなろうと、不幸な地域だと蔑まれようとも決して折れず、逞しく生き続けた心の豊かさ。
その笑顔に、弁慶の胸にもあたたかな光が差し込む。
「君たちと話をしたいのは山々ですが、生憎僕はこれから行くところがありまして…」
「母ちゃんがヨモギの団喜を作ったって言ってたんだけどなあ。先生にも食べてほしがってたんですけど…」
「おや、それは残念です。しかし、大切な用事なので…またの機会に、と母上殿にお伝え頂けますか?」
ひらりと手を振り背を向ける。随分と進んだ先、気まぐれに振り向いたのだが青年二人は橋の上を離れることなく弁慶を見送っている。
その底なしの人の好さに呆れながらもどこか嬉しく思い、弁慶も一度頭を下げ、今度こそ完全に彼らから姿を消した。
向かうは櫛笥小路…梶原の邸である。
物思いに一人耽る間には得る事の出来なかった足の軽さに押されるがまま、たどり着いた見慣れた門を抜ける。
昨晩の雨で湿気る土は足音を吸収し、いつもならば出迎えるはずの住人は出て来ない。ただ、今はそれが丁度良かった。
一度の深呼吸―――からの、合図。戸を引き、顔を見せたのは随分と穏やかな表情を見せる黒龍の神子―――朔であった。
「どうぞ、弁慶殿」
「ありがとうございます」
もてなしの茶の傍に舞い込む桜の花びらは優雅に、開け放つ窓から風を連れて香り立てる。
薄緑の茶の若々しい香りは爽やかに、麗らかな春の午後の日と馴染んで、うっかり眠気すら誘われてしまいそうであった。
龍神の導きという責務の解放から早幾月。八葉の責務から放たれた一行は、それぞれの生活へと袂を別ち、今は左程顔を合わせる機会もなくなった。
弁慶は軍師という身分に身を置いてはいるものの、源平の戦が集結した今、その腕を奮う機会は少なく、また弁慶自身も第一線から退く心持ちでいたのであった。
――一人の人間として。幸いか、得ていた薬学の嗜みを十二分に活用し生計を立てているこの頃、折りを見てはこの邸に立ち寄るのが習慣となっていた。
喉を通る茶はゆるく、乾いた喉を潤していく。
いつもと違い、今日は理由あって意思を持ち赴いたのだ。
緊張で乾く喉が力を取り戻したところで、弁慶は目の前の娘を見つめる。
いつかのように新月の神秘な様子―――虚ろな儚さは随分と成りを潜めたものであった。
短く切り揃えられた髪こそ、彼女が尼僧であるということを思い出させるが今はその表情は花開く可憐なものへと変貌を遂げている。
そう、弁慶は思った。
「今日は、黒龍は…」
「昼寝中よ。昨晩の雨を鎮めようと躍起になっていたから…まだまだ幼くて、危なっかしいの」
くすくす、と手を当て笑う朔の顔に焦りと安心とが織り交ざったような、複雑な気持ちが芽生える。
白龍が時空の狭間へと姿を消し、京の平和の守りへと還った後、生み出されたのは黒龍であった。
新たに生じた、そう言うには無粋であったが、ある日天から降るように現れたというその新たな龍神の誕生を、朔は涙を流し喜んでいた。
過去の文献や龍神の理、龍脈の仕組みにより、黒龍の消滅後、新たに生じると信じてはいたがどこか不安に思う気持ちもあった。
しかしその予想通りに生じた黒龍にほっとしたのも束の間、芽生えたのは「朔がそれを受け入れるか」という不安である。
厳島での決戦、意識として朔の前に姿を現した“彼女の夫である黒龍”は、言っていた。
「記憶を全て失い、新たに生じる」と。
弁慶が朔に黒龍の消滅に関する告白を行った時も、その黒龍が本当に消滅すると言った時も、朔はそれを受け入れると言っていた。
…しかし、その赦しに甘えるつもりは毛頭なかった弁慶は朔の言葉とは別に、黒龍と朔の様子を見に来ていたのである。
立ち寄っては、様子を見守る。
その度に心は不安となり、本当によかったのか、罪は許されたのか―――そんなことばかりを考えていた。
「…今日は実は朔殿に大切な話があって参ったのです」
「やはり、そうなのですね。…今日の弁慶殿はいつかと同じ、覚悟を決めた目をしていたもの。きっと何かあるんだと思っていたわ」
相変わらず鋭い。内心冷や汗をかきながら、朔の淹れた茶を飲み干す。
おかわりを、と席を立つ朔を呼び止め、弁慶は姿勢を正して彼女と向き合う。
うららかな春の景色にそぐわない、寒々とした表情で。
深く、深く、頭を下げた。
「朔殿に改めて謝罪をしたいと思って来たんです」
「私に?」
「…黒龍が新たに生じたからいいようなものの…けれども彼は、朔殿と夫婦となった黒龍ではないでしょう。…それは」
「それ以上言うと、いくら弁慶殿でも怒りますよ」
「…朔殿」
ぴしゃり、と言葉を遮られる。
思わず顔を上げ映した彼女は言葉とは裏腹に、随分と優しい面持ち弁慶を見ていた。
眉を下げ、困ったように微笑む顔は幾度も見てきた表情であるはずなのに、そこに“諦め”は存在しない。
ただただ“呆れ”を語っていた。無論、弁慶に対してである。
「確かに、あの子はあの人ではない…でも、一緒に暮らしていて、気付いたの。あの子の中にかつての私への想いが残っている事に」
「……それは」
「日に日に、言葉を覚えて、人の気持ちに触れて―――感じた気持ちや想い…その心を私に伝えようと、言葉を探すの。そんな所も、あの人と同じ」
多くの人が当たり前に、息をするのと同じように行うそんな行為を、彼は必死になって会得しようともがいている。
意地っ張りで子供っぽくて、怒りっぽくて。器は違うもののはずであるのに、一つ一つが全て過去の記憶に繋がっているのだ。
胸に広がる深い海から息継ぎをして、朔は弁慶と向かい合う。穏やかな笑顔で、そっと伝えた。
「私は今、幸せです。弁慶殿」
「……」
「謝ってもらう事なんて何もないわ。けれど、一つだけ言わせてもらおうかしら」
身構える弁慶に、朔は余裕の表情で向かい合う。朱の衣から伸びた白い手は人差し指を頂に、そっと突き立てられる。
リンがよく弁慶の口を封じる時に添えた“注目”の手遊び。
「弁慶殿の幸せが、リンの幸せなのだわ」
―――黒龍の幸せが、私の幸せと同じなように。
いつまでも罪が、罪がと引きずっていてはいけない。もう十二分に贖罪へ立ち向かった、そう朔は告げた。
「弁慶殿がいつまでも罪を引きずっていては、まるで私が幸せでないみたいじゃない」
くすくす、困ったように笑う朔の瞳にはやはり“呆れ”が含まれていた。
ぱたぱたと軽い足音、軽快なそれは奏者の迷いの感情が読み取れる。
誘う言葉をかけられたそれはしるべを得て、徐々に音量を上げていった。
現れた少年は黒い髪をさらさらと揺らし、高揚した頬を隠しもせず近づいてくる。
と思いきや、表情が読み取れる近さになったところで、急にそっぽを向いて“何ともない”と言いたげな表情を作っていた。
確かに、これは相当な意地っ張りだ。朔と顔を見合わせ笑う。
“新たに生じた黒龍”も、今はかつての、子供だった白龍と同じくらいの歳になったのだろうか。
まだまだ体は小さく、朔の腰ほどまでしかない身長ではあるが、初めて蘇った冬の日を思えば随分大きくなったものだ。
足を通わせる度に少しずつ大きく、言葉を、気持ちを理解していく姿は新鮮で、その吸収の早さに驚く。
もちろん、龍脈が正され人々が誠実に生きているからこその成長の速さなのだろう。
神子が残して行った世界で、確実に“平和”は育まれている――――ものの四月ほどで、十ほどの年齢になった。
彼がかつての黒龍のような年齢になるまであとどれだけの年月か―――弁慶は馳せる。
その弁慶の視線を追って、朔が重ねる
「あっという間でしょうね。黒龍は最近特に成長が早いの。…坐なんてすぐ必要なくなるわ」
「そうだといいんですが。……僕も寿命に限りがあるので」
何年だって待つと誓った。
寿命を満たしてしまったら、また生じて会いに行くと言った。
その覚悟は今も弁慶の胸に深く刻まれている。―――けれど。
「(…君がいないと、こんなに淋しい)」
一年前の春の日はあんなに近くにいたというのが夢のようだと弁慶は思う。
意味もなく胸に抱き寄せ、背の刀傷をなぞりながら蜜月のように慈しんだあの夜も、春風の温かさも、昨日の事のように思い出せるというのに。
映し出す春の夜の霞は夢物語で、どこを探せど想い人の残り香すらも辿る事は出来ない。
言葉にしてしまえば壊れてしまいそうなその想いは脆く儚く、そして何より真実であった。
――分かってはいる。けれど。
「(抱きしめたい。君のぬくもりをこの胸に)」
―――感じたい。
「本当に、いけない人です」
誇り高き源氏軍。
皆がたじろぐ非情な軍師を、色恋に呆けるただの男に変えてしまった異世界の娘。
手持無沙汰に袈裟を手繰り寄せて、慰みにと手を擦り温める。
開いた手のひらを撫でるように触れていく春風は、まるで優しく、恋しい娘を思わせるようなそぶりで弄ぶ。
幾夜の一人寝の物寂しさを分かち合いたいだなどと愚かな事は申すまい。けれど、けれども。
胸を焦がすだけで済むのならば、その熟れた心をまた育めばいい。
焦れる体は鎮める事もいと歯痒く、随分と紳士の仮面を消費したようにさえ思われる。
兎にも角にも、これ以上自給自足の慰みは淋しいのだ。ただ、それだけ。
「…弁慶殿、煩悩が過ぎます」
「おや、声に出ていましたか。僕も随分ゆるくなったものです」
頬を染めて遺憾を示す姿を見ても悪びれない、弁慶の心は上の空だ。高く高くつき上げる空の向こう、探すのは同じ人。
「これは随分と重症だわ…リン、帰ってこない方がいいかもしれないわよ」そんな朔の悪口もどこ吹く風だ。
「尼僧には少々毒な話でしたね」
その言葉でとうとう弁慶は邸への侵入を禁じられる事となったのであった。
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梶原邸への出禁を命じられてから幾月。
桜が散り、新緑が芽吹き、濃緑、そして枯葉。
春によく似た気温の、豊かな四季が訪れていた。人恋しいと、肌寒い春の夜を越え迎えた対の寒い夜は物理的な寒さだけではない。
心の隙間を流れていく秋風の侘しさに、幾度も薬草を煎じる手は止まった。
さわさわ流れる川の音に変化はないのに、短くなる陽の橙の濃さに不意に隙が生まれてしまう。
こんな弱さを携えていては甲斐性もないと、自信はしなり、ぶるぶると震えてしまうがそれもまた秋のせいだと蓋をする。
六条の屋敷の広さが寂しく、最近はすっかり寄り付かなくなってしまった為に、時折九郎が様子を見に五条の小屋にやってくる始末である。
九郎にまで心配されるとはずいぶん落ちぶれた、とぼそり呟いた時の九郎の真っ赤な顔が忘れられない。
そんな、物思いに耽っている弁慶の耳に届いた、軽快な足音。
草をかき分け進んでくるそれを出迎えれば、扉の前に姿を見せたのは少し髪の伸びた、尼僧の姿。そして。
「……黒龍、ですか?」
「久方ぶりですね弁慶殿。九郎殿から聞きました、随分しなやかに、まるで深窓の姫君のように儚く生きていらっしゃると」
「久しいというのに随分ですね朔殿」
軽い嫌味のようなやりとりももう慣れたものである。
すっと身を引き、再度視線をよこしたその先、すらりと背の高い男の姿があった。
随分と男前になった黒龍の大人の姿に息を飲む。
しかし、白龍のような神秘的な雰囲気が薄いのは、やはり人の世で育まれ、成長したからであろうか。
真っ直ぐに瞳を見つめても、物怖じの恐怖は襲ってこない。
黒龍の意地っ張りな性格は健在のようで、弁慶と対峙しても小難しい表情を崩す事もせず愛想という愛想がない。
朔に肘でつつかれるが譲らない。仕方がない、と一度ため息を吐き出して朔が説明を始めた。
「…リンが戻るようなの」
「!」
「黒龍に力が集まって、そろそろ歯止めも必要なくなりそうだから…と」
心臓の音が激しく鳴り響く。
どくんどくんと跳ね上がるように脈打つそれは息苦しくも、喜びに満ち溢れており、どう処理していいかが判断できない。
急に怖気ついてしまう自分が情けないと弁慶は思った。
春の日から今日まであんなにも慕情を織り上げたというのに、いざそれが叶うと思うと戸惑いに満ちてしまう。
幸せを得るには対価が必要だと、そのような世界で生きていたからであろうか。
しかし、その恐怖を振り払う。
心に素直に、と幾度も言い聞かせた。朔は言った。
『自分が幸せであれば、リンも幸せである』と。二人で幸せになろう、とリンに告げた言葉を思い起こす。
覚悟を決めて、朔、そして黒龍を見つめた。
「――――さあ、綻ぶよ。戒めの真言…しかし随分と、白龍は無茶をしたようだ」
その言葉を皮切りに、橋の下の遊び場に光が満ちていく。
目映いそれは清らかなる白光、平和を縛る為だという業など感じさせない神秘の香りが一面に広がる。
その光の強さに思わず顔を覆えば、耳に届く微かな鼓動。
とくん、とくんとゆっくり響くその音は次第にはっきりと形を浮かび上がらせていく。
光に負けじと弁慶は瞳をそこへと飛び込ませた。
真っ白な光の先…薄らと浮かび上がってくる人影。
身を抱くように丸まっているそれは、紛れもない女性の輪郭。
長い髪、華奢な腰、そしてすらりと伸びる手足―――均整のとれた、美しい躰。
「……リンさん」
彼女を包み込む光たちがひとつ、またひとつと傍を離れ消え去っていくにつれ、鮮やかになる彼女の肌色に目を囚われる。
そして、その髪色――――それはもう、鬼子と呼ばれた白髪などではない。
絹糸のようだったそれは、櫛を通せば一層艶やかに輝くだろう―――“人”としての色を含んでいた。
「それが、本当の君の姿ですか」
問いかけにリンは答えない。
長い睫に隠された瞳は未だ開かず、ふわりふわりと身を漂わせるばかりだ。
彼女を包み込む光が次第に弁慶の元へと降りてくるのを悟り、袈裟を外して腕を広げた。
雪が降るように、そっと舞い降りるその緩やかな速度へのもどかしさをこらえ、手を伸ばす。
ふわり、と広げた袈裟の腕に舞い降りたリンの体は温かかった。
隠すように袈裟で包み込めば、そっと震えた瞼の蓋に視線が集まる。
―――そっと、開いた。
「…リン、さん…?」
「…本当に、待っていて、くれたんですか」
ぽたり、ぽたり、と。
大粒の涙が流れる。
そっと弁慶は指を寄せてそれを拭えば、感極まるリンはその指にさえ頬を寄せて喜びを伝えた。
その姿に、弁慶も感極まる。
抱き上げたその華奢な体を、折れそうな程に抱き寄せ身を合わせた。
まるで一つのものが離れまいと寄り添うように。何人たりとも、二度とその二つを引き裂かぬようにと、強く、強く。
「弁慶さん…っ……弁慶、さん……ごめんなさ…っ……ごめんな、さ…い…」
わあわあ泣きながら頭を撫でつける、長い孤独な日々への心の丈を掬って、ただ言葉もなく抱きしめ続けた。
やっと、手に入った愛おしい人。
抱きしめるその肩の細さも、香りも、全てが待ち焦がれたただ一つの存在だ。
「…おかえりなさい、リンさん………今までずっとありがとう」
まるで初めて生を受けた日のように。
二人はただただ泣きながら、いつまでも抱き合っていたのであった。
fin.