やさしいひと(弁慶長編:完結)
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24.優劣
一行は誰もが釈然としない思いを抱えたまま、それぞれの邸へと帰る事となった。
弁慶は意識を奪われたリンを連れて帰りたいと願いながら、それを公言する事が出来ない現状に唇を噛む。
いっそはっきりと牽制する意味で主張しても良かろうが、白龍のリンに対する“非人道的”で絶対なる理を思えば、下手に口にする事は逆効果であると判断している。
今思い出しても拳が震える、白龍の“人間らしさ”を奪うその言動と制裁。
けれども弁慶はそれ以上に、激情高ぶるまま、彼女へ手を伸ばす事が出来ない己に拳を叩き付けてやりたい気持ちでいっぱいであった。
愛しい女が非情な目に遭っているというのに、脳裏にちらつくのはいつだって“贖罪”の二文字で。
―――意識をしたわけではない。
けれども結果的に、贖罪とリンとを天秤にかけたのは弁慶自身だった。
『…私を信じて。そして、使って』
彼女は幾度も弁慶の力となることを誓ってくれた。
それは常人には理解され難い、二人だけの価値観であったかもしれない。
そんな危うい関係の協力者を“共犯者”と言うのだと、いつかリンは教えてくれた。
故に、弁慶が自身の行動を悔いる――それこそが彼女への裏切りなのだ。
理解はしている。覚悟も出来ている。
しかし、それでも。弁慶の内に残る人情は、己を振り返らせ、激しく責め立てる。止められない悔いの矢雨に唇の軋みは深まった。
“結局のところ男は非常な軍師の成り損ないでしかないのである。”
京邸に連れ帰られたリンであったが、夜が明けてもその瞳は閉ざされたままだ。
その間、彼女につきっきりだったのは将臣である。
神泉苑で解散となったあの後、行く宛がなかろうと望美が将臣を京邸へ誘い、景時が了承する形で行き先が決定した。
提案に甘える形で赴いた敵本陣であったが、将臣にとっては願ったり叶ったりな申し出であったのは言うまでもない。
東の空が次第に明るく、空を紫に染め上げる中、こんこんと眠るリンをひたすらに見つめ続ける。
真っ白な肌に真っ白な髪。
幾度見返せどもその頬に紅は差さず、薄暗い秋の早朝に浮かぶ薄紫の光が薄気味悪くさえ見える。
その心は酷く荒んでいた。今すぐにでも暴れまわりたい。
あの龍神をたたっ切ってやりたいという憎悪に燃えている。
それでもそれは実行できない。
強行したとて、目の前のこの女が悲しむだけである事を知っているからである。
「(……馬鹿だよお前は。…そうやって何でも受け入れるから、坐なんて馬鹿げた事やらされるんだよ)」
将臣は強く拳を握り締める。小手が軋み、悲鳴をあげた。
肉体的にも社会的にもそこそこの地位を得た今の俺ならば、今すぐにでも彼女を連れ出し、非情な運命から救ってやることが出来ると将臣は自負している。
―――彼女が望んでくれるのならば。
それだけが将臣の手をすり抜け、別の男の元へと流れて行ってしまうのだ。
以前の彼であればリンの気持ちなど顧みることなく、今すぐにでもここから浚ってしまっていただろう。
しかし将臣は知ってしまった。大きな決断の下には、常に妥協し受け入れる人間がいるのだという事を。
世界の流れという大きな波にのまれまいと、懸命に泥臭く生きる人間がいるのだという事を。
「……お前は優しすぎる」
人を想い、その心を読み解く事は美徳だ。将臣には欠けているその繊細な姿に酷く心が揺さぶられる。
しかし、生きるという事は生易しいきれいごとではないのだ。
野に咲く花も自らが生き残り、子孫を残すために他者から水を奪い、陽を奪い、栄養を奪い生きている。
奪い奪われ、傷つき傷つけ合う、相互関係。それは言葉を変えれば、赦し、赦されの関係でもある。
「…お前はちゃんと俺を傷つける事が出来ただろう?」
人が道具になりきるなんて無理なんだ。
少なくとも将臣はそんなリンを望んでいるわけではない。
道具などではない、一人の人として――――誰よりも傷つきやすく、誰よりも優しい彼女を愛している。
もしかしたらたった一人かもしれない。
けれど、そんな人間が一人でもいるこの世界で生きてほしい。
「早く起きろって。…女々しいって、笑ってくれよ」
誰もが恐れる平家の還内府様にここまで弱音を吐かせるなんて、趣味が悪いぜ。
将臣がどれだけ願いをかけても、リンはまだ、目を覚ますことはなかった。
明るく振舞っていても、居間はどこかぎくしゃくとした空気が流れていた。
朔不在という事もあり、朝餉の準備に手間取る譲。その背を見つめながら望美は複雑な気持ちを抱えていた。
白龍だけが変わらずいつも通りであったが、それに応えるだけの心の整理は出来ていない。
ちょっと今日は気分が乗らなくて。そんな当たり障りない言葉で遠ざけた白龍は、一層心配した様子で望美の世話を焼く。
人の気持ちを上手く読み解くことが出来ない“神”なのだから、自分が一から教えてやらねばならないと分かってはいるのだが、それでも今日ばかりはそんな気持ちになれない。
リンに叱られてから、望美は一人、己を振り返り、見つめていた。
普段が明朗なだけに、少し話さないだけで周囲は望美の心境の変化にすぐに気づき、労わってくれる。
その気持ちに励まされながら心は随分と立ち直って来たが、未だ完全に晴らすことが出来ない悩みの霧にらしくないと髪を乱す。
妹が消息不明となっているというのに、その気持ちを抑えながら景時が望美を案じるのにも申し訳なさを感じ始めていた。
「(…私、景時さんにまで気を遣わせてしまっている)」
乱した髪を今度は左右に。
馬の尾のように薙いだ後、瞳を強く覚ます。両手で思いっきり叩いた頬は小気味よい音が響いた。
いつまでもじめじめしていても仕方がない。起こってしまったものは起こってしまったものなのだ。
周囲に心配をかけまいと、望美は気持ちを新たに入れ替える。
――――譲と話をしなければ。
そして、足は譲のいる中庭へと向かっていた。
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夏の間留守にしていたその庭は桔梗が茂っていたようだ。
その色を楽しむことが出来なかったのは残念だが、土いじりをする譲の背には先の季節への希望が満ちており望美もそれ以上は何も考えないようにした。
過去を振り返っても仕方がない。
大切なのはこれからどうしていくかなのだ。
随分と着物が馴染むようになった譲の背、景時に用意してもらった盆を置きながら声をかける。
「先輩」すぐに穏やかな返事が返された。
「景時さんにお茶もらったよ。少し休憩にしない?」
「ありがとうございます。ちょうど喉が渇いていたので、嬉しいです」
縁側に並ぶ形で腰かける。嬉しそうに茶をすする譲のリンに牙向いた時と異なる声色に、望美の顔に影が落ちた。
目ざとく拾った譲が、声をかける。
曖昧な返事を返しながら、望美は悩んでいた。
譲に話があってここへ来たのだが、何から話せばいいのかが分からない。
要点は“譲のリンへの謝罪の懇願”である。
先日の諍いの時に、譲は自分を庇う言葉を言ってくれたのは嬉しいが、それでも言っていい事と悪い事はある。
その結果、白龍があのような暴挙に及んだのだとすれば―――。
望美の良心は激しく痛んでいた。
またもや分かりやすく顔に出ていたのだろうか。譲が言いにくそうに切り出す。
「…もしかして遠坂先輩の事ですか」
「あ、うん…よくわかったね。そんなに顔に出てたかな」
「そう、ですね。……でも俺は謝りませんよ。先輩には申し訳ないですけど、間違ったことを言ったつもりはありません」
きっぱりと、望美の願いを切り捨てられる。いつもならばなんだかんだと言いながら、頼めば折れてくれる譲にしては珍しい姿に困惑した。
和ませるように言葉をかけても、譲の意志は曲がらない。望美はため息をついた。
それが譲の琴線に触れたらしい。苛立たしげに立ち上がり、望美と視線を合わす。
若草色の瞳には態度同様に、強い意志がありありと浮かんでいた。その思いの強さに思わず息を飲む。
「先輩は優しすぎます。ただでさえ神子だなんて重責を負っているのに、自分に仇成す人間達まで救おうとしている…!」
「それは違うよ譲君。全部私が好きでやってることなんだよ、みんなを守りたいから」
「それが優しすぎると言ってるんです…!……っ、すみません。あなたに怒るのは筋違いだ。けれど、俺は思うんです」
まるで燃え上がる紅葉のように。感情ままに高ぶる己を律する。
前髪を掻き上げ、ずれた眼鏡の奥その瞳の強さは将臣を髣髴とさせた。
一度大きく息を吸い込んで綴られた譲の本心は意味弱々しく、けれどもはっきりと無念の意を表し響いた。
「大きな事を成すには、犠牲は必ず必要なんです……!振り向けば、歩みが止まってしまう」
「…どういう意味…?」
望美は弾かれるように譲の言葉に反応した。今、彼は恐ろしい事を言わなかったか。
その真意を考える前に、反射的に問いかけてしまった。
放った後の譲の表情に、短慮であったと自身を諌めたのだが、既に後の祭りである。
譲は苦々しい顔をしていた。
捌け口無き苛立ちを消化するように髪を乱しては、ゆらりと視線を望美に合わせる。
再び重なった瞳には、複雑な色が宿っていた。
「…兄さんを見れば分かるでしょう。あの人が自由であればある程、俺の自由は奪われていく」
「………」
「星の一族の話だって、祖母の話だってそうです。…八葉の話だって。…全部兄さんは俺に背負わせて、自由に生きているんだ」
―――先輩を守る事が嫌だと言っているわけではありません。
これは先輩同様、俺がそう決めた道だから悔いなどありません。
ただ、兄さんは俺達に何も明かさずふらりといなくなっては勝手に人助けなどをしているんでしょう。
今までの経緯から、兄さんが恐らく大きな何かを背負って先を進んでいることは間違いない。
―――ですが、その反動はいつも誰かが被っているんです。誰かのサポートなしでは、その場所にはいられない。
「兄さんは何も分かっちゃいない。自由に夢を追えば追う程、俺の行動が制限されているという事に」
「…でも。将臣君はきっとたくさんの人を助けてるんだよ。頼りにされて、それを振り払える人じゃ…」
「分かっています!……すみません。分かっているんです。けれど、だからこそ、俺は、何も言えなくなってしまう」
――――幸せの定義は数じゃないはずなのに。
前を行く兄の背に託された迷い人の多さに、己の迷いはいつだってかき消されてしまう。
譲は苦しげに吐き出した。
振り返って足跡を見つめてほしいと望めば、背の迷い人達の苦しみは長引き、将臣もその重さに耐えられずつぶれてしまう日が来るかもしれない。
その重みを将臣自身が進んで背負ったわけでは無い事を分かっている。
その背に寄りかかる重みを救った時の感謝の量が膨大である事も分かっている。
だからこそ、譲は、耐え忍ぶしか出来ないのだ。
苦しくても、悲しくても、歯を食いしばり“聞き分けの良い子”を演じる。
「―――いつも置いて行かれる側の気持ちなど、分からないんでしょうね」
「…………」
「先輩?」
どくん、どくん。
望美の全身が湧き立ち、高ぶる心臓の鼓動とは引き換えに、指先から温度が失われていく。
いつもならば、そんな譲を「考えすぎだよ」と笑い飛ばせるはずであるのに、形となった言葉と引き換えに、喉がそれを拒否している。
そんな望美の様子を譲は探る。
大切な幼馴染、そして想い人である望美をこんな悲しい目に遭わせる人間など一人しか思い浮かばない。
震える望美の肩を掴み、たまらなく。絞り出すのはリンへの苦言。
「先輩、覚えているでしょう。この世界に初めて来た時…あの詰所での遠坂先輩の様子を」
―――望美が神子と名乗るや否や、血相を変え飛び掛かって来た獣のような姿を。
憎悪に満ちたあの顔はもはや人と呼ぶのも躊躇われるような鬼の形相であった。
あの背筋も凍るような異形を、譲は今も忘れてはいない。
あの後、リンの謝罪と共に結んだ握手によって事は解決したと簡単に考えていたが、それは全くの勘違いであった。
譲は深く後悔をする。
同じ世界の人間だからと気を許し過ぎていたのか、彼女の内に隠された望美への憎悪を見逃してしまった事にである。
ただでさえ、彼女は元の世界においても、望美の事を倦厭していたというのに。
「―――尋常じゃないですよ。正気の沙汰じゃない。意味も分からずいきなり襲いかかるなんてどう考えてもおかしいですよ」
「それ、は…そうかもしれないけど…」
「だって俺達はあの瞬間に宇治川の戦場に連れてこられたんです。先輩が恨みを買う事なんて何一つなかったじゃないですか」
譲の言葉に、望美は口を噤んでしまう。そっと握り締めたのは逆鱗だ。
今降り立つここは二度目の時空―――その事実を明かすことは出来なかった。
確かに譲の言うとおりである。
二度目となる宇治川の戦場、そこで望美とリンは出会った。
望美の記憶では一巡目となった世界で、リンと出会ってはいない。
彼女の恨みを買うような事は何もしていないはずである。
リンの謝罪を受け入れた時、彼女は何と言っていただろうか。
顎に手を当て記憶を探り出す―――確か、彼女は言っていた。
『友人を亡くし、気が動転していた』と。
動転。
それを望美は錯乱だと理解したのだが、違ったのだろうか。
思考が絡まり、頭痛が始まる。
物事を考える事は不得手だ。
あの時、おかしなことはなかっただろうか―――記憶の映像を巻き戻すように、望美は情景を炙り出す。
「…ねえ譲君、宇治川や詰所、平等院でのリンちゃんの様子で…気になる事ってなかった?」
「……気になる事ですか。……特には…。ああ、あの人異常に冷静だったという印象はあります」
「冷静?」
「先輩に食ってかかった姿を見た後の事だったので余計にそう感じたのかもしれませんが、元の世界との違いに驚く俺達とは違って、あの人あまりそういう姿を見せなかったというか…」
浮かび上がった情景に、焦点を合わせる。
逆鱗を使って一年前の冬に飛んだあの時は、混乱と動揺とが織り交ざっていて冷静ではなかった。
じっくりと向き合い、記憶を呼び覚ます。言われてみれば確かに、リンに動揺という動揺はあまり見られなかった。
元々大人しい人間だという印象があった事、自分達よりも数年前に召喚された経験値がある事を踏まえても冷静過ぎていたような気がする。
―――不意に、一つの疑問にぶつかった。
リンが望美へと飛び掛かるその起爆剤。確かリンは望美の“神子”という言葉に反応してはいなかっただろうか。
よくよく記憶を炙り出せば、望美が白龍の神子だと名乗る前に、朔が黒龍の神子であることを名乗っていた。
その時も反応をしていたような気がする―――しかし、記憶は曖昧で確証はない。
他の違和感といえば、リンが初対面のはずの白龍を知っていた事だ。
その時のリンへの問いに返答はなかったが、確実にリンは白龍と接触していたことを確認している。
「(―――まさか、時空を戻した瞬間、リンンちゃんは元居た場所から引き寄せられた?)」
思えば、冬の宇治川に倒れていたリンは着の身着のままの軽装であった。
雪原に赴くような恰好では決してない。
白龍を知っていたのであれば、その逆鱗の持つ時空を渡る力を知っているのかもしれない。
時空跳躍、神子、白龍、逆鱗……そして、リンの激昂とが上手く結びつかない。
「…どうしてリンちゃんは、私にあんなに怒ったんだろう」
「………分かりませんが、もしかしたら、俺が兄さんに感じているものと同じなのかもしれません」
譲君が将臣君に感じているもの?
望美が聞き返したが、譲はそれ以上は語らなかった。
ただ誤魔化すように、背を向け、庭いじりを再開する。
結局、譲にリンへの謝罪の約束は取り付ける事が出来ず、望美の疑問は深まるばかりであった。
ただ、乾いた秋の風が吹き流れ、それは空しさを連れて髪を弄ぶ。
『大きな事を成すには、犠牲は必ず必要なんです……!振り向けば、歩みが止まってしまう』
私は、もしかしたらとても大切な事に、気付いていないのではないのだろうか。
「(運命を変えてでも、私はみんなを―――あの人を助けたい)」
“運命を変えてでも”―――――それは、誰の、運命?
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あれから譲に何を尋ねても「この話はやめましょう」の一点張りで、それ以上の議論も、要望も聞き入れられることはなかった。
望美自身も慣れぬ思索に疲れ、考えても仕方がない、そう気持ちが上向くようになった期を計り、張り付く思考を払うために気分転換に出かけた。
秋の京都は紅葉が美しい。
人が多く栄えている六条周辺でも豊富に盛られた自然の山に、元の世界の紅葉とを重ねてみるが生命力が違うのかもしれない。
どれも甲乙つけ難く輝きを見せる木々に癒されながら、紅葉の名所である嵐山や嵯峨野の方はもっと綺麗なのだろうと思いを馳せる。
思えば早春の嵐山を堪能してから早半年の月日が流れたのだ。望美にとっては二度目の春、そして秋…一度目の悲しい運命。
福原で殿を買って出たリズヴァーンの失踪、頼朝に届かぬ腰越状、その後の火炎に包まれた京の町―――仲間の絶命。
火を放たれ燃える京邸の中、朔の無事を確認したのも束の間、朽ちる柱の陰、白龍が望美を元の世界に返すべく手渡した逆鱗。
悲しそうに笑いながら、己の喉元に手をかけた白龍の顔を忘れられない。
その時に誓ったはずだ。
「運命を変えてでも……救いたいって」
「神子、迷っているのか」
「! せ、先生!?」
すすきをつつき遊ぶ望美の背に声をかけたのはリズヴァーンであった。気配のないそれに肩を揺らし驚く。
振り返って向かい合ったリズヴァーンは変わらず、不思議な存在感を放ちながら次の言葉を待っているようであった。
望美は少し戸惑いを感じたが、次第にリズヴァーンの持つ懐深い雰囲気に溶かされ、ぽつぽつと不安を打ち明ける。
その間、リズヴァーンは軽い相槌を打つ以外は、静かであった。
朔との衝突、リンとの衝突、譲との衝突―――リンの激昂の理由。
取りとめのない推測の疑問を全て吐き出したが、逆鱗を使い、時空を越えている事だけは言う事が出来なかった。
手の内を全て明かしたところで、言葉がなくなる。
その期を見てリズヴァーンがそっと放ったのは質問であった。
思いがけないそれに、驚く。
「――そういえば、リズ先生はリンちゃんに近づくなと言っていましたね」
リズヴァーンの問いかけで思い出した京邸での警告。
元の世界での知り合いとの再会に喜ぶ気持ちに釘を刺すようなその警告に、当時は反発の態度で済ませてしまったが、その理由までは分からなかった。
「あの時はびっくりしてそれっきりで…。どうしてなんですか」
「…坐がお前に仇成す存在になりうる可能性があったからだ」
「先生はリンちゃんの役目について初めから知っていたということですか」
「……そうだ」
どうして。その質問以降は全て「答えられない」が返って来た。
どれだけ形を変えて質問をしても、それ以上奥には進むことを許されない。
知りたい答えが目の前にあるかもしれない事実に、それでも開けられない扉に憤る語尾は強まる。
その度にリズヴァーンの表情が曇っていく事に望美が気づいた時、弾かれたようにそれ以上を切り捨てた。
いつか弁慶にも言われた事を思い出したのである。人の秘密を探る事の危険性についてだ。
困らせたいわけではない。
己の発言を振り返り、反省する望美に一つだけ。リズヴァーンは告げた。
「…自然に生まれた流れを変える事はできない」
「自然に生まれた…流れ、ですか?」
「―――何者かの干渉で変えられた流れは、必ず、どこかで新しい流れを作る。干渉を知らねば、それは当たり前に流れていくだろう。そして呼ぶのだ“運命”と」
抽象的なその言葉に、望美は混乱する。
しかし、答えられないと言ったリズヴァーンがこうして言葉を変え、伝えている事実に気付いた。
直接的には答えられないが、読み解くことが出来るのならばそれは求めた質問への答えなのだと、望美は悟る。
ひとつひとつ、胸に受け止め、噛み砕き、自分の迷いと照らし合せる。そして気付く―――何かが、胸にひっかかっていることに。
「(恐らく先生は私が時空を遡っている事も…知っているんだ)」
“何者かの干渉”を望美が時空を越え、運命を変えようとしている行為を差すのであれば、随分と読み解くことが楽になる。
干渉―――時空跳躍で新たに生じさせた“流れ”もとい“運命”があるということ。
望美は納得するように、一度深く頷いた。
不意に、一つの閃きが走る。思わず顔を上げ、望美はリズヴァーンと瞳を合わせた。
「先生はもしかして、時空を戻す力があるのですか」
「………」
返答がなかった。時空を戻すだなどと、絵空事のような突飛な発言に動揺する様子すらない。
反応に関しても、今までであればはっきりと“答えられない”と拒絶するのに、この質問に関してだけはそれすらもなかった。
―――図星。望美は確信する。
リズヴァーンは既に他の時空を見ている。そして何かの力で時空を越え、運命を変えてきているのだろうと。
故に望美にあのようなアドバイスをしたのだ。時空を越え、運命を変えていなければ分からないようなお伽噺のような助言。
もし、彼の巡った時空でリンと再会していたのならば、彼女が坐である事を知り得ていてもおかしくはない。
「…だから、リンちゃんの事を知っていたんですね」
「………」
―――彼はリンの事を“仇成す存在になりうる可能性がある”と言った。
彼の巡った運命の一つに、望美とリンとが刃を交えるようなものがあったのかもしれない。
八葉として神子を守る使命を受けたリズヴァーンは、それを受け入れる事が出来なかったのだろうか。
全ては推測で、真実は分からない。
リズヴァーンの不器用な優しさに、望美は言葉を失ってしまった。
人を遠ざけるという守り方があるのだという事。背を向け走り去った朔、一線以上の追及を避けた譲、言葉で拒絶するリズヴァーン。
そして、何も明かさず一人で策を巡らせる、弁慶。望美の胸にじわりと温かいものが滲み広がる。
「(…弁慶さんは何から私を遠ざけようとしているのだろう)」
大輪田泊では平家の船を追撃する弁慶に、一度は突き放された。
笑顔、そして優しい言葉で、残酷な現実から遠ざけるように。
それを望美は理解が出来ず、己の心に嘘もつけず、戻るようにと言われたが引き換えし、弁慶のいる浜辺へ駆けた。
困ったような弁慶の顔を、あの時は“平家追撃を見られてしまった罪悪感”もしくは“策が成功しなかった諦め”だと思っていた。
しかし、それは違った。
―――弁慶は悲しんだのだ。
「この作戦を完全に君の目から隠し通せなかった事が唯一の後悔」弁慶は涼しげな顔で、そう告げていたではないか。
あの時の、あの言葉の本当の意味。
弁慶はきちんと口にして伝えてくれていたのに。
「…私が傷付いたから」
「神子?」
弁慶が守りたかったのは、望美の心だったのだ。非情な現実に望美の心が傷付かぬよう、遠ざける、弁慶の優しさ。
それも分からず、彼の優しさを踏みにじってしまったのは望美自身だ。
「(…でも、私は弁慶さん一人にそんな苦しみを背負って欲しくないよ…!)」
彼の目指すものが何かは分からないが、一人で背負い苦しむ事はあまりにも寂しい。
神子としても力がある今の自分であれば、彼の力になる事も出来るだろう。もっと頼ってほしい。
――――彼の事が、好きだから。
彼を助けたいと願う。それが望美の答えであった。
「神子」
「あ…ごめんなさい、先生。大丈夫です。私はもう、迷いません」
「…そうか」
短い挨拶の後、リズヴァーンは風に溶け込むように姿を消した。舞い散る紅葉の奥、望美はそれを見送りながら胸に芽生えた恋心を抱きしめる。
幸せに満ちる温かさに懐かれる望美は気付かない。胸にひっかかったまま残る、異変の欠片の存在に。
ただ今は愛しい男を想い、溢れる至福と決意とに満たされるばかりであった。
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寒い。寒い。…寒い。
目を開けたそこは真っ暗の空間であった。横たわる身を起し、周囲を見渡せども光はおろか目の前にあるはずの自分の手すらも見えない。
確かめるように体があるはずの場所に触れると、腿、腹、腰、胸、首、そして顔。全てがきちんと揃っていて、リンは安堵のため息を吐いた。
けれども気分は恐ろしく沈んでおり、立ち上がる事さえ億劫なまま、その場に意味なく留まる。
ここがどこなのか、何であるのか、夢か現か―――それすらも考える事が出来なかった。
見えない中、そっと体を組み直し、腕を膝の裏に。立てた膝に頭を預けて、顔を伏せる。
ただ、ここは寒かった。
持て余す時間を目ざとく見つけた思考が、その回転を始める。
じわじわと顔色を窺うような攻め方に、嫌気が差していく。
しかしすぐにその湖は広がり、あっという間にリンはそこに沈んでしまったのであった。
言葉の海に溺れるように。
自身に投げつけられる激しい叱責の嵐に、どんどん気分は落ち込んでいく。
知ってるよ、分かってるよ、
頑張るよ、ごめんね、ごめんなさい、
でもね、だめだったんだよ
何度でも繰り返す応答に、次第に狂い始める感覚。気がおかしくなってしまいそうな激しい濁流に、ひたすらに喘いだ。
誰に許しを請うているのか―――そこに思考が至った時、リンの耳に突如届いた、懐かしい声。
思わず顔を上げ、声の方を振り返った。
「サクラ……?」
真っ暗な世界の中で、そこだけ円を描く光が差し込んでいた。同僚がこちらを出で立ち見ている。
リンがたゆたうそこからは幾らかの距離があり、彼女の表情を知る事は出来ない。
けれど微動だにしないその影に、再会を喜んでいるのではないことだけは分かった。恐怖が湧き上がる。
彼女にも伝わったのだろうか、息を吐き出すような微笑の音が響く。ゆらりと腕が動き、その先端はリンを指差した。
「私だって友達なのに。私の事、忘れようとしているんでしょう」
はっきりと、言い訳を許さぬ断定的な言葉が突き刺さった。思わず体を起こし、彼女と向き合うがそれすらも拒絶の瞳で一瞥される。
以前、思考の闇の中で出会った彼女は事切れ、抽象的な象徴でしかなかったはずなのに、今の彼女はまるで生前の姿ままであった。
声も、間も、肉体も、全てがそこに揃っている。
「ねえ、リン、あなた、私を言い訳にしていない?私の死を、利用していない?」
頭を割られたような衝撃が走った。あまりの揺さぶりに一瞬我を忘れる。
脳震盪を起したような回転性の眩暈に見舞われる中、リンは叫ぶ。誤解だと。そんなことは考えたことなどないと。
思考の世界だからであろうか、肉体的な感覚は薄く、心の動きがそのまま意識へと反映しているような奇妙な感覚に戸惑う。
何とか晴らした眩暈、思考を奮い立たせ、リンはサクラと向き合った。リンの想いが届いていると信じて。
しかし、彼女の瞳はひたすらに色を映していない。生前見た、やさしい光も、全て。
その底の見えない無機質な瞳に、絶句する。リンの声は何一つ届いていなかったのだ。
――――ガチャ、ガチャ。
「サクラ…利用なんて、私、してない」
「してる。……それが何か、あなたは知っているでしょう?」
指差す先を追う。そこにあるのは鎖が幾重にもかけられた大きな箱。
箱と言ってもそびえたつ山の如く大きなそれは、扉と錯覚しそうなほどだ。
ガチャガチャと音を立て、内側から何者かがそれを破ろうと暴れている音が聞こえる。
次第に大きくなるその衝突音。しかし、リンに、その中身の心当たりなどない。
「知らない、知らないよ…そんなの…!」
「嘘つき。あなた自身が“あれ”を切り離して、鎖をかけて、閉じ込めた。そしてその正当性を主張するために私の死を利用してる」
「何を言ってるのか分からない…!やめて、サクラの体を使って弄ぶのはやめてよ!!」
頭を振り、投げつけられる言葉たちを必死で振り払う。
同僚の顔をしたその塊は延々とリンを責め立て、体力を削り落としていく。
違うこれはサクラではない。
戦う相手は彼女ではない。リンは必死に闇を払うべく抵抗を続けるが、それも空しく心は消耗を続けるばかりだ。
ガンガンと扉を破ろうとする何かは激しさを増すばかりだ。
千切れた鎖片が近くに叩き付けられる音がする。
やめて、出てきてしまう。せっかく閉じ込めたあれが、ようやく切り離せたあれが、解放されてしまう。
「私は八葉の坐…!それ以外の何物でもない…!やめて!やめてよ!!思い出させないで…!!」
「私の死を利用して、神子を嫌おうとしているでしょう?嫌いなのは神子じゃないでしょう?」
「やめて!やめてやめてやめて!!」
「あなたが嫌いなのは“望美のようになれない遠坂リン”あなた自身よ」
けたたましい音を立て、扉が破られた。
雨のように降り注ぐその破片、千切れた鎖が突き刺さるようにリンに降り注ぐ。
ガラスの破片のように鋭利なそれはリンの肉を裂いた。
痛みに、リンはのた打ち回り、喘いぐ。
痛い。痛い。破片が痛い。
鎖が痛い。サクラの言葉が痛い。
誤魔化し続けた心が痛い。
ゆっくり、ゆっくり、時間をかけて諦めた。一つ一つ、現実という刃を受けて諦める理由をそろえた。
『願い事は叶わないのを知っている』
そんな、悟るような言葉で言い聞かせて閉じ込めた。
己の手で鍵をかけた。鎖で縛った。
箱から飛び出したのは―――“劣等感”。
「―――弁慶の隣に立ちたいのは自分のくせに」
―――諦める理由に私の死を利用しないで。
サクラの恨み言が響いたのと、リンの心とが割れるのは同時であった。