やさしいひと(弁慶長編:完結)
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23.友情
二度目の高尾山進軍に差し掛かった時、望美は一巡目の世界での九郎の言葉を思い出していた。
一巡目の運命は、一ノ谷まで進軍を進めた源氏一行は九郎の提案であった、崖からの奇襲を強行した。
平氏の軍を強襲する目的で駆け降りた崖の先、一ノ谷に平氏の姿は無く、一行は高尾山まで撤退。
その後、押し寄せる平氏の軍勢を食い止めるためにリズヴァーンが殿にて囮となり、そのまま行方知れずとなった。
―――事実上の、源氏の敗戦である。
それを建前上の理由とし、頼朝は九郎を見離し、勢力を立て直した平氏により、京の町が炎に消えた。
その混乱の中、望美はただ一人、白龍の力によって現代へと還されたのである。
時空を渡る力を秘める“白龍の逆鱗”を使って。
「(―――もう、あんな運命を繰り返させない。私がみんなを守るって決めたんだ)」
首から提げた逆鱗をそっと握る望美の視線は揺るぎない。
運命を変えなくてはならない。みんなが笑って生き残る、平和な世界を作りたい。
強き願いを胸に、望美は九郎に提言する。
「私を信じて。ここから奇襲したら絶対に勝てます」
望美の願いはただただ単純で、直向きに純粋であった。
願うのは“みんなの幸せ”――――目の前の、幸せだけであったのだから。
一行は望美の、白龍の神子のお告げを聞くという形で高尾山からの奇襲を強行する。
打ち振る白旗、猛る雄叫び、鬼神の如く轟を響かせ迫るその源氏の気迫に平氏は散り散りとなり、無事負傷者を出すことなく奇襲は成功となった。
運命が変わった瞬間――――源氏一行はそのまま景時が一人指揮する生田神社へと援軍に加わるべく急いだ。
思いがけない望美の突飛な提案に、弁慶は内心疑心を抱く。
望美や譲がこの世界によく似た歴史を知っているとはいえ、あまりにも“的を得過ぎている”策に、疑問を覚えたのだ。
この世界の今後の顛末、そして異邦人らの歴史がどうであるか弁慶は知らない。
けれど、平家の還内府として君臨する将臣が、異世界での歴史をなぞり策を敷いているだろうことは予測していた。
今回、一ノ谷からの早期撤退はまさにその将臣の策であろう。
結果的に裏をかく形で生田神社へ進軍を開始したのは有利であり、喜ばしい結果である。
しかし、弁慶の中で納得できず引っかかっているものがあったのだ。
「(…リンさんは僕にまだ何か隠していることがあるのだろうか)」
―――そういえば。
ずっと見過ごしてしまっていた。
この世界で望美とリンとが再会を果たした時、あの烈火の如く怒りに満ちたリンの姿、その理由を知らない。
なぜ、あんなにも取り乱していたのだろうか。―――この女だけは許さない。
彼女は何を見てきたというのだろうか。望美の反応を思い出しても、何か接点があったとは思いにくい。
“間接的に望美がリンに関わった?”それも、彼女の望まぬ形で。―――そこまで考えて、弁慶は首を振り、思考を雲散する。
今しなければならないのは、この戦で勝利を収め、可能な限り平氏の戦力を削ぐこと。
袈裟の中に隠すのは春、福原で得た大輪田泊の地形図だ。既に私兵らへの指示も整っている。――手筈通りに。
「平氏軍撤退!撤退ーッ!!」
どこからか上がる勝鬨への希望の雄叫びに、沸き立つ生田神社の紅葉の葉は赤く染まり、まるで血気だ。
取り逃がした戦力を少しでも削ぐ―――次の策は、大輪田泊から逃げる平家の船を焼き払う事。
弁慶の瞳が冷たく光る。しかし引き換えに心は熱く燃えていた。遠く、有馬で待つ愛しい共犯者への想い。
それは望美には拾いきれない複雑な色を放っていた。
「(―――君のように純真であったなら)」
水平線の向こう、平家の船が火を上げて朽ち沈む。
それを冷めた瞳で見届ける弁慶に詰め寄るのは白龍の神子だった。
嘘をつき、甘い言葉で惑わせて、この現実から遠ざけたというのに、その牽制も空しく娘は弁慶の懐へと戻ってきてしまった。
熊野の神社で人の秘密を知る事の恐ろしさを説いたというのに、やはり彼女には通じていなかったのだろう。
世の中には知らなくていい事がある。隠しておきたい事がある。
弁慶の場合、真実を…己の罪を知られ、責められることが怖いのではない。
周囲を巻き込みたくないのだ。干渉人が増えれば増える程、守る物が増えていく。
気が分散すれば望むものと叶えるものとの齟齬が発生する確率が高まってしまう。それを何より恐れていた。
「(だからこそ、遠ざけたというのに…君はちっとも僕の気持ちを汲んでくれない)」
本当に、困らせてばかりのいけない人だ。弁慶は内心苦笑する。
そんな彼を真っ直ぐすぎる瞳が射抜く。
悲しみと動揺と、彼女自身の正義感とが天秤にかけられ不安定に揺れ動いているのを見て、弁慶はそっと瞳を伏せた。
弁慶とてこのような手段をして、心が痛まないわけではない。
しかし、それ以上に己には遂げなければならない本懐があるのだ。
その為ならば手を汚す事も、仲間を裏切る事も決断するだろう。後悔は絶対にしない。
それでも、悲しげに顔を歪めてそれを受け入れようとする望美を見ていると、良心が激しく痛めつけられているようであった。
望美にいくら責められてもすべてはもう終わったことだ。焼けた人も船も、沈む人も命もすべては元に戻らない。
悔やんでも戻らぬものは戻らない。これ以上純粋な娘を苦しめているのは弁慶とて忍びなかった。
―――忘れてください。そう、告げた。
「もう、終わったこと…?忘れるしかないって言うんですか?…終わってなんかいない。私はそう思います」
悲しみを乗り越えて真っ直ぐに言い放つ姿に、心が動く。幼さ故の真っ新な正義感は眩しく、弁慶の都合を知らず照らす。
それがあらゆる立場を見据え、少しずつ鮮烈さが無くなり柔らかなものになった時、もしかしたら望美に惹かれていたかもしれない、弁慶はふとそう思った。
かつての自分は救いを求め、目映い存在を、救世主を求めて漂っていた。リンの言った通り、贖罪という重圧に押しつぶされそうになっていたのだ。
けれど、リンという理解者を得て、弁慶の心は満たされた。
望美のように何かを切り開いて進むだけの速さはない。けれど、ゆっくりでもいい、確実に罪を償っていく道をリンは弁慶へ差し出した。
その手と共に。誰にも言えず隠し続けた心の奥の奥に気付き、そっと開けて、抱きしめてくれた。
共に歩むと、言ってくれた。――――ずっと望んでいた言葉だった。何よりも救いだった。
「(君を好きになっていたら、きっと僕はもっと楽だったでしょう)」
リンと共に歩むのは茨の道。
血を流し、それでも、何かを傷つけてでも、前に進む贖罪の道だ。
―――それでも出会えたことを後悔はしない。
「(早く有馬へ戻って、顔が見たい)」
望美を慰める言葉を吐きながら、そっと白い髪を想う。
弁慶はもう、ここにはいなかった。
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有馬に戻った源氏一行は戦勝の興奮冷めやらぬまま祝杯を交わす。
高尾山からの奇襲という今回の戦の勝敗を決めた提言を行った望美は勝利の女神として讃えられ、兵士たちの注目の的となっていた。
戦明けで血の漲っている兵士達の勢いは凄まじく、弁慶は望美、朔、リンへあまり近づきすぎないよう注意を促していた。
白龍は久々に望美と会えた喜びでリンの元を早々に離れ、彼女にべったりくっついている。
星が照らす、少し肌寒い夜。ゆらめく陣の松明の下、弁慶の視線に誘われるままリンは奥の林へとやってきていた。
藪の奥、木の影を纏い弁慶が出迎える。腕を引かれ、そっと引き寄せられた。動く心臓の音に、改めて無事の生還を確認し、リンも肩の力を抜いた。
「―――望美さんに話しました。少しだけ」
「泣いていました?」
「彼女には酷な光景だったでしょう、少しばかり良心が痛みましたが―――、」
そっと、弁慶の唇に指を当てる。それ以上は聞くのを躊躇われたからであった。
弁慶もそれ以上話すことはなかった。わざわざ遮る程なのだ、彼女自身も傷ついているのだろうと、リンの心を量ったのである。
彼女を引き寄せながら、弁慶は生田神社で感じた望美と彼女との関係の疑問を口にしようとしたのだが、それが言葉となる前。
リンの、望美への称賛の言葉で疑問がかき消される。
「あの子、前向きでまっすぐで、とてもいい子だから、傷ついてると思うんです」
「ええ、とても純真な人だと思います。どこか、九郎にも似たところがありますね」
「―――大切な神子様。でも神子と言ってもただの女の子だから、つらそうにしていたら力になってあげてください。…きっと、喜びます」
思ってもいない空疎な言葉がひらり舞う。弁慶の顔は怖くて見られなかった。
それ以上は何も言いたくなく、また、聞きたくなかった。そっと弁慶の胸に体を預けて、言葉をうやむやにしてしまう。
いつこんなずるい手管を覚えたのだろう。リンは内心苦笑する。
人に甘える事の心地よさを教えてくれたのは将臣と、そして弁慶との五条での日々だろう。
あの頃は憔悴しきっていて心が働かなかったが、傷に苦しみ喘ぐ私を、弁慶は毎夜優しく抱き寄せて癒していた。
恋中でもなければ、親子ということもない。ただの薬師と患者という不思議な由縁。
それでもあの五条の春の日はリンにとって蜜月のように胸を満たしている。
―――きれいで、いとしくて、やさしい人。
「次の行き先は京だと聞きました――――平氏を追い詰める前に、きっと、打ち明けましょう…私も共に行きます」
朔に。微かに震えた弁慶をその動揺ごとそっと抱きしめる。
無責任かもしれないが、朔が愛した黒龍が消えてしまったのは変える事が出来ない事実であった。
弁慶の調べ上げた龍脈と龍神との理で、新たに黒龍が生じたとしてもそれは朔の愛した黒龍そのものではない。
―――嘆くかもしれない。詰るかもしれない。それでも、その罪を受け取る覚悟を弁慶に懐いてほしかった。
その後、本当の意味で贖罪の日々を送る事になったとしても、その先にはあの明るい満月の娘が添い遂げていればきっと心が陰る事はない。
悲しい程に、不安は、なかった。
「京にしよう。平家は京の奪還を目指しているはず」
福原からの撤収。
一ノ谷の戦いの雌雄を決した白龍の神子の神力は瞬く間に源氏の中に轟き、謙遜する望美の意志とは無関係に既望の眼差しが降り注いでいた。
弁慶の平氏追撃で戦力を削がれたとはいえ、平家を構築する一族はまだ誰も打ち取られてはいない。
両者睨みあいに突入し、平家が戦力を補う前に叩いてしまいたいのが九郎を始め、源氏軍側の意志であったが、事を急いては災いとなる。
一旦冷静に、白龍の神子の力でも借りようという結論になり、望美に今後の行き先を問うてみる事となったのだ。
神子が示したのは原点。京への帰還であった。
リンの戦いがあった――――はずであった。
刻一刻と時を重ねるごとに死んでいく遠坂リンという人格が、手に取るように分かる。
あんなにも心を燃やした茶屋夫妻の事も、背の傷も、同僚の死もどこか遠い、いつか通り過ぎた過去の何かとでも評すればいいか。
すっかりぼやけてしまって、上手く思い出せなくなっていた。それはとても非情で、恩知らずで、恥知らずで。
脳では理解できるのに、もう心は何も痛まなかった。無音の水面、凪いだ心の平穏は既に寂しさすらも感じられなくなってきていた。
けれども、けじめをつけたかった。人としてまだ思考が残っているのならば、心はなくとも形だけでも、茶屋夫妻を解放したいと願った。
龍神温泉で感じた、あの高ぶる屈辱の感情は何であったのだろうか。本当に大切なものをなくしてしまった…のかもしれない。
京邸へ戻ったその日、リン自ら望美の部屋を訪ねた。
弁慶の事でも想っているのだろうか、どこかぼんやりと遠くの景色を眺めている少女の横顔は恋の悩みに陰っている。
薄らそれを可愛いと思った。それだけ心は随分と何かに塗り替えられてしまった。
何が真実かなど、もう、誰にも分からない。
「春日さん、お願いがあるの」
「…えっ?あ、リンちゃん…!ごめんね全然気が付かなかった!」
意識を取り戻した翡翠の瞳が光を取り戻す。真っ直ぐなそれも、既に眩しいと思う事も無くなった。
――――ガチャン、
どこかで鎖が蠢いたような、鈍い金属音が響いたような気がした。しかしすべてに首を振り、リンは望美の前に頭を垂れる。
驚き、息を飲む望美を遮って、リンは懇願した。
「お願いします神子様。どうか近江の…怨霊となった我が両親の浄化の願いを聞き届けては頂けませんでしょうか」
「や、やめてよリンちゃん!封じよう。そんなの当然だよ。…楽にしてあげよう?」
「…ありがとう、春日さん」
手を取り微笑む二人。綺麗に弧を描く唇――けれどその瞳は気味悪い程に淀み切り、底さえ見えない。
凪いでいる心の水面―――凪いでいるのではない。波が起こせぬ程に、淀み、邪悪な憎しみが蜷局を巻いているだけであったのだ。
静かに水面下で蠢くのは殺したはずの感情。行き場を求めリンの体中を駆け廻っては悪夢を見せ続ける。
けれども心を殺したリンにはそれも届かない。白龍の望む“坐”は完成間近であった。
『巡れ天の声 響け地の声――――彼の者を封ぜよ!』
見送る光の先、異形の夫妻は艶やかな紅葉と共に消滅した。
術の光が消え去ったそこには茶屋夫妻の姿も、骨も、衣も、何一つ残されていなかった。
―――けれど。
何か落ちている小物を見つけ、近づき拾う。言葉にならないリンの背を見て、心配した望美と朔が声をかける。
リンの手に握られていたのはいつかの座で茶屋夫妻がリンへと贈った紫陽花色の髪紐であった。
「…ずっと、なくしたと思ってた」
いつか、敦盛と話した言葉を思い出す。
『この世に留まる意思―――思いが強ければ強い程、人に近くなる、という事ですか?』
ずっと、生き続ける事を強いられているのだと思っていた。
それを窮屈だとは思わなかったが、それでも、茶屋夫妻の命を犠牲にして生き残った事は変えようのない事実であった。
そう感じていたリンは生きる理由をずっと探し求めて彷徨っていた。
――――けれど。夫妻は怨霊になってまでも、ずっと願っていたのだ。
「…きっと、この夫妻はあなたに幸せになってほしかったんだわ」
「うん、リンちゃんの事、恨んでなんてなかったんだよ」
親が子の幸せを願うのは当たり前だもの。―――朔の言葉が心に突き刺さる。
血が噴き出る音がしたような気がした。
―――おかしいな、もう心は温度を失ったはずなのに、どうして痛いと思うのだろう。
「ありがとう、春日さん、朔さん。…これで、けじめがつけられた」
心のない言葉が空気を震わせ言葉となる。緊張を解いた両神子の空気が肌を撫でて、それを逆立てた。
我儘に八葉を付き合わせてしまった事を詫びると、一行は水臭いと言って笑い飛ばした。
温かい笑顔、頼もしい言葉、仲間と言う意識。それはどれも欲しかったもののはずなのに、今のリンには全てが色を映さない。
灰色のビル街のような無機質なそれらに、そびえたつ物質としての認識しか感じられない。
壊れていく。どんどん、どんどん。
剥がれ落ちていく、誰にも知られずに、ひっそりと。
踵を返す一行の後ろを力なく続く。怨霊を封じた事で明るい雰囲気を取り戻した一行の賑やかな声を遠くで聞きながら、リンもつられ力なく微笑んだ。
遠ざかっていく感覚。
“人格”剥離の感覚。
経験したことのない感覚に、恐怖を感じないわけではない。
それでも、それよりも胸を支配していたのは、ようやく願いが叶うという達成感だ。薄暗い喜びの反響。
“親が子の幸せを願うのは当たり前”――――その当たり前が与えられなかった子供は、どうするのが当たり前なのだろう。
ぱり、ぱり。…ぱり。
ここは、とても寒い。体を撫でる秋の風が、リンを冷やし、流れて行った。
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幾日か後、福原遠征の戦後処理を終えた一行の耳に届いたのは京の異変の噂であった。
京邸の朝、譲と朔の作る朝食を平らげながら、その場は京の異変―――怨霊が引き起こしていると噂の怪異の出所を確かめるべきだとの結論に至っていた。
望美、譲、景時、朔、白龍、リンに続き、敦盛も身を置くようになった京邸は賑やかである。
ヒノエ、リズヴァーンはそれぞれ身の寄せ先があるからと京邸には留まらなかったが、源氏の活動の拠点は既にここにあると言っても過言ではない。
朝食が片付くころ、九郎、弁慶らも顔を揃え、自然と源氏の中心勢力の会議場と化していたのである。
「君たちの耳にも届いていましたか。京での異変の噂です」
「でも誰がこんな事をしているのでしょう、平氏の人間…怨霊を作り出せるほどの力のある人間が京に易々と出入りしていることが問題じゃないでしょうか」
譲の鋭い指摘に、ヒノエが口笛を鳴らしそれを肯定した。
「足止めをしたいんだろうと思うぜ、あちらさんは今いっぱいいっぱいだろうからな」
「しかし、還内府が立てた策としてはあまりにもお粗末だろう。出所が分かる程に主張した怪異などらしくない」
「―――九郎も分かるようになりましたね。僕も同意です。これは恐らく独断で行われている。出所さえきちんと押さえていけば時間もかからず収める事が出来ると思いますよ」
子供を褒めるような弁慶の言葉に、顔を真っ赤にする九郎。
そんな微笑ましいやり取りに和む一同は、まずは情報収集に向かう事に決める。
京と一言で表せど、それなりの広さがある場所である。あまり京邸を開ける事は好ましくなく、かといって悠長に構えれば平家の思う壷だ。
どこから捜索を開始するか、悩む一同に提案をしたのはヒノエであった。
「俺のアジトが六波羅周辺にあるから、知己もいる。そこから情報を得るところから始めようぜ」
「そうですね。怨霊の出所として怪しいと、六波羅近くの法往寺も情報として聞いていますし。そのあたりからせめていきましょう」
「そうと決まれば善は急げだよ!さあ、みんな、行こう!」
望美の一声で一同は連れ立ち、京邸を後にする。
怪異が起こっている事実は不安を煽るが、幾度も死線を共にした仲間との深まる信頼に、一行の顔は明るい。
「…本当源氏の神子様は勇ましいねえ~~頼もしいけど、転ばないでよ~」
景時の言葉の直後、望美がつまずいて転んだのは言うまでもなかった。
弁慶の情報はぴたり命中していた。
訪れた法往寺で出会ったのは後白河法王だ。
何でも京に蔓延る怨霊を少しでも封じるべく法往寺へ祈りを捧げに来たとの言葉に、九郎は深く感激し、その内容を問うた。
やはり政治の中心に根付く人物なだけあり、京で起こっている怪異の情報を快く差し出した。
その姿勢に九郎はいたく感激していたようであったが、弁慶やヒノエの視線は冷ややかである。
一番力を発揮しなくてはならない白龍の神子の望美が乗り気なだけが救いか。
温度差のある空気に景時がひっそりと胃を痛めていたが、誰にも気づかれることなく過ぎ去っていた。
「仁和寺に、鳥羽殿…あと下鴨神社…だったね」
後白河法皇から告げられた怪異の発生している場所である。
現在は京の法往寺付近にいると考えると、京邸を中心に北に下鴨神社、仁和寺。南に鳥羽殿となる。
無理をすれば一日で回れない事もなかったが、怨霊を直に操る事が出来る程に能力の高い人物が来ていることを仮定すると、歩を急ぐことが良作とは思いにくかった。
「まずは景時の京邸を中心に、北から周るのが得策だろう。そうだな、一番近い仁和寺から回るのはどうだ?」
「――――九郎の案、俺も賛成だな」
「…兄さん!?いつの間に…!」
まるで先ほどからそこにいたかのように。軽い調子で手を上げ、話に加わったのは熊野で離反した将臣だった。
譲が驚いたのも無理はない。
熊野で袂を別った時、将臣は相変わらずの自由奔放な様子で、挨拶もなく消え去ったのだから。
リンが全体に離脱の旨伝えた後は、身内の失礼をと譲は律儀に頭を下げて回っていた程なのだ。
まさか悪気なくいけしゃあしゃあと顔を出すだなどと思っていなかったのだろう。
しかし、福原であれだけ損害を発生させた平氏の姿を見ているだろうに、何を思い将臣は源氏に合流したのだろう。
彼自身の人柄を疑うわけではない。しかし、彼はその信念を曲げられないと、剣を交える事を選んだ平氏の人間なのだ。
平氏の還内府、有川将臣だと思うと、途端、彼への信頼はぐっと下がる。
リンは声をかけるわけでもなく、歓迎するわけでもなく、ただ無表情で八葉とのやりとりを眺めていた。
「でもどうして将臣君がここに?」
「…ちょっと人を追っていてな。京に来ていると話に聞いて、止めにきたんだよ」
「将臣も京に用があるのか?…しかし今、京は怨霊にまみれていて危ないぞ。俺達は今その怨霊が引き起こしている怪異を鎮めるべく仁和寺へ向かう所だったんだ」
将臣が平氏の人間と知らず、手の内を明かす九郎を責める気にはなれないが、どうにも源氏の大将がこの人物でいいのだろうかという不安が芽生える。
ちらりと弁慶に視線をやれば、彼も同等の事を考えているらしく、困ったように額に手を当てていた。
平家に組しているとはいえ、将臣は宝玉に選ばれた八葉なのだ。行動を共にする意味がある。
将臣と九郎らの立場は異なるとはいえ、今は双方の目的が一致している。
将臣を加えた一行は改めて仁和寺を目指し、進みだしたのであった。
「(――――どういう事だ)」
将臣は内心心が凍るような恐怖を感じ取っていた。それは、リンを一目見た瞬間から始まっている。
夏、ほんの数か月前の事である。熊野で別れた時とは全く異なる彼女の様子に、違和感を感じざるを得なかった。
涙にまみれながらも、はっきりと己の意見を言い放ったリンは気高く、望美にも似た眼差しを得ていたというのに。
だからこそ、己は引き下がったというのに。
思わず肩を掴んで問いただしたい衝動を、将臣は必死に殺したのだ。
それほどまでに、リンの瞳は酷く濁っていたのだ。
仁和寺へ向かう途中の道でも、幾度もリンを振り返ったが、おかしな様子は瞳だけではない。
まるで水中を漂う海月のような、覚束ない存在感。生命力を感じない、無機質な臭い。
何よりも違和感を感じたのは、そのリンの変化に、周囲が気づいていない事であった。こんなにも近くにいるのに、誰一人として。
「(…八葉は神子以外に興味がないっていうのか。弁慶、お前さえも)」
将臣は一人、唇を噛み締めていた。
仁和寺へ到着し、手早く怪異の現象を探る。
老人の話を聞き、探り出した仁和寺の庭、見つかった呪詛の人形は禍々しいオーラを放っている。
穢れを払うよう促され、望美はその呪詛の人形に触れる。するとそれは光を放ち、あっという間に浄化されてしまった。
あまりにあっさりと解かれた呪いに、驚きもつかの間、周囲の神子讃えが始まり、将臣は一層眉間の皺を深くした。
自分がいない間に、彼らの団結が強まった事は認める。
そして、望美自身が神子として類稀なる能力に恵まれており、それを頼られているのも分かる。
しかし、これでは
「(もしも望美が暴走したとしても止められる奴がいない)」
将臣は神子を巡る八葉、そして龍神の盲目的な様子に酷く危機感を覚えた。
もしかしたら、リンが抜け殻のようになってしまっているのは、これが原因なのだろうか。将臣は考える。
元々、リンが望美を苦手としていたのを知っている。
この過剰なまでに神子に縋る仲間の雰囲気に毒されてしまっているのだとしたら―――居た堪れない疑問は晴れる事はない。
しかし、立場上何か物申せるほど地位が確立しているわけでもない将臣は、何も言えなくなってしまった。
少なくとも京の怪異―――平惟盛が引き起こした怪異を全て解消するまでは様子を見る事にしよう、そう誓い、傍観者に徹する事としたのであった。
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仁和寺の怪異が解決した頃には天頂の日は既に西へと落ちていた。
呪詛の浄化自体はさして時間もかからないと判断された初日、残りの怪異は明日解決しようとの提案に異を唱える者はいなかった。
仁和寺から京邸へ戻る際、春以来となる神泉苑に寄って帰ろうという望美の提案も、逆らう者はおらず、一行はぞろぞろと神泉苑へと向かったのである。
半年前、ここで花断ちを披露した際は、文字通り咲き乱れる桜の吹雪の幻想に包まれていた。
季節は秋へと変わり、桜の木は茶混じりの赤、黄色に色づいた葉を落としながら望美達を出迎える。
透き通る水は冷たく冴え、水面に浮かぶ落ち葉で遊ぶようにその面に波紋を刻んでいた。
―――朔に告白を。
弁慶との約束をいつ果たすか。リンの思考はここ数日その一点に染まっていた。
朔にとって残酷で無慈悲な真実となる。だからこそ、時と彼女の心が平穏な時を見定めねばならないと思っていたのだ。
神泉苑、冴え渡る紅葉の景色の水面を眺める朔を見つけた。陰る日中の淡い空は山吹に、そして次第に狐色へと変わっていく。
棚引く雲を天に翳し、浴びる若夕陽の初秋の装飾。朔日の月の儚い横顔に、欠ける言葉は持たなかった。
「(朔さん……)」
神泉苑は龍神に縁深い土地なのだと、以前朔が語っていた。
怨霊の声を聞くことが出来る黒龍の神子である朔は、その神力を応用し、他者の意識を探る事も出来るらしい。
主に人ではない存在―――すなわち神である黒龍を探し求める内に磨かれた力なのだろう。
その意識の強いここ神泉苑で、意識を同化させても黒龍の気配が辿れないのだろうか。新月は今にも泣き出してしまいそうだった。
慰めの言葉は持たない。けれども、その様子を放っておけない。
リンは朔に寄り添うべく、一歩を踏み出したのだが、その足は突如輝く満月により足止めされる。
朔に気付き、話しかけたのは望美だ。朔の様子がおかしい事に気が付き、話しかけたらしい。
互いに親友だと語り合っていた関係は決して嘘ではなかったのだ、リンはその光景に胸を撫で下ろし、望美に委ねる事で心を落ち着かせた。
「(時には春日さんのように、前向きで明るい人間の言葉も必要だもの)」
随分と、望美に対する心持ちも変わったらしい。素直に彼女の美点を褒められるようになった心に驚いた。
彼女を恨み続ける事に疲れたわけではない。今でも瞳を閉じた先、命を奪われた同僚の姿は忘れてはいない。
けれども、人としての感情を失いつつある“この私”では、あの頃のように心を燃やすことはない。
いつかは弁慶の隣に、彼の手を引き走り出す姿が完成するのだと思えば、なおの事だ。祝福できるのであれば、それに越したことはない。
「(――――幸せになってくれれば、それでいいの)」
その為に私はここにいるのだから。
そう、全身に染み渡らせた願いを馴染ませるべく瞳を閉じ、情報を遮断する。
しかし、穏やかな気配に包まれる時間を引き裂くように。池の方から放たれたのは嘆きの刃。
その鋭さに驚き、振り返ったその先には望美に怒鳴る朔の姿が映し出された。しかし、すぐにその勢いは朔自身によっていなされる。
何を話しているのか、詳しくは分からないが、朔は悲しげに眉を寄せて胸に手を寄せている。
その頬を伝う涙を拭う事もせず、顔を逸らし、嘆きに満ちるその口は謝罪の五文字を紡いでいた。
「…朔さん…!」
止める間もなく。朔は望美に背を向け、走り去って行ってしまった。
踏みあげられた紅葉の吹雪は舞い上がり、朔を追うその視線を遮断する。必死に目を凝らし、追った池の奥道にはもう朔の姿は捉える事が出来なかった。
それでも、追いかけようと足を踏み出す。踏みしめる紅葉の音―――けれども、それよりも目に留まるのは微動だにしない桃色の髪。
あんなに怒る朔を見たことなどない。
あんなに泣く朔を見たことなどない。
いつだって苦しみを抱えながら、それでも周囲には気丈に振舞って見せていた朔を、あんなにまで激昂させたのは、間違いなく望美との会話だろう。
それなのに、なぜ、
「…!?」
リンは目をこれ以上ない程に間開いた。重なり合う翡翠。―――望美が踵を返し、池に背を向けた。
一歩一歩、遠ざかる朔への道。
リンの混乱が晴れる事はないままに、近づいてくる望美は、はっきりと知覚出来るまでに引き返してしまっている。
どうしてこれと視線が合うのだろう。どうしてこれと私は、進もうとする方向が重ならないのだろう。
どうして望美は、朔を追わないのだろう。
知覚出来るようになったのは、色だけではなくなった。その翡翠の底が見える程の至近距離で恐る恐るその石を覗き込む。
その翡翠に―――――後悔は、なかった。
リンの背から風のように流れてくる、八葉の神子を呼ぶ声。
「そろそろ戻るぞ、明日もお前には頑張ってもらわねばならない」声の主は、九郎だろうか。
まるで無機質な機械音のように空気を震わせたような気がする。
上手く脳が物事を考えられない。知覚出来ない。
ただ、ひとつだけ。
気が付いた時には、脇を抜けようとする神子の腕を掴み、問うていた。
「…朔さんを追わないの?」
「……朔の事は気になるけど、今は異変を解決する事が優先だから…」
その言葉に、リンの中で何かが音を立てて、切れた。
「先輩!?」
目の前に目障りな桃色がいっぱいに広がる。右手の手のひらが痺れるが、そんなことはもう感じる事も出来なかった。
ちかちかと星が爆ぜ、もう一度、と手を振り上げる。しかしそれはいつかの日と同じく、振り下ろされることはなかった。
悲鳴をあげて崩れ落ちたその桃色を、若草が近寄り、抱き寄せる。
荒々しい言葉を発する若草から伸びる腕は優しく、困惑を含む怒鳴り音が周囲に飛び散った。
怒鳴りながらも柔らかい音色を放つそれが“労わりの言葉”だと理解した瞬間。
リンの脳は意識を覚醒させ、ようやく“指令”を流し込んだ。
ただ、その指令のまま、叫ぶ。
「あなたそれでも朔の親友なの!?」
先程の平手打ちのように弾かれた叫び声が、少しの木霊と共に消えていく。
同時に、胸の内で騒ぎ出すのはいつかの鎖だった。
ガチャガチャと激しく、鎖を揺さぶる音は響き、自分の声が聞こえない。リンは声を一層張り上げ叫ぶ。
「あなたが傷付けたのよ!?相手の気持ちなんか考えもしない無責任な言葉で…!」
「こんな時ばっかり神子ぶって…!神子の立場を言い訳にして自分の罪から逃げてるのはあなたじゃない!」
「そうやって人を傷つけておいて、なんでそんな平然としていられるのよ!!」
「やめてください!!」
「!」
割って入ったのは若草―――譲だった。
驚きで固まる望美を抱き寄せながら、それでも静かに燃やす憎悪の双眼がリンを射抜く。
その手は激しく震えていた。恐れではない―――怒りに。リンが出で立ち、譲はしゃがんでいる。
リンが見下ろす形であるのに、それでもこの真っ直ぐに射抜かれる気迫に思わず口が閉ざされてしまう。
譲の我慢に火が付いてしまった。
望美を抱きながら、燻り続けた胸に渦巻かせる青年の叫びが放たれた。
「春日先輩は…勝手にこんな世界に連れてこられて、神子なんかにさせられて…それでも一生懸命頑張ってる!皆を救いたいって、剣まで握って怨霊にまで立ち向かって頑張ってる!」
「……っ!」
「あなたなんか、役割も果たせず、自分を守る事も出来ないくせに…!俺達の為に戦う先輩を悪く言う資格なんて!!」
「――譲君、言い過ぎだよ」
景時の言葉で、譲が言葉を飲み込む。興奮冷めやらぬ様子の細身は大きく震え冷静さを欠いているが、言葉に偽りはないらしい。
噛み締める唇には今も止め処なく怒りが溢れている。
けれども景時の制止を振り払う程の幼さはない。そのアンバランスな年齢のせめぎ合いが、彼を苦しめ唸らせていた。
景時が困った様子でリンを見やる。
どう声をかけていいのか分からないと言った表情が彼らしい、と他人事のようにそれを眺めていた。
それよりも、意識が集まった右手の手のひらがじくじくと痛んでいる。
血が集結し、熱を持ったそこは激しく生命を主張していた。
恐ろしいまでに冷めていく視線と心と。
ぼんやりと、蹲る譲の旋風を眺めながら、その腕の中に閉じ込められている望美をも見やるが、その全てを瞳に収めた頃には心も脳もすでにただ、無音であった。
「…リンちゃん」
景時の音に鼓膜は反応する。けれど、その音に含まれているはずの“気持ち”を読み取ることが出来ない。
譲の言葉が頭の中で反響する。まるで空遠い塔の中に閉じ込められているかのように、幾度も響く彼の嘆きを何度でも受け止める。
無音の中でも、唯一体が拒絶を示す。
全身に纏わりつく恐怖であった。気味の悪い感覚を払い捨てたいと願うが、リンの手足は動かない。
そう―――“恐怖”であった。譲の言葉が、ではない。
景時が顔色を窺う程に、“傷ついた”と思わせる言葉を浴びながら、何も感じない、己の心がである。
怒るのではない。傷付くのではない。―――許されるのならば、ただ、泣きたかった。
反応のないリンの様子を量りきれない周囲は、ただ息を飲み、リンの行動を待っていた。
一触即発とも質が異なる、奇妙な沈黙がただただ流れていく。
微動だにしないリンの背を見つめるだけの八葉達は、その表情も心持ちも知る事は出来ない。
―――弁慶ですら。近づくことは出来なかった。
弁慶は思う。もしかしたらあの背の向こう、声なく泣いているのかもしれない。それならば今すぐ飛び込み、あの華奢を抱きしめ慰めたいと願う。
しかし、その心とは裏腹に。縫い付けられたように固まる足は動かすことが出来ない。
心と体とが一致しない。そのもどかしい気持ちは突如終わりを告げる。
突如、謎の呪詛が沈黙を裂いたのだ。
動揺で反応が遅れる周囲の目に飛び込んできたのは、崩れ落ちるリンの体。
朽ちて落ちた材木のように一縷の品もなく、その場に倒れる。
―――白龍の手によって。
「な、何をしたんだ白龍!」
「…安心して九郎。坐との約束を果たしただけだ。壊れては……いや、死んではないよ」
翳した手、空中に舞う羽衣と白銀の髪。
幾言かの祈りと共に生じた術光はリンへ命中し、その意識を奪った。
まるで壊れ物のように崩れ落ちたその体、近くにいた景時が抱き起しても意識は戻らない。
まるで死んだように冷たいそれにみるみる血の気が引いていく。
そんな景時の表情を見て、怒りを燃やしたのは弁慶であった。しかし激情に任せ短気を起こす事はない。
そう、ここで怒鳴り込んだとて事態は好転しないのだ―――握る拳に爪を食い込ませながら、噛み殺したその理屈を己へ激しく叩き付ける。
震える拳が鎮まった期を見計らい、白龍へと尋ねる。「約束とは?」
しかし白龍はその問いには答えない。知る必要が無いといった類の、底の見えない視線を返され、弁慶もそれ以上問い詰める事が難しくなってしまった。
不穏な空気が流れる中、非難を含んだ視線を感じ取ったらしい。
白龍はおろおろと周囲を見渡した後、一度小さくため息を吐き出した。さすがの白龍もこの状況を説明なく収める事は不可能だと判断したらしい。
八葉を振り返り、告げる。
「あれが隠し持っていた“友情”を壊したよ。坐として必要のないものは壊す必要があるから」
――――本当は、あれ自身に託していたんだよ。感情の制御。
最近随分らしくなったと安心していたのに、やはり隠していただけだったか。
人間が媒体というのはやはり扱いづらくて困るね。
けれど人でなければ効果は薄くなってしまう…まだあの一族でよかったと思うべきだろうか。
神子、どうしてそんな悲しい顔をするの?…ねえ神子、私はあなたに笑っていてほしいよ。神子。
…神子、私の事、嫌いになってしまった?
情の無い白龍の言葉が周囲を凍らせる。
その異常な空気を読み解きながらも、何が原因かを悟る事の出来ない龍神はおろおろを続ける。
その困惑を人間達は誰しもが理解をしていながら、けれども誰も教えてやることは出来なかった。
白龍がリンの事を物としてしか扱わない事を知っている。
否、知っていたつもりであった。
いつか彼が大人の姿へと変貌を遂げた時にリンへと放った残酷な言葉を、将臣や望美に激しく非難されていた日々は記憶に新しい。
しかし望美に叱咤された後は、リンに対し自分達と変わらぬ接し方をしたその様子に、気付けば白龍の価値観など忘れてしまった。
―――揺るぎない龍神の精神――その厳粛な彼の理に、人は口を閉ざせられ言葉を持たない。
抗議の狼煙すらもあげる事が出来なかった。
それが、いかに、非人道的な事であったとしても。
人間と龍神は違う――――。
望美の頬を一筋の涙が流れて落ちる。彼女では己が内に、不条理の留め場所を見つける事は出来なかった。