やさしいひと(弁慶長編:完結)
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27.厳島
全てが厳島に集結していた。
後白河法皇が望む三種の神器、将臣が守る平家――安徳帝、頼朝が望む平家の滅亡、龍神の望む龍脈を正す最後の杭。
そして、望美、朔、弁慶の望む黒龍の逆鱗の破壊。
その全ての終着点に出で立つ生きた死人―――怨霊・平清盛。
清盛の気配を厳島に感じる。
―――白龍の言葉を元に出陣の手配を整える方向で一行の意志は固まる。
平氏の名だたる武将は軒並み捕虜として鎌倉へと移送された。
本来であれば敵総大将である清盛を全軍をあげた捜索のもと、討ち取る流れが自然であったが、清盛が実際に厳島に潜んでいるという確たる証拠がない以上、出陣の命令が出せなかったのである。
ましてや清盛は三種の神器を操り、怨霊を作り出している。
厳島に既に張られているであろう怨霊軍を思えば、一般兵士では太刀打ちできない。
危険は重々承知でありながらも、確実に戦力となる少数で乗り込む以外の策は立てられなかった。
ヒノエの水軍の力を借り、厳島に潜入した一行。
平家の戦力が大幅に削がれた好機を逃す事は出来ず、絶対的な策無しで飛び込んだこの地。
情報不足の為、大幅な進行は難しい。しかし既に相当の手練れと化した一行には内なる自信、そして周囲の和を保つ絆があった。
「叔父上がいるとすれば、おそらく舞台であろう」
清盛は敦盛にとって叔父、甥の関係だ。
平家の血筋である敦盛は、一族との決定的な衝突に苦しげな表情を浮かべ続けている。
しかしその瞳は弱々しいながら、平家の真の苦しみを解き放つという意志がとって見える。八葉、そして仲間は皆強く頷いた。
まずは敵を知らねばならないと提案するリズヴァーンの言葉の元、御笠浜まで進行、その先どう攻めるかの策を立てるという認識を共有した。
皆が引き締まり、覚悟を決める中、弁慶はそっとリンに近づき声をかける。
彼女から目を離してはいけない―――いつ、彼女が思い切った行動に出るかが分からない為、その行動を把握しておく必要があったのだ。
「リンさん、僕の傍に控えていてくれますか」
「…? いえ、弁慶さんは神子を守ってください。私は――」
「弁慶大丈夫だ。坐は私が責任を持つ。弁慶は八葉として神子から離れてはならない」
はき違えるな。
幼かった白龍と中身は同じであるはずなのに、成長を遂げた白龍から感じるのは神の畏怖だ。
表情は崩さないが、内心冷や汗をかいている。怯えは正常な思考を奪う。弁慶は密かに恐怖を振り払い、律した。
ここで事を荒立てるのは得策ではない。望美と朔に目配せを行い、リンから可能な限り目を離さぬよう確かめ合った。
身を潜めながら御笠浜まで進軍すれば、広がる白風景の端々にちらつく怨霊武者の姿。
中には理性を保った人型怨霊もあるらしく、虚ろな怨霊に命令を与え血眼で捜索をしている様子が窺える。
「…どうやら俺達の侵入がばれちゃってるみたいだね~…」
「このまま進んでも、あの大量の怨霊の相手をせざるを得ない。これでは不利だな…」
景時、九郎の懸念は尤もであった。清盛が作り出したらしい怨霊は島の各地に張り巡らされており、隙が十分にあるとは言いにくい。
望美の封印も使えば使う程に本人に負担がかかり、とてもではないが彼女一人に封じられるような数ではなかったのだ。
一行はあらゆる可能性、地形、環境。知り得ている情報を全て出し、この先の進軍への策を講じていた。
そんな折、白龍が何かの気配を感じたらしく、声を上げる。
「…歪みが、近い」
――――歪み。それは五行の歪みだ。応龍が失われた事で狂い始めたこの世の理。
黒龍が失われた事で発生したその歪みはつまり、清盛が近くにいるということなのだろう。その事実に至った時、朔はさっと表情を雲らせた。
厳島の舞台があるここ宮島に上陸してから、口数が少ない事には望美も弁慶も気づいていたが、やはり不安なのだろう。
望美が朔にそっと話しかける。瞳を揺らし、不安に耐える姿は変わらず苦しそうであった。
黒龍の逆鱗を破壊する―――それは言葉を変えれば、黒龍が既に存在していないという事にも繋がる。
本当に消滅してしまったのか、それを確かめると心に決めたとて、やはりその真実を知る事は恐ろしい事なのだろう。
「朔だけじゃない、私も怖いよ。…でも忘れないで、朔。私達がここに来たわけを」
望美は語る。朔が望美に教えた、人を深く想うという気持ちを。悲しみに負けない為に生きると、前を向く覚悟を。
今がその時だと朔を鼓舞するその望美の精神的な成長に驚いたのは朔だけではない。
彼女をひたすらに肯定し続けた八葉、そしてリンも同様であった。
ただ鍛えし剣を振り、勇ましく怨霊と対峙するだけではない。
彼女はこの世界に来て、神子と言う重責を背負いながら人を想い、理解し、精神的成長を遂げたのだ。
「本当に、あなたは素晴らしい神子だ…私の神子、あなたと出会えて本当によかった」
過剰とも思われた白龍の賞賛も今ならば同意できる―――一同はその言葉に深く頷いた。
「(ああ……)」
言葉にならなかった。
けれどもリンはその湧き上がる感情の噴水を必死に抑え込む。
自分の心はまだ生きていた…
その喜びよりも、一時の高ぶりによって、奪われかねない最後の感情を白龍に奪われてしまうことが恐怖であったのだ。
もう人ではない。
ここの所ずっと心は穏やかであった。
凪いでいる凪いでいると繰り返し感じる事もない。自分は人間ではない、坐なのだと言い聞かせる事もなくなっていた。
ただただ自然に運命と使命へと溶け込んでいたのだ。その現状を壊す事は怖かった。
たった一つだけ必死に守り抜いている“弁慶への愛情”…それは奪われても支障の無いものである、坐として果てるのならば。
それでも、この気持ちだけは持っていたかったのだ。
「(使命にも反してないから、許される…ううん、許してほしい)」
周囲に満ちる絆の光に緩みそうになる心、目尻から意識を逸らし、リンは必死に表情を凍らせる。
初めはひたすらに反発を続けていた。元の世界で校舎ですれ違う度、舌打ちしたい程の嫌悪感を抱いていた相手であった。
元の世界で望美と確執が発生するような衝突など、何一つなかった。ただ、将臣という存在と関わるようになり、広がった世界の繋がりの中で出会っただけの通りすがり。
けれど、一目見た瞬間に胸に湧いたのだ―――劣等感が。
親に束縛され、ひたすらに自尊心を砕かれる家庭。
そしてそれに逆らう事が出来ない自分の弱さ。それでいいのだと納得し、全てを諦めていた自分とは正反対の、明るく幸せな笑顔。
望美を受け入れるということは、そんな自分を全て否定する事と同意義であったのだ―――リンは一度、ぶるりと背を震わせる。
それは、とても、怖い事であったのだ。
「(……でも)」
―――同僚の名がちらつくが、リンはそれを打ち消す。随分と思考もコントロールできるようになったものだ、と内心苦笑した。
今更、振り返ったところで、望美を否定したところで、何が解決するというのだろう。
時空を巻き戻される事に弄ばれる運命も、もうあと少しで終わるのだ。成長した神子、そして八葉。その背の広さが答えだ。
不安など、もうどこにもない。
「(……あの人は幸せに、なれる)」
私も、安心して、遂げられる。
黒い袈裟の背を一度だけ見つめて、リンはそっと瞳を閉じた。
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一行の気持ちが固まったのと、それが現れたのはほぼ同時であった。
高く幼い声の罵声。浜の奥から聞こえたその音源に、一同が目をやれば怨霊の海の中、ひときわ輝く奇抜な姿が目に入る。
紅い髪に黄金の衣。市松の袴を纏う小さな背中。―――子供がこんな所に?望美の疑問に九郎が答える。
「あれが平家の総大将、平清盛だ」
「…ああ。九郎の言うとおり、あれが叔父上…怨霊となり蘇った清盛叔父上だ」
「あんな子供が…?」
朔は半信半疑で問いかけるが、二人は神妙な面持ちで深く頷く。
真面目な二人の言葉だ、朔は揺れる心を見定めるべく浜へと視線を向け直す。
清盛は怨霊にまみれながら、怨霊武者を激しく叱責していた。
大きなその甲高い罵声は耳障りで、その内容があけすけと周囲に知らされる。
龍神の神子の潜入にいきり立つ清盛は怨霊らに神子を連れてくるよう命令を与え、怒鳴り散らしている。
子供の姿であるというのにどこかその雰囲気はいかめしい。顔を歪め激情に任せ放つ言葉は荒いが、逆らえない重々しさがあるのだ。
感じ取った風格は皆同じく、迫力にごくりと息を飲んだ。
「臆することはない」
リズヴァーンの鼓舞が届く。敵がいかに強大であろうと、今まで皆力を合わせ乗り越えてきたのだ。
それぞれが成長を遂げた今ならば、絶対に敗北はない――絶対的な安定を含んだ一言に、曇った一行は立ち直る。
決意を新たにこれからの作戦を練ろうと弁慶が提案したところ、遮って届いた清盛の威嚇。
それを聞き、身を起したのは朔であった。見つかるとの望美の注意をそっと制す。
その顔に浮かんでいたのは望美によく似た、覚悟を決めた笑顔であった。
「ここに隠れていても仕方ないでしょう みんなで見つかるより、ましよ」
それ以上の言葉は必要なかった。幾度も衝突し、思いの内を語り合った。
望美は一度深く頷き、朔の名を呼ぶ。
か細く震えるばかりであった黒龍の神子のその背にも、その名に恥じぬ成長が刻まれていた。
「私は、ここにいる!龍神の神子はここよ!」
張り詰めた空気を裂き、高らかと響く凛と通る声。
新月の静かな闇を裂き出で立つ黒龍の神子の姿は対に勝るとも劣らず勇ましい。気高い姿であった。
「…みんな行こう!朔を助けに…!決着をつけに!」
先程の清盛の様子からすると、この島に大きな罠は仕掛けられていないと判断された。
平家の軍師を担う還内府は失脚していないが、彼の頭脳をもってしても既に統率できる将が欠けている。
策を敷くにも無理があるという弁慶の分析に、一同も納得し、一歩を踏み出す自信と化した。
それでも怨霊の数は無数に近い。可能な限り身を潜めながら、目指すは厳島の舞台。
一丸となり、宮島の奥へと進んだ。
進む社の先、幾度も足止めを食らう。清盛が呼び寄せた怨霊の群れが希望を阻むべく、一行に襲い掛かかってくるのだ。
白龍の神子を中心に、円陣を組み各々持てる力を集結して術を放ち、それらを払う。
巡る五行の力、宝玉に注がれる龍神の力。九郎、リズヴァーンの見事な剣術。
ヒノエ、敦盛の息の合った接近戦、身のこなし。景時、譲の援護攻撃、弁慶の回復補助。
そして要となる白龍の神子――望美に集まる、術の力。舞うように弧を描く剣の腕もさることながら、神子としての神力も十分であった。
幾度も死線を潜り抜け、逞しくなったその神子に“一介の女子高生”という言葉は似合わない。
長い髪を靡かせ、困難を打ち壊し、運命を切り開く。
彼女は仲間を信じている―――白龍の腕に懐かれながら、リンはその背を眺め、そう感じた。
その神々しいまでの清廉な姿に、皆が心奪われないはずがない。性別の垣根を越え、その姿は人を惹き付ける。
「(…恐らく、皆が命を落としたのだろう)」
これほどまでに己の命を懸け望美は剣を奮うのだ。
彼女が大切にしたいもの…いつかの冬。
火炎に京が包まれたあの冬の日に仲間が散る運命を辿ったのだろう。
白龍以外の干渉で、リンも共に時空を遡った。恐らくはそれが、望美が時空を戻した理由なのだろう。
リンは今日に至るまで、結局望美の口から時空を遡る理由を聞き出すことが出来なかった。
手法を突き止める事を目指した日々。それを思い出せば蘇るのは同僚の死であった。
―――このまま砕けてしまえば、解決できない事案として悔いが残るだろうか。
サクラの仇を討ちたいと、神子を絶対に許さないと誓った私はどこにいってしまったんだろう。
今やかの背に惹かれてしまう程に心は塗り替えられてしまった。
…ぼんやりとそんな葛藤が生まれるが、やはりもう心が以前のようには奮うことはない。
死んだはずの感情が微動する事に気が付けども、もう理由などどうでもよかった。
「…もう、いいや」
早く、楽になりたいよ。
もう、迷いたくないんだよ。
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怨霊を蹴散らしながら回廊を渡る。
朔の元へと急ぐ望美らの勢いを何人たりとも止める事は出来なかった。
剣を振りかざし進むその背を八葉が追いかける。神秘的に広がる厳島の水の景色も、今は誰の目にも映らなかった。
蹴り上げ進む足音がけたたましく響き渡る。禍々しい空の色と、急く心とで不安も芽生えるが、それでも一同は折れることなく走り続けた。
幾重にもそびえ立つ回廊の柱が忌々しい。
随分奥まで進んだところで、景時が遠くに見える柱の果てを指し、声を上げた。
「あそこが出口だ!」
「…朔が待ってる!みんな、急いで!!」
これが最後だと蹴り上げる回廊の床板。望美の呼ぶ声が広がるのと同時に、視界を覆ったのは美しい海原、そして真新しい木造の社の香りだ。
厳かに広がる舞台の静けさが不気味な程に不釣り合いであった。
その段差の元で佇む新月。そして、栄華の遺物。
呼びかける望美の声に振り返る朔は涙を流していた。はらはらと雫を零して、胸に抱いた希望の糸を綻ばせている。
燃える、信義の心。
そして友情の炎に、清盛と対峙し、正面から全力でぶつかる。
そして友の、朔の手を引き、立ち上がるのだ。真っ直ぐに、一つ覚えのように…それでも。
火花を散らすその言葉の応酬の果て、清盛が取り出したのは黒龍の逆鱗であった。
「望美…やはり逆鱗は清盛が……っ」
「うん、弁慶さんの情報は正しかった…あれを壊せば、きっと」
「―――待って…!あの逆鱗には…っ」
黒龍が龍脈を巡り、再び生じる。望美の言葉は朔によってかき消された。
なぜ止めるのか、混乱に陥る望美に清盛が続ける。
朔は涙声で必死に伝える。
『黒龍の逆鱗にはまだ“生前の黒龍の意識”が残されている。黒龍の神子の気配を察知し、騒いでいる』と。
その事実に一瞬、迷いが生じる。
浮かび上がるもう一つの選択肢に、進む足が止められた。
その隙を突き、清盛が揺さぶりをかける。
『意に添うのであれば今一度、黒龍との再会の機会を設けてもよい』と。朔の愛情を利用した卑劣な取引だ。
その交渉に一同の表情は厳しく歪むが、こればかりは口出すことを許されない。一同は押し黙る。
しかし、信じている。両神子のこれまでの深い絆を、共に歩んだ時間を。
震える拳を握りしめながら、皆、事の行く末を見守っていた。
はっきりと答えを示さぬ黒龍の神子に痺れを切らした清盛は別の手を講じる。
誰もいないはずの舞台の奥、赤い幕に向け、高らかに声をかけた。「重盛、こちらに来い」と。
風に舞いひらり揺れる幕を裂き、現れた長身の男―――青い髪、赤い陣羽織。
熱風のように颯爽と現れた男は見慣れた大太刀を手に、源氏一行を睨みつけた。
「……将臣…くん…!?」
驚いたのは望美ばかりではなかった。八葉の中に動揺が走る。特に九郎、譲の動揺は手に取る程であった。
威風堂々。一縷の揺らぎもない強い視線は、望美の瞳の色とよく似ていた。
清盛の傲慢たる命令に付き従っているのではない、己の選択という覚悟に満ちた確固たる意志。
聞きなれたはずのその声は、低く舞台に届き、演じた。
「将臣?…俺は俺は還内府、平重盛。お前が…源氏の神子、違うか?」
「そうか重盛、お前は源氏の神子と知己であったのだな。どうする神子よ、お前はそれでも剣を向けるか?その覚悟はあるか?」
けたけたと悪戯を楽しむ童のように、運命を嘲笑う清盛はひたすらに邪悪そのものであった。
朔への揺さぶり、そして望美への揺さぶり。
この世の秩序を逆手に取り、理を遡り蘇るという禁忌を“誇る”清盛はやはり、人のそれではなかった。
唇を噛み締め、溢れる怒りを望美は鎮める。短気はいけない、物事には裏がある。冷静に分析し、道を切り開かなくてはならない。
これは弁慶やリンから教わったものだ。
人が抱いている本当の心に触れる。望美は将臣と向き合った。
将臣の青き眼光こそ鋭いが、覇気を感じない―――その事実に気付いた時、望美は悟る。
『彼は源氏を滅ぼしたいのではない』と。
「(将臣君はずっと守りたい人の為に私達と行動を共にしなかった。けれど、源氏にいる間だって、将臣君は将臣君だった)」
利用していたわけじゃない。
ただ、大切な人を守りたかっただけなんだ。
その為ならば源氏と刀を交える事も覚悟は出来ているのだろう。しかし、その必要もなければ引く意志もある。
今の将臣に交戦の意思は感じられない。威嚇こそすれど、望美と剣を交える“気”が感じられないのだ。
その事実に至った望美は一度瞳を閉じ、落ち着きを携え、開く。
翡翠は砕けない。真っ直ぐに、清盛を見据えた。
「私はもう迷わない。将臣君を、朔を、皆を信じているから!」
「望美…」
「清盛、あなたなんかの言葉に惑わされない!」
望美は剣を清盛へと向ける。
真っ向から戦うという意思を示す、挑発行為だ。
平家の指導者がこの傲慢の塊であるというのならば、その幻想を壊し、平和を取り戻すのが神子の務め。龍神の意志だ。
そして何より、大切な友人を泣かせ力に屈服させようとするそのやり方が、望美は許しがたい。
望美の覚悟に空気が張り詰める。
今にも切りかかりそうなその耳に届いたのは―――黒龍の神子の覚悟であった。
「たとえ、あの人に一目会えるとしても―――望美、私があなたを犠牲にするわけないわ」
望美の剣の隣に、扇が添えられる。隣に立つ朔の馬酔木が揺れ、望美の心に添うた。
神子の覚悟、その気配に共鳴するかのように清盛の手の逆鱗が鈍色の光を放ち、苦しげに暴れ出す。黒龍の、神子を呼ぶ叫びであろうか。
しかし呪詛の力は強く、黒龍の意識は解放と抑圧とに苦しむ。
喘ぎ続けた抵抗の果て、媒体である逆鱗は暴走を続け、周囲に邪悪な気が満ちていく。
清盛の焦り、逆鱗の抵抗、立ち込める不穏な空気に、将臣や八葉も戦闘態勢に入った。獲物を構え、場の一瞬に気を注ぐ。
まさに一触即発。張り詰めた緊張感とで息が詰まりそうだった。
「望美、戦いましょう」
呪詛に苦しむ逆鱗を、解放する。その為に。
黒龍の放つ陰の気はやがて渦を巻き、灰色の空は時化海のように荒立ち、突風を巻き起こしていく。
結集し、やがて天にも昇るような竜巻に変わった気の歪みは塵を舞い上げ、襲い掛かる。
飛び交う障害物をかき分け、朔は黒龍の逆鱗を見据えた。それ以上、望美も言葉はなかった。覚悟を決める親友におくるのは言葉ではない。
意に添わぬ展開に激昂する清盛の高ぶりに共鳴する逆鱗は空へと翳された。
逆鱗から上る闇の塊は渦巻く灰の空を裂き、閃光と轟音を発する。そして、舞い降り現れたのは畏怖の権現―――黒龍の姿。
鈍く輝く鱗は邪悪に光り、理性を失い赤く燃える瞳はただただ凶悪そのもの。
五指の鋭い爪が神子を引き裂くべく伸びる。
「危ない!」
剣で弾き、押し返すが人の力では限界がある。意思の疎通が出来ないと判断されるほど、黒龍は自我を失い、獣に似た咆哮を轟かせ暴れていた。
空気を震わせ哭くその気迫に、全身が振動に襲われるが、怖れず振り払い刃を交わす。
水属性の黒龍に同族性の朔の攻撃は効かない。
飛び交う攻撃を避けながら、策を巡らせる両神子の耳に届いたのは仲間の力であった。
「―――ふふ、水属性の相手だと、僕有利なんです」
「姫君達の前なんだ、あんたにだけいい恰好させないぜ。望美、行くぜ」
「二人とも気を引き締めろ!大技なんだぞ!」
「みんな!」
弁慶、ヒノエ、九郎が前に出る。水属性の敵には土属性―――土、火、木の力を重ね発動される術を結ぶべく、印を構える。
しかし黒龍はそれを許さない。弁慶らに伸びる攻撃の手。
鋭い爪の間に打ち込まれたのは―――矢であった。鱗を裂き、突き刺さる先端から黒い霧が立ち上がり、黒龍はまたも低く唸り怯んだ。
「僕と景時さんで時間を稼ぎます!みなさんは術を結ぶ事だけに集中してください!」
「そういうこと~ま、あんまり時間は取れないから早めに頼むよ!」
援護に長ける譲、景時が黒龍の動きを止めるべく獲物を奮わせる。
雨のように飛び交う矢。師である那須与一に習ったという弓は、狙いどころを外すことなく正確に黒龍に突き刺さる。
長筒の先、放たれる銃弾。景時も狙いを定め打ち込んだ。
傷を負わせるだけが戦いではない、軽口を叩きながらも放つ魔弾は黒龍の動きを封じ、鈍らせる効力を発する。
その瞳は戦を巡った武士の瞳であった。二人は冷静に、迷いなく黒龍の動きを止めていく。
仲間の作る時間を得て、望美、九郎、ヒノエ、弁慶が術を放つべく真言を唱え始める。
その真言に集まる龍の力。力の結集に放たれる白光は神々しく輝く。
行動を制限され攻撃の手段を失った黒龍は、忌々し気に目を歪ませ、望美らを睨みつける。
目障りな陽の気を散らすべく陰の気を集中させ、作り上げたのは陰の気を結集した黒く燃え上がる炎の玉であった。
望美ら目がけて放たれた黒い炎は豪速で宙を飛ぶ。―――ぶつかる!譲と景時が恐れたが、それは彼女を傷つけることはなかった。
――――シャラン。
炎の向こうから聞こえる金属音。
禍々しい黒龍の陰の炎とは裏腹に涼やかな音を奏で、振りかざされたのは敦盛の錫杖であった。
自信の無い儚げな表情を歪ませ、黒龍の攻撃を跳ね返すべく力を奮う。大きく震えながらも、決死で食い止める一撃。
しかし黒龍の波動の勢いは強い。このままでは押し負けてしまう…!敦盛の抵抗に反応し、その炎に突き刺さるのはシャムシールの刃先であった。
抉るように円弧を描いた刃先、炎の勢いは宙に分散され、舞う粉塵に移り燃えた。媒体が燃え尽くのと同時に炎も消え去っていく。
敦盛はシャムシール、持ち主のリズヴァーンを振り返った。
「ありがとうございます、先生」
「気にするな、次の攻撃に備えなさい」
「神子、私達も攻撃を食い止める。神子は、早く術を」
敦盛とリズヴァーンも己の力を最大限奮う覚悟を見せていた。
どの仲間もみな、ひたすらに前だけを見据えている。黒龍を、清盛を破った先にある平和な世を目指して。
その姿に後押され、朔は胸で手を合わせ祈った。
黒龍の神子として、黒龍に通じる―――願いを遂げるために。
「…お願い届いて……私よ、黒龍―――あなたの神子よ!」
「…行くよ!みんな!」
望美の合図と共に放たれる大地の力を借りた術―――地久滅砕。
目を開けられない程の光源に、清盛と将臣も思わず顔を逸らし目を閉じる。
神々しい光と、大地が跳ね上がる激しい振動、飛び交うのは石ばかりではない。
大地の怒りは震えを伴い、黒龍の嘆きを飲み込み、鎮めるようであった。
肌を撫でる不気味な黒龍の気が鎮まっていくのを、感じ取れるまでに。大地に懐かれ禍々しい輝きが失われていく。
光の鎮まった頃、清盛は瞳を開ける。目を開けた先に広がった景色は、咆哮轟く前の静かな厳島の風景であった。
日暮れの橙に染まる空、薄く棚引く雲の糸、静かに波打つ海原。その上で泳ぐ、己の作り上げた厳島の社の破片。
朽ちる舞台の中央で、清盛は呆然とその光景を眺めていた。
「馬鹿な…」
清盛の自信が折れた瞬間を見た将臣は複雑な表情でそれを見届ける。
この人は道を間違えた、それを告げる事が出来ず苦しんだのは将臣とて同じであった。
―――覚悟を決める。
もう抵抗する意味さえも、ないと思った。
源氏の、ひいては神子の願いにぶつかり合うこの瞬間ならば、将臣の本当の願いも遂げられるだろう。
大太刀を払い、神子へと叫ぶ。
「望美!封じろ!俺の力も使え!!」
その叫びと共に、将臣の宝玉が輝く。清盛が驚き、振り返るが構う事はなかった。
将臣の言葉につられ、周囲の八葉の宝玉もそれぞれの輝きを放ち、力を望美へと結集させる。
望美は将臣に強く頷くと、祈る朔の手を取り、見つめ合った。
―――言葉はいらない。向き合い、互いに一度深く頷いた。
「めぐれ、天の声!」
「響け、地の声!」
―――かのものを封ぜよ!
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祈りにも似た陰陽の調和の崩壊――バランスを失ったその力は清盛へと注がれその身を滅ぼし、消滅させていく。
白龍の神子の浄化、陽の気は黒龍の陰の気と衝突し、調和の気となって怨霊である清盛の実態をほどいていく。
朽ち消滅する体に怯えながらも、それでも彼は最後まで相容れることのない精神を震わせ、断末魔と共に嘆いた。
その叫びも空しく怨霊であったその身は理に添い、正され、龍脈へと戻っていく―――ほどなくして、その姿は完全に現世から消え去った。
清盛という親を失った事で、周囲に蔓延っていた怨霊も龍脈へと戻っていく。
美しい輝きと共に流れ行く生命の鼓動に、場にいた全員が息を飲んだ。
これが人の魂…理の流れ。遡ってはならない真理。神妙な表情で皆、それを見送っていた。
―――カタン。
清盛の手から離れた先、逆鱗が落ちたのだろうか。朔が音の方を振り返ると、そこに逆鱗などは存在していなかった。
否、床にあったのは逆鱗ではない。あるはずのそれは朔の視線の少し上―――喉元に確かに存在していた。
出で立つ一人の男。浅黒い肌、足元まで艶やかに流れる黒い髪。
似た姿を毎日のように見続けた。時にはあまりにも瓜二つな姿に、心を揺さぶられ苦しんだ日もあった。
「―――黒…龍っ…ほんとに…ほんとの…?」
―――朔の目の前に現れたのは“黒龍”であった。
涙を流し抱き合う龍神と神子。
離れないよう深く抱き合う二人は愛に満ちた一つの夫婦であり、神と人との隔たりさえも感じられない。
幸せに包まれるような強くも優しい抱擁に、周囲もただただそれを見守る。いつまでもこの時が続くようにと。
けれども黒龍は悲しげに告げる。
人の姿で留まる事は出来ないのだと。
弁慶の調べの通り、力を保つことが出来なくなった者は一度龍脈へと還り、新たに生じる。
この世界で育んだ思い出も全て忘れ、還るのだ、と。
黒龍の言葉に朔は大粒の涙を流し、縋った。
けれども望美との誓いを思い出し、悲しみを断ち切るべく奮う。
泣きながら、朔は笑った。悲しい笑みだが後悔はそこにはない。
愛しい者を一番に想い、堪えるその姿のいじらしさに一同も深く共感を想う。理の果てをただただ見届けた。
朔の別れの言葉と共に、黒龍は姿を消した。
あまりにあっけなく、音もなく消え去ったその神はただ幸せそうに微笑んでいた。
愛を知った神はまるで、人のように―――その場にいた誰もがそう思った。
まるで映画を見ているかのような感覚であった。
白龍の防御を解き、リンは遠くからその光景を見つめる。
遠くから聞こえてくるエンドロールを押し戻す事もしない。
黒龍を完全に龍脈へ還すべく、その逆鱗を砕こうと剣を突き立てる両神子の姿を見届けていた。
あれが破壊されれば自分の出番が訪れる。
長い長い、物語であった。
長い長い待ち時間であった。
「坐、出番だ」
「はい」
望美の刀が地へと突き刺さる音と共に響いた、逆鱗の砕ける音。それを合図にリンと白龍は舞台へと回った。
さあ、演じよう。
最高の“坐”という役を。
「白龍様!」
声を張り上げ主の名を呼び上げる。
その声に周囲全員がリンの元へと視線を向けた。
リンの声を合図に、白龍は印を結び祈りの言葉を紡ぎ始める。人の言葉ではない、神の真言。
聖なる陽の白き光はひたすらに厳粛な気を放ち、リンの体へと注がれていく。何物にも染まらない、真っ白な色で。
騒然となる周囲。口々に「坐が使われるのか」と呟くが、ある男の耳にそれは届かない。
―――目の前の黒龍に気を取られ、リンから目を離した。
男―――弁慶の瞳は作戦の失敗に真っ青に染まる。
このままでは己の願いが、奪われてしまう。その恐怖に喉が焼けつくような感覚に襲われた。
作戦を共にすると誓った、望美、朔も同様であった。血相を変え、白龍へ駆け寄る。しかし、一定の距離まで近づいた時、激しい痺れと共に体が吹き飛ばされた。
見えない壁―――白龍の結界が舞台への、坐という役者への道を阻んだのだ。
たまらず、望美が叫ぶ。
「やめて白龍!どうしてこんなことするの!?もう清盛はいない!五行の力だって戻ったはずでしょ!?」
どの言葉も聞き入れる様子のない白龍であったが、愛しい神子の言葉を無視する事は望まないらしい。
真言を途中まで唱えたところで、区切り、神子を振り返った。
その瞳はやはり普段の白龍となんら変わりの無い、人のように優しい色をしていた。
困ったように眉を下げ、穏やかに語る。しかし、その内容は揺るぎない、神の理でしかなかった。
「前にも話した通りだよ、神子。神子の言う通り龍脈は正された。私ももうすぐ龍の姿へと戻るだろう―――黒龍も再度生じ、応龍と化す。事実上の平和を約束するよ」
「違うわ!聞きたいのはそこじゃない…リンを…!」
―――朔。ぎらりと見つめる龍の眼に朔の言葉は封じられる。
気圧されるその眼力はやはり人のそれではなく、また、黒龍のものとも全く異なった。
顔を真っ青にする朔を弁慶が支える。平静を保っているがその頬には冷や汗が流れ、圧倒的、絶対的な力の差に怯えが芽生え始める。
しかし、引く事は出来ない。弁慶は気を引き締め、望美と共に白龍と対峙した。
白龍はため息を吐いてもう一度望美と向き合う。その瞳は悲しそうに歪み、おろおろと手を振って説明を続ける。
望美の理解を得たがっているように見えた。
「どうして分かってくれないんだ。これはあなたの為なんだよ、神子。神子が助けてくれたこの世界を二度と人の干渉を受けぬよう、平和を強固なものにする―――神子が望んでくれた世界の、皆の平和が成るんだ」
「この世界は私が救ったんじゃないよ!…みんなが、八葉のみんな、源氏のみんな、この世界に生きてるみんながいてくれたからだよ!」
望美の叫びが舞台へと届いた。自分一人で作り上げた平和ではない。
“運命を変えてでもみんなを救いたい”その一心で切り開き、突き進んだ一本の物語を皆が信じついてきたからこその結果なのだと。
その魂の叫びは結界を破り、舞台まで届く。役に演じ、スポットライトに輝くリンの耳にも。
白龍の光を纏いながら、リンもその声を受けて望美を見つめた。そして望美もまた、リンを見つめる。
「帰ろう、リンちゃん…!皆の世界に…!あなたを待ってる人が…」
「――――ばっかり…」
「…?リン、ちゃん…?」
リンの様子がおかしい。
白龍から注がれる力に意識が遠のいているのかと思ったが、そんなことはなかった。
先程まで交わしていた視線は、今はリンが俯いた事で逸らされている。隠された前髪で表情は見えないが、彼女を知りたくてよく観察をして、気付く。
リンは、望美を“拒絶”しているのだと。
しかしそれを許可しては彼女は坐にされてしまう。
人が神具になる契約の内容は分からないが、白龍の様子から察するに、完全に“物”になるのは確実なのだろう。
神子として、春日望美として、それを認める事は出来なかった。
望美は再度叫ぶ。
リンに届くようにと。
「一人でそんな重責、背負わなくていい!そんなのは間違いだよ!つらい事はみんなで助け合って解決しなくちゃいけない…!リンちゃんは物じゃない、私の友達なんだよ…!いなくなったら嫌だよ!!」
「“嫌だ”“間違ってる”って…あなた本当にそればっかり」
「!?」
ゆらり、とリンが顔を上げた。
その瞳の淀みなき色に望美は驚く。透き通った瞳には後悔などどこにも見当たらなかった。
白龍がリンを坐として扱っている間、自分はずっとリンが強要されその役割を受けているとばかり思っていた。
しかし、違ったのだ。
『リンは真実、坐としての己を受け入れていた』のだ。
望美は、言葉を失う。
その一瞬を見逃さなかったのはリンであった。望美の信じていた“信念”にヒビが入った一瞬、隠し続けた感情の一部から蘇る、憤りが溢れだす。
それは言葉の刃となって、望美へと放たれた。
「私の友達は、あなたが時間を戻した事で死んだわ」
「………え?」
「知ってるの。私。あなたが時間を戻して、人の運命を意のままに変えている事を」
―――何が、この世界に生きてるみんな、よ。
あなたが守りたいのは、あなたが見捨てたのは、あなたが運命を変えたのはいつだって“自分以外の誰か”だ。
理に従い、必死に生きる人間を嘲笑うかのように時間を巻き戻し、その努力を踏みにじり、幸せを噛み締めている。
そうだ。
そうだった。
劣等感なんかじゃない。
どうして見失っていたのだろう――――“私が貴女を嫌いな理由”。
どうせ最後なのだ、全てを晒してしまってもいいのかもしれない。
私がどれだけ醜い人間なのか、疎ましい人間なのか―――――愛されない人間なのか。
そっと弁慶を見やる。
神妙な面持ちでこちらを見やる黄金の瞳に迷いは見られなかった。
何があっても、彼は望美を見捨てる事はないだろう。ならば消え去る前に“私”への想いも断ち切らせてあげたいとリンは願った。
後味の悪い消え方しか出来ないのならば、せめて、彼の心に遺恨を残さぬように振舞おう。
「(……それが私の愛し方だから)」
エンドロールは流れ続け、緞帳が下りる準備は進む。
終わるまで、あと少し。