やさしいひと(弁慶長編:完結)
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21.服従
大丈夫。誤解なんて、何もないよ。
腫れぼったい瞳を抑えながら、リンは白龍の元より立ち去る。
早朝の白光、冴えた空気を割って向かった宿の外には美しい熊野の緑が広がっていた。
どこまで吸っても満腹とならない緑の地平線はただ美しく、この後降り注ぐ母なる日差しを待つ子供のようにさえ感じられた。
白龍に呼び付けられ向かった先で告げられたのは今後の坐への対応であった。
その場にいた朔の話によると、乱れに乱れたあの討論会の後、白龍は望美によってこっぴどく叱られたらしい。
子供のように口を尖らせながら、それでも眉を下げてリンに謝罪をする白龍の姿をぼんやりと眺めていた。
望美が続ける。
「白龍にはちゃんと言っておいたから!神様だからって、やっていい事と悪い事がある。ちゃんとリンちゃんを私達と同じように接すように約束したから」
「…それが神子の望みなら」
「そういうわけよ、リン。白龍も一応謝ったし、許してあげてくれる?」
喧騒にどんな返事の仕方をしたか、記憶にない。
ただ、ふるふると筋肉の震えを訴える頬から、笑いながら是を唱えたのだろう。いつから笑い続けているのかも記憶にない。
九郎との打ち合わせの為に望美と朔が席を外したタイミングで、リンは白龍に胸の内を全て明かした。
頭を垂れ跪く。身を屈めて掬った衣の端に口付け、告げる。
「身も心も―――坐となる事を誓います」
白龍は当然だと言わんばかりに息を吐き出すと、身を翻し手から衣を弾いた。リンと白龍が隔てられる。
八葉は神子を守る要である旨を再三説き、その後、白龍はリンの身は己が面倒を見ると宣言した。どうやら坐となる事を認められたらしい。
リンはほっと息を吐く。
しかし、再度、白龍から警告を受けると同時に坐としての掟を言い渡された。
白龍は神具としてのリンの“肉体”を守る代わりに、内面、すなわち人としての“精神”の秩序を保つことをリンに言い付けた。
そして、禁を破る事は許さないと。
「坐は聖なる神具。坐になりうるのは乙女のみ。そして坐は何物にも染まる事は許されない。故に授けられた色を抜いた」
「授けられた色……この、髪色ですか」
「お前の世界では“イデンシ”を引き継いだ証だと譲が言っていた。しかしそれは人にのみ許された証だろう」
「……私には必要のないものです」
「無論。禁を破ってはならない―――もしもの場合は、この手で壊す」
有無を言わさない絶対的な威圧に、リンの全身が粟立つ。
緊張感で噴出した汗を拭きとりながら、深く深く、肝に銘じた。
再度頭を垂れ、服従の意志を表明して上げられた時には、もう、リンの瞳には何の光も映ってはいなかった。
部屋を後にし、冒頭に至る。
夏の景色を瞳に写し、収めるふりをしてそれを全て排出した。
一瞬のきらめきを楽しんだ後はもう全てが不要なものであったからだ。
必要以上に、何物にも心波立たせられない、無機質で凪いだ心の平穏。
けれどリンは白龍に一つだけ、背を向けていた事があった。完全に“物”に徹する事は出来なかったからだ。
リンには絶対的な望み――――“夢”がある。
昨晩、弁慶の腕の中で眠っていた時。リンには微かに意識があった。
その腕の中で聞いた彼の願い。
改めて強く願うのはその罪を開放し、彼を幸せへと導く手助けをする事。
ひとつひとつを思い出して、リンンの胸は震えた。抑えきれず爆ぜる赤い実。
「本当に嬉しかった。……坐の私なら、あなたの望みを支える事ができるんだもの」
坐としての存在意義に抵触しないこの夢だけは、もっていていいよね――――。
それはリンの原動力であり、抑止力でもあった。
胸を押さえ、溢れ滲むのは弁慶への思慕、そしてその手段を得たという充足感だ。それはリンの瞳に自然に光を宿す。
慈しむように夢を抱くその姿は、酷く純粋で、そして何より――――哀れであった。
喜びを燃やす炎が灯火へと姿を変えた。冴えた思考でリンは過去を視る。一つ一つ炙り出すのは過去の記憶の欠片。その真意だった。
弁慶は言った。「戦が終わり平和になる事を願う」と。その言葉はリンに五条大橋での弁慶との会話を思い出させた。
退廃を続ける五条の集落を見る光のない瞳。だが、その真相へと迫るリンに彼は言い放った――――嘘を。
「(弁慶さんは京から龍神が消えた原因を知っている。そしてどうすればそれがまた元に戻るのか、ということも)」
その推測に至った時、リンの喜びは一瞬にして掻き消えた。
代わりに流れ込んできたのは“苦悩”。
それは抱く事を禁じられている“感情”の揺さぶり―――けれども背を向ける事を躊躇われた。
感情を捨て切れていない己に愕然とすると共に、それでも心は揺れ続ける。朔との、友情に。
もしも本当に、弁慶が黒龍が失われる原因に関わっているのだとしたら、弁慶は朔の仇となる。
息が出来ないのだと喘ぐ朔が、黒龍の気配を感じられないと嘆く背に、その真実を知っている様子はなかった。
思い出したその姿に、思わずリンは胸を抑える。
しかしその手はすぐ離れ、信念という言葉で蓋をする。共感などしてはならない立場だ。
一度の深呼吸の後、考察を再開する。
人は他人へ己の所業を告白する事で、相手に赦しを請うものだ。リンはそう考える。
基づくならば『弁慶は朔に黒龍を消滅させたという話をしていない』つまり赦しを請うていないと推測される。
けれど、弁慶は京の惨状に胸を痛めており、それを変えたいと願っている。その心の内を誰にも明かさないまま。
かちり。まるでパズルのピースがはまる瞬間のように、リンの視界に音を立ててそれは訪れた。悲しみを引き連れて。
意思とは無関係に、言葉が漏れる。
「……それじゃ、だめだよ、弁慶さん」
どうして気付いてしまうのだろう。
考察の果て辿り着いた結論。
彼が考えるだろう“解決策”。それを認めた瞬間に全身が凍りついた。
弁慶もリンも『自分を責めて自分を対価に願いを叶えようとする』願いの持ち主故に、気付いてしまう。
単なる思い込みかもしれない。
けれど、リンの胸に弾き出された可能性を思い込みだと否定するだけの証拠も持ち得ていなかった。
「(弁慶さんは私に五条で隠した“何か”を見せてはくれていないから)」
教えてほしい。彼自身が“罪”だと定義し、心に秘めている真実を。
馬鹿だと笑われても、無理だと呆れられても、一人でも犠牲者が少ない方法を一緒に考えていきたいとリンは強く願う。
そして本懐を遂げた暁には、
「……春日さんと結ばれれば、いい」
その時には私の役目も終えている。
もう、彼にとって必要な人間ではなくなっている。
二人の想いが交わったその先を見る事はない――――彼の瞳が潤う瞬間が見られたら、それがきっと至福の瞬間だろう。
頬を伝う熱いものは涙などではない。胸が締め付けられるのは痛みなどではない。そう暗示をかけてリンは眠りへと駆け出して行った。
傷付くのを恐れるあまり、真実にぶつからない彼女は気付かない。全ては推測で真実などでは無い事を。
傷付くのを恐れるあまり、心を明かさない彼女は気付かない。それが憶測なのだと教える存在がいたという事を。
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景色は緑深い森の中から変わりなかった。しかし、その森の風景もよく観察すればそれぞれ異なる顔があるのだという事に気が付く。
その変化を見比べ、時々、周囲の雑話に耳を傾けながらリンは熊野を全身で味わっていた。
心をすり抜けていく初夏の凪。
ひとたび出でれば熾烈な日差しを刺し向ける太陽の刃も、木の葉の影楯に入れば光の滝へと変わり、森の道へと流れていく。
光と影のコントラストのように、柔と剛を併せ持つ繊細さ。夏がリンは好きだった。
その自然に心と意識を同調させれば、背を焼く将臣の視線も、焦がす弁慶への熱情も、胸を刺す朔への哀憐も。
全てが溶けて流れ出していくような気さえしたのだ。
日置川峡から長い森を抜け、一行が向かうは勝浦の港町。
一行は宿泊と進行を混ぜ、時折休息を加えながら長い道を行く。
距離にして約二十里。余裕を見て五日を取った日置川、勝浦間の進行計画。
日置川を発って二日ほどしたある日の事である。
日も随分傾いてきた頃合い、ある場所で九郎が足を止めた。
弁慶・景時を連れ、周辺の偵察を始めたまではよかった。
怨霊の気配でも感じたのだろうかと身構えたのだが、見渡せど見渡せど、所詮はただの森である。
橙のカーテンが揺らめく艶やかな木の柱の脇に立ち、九郎は言い放った。
「今日はここで野宿としよう」
沢の音が聞こえなければ号泣していたに違いなかった。
「キャンプみたいで楽しいね!」
「きゃんぷ?神子の世界では野宿の事をそう言うの?」
なるべく水分の少ない枯れ木を探す。薪を集めているのは望美と白龍、そしてリンであった。
望美の言葉に興味津々な白龍に望美は身振り手振り説明をしている。
説明はいいが手も同時に動かしてくれないかという気持ちがないわけではないが、それを口にするほど野暮ではない。
将臣、譲らと過ごした幼少の記憶を語る望美の声は弾んでおり、よほど楽しい記憶だったのだろう。心が波立った。
「(私は坐。感情など不要)」
呪文のように唱えてみても心のざわめきは鎮まらない。
折れず幾度も繰り返し言い聞かせる内に、心の水面は次第に無音を取り戻していく。
乱れなき水平線を得たところで、リンは心を書き換える。意識を捨てるという事はかくも無敵だ。
『背を焼く将臣の視線も、焦がす弁慶への熱情も、胸を刺す朔への哀憐も、“腸煮え返る望美への憎悪”も』
「(すべてを、捨てる事ができる)」
無意識の内に閉ざしていた瞼を開く。闇を払ったその瑠璃はけれども光には満ちない。
ただ無色透明の朧。正真正銘の瑠璃玉は無機質に、抱く薪束を反射していた。
夜空の濃紺に微かに浮かび上がる木の影。
昼間と姿は何一つ変わらないはずであるのに、異常なまでに威圧感を感じざるを得ないのは、自然の驚異であろうか。畏敬であろうか。
それほどまでに夜の森というのは光の届かない場所であった。
火の取り扱いに関しては遥かに心得のある九郎ら本邦の者達は山中構わず火を起こした。
太陽のそれとは異なる黄味の強い橙が揺らめいて辺りを照らした。
その非日常に将臣らは興奮するのか、口々にキャンプの思い出を語れば、異なる世界の話に興味を誘われた九郎らが話に聞き入る。
止むを得ない雰囲気であった野宿は、いつしか居間へと変貌を遂げ、夕餉を囲む団欒を作り上げていた。
ゆらゆら揺れる橙に、揺れたのは視覚だけではない――――リンは、そっと団欒から抜け出て、夜の森へと溶けていった。
白く光る月の雫が垂れ透かす、金色の目映い髪。冷徹に見えよう透き通る青い瞳はそれでもリンの瑠璃よりも慈愛に満ちている。
リズヴァーンはそっと一行の輪から離れ、月を見上げていた。
団欒が煩わしかったわけではない。
ただ一人、そっと空を見上げてみたい気になったのだ。神子と坐を同じ場所に残したとしても。それでも。
「…………」
リズヴァーンはリンが坐である事を知っていた。白龍が力を取り戻し、真実を知り得る前から、ずっと。
そっと口元を覆う赤布を外すと、晒された顎、そして頬にかけ走った火傷跡を月が暴く。
それに触れると焼かれ消えた己の故郷が思い出され、リズヴァーンは静かにため息を吐き出した。震えた吐息が闇に溶ける。
リズヴァーンは“人ならざる身”であった。
既に滅ぼされた鬼の里の唯一の生き残り―――鬼の末裔。
焼け朽ちる故郷を前に、ただの幼い小鬼でしかなかった幼き命は運命を共にするはずであった。白龍の神子に、出会わなければ。
偶然の、それとも運命の悪戯であったのかもしれない。
襲われる理由も分からぬまま、炎を恐れ、刃を恐れ逃げ回るしかなかったリズヴァーンの前に颯爽と現れたその娘は、腰ほどまである長い髪を翻し、刃を交える。
弾く刀の鍔競り合い、心地よい旋律のようなそれが止んだ事に気付いた時には、既にリズヴァーンは神子の腕の中にいた。
焼けて熱い口元を抑え、そっと目を開けた先に映る優しい笑顔。
まるで天女のように優しく微笑むその娘は先程までの勇ましさは何処へ、慈しむようにリズヴァーンを抱き上げ、癒したのだ。
しかしその娘―――神子は殺された。背後に回った怨霊により無残にも散らされた。
恩人が目の前で殺された絶望、温かく柔らかな腕が崩れ落ち温度を失っていく喪失感。
それは顔の火傷の痛み以上の傷をリズヴァーンの心に刻まれた。
怒りによる覚醒であったか、はたまた元より持ち得ていた鬼の力か。
神子の持っていた“逆鱗”に触れたせいであったか。
神子の命を奪った怨霊を粉砕する手応えと共に、リズヴァーンは時空を遡ったのである。
ほんの一度の瞬き前には煙と絶望に包まれていた里は、普段と変わらぬ自然に包まれ静かにそこにあった。
しかし、顎の火傷の痛みは本物だった。そして聡い小鬼は気付いたのだ―――自分が時を戻したのだ、と。
「………なぜ繰り返せども…お前を救えない」
気付けば幾度時空を遡ったか。
細かった腕は逞しく太い筋肉が備わり、見上げていた世界はいつしか見下ろす高さとなっていた。
一つを変えれば別の一つが狂い、どの選択をとっても神子を救う事は出来ない。
数ある時空の中で敵は外部だけではなかった。―――――坐が、神子を手にかける時空さえ見た。
ぶるりと震えた後、リズヴァーンは口元を元通り、布で覆い隠す。ただ一人を救う事も出来ず、どれだけの時間が流れたのか。
思わず折れてしまいそうになる心を閉ざすかのように瞳を閉じたリズヴァーンの耳に届いたのは“人の気配”であった。
「……どうした」
「…リズヴァーンさん、ですか」
振り向いた先にあったのは“坐”だった。
それはリズヴァーンの姿を確認すると困惑を示し、けれども一歩を踏み出し近寄る。それを避ける意味もなかった。
隣に並ぶ形で空を見上げる二人であるが、その思いも願いも、何一つ重ならない。
リズヴァーンにとっての遠坂リンとは、己の願いを阻む可能性のある危険因子以外の何物でもなかったのだから。
この次元での坐は今のところ神子へ危害を加えるような道筋をたどっていないことだけが、今でも彼女を生かす理由となっている。
とはいうもののさすがに居心地の悪さは否めず、この場から消えてしまおうか。そんなことを考えていた時、リンはリズヴァーンへと話しかけた。
否、一つの問いが届けられた。
「…あなたは、死にたいと思ったことはありますか」
突飛なそれは、まるで願い事のように響いた。少なくとも、リズヴァーンにはそう聞こえた。
その問いへの答えはリズヴァーンの中には用意されていない。神子を死の運命から救い、幸せに生きてもらう。
それこそがリズヴァーンの願いであり、己の全てであった。生きたいとか、死にたいとか、そんなことは愚問であった。
だが、リンの問いは少し違うように感じられたのだ。見出したのは“願い”だった。
「死ぬことを希望する自分を止めてほしい」そんな、浅はかで卑しい願いである。他人に必要とされたい。その証を得たい。
誰彼構わず問うているのだろう―――すっと温度が失せていく心は冷酷な選択を提示して、リズヴァーンはそれを手に取る。
“坐が自ら命を絶つ時空は、神子の死は回避できるのだろうか”
「止めはしない。お前の望むようにしたらいい」
問いに対し、応答とならない答えが放たれた。必死に隠していた己の卑しさに気付いた時、この心弱い人間はどうなるのだろう。
人でありながら物であることを受け入れようとする姿は、鬼であるリズヴァーンには到底理解できるものではなかった。
人間とてそうだ。白龍に物扱いされていたこの人間を、神子や八葉は強く庇い、激昂していた。
出来もしない事を受け入れてそうであるかのように振る舞う、その姿を、健気と呼ぶ気にはなれなかったのである。
絶望して、身を投げるのだろうか。冷酷の極みともいえる異常な高揚感がリズヴァーンを支配していた。
背を向け空を仰ぐリンの背は神子のそれよりもか細い。満ちる月の光を纏い、白く輝くその姿のなんと神々しさに息を飲む。
先程までの考えを一掃せざるを得ない程に、聖なる光に包まれるその“台座”はゆるりと振り返る。
リズヴァーンは、理解する。生半可な覚悟もこの人間にはないのだと。
ただ、本心から、
「嬉しい」
正真正銘の“物”なのだろう、と。そして、これが神子を手にかけるのは、これが“人”となった時だけなのだろう、と。
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「あんた本当に人が悪いよな」
「おやおや、誰かと思えば…ヒノエですか」
夜風に当たるべくその日の宿を抜け出した弁慶の背に、聞きなれた文句が投げつけられる。
軽快な身のこなしで木の上から飛び降り、姿を現すのは熊野が水軍の若き頭領、藤原湛増―――もとい、ヒノエである。
今回の熊野参詣の目的となる人物がこうして目の前に出で立ちながら弁慶は平然としている。
特別動揺を見せないのは、その目的を知り得ている知己の間柄にある故に他ならない。
一世代前の熊野水軍別当である熊野湛快はヒノエの父、そして弁慶の実兄であった。
弁慶とヒノエは叔父と甥の間柄なのである。
ギラギラと野望を燃やす瞳と、飄々とした仕草に言動。
相反する二つを相殺させることなく秘める、その不安定な魅力がヒノエにはあった。
その若き頭領、今は年相応の少年らしく不満げに口元を歪め、恨みがましい視線を弁慶へと向けている。
ヒノエは弁慶を油断ならない狸だとよく言ってのけるが、それは彼も同様であった。
演技とも取れる明け透けの疑念に、困り顔を浮かべ返せば、眉間の皺を一層深くし唇を歪める。
「全く。素直にいいものを…そうして人を探ってばかりいては、いざと言う時に信用されなくなってしまいますよ」
「あんただけには言われたくないね。ま、噂だけじゃ人となりは分からない。用心するくらいが丁度いいだろ?」
「白龍の神子はまっすぐで人を疑わない―――みなまで言わずとも、君なら分かるでしょう」
思わず苦言を呈したくなるほど、真っ直ぐに突き進む少女の背は無防備だ。
平和な世で育まれたとは思えない勇ましい姿。
戦無き地平で故か、駆け引きを知らぬ純真さが玉に傷だが、だからこそ使いようがあるというもの。
ヒノエの干渉でそれが失われてしまうのは弁慶にとって都合が悪かった。
その牽制にと言った言葉であったが、すっと、潮が引くようにヒノエの表情が失われる。
その表情の意味を弁慶には読み解くことが出来ない。
男にしては珍しく、言葉にするか否かを迷っているように落ち着きなく髪を撫でている。
揺れる耳飾りが止まった時、ヒノエは顔を上げて弁慶を見据えた。常に瞳に宿しているからかいの色も不敵な余裕も、この時ばかりはどこにもない。
ただ真っ直ぐに、藤原湛増として、言った。
「好きな女の一人も守れないようじゃ、あんたもそれまでって事だよな」
あんたの事は好きじゃないけど、人を“視る”目だけは信用してるんだ。がっかりさせないでくれよ。
口早にそう告げ、弁慶が真意を聞き取る前にヒノエは姿を消してしまった。熊野の夜に、言葉にならなかった疑問と風が抜ける。
さらわれた袈裟を引き寄せ隠した顔の、詰まる表情を誰が知ることが出来ただろうか。
冷酷非情な源氏の軍師は、ただ一人の女との巡り会いによってその仮面を揺るがされている。
強固な仮面が剥がれ落ちる音と、崩れ落ちない堅城の如き信念と。
風穴の空いた鉄壁から吹き込む干渉の風に、弁慶の心は波立っては、時に荒れ苦しんだ。それでも最後に手を添えるは、堅城の石垣。
「贖罪を、遂げ、たら」
二兎を追うものは―――――。
ヒノエの警告の真意を弁慶は受け取る事は終ぞ出来なかったのである。
一行は勝浦、本宮大社を目指すべく歩を進める。日置川峡を離れ五日ほど経過して、ようやく勝浦の港町へと到着した。
満腹以上に堪能した山の緑と打って変わり、どこまでも広がる青い海の絨毯に一同は目を輝かせる。
遠い世界の鎌倉を思わせる港の風景に、異邦人達も懐かしく思うのか、キャンプの次は海水浴と、思い出の選考に忙しない。
どのような手を使って先回りをしていたのか。勝浦では新熊野権現で別れたヒノエが神子を出迎えたのである。
相変わらずの神出鬼没な身の振る舞いに呆れながらも一行は彼を受け入れた。
これからは行動を共にすると言う彼に望美は喜び、他の八葉も仲間意識を感じたようで、本宮までの優秀な道案内人を得たと弁慶のフォローで団結感は強まった。
当の本人は野郎に興味がないとはっきり言い捨てるあたり、衝突こそ危ぶまれたが最後には笑って受け入れられる。
随分と、一行は神子を中心にひとつになろうとしていた。
ゆっくりと進行を続けたせいか、当初の予定よりも一行に残された時間は短くなっていた。
弁慶の指示の元、一刻も早く本宮大社並びに頭領に会うべく旅路を急ぐ。
とはいえども灼熱の日々は続き、海辺に近い勝浦周辺は森の涼しさは薄く、干上がる気力の回復は見込みにくい。
それでもと進む先、一行は勝浦の北西部、那智大社まで進んだところで休憩を挟み、留まる事としたのである。
朱塗りの社が鮮やかに薫る。
木々の緑と社の朱、空の青と、質の異なる色の調和はエネルギーに満ち溢れ、猛々しい獣を目覚めさせるような夏の一日が凝縮されていた。
それに対し、日陰に入ればその熾烈は姿を消し、突き抜ける空の、爽快で果てしない無限が感じられるようで。
リンは一際大きな木の下に腰掛け、背にその鼓動を感じ、瞳を閉じていた。
冬の冷風とは異なる冴えた風が頬を撫でるのが心地よく、さわさわと歌う草にそっと意識を流し込んでいく。
完全にその場に溶け込んだリンであったが、砂利を踏みつける人工的な音に意識が引き戻される。
薄ら目を開けたその先には景色に溶け込まない、桃色の髪が揺れている。随分と憎しみをコントロールできるようになったものだ。
少しばかり波立った心はすぐに平静を取り戻す。もう一度溶けてしまおうと意識を解こうと思ったのだが、どうにも望美の様子がおかしい事に気付く。
顎に手を当て、何かを考えるような仕草を見せ、ある一点を見つめて地団駄を踏んでいるように見えた姿。
思ったことを割とストレートに口にする彼女にしては珍しい光景に、リンの興味が引かれる。気付いた時には望美に声をかけていた。
「あ、リンちゃん…うん、リンちゃんも一緒に来て!」
他者の登場が、望美の背を押す結果となったらしい。望美はリンの手を引き、社の奥へとかけて行った。
事情が読み解けず、どうしたのかと問えば、望美は言う。弁慶さんが人目を避けるように奥へ行った。と。
その言葉を聞いた瞬間に、リンは望美の腕を引き寄せた。急停止する体に、痛む腕。
痛みに顔をしかめ抗議を示す望美に、リンは諭す。
「弁慶さんにも秘密にしたい事の一つや二つ、あるはず」
「でも…気になっちゃって」
「追ってこられて困ることだってある…弁慶さんを想うなら、彼の事を考えてあげなくちゃ…駄目よ」
リンの説得に、望美は納得がいかない顔を見せている。リン自身も、こんな言葉で望美が止められるとは思っていない。
けれど、もし、自分が弁慶の立場であったら。こそこそと嗅ぎまわるように後をつけられるような行為は受け入れがたい。意中の相手ならば許せても。
“意中の相手”。その言葉が己の中で弾き出され、リンは言葉を失った。
望美のように、力強い救世主の登場を待っていた弁慶ならば、彼女が後を追ってきても拒絶することはないのではないか。
その仮説はリンの中では真実だ。「それでも弁慶の後を追いたい」という頼みを断る理由を無くしてしまった。
結局のところ、望美に手を引かれる形で、リンも共に弁慶の後を追って林の奥へと進んで行ったのであった。
弁慶はすぐに見つかった。
そのまま顔を見せるのかと思いきや、望美はリンもろとも草薮の中へと引きずり入る。
草の隙間から覗くその先は、弁慶の黒い外套が広がり、その向かいに立つ形でもう一人の人間の存在があった。二人は親しげに会話をしている。
距離が幾分か離れており、その内容の全貌は分からぬものの、その端に聞き取れたのは“嫁”という言葉であった。
望美が、大きく、震える。
その際に木を鳴らした事が原因であったか、それとも初めから知られていたのか。
既に望美がいることを知っていたらしい弁慶が意地の悪い笑顔で振り返る。「盗み聞きなんていけない人ですね、望美さん」と。
「彼女がいることを知っていてわざと言ったのでしょう」
最早隠れていても仕方がないと、望美が草薮を抜け出でて弁慶と並ぶ。一人分のスペースが空いたそこから、広がった視界の先、弁慶の相手が見えた。
赤いくせ毛を束ねた、豪胆な見目をした男―――強面に幾つも勲章を刻み、どっしりとその場に出で立つ姿は果てしない重厚感に漲る。
焼けた肌を見る限り、海の男だろうか。もしかしたらこの旅の目的、熊野水軍の頭領とは彼の事ではないのか。
そんな疑問に気を取られているうちに、弁慶が男について紹介を始めてしまった。
リンはついに、出るタイミングを失ってしまったのである。
男の名前は藤原湛快。弁慶の実兄だということであった。
あまりにも似ない風貌に望美と同様に驚く。
弁慶、そして湛快の口から語られる平家と弁慶との過去、そして、危険を顧みず人の秘密を知ろうとするその「危険性」について。
望美はその話を聞きとげ、素直に頭を下げて反省していた。弁慶が優しい声で望美に告げる。
「さあ。もう、気にするのはやめてください。僕のことを知りたいと思ってくれたのは、素直に嬉しいですよ」
息が止まった。
しかし、以前のような痛みは感じられない。表情も視界も滲むことはない。
一度小さく息を吐き出した時には、止められた時は動き出していた。
心も脈も、正常に動いている音が伝わり、巡る。
相手を想い気遣い過ぎるが故に、リンは自分から相手に“問う”という手段を用いることは少ない。
ふとした時の仕草などで相手の感情を読むのが彼女の“興味”の表し方であった。弁慶と似ている。
しかし、彼はだからこそ、真っ直ぐにぶつかり、物を問う望美を好ましく感じるのだろう。
ごくり、とリンは感情を飲み込んだ。
それよりも、二人の前に出るタイミングを失ってしまった。
図らずとも盗み聞きをする形となってしまった現状への対処に脳を切り替える。
しかしそんなリンにとどめを刺すように、湛快は言った。
「もう一人いたような、そんな足音がしたんだがな」その言葉を皮切りに、望美がリンの存在を伝える。
ああ、これで立場も体裁も粉々だ。最早隠れる意味もないと草陰から出でる。
心証悪かろうと頭が痛くなったのは言うまでもなかった。
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十分に休息を取った後、一行は本宮大社へ向かい進行を再開した。
夏の一日は日が長いと言えども、森繁る熊野を必要以上に駆けるのは無謀である。
那智大社で思ったよりも時間を使った一行は道を引き返し、海沿いに北上するルートへと変更を決めた。
山を下りその先、約五里半。
四時間の道のりを休みを挟み、辿り着いたのは速玉大社と呼ばれる大神社であった。
既にその頃には夏の青空は西へと運ばれ、東の空には一等星と薄藍とが押し迫ってきていた。
景時と弁慶とで手早く宿の手配を済ませると、一行は雪崩れさながら宿へと押し込まれていく。本日の進行は距離、道共に険しいものであった。
皆口には出さぬが疲労に思っていたのだろう。弁慶はその様子を見やり、明日からの進行計画を練り直す必要があると深く思った。
宿の計らいで用意された蒸し風呂を楽しみながら、弁慶はそっと仮面を外し、ため息を吐き出す。
見上げた空はすっかり濃紺だ。夜空の果てで瞬く星達。見慣れた光景とはいえこの日ばかりは煩く感じられ弁慶の心は重さを増していくばかりだ。
思い返すは昼間の、那智大社での出来事である。
背後を誰かに追われているのは分かっていた。
それでも己は果たさねばならぬことがあったため、撒くつもりで社の奥を彷徨った。
近くの藪の中に人の気配を感じた時には既に果たさねばならない要件を済ませていたので、問題はなかったのだが、誤算はそこからである。
追ってきたのは白龍の神子であった。相変わらずの猪突猛進な、言い換えて素直な姿に苦笑が漏れたのは仕方がない。
いくらかの甘い言葉で煙に巻き、適当にあしらって戻るつもりであった。
彼女は己の贖罪を遂げる為に、ひいては愛しい人を残酷な使命から解き放つ為に、真っ直ぐに道を走り抜けてもらわなくてはならない。
「人の秘密を探ることが危険だってわかってるんです。あまり心配させないでくださいね」
甘い色を添えて眉を下げれば、疑う事を知らぬ娘はしおらしく謝った。
それでいい。弁慶は内心深く笑う。
彼女にはまだまだやってもらわねばならぬことが山ほどあるのだ。
己の願いの為に利用する。それだけで、よかったはずなのに。それだけだったのに。
ちらりと横切った、白い髪の儚い背中。贖罪を生きる糧に、謀を巡らせる非情な軍師の心を浚い、人を気遣う事を教えた存在。
心が、動いた。
『僕のことを知りたいと思ってくれたのは、素直に嬉しいですよ』
他人へ心を開いた姿を、一番愛しい人に見られていたなどと、思いもせずに。
ぎり、と唇を噛み締める。水分の多いここでは、満ちる唇を切り痛める事も叶わない。行き場のない憤りは胸を巡った。
ああ、いけない。これではちっとも捨てきれない。弁慶は深く深く悩み苦しみ、喘ぐ。
思い出すは何物も映していない、リンの瑠璃だ。
望美に心動かされた己の姿を見ても、ただ一つの動揺もない無機質なそれは、いつかの春蜜月、覗き続けた知りたる瑠璃とは別物であった。
人ではなく物なのだと、人である事を奪われながらも、それでもまだ他人を想い泣く彼女からは想像のつかない姿。
底の見えない無限の顔。幾度となく差し出した手は振り払われた。
それでも、弁慶は手を差し伸べたいと願う。
「……君だけが、僕の心に触れたから」
何も言わず、隠し続けたこの心に到達した彼女。
その汚さに驚き、身を引いてしまったけれど、それでも。
君の為に変わりたい。だからどうか、せめて、贖罪を遂げる事を忘れはしないから。どうか。
僕だけの腕に包まれて欲しい。一度だけでいい。その後はそっと羽ばたき去って構わない。
その瞳に、熱を宿してほしかった。
熊野水軍の頭領は白龍の神子にご執心だ。そんな噂話を誠とし、振舞う事がどれほど滑稽に映るか。弁慶は身を以って知っている。
全てを知り得ている男二人は多少の白々しさを挟みながらも、建前という仮面で難なく事を運んでいく。
現在“白龍の神子”は朔によって姫への飾りつけを施されている真っ最中だ。というのも、熊野の頭領の噂話の他にもう一つ。
白龍の神子がおしとやかで美しい姫君だとの評判が流れていたからだ。
ヒノエが本宮大社付近にいるという知り合いに早馬を飛ばし、熊野の頭領がここ速玉大社にいると聞いたからにはこの噂を生かす手はないと声を上げたのは九郎だった。
朔によって飾られた望美は、普段のお転婆な姿など想像が出来ない程に美しく輝く姿を惜しげなく晒している。
彼女に想いを寄せる譲は顔を赤くしそれを眺めていたし、その他も見違えたといった表情でそれを眺めていたものだ。
望美本人も、年頃の少女らしく、綺麗な衣装に心躍っているらしい。
白い頬をほんのり染め上げ、きらきらと輝く笑顔を振りまいている姿は愛らしい。
砂を吐く極上の賛美を贈り続ける白龍を尻目に、弁慶は傍に出で立つリンをちらり振り返る。
乱れ無き至高の造り。三日月を思わせる横顔、透明感のある神聖な雰囲気と、望美の姫衣とを重ねてみるがそっと首を振る結果に終わる。
未だ、彼女は己が与えた衣を普段着としているが、それも彼女に見合っているとは言い難い。
彼女に似合うのは衣よりも、
「どうしました?」
「―――いえ。神子もこうして見るとただの可愛らしい女の子なのだと」
――――純白の織布。
動揺が走り、思ってもいない言葉が口から吐き出される。違う、見ていたのは神子ではない。
そう言いたくとも、それは許されない言葉であった。
弁慶の心を知らず、リンはふわり微笑みその言葉に応える。
「ですね。まだ十七の女の子ですもの。…まだ今なら、どの色にも染まっていない」
それは語尾に近づくにつれ、力強さを失っていく変化を見せた。
いつもの弁慶ならば目ざとく拾えたそれも、同様に揺れる思考では拾う事が出来ずに過去へと流れ出ていく。
誰よりも近くにいる二つの心はそれでもまだ交わらない。
――――歯痒い。頭領が遠くで吐き捨てるように呟いた。