やさしいひと(弁慶長編:完結)
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25.決壊
なりたかったものはなに?
天井の木目、川の流れのように柔らかい流線を描く生きた証に、添うように。リンは身を起し、目を覚ました。
どれほどの時間気を失っていたのか、抜け落ちてしまっている意識では上手く把握できない。
布団が動かないのは右側に大きな男が寝転がっているからだ。掛け布団の端、転がり眠るのは将臣だ。
ざっくりと切られた青い髪は随分と乱れていて、組まれた腕から見える顔、その目の端には隠しきれない疲れが滲んでいた。
ずっと付き添っていたのだろうか。あんなにも酷い事を言って突き放した女を。
「…俺の言ったとおりだろ、ざまあみろ。って言えばいいのに」
憎まれ口を叩いてみても、気分は晴れない。
リンはため息一つ、そっと胸に手を当て己の感覚を探った。
これじゃない、これでもない。
随分と少なくなってしまったそれらの中、耳を研ぎ澄ませ聞き取る一つの鼓動。
―――恋心。
存在を示すように艶やかな色を放ち、リンの胸を染めた。
ほっと息をついたのも束の間、巡る胸の中にぽっかりと穴が開いている場所がある。
白龍に奪われた“友情”。
その穴はかつてそれが隙間なく詰め込まれていたはずであるのに。ただ、今は虚空であった。
意識を失う直前、朔を想うあまり燃え上がらせた、激しい怒りを望美にぶつけていた記憶はある。
けれど今はもう、なぜそんなものに、あれほどまで激昂したのかが分からない。
意識を飛ばさせられ、自責の闇から抜け出でて、今ここに戻ってこられた安堵感がようやくリンに実感となり現れた時、同時に目から涙も流れた。
しゃくり上げては将臣に気付かれてしまう。
咄嗟に布団へ、もう一度潜り込み、顔を隠した。
大切なものを奪われたはずなのに、どうしてなのだろう。悲しいのに、後悔は欠片ほどもなかったのだ。
それをどこかでさびしいとは、感じたのだが。
しばらくして将臣が目覚め、リンの意識が戻った事を確認しては眉を下げて優しい顔を見せた。
何か言いたげな将臣を見つめながら、それでもその言葉を聞き出すことはしない。彼が言いたい事は分かっていたからだ。
彼も既に覚悟を決めているはずである。そして、それはリンとて同じ。
互いが互いの願いを叶えるために、願いを刃に変えせり合う事を選んだのだ。今更楽になる道など、提示されても選ぶはずはない。
生半可な覚悟で、選んだ道ではない。今の将臣にならば届くだろう。リンは厳しく見つめ返した。
あの闇の中―――開け放たれた劣等感。
それが自分の身に帰って来た事を忌々しくは思うが、既にもう心配する事はなかった。
リンが思う以上に心は“坐”に沿うていたらしい。恋心こそ殺さず宿していたが、望美を見ても、弁慶と並ぶ望美を見ても、深く感じ入ることはなかった。
成長していた。感情をコントロールできるという、望む姿に。
「(弁慶さんに出会う前の私だったら、あなたの隣に立つという幸せを欲しがった)」
たとえ弁慶が望まずとも、隣に居座る野望を抱き、彼の気持ちを汲む事もせず、そして望美に譲ることなど考えなかっただろう。
「(きっと、あなたの気持ちなど考えずに、自分の幸せだけを求めた)」
リンは瞳を伏せる。胸に燻る恋心は炎を持たず、灰の中に埋もれて煙を上げるだけ。
燃えることは許さない。
けれども、消されることも望まない。
燃えぬよう消えぬよう、気付けば随分と火の番が上手くなった。
瞼の裏に浮かぶ、幸せの幻影。弁慶の本当に笑った顔であった。
幸せに満ちた世界で、愛しい人と支え合いながら生きていく、未来の姿。
今はもう、弁慶の幸せだけを願っている。―――その未来を実現する為に。
リンは立ち上がり、望美の部屋を目指す。将臣が呼び止めるのにそっと返事を返した。
「春日さんに伝えなきゃいけないことがあるの」
「…会えるのか」
「どうして?…平気。何も感じないもの」
がたん、と将臣の動揺が聞こえた。何か言いたげに息を飲む音も聞こえたが、リンは振り返らず望美の部屋へと向かう。
将臣がなぜ呼び止めようとしたのか、リンにはもう、分からなくなっていたのだ。
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私の事、嫌いになっていいよ
「…それ、本当なの?信じたくないよ、そんなの」
望美はその顔を歪め、落ち着きを探すように手をあちらこちらに彷徨わせている。
暫くそうしていたが、望美も思う所があったのか、ぐっとこらえるように一度瞳を閉じた。
そして聞こえる嚥下音。静かな部屋に、それはいやに大きく聞こえた気がした。
リンは弁慶の計画を全て望美に伝えた。
清盛との衝突、黒龍への呪詛、応龍の消滅…そして己の命を犠牲にし、罪を償おうとしているという事を。
望美には酷い動揺が見られた。全ての元凶、その顛末…真実を受け入れるにはあまりにも多くが関わりすぎている。
その大勢の思惑により狂わされた流れを、龍神の乞うままに元に戻すだけが神子の役目だと思っていたのかもしれない。
―――否、そんなことを考えてはいなかっただろう。ただただ目の前の困っている人間を救いたい。その明快な正義感だけを見据えていたはずだ。
この世界の過去を知ったところで、望美はそれを思い悩む性格ではないことをリンはきちんと把握している。
方法はどうであれ、望美が道を切り開き運命を変え続けている事は事実で、それによって救われたものがある。
だからこそ小細工なしで、洗いざらい話すことを決めた。
力となってもらわねば、弁慶の考える贖罪の策は破れない。
「助けてあげて。あなたにしかできない」
リンにはない神子の力。そして、劣等感を抱くほどに憧れた“運命を切り開き進む強さ”。
それさえあれば、この先に待ち受ける悲しい運命をも砕き、幸せに満ちる世界への礎を築く事が出来るだろう。
そうなれば、私の悲願―――本懐を遂げる事が出来るのだ。その日を思うだけで花畑が広がるような歓喜の息吹が祝福を始める。
その来る幸福の瞬間の為に望美を利用する事に痛む胸はない。随分と身勝手になったものだ。
人を傷つける事が怖いのだと、人を不快にさせる事が怖いのだと泣いた私は―――どこにいってしまったのか。
『本当に、随分と遠くまで来てしまった』あの日よりも、もっと、もっと。
心に折り合いをつけたところで、望美を再度見やる。
先程まで宙を彷徨っていた手は膝の上に行儀よく揃えられており、混乱は腹の内に収める事が出来たらしい。
代わりに、思いつめたような表情に集結された困惑を読み解く。リンは望美の言葉を待った。
「…リンちゃん、どうしてそんなことを知っているの?」
「…?」
「弁慶さんの隠してる事、どうやって知ったの?弁慶さんいつもはぐらかして、私には何も教えてくれないよ。……弁慶さんと、その…どういう関係なの?」
言いにくそうに身を捩る姿は年相応の女の子だった。頬を染め、伏せた睫に隠す翡翠の瞳は不安に揺れ、いつもの強い光はどこにもない。
頭のどこかで“いじらしい姿”という単語を引っ張り出してきたが、それだけだった。
かち、かち、と脳内に収納された単語を並べ、状況を把握する。望美の想いを理解は出来るが、心で理解―――共鳴出来なかったのだ。
望美の本心を探り出し、今後の未来への展開とを織り交ぜ、言葉を吟味する。
そうして出来上がった“言葉”を最善の“音”で放つ。感情を込めるように、喉を奏でた。
「無理やり聞き出したの。だってあの人こそこそと人の裏を嗅ぎまわっていて、何か悪さでもするんじゃないかって思ったから」
「…でもリンちゃん、人には隠したい秘密があるって私に言ったよね?嘘だったの?」
「それは本当。弁慶さんは軍師だから、秘密を持っているのは当然だから。でも軍事情報は仲間に隠しておくものじゃないでしょう?…おかしいな、って思って」
我ながらこれ程平然とした調子で嘘を吐けるとは思わなかった。しかし、何よりも驚いたのは心が全く痛まない事であった。
リンの目から見て、いくつも矛盾を孕んだ嘘の言葉であったが、望美を説得させ得る程度には心理を織り込めたらしい。
とにかくこれで“弁慶とリンが恋中ではないか”という望美の疑問の答えにはなったはずだ。
今一度、念を押しておかねばならない。はっきりと、言葉にする。
「安心して。弁慶さんは恋人ではないし、私も弁慶さんの事は男性として見たことなんてないから」
あなたの邪魔はしないよ。
手の内を晒し無害である事を証明した。嘘にまみれた手の平を見て、望美は上手く騙されてくれる。
本当の心も本当の願いも、全ては腹の中に移してある。ここは誰にも覗かせないリンの深層だ。人としての最後の砦。
深く深く押しやり、リンは再度望美と向き合う。ゆらゆらと揺れていた翡翠は、元の輝きに鮮やかに輝いていた。
真っ直ぐ見据えるその石には歓喜の光に満ち溢れ、微かに女性らしい色香が差し込んでいる。恋の色だった。
女の子は恋をすると綺麗になる。その言葉ままに“綺麗”に色づくこの蕾を見て、弁慶も喜ぶだろうか。
この蕾を開花させる弁慶を、その世界を作るためならば―――リンは一度息を飲む。ここに来た目的を果たさなくてはいけない。
「黒龍の事、弁慶さんが絡んでいるの。事態は複雑に絡み合っていて皆それぞれ傷を抱えて生きている……“朔さんの気持ち、汲んであげて”ね」
「うん。もちろん!朔は親友だもの。もちろん、リンちゃんのことだって大切な友達だよ」
「春日さんは本当に優しい人ね。ちゃんと“仲直り”してね」
――――ぱたん。襖を閉め、リンは自室へと戻る。
頭の中に残っていた言葉を望美に伝え、目的は果たされたがリンの中で不可解な疑問が渦巻いていた。
きっと、失う前はその言葉に込められた“気持ち”を感じる事が出来たのだろうが、今は見つめてみても何も感じられないままだ。
自室への道すがら、廊下の向こうに広がる秋の庭を眺める。譲の箱庭には新たに植え直したらしい菊が揺れていた。
その隣で取り損ねたらしい、夏を乗り越えた逞しい桔梗が花を咲かせ、虚ろにこちらを見つめている。
秋風に揺られ、ふらりふらりと身を靡かせる姿の侘しさに、深層の砦をそっと覗けば、その奥には涙の溜まりが出来ていた。
「…弁慶さん怒るよね。二人だけの秘密、ばらしちゃったもんね」
これも、本当はいらない感情。
自分で自分を否定する。望美と離れ一人になったところで、張り詰めていた糸が解けてしまえば。
結局人としての感情は溢れだし、痛みを訴えるのだ。いらないのだと不要なのだと、何度も何度も踏みつけてもどこからか湧いて、溢れてきてしまう。
出てこないで。気付かれたら、それすらも奪われてしまう。坐になるという決意と矛盾していることは分かっている。
それでも。結末を捻じ曲げようだなどとは思わないから、この気持ちだけは抱く事を許してほしい。
――どこにもいない神に、リンは縋った。聞き遂げられない事を知りながら、それでも。
「譲さんの願いも、叶わないんだなあ………私と、一緒ね」
箱庭の楽園。菊花の影の桔梗と視線を交わしながら、そっと慰め、リンは笑った。
「私の事、嫌いになっていいよ」
それは誰に向けた言葉であったか―――何度目の“また”になるだろうか。
リンはまた、胸に抱いていた“ひとつ”を、諦めた。
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後日。仁和寺以外の怪異、呪詛の人形を無事浄化することに成功した。
京の町に怨霊を放ち、混乱に陥れていた張本人、平惟盛と戦い、これを封じる事で京の町を守った形となった源氏の神子は一層讃えられることとなった。
後に聞いた話、この騒乱は惟盛の独断で行われたものであったらしく、平氏勢力の意とする攻撃ではないとの話が伝わったが、真意の所は定かではない。
怨霊となった惟盛、そして生前の姿を知っているらしいヒノエが苦言を呈していたが、封印される最後の最後まで過去の己を拒み続けていたという。
元は花や歌を愛で、心優しい男であった惟盛も源平の、諍いの世に巻き込まれ己を失った被害者なのだと、望美は胸を痛める。
その様子に周囲は心を痛め、彼女を慰める仕草を見せる中、全てに背を向けるように振り返るのは将臣だ。
「じゃあ、俺はまた戻るな」
痛々しい笑顔だった。守りたい一族が傷付いていくのに、こうして怒りに任せず運命を受け入れる強さがリンには眩しく映った。
将臣が選んだ道は決して生易しい道ではない。恨み嫉みが飛び交ういばらの道。
けれども彼は決して振り返らない。その覚悟に心が震えた。八葉と幾度目かの挨拶を交わし、広い背中は紅葉の奥へと消え去っていく。
その背が見えなくなるまで、目を離す事は出来なかった。
死んでいく彼女の瞳を救う事が出来ない空しさに、将臣は知れず唇を噛んだ。
自分がこれまで生き抜き学んだ真実では、彼女を救う事が出来ない絶望感に苛まれながら、けれども将臣もその真実を否定する事は出来ない。
色んなもんを背負い過ぎちまった―――夢であったか現であったか、いつか再会した望美にそう言ったことがある。
いつだって揺るぎない視線で前を見据えていた幼馴染は、困ったように寂しげに瞳を伏せていた。
大切なものを守る為に強くなった。しかし強くなればなるほど、大切なものが苦しみに喘いでいるだなどと、どうしてそんな矛盾が生まれるのだろう。
―――幸せの形は人それぞれ。譲が見つけた一つの考え。
兄弟同じ考えへと近づきながら、将臣はそこに至る事は出来なかったのである。
山は次第に色を失っていった。
目を奪う絢爛たる紅葉の敷き野原が土へと帰る頃、京の町にも雪が降り積もった。
全ての色を奪い染め上げる白雪の清廉な様に心が洗われる。季節は冬になっていた。
福原での大打撃もあり、平家に甚大な被害が発生した秋以降、源平両者睨みあいといった形で騒乱はなりを潜めていたのだが、京邸にどこか不穏な空気が漂い始めていた。
武家人としての責務に追われる景時はしばしば邸に戻らぬ事もあったのだが、ここ数日は出兵の命もないのに外泊が続いている。
もしかしたら平家との最終決戦が近いのかもしれない。皆言葉に出さずとも、緊迫した空気を感じ取っていた。
未だ朔が戻らぬ京邸の一室、窓際に凭れて望美は空を眺めていた。
灰色の空、ふわりふわりと舞う雪は白く、望美の瞳にいつかの宇治川の光景を思い出させていた。
あと数月跨げば、異世界へと飛ばされて一年になる―――もとい、二年の年月だ。
越せなかった冬を今はこうして乗り越えることが出来たのだ。
存命している運命に思いを馳せる日々もそろそろ終わりにしなくてはならない。
「…朔を迎えに行かなくちゃ」
ふわり、ふわりと舞い降りるように。朔からの便りが届いた。
そこに綴られていたのは簡単な近況報告、身の寄せ場所、そして謝罪の言葉であった。何度も、何度も。
八葉も思う所があるのか、朔の手紙からその想いを察し、彼女を労わる気持ちを表していた。
朔の居場所――――いつか、黒龍への愛を語ってくれた京の大原。
そこの尼寺に身を寄せているとの事であった。望美はその行先を何度も心で繰り返す。
愛しい人との離別。
その状況を知りながら、無責任な言葉で朔を傷つけてしまった自分を振り返れば次第に重くなっていく足。
それでも、望美は行かねばならないと覚悟していた。防寒対策を行い、部屋を出る。
途中、気づいた譲に声をかけられたが「朔を迎えに行く」その一言だけ告げると、伴もなく大原へと一直線に向かったのである。
一面の銀世界。小さな寺へ身を寄せていた朔は穏やかな表情で望美を出迎えた。
その表情に望美と再会した気まずさや喜びもほとんど感じられない、能面のような作り顔で微笑みかける。
通された部屋の中、望美は朔の話に耳を傾けた。
神泉苑で衝突した後、蘇ってくる黒龍との幸せの日々と現在との現実に耐えることが出来ず、世俗を捨て、この寺でひたすら黒龍を偲び、祈っていたという。
黒龍がもうこの世には存在していない事、龍神が神子という存在を頼らざるを得ないほど荒廃した世であるという現状。
全てを受け入れ、その運命に抗わず、静かに世の平和を願う。
聞こえる木々の生命ひとつにさえ、黒龍との思い出が生きているのだと、過去を写す人生を受け入れようとしていたのだ。
感情が抜け落ちたような、穏やかな表情は一種の幸せに満ちている。朔自身もそう言った。
しかし、望美にはそれがどうしても本当の幸せであるとは思えなかったのである。
あんなにも、感情を剥き出しにして叫ぶ程に深い想いを秘めているのに、それを凍らせてしまう事が悲しくて悲しくて仕方がなかったのだ。
「本当にそれでいいの?」
気付いた時には口にしてしまっていた。思った通り、朔は悲しそうな顔で望美を振り返る。
そんな顔をするということはまだ、黒龍の事を完全に諦めてしまったわけではない。望美はそう思い、続ける。
「朔は全然幸せそうに見えないよ…黒龍が本当にいなくなってしまったのかだって、まだ分からない」
「…望美には分からないかもしれないけれど、本当に、黒龍の気配は欠片すら拾う事が出来ないの…何一つ、希望は見えないのよ」
さめざめと朔は泣いた。怒鳴る力も残されていない、悲しみと絶望の結晶は畳を濡らし、部屋をひたすらに悲壮へ染め上げた。
震えるか細い肩に触れる事は許されない。代わりに望美は朔の気持ちを量る。過去の、彼女の姿をも。
これ程までにただただ泣くだけの無力な弱さを、朔は今まで一度だって見せてきただろうか。
愛しい人を目の前から失い、それでも彼女は世を儚みこそすれど、神子である事を放棄せず戦場に出で立っていたではないか。
張り詰めた糸をひたすらに張り詰め、必死だったのは朔の方であろうに、時には心からの笑顔で私を応援し、励まし、傍にいてくれた。
どうして、気が付けなかったんだろう。
リンに怒鳴られ、諭されるまで朔と向き合う事さえ出来なかった。
「(……リンちゃんに逃げてるって言われても仕方がないよ)」
気が付けなかった。知らなかったものを気付くことは出来ないのだ。譲をはじめとする八葉はそんな私を許してくれた。
あの中で朔の黒龍への想いを知っている人間はいない。だからこそ、許す事も簡単なのだろう。
けれどリンは違った。彼女は朔の黒龍への想いを知っていた。そして、その深さを量っていたのだろう。
「(……私はそこまで優しい人間じゃ、ないよ)」
優しい。優しい。優しい。八葉はいつも私をそう評した。
白龍も何度もそう言い続けていた。
その言葉を否定する事はなかった。むしろ、それを喜んで受け取っていた気がする。誰も異を唱えず、それを嬉しそうに見送ってくれていた。
本当にやさしい人は、それをどう見ていたのだろう。
そこまで至り、望美は考える事をやめた。今は目の前の朔と向き合う事が大切だ。
――私は優しい人ではないかもしれない。けれど、私に出来る最大で、朔を救いたい。
「あきらめないこと…人にはそれができるよ」
全てにおいて諦めが悪く、前向きなのが自分の取り柄だ。
黒龍の気配はなくとも、消滅した瞬間を見たわけではないのだ。
白龍が子供の姿になっていたのと同様に、黒龍とて英気を養う為に姿を変えているだけかもしれない。
朔が諦めても、諦めなくても、現状は変わらないのだから、だったら、
「私に言えるのは一つだけ あきらめない人だけが、望みを掴めるってこと」
私がここにいるのは、あきらめが悪いからだ。
朔が戸惑う瞳を見せる。しかし、その瞳には先ほどまでの絶望は消え去り、微かだが光が差し込んできていた。
涙に濡れる瞳を拭い、朔が笑う。能面ではない、いつもの柔らかい笑みだ。
「あなたは強い人ね……そして、とても優しい人だわ。…私をここまで追ってきてくれて、私の気持ちも…考えてくれたのね」
今度は嬉しそうに。朔が綺麗に笑うのを見て、胸に走ったのは喜びと、痛みであった。
朔の気持ちを量ったのも、それを理解したのも、望美ではない。全てリンが教えてくれたものであった。
応える言葉に迷っていると、不意に朔が何か思い出したように胸の前で手を組んだ。
彼女の中で生まれた希望が全身に渡るのを感じ取る。再度重なる枯茶の瞳には、希望が満ち溢れていた。
「…だめね私ったら。リンにも言われていたのに」
「…リンちゃんが朔になにか言ってたの?」
「―――幸せになることを、諦めないで。って……彼女は、きっとこういう事を言っていたのね」
「……リンちゃんが」
小さく朔が頷く。馬酔木の花飾りが静かに揺れる音がいやに大きく響いた。
「優しい友達に囲まれて……私、幸せ者ね」
きらきらと輝く。朔の笑顔が眩しくて、望美はそれを直視できなくなってしまった。
朔の幸せが疎ましいのではない。言葉が恥ずかしいのでもない。
周囲の肯定のまま、自分を顧みることなく振舞っていた矮小な自分との対峙に、心が痛んでたまらなかったのだ。
「(…私、優しくなんて、ないよ)」
優しいのは――――…。
暗い思考に飲み込まれそうになるのを必死に振り払う。せっかく朔がそう褒めてくれるのだ、ここは素直に受け取らねばいけない。
望美は朔を安心させるよう、いつもの笑顔で応えた。悩むのはまた後で、だ。
朔を連れ戻し、また皆で一緒に平家へと立ち向かう。それぞれの願いを叶え、そして笑顔で迎える戦の終わりを見届けたい。
リンの話した内容が真実であれば、この戦いの先、黒龍はまた巡る。
朔も、笑顔になれる日が迎えられる。それを今は信じて、前に進みたい。
朔の手を握り、望美は立ち上がった。
「さ、みんな待ってる。帰ろう?」
恥ずかしそうに頬を染めながら、朔は立ち上がり、それに応える。
それが、何よりも嬉しかった。今はそれだけでいい。望美は自分自身に言い聞かせていた。
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全てを白く染めていく雪をただ何の感慨もなく眺めていた。
記憶を炙り出せば、初めて宇治川に放り投げられたあの死への恐怖であるとか、無念の内に死を遂げた同僚を思い浮かべる事が出来るが、ただそれだけであった。
あの時はそれぞれその場において動揺し、涙し、嘆き、生へしがみ付き喘いだというのにまるで他人事のように手のひらをすり抜けていく。
そんな自分を薄情だと、脳が否定する言葉を投げつけてくるが、その全てが滑り落ちていく。
心に突き刺さらない。少し前であればそんな自責の念に心を痛め、涙していただろうに。
深く、向き合う事が出来ない。――それでいい、リンはどこか遠くで肯定する言葉を聞いた気がした。
「リンさん、入りますよ」
不意に戸の向こうから愛おしい音が響く。少しばかり動いた心を横目で捉えながら、短く返事を返せば声の主が姿を見せた。
いつもならば袈裟で隠している頭部を晒し、黄金の髪を揺らしながら現れたのは弁慶であった。
姿勢を正し、彼を迎え入れれば小さな礼と共に腰を下ろす。向かい合う形でリンも座れば、優しげな笑みが重なった。
次の戦は屋島になると聞いた。
望美が朔を迎えに行っている間、進軍するか否か、九郎ら源氏軍内で意見が飛び交ったようであったが、彼女の行動力の甲斐もあり思った以上に事が早く進んだため、両神子を含めた進軍になるとの話を聞いている。
望美の行動力。そしてリンの叱咤あっての進行であったのだが、それを理解するのは目の前の男だけであった。
労いの言葉をかけられるが、リンはそれをそっと脇に置く。褒められたくてやったことではない。
ただ…。
―――ただ?
「リンさん、どうしました…?」
急に固まったリンを案じて弁慶が声をかける。ただ、なんだというのだろうか。
脳が急に思考を停止させてしまったかのように目の前が真っ白で、何も考える事が出来ない。
思わず弁慶を見やるが、心配そうに覗き込む表情がうかがえるだけで、それ以上は何も感じる事が出来なかった。
違和感。
それがただリンの中に渦巻いている。それというのに、その違和感の正体が何であるか、考える事が出来なくなっていた。
ただ、言葉に詰まり、けれどもその詰まっている言葉が分からない。考える事が出来ない。特定する事が、出来ない。
そんな微妙な空気の間を持たせるように、弁慶が言葉を選ぶ音だけが無機質にリンの耳を震わせる。
その彼の気遣いに申し訳なさを感じる。それを遮るように、リンは弁慶にここに来た理由を問うたのであった。
「弁慶さんはどうしてこちらに?…何かご用でしたか」
「――ええ。もうすぐ望美さんが朔殿を連れて帰るでしょう。その時を…君に伝えておきたくて」
「黒龍の件…ですね」
弁慶は深く頷いた。伏せて隠した黄金の瞳にはどことなく不安の色が浮かび、揺らす睫が儚くも綺麗だった。
いつもならば己の決めた決断を振り返ることなく突き進む姿しか見せない弁慶であるのに、たった一言でこれ程までに不安定な姿を見せる事が愛おしく、リンはくすりと笑った。
その笑みの理由を読み解けないらしい弁慶が、困ったようにリンを見やる。
不安を溶かしたい、そう願った時には言葉が紡がれていた。
「大丈夫。黒龍はまた生じるのだから、朔さんも納得するはず。自信を持って伝えたらいいんですよ」
「………、え、ええ」
「…? 私、何かおかしなことを言いました…?」
弁慶の表情が一変した。明らかな動揺を浮かべたその顔に、リンの背にも冷たいものが走る。
何かおかしい事を言っただろうか、思い返してみてもその理由が分からない。
ぱちぱちと瞬きを増やし、見つめ合うが流れるのは沈黙と困惑のみで、かみ合わない何かがもどかしい。
先に冷静になったのは弁慶であった。おろおろと視線を彷徨わせるリンをはっきりと見つめるその瞳は、至った結論への寂寥に満ちていた。
弁慶の様子の変化に気付くことが出来るのに、その理由が汲み取る事の出来ない混乱に見舞われる。
リンは、弁慶の視線にもその想いも気が付くことが出来なかった。慌て散る思考が急に一点に集められる。
両腕に感じる、人の柔さ。視線を前に戻せば、目の前に弁慶の顔があった。
しかしそれは見つめ合う前に、下へと落ちる。リンの胸にぶつかる、弁慶のつむじはか細く、細かに震えていた。
「……どうして、泣くんです、か…」
膝に落ちる、熱い水。
ぽつ、ぽつと音を立ててリンの着物に沁みこんでいくその雫の存在を感じる事が出来るのに、涙を流すその理由にたどり着くことが出来ない。
リンはただ、弁慶が涙している姿が辛かった。好きな人には笑っていてほしい。
その為に私は今ここにいるはずだ。―――けれど、彼は涙している。その理由は分からない。
それがどこかもどかしいと思いながらも、それ以上が考えられなかった。
「…君がこれ以上…傷付くのを見たくない…」
絞り出すように聞こえた弁慶の声に、リンの混乱は深まるばかりであった。
「傷付いてなんか、いません……私、こんなに穏やかですよ……?」
泣き止んでほしくて発した言葉に、弁慶は更に嗚咽を深めてしまう。
どうして彼は泣くのだろう。どうして彼は笑ってくれないのだろう。
一生懸命考えてみても適切な言葉も、行動も弾き出すことが出来ない。
張り詰めていく意識とは裏腹に、心は一向に動いてはくれない。
その如何ともし難い剥離に、リンも泣いてしまいそうだった。
弁慶は泣いた。あれほどまでに朔を、友人を想うリンが消えてしまったという事に。
白龍に壊された“友情”――――朔の気持ちを量り、弁慶に告白を促したリンはもうどこにもいない。
『新たに生じた黒龍は、朔さんの愛した黒龍ではないかもしれない。―――許されないかもしれない。それでも』
『私も共に行きます』
「(このままでは君が壊されてしまう)」
白龍の意志は変えられない。
それは望美の幾度の説得を聞きながらも譲らない姿勢を見れば一目瞭然であった。
ならば、一刻も早く彼女を坐と言う役目から解き放ってやらねばならない。
その為には己の計画を進め、この戦を終わらせる―――それしか方法はなかった。
ひとしきり涙した後、決意を新たに気を引き締め直す。
その瞳は真っ直ぐであった。己の願いに。
弁慶はただの一度も、口にすることはなかった。
「君が大切だから、君を守りたい」――――と。