やさしいひと(弁慶長編:完結)
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20.人道
その日、一行は崖から落ちた望美、白龍の身を案じて早めの休息を取る事に決めた。
日置川峡近くにひっそりとある集落に身を寄せた一行は一先ず互いの認識を統一すべく、広間へと集まる。
見渡せば随分な顔ぶれとなるその広間。
皆思うままに席に着くのがいつもの流れなのだが、その並び順も思えばそれぞれの思惑が複雑に絡んでいる事に気付く。
リンは望美、弁慶を避ける傾向にあり、望美の傍には白龍、譲が。
九郎の傍には弁慶、景時が集う。
他の面々は特別気にしないのか思いのままの席に着くが、ふと、リンがある事実に気付いたのだ。
リズヴァーンの存在である。
彼は年長者という事もあってか一同が集う場でも周囲を優先させ、自己主張をしない人物である。
そう解釈していたのだがよくその動きを観察すると一つの法則性が見えてくることに気が付いた。
リンが望美を避けていただけではない。必ずリンと望美との並びの間に彼が入ってきている。
常に、リンに寄った位置に。
その事実に気付いた瞬間に、心が重くなった。
「(この人は私が春日さんを憎んでいる事を知っているから…仕方がないけれど…)」
それだけではないような気がするのは、考えすぎなのかもしれない。
しかし、不信感を抱かれているという状態は、仕方ないと言えども心地よい状態ではない。
リンは密かに溜息を吐き出していた。
「それにしても随分大人びたんだな、白龍」
譲の言葉で我に返る。
話の中心は成長した白龍へと移っていた。
ほんの十そこらであった可愛らしい少年の姿であった白龍は、今はその影はどこにもない。
すらっと伸びた背は高く、端正な顔立ち、地につくほど長い髪は一片のほつれもなく美しく、気品に溢れている。
望美を、白龍の神子を見やるその視線に秘められた深い愛情は、交わした者の心を深く突いては傅かせる。
そんな絶対的な威厳さえ感じられる。リンは白龍に神と言う絶対的な畏怖の念を抱いたのであった。
しかし、八葉の面々はそれほどでもないらしく、幼い白龍と接していた態度とさして変わらないように見受けられた。
その気安さに驚いている間に、話は進んでいく。
「うん、随分と力が戻ったみたいだね。神子が頑張って五行の力を取り戻してくれたおかげだよ」
「わっ、は、白龍…!近いよっ!」
「えっ?神子は嫌?……大きくなった私は、嫌い?」
「そ、そういうわけじゃないけど…っ」
どうやら白龍は外見は変わったが、中身は小さな姿のままの白龍のようで、望美を親鳥のように想い慕っている気持ちは変わらない。
しかしながら大の男、見た目だけで推測するなら二十は過ぎている青年の姿で望美に甘える姿の破壊力は凄まじい。
ちらりと八葉に目をやれば、みな同じような思いを抱いているのだろう。概ね顔が引きつっていた。
将臣、景時は若干引き気味に眺め、弁慶は底の読めない笑み、九郎に至っては目が点になっているといった表情だ。
敦盛、リズヴァーンは白龍の変化にさした関心はないのか平常心のままのようだが、一番酷いのは譲だった。
真っ赤になったり真っ青になったりと百面相を惜しげなく披露している。そして、朔。
「(……黒龍に似ているんだろうか)」
朔は望美と白龍のやりとりを微笑ましく眺める一方でその瞳に影を落としている。
朔の過去を知らなければ、気がつけないほどに、そっと。
朔の消えてしまったという夫、黒龍は白龍の対となる存在だと言っていた。
二つの龍神は一体。姿がきっとそっくりなのだろう。
そうして今まで悲しみをやり過ごしてきたのだろうか。
黒龍との誓いを忘れることが出来ない故の苦しみを背負って生きる彼女の胸を量れば図る程に、リンの胸も痛んだ。
堪らなくなり、その手を握れば驚いた枯茶と目が合う。安心させるように一度静かに頷けば、朔も潤んだ瞳でそっと笑った。
“生きる理由”を早く得たい。
はやる気持ちが、朔の存在でブレーキがかかり、冷静な気持ちになることができた。
未だ白龍を交えた座談会は議論に突入はしていないが、その流れは確実に龍神、神子、そして怨霊の話へと変化していた。
白龍は大人の姿に成長したとはいえ、彼はやはり“龍神”であり、人ならざる神である。
未だ人の姿をとらねば存在できない程度には、力を失ったままだということであった。引き続き五行を正す封印の旅は続けられる。
そして、ついに話題は“坐”へと向けられた。
「思い出した、坐、お前の役目を」
――――“お前”。
その言葉の響きに、リンは一瞬にして身動きが取れなくなってしまった。
まるでその場に縫い付けられたかのように、絶対的な上下の威圧にひれ伏してしまったのだ。背中に悪寒が走り、血の気が引いていく。
全身に回った恐怖がただただ白龍から視線を逸らすことを許可しない。
それは八葉も同様であった。神子と坐との明らかな扱いの違いに、思わず九郎が声を上げたが、それは白龍によって遮られる。
「神子と坐を同等に扱わないでほしい、九郎」と。
その声は神子へ向けられるものと、坐に向けられるものとも異なる、いつもの白龍の姿であった。
弁慶に諌められる形で身を下げる九郎を見届けて、白龍は再度リンと向き合う。その瞳の冷たさに、また、震えた。
白龍は立ち上がり、リンへと近づく。目の前に見下ろされる形で現れた白龍はそびえ立つ高山の如く遥かに、ただただ恐ろしく、リンは見上げながらがたがたと震えた。
不意に両頬を掴まれ、強引に立ち上がらされる。その強い力に首が悲鳴を上げた。身長差のせいもあり、つま先が震える。
周囲の抗議の声など解せず白龍はリンの瞳を覗き込んで、口を歪めた。底の知れぬ龍神の瞳に映ったのは恍惚の色である。
「―――ああ、良い。その瞳。お前の前身は言いつけをしかと守ったようだ」
「まえ……み…?」
確認が済んだ物に興味はない。そんな扱いさながら、リンを突き飛ばすような形で開放する。
崩れ落ちるその体を抱き留めたのは将臣だった。触れた場所が酷く熱い。
思わず顔を上げて覗き込んだ彼の顔は明らかな怒りに燃えていた。
衝突はいけない。咄嗟に判断したリンは、将臣の手を握りそっと首を振って否を示した。応えは無論、否の否だ。
リンの制止空しく、将臣は白龍へ怒りをぶつける。
「おい、神様だか何だか知らねえが、女を乱暴に扱っていい理由にはならねえだろ」
「将臣、何を怒っているの――ああ『女』。…違うよ将臣。坐は人じゃないんだ、あれは私が作り出した“神具”だよ」
「…神具?…どういうことなの」
憤っているのは将臣だけではなかった。朔もその瞳を静かに燃やし、白龍を見据えている。
愛する人とほぼ同じ形をした白龍を見て、動揺こそあるようだが、その瞳は友人を思う強さに溢れ、揺るがない。
白龍は困ったように朔を見、そして周囲を見渡し、説明を始めたのであった。
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抱きしめた小鳥を“得た”と実感した時は、支配感を満たしただけだと思った。ただの、興味本位。
贖罪に生きる自分はこの世のどんな極上も、興味を引かれる事はなかった。地位も、名声も、傾城も…全て。
真冬の川で溺れていた“小鳥”も極上のうつくしさに惹かれこそはしたものの、手に入れたいだなどと強い執着などなかった。
気まぐれで名を知らせ、袈裟を貸し、時々それを思い出すだけの通り過ぎる思い出の一つ。それだけのはずだった。
小鳥は女であった。
しかし、神具であり人ではないのだと龍神は無情にも言い放った。
「人であって人ではない存在だよ。星の一族…譲の祖母がまだこちらの世界にいた時に、坐の前身を私が選んだ」
少年の姿であった頃には考えられない“神”としての発言の数々に、人である一行は酷く狼狽し、また憤慨した。
特に彼女に思いを寄せる将臣は性格も相まってか、抑えきれない怒りの炎を隠しもせず燃やし、度々弟に止められていたほどだ。
弁慶自身も、白龍のその変化に驚きは隠せない。
あれほどまでに愛らしい姿で神子の後ろをついて回った幼子の香りを微塵も感じさせない、人としての理が通用しないその概念に息を飲んだ。
それほどまでに、白龍の話す坐のあらましは非人道的で虚無の淵の話であったのだ。
人はかくも貪欲で傲慢な生き物であった。
上へ上へと到達する事のない欲への階段を駆け上がり、周囲の調和を乱していく。
権力者が代わる代わる、巡っては没す日ノ本は時が経つにつれて均衡が崩れ始めていた。
百年前、京を救うために異世界から喚ばれた神子、そしてその力も空しく滅びの音は確実に鮮明さを増していった事に危機感を抱いたのは応龍であった。
神子は龍神の力を得、安寧をもたらす。八葉は神子を守護し、保護する。神子が平和へ導いた地を龍神が治め、永久に守護する。
神子が役目を果たし元の世界へと戻れば八葉もその役目を終えるのが定めであるが、その平和へのプロセスは崩れた。
“応龍の欠損”これによって。
「(……僕の罪)」
龍神は悩んだ。人の世に関わることが出来る繋ぎとして神子を欲したが、かつての神子はもうその世には存在しなかった。
神子が存在せねば、八葉も力はない。世は再び戦乱に明け暮れる。源平合戦。人の手によって。
あらゆる事態を想定し、龍神が出した改善の手段。それこそが“坐”の設置であった。
「(坐とは即ち“台座”を差す。京に平和が戻り、消滅する神子と八葉の運命の要。八葉の宝玉の収め処―――)」
ぼんやりとした説明から読み解いた答えは、単純なものであった。
要は坐とは“八葉の宝玉を奉る台座”ということであろう。故に白龍は“神具”と指したのだ。
「(神子が役目を終えた際、元の世界へ戻る事は決まっている事。しかし、八葉も異邦人であれば、龍神の力の宿る宝玉も世界を違える事になる。すなわち、京の安定を支える力の分散ということでしょう)」
あらゆる事態。
応龍が危惧した事態が今回現実となってしまった。
それを見越して坐を作り出した龍神の判断は正しかったといえよう。
結果的に、将臣、譲は異邦人でいつかは元の世界へと神子と共に去る。
力の分散を防ぐために宝玉を坐に収め、肉体を返す―――その算段ということだろうか。
弁慶は深く息を吐き出す。一度整理した情報を脳に収め、理解という形で飲み込んだ。
しかし、未だ胸にどんよりと残る理不尽な憤りは落としどころを求め彷徨い続けている――――坐の選定理由だ。
「(人であって人でない……白龍が神具として“人の肉体”を形代に選んだ、理由はあまりにも、)」
“非人道的”であった。
弁慶もそれには大いに同意した。
反論する九郎、将臣の背を視線で押し白龍を詰ったが、白龍は困った顔をしながらも当たり前だとの主張を曲げぬまま言い放った。
『人柱と何か違うのだろうか』と。これにはさすがの九郎も押し黙った。
本当は物でもよかったのだと白龍は続けた。それでも“人”を選んだのには、より強い効力を得るためだと説明する。
願いを叶える対価はより犠牲の力が大きい程に意味を成す。その意味が分からぬ程、周囲は馬鹿ではなかった。
彼女は類稀なる美しい容姿、そして均衡のとれた肉体を持っている。頭の先から爪先まで、指先ひとつとっても何一つ無駄のないそのかたち。
恵まれた容姿だとは思っていたが、今思えばそれも白龍の選定理由の一つであったのかもしれない。
“欠陥のない完璧な神具”神社仏閣に設置された神具はどれもどこをとっても無駄な造りはなく、その洗練された形状は一種の神々しささえ感じさせる。
厳かな世界の特殊なものだ。それを再現するために、わざと選んだのだろうと弁慶は推測する。
そして、もう一つ。
人が物になる為に失わなければいけない事――――自我の喪失だ。
かつて、リンを見て感じた違和感を思い出す。
「(“君に、意思というものはないのだろうか”―――と。そう思った)」
喜びも、怒りも、悲しみも、全て、人よりも遥かに薄く、その心は常に凪いでいたように思われた。
感情があるように見えても、それは自家発電ではなく関わる誰かの感情の残り香が香るだけ。
彼女自身は喜びも、怒りも、悲しみも、感じていなかったのではないか。人の事ばかり考え、迷惑だからと己を責め、殺し、自我を失っていく。
居間で白龍はリンを引き寄せ、その瞳を覗き込んで、その事実を読み解いたのだ。
『―――ああ、良い。その瞳』
―――彼女の前身、先祖達は彼女を“坐”にふさわしい“形代”とすべく、作り上げたと言わんばかりに。
その事実に至った一同は望美も含め、白龍に激しく抗議をした。
身を乗り出すもの、厳しく罵るもの、非難の声は止まなかった。
神と人間との理の違いにより生じた溝は埋める事が出来ない。少なくとも一同が抗議の声を上げる程度には、リンは既に彼らの“仲間”であったのだ。
その抗議の声を振り払ったのは
『――――やめて』
他でもない、リン自身であった。
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壮大な自然の、もう見飽きてもいいくらいの星空を見上げ、リンは佇む。
思えば、随分とこの星空を見上げても感動を得られなくなってきてしまった。かつての世界の夜の空は明るく、そして暗かった。
街灯は煌々と輝き、連なる民家の団らんの明かりは橙に温かくも無機質に輝く風景。その人工的な光に、星の輝きは届かず物言わず輝き続けるだけ。
空は、暗いものであった。こうして見上げた満天の星空は美しい。けれどこれに馴染んでしまう程の時を過ごしてしまった。
望んだものは、本当に、そのままだったのだろうか。
白龍の口から語られた坐の存在意義、それは己の想像を超えた、言葉で定義しづらい概念で。周囲の反発も仕方がないとは思った。
その諍いの渦中の身であるのにどこか他人事のように、それを眺めていた。
それを受け入れるか否かを悩むのは私なのに、なぜ、皆が勝手に争い、白龍を責めるのか。リンにはそれが受け入れがたかった。
“常識”や“一般感覚”、“道徳”に基づくなれば、周囲の反応も頷ける。自分の身を案じ、親身になってくれるのも嬉しかった。
けれど―――――“遠坂リンの望む幸せ”は誰一人、見てはいなかった。
「…みんな、自分の倫理に反していたから、怒っていただけじゃない。自分がおかしいと思うから、リンも同じ気持ちだろうって、勝手に決めつけて」
「坐」
「………私の本当に願っていることなんて、誰も見ようともしない……常識はずれだから。“間違ってる”から」
唇を強く噛み締めれば、乾いたそこは引き攣り、ぎりりと音を立てた。
その姿を見て、白龍は悩ましげな溜息をつき、呆れた声で話し始める。君は不要な感情がまだあるようだね。と。
「…いいか坐、お前は神具だ。人の形を取っているがお前が存在している理由は『神子が去った後の京の平和の安寧への礎』だ。それを果たすのに、お前自身の人としての感情など不要」
その主張にリンは返す言葉をもたない。“神具”としての己の立場を思えば白龍の主張は真っ向正しい。
しかし、“人”としての己の立場を思えば白龍の主張はあまりにも非道だからだ。
リンはまだ、己がどちらに徹するかを決めかねていた。
お前は人じゃないと言われ、はいそうですかとそれを受け入れられるほどリンは絶望してはいなかったからだ。
けれども強く「私は物じゃない!」と言い切れるほど、己の存在理由に自信はない。
幼い頃から重ね重ね、己の主張を抑圧され過ぎた環境はリン自身の正常な自己評価能力を奪った。
「生きる事が当たり前に許される」と主張を通すだけの確固たる自信すら、彼女には欠落してしまう程に。
「…一の坐は優秀だった。しかしあれが必要とされる不幸は起きなかった。人としての肉体の寿命を経て、壊れた。…二の坐は、お前の母。一の坐は継承能力に乏しかった。二の坐はまるで人のように生きた。己の使命をも忘れ。私は、人の世に干渉した。二の坐に警告を与えた。それからは己の使命を思い出し、懸命にお前を坐へと作り変えてくれた。二の坐は継承能力に秀でていた。人の情を殺す能力に」
かちり。まるで何かのスイッチが切り替わったかのように、リンは全てが停止した。
瞬きも、呼吸も、思考も、震えすらぴたりと止まり、ただ脳内で時間だけが巻き戻されていく。何か違和感を拾った白龍の一言の地点まで、記憶を戻した。
『なぜ両親が送迎するようになったのか
なぜ電車に乗ることを許可してもらえないのか
なぜ顔を隠すように髪を伸ばしているのか
母が、顔を隠すように言ったのは、
髪を伸ばすように言ったのは、
“ ”されかけた、幼稚園の頃、から』
「警告……と、は……?」
ああ、お願い、嘘だと言って
「人間の男を使い、坐を壊す未来を見せた。体に埋まる使命を呼び覚まし、継承を促した―――人の言葉では“誘拐”と“脅迫”と呼ぶと思われる。お前の母は“人が変わったように生まれ変わった”」
嘘だと、言って
ずっとくるしかったのね、おかあさん――――
どうにも釈然としない思いを発散すべく、弁慶は近くの林へと足を運んでいた。
目的地は林の奥にある崖。視界を遮ることがないそこからの風景が好きだった。
熊野出身の弁慶は新熊野権現、田辺付近へ赴く際には必ずこの場所を尋ね、この景色を眺めては己を振り返っていた。願い、信念、これからの道。
大自然の雄大なそこはただ存在するだけで揺るぎない“絶対”を感じることが出来た。今回も、何か得られるかもしれないと期待を抱く。
「………」
裏切らない風景が広がった。
遠く地平線の彼方まで広がる樹海の緑は深く、昇る月の光が青白く照らすその波は果てしない。
濃紺の空に満天の星、中央に光る満月の周囲は淡い碧に縁どられ、どこまでも神秘的な光景であった。
思わず息を飲む。頭にかぶる袈裟をそっと解いて、全身にその月の光を浴びれば全てが洗われるよう。
そっと瞳を閉じ、その世界へ溶け込んだ。
「……?」
ふと、目を閉じた世界で聞こえた、何かの物音。
弁慶は目が悪い。それを補うかのように聴力が人より少し優れていたのが幸いしたか、微かな物音を拾ったのである。
そっと耳を澄ませてそれを辿る。聞こえてきたのは人のすすり泣く声だ。弁慶は深くため息をついた。
せっかくこの心地よい風景を独り占めして、己の心の平穏を取り戻せると思ったのだ。
気付いてしまった物音を気づかないように出来る程、弁慶は神経の太い男ではなかった。
そこで放っておけないのが彼の優しさでもあるのだが、結局、弁慶は声のする方へと足を進ませたのである。
そしてそれはおそらく、正しい選択であった。
「……リン、さん?」
「………、………っ」
少し入った林の中、鳴き声の主が目に入った瞬間に心臓が掴まれた。葉の生い茂る低い木、そして藪の中に隠れるようにして蹲るリンを見つけた。
膝を抱えて顔を埋めて、華奢なその体を一層縮ませて、静かに泣いている。ここには誰もいないのに、声を殺すように、ひっそりと。
闇溜りで噛み殺し嘆く姿は、満月の光から逃げるようにすら見えてしまう。
夜とはいえ山の気温は低い。薄着のまま飛び出してきたらしいその体に、己の袈裟をかけてやりたいと思ったが、弁慶は躊躇う。
「(……この袈裟で隠してしまえば、そのまま消えていなくなってしまいそうだ)」
根拠も何もない非現実的な考えだった。けれど、それほどまでに一人泣くリンの姿は、か細く儚かった。
虚ろな表情こそ多い彼女だが、泣いている姿は実はさほど見たことはない。
不安に苛まれ、いつだって泣き出してしまいそうであったが、心配をかけまいと寸前のところでこらえているばかりであった。
こうして一人隠れて泣くのがその証拠である。涙を堪えられないほどに泣いているのならば―――止める道理はなかった。
幾度も拒絶された。
立場が八葉だと分かった瞬間からは、更に強く。拒絶するのは彼女であるのに、その度に酷くつらそうな顔を見せた。
また、拒絶されたら。
また、あんな顔をさせてしまったら。――――その恐怖心がなかったわけではない。
それでも弁慶はそっと、泣きじゃくるリンを抱き寄せ、その体に包み込んだ。抵抗は、なかった。
「―――胸を貸しましょう…大丈夫、誰も見ていない」
月でさえも。弁慶の黒い袈裟に包まれた彼女は、抑えきれない嗚咽を漏らし、縋りついて泣いた。
ぽたぽたと腕に落ちる涙は熱く濡れ、時折弁慶に頭を預けながら、彼女はひたすらに泣き続けた。内に秘める悲しみを、つらさを全て洗い流すように。
それからしばらくして、少しずつ落ち着いたらしいリンを見て、弁慶もようやく胸をなでおろした。
泣き腫らした目は真っ赤に腫れ上がり痛々しい。後で水分と冷水を届けてやらねば、そんなことを考えながら、もう一つそれを増やす。
意識する前にそれは言葉となって現れていた。
「…坐としての責務の非道さに傷ついたのですか」
ぴくり、とリンの体が強張る。
しかし、少しの間の後それは首を振られ、否定された。弁慶は続ける。
「…けれど君の涙は喜びの涙にはとても見えない。神子のように龍神に認められない事が悔しかったのですか」
歯に衣着せない質問であったと弁慶は思うが、リンに下手な小細工は通じない事を知っている。
再会した時の、望美へのあの烈火の姿、そして神子と坐との扱いの違いに想う所があるのかもしれない。そう推測して質問をした。
しかし、またも答えは否であった。静かに、力なく、首が横に振られる。弁慶はとうとう困ってしまった。
考えうる可能性はどちらも異なる―――真実を得るには泣いている理由を問うしかないのだろうと息を吸ったその時、リンからの擦れた声。
「……私が、お母さんを…ずっと、苦しめてた……」
落ち着いたと思った涙が、再度こみ上げてきてリンはぽたぽたと泣き始める。
弁慶は酷く驚いた。リンの苦悩は弁慶には理解しがい理由であったからだ。動揺する弁慶をよそに、リンは更に続ける。
弁慶は一旦動揺を置き去りに、ぽつりぽつりと漏らされる言葉を一つずつ拾い上げ、そっと組み立てる事に専念したのであった。
語られる言葉の一つ一つに、次第に疑問が解き明かされていく。今まで知ることが出来なかった、理解が出来なかった彼女の行動、思考、涙、その全てが。
幾年もかけて積み重ねられた坐という神の傲慢な理屈に、弁慶の胸が静かに燃える。それはどこか哀れな色をも含んでいた。
「(こんな時までも他人の為に泣いて、傷つく君は…)」
なんて、愚かで―――なんて、やさしい。
弁慶の胸をそれは酷く締め付けた。
しかし、京の平和が乱れた原因…黒龍の消滅。間接的であったかもしれないが、坐が必要となる世界を作り出してしまったのは弁慶自身だ。
酷く悩んだ。今、震えていたのはリンではない。弁慶であった。このまま隠し通して贖罪を果たし、彼女を元の世界へ帰すことが弁慶の覚悟であった。
しかし彼女の言葉、気持ちを汲むとそれは必ずしも幸せであるとは思えなかった。
彼女の両親は、彼女を娘ではなく、坐として生かすことを望んでしまった。
「帰る場所なんてもうどこにもない」
そう泣いたリンを元の世界に帰すことは果たして彼女の幸せなのだろうか。
己の幸福を願う事を罪だとは思いたくない。完全に罪を償い贖罪を果たしたその日にはきっと、彼女にその手を伸ばしてみたい。
受け入れてもらえるのならば、このままここで、僕と――――そんな邪な思いが咎人に囁きかける。
「(…彼女には強い意志で『救いたい』と願う人がいるというのに)」
弁慶は首を振り、その考えに蓋をする。己が成さねばならないのは京の平和を取り戻すこと。
すなわち、平清盛の封印、そして黒龍の逆鱗の破壊。愛しい人の手を取り、逃げるという選択を弁慶自身が許すことはできなかった。
けれど、けれど。目的の為にこれから自分が引き起こすであろう騒乱を、許さなくていい、けれどどうか気持ちだけは知っていてほしい。
罵られても嫌われても、構わない。
「(帰る場所がないのならば、僕が平和な世界を君にあげる)」
坐としての役目を終えた君が、平和で笑って過ごせる未来を。
「…僕の罪を、君に話しましょう……聞いて、くれますね」
……君が「坐」だなどという存在に祀り上げられこの世界に呼ばれてしまった所以。
僕の呪詛による黒龍の消滅、源平の諍い――――その罪の連鎖を。
やさしいその人は、泣いてしまいそうだった。
その悲しみを受け止めることは出来ても、掬い上げることは出来ないというのに、それでも、気づけば手が彼を抱きしめ返していた。
触れてはいけない人なのに―――それでも。
「私がここにいることをあなたのせいだなんて思いません…けれど、京に平和を取り戻すことが貴方の願いなら、私はそれを助けたい」
そう告げると彼は困ったように微笑んだ。つられて私も笑う。
彼を救い出せるだなんて思っていない。私に出来ることはせいぜい、こうして彼の苦しみを受け止めて共感する事だけだ。
目的の為に立ち上がらせる力も、共に手を取り同じ速度で願いに向かって駆ける事も出来ない。
背に回される彼の右手の甲…優しく輝く黄金の宝玉の光がリンの視界に広がったような気がして、また、瞳が潤んでしまう。
彼を本当の意味で救い出せるのは――――きっと、春日さんだけ。
閉じた瞼に押されてこぼれた涙が、弁慶の首筋をそっとなぞり、濡らした。
しばらくそうして抱き合い、どれだけの時間が過ぎたのか。リンはそっと弁慶から離れる。
泣き腫らした瞼は重く、脱水症状を起こしかけているのか頭がズキズキと痛んでいた。
酷い顔を見られるのを躊躇い、月の光を避けた。水分補給と目を冷やすことを促す弁慶の優しさに胸が痛む。
これが最後でいい。最後の、人としての我儘を許されるのなら―――。リンはもう一度弁慶の胸へと飛び込んだ。
受け止める体制の出来ていない体はそのまま地面へと落ちる。枯れ枝を踏みつけて、リンと弁慶は地面へと転がった。
弁慶の驚く息遣いが聞こえるが、構わずその胸に顔を埋めて温もりを拾う。
直接響いてくる彼の心臓の音は早く、普段の彼の表情からは読み取れない本当の感情に触れられたように思えて、嬉しさにそっと笑った。
「ごめんなさい。泣きすぎて、眠くて…」
「…送っていきますから、眠ってもいいですよ」
「……うれしい」
今だけは、甘えていいよね。迷惑かけてもいいよね。
これで、もう最後にするから。
声にならない本当の気持ちが、心で響いてそっと消えていく。
明日からは坐としてあなたの夢をきっと支えるから。
髪を撫でる弁慶の手は優しく、いつかの春の夜の日のようであった。
いつまでも穏やかな気持ちで、広い胸に懐かれ、リンは眠りについたのであった。
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「盗み聞きだなんて、感心しませんね。将臣君」
抱き寄せたリンが完全に眠りについたのを確認し、弁慶は藪奥へと声をかける。奥が見えない漆黒の闇の中から音を立て現れた屈強な男。
バツが悪そうに髪を掻き上げる仕草を見せているが、その瞳に映るものは決して後ろめたいものではない。
尊大で真っ直ぐで、底の見えない狡猾な一面。炎を上げ燃え盛る直情だけではない、変則的な野生に弁慶の瞳も触発される。
からからと乾いた笑いが白々しい。満月を吸い込む青い髪は妖艶に輝き、不相応な風格さえ感じさせる。天性のカリスマがそこにはあった。
思わずその迫力に息を飲む。この空気に飲まれてはいけない。
弁慶は得意の薄ら笑みを浮かべて応戦する。両者とも出方を伺うだけの沈黙が続いた。破ったのは、弁慶である。
「――――平氏の将が危険を顧みず敵の懐にまで入り込んだ理由は、神子の動向を探るためですか?」
「!」
「源氏の神子―――それとも、白龍の神子を?」
「悪いが、何の話をしているのか分からないんだが…。お前らについて知っている事と言えば京でつるんでいるどこかのお偉いさんで、本宮大社に向けて目的が一致している。それだけだ」
将臣が嘘をついていることを弁慶はとうに見抜いていた。将臣とてそうであろう、互いに全て知った上での情報を対価にした駆け引きだ。
駆け引きの手腕に於いては弁慶に遥かに利がある。将臣は引き際を見誤ればそのまま捕えられ処断されても文句が言えない状態だ。
先程までの堂々たる王者の顔に、一抹の不安が走った―――その瞬間を、弁慶は逃さない。
「…僕はかつて薬師紛いの仕事をしていた時分、六波羅によく出入りしていまして。その頃平家の皆さんには本当によくして頂きました」
「……へえ」
「重盛殿」
「!」
「――――に、本当によく似ています。将臣君は。譲君よりもずっと」
“重盛”―――清盛の他界した嫡男の名である。よく観察していなければ分からない反応であったが、将臣は確実に“その名を知っている”反応を示していた。
表情こそ変わらぬものの、だからこそ不自然な姿がありありと晒される。しばらくの沈黙の後、将臣は自傷気味にため息を吐き、両手を上げた。
「降参だ。俺を九郎に突き出すか?」それに弁慶は首を振る。
その振動で胸に寄せたリンが小さく唸った。駆け引きに夢中になり、その存在を忘れていた事に気付き、振動を弱める。
リンは再び静かな寝息を立てた。それを確認し、弁慶は続ける。
「僕はこの戦が終わり、平和が戻るのならば源平どちらが勝っても構わないのです」
「…どういう意味だ」
「そのままの意味です。今は、平氏より、源氏が日ノ本を治める方に利がある故にそちらに身を置いているに過ぎない。僕は勝つ方につきますよ」
「それは……お前を信じ、共に戦う仲間を裏切ってでも、って事か」
「還内府ともあろう人が愚問ですね」
「そこまで知っていたのか…!」
『―――おや、そうなのですか』顔には決して出さないが、弁慶は内心驚いた。
将臣の表情を深く観察していたが、その表情に嘘は見られない。
このような稚拙な揺さぶりに乗ってしまう姿は、九郎同様、駆け引きにはあまり向いていない、正直な男なのだろう。
その事実に救われながら、弁慶は内心呆れ声を殺す。とにかく、この将臣の反応は信用していいのだろう。
三草山での平家の采配はまるで未来を知っているかのような布陣と作戦であった。
こちらの進行や策をすべて読まれていたような完璧な時機での火攻め、囮の陣。
還内府の底知れぬ指揮能力は得体の知れぬ分、一般兵士にすら恐怖の対象として知れ渡っていたが、その根本にあったのは“未来を知っている事実”であった。
タネが明ければ怖れる事はもうない。笑い出してしまいたい衝動を抑え、弁慶は穏やかな笑みの下で、けれども悪どく笑った。
将臣は未だ興奮状態冷めやらぬといった様子で、一つの疑問を弁慶へとぶつけた。弁慶の福原遠征時の、雪見御所傍の書庫潜入に関してである。
警護厳しいそこに入るのは容易ではないが、弁慶のように顔なじみであれば入所の難易度はぐっと下がる。それを踏まえ、弁慶を疑った。
隠す理由もない事は真実を告げる事は惜しまない。肯定すれば、将臣は心底嫌そうな顔をし、すぐにそれは思いつめたものへと変わる。
「……そうまでして、何を見に来た?あそこは言っておくが軍事に関する資料はない、あそこにあるのはお伽噺の本しかないぜ」
「龍神伝説に関して見聞を深めようと思いまして。龍神が擬人化して舞い降りたのです。知識はあればあるほどよいでしょう?」
「今更隠す事もないだろう。……“坐”について調べに来た、違うか」
「よくご存知ですね。さすがは還内府殿」
空疎なやり取りは続く。九郎にもこのくらいの駆け引きの力があればと現実逃避を時々交えながら、弁慶はそれでも一歩も引かない。
しかし将臣の方にはもう何も手札は残されていなかった。故に質問が雑となる。年相応の青年そのものだった。
「お前と遠坂の関係はなんなんだ」
直球過ぎる質問。普段の弁慶ならば適当にあしらい、誤魔化してしまっただろう。
弁慶はまっすぐ将臣を見据えて息を吸う。………「何よりも愛しい人」。本心は言葉となり、放たれるはずであった。
「君には関係ないものです」
しかし、宙に飛び出したのは含みも何もない、無音の言葉であった。
そこに先ほどまでのリンへの深い熱情を探しても、希望が空回りするだけ――――どこにも、見当たらなかった。