やさしいひと(弁慶長編:完結)
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26.分道
朔を無事に連れ戻した。
京邸で仲間が迎えるその瞬間、朔は申し訳ないと何度も深く頭を下げたが、誰も朔を責める事はない。
黒龍との悲恋を知る仲間達は皆それぞれにその想いを汲み、それでも立ち上がる決断をした朔を快く迎えた。
ふざけながらも景時も心底喜び、顔を綻ばせていたし、堅物の九郎も次の屋島戦への意気込みを新たに、再度黒龍の神子の力を貸りたいと願い出ていたほどである。
不安に満ちていた朔の表情も明るさを取り戻し、一行は心機一転、平家討伐の為、深まる戦への意気を整えるべく尽力した。
屋島戦への準備に追われる中、弁慶は時間を作るべく画策していた。
軍師としての責務は存外多い。
一人の犠牲も増やさぬようあらゆる方面から策を練り、情報を集め、分析を行い、何度も結果を予測しては再構築を繰り返す。
無論、指示統率者の力量も確実に把握しておかねばならず、実際の戦に置き換え、九郎、景時の行動分析、兵達の士気。
敗走時の逃走経路等、あらゆる可能性を想定して策をめぐらせねばならない。
「(昔の僕であれば、少数の犠牲は詮無きことだと切り捨てただろう)」
何よりも贖罪に生き、この世の全ての不幸は自分が引き起こしたのだと、全ての厄災を受け入れるつもりでいた。
それでいいと思っていた。今もそれは大きくは変わらない。
けれど弁慶は気付いてしまった。
欲しがってしまった。
自分が不幸になることで、連れ立って不幸になってしまう存在がいるのだという事を。
『私を使って』彼女は幾度もそう言っては笑った。心の底から弁慶の贖罪を、願いの成就を望み傍に寄り添っていたのだ。
弁慶が迷い、歩みを止める度に彼女は一つ一つ犠牲をその身に受け続けている。
あんなにも鮮烈に、生きた証を見せつけた彼女はもういない。友を想う気持ち、愛しい者を慈しむ気持ちに震える事はないかもしれない。
「(…もう、君のそんな姿は見られないとしても、僕は君と幸せになりたい)」
君の夢は僕の夢。
僕の夢は――――君と、幸せになる事。
自分と向き合い、罪を認めるという事は心が痛む。
けれど、後ろめたい気持ちを抱いたまま幸せになる事を望んでも、きっとどこかでその歪みに耐えきれなくなってしまうのだろう。
永久に幸せに、共に在るために。今はこの戦を成功させ“約束”を果たさねばならなかった。
寝ずの激務の嵐を潜り抜け、弁慶が朔と向き合う事が出来たのは屋島への出立の前日となってしまった。
訝しげな表情でこちらを見やる朔になんと切り出して良いものか悩んだが、その不安はすぐに雲散された。
本心を隠す為につき続けた嘘も、方便も、この年齢になれば本物になるらしい。
今更隠すものなど、何もないのだ。弁慶は恐怖心に嘘をつき、枯茶と瞳を重ね、つぶやいた。
「次の戦も激しいものとなるでしょう、命を落としてしまうかもしれません。そうなってしまった時の為に、朔殿には伝えねばならないことがあります」
「…急に改まって、私にだけ話すという事は弁慶殿の事だから、ろくな話ではないのでしょうね」
「ええ。黒龍の話です。朔殿にはつらい話となるでしょうが…」
嫌な予感を感じ取り大きく揺れる肩が目に入る。
黒龍の神子として気丈に振る舞っているとはいえ、まだ齢十八の少女である事に変わりはない。
この告白をすることで、彼女を深く傷つけるだろう。深く恨むことにもなろう。
近い未来を想像すれば、蓋をしたはずの恐怖心がガタガタと音を立てて暴れている。覚悟という名の手を伸ばし、弁慶はそれを押さえた。
それだけでは収まらぬ激しい抵抗。跳ね除けられそうなその蓋であったが、そっと添えられた別の手。
それはリンの手だった。
『私も共に行きます』その身はここにはなくとも、その覚悟は共にある。
二人分の覚悟を瞳に据え、もう一度枯茶と瞳を交わす。泣き出しそうなその瞳をまっすぐに捉えて声を膨らませた。
「黒龍を消滅させたのは、僕なんです」
冬の雪を思わせる朔の白い肌が一層白く、そして青く染まり、枯茶の瞳は大きく見開かれる。
わなわなと哀れな程に唇は震え、漏れ出る嗚咽を飲み込もうと添える手も、大きく震えており押さえの意味を成さない。
指の隙間から零れ落ちていく悲しみの滴に心を痛める権利はない。歯を食いしばりながら弁慶はただ整えた。罵声を浴びる覚悟を。
しかし、いくら待てども朔からの言葉はない。未だ心が整わないのだろうか―――僕達が考える以上に、朔の嘆きは深かったという事だろうか。
弁慶の心にも迷いが生じ始める。程なくして、朔がそっと顔を上げた。気が引き締まる。
涙に濡れ、真っ赤に染まる瞳は痛々しいがその瞳の奥―――宿す炎は怒りのそれではない。
肝を抜かれた。
「……責めないのですか」
「…話を聞かせて。…弁慶殿は確かに信用ならない人かもしれない。でも、望美も、リンも貴方を信じている」
大切な友達達が信じている人なのだもの。
私利私欲で行った事だとは思えない。思いたくない。
何か理由があったのでしょう――――それを聞かせてほしい。
弁慶をまっすぐに見据え、自分の運命から逃げないという確固たる意志を秘めた視線。幾度も見た色だ。
リンに望美に、朔に…。弁慶自身は気が付かないが、己の黄金にも宿した光だ。
その瞳に応えるには、弁慶自身も全力でぶつからねばならない。
己に、己の罪に――――弁慶はそっと、過去を語り始めたのであった。
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冬の空は空気が澄んでいる。
境界のない漆黒を突き抜け光る星の瞬きは可憐に輝きながら、同時に視線を惑わせていた。
高ぶる気を静めようと、六条堀川の邸を後にし近場を歩く。
夜に溶け込む袈裟を強く巻き付けたその内には、明日の為にと手入れを整えた相棒を握り締め、夜空の加護を浴びながら弁慶は京の町を歩いていた。
時折空を見上げては白い吐息を漏らす。ふわり漂うそれは、長くは留まらず闇へと溶け込み姿を消す。
何でもよかった。気を紛らわせるものであれば、何でも。そうでもしなければ、泣いてしまいそうだった。
「…皆、優しすぎるんです」
朔は、弁慶を最後まで責める事はなかった。
時折涙し、嗚咽を漏らしながらも、膝の上で握られた両の手は震えるだけであった。
さやさやと揺れる馬酔木の花飾りが彼女の代わりに嘆きを奏でるが、けれども朔は最後まで友と交わした覚悟を折る事はなかった。
弁慶が全てを曝け出した後、朔は一つの言葉を口にする。いつか敦盛から聞いたらしい、怨霊に関しての話だ。
『―――生きとし生けるもの、万物は巡る。それらは役目を終えた後、龍脈に戻り、新たに生じる』
その理に従うのならば、黒龍も新たに生じるのだろう。その一縷の希望を朔は信じると言ったのだ。
新たに生じた黒龍は、朔と思いを交わした黒龍ではないのだと弁慶が諭しても、朔はそっと首を横に振った。
悲しい表情なのは、変わらない。それでも、何度も言うのだ。「信じています」と。
その先に弁慶の罪を許す断定的な言葉はなかった。けれど、朔のその強い覚悟に弁慶は救われた気がしたのだ。
意味もなくふらりと足を進める。
長い散歩の果て、たどり着いたのは五条の橋の上であった。
相変わらず明かりの薄い集落を見つめて、ようやく気持ちが落ち着きを取り戻していく。
屋島の戦いを経て、清盛を―――黒龍の逆鱗を破壊さえすれば、ようやく己の贖罪は完成する。
命を捨てて、それを成す覚悟はとうに出来ていた。かつての自分であれば、迷わずそれを実行していただろう。
しかし、弁慶はその策を遠くへ放り投げ、消し去る。考えなければならないのは、神子の手綱を握る事―――それだけであった。
「(神子の力を借り、清盛殿を封じる…もしくは黒龍の逆鱗を破壊する策)」
どう焚き付ければ望美は描く筋書き通りに動くだろうか。弁慶は深く方法を巡らせるが、なかなかいい策が浮かばない。
望美の、人を疑わない性分を利用すれば簡単に動いてくれるだろうと予想していたが、彼女はそれ以上に強い意志を持っていた。
意志を捻じ曲げてまでは人の言葉に従わない事を、弁慶は身をもって知っている。
何度警告しても後を追い、秘密に触れようとする望美とのやりとりを思い出し、弁慶は苦笑と共に頭を抱えた。
同情を引いてでも望美を自分の考えに沿わせる必要があるのだが、彼女に過去を話すという選択肢は弁慶にとってはありえない事だ。
「(この贖罪は僕とリンさんだけの策。二人だけで共有し、事を成さねばならない)」
他の誰も触れてはならない絶対の領域。秘密裏に抱える薄暗いそれは、おそらく誰にも理解はされないだろう。
しかし、胸に広がるそれは心を満たし、弁慶の顔を綻ばせる。
―――何かよい策は。
「弁慶さん…!」
思考を遮り届いた声。弁慶は声の方を振り返った。こんな夜更けに、伴も連れず現れた戦の要に頭が痛くなる。
リンといいこの娘といい、なぜ自分の周りには危険を顧みず出歩く女人が多いのか…。
否、それだけ彼女達の世界が治安良く、平和に満ちていた世界だということを証明しているのだろう。
少しの不安を払うように、弁慶は勢いよく後ろを振り返った。声の主は満月を背に、長い髪を靡かせこちらを待っていた。
気高い、白龍の神子。春日望美がそこに立っていた。
「どうしました望美さん、こんな夜更けに一人出歩いては危ないですよ」
「すみません。どうしても明日の出兵前に、弁慶さんと話したいことがあって…」
「それで僕を探しに来てくれたんですか?ふふ、嬉しいな」
直情急き立てるまま飛び出してきたのだろう。寒冬の中、気温とは裏腹に薄着の望美に己の袈裟をかけてやる。
思った通り、真っ暗な袈裟に包まれながらその存在感は、強き瞳は月の光を受けて一層輝きを増すばかりだ。
彼女とは正反対の輝く姿が酷く眩しい。気付かれぬように瞳を逸らしながら、弁慶は一人、瞳を伏せた。
明日の出立は早く、戦乱はただただ激しくなる。このままここで立ち話をする利点はないと、弁慶は望美を京邸まで送る事を申し出た。
いつもよりもどこか歯切れの悪い望美に違和感を覚える。どうしたのですか?いつも通りの、深い意味のない疑問の言葉を投げかけた。
望美がその言葉に振り返る。
重なった翡翠の強すぎる色に、眩暈が走った。
瞳に酔ったからだろうか。望美の言葉に反応が遅れる。強すぎる視線の稲妻に痺れた脳を奮い起こして、呪縛を噛み砕く。
炙り出した“望美の言葉”は絶望の音色がした。
「…なぜ、それを君が?」
軍師もこれでは形無しだ。遠いどこかから、第三者的視線の自分が吐き捨てる。
情けない程に掠れたその声は、望美に果たしてどう届いたのか。けれども彼女の瞳は揺るがない。
人の裏を読み解けるような娘ではない事を、何よりも弁慶が知っている。しかし、その強い瞳を見ているとそれすらも間違っているような気がしてくるのだ。
まさか、彼女自身がそこに至ったと言うのだろうか。弁慶は尋ねる。
「君は僕の心の中を全て読むことが出来るんですか?」
「駄目です弁慶さん!絶対に駄目!…自分の身を犠牲にして清盛を塞き止めたって、そんな平和、誰も嬉しくなんてありません!」
何が彼女に火をつけたか。弁慶の前に出で、決死の表情で説得を始める望美は次第にその感情を高ぶらせていく。
先程までの鮮烈な光は悲愴に変わり、翡翠の輝きが弁慶を突き刺した。ぐさり、ぐさりと深く抉られ、音も無いまま噴出す血の涙に目が眩む。
こんなにも涙し、必死に死を拒んでくれている人がいる。生を望んでくれる人がいる。
今までずっと待ち続けていた存在であるというのに、弁慶はそれを素直に喜ぶことが出来ないでいた。
望美が暴れる度に、鋭利な真実の刃に切り裂かれる心は悲鳴をあげ続けている。認めたくない、嘘だと確かめたい。
そんな一心で、弁慶は再度尋ねた。
「望美さん、落ち着いて…。それは、君が気づいてくれたんですか?…僕が、命を投げ打って贖罪を果たすと決意した心を」
「いいえ…リンちゃんが私に託してくれたんです。弁慶さんを助けてあげてって。“あなたにしか出来ない”…って」
「―――」
弁慶は絶句した。
取り繕う言葉も出ず、得意の薄ら笑みすらも今は浮かべる事ができない。
なぜ、リンは望美に話したのだろうか。
共感し合った二人だけの贖罪だと弁慶は思っていたのだが、リンにとっては違ったのだろうか。
止め処なく溢れ出る疑問、そして抉られた胸の痛みを一時的に遮断する。冷静でなくてはならない。弁慶は唇を噛み締め、不安を振り払う。
第三者的視線で、傍観者に徹する己の精神を無理やり引っ張り出せば、心はすぐに穏やかとなった。
「今まで散々他人にやってきた事だろう」「どの面を下げ被害者ぶるのだ」飛び交う言葉は全て自分を責め立てるものだけだ。
理屈で固めてしまえば、悲しみも怒りも、痛みですらも「仕方がないこと」だと感情を騙すことが出来る。
必死に、内なる激情を抑えつけてしまえば、次第に唇に弧が戻ってきた。
ようやく意識内に振ってきた、意味を成さない空疎な言葉を、千切っては放つ。
「君はいつも僕を困らせて…。けれど、僕を追ってきてくれてありがとう。…君は本当に優しい人ですね」
先程の必死の説得の時に、落ちてしまったらしい袈裟をかけ直してやれば、望美は頬を赤らめ弁慶を見上げる。
弁慶の瞳は、望美の方向からは逆行となり、闇に溶け込んでしまったその色を読み取ることは出来ない。
その、淀み深い鈍玉に気付かぬまま、望美は一度呼吸を飲み込み、そしてありったけの想いを載せ、放った。
「私、弁慶さんの事が好きです。ずっと、一緒にいたい。だから…だから、どうか死なないで」
ああ。と弁慶はようやく理解した。
なぜ彼女がこれほどまでに自分を追い、涙しては詰ったのかを。
まるで他人事のように、あっけない言葉が脳裏をよぎる。
なんと薄情なのだろうか。目の前にこんなにも一途で気高く、ずっとずっと待ち焦がれていたはずの救世主がいるというのに。
弁慶の心を占めるのはただ一人。
ここにはいない儚い存在だけであっただなどと。
欲しかった言葉を、欲しかった存在を、その力強さを。
必死に追いかけて与えてくれようとしているのに、弁慶はその手を取ることが出来ずにいる。
ごくりと。全てを一度飲み込んで、弁慶はその手を拒絶した。間開かれる翡翠の瞳が満月に照らされ、悲しく輝く。
陰る事の無い、眩しすぎる月。時に太陽のように鮮烈であり、時に満月のように静かに輝く―――大切な、神子。
「―――もし、君自身が僕の心に気付いてくれていたのなら」
そこまで発し、弁慶は言葉を飲み込んだ。望美を責めるのはお門違いだと判断したからである。
彼女に後悔してほしいわけではないのだ。ただ、己には既に心決めた人がいると、それを伝えればいいだけだ。
裏切られても、拒絶されても、己が力のみで贖罪を遂げるという“信念”を捻じ曲げても。
それでも―――共にありたいと願った、ただ一人がいるという事を。
「…僕には心に決めた人がいるんです。その人以外は、考えられない」
すみません…“僕達の神子”。―――はっきりと。未練を残さぬように断ち切り、傷つける。
小さく震え、その瞳から大粒の涙を流していた。しかし、深呼吸の後、彼女はそれを拭い真っ直ぐに見つめ返してきた。
悲しみこそ宿れど、ただただ瞳は純真だった。はっきりと、望美は口にする。
「分かりました。…それでも、弁慶さんが死ぬことだけは嫌です。それだけは、許しません」
リンから聞いたという弁慶の過去を前提に、望美は自ら戦う事を申し出た。
黒龍の逆鱗の事、そして破壊の先に新たな黒龍が生じるという可能性、その希望への道のりを軸に、成功させるべく策を提案する。
その折、望美が一つ弁慶に願い出た。朔の事である。
「朔ならきっと、清盛と戦うって言うと思うんです。だから、それを私は支えたい。朔の意志を守ってあげたい」
「それは、しかし危険な行為です。それに、朔殿がそれを望むとはっきり分からない以上は…」
弁慶の言葉に望美は首を振る。揺るぎない瞳から伝わるのは、朔との友情、その信頼の証であった。
望美は彼女を深く理解し、そして信じている。その間にどんな事があったのかは弁慶には分からないが、二人にしか知り得ない絆があるのだろう。
その志を捻じ曲げたくはなかった。状況が読めぬ以上全てを肯定することは出来ないが、可能な限り意に添うよう協力します。
そう告げれば、心底嬉しそうに望美は微笑んだ。
人を想い、喜ぶその姿は酷く美しい。―――優しい人だと、弁慶は深く思った。
「…君はリンさんとは違う優しさを持っている」
「………」
「心痛んでいるでしょうに、それでも皆の幸せを考え、道を切り開いてくれる。君は本当に“やさしいひと”なんですね」
他意のない本心であった。しかし、望美はその言葉を聞き、寂しげに笑った。
落ちた視線に被る袈裟は彼女を隠し、夜の闇に溶け込ませる。
体格の差ですっぽりと覆われる望美の丸い背の弧が、初めて消えてしまいそうに、か細く揺れた。
届いたのは、普段の彼女からは想像できないほど、弱々しい声だった。
「…全部、リンちゃんが教えてくれたことなんです。朔の気持ちも、弁慶さんの気持ちも、全部。私じゃ何にも気づいてあげられない。…私は全然優しい人間じゃない。本当に優しいのは…リンちゃんなんです」
迷いが彼女を苛んでいた。いつだってその瞳が揺るぎなくまっすぐだったのは、その道を往くことを迷わないからだ。
正しいと、その先に未来があると、信じているから。
しかし、その切り開く腕は時に人を傷つけ、犠牲にすることもある。人はそれを悟り、迷いを生じさせるのだ。
自分が前に進むことで、傷つく人間が、希望を捨てざるを得ない人間が出てくる。その世の業を知る人間は少ないかもしれない。
しかし、その結論に至ったこの娘は。自分も傷つきながらも前に進むと決意するこの神子は。
「君には君だけの優しさがある。君のおかげで、僕達はこうして生きて今日まで来られたんです―――ありがとう。神子」
望美はその言葉にしゃくりあげ泣きだした。弁慶はそれをそっと抱きしめ、胸を貸してやる。
彼女に纏わせた袈裟を自分に戻し、月から隠すようにひっそりと。
常に張りつめさせている望美の神子としての責務を、明日からも強要する事への罪滅ぼしか、ただただその優しさを癒すためか。
思った以上に細い体に運命を背負い、走り続けてくれる神子を少しでも支えられるのならば、八葉として己の責務も満ちるのだろう。
満月の光から遠ざけるように。ただただ、弁慶は望美が泣きやむまで彼女の体を抱きしめていた。
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リンに伝えた弁慶の計画、屋島での策の変更を伝えると彼女はさして気にも留めないといった様子で了承した。
その無頓着な様子に弁慶の内に疑心が湧き上がる。必死でそれを否定するが、芽生えた不安はじわじわと広がっていくようだった。
なぜ望美に二人の信念を、その実現計画を話したのか。それを問い詰めたくとも、上手く聞き出す言葉が思いつかない。
彼女が関わるとどうにも冷静になれず、感情的な言葉ばかり出てきてしまう己を嫌悪した。
理屈ではなく、心が彼女を求めているのだと肯定できてもその想いが上手く交わっていない現実に弁慶は成す術を持たなかったのだ。
あるいは望美のようにまっすぐであれば、素直に聞く事も出来たであろうに。
長く己を殺し、律し続けた弁慶に染みついた“建前”という名の大人の振る舞いは、素直になる事を許しがたかったのだろう。
「(リンさんは僕の贖罪を共に遂げようとしてくれている)」
以前、将臣とのやりとりを思い出した。リンは彼に「救いたい人がいる」と幾度も告げていたという。
弁慶の贖罪を彼女は受け入れ、将臣と袂を別った。今となって、弁慶はリンの差す“救いたい人”が己であると確信したのだが、違ったのだろうか。
―――僕の思い込み。自惚れ。
そんな言葉が浮かんでは、必死でそれを否定する。
自分の得ている情報や量った心とを組み合わせれば、導き出される答えは相思であることに間違いはないのに、どこか、交わらない違和感を感じるのだ。
それが、見えそうで、見えない。
もどかしさだけが弁慶の心に巣を作っていたのである。
朔を想う望美の意志を尊重する形で、屋島戦は開戦した。真冬の雪深い四国の地。
福原を追われた平氏が身を寄せ、新たな都として構えた讃岐国に降り立つ源氏の表情は緊張に引き締まっている。
この戦でもしかしたら長きに渡る源平の戦に終止符が打たれるかもしれない。
ある者は兄との約束に、ある者は秘めたる願いの成就に、解放に。五行を正す、最後の戦になるかもしれない。
各々が個々の願いを抱き、決戦へと臨んだ。
三種の神器の奪還、安徳帝の確保――――清盛からの黒龍の解放。翡翠、黄金、枯茶。全ての瞳が強かに輝いていた。
水平線に抱かれる白雪の風景は、何物にも染まらず、また何物にも染まり上がる不安定な後ろ姿を髣髴とさせる。
その娘は遠い源氏本陣に置かれ、白龍が保護している。
今はただ、願いの成就を目指し、突き進むのみ。
「相手にとって不足はない、いざ、尋常に勝負!」
たとえ、血が流れたとしても。もう、振り返る事は許されない。
遠く、遠い屋島の沖を眺めリンは静かに傅いていた。白い髪は雪に曝されれば、その境界を失う。
許しを得て顔を上げれば白陽を後光に、龍神が見下ろす光景が広がった。色の薄い空に透き通る、白銀の髪に、端正な顔立ち。
甘い声とは裏腹に、その神は決して妥協を許さない。リンの頬を持ち上げ、その瞳を隅から隅まで漁る。
確認し終え、一息ついた白龍は満足げに頷くと、リンを雪の上に放り投げる。さく、と潰れる音がしてリンは雪上に転がった。
「予定通りで問題ない」
「―――はい」
短くそう告げたそれっきり白龍は人の言を話さない。意識は既に戦場の白龍の神子へ向かっているのだろう、どこかそわそわと落ち着きのない様子が窺えた。
まるで人のように、誰かを心配する様子を見せる白龍は神ならざる姿なのだろうが、その人間臭い様子にどこか安心さえ覚える。
龍神が神子の味方なのは心強い。京に平和が戻った後も、神子を想い、優遇するだろう事を想像すれば喜びも増すようだ。
神子の安全は、弁慶の安全。神子の幸せは、弁慶の幸せだ。それはリンに希望を与える。
「(私の事なんて忘れてくれていい。忘れちゃう程に、幸せでいっぱいになってくれればいい)」
何度も何度も同じ願いを繰り返し祈る。このごろのリンはそれ以外を自力で考える事が難しくなっていた。
弁慶の幸せを願えない時間は、ただ虚ろに視線を彷徨わせるだけで、思考も何もかもが動いていない。
白龍が奪った“友情”という感情は、ただそれだけが抜け落ちるという単純なものではなかったのだ。
友情をはじめとする“感情”の繋がりで生まれていく無数の“想い”。その集合体がすなわち“人格”。
そのつながりの調和が崩れ、リンは既に“人格”をも失いつつあった。文字通り、人ではなくなり始めていたのである。
人が人として当たり前に抱いている、感情、倫理、精神。
当たり前に“存在する”という理を捧げる事が坐の代償ならば、この坐は最高の出来となるのだろう。
既にリンは大きな犠牲を払っていた。「人間であるのに人として生きることが出来ない」その代償を。
「お前を選んでよかった」
存在を肯定する称賛。
しかし、その言葉はもう、リンに喜びを思い起こさせることはなかった。
けれども震える鼓膜の奥、繋がらない思考回路の片隅でそれは価値を持ち、きらりと光った―――そんな空想を楽しんだ。
真っ白な水平線の向こうを飽かず見つめながら、リンはそんな気がしていた。
長い旅路の終着点―――見つめていたのはただその一点であったのかもしれない。
それは誰にも分からない。そして意味を持たないただの“可能性”でしかなかった。
平家の将は次々とその命を散らしていった。
志を遂げる者、運命に抗わない者、それぞれがそれぞれの願いに添うて。
景色を染める白き冬に波の音と共に揚がる清き白幟。裏腹に、紅く滾り燃える猛々しい源氏軍の士気に気圧される。
怨霊を破った神子と大将、武人の咆哮をバックに湧き立つ牟礼浜で三者は視線の先を重ねていた。
諸悪の根源と定める、清盛。その野望の礎とされている黒龍。
脅かされている京、日ノ本を守るため、あるいは罪を償うため、真実を解き放つため。
それぞれの思惑を乗せ、突き刺さる視線の先は―――清盛の潜伏が推測される厳島。備後の離れ島であった。
皆が覚悟を決める中、弁慶は一人、黄金を曇らせている。
いつからか薄らと湧き上がっている、霧のような淀み。
意識を定めなければ透き通ってしまいそうな程の不確かな違和感。しかし、日に日にその色が濃くなっていく気配を感じ取っていた。
それが何であるのかが分からない。
これからの戦に向けての迷いか。自分の心に問いかけども手は宙をすり抜け空回るばかりでもどかしく思う。
「(…何か、大切な事を忘れてはいないか)」
――――何を?
「いよいよ…だね」
「……そうね」
両神子が最終決戦に向け、互いの信念を確認し合っている。その瞳に退却の姿勢は見られない。
特に望美はこの先に待ち受けているであろう運命を知っている。――黒龍の逆鱗破壊後の黒龍甦生。
故に朔よりもその瞳に宿る決意は強固なものに感じられた。朔の方は時折表情を曇らせる姿が度々見られ、まだ不安は完全に取り除けていないのだと推測された。
弁慶自身も、望美も、リンも、誰もが黒龍の甦生の可能性を伝えていないのだろう。
その場になり、朔がどのようにその事実に向き合うか朔を信じ委ねる事に決めている故に。
「(リンさんはかつての僕によく似ている…本当に)」
他人の贖罪を手伝うだけの立場のはずであるのに、気付けばその本人よりも手段を問わず進んでいる。
望美に話した事は本音としては寂しいが、しかし何より弁慶自身を一番に思ったからこその選択だったのだろう。
そう、受け入れればその寂しさも耐えられる。そこまで己をかけて力となってくれる姿が愛おしい。
―――ちくり。
胸を刺す痛みと共に思考が停止する。どこからともなく違和感の霧が流れ出でて、視界を曇らせていく。
一番愛おしい存在を想っているだけだというのに、違和感に包まれるとはどういう事なのだろうか。
「(……なんだ?)」
気持ちをどれだけ前向かせてもすぐに差し込まれる「待った」の警告にそれ以上先へ進むことを阻まれているようだった。
リンの事で何か―――冷静に、過去を炙り出し、弁慶は分析を始める。
このままこれを抱えたまま終幕へ進むという事は、迷いを持ち込む事と同意義だ。それでは成すものも成されない。
少し前まで感じられていた心の淀み―――“望美に贖罪への計画を話した事”への心の傷は、己で癒す事が出来た。納得もしている。
解けていないリンの謎。
疑問――思い当たる事と言えば宇治の詰所でのリンの激昂の理由だ。
しかしその対象は望美であったし、その後二人はそれなりに親密に話をしているようであったためそれは左程の疑問ではない。
「(僕と彼女の間でまだ何か、あるというのだろうか)」
弁慶の胸に留まるものといえば、贖罪を遂げ、己の足が地についた時。
彼女にこの世界に留まってもらうよう想いを伝える事だけだ。
リン自身も贖罪を遂げる事を心から望んでくれていた。身を呈して添うてくれている―――その彼女を思いきり、憚らず抱きしめたいと願う。
己を犠牲にしても弁慶へと心を寄せる優しい彼女を――――…。
かちり。
弁慶の時間が止まった。
次第に迫り来る“焦り”に目が宙を彷徨う。
思い出したのはヒノエの忠告であった。
つかず離れず、弁慶と嫌味を交わし合うだけの性質の似た甥。
その彼が一度だけ、弁慶にも読めない奇妙な一言を放った―――それが、記憶の片隅から炙り出され現状と相成り、はっきりと鮮明に存在を浮かび上がらせる。
「……馬鹿、な」
何度も思った。彼女と僕は似ているのだと。だからこそ互いの心の内を汲み、理解し合う事が出来たのだと。
そして彼女という想い人を得た事で、一人贖罪に生きるのではなく、その先を共に、二人で幸せになれたらよいという願いを抱く事になった。
現状目の前の全てを利用してでも信念を貫く―――己の身を捨てて贖罪を果たす…そんな、“強かった”僕は次第に姿を消し、弱さを受け入れた。
けれど、どうだっただろう。彼女は。
「…僕が弱くなればなるほどに、彼女は“かつての僕”に似ていく……」
誰にも明かすことがなかった心の内に気付き、触れ、道を示してくれた彼女。
他の誰も必要以上に傷付かぬよう、皆が幸せになれる道を一緒に考え、共に歩むと誓ってくれた彼女。
けれど、弁慶は思う。“僕は彼女の心の内に気付く事が出来ているのだろうか”と。
かつての僕に似ていくリンの心の内を――――“坐”という責務を背負う彼女の本懐を。
「……まさか」
君は、命を犠牲に、坐になろうとしているのではないだろうか
白龍が望む“モノ”として生きる運命を受け入れようとしているのではないだろうか
『好きな女の一人も守れないようじゃ、あんたもそれまでって事だよな』
ヒノエの言葉の真意が花開いた。
冬の海の果てで、静かに。
寒風流れ来る浜で立ち尽くす。冷やすのは身ばかりではない。焦りと恐怖とで凍えるのは心だった。
ああ、なぜ、今頃になって気付くのだろう。弁慶は深く己を責めた。
逸らし続けた朔への罪悪感をリンに指摘されたあの時に、彼女ははっきりと言っていたではないか。
命を犠牲にし、贖罪を果たす計画を立てていた心を見抜き、驚く僕に一言「私も、そういう人間だから」――と。
弁慶は頭を振り、悲壮感を断ち切る。今の己の願いは、本懐は贖罪を遂げ散る事ではない。
平和に満ちる世界で、リンと共に生きる事――――
「君を、死なせない」
坐がどのような形で平和を保つ礎になるのかは分からない。今から調べようとも時間はなく、白龍も口を割らない事は必至だ。
状況はかなり分が悪い。しかし、この圧倒的不利な現実を覆さねばリンは壊れてしまう。
策は……どこにもない。絶対的な成功を遂げるための策は弁慶には立てられない。
ならば、力を借りよう。弁慶は両神子にそっと声をかける。振り返った二人が一瞬面食らった様子が手に取るようにわかった。
随分、怖い顔をしているのだろう。
「望美さん、朔殿…少々話があるのですが、よろしいでしょうか」
―――散らせてはいけない。
“君は、幸せにならなくちゃだめだ。”―――いつかの誰かの言葉が、重なった。
「(熊野の男は諦めが悪いんですよ、リンさん)」
弁慶は望美、朔に厳島で起こるであろう運命の果てを伝え始めたのであった。