やさしいひと(弁慶長編:完結)
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ぱちぱちと燃えるたき火を見つめていた。
少し離れた視線の先で赤く燃えるそれは闇を照らし、暖を与えてくれる。
リンの立ち位置から、眺めるその光景の中に、いろいろな人種を見た。
暖を求め集まる者。
拒否し、背を向ける者。
薪をくべる者。
火を消そうとする者。
肯定と否定が織り合わさるそのたき火は、人が集うに連れて勢いを増し、火の粉を噴き上げた。
熱を携えたその火の粉ははらりはらりと周囲に舞い散る。
リンは、それを振り払う事が出来なかった。
肩に、足に、髪に舞い降りる火の粉は熱く痛みを与えてくる。
目の前に火の粉を振り払う者が現れた。
熱い火の粉で生じる痛みを「嫌だ」と言い、振り払う。
払われた火の粉は――リンへと降り注がれた。
「(振り払えないよ。私が振り払ったら、それは別の人に降りかかってしまう)」
それは、とても、つらいことだった。
痛いのは嫌だった。
でも、嫌とは言えなかった。
嫌だと主張する痛みよりも、熱に焼かれる痛みの方が耐えられた。
―――例えそれが“間違っている”と言われ続けたとしても。
28.終幕
意識を戻す。光に照らされる場所からの観客席は暗く、望美の表情は窺えない。
白龍の真言が効果を表しているのだろう、手足の先端から徐々に感覚が失われていっている。
血の巡りが感じられない―――動かすことが物理的に難しくなってきていた。台座に変わり始めている。
完全に台座になってしまう前に、言ってやろうと、傷つけてやろうと。
隠し続けた自己中心的で汚い心が出張ってくる。
仕方がない、私は、望美の事が嫌いなのだから。
「大っ嫌いだった、あなたの事。元の世界にいた時から、ずっと、ずっと」
「リンちゃん…」
リンの言葉に白龍が反応するのが分かる。ピシリと走った嫌悪の波動が、空気を裂き、張り詰めさせていたからだ。
坐の分際で神子を貶す、そんな怒りが取って見える。
その心の動きを悟った弁慶が、白龍に薙刀を向け、牽制した。
今はリンの言葉を聞かねばならない。
白龍に力で対抗したとて恐らく勝ち目はないのだ、神子と坐とのやりとりを経て活路を見出す。
「(きっと、見出せる)」
震える拳を握りしめ、弁慶は必死で己を鼓舞した。心を折ってしまえば願いは叶えられない。
リンにとっても望美にとっても、この衝突は必然で、乗り越えなければならない試練なのだ。
そう、言い聞かせ舞台を見つめる。白龍も押し黙り、身を整えた。
「嫌だとか、間違ってるとか。あなたはいつも自分の正義ばかり通そうとして人を困らせる。人はあなたの願いを叶えるための踏み台なんかじゃないのに」
「誤解だよリンちゃん…!私は、そんなつもりじゃ…」
「何が誤解なの!?あなたが時さえ戻さなければ、あの子は今も生きていた!あなたの大切な何かの為にあの子は死んだ…!」
一度きりの人生だから、今を懸命に生きている。
それなのに、あなたはそんな人達全ての気持ちを踏みにじった!
「禁忌を犯しながら、その業に気付かない事があなたの罪だわ…!!」
悲痛な叫びが響き渡る。
それは空気を裂くように、それぞれの耳へと届いた。
リンの頬に流れる大粒の涙が舞台に落ちる。止め処なく流れ出るそれを止める事はもう出来なかった。
指先から手のひらにかけて、じわじわと進行を続ける肉体の変化。
視界に自分の腕も手も映っているのに、自分の意志で動かせなくなってきていた。
白龍が真言を読むことを再開すれば、あっという間にこの身は台座へと変わるのだろう。
リンは最後にするつもりで、望美と向き合った。
大嫌いだった。
何度もその憎しみを殺した。奪われた日もあった。
けれど、感情を奪われ凪いでいく生活に身を任せても、未だ消し去りきれない心が宿っている。
そして、時を経て、感情とがぶつかって―――彼女は変わった。
人の気持ちを思いやる心。それを得た。
「でも、あなたがいなければ……ここに誰もいなかった」
「……」
「――――弁慶さんも、いなかった」
「リンちゃん…やっぱり、あなた…弁慶さんの事…」
初めから何も変わらなかったのは私だった。
全てを受け入れるだなどと、運命に抗う事もせず、受け入れて嘆くだけの人生は楽だった。
望美のように人とぶつかり、許し、許されをひたすらに避け続けた結果がこれだ。この手には何一つ掴めていない。
愛しい。愛しい。愛しい。
たったその一人を手に入れる事も、最初から諦めていた。
ぶつかる事をも避けた。あんなに近くにいたのに、幾度も歩み寄りたいと伸ばされた温かな手を払ったのは誰のせいでもない。
全て、自分の心の弱さだった。
―――ならば、最後に、せめてでも。
そんなどうしようもない人間の人生だけれど、それを自分で肯定し、幕引きするのもけじめだろう。
涙で滲む視界に望美を捉え、一度微笑む。困惑に満ちる翡翠も、全てが終わればきっと元の輝きを取り戻すだろう。
全ては長い長いお芝居の中の夢物語だった。そう思ってくれたらいい。
「お願い…。弁慶さんを、幸せにしてあげて。あなたが必要なの」
「…何を言ってるの?」
「あの人は救ってくれる存在をずっと探していた…贖罪を遂げた今、彼に必要なのは私じゃない。前を向いて共に歩める存在、あなたのような存在だわ」
私は、その贖罪の先、永久の安定を捧げるだけ。それが私の幸せであり、願いだ。
そう告げるリンは心底幸せそうな笑顔を見せた。先程まで望美を責め立てていた激しさも、己を責める弱さも何もない。
ただひたすらに愛しい男を想い、微笑んでいた。唯一守り続けた“愛情”それに満ちた姿で。
打って変わり、望美は顔を険しく歪め、リンを見つめている。
その手は小刻みに、噛み締められた唇はわなわなと震え、今にも爆発してしまいそうだった。
「……っ………弁慶、さん?」
震える拳の憤りのまま、放ってしまおうと望美は顔を上げたのだが、視界の端に映った黒い色に意識を持って行かれる。
黒い袈裟を纏う柔らかな笑みの男。
後方に控えていたはずのその男は、望美の横までやってきた。
支えていた朔を望美に託し、薙刀を控え、顔を上げた。
袈裟で隠された表情は望美の位置からは見えない。
しかし、その顔は真っ直ぐにリンのみを見つめていた。
「ありがとう、望美さん」小さくそう告げた男―――弁慶はゆっくりと結界へと近づく。
いつもと変わらぬ優しい声が、リンンへと向けて、放たれた。
「…帰りましょう。一緒に。君の居場所はここにあります」
伸ばされた手は結界に弾かれ、傷つく。
思わずリンもそれに反応するが体はもう動かない。
その様子を弁慶は悟り、切羽詰まったような表情を一度浮かべた。しかし、それはすぐに元の優しい笑みへと戻される。
幼子相手に恐怖を与えぬように、そっとリンの心に降れようとしていた。
「リンさん…怖がらないで。僕はずっと君の傍にいます。……僕は、」
「ありがとう弁慶さん」
確信に触れる言葉を先読み、リンは感謝でそれをかき消した。
続く言葉は分かりきっている。
ずっと、前から、知っている。
五条で共に暮らしたあの日から、あの春の夜から、彼はずっと勘違いを続けている。
もっと強く傷つけなければならなかった。この期に及んでまだ、彼は――――やさしい、嘘を、私に。
「…あなたは本当にやさしい人………でも、もう、そんな嘘……いらない」
「嘘なんて一つもありません。君は僕の心に、誰の力を借りることなく触れてくれた。気付いてくれた。そんな君に…僕は次第に深く惹かれていた」
やめて。やめて。聞きたくない。
せっかく坐として生きる決意を固めたのだ。今更その決意を揺るがすような言葉など聞きたくない。
例え嘘でも、私は、喜んでしまう。
“人”として生きる希望を、抱いてしまう。
「君が好きです。リンさん」
「聞きたくない…!そんな嘘は…っ!そんな優しい嘘なんていらない!!…白龍様!!」
「――――お喋りはここまでだよ、弁慶。これ以上“感情”を揺さぶられては困るんだ。弁慶への“愛情”に気付けなかったのは私の誤算だが―――もう、引き返せない」
「!」
「結界能力は多少弱まるかもしれないが、このまま坐とする」
無慈悲な言葉の後、白龍は再度印を結び真言を唱え始めた。
すると進行の止まっていた光の浸食が動き出す。
滲むように、ゆっくり、ゆっくりと真言に合わせリンの体が変化していく。光の薄い指先、目を凝らした先に映ったのは、荘厳な装飾の台座の端であった。
真っ白なそれは何者にも汚されていない、純白の雪を思わせる清純さで。
その美しさに白龍も思わず見惚れたのか、感嘆のため息と共に呟きを漏らす。
「――最高の坐だね…。精神制御は今一歩だったけれど、肉体の方は神子と共にいたからか、清純を保てているようでよかった」
「…どういう、ことなの…?」
「坐になるにはいくつかの条件があるんだよ、朔」
望美に肩を借り朔が問う。先ほどの白龍の威嚇に痺れた体はまだ回復しておらず、時折恐怖に体を震わせていた。
しかし、朔もリンの身を案じている。身を奮い立たせ、白龍を問い詰めた。
語るつもりのなかった白龍も、その必死の要求に折れたらしい。望美の視線を気にしながら、以前リンと交わした契約について語り始めた。
「坐は聖なる神具。坐になりうるのは乙女のみ。そして坐は何物にも染まる事は許されない」
「もしかしてリンちゃんの髪色が白いのは…」
「私の神子は察しがいいね。人にはイデンシというものがあると聞いた。だから、私はそれを破壊した。それは物には必要のないものだから」
「…ひどい!ひどすぎるよ白龍…!どうして、そこまで…」
望美の嘆きが木霊する中、弁慶は一人白龍の言葉を読み解いていた。引っかかったのは“乙女”という言葉である。
――――まさか。
一つの可能性を炙り出した弁慶の胸の内に希望の色が灯る。しかし、喜ぶのはまだ早い。
確認をしなければ、弁慶は白龍へ問うた。疑心に満ちる白龍の視線は厳しく、喉が震える。しかし、引き下がるわけにはいかない。
「そうだね、条件が欠けたら坐としての効力は下がってしまうね……だから、これ以上坐を惑わさないでくれないか、弁慶。……おしゃべりが過ぎた」
一度低く唸り、白龍は真言を再開させる。望美の制止も、朔の懇願も、全てを振り払い進んでしまう。
八葉も近くまで駆けつけ、白龍を止めるべく腕を振るうが神の力の前では酷く無力であった。
黒龍とは異なり、五行の力を得た白龍の神力は凄まじく、一行がどれほど本気で獲物を振りかざせども傷一つつける事が叶わない。
激しい打ち合いの音が響き、神子達の制止の声が吹き荒れる中、弁慶は立ち上がり、リンの傍、近づける限り近づいた。
白光に包まれる美しい娘は、弁慶の存在に気付き瞳を合わせる。白い光を反射し、光り輝く瑠璃は至高の宝石そのものだ。
しかし、それを濡らす涙は決して、本心からのそれではないはずだ。
結界に触れ、弾かれる痛みに蓋をする。
ずっと痛かったのは彼女の心だろう。ちっとも気が付かないで、甘え続けた。
―――誰よりも優しい女性。
そして自分の事よりも他人の事ばかり考えている愚かな娘。
リンという人間が失われるこの瞬間ですらも、己の身より弁慶の手のひらの傷を案じているほどに。愚かで、けれども何よりも愛おしい。
「リンさん、ずっと待っています。あなたが、坐の役目から解放されるその日まで」
「…弁慶さん、手を、放して…!もういいの、私はもうこの世からいなくなるだけの存在だから!もう、忘れて…忘れてほしいの…!」
「嫌です」
「…っ!」
弾く衝撃の雷に、手のひらから血が噴き出した。真っ青になる彼女の顔が痛ましい。
ぼたぼたと落ちる涙を拭ってやりたくとも結界は破れず、また、彼女自身ももう手遅れであった。涙が落ちていくのを自分でも止められない。
どうして、と悲しみに浸る彼女に伝える言葉はもうない。伝えるならば彼女がずっと守り続けてくれた僕の“覚悟”だ。
「君と出会って、君に恋して―――僕は“君と共に生きていきたい”という信念を得ました。…僕が信念を曲げるような男では無い事はもう、知っていますね」
「……弁慶、さん…」
「待ちます。命が尽きたら、龍脈を巡り、何度でも生じます。僕は諦めない……君と共に歩む日々を」
「……茨の道だわ」
「今更、そんなもの。…元より成長の遅い二人です。ゆっくり歩めば痛みも少ないものですよ」
「………」
「こんなにしぶといと、君に嫌われてしまうでしょうか」
「そんなこと…っ……あ……」
含んだ笑みで弁慶が笑う。
策を巡らせる時の悪笑であるはずなのに、今はそれが頼もしい。
「最後の策です。効果は十分。……成功しました」そんな風に余裕を見せる弁慶の、どこか寂しげな眉にリンは涙する。
愛されていた。愛してほしい人に。こんな幸せなことはないだろう。
奪われまいと守り続けた唯一が相互の輝きを得て、希望に満ち始める。生きたいと、人として生きたいという願いが生まれてしまう。
しかし、そんなリンの願いとは裏腹に、白龍の真言の進行は止まらない。
「…っ!なんだ…!?」
「宝玉が…!勝手に…!」
八葉それぞれに埋め込まれた宝玉が光り輝き、本体から離れ、リンの元へと集う。
八色の宝玉は美しい光を放ち、そして静かにその役目を終えた。宿っていた龍神の力が白龍へと戻される。
坐とは八葉の玉の納め台。宝玉がを失ったという事は、この世界に平和が訪れる合図であった。
リンは覚悟を決める。
せめて最後に一言だけでも―――弁慶の策を疑うわけではない。
しかし、その策を裏付けする絶対的な根拠も、事実も、どこにもないのだ。
ならば彼がこの先、少しでも心穏やかに過ごせるよう、言葉を届けたい。
リンはそう思考を巡らせるが、思いに溢れる胸は言葉を決められない。
思いを紡げず空回る唇―――もう、言葉を発することは出来なかった。
台座への変貌が完成するその間近―――白龍がぴたり、と印を結ぶ手を解く。
抵抗を続けた一行がその変化に気付き、彼の背を見つめる。その背は激しく震えていた。
ゆらゆら、とまるで時空が歪む瞬間のように、白いその姿から湧き上がってくる気迫は“怒り”であった。
彼の持つ火の五行の加護の力に、長い髪、そして羽衣が舞い上がり、そして吠えた。黒龍と同じその波動に、全身が痺れる。
さながら烈火の化身。白龍は弁慶を睨み、業火の言を放った。
「坤の穢れ……弁慶、坐を穢したのか…!!」
地を這うような烈火の震えにその場の全員が畏怖に震えた。
白龍の言葉の意味が分からず首を傾げる一同だが、尋常ではないその様子に獲物を握る手には力が籠る。
一体何がどうなっているというのか、状況を把握すべく皆が弁慶を振り返った。
燃え上がる白龍の怒りの気に靡く袈裟は闇のように静かだ―――ただ、冷静。
震えあがる程の気迫であるというのに、弁慶は怯む様子も見せない。その姿に一層、白龍は苛立ちを募らせていく。
そして、弁慶は真っ直ぐに事もなく言いのけて見せた。
「愛しい人と契る事に理屈は必要ないでしょう?」
「―――!」
「…あの頃は想いを交わしてすらいませんでしたね」
弁慶の言葉の通りだった。
たった一度きりの契り。
お互いの心の闇も知らないまま、ただの家主と居候の間柄であったはずなのに、いつしか募っていた恋心。
弁慶の罪に触れた時、彼を想うあまりに初めて“モノ”となることを決めた瞬間であった。
『……………私を、使って』そんな言葉で誘いながら、瞳を濡らす儚いリンの姿は、今でも手に取るように思い出せる。
決して利用するために抱いたのではない。
こんな日が来ることなど想定していなかった。
それでも、今はそれに希望を託したい。弁慶は白龍を見据え、言葉を紡ぐ。
「僕が坐から“乙女”を奪いました。条件の欠けた神具はその効力を弱らせる―――役目を終え、世に還るまで、せいぜい数年といったところでしょうか」
「弁慶…よくも…!」
「君はまだ分からないのですか。あんなにも神子に愛されていたというのに」
今にも襲い掛かりそうな白龍に弁慶が言い放つ。怒るのは図星だからであろう。
神とはいえ今までずっと行動を共にした仲間である。その心の動きは手に取るように分かるのだ。
押しては引き―――巧みに揺さぶりをかけて。弁慶はその絶妙な話術で白龍を翻弄する。けれど、語る事は全て真実――人の世の理であった。
「龍神よ、誰かを犠牲にした恒久の平和など、誰も望んではいないのです」
平和の為にと黒龍を滅ぼし、源氏の勝利の為にと平氏を手にかけ続けた己が諭すにはあまりにも滑稽であった。
奪い、傷つけた。
しかし同時に、奪われ、傷つけられもした。そうした業を巡り巡って、今に至っている。
絶対的な正解など、この世のどこにもないのだ。時代が変われば人は変わる。その環境も、慣習も、常識でさえも変わっていくだろう。
どこにもないその一瞬の正解を、恒久の平和の元、固めてしまう世の中などどれほど褪せた世界であろうか。
「もはや人の戦は終わった。倫理に反する怨霊も正しき龍脈へと還された。――すべて、元通りとなったのです」
「応龍が生じ、京の平和が保たれたとて、また清盛のような輩は現れる。そうなればまた皆の平和が脅かされてしまう」
静かに首を振り、それを否定する。
弁慶が言葉を紡ぐ前に、身を乗り出し、突き進んだのは―――白龍の神子、望美であった。
「十分だよ、白龍。あとは人に任せたらいいんだよ。この世界は神様だけが作り上げたものじゃない。ここに生きてるみんなで守り、繋いでいく歴史なんだよ」
「―――望美の言う通りだわ。何度だって間違いが起こるかもしれない…でもその度に人には“諦めない事”が出来るわ」
間違いは正せばいい。
過ちは許せばいい。
そして皆で解決に向けて考え、協力し合い、歩めばいい。
神のように正解に近い歩みは出来ないかもしれない。
それでも、皆で考え一歩一歩を踏み出していきたい。
人にはそれが出来ると、皆は、人はそれを深く信じている。
嘘偽りなく、誠実な心持ちで白龍へ言葉を届ける皆の表情に、龍神もそれ以上論じるのは無駄であると判断したようであった。
滾らせていた怒りを鎮め、そっと神子へと向き合う。その瞳はどこか寂しい。望美にはそう映った。
「――人とは理解しがたい生き物だね。不完全と知りながら、それでもそれを受け入れるという」
「…きっと、白龍にもいつか分かる日が来るよ。黒龍が人になってまで、朔を愛した理由が」
「いつか、また時空を戻したい日が来るよ、神子。それでも―――」
白龍の言葉を待たず、望美は胸に隠していた白龍の逆鱗を地へと叩き付けた。
高く響く音をあげ砕けたその神秘の欠片は、秘めていたはずの膨大な神力を徐々に失わせていく。程なくして光をも失った。
「もう私は、時を戻したいなんて思わないよ」
リンの言葉が蘇る。
あの時は必死であった。ただ大切な者を守りたい一心で、秩序を遡る禁忌を犯すことを決めた。
揺るぎない覚悟であった。けれど、周囲を見渡す事、自分の決断で犠牲となる人間がいるのだという事をこの時代で学んだ翡翠の瞳には、もう後悔はない。
時空を戻したことで犠牲となってしまった、リンの友人をはじめとする全ての人間に詫びる事は叶わない。
けれど、その犠牲の元作り上げられた今を投げ出す事は出来るはずもない。
生きぬく事。そして抱いた信念を曲げず、皆が幸せでいられる世界を築き上げる事。
―――それが白龍の神子の答えであった。
「…しかし坐はもう戻らない」
既に人の形ではなくなっていた。白龍の真言、それが全て整った今、全ては手遅れであった。
橙に染まる夕暮れの舞台の上、高く奉られた台座と八つの宝玉。まるで散る紙吹雪のようにふわりと、地へと舞い降りてくるようであった。
「…リンさん」
弁慶の声にも、もう応える事はないその台座は、白い布を纏い宝玉を抱く。
輝く神力を照明に纏い、落ちていく先は―――弁慶の懐であった。
受け止めるべく、そっと腕を開く。
きらきらと輝くその台座は目映く、神具の名に恥じない洗練された美しい造りであった。
「本当、君は純白の織布が似合う―――けれど、それも今日まででしょうね」
弁慶の袈裟に隠しても隠しきれないであろう清純な輝きの衣を纏い落ち来る台座を待つ腕。
そっと抱きしめようと腕を引き寄せたが―――台座は腕に懐かれる事のないまま、光と化して散ってしまった。
空回る腕の無温に、寂しさが滲む。
それでも、心に秘めた信念には何の影響も与える事はない。
弁慶はそっと立ち上がり、顔を上げた。ふわりと揺れた黒い袈裟を、堂々と翻し八葉の元へ、神子の元へと歩み寄る。
龍神に喚ばれし由縁者が集う。
離れ離れであった心の持ち主達はいつしか一つに通わせ合い、そして重ね合った。
その役目も既に終えた。
これからは皆で掴んだこの世界で、己の人生を歩み始めるのみ―――望美をはじめとする仲間たちの想い、言葉、願い。
その一つ一つを思い出し、白龍は、悟る。人の理は深くは理解できない。
不安定な世に固執する理由も、傷つく道を選ぶ理由を。
それでも、その選択に添おうとしている自分がここにいる。―――愚かで不安定で傲慢。けれども、それらがとても愛おしい。
「(これが黒龍が愛した…“人間”)」
神が人の理に触れた瞬間。持ち得ていないはずの“愛”で満たされる。
その不思議なあたたかさに、そっと唇をあげる白龍であったが、その変化は気付かれる事はなかった。
いつまでも人の世に留まる事は出来ない―――瞳を閉じ、白光に包まれたと思った瞬間。白龍は皆の前から姿を消していた。
どこに行ったのか、慌てる一行であったが、望美の声に導かれるままその指の先を見上げる。
その先には、空に漂う白銀の龍の姿。白龍の真の姿があった。
「――ありがとう神子。あなたの役目ももう終わりだ。約束通り、私の力であなたを元の世界へと帰そう」
その言葉に、望美は頷いた。
静かに、そして確実に―――別れの時は近づいていたのである。
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「俺はこの世界に残る」
将臣がはっきりと意思を示した。
今まで皆に黙って平家に組していた事、その後ろめたさこそあれども、将臣は曲げぬ信念を貫き通した結果に誇りを持っていた。
結局のところ、屋島で平家の人間は散り散りとなってしまったが、まだ安徳帝や一族の血は絶えてはいない。
この先、歴史は源氏へと微笑んだのだ。
まだ幼い安徳帝が実験を握るべく画策することは考えにくく、また将臣自身もそれを望んでいない。
この世界で自分を拾い、親切にしてくれた恩を果たす事。それは平家の復興ではない。
ただ、人として。恩人の幸せを願い、支える。それが将臣の理由であった。
将臣のその覚悟に、譲は苦い顔をしている。
彼は元の世界に戻る事を決めていた―――望美と共に。
兄の話を聞いてその思いに共感は出来るのだが、彼を苛み続けている“劣等感”がそれを認める事に異を示しているのだ。
しかし、将臣もこの世界に来てあらゆる人間、そしてリンとぶつかり成長を遂げていた。
譲の肩に手を置き、願いを伝える。
「勝手な兄で悪いな譲。―――いつも支えてくれてサンキュ」
「な……なんなんだよ兄さん…っ……そんな事言われたら…」
「送り出してあげる以外に、出来ないよね。譲くん?」
「春日先輩!兄さんを甘やかさないでください…!」
顔を真っ赤にし、憎まれ口を叩きながらも、譲は兄の“振り返り”に胸を満たしていく。
前に突き進むだけが希望ではない。その願いを支え、背を押してくれる存在を顧みる事が出来る目を養う事が出来た。
朗らかな時間、望美、将臣、譲は小さな頃のように隔たりなく笑いあった。
そんな望美に、そっと近づくのは朔だ。からかうように、望美をつつく。
「邸が寂しくなるわね。二人には本当に助けられたわ」
「譲君のご飯が食べられなくなると思うと、ちょっと淋しいね~。でも、一緒に居られて本当に楽しかったよ。元気で頑張って」
「…望美、本当にありがとう。あなたに出会えて、私、本当に幸せよ。あなたのこと、忘れないわ ……絶対に」
真っ直ぐに翡翠を見つめる枯茶の瞳に、もう迷いも悲しみも、諦めも。見つける事はなかった。
新たな黒龍が生じるその日まで、朔は希望を捨てる事はないだろう。
望美にも似た、強い視線がそう語っていた。
―――もう、朔は大丈夫だ。望美は強く頷く。
そしてゆっくりと顔を上げるとその場の全員に、視線を合わせた。
深く頭を下げ、絞り出すように話し始めたのは“時空を巻き戻してきた”という“罪の告白”であった。
皆を信じていなかったわけではない。
しかし、時空を巻き戻す事でリンやその友人のように巻き込まれ不幸となる人間がいるという事に気がつけなかったのは罪だと思った。
いたずらに時を戻し、皆の命を救いたいと願ったわけではない。けれど、知らず対価としていたものは自分が思うよりも重く、正解を見出せなかった。
リンが泣きながら、告げたあの瞬間が目に焼き付いて離れない。
背の髪がさらりと前に落ちて、望美は震えた。リンの気持ちを量れば量る程、胸の傷は深まっていく。
「こんなつもりじゃなかった」…後悔がどれだけ溢れてきても、もう何も取り戻すことはできない。
その苦しみに喘ぐ背を、初めて心折れた神子の背をそっと抱いたのは、彼女の“対”であった。
「あなたは悪くないわ。もちろん、リンも」
諭すように、優しく話しかけるのは朔だった。柔らかい腕が腹部へと回され、背に触れる温かい頬の感触。
朔も小さく震えていた。
伝わってくる振動と、熱と、命の鼓動。とくん、とくんと心地よい旋律が望美の耳を癒していく。
「…ずっと苦しかったでしょう。一人で戦い続けてきて、みんなを守りたいって、傷だらけになったのは、あなただわ」
「…でも、そのせいで…」
「リンだって言っていたわ“あなたがいなければ、誰もいなかった”って。彼女にも伝わっていたのよ」
「姫君らしくないね、そんな弱音吐くなんてさ」
軽口。震える顔をそっとあげて重ねる、燃えるようなヒノエの瞳。
ゆらゆらとゆらめくその火は優しく、凍える翡翠を温めるかのようだ。
ヒノエだけではない。名を呼ばれ顔を上げれば、誰もが優しい瞳を望美へと向けている。
誰一人、悲しみも、後悔も、叱責さえも浮かべていない澄んだ瞳で。
「…幾度も運命を辿った。けれど、私にはお前を救う未来は見いだせなかった。――この平和はお前自身が掴みとった幸せなのだ」
「私も、神子がいてくれたこそ…こうして今ここにいられる。神子、あなたの優しさに救われた」
「―――望美ちゃんありがとう。命がけて守ってくれて、さ。辛かったでしょ?」
「先輩がそんなつらい目に遭っていたなんて…本当に知りませんでした。守っているつもりでずっと守られていたんですね。ありがとうございます、先輩」
「俺まだまだやらなくちゃいけないことがあるからな、命を繋げてもらえて感謝してるぜ、俺の姫君」
「大成には犠牲は必ず生じる…それは確かに如何ともし難い業だ。…しかし、それはお前一人が背負うものではないと俺は思う」
「九郎の言うとおりだ望美。お前は精一杯やって、これだけの人間を救ったんだ。自信持てよ」
思い思いに言葉を贈る。
誰一人望美を責めることはなかった。
しかしそれは決して褒めちぎりたいがための称賛ではない。感謝ではない。
望美の悲しみを、その苦しみを、覚悟を。皆が量り、受け入れ許したのだ。あたたかい言葉に凍った瞳が融けていく。
そして一歩。
望美の前まで進む、黒い袈裟。ふわりと揺らした袈裟の中にはもうどこにも“秘密”など隠されていなかった。
本来の穏やかな人柄がありありと浮かんだ、優しい笑み。望美へと投げかけられた。
「―――ありがとう、望美さん」
その言葉を皮切りに、望美は声を上げて泣いた。
子供のようなその姿を茶化しながらも、望美が彼らに与えた“想い”は輝き続けている。言葉に出来ない深く、あたたかいもの。
顔を隠してわあわあ泣く望美を、朔はそっと抱きしめた。何度も何度も感謝を添えて。
「あなたが私の対で本当によかった。あなたに出会えて、本当に…よかった」
白龍の神子が泣きやむまで―――そっと、抱き続けていた。
ようやく落ち着いたらしい望美から抱擁を解けば、周囲に渡る別れの空気。
しんみりとした淋しさが広がろうとするところを、皆で塞き止めていく。永遠の別れかもしれない。
けれど、皆が皆に残した想いの心は深く根付いている。そっと胸に触れれば、あたたかく溢れた。
「あちらに行っても、元気でね」
笑顔で朔が別れを告げる。
いつまでも寂しがっていては望美も安心してこの世を託せないと思ったのだろう。
そんな彼女の視界の端に、黒い色が目に入ってふと思い出す。春の日、大原で交わした愛の記憶。
知らぬ間に親友は弁慶に恋をし、そして失恋していた―――そんな何とも言えない複雑な気持ちの中、思い出すは別の恋心の持ち主。
そっと譲と望美とを交互に見つめた。視線の意図に気付いたらしい譲は困惑顔をしている。しかし、瞳に迷いはない。
「(望美が弁慶殿を好きでも、譲殿は諦めないのね)」
その愛情深さに感動しつつ、どこか弁慶を恨めしく思うのは仕方がないかもしれない。
しかし彼が望美の気持ちに気付いた時には既に、リンに心奪われていたのだから、それもまた仕方のない事であったのかもしれないのだが。
それにしたって女人を泣かせるというのは悪い男だと朔は思う。
後ろに控えていた弁慶を恨めしげにじろり見た後、望美にそっと希望を伝える。
「――望美はもう少し、恋心に敏感になった方がいいかもしれないわね。ねえ、譲殿」
「……っ、さ、朔!」
慌てる譲をおかしいと感じながらも、その理由にとんと覚えのない望美は疑問符を浮かべ二人を眺めている。
顔を更に赤くして冷や汗を流す譲と、眉間に皺を寄せ、全く気が付いていない様子の望美と。
「これはまだまだ時間がかかるかもね~」
「ええ、そのようですね…兄上」
進展の見込めない両者を見て、梶原兄妹は意見を重ねる。譲の苦行は次元を超えても続きそうだ―――そう思った。
別れの挨拶が続く中、最後に望美へと歩みを寄せるのは弁慶であった。
届かなかった想いに、望美も緊張の面持ちで彼を眺めている。
固まる望美を解すように声をかけるが、なかなかそれは実らなかった。
結果的に弁慶は望美の想いに背を向ける形となってしまったが、最後まで彼女が後押ししてくれたことへの感謝を述べたかったのである。
望美の手を取り、強く握る。
緊張に震えていた白い手が、次第におさまってくるのを見計らい、弁慶は頭を下げた。
「望美さん、本当にありがとうございました。君が白龍の神子である事を利用し、何度もつらい目に遭わせてしまいましたね」
「…いいえ弁慶さん。きっかけはそうでも、全て私の意志でそうしてきました。弁慶さんのせいではありません」
そう言い切る翡翠の強さに、いつか見た瑠璃を重ねた。運命に巻き込んでしまった事を詫びる姿に、全く同じことを言われたのだ。
弁慶は一人笑う。
その笑みにかつての暗い影はもうどこにもなかった。
「――君のような優れた神子に仕える事が出来て、本当に幸運でした。どうか、幸せになってください」
その言葉を最後に、異邦人は白龍の力に飲み込まれる。
消え行く体を押し分けながら、返事の代わりにと望美は深く頷いた。声の届かないそこで、望美は何かを伝えるべく口を動かしている。
じっと見つめたその動きを読み解き、弁慶はまた笑った。そんな彼に気付き、九郎が問いかける。
「望美は何と言っていたのだ、弁慶」
「―――内緒です。神子が、僕だけに贈ってくれた言葉ですから」
ふい、と顔を逸らすように九郎から離れる。
最後にリンを抱きしめ損ねたそこ、厳島の舞台には藍が差し込み、本格的な幕引きの雰囲気が醸されている。
異邦人という名の観客は舞台を去った。ならば我々もお開きだろう。九郎の言葉に皆が頷く。
「…ご苦労だった。皆、最後まで力を貸してくれて…礼を言う。それから将臣!」
「な、なんだよ九郎…!騙していた事はもう謝っただろ!」
びくりと肩を揺らす将臣に提示されたのは“提案”であった。
将臣の表情は見る見る内、真剣なものへと変わり、厳しい面持ちで九郎を見つめ返す。
「…本気か」その威嚇ともとれる響きに、九郎は同じように強い眼差しで応えた。
源平の戦はもう終わった。
これからはこの世の平和を人の力で成し遂げていく必要がある。九郎は平家の存命者の救済を提案したのだ。
それは九郎の兄、頼朝に意見を申し立てる事となる。
生半可な気持ちでは迷惑だ――将臣はそう言いたかった。
真っ直ぐに見つめ合う二人の視線に、嘘偽りも温い意志も何もなかった。緊張を解いて、笑いあう。
「願ってもない提案だ。…頼むぜ、九郎」
「ああ、任せておけ。真の平和とは何か…時間がかかるかもしれんが、俺がこの度学んだ事を兄上にも伝えてみせる」
交わし合う拳。
成長した源氏の大将の背を見やり、弁慶も想いを馳せる。
この世界に溶け込み、一体化してしまった愛しい人に伝えるために。
すっかり日の落ちた厳島の夜空を見上げ、弁慶は星に願った。
「…守ろうとした世界は、君が犠牲にならなくても、平和が保たれそうですよ」
―――だから、早く、帰ってきてくださいね。
万物の巡りに想いを馳せ、冬を越す春待ち人の鶸萌黄。
弁慶の祈りに応える言葉は聞こえない。それでも冷たく厳しいはずの冬の風は優しく肌を撫でていく。
その中には芽吹く時を待つ、春の息吹が確かに感じられた。―――彼はひとり、そんな気がしていた。