やさしいひと(弁慶長編:完結)
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22.咆哮
頭領――――熊野別当がヒノエであった。
随分と遠回りをしたものだが、最終的にヒノエ自らが名乗る形で明かされた熊野の秘密。
頭領が白龍の神子に執心である。そんな噂は当たらずしも遠からずと言った体であった。
つまるところ、ヒノエが白龍の神子に興味があったのは事実であり、それは熊野の頭領として源氏に組するか。
その決断を下すための偵察であったようだ。
望美が神子であることを知りながら、真実を隠し続けていたその姿勢を随分となじられたようで、バツが悪そうな顔を見せたのが印象に強い。
リンの言った『人には隠したい事もある』という言葉は全く届いておらず、弁慶が諭した『秘密を知る事の危険性』すらも理解されているのか怪しい。
薄ら涙を浮かべヒノエに向かう望美を見て、弁慶とリンはそっと溜息を漏らしていた。
結果的にヒノエを、もとい熊野別当をおびき寄せる事に成功し、また、その協力も得る協定が結ばれた。
今回の熊野参詣は源氏方にとって願ったり叶ったりな結果を収める事となったのである。
「せっかく熊野まで来たのだから本宮も見ていってほしいですね」熊野出身である弁慶の提案により、一行は当初の目的通り、本宮を目指す事となった。
速玉大社から熊野川を上る道すがら。
怪異を引き起こしていた怨霊を封じるハプニングも交えながらも、熊野を味方に付けた高揚感に満ちる一行の足取りは軽く、あっさりそれを破り進む。
まさにその姿は破竹の勢いさながら。一丸となって立ち向かうその様の中、ただ一人複雑な視線で見つめる人間がいた。
―――還内府、平重盛。有川将臣である。
そろそろ熊野ともお別れだ。譲の何気ない一言が将臣の耳にやたらと刻み込まれた。
何も知らず、幼馴染に連れ添う弟の背中は昔と変わらず、年相応の瑞々しい弧を描き出で立っていた。
その背に人を射抜く武器が備わっている事だけが非日常で、けれどそれを外してしまえばいつだって元の日常へ帰る事が出来るのだろう。
幼馴染とて、具足と刀を離してしまえばただの年相応の少女でしかない。
細い手足には少しばかり筋肉が増したか。けれどもしなやかな姿は十代の少女のそれで。あの頃と何も変わらない。
「有川君」
「……遠坂」
「何も言わずに出ていこうとするなんて……有川君らしくない」
本宮大社は目と鼻の先であった。
元々田辺で合流した際、本宮大社までは八葉でいると約束をしていた。
そろそろお役御免だと夜の闇に乗じて抜け出そうとしていたその背をリンは目ざとくも追いかけたのである。
向きを正し、彼女と向き合えば、図らずも月と向き合う形となる。リンの表情は逆行となり、見えない。
怒っているだろうか、悲しんでいるだろうか―――――いずれにせよ、表情で読み解けるほど将臣は鋭い人間ではなかったのだが。
ただ、彼女に違和感を感じている。分からないのが酷くもどかしい。
「何を考えているの?」
「…随分変わっちまったなと思ってな」
「………ああ、私達の事?」
昼間、譲さん達を見ていたものね。続けられたリンの言葉は、まるで他人事のような響きを持っていた。そう将臣は思った。
洞察鋭く人を観察する癖は変わらない。昔はそれで逐一傷つき、怯えていたのだから本質は変わらないはずなのに。
―――ぱちん。ぱちん。
疑問に散った情報が一つずつ繋がり、答えと言う形を成していくのを心中で悟る。
そうだ。彼女は、怯えなくなった。
以前はこんなにも真っ直ぐ、たとえ、将臣が相手であっても瞳を射抜くことなど出来なかったのに。
「もう元の世界へなんか帰ることなんて出来ない」
「――――それが遠坂の答えか」
「そう思ったのは有川君でしょ…違う?」
図星だった。年齢も気持ちも、何一つあの頃のまま変わらない二人の背を見た後では、自分を映す鏡のどれほどに歪であったことか。
年齢も、姿形も、心も。全てが塗り替えられてしまった有川将臣では、もうあの二人の隣に並ぶことは考えられない。
将臣とて元の世界が恋しくないわけではない。けれど、自分はここで新たな居場所を得てしまった。それを守りたいと願っている。
強く、強く。そしてそれは、目の前の、この同級生とて同じのはずだ。
志を共にしたいと、将臣はまだ、願う。
「遠坂」
「……私は、一緒には行かない」
「…まだ何も言ってねえだろ」
「目を見れば分かるよ」
強情だと思った。いいや、違う。重ねた視線のその先に見えたのは信念ではない。ただの“諦め”であった。
初めて再会した京の奥山、揺れていた瞳が儚く散る。淡く寂しげに、震えていた彼女はもうどこにもいなかった。
あのリンをここまで雁字搦めに塗り上げたのが、彼女の想い人であるのか、坐という使命であるのか、将臣には量りきれない。
放っておくことなど、出来るはずがなかった。
「俺と来い!お前が身を犠牲にしてその坐とやらになる必要がどこにある?あの白龍だとかいう胡散臭い神様とやらのいう事なんて聞かなくていいだろ」
「………」
「誰かを助けるってのは、自分の身も守るってのが大前提だ。捨て身の助命なんて、そんなもん誰も喜ばねえよ」
「でもここで私があの人を捨てて、貴方と行ったって誰も救われない。あの人も、私も、貴方も」
「遠坂!」
「……貴方も、あの子と一緒」
トーンが変わった。一瞬で空気が入れ替わる。
俯いた彼女のシルエットが小さく震えて、爪が食い込むほど、強く握られた両腕の軋む音。静寂にやたらと大きく届いた。
顔を上げた勢いで周囲に散る白い髪は月の光に透き通り、糸のように散った。表情は、やはり、見えない。
髪の隙間から月が照らすその先がきらりと輝いた。届いたのは、涙声。
「自分が正義だって。正しいんだって。そうやって常に誰かを踏みにじって進んでいく」
「………」
「助けてるつもりでいた?…いつも奪われる側の気持ちなんて、考えたことなんてないでしょ」
「……遠坂」
「そんな人“優しい”なんて思わない。好きになんて、なれるはず…ないよ」
それが決定打だった。その言葉を吐き出して、彼女は泣き崩れた。
他人の胸を抉りながら、諸刃の痛みを被り、彼女も痛む。本当に損な性分だと思った。
今まで己のしてきたことを否定する事は出来ない。
しかし、彼女の為だと言いながらそれが彼女を苦しめる可能性があるだなどとは、将臣は考えたことはなかった。
いつだって、周囲は笑顔だった。
いつだって切り開き進む肩を頼られた。
それは自ら望んだことではなかったかもしれないが、そんな事を振り返るよりも、誰かを救えた達成感に満ち溢れていた。
“誰かの幸せの下では誰かが不幸になっている”―――いつだって、彼女は、泣いていたのだろうか。
「兄さんはいつだって勝手だ」不意に、譲の言葉が思い出される。
考えすぎだと一言でくくっていた弟の性分を、欠片ほども理解できていなかったのだろうか。
「…分かった」
世話になったと伝えておいてほしい。
憎むにも憎みきれない源氏の戦友たちに言付けを頼む。それ以上はもう何も言えなかった。
泣き崩れるリンに背を向け、将臣は闇の中へと歩き出す。帰る場所は京ではない。福原―――平氏の本拠地へ。
立ちはだかる熊野の木々は煤けたように黒く、闇深さを演出する。重なる木の隙間を振り返れども、もうその先にリンは見えなかった。
それを確認し、張り詰めさせた意識を解き放つ。溢れ出るのは女々しい本音だ。誰にも見せられない、等身大の己。
前に進むことを阻む、求められていない“有川将臣” そう、将臣は願ってしまったのだ。
「…それでもお前を救い出すのは、俺でありたかったんだ」
抱きしめて、閉じ込めて。怯える手を、己が引かねば歩くことが出来ない彼女に恋い焦がれた。
既に彼女は答えを得て、自らの足で立っていても、それでも。
もっと早く、伝えたらよかった――――届くことない後悔の言葉が、夏の風に浚われ雲散していく。
ただ今は、それだけだった。
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本宮大社を観光し、一行が京に戻った頃。
夏の空を漂っていた入道雲は姿を消し、広く伸びる薄雲が淡い空を飛び交うようになっていた。
突き抜ける熾烈な熱さは次第になりを潜め、代わりに空が高さを増していく。季節は秋へと移ろうしていた。
時間にして二月程。
花の香りに満ちていた京邸に夏の名残は抜け落ち、閉じた庭の花壇に伏せた花の亡骸が横たわる。
近づき拾ったそれは、かさり、とか細い音と共に崩れ落ちて風に乗って消え去る。笑う事は出来なかった。
甘い香りの中、譲が耳まで赤くしながら花を植えていた姿が思い浮かぶ。望美の為に。その想いは今もここに息づいている。
変わってしまったのは、私だけだ。まるで他人事のように全てが流れ落ちていく感覚は、とても穏やかで平和的であった。
人とぶつかる煩わしさも、燃え上がる歓喜の息苦しさも、何も感じない。
「…有川君の手を取れば、楽になれる事は知ってたよ」
けれどそれは、彼を不幸にすることと同意義だった。
リンは知らない。
人を好きになるのに理由なんて無い事を。見返りを求めない誠実な愛があるということを。
リンは信じない。
鎌倉へと早馬を飛ばす。
熊野を得たことで、水陸両戦に対応し得る軍事力を持った源氏の勢力を誇らしげに見つめる九郎は連日すこぶる機嫌がよかった。
顔こそ普段の仏頂面であるが、橙の鬣を揺らし兵らの見回りをする後ろ姿は子供同然で、しばしば弁慶に窘められる姿もあったほどだ。
初秋。早馬の知らせを受け取ったらしい鎌倉殿より、景時へと書状が届けられた。
洗濯物を干す手を止め、景時は書状を開く。傍で朔が不安気に見つけているその光景。朔の願いも空しく、景時が表情を戻すことはなかった。
京邸へ集められた源氏一行。告げられたのは『福原出兵』だ。
「熊野水軍の助力を得られたってことで、とうとう時期が来たってやつなのかな~」
「源氏側が勝つって思ったから手を貸してやったんだ。負けてもらっちゃ困るんだけど」
景時、ヒノエ。そして続くのは九郎に弁慶だ。皆、源氏の勢力としての武士魂が揺さぶられているのだろう。
望美や譲達とは異なり、生まれ落ちた瞬間から戦と言うものがあり、支配者に従い、己の責務を果たすことを本懐とする人種。
そして、価値観だ。
譲は思う。源氏軍の軍議であれば、先ほど挙げた四人で揉めばいい話である。
それをわざわざ京邸へ皆を集め、話を聞かせたという事は神子である望美をも巻き込む前提だということだ。
白龍の神子として、怨霊を封じねばならない事は嫌が応にも理解し、自分も付き添ってきた事だ。今更否定する気はない。
だが、この世界に古くから根付いていた“歴史上の戦”の流れに巻き込まれるのは道理じゃない。
意義を唱えるべきか、譲が口を開いたのと、望美が口を開いたのはほぼ同時であった。
「次の本陣はどこに置かれるんですか、弁慶さん」
「有馬を考えています」
「ちょ……先輩!」
最早譲の制止の声など届かない。振り向いた望美の視線を見れば一目瞭然であった。その意志に閉口する。
譲は悟る。最早この世界で神子として、八葉として呼ばれた以上この世界の歴史と添い遂げる運命なのだと。
この世界を創造している全ての事案が、複雑に絡み合い、一つを形成している。
その理の一つだけを慈しみ生きる事がどれだけ愚かな事か、言葉にはしないが望美には分かっているのだろう。
「……俺が全力で守りますから」
それでも、譲にとって望美は大切な幼馴染であり、誰よりも愛おしい人だ。
あの甲冑を脱ぎ捨てれば、本当はただの高校生の少女である事実は変わらない。
戦いのないあの鎌倉で、奔放な兄と、マイペースな望美と、それをいつも追いかける自分と。
その日常に戻れるのならば―――帰すために。譲は明日も弓を握る。愛しい人を守る為に。
―――その、譲の瞳を見て、リンは思う。けれどもそれはもうリンの中で形とはならなかった。
ただ胸にどんよりと残る、言いようのない不快感と、鮮明なただ一つの言葉“あの人を救う”。
鮮明なそれだけが既にリンの心の拠り所であった。
かつて己の心を苦しめていたのは何であっただろうか。
なんて非情なのだろう。もうその熱き気持ちをも忘れてしまった。
茶屋夫妻を浄化することも、運命に翻弄され死した同僚のことも、存在を忘れたわけではない。
けれど、桃色の髪の少女を見ても沸き立つ血の滾りをもう感じられないのだ。通り過ぎた過去の悲しみ。
言葉で定義できてしまう、その無粋な心の浅さが―――――…霞が遮る。
それ以上は、もう考えられなかった。
「(私に必要なのは、弁慶さんの過去の真実を知る事だけ)」
今後大きく動くであろう歴史。人々の抱えるそれぞれの思惑を拾い、操り、使う。真実は一つだけ。
初秋、福原出兵が正式に決定する事となる。
神子、八葉、そして龍神にはそれぞれ特性の異なる“五行の質”を持ち得ている。
その五行の組み合わせ、そして白龍の神子の封印の力とを合わせ“術”を放ち、怨霊へと浴びせているのだと弁慶は言った。
熊野詣から“火の属性”を持つヒノエが、新たに八葉に加わった。
今まで白龍しか持ち得ていなかった“火の属性”が増えたことにより、白龍自ら、第一陣から退く事を願い出た。
「坐を守る事に専念するよ。神子には頼れる仲間がたくさんいるから、私はそれを信じよう」
「…今回の戦は熾烈を極める事となります。リンさんを連れ行くよりも、三草山の戦いの時同様、医僧として有馬本陣に残ってもらう方がよいでしょう」
弁慶の提案に異を唱える者はいなかった。―――建前上は。
ちらりと譲を見やる。何も言わない彼だが、その目には隠しきれない困惑と不満の色が浮かんでいる。
顔を少し逸らし、落ち着かせるように眼鏡を触るその仕草を見れば、不服と言う立場である事は一目瞭然である。
彼は聞き分けのいい子供だった。それは大いに利用させてもらう。
リンとて一行と行動を共にしたい気持ちは十分だ。弁慶自身の贖罪への計画を知り得ていない以上、彼がどこでその策を巡らせるか分からない。
その瞬間は必ず共にいなくてはならない。我儘が推し通るのであれば、リンとてとっくにそうしている。
「(お互い様なんだよ、譲さん)」
程なくしてそれぞれの福原戦の準備と役割が言い渡される。リンは弁慶に付いて、医療用品の手配を始めたのであった。
戦が始まれば、いつ命を落とすとも限らない。リンの心を占める不安は、分かりやすい形で揺さぶりをかけた。
白龍が神子の加護から離れた以上、今までのように自由に振舞うことは限りなく制限される。
つまるところ、監視役が常についていると考えるしかなかった。
坐としての役割を果たす潤滑剤として、弁慶への想いを残すことを了承したのはリンのみの話であり、白龍はそれを絶対に許可しないだろう。
もしも白龍に、弁慶へ傾けている“心”が知られてしまえば、リンの物語は総崩れとなる。弁慶を救うための物語だ。
「(絶対に気付かれてはならない)」
神であっても奪わせない。この想いだけは、絶対に。
「…戦いが始まれば、こうして弁慶さんともお話しできる機会はなくなってしまいますね」
「離れがたく思ってくれるんですか?…ふふ、嬉しいな」
「今夜、お時間をいただけませんか。二人きりで、お話ししたいんです」
ぷち、弁慶の薬草をちぎる手が不意に止まる。すぐにそれは再開されたが、先ほどよりも顔を奥へと逸らし、リンから表情を隠している。
無意識の行動なのだろうが、彼にしては目に見える形で動揺を表現するとは珍しい。
その後、いつも通りの“作られた甘い言葉”が聞けると思ったリンの期待は裏切られる。
動揺する様子そのままに、いつもよりも掠れた声で告げられた是の返事。
「ええ、喜んで」
たったそれだけなのに、リンの心臓は酷く高鳴った。白龍が背を向けていた偶然に、今は何よりも感謝していた。
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「今はまだ戦場ではないから、坐についている必要もない」
何を閃いたのか、薬草を集め終え詰所へ戻る途中に白龍は言い放つ。
踵を返し走り去る背の、まるで子供のような言い分に苦笑しながら弁慶とリンは薬草の選別作業へと移った。
薬草庫に保存されている乾燥生薬から、医僧らへの伝達、用品の手配など出兵の準備は忙しく、結局夜になるまで弁慶と話す時間は得られなかった。
医療班の準備は大方片付き、この日の作業が終了となったところで、リンは一つ重大な事を失念していることに気付く。
「弁慶さん、六条の自宅へ帰られるんですよね」
夜に落ち合う場所である。京邸によく顔を出している事もあって勘違いしていたが、弁慶や九郎は六条堀川にそれぞれの邸宅があるのだ。
リンは京邸に居候する形で身を置いている故に、単独での外出はあまり望まれない事を知っている。
今日は各自が己の担当作業につき、行動が自由となっているから、外出するのならば今しかチャンスはないだろう。
どこかいい場所はないかと頭をひねるリンに、弁慶は少し戸惑った様子を見せながら、言う。
「僕の邸に来てはどうでしょう」
「…弁慶さんのお家に?」
「他に場所もないでしょう。明日からは出兵への本格的な準備に入るでしょうから、自由な時間もありません。来てくれますね」
相変わらずの有無を言わせないずるい言い方だと思った。リンは首を縦に振り、是を示すしか道はなかったのである。
夕陽の橙が藍に変わる。
日中はまだ夏の名残を感じさせる暑い日差しが差し込んでいるが、陰ってしまうと急に冷えが襲い掛かる。
巡る季節、秋の夜の気温であった。風こそまだ生ぬるいが、あっという間にそれも寒さをもたらすのだろう。
伸びる長い影を背に連れて、リンと弁慶は六条への小路を歩いていた。
その影が完全に闇に溶け込む頃、一つの邸宅前で足を止める。周囲を堀で囲んだ、質素ながらも武家屋敷。
白い漆喰の壁と連なる瓦塀。あまり使われた様子がないのは、弁慶がここによりついていない証拠であった。
「さあ、どうぞ。随分帰っていないので、埃っぽかったらすみません」
招かれたその部屋は薄暗く様子が分からないが、奇妙な香りが充満していた。
学校の理科実験室の棚のような、かつて近所にあった小さな診療所のような、いわば薬草の香りである。
火を灯され、明らかになる部屋の中は香り通りの用品がごろごろと並んでいる、お世辞にも綺麗とは言えない部屋である。
壁には仰々しい曼荼羅が飾られ、足元には乾燥生薬、薬草棚、古書が所狭しと置かれており、薬壺やらなんやらとにかく物で溢れかえっている。
リンの視線に気づいたらしい弁慶はそっと袈裟で顔を隠していた。恥ずかしいのだろう、いつもよりもその声は自信に欠けていた。
「すみません、色々と集めている間に…こんなことになってしまって」
「あ、いいえ。どれも弁慶さんにとって必要なものですから。気にしていません」
「―――」
弁慶は何か言いたげであったがそれ以上は何も言わなかった。
小さく一度ため息を吐き出すと、どこからか持ってきたらしい座布団を敷き、リンに座るよう促す。
すとんと座ったそこから綿の優しい弾力が広がり、穏やかな触感はリンの心を整わせていく。
ちらちらと揺れる明かりの炎が静かに燃え上がる背に変わる頃、少しの沈黙の間を保ち、問うた。
「…黒龍を消滅させたのは、弁慶さんでしたね」
返答はなかった。
けれど、それが答えであった。
燈台の上座は再び揺れ遊び、紅い闇を弄ぶ。均整な優しい彫がちらちら揺れ動くのは、炎のせいばかりではない。
黄金の瞳は激しく揺れていた。動揺と、不安と、恐怖に。最早偽りの微笑みを向ける事も出来ない、震えた唇。
こんなにもこの人は分かりやすい人ではないはずなのに。
少なくとも、皆が知っている武蔵坊弁慶とは違う。
これが本当のこの人ならば。それを知ることが出来る場所にいるのならば。気付くことが出来る力があるのならば。
「貴方の覚悟を、私にも教えてくれませんか」
「………責めないのですか」
静かに首を振る。
「前も言いました―――私がこの世界に来たのは貴方のせいじゃないもの」
誰のせいでもないのだ。ただ、運命がそうさせただけの事なのだ。
巡り巡る世界と人の思惑がただ一つの運命を作り上げた。それが、今なだけなのだ。
貴方を責めるのは私ではない。黒龍という伴侶を失っている朔だ。それは弁慶自身が一生をかけて償わなければならない事だろう。
それを明かさぬまま、
「死ぬなんて、ずるい」
「!」
「命を懸けようとしているでしょう、あなた」
どうして、とか、なぜ、とか。
言葉にならない弁慶の問いに声なく答える。「私も、そういう人間だから」と。
目を間開いて眉を下げるその表情は酷く子供染みていた、けれど仮面を一つも付けていないまっさらな弁慶自身で。
今にも泣いてしまいそうなその黄金が酷く愛おしい。
貴方の苦しみが分かる。貴方の考えが分かる。
一生懸命頑張って、考えて、自分を責めて、生きてきた貴方はもう十分だ。
赦しが欲しいならば、私が貴方の罪を赦そう。リンはそっと震える体を抱きしめ、温める。
「…私を信じて。そして、使って」
貴方の贖罪を果たすために。それが、私の幸せだから。
抱きしめた黒い袈裟はただただ震え、縋るようにリンの胸へとなだれ込んだ。呻くような声と、しゃくり上げる肩と。
そこには妙齢の男はどこにもいなかった。ただただ純粋に、泣き崩れる一人の人間。
いとおしいその人をリンはいつまでも深く、深く抱きしめ続けていた。
落ち着きを取り戻した弁慶は腫らせた瞳を恥ずかしそうに逸らしている。
袈裟で隠そうと少し俯いている姿がどこか可愛らしく映り、笑えばけれども、恨みがましい瞳を向けられた。
落ち着いた弁慶から語られた清盛との確執、黒龍の消滅その話はリンが思う以上に業深く、様々な欲と思惑が混在した禍々しいものであった。
誰しもが願う、己の幸福―――歪みに歪んだその強欲が、いつしか世界を巻き込み滅ぼす程にまで成長してしまった状況。
真実に最も近しい場所にいながら止められなかったと悔いる弁慶の肩は、さぞ重かった事であろう。
良かれと思いかけた呪詛が穢れへと変わり、望まぬ黒龍の消滅への悲劇を引き起こした事は酷くリンの胸を抉った。
「黒龍の逆鱗には怨霊を生み出す力があります。―――それを破壊し、三種の神器を奪還する……もしくは清盛殿を屠るか、です」
弁慶は己ひとりで出来る範囲での最大限を願った。
彼が描いた結末は“清盛を自分の体に憑依させ、怨霊を浄化する八咫の鏡に映り、そのまま共に浄化される”というものであった。
すれば、怨霊である清盛の身は元の理へ帰る、龍脈へと還る事になるという筋書きであった。しかし、それでは媒体となる弁慶の身も失われてしまう。
リンは、それを許すつもりはなかった。
ならば取る方法は前者だ。黒龍の逆鱗を破壊し、清盛―――もとい怨霊を龍脈へと還す。
弁慶一人では叶わぬ願いかもしれないが、彼には既に多くの仲間がいるのだ。それぞれの大きな目的こそ違えど、向かう方向を共にする仲間達が。
「みんなの力を借りましょう。―――特に、白龍の神子はきっと何よりも力になってくれるはず」
―――貴方の事が好きだから。
その言葉をぐっと飲み込む。既に弁慶の事を知りたいと願う程に、彼女の気持ちは育ってきていた。
あの行動力も重なれば、きっと自ら弁慶の秘密を知りたいと申し出るに違いない。あとは弁慶に任せればいい。
人の心を掌握する事に長けた男だ。望美を上手に転がし、きっと全てが上手くいく。
稀有な神子の力。それによって清盛が、怨霊がいなくなった平和な世界になったその時は、
「その時は、朔さんの元へ行って。龍脈を巡り、新たな黒龍が生じた後でもいい……ちゃんと、朔さんに謝って」
「リンさん…」
「新たに生じた黒龍は、朔さんの愛した黒龍ではないかもしれない。―――許されないかもしれない。それでも、ちゃんと打ち明けて」
「………ええ。約束します。必ず」
「―――約束」
約束を果たす誓い。子供染みたやり方だが、形になる約束がほしかった。
繋ぐべく小指を差し出したのだが、それは繋がれることはなかった。細指ながら男の力、骨ばった手はリンの腕を掴み強く引き寄せられる。
強く、頬が彼の胸に当たった。誰にも奪われぬよう、遮るように袈裟の中へと身が隠される。
目の前の淡い紫の重ねを通して、少し早い心臓の鼓動が伝わり、心地よさにリンは瞳を閉じた。温かい音に、温度に、溶けていく思考。
「……僕に気付いてくれて、ありがとう」
一度は振り払った腕。しかし、再度包まれれば、捨てられない心が、捨てたはずの願いを蘇らせてしまう。
不意にリンは恐怖を感じた。
心地よい腕が振り払えない。この胸に永遠に包まれる自分を願ってしまいそうになる心を必死で抑えつける。
願うのは彼の幸せだ。彼が命遂げるまで幸せでいられるよう、京の平和を守りたい。
坐の私ならばそれが出来る――――望美と手を繋ぎ、微笑む弁慶の幸せを守り続けられるのだ。それが私の幸せだ。
「(私は人じゃない。この胸が心地いいなんて、嘘)」
――――私は坐。
八葉の坐。それ以外の、何“者”にもなれはしない。
源氏一行が有馬に陣を置く頃、焦がれども夏の香りは辿れない程に秋が満ち渡っていた。
白くはためく幕の音と共に上がるのは熱い抗議の声であった。薬用備品を運ぶ手を思わず止め、振り返った視線の先。
今にも逆立ちそうなほどいきり立った九郎の鬣であった。一幕向こうの、陣の最奥、向かい合っているのは見慣れぬ人物であった。
朔のものとも異なる、薄い茶の髪を優雅に揺らしながら微笑む表情が穏やかで、気品に溢れている、女性。
遠目でも分かる、溢れ出る品の良さと上質な衣の姿、そして置かれている状況を判断するとおのずと見えてくる、女性の正体。
源氏に関わる重要な事であればきちんと知り得ていたい。
しかし己の立場や身分云々の是非が脳裏によぎってしまった時、リンの足は入室を拒否していた。
そんなリンを目ざとく見つけたらしい、肩を叩くヒノエが代わりに説明をする。
「あれは源頼朝…九郎の兄の奥方、北条政子だよ。ここには頼朝の名代として来たみたいだね」
「…九郎さんはなぜ怒っているの?」
「まあ、簡単に言えば鎌倉殿からの命令が自分の信念と相容れないのさ。それで立場も忘れて名代に食って掛かってる」
ヒノエの説明には九郎への嘲笑を含んだ色が感じられた。
確かに、立場だけ見たのであれば源氏軍総大将、源頼朝――鎌倉殿の名代、つまりは代理として戦場にまで赴く奥方に異議申し立てるということは、愚行にも近い。
よほど、大将との関係が信頼で結ばれた良好なものであればまだしも、意に背いたと判断されればその場で反逆者として手打ちにされても仕方がない時代である。
ヒノエが蔑んだ目で見るのも分からない事はなかった。
しかし、九郎が頼朝に陶酔しているのは誰の目にも明らかであり、血を分けた兄弟と言う意味でも信頼しているのは知っている。
リンは、それを笑う事は出来なかった。
その心配を余所に、政子は九郎の提言にくすくすと笑い、思うよりも険悪な雰囲気ではないように思われる。
そこへ、長い髪が割って入った。
望美である。内容は聞き取れないが何かはっきりと政子へと意見している様子を見て、急にリンの心は凪いだ。
すとん、と抜け落ちたように表情がなくなる。ヒノエがまたしても目ざとくそれを見つけた。
「なんで望美が嫌いなんだ?」
「…どうしてそう思うんです?」
「あからさまだろ。…って言っても、他の連中は気付いてないみたいだけど」
それを聞いてどうするんです、その問いに彼はただの興味本位だと答えた。快楽主義。その性格は嫌いではない。
彼は分別のつく人間である事は軽薄な言動の影に隠された、爪のするどさを垣間見ているリンには分かっている。
けれども、心の奥底を開けるつもりはなかった。開けても構わないのは知っている。
しかしそこは、重厚な鎖で締め付けられていて、リンとて自由には開けられなかったのだ。“鍵”となる言葉が必要だった。
無言に居たたまれず、何か返答を返さねば、と脳が指令を送る。
“時を戻して、平然な顔をしているから”―――そう、口にしようとして、躊躇い、やめた。
話そうとした内容が、望美がひた隠しにしている“時を戻しているという秘密”であったからではない。
それが確信に基づいた事実ではなかったからでもない。話して混乱が生じる事を恐れたからでもない。
ただ、思考が真っ白になると共に大きな音がした。重厚な鎖が息苦しく鳴く、不快な音。
終ぞ、リンからヒノエの問いに答える言葉は吐き出されなかったのである。
九郎、望美の講義も空しく源氏軍は鎌倉殿の命令を拒むことは出来なかった。
平家と和平を結ぶ――――と見せかけた、騙し討ち。非人道的なその命令に正義感の強い九郎や望美が反発したのも仕方がなかった。
しかし、政子の言う「平家は三つの罪を犯している」その道理を言い負かすだけの言葉を誰も持ってはいなかった。
既に廃位された帝を帝として扱っている罪、三種の神器を奪った罪、怨霊なるものを使い、人や物、町を傷つけた罪―――。
「三種の神器さえ取り戻せば戦は終わる」結局のところ九郎はそれを最優先にするという心持ちで、己の炎を鎮火させた。
犠牲は最小限に、迅速に。有馬の血で気高い源氏の血が吠えた。
「――――三種の神器はすでに一つ欠けている…叔父上はいったいどのように」
「――――」
九郎の背を見て敦盛が呟くその一言を、リンはただ無表情で聞き流す。
ただ、有馬を出立する源氏軍を見送る。黒い袈裟の共犯者に祈りを添えながら、リンはそっと笑んだ。
目的の為に―――何かを、平氏の命を踏みにじる覚悟はもう出来ている。それは暗くおぞましく正気の沙汰ではない。
けれども甘美な闇の蜜味。そんな、気がした。