やさしいひと(弁慶長編:完結)
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02.鎌倉
「おや、不思議な髪色だねえ……さすが看板娘と言われるだけあるのかな。お勧めを、ひとつもらおうか」
好奇の視線で見られる事に慣れるまでが存外早かったことに、驚いたのは私自身であった。
もう1年ほど前の事になるだろうか。
外をちらつく雪の姿がこちらの世界に来てしまったあの日を思い出させるが、まるで昨日の事のように鮮明に思い出される。
1年前の雨の日、奇妙な鈴の音と共に意識を失った私は、次に意識を取り戻した時にはすでにこの地に捨てられていた。
深い雪と一面の銀世界。
遠くに山がある以外は空に何も障害物はなく、ただただ混乱の渦の中に取り残されていた。
命尽きる刹那、命を救ってくれた恩人たちは、未だ狩りの途中にこちらの店へ立ち寄ってくれている。
この店で働かせてもらえるよう、言づけてくれたのもその夫婦であった。
京へ続く道の途中にあるこの茶屋は道行く人々、主に狩りや修行へ向かう人々の足休めの場所として盛況している。
運がよかったのはたまたま、こちらの前看板娘がついに嫁ぐという話があり、人手が不足するところだったという点である。
常連だった故か、目ざとくその点を見やった夫婦の妻が、すかさず私を推薦したのだ。
あまりに強引とも思えるその手法に、それはどうなんだとか、いやさすがにそれは、と言葉を選んでいるうちに、店主と妻とで話は進んでおり。
気が付けばこの茶屋に住み込みという待遇で迎え入れられることとなっていたのである。
「リンちゃん、できたよ!」
「あ、はーいっ」
茶屋自慢の団喜、現代で言うところの団子を盆に載せ、せっせと客へと運ぶ。
醤油の存在がなく、砂糖も貴重であるこの時代ではみたらし団子といったものは存在しないが、
米の粉を練ってゆでたそれらの菓子は旅人の疲れを癒すには十分だったらしく、大変喜ばれていた。
「お待ちどうさま」
一声かけて手渡すと、疲れから渋い顔をしていた客もにこりと笑顔になる。この瞬間が、私はとても好きだった。
現代の、学校へ通っていたころとは大違いである。
あの頃はただひたすら他人の視線に怯え、周囲の声に過剰に反応し、ウォークマンで耳を閉ざしていた。
季節が変わり行く音を遮断し、人との交流を避け、内へ内へと閉じこもっていたのだと、今の立場になって改めて見えてくる。
あの頃はそれでよかった。他人の力を借りなくても、ある程度の生活が保障されている。そういう時代だったから。
けれどここ、鎌倉時代は決してそれでは通用しない。落とされた雪原で、私は何ができただろうか。
闇雲に、方角も地図も分からず歩いて、知識の無さから足は凍傷になりかけ、と、あの夫婦に出会えていなかったら本当にそこで尽きていた運命だった。
こちらに来てから1年……短いように感じられるが、十二分に濃厚な日々を過ごしていると実感する。
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「ここの団喜は本当においしいねえ。可愛らしい看板娘さんが運んでくれるからなのかね」
「…いやだ、ご冗談が上手いんですから。でも、そういって頂けて嬉しいです」
くすくすと笑えるようになって。
以前こちらで働いていたという前看板娘は大層美人だと聞かされていたから、その看板を引き継ぐのには躊躇われたが、
客の反応は贔屓目に見ても悪い反応ではない。人に否定されない、受け入れられている。
その事実が私に自信を与えてくれたのだろうと思った。
けれど、ひとつだけ。
「その髪色は、生まれながらなのかい? 真っ白だなんて、言っちゃあ失礼だけど、老人でしか見たことはなかったよ」
私は、曖昧に笑った。
もともと私の髪は色素が薄めではあったが、決して奇抜な色でも、ましてや若白髪でもない。
この変化に気付いたのは京へ向かう道の途中、夫婦がこの髪について指摘をしたところからであった。
なぜ髪の色が変わってしまったのか今となっても分からないが、以前読んだ本には一晩にして髪の色が真っ白になってしまった男の話があった。
おそらくは急激なストレスによって起きた事態なのだろう。話を聞いた時は酷く動揺したが、確かめる術もなければ気にすることも減っていくものである。
鏡が貴重なこの時代、己の姿を映すのはせいぜい顔を洗う朝の水面くらいで。
視界に入らなければ意識することも少ない。ほどなくして悩みと呼ぶことはなくなった。
それでも異端であることに変わりなく、深く指摘されると躊躇った反応にならざるを得ないことはある。
調子の良い時は、こうして
「―――鬼のようでしょ? ふふ、私実は鬼の子なんです」
――――なんて。
科学的な解明など発展していない故に、冗談めいた答えでも通用するところが面白い。
とはいえ、情報が伝わる手段が口頭伝承である故の誤報も多い。
あまりからかいすぎるとそれを撤回することもできないのだろう、と最近は情報の拡散を抑える手法も習ったところだ。
今ではこの白い髪も個性の一つなのだと自己肯定できるようになったというのは、人として大きな成長だったのだろう。
最後の客を見送って、暖簾を中へと片づける。冬場は日が短い。あっという間に山陰に陽は沈み、辺りが漆黒に包まれると当然旅人が行き交うこともなくなる。
そそくさと奥へ引っ込み、店主に日を確認する。
明日は店の定休日、もとい定期市へ原料を仕入れに行く日である。
ここから市がたつ京まではさほど離れてはいないが、それでも片道3時間ほどはかかることを聞いている為早めの就寝が吉だろう。
てきぱきと手慣れた動作で片づけを行い、明日の打ち合わせを行う。
「茶と米の粉は絶対だね、あとは…ああ、常備薬がきれていてね、もし手に入るようであればそれも買っておこうか」
時代が変わって座が出来てから、随分と物が手に入りやすくなったんだよ、と店主が顔を綻ばせるのに聞き入る。
かつて授業で習ったであろう記憶がこんな形で役に立つとは思いもしなかったが、実際に見て触れて知る慣習はとても面白く、ついつい日夜夜更かしをしてしまうのが常となっていた。
店主はかつての看板娘をわが子のように可愛がっていたし、また、私も同様に可愛がってくれた。
当初こそあまりに物知らぬ私につらく当たることもあったが、ここまで信頼を築くことが出来た今はただただそれが誇らしい。
まだまだ至らぬ部分は多いと感じているが、少しでもこの温かい人たちに恩返しがしたいと強く思っている。
「あ、そういえば布巾を温めて置いたのです。後でどうぞ使ってくださいね」
先ほど裏庭に火をつけ湯を作っていたことを思い出し、店主に勧める。
一瞬驚いたような表情のあと、すぐにまた優しい笑顔へと戻った。
「本当にお前さんは気が利くね。ありがとうね」
「この寒さの中で水浴びなんて…もうしたら絶対ダメですよ。体に悪いもの」
この真冬の中、気合の奇声とともに川の水を浴びている店主を見た時は、彼以上に私の心が冷えたものである。
ちゃきちゃきと動き、年齢よりは幾分か若く見える店主とはいえ実年齢は実父と大差ない高齢だ。
生活習慣が違うといっても、いつ心筋梗塞やらなんやらにならないとも限らない。
この時代、湯につかるなんて入浴方法がとられていないのは仕方がないが、ならばせめて凍てつく川での水浴びだけは改善したいと、
庭で火をおこして湯を沸かし、ふき取ってもらう事に決めたのである。本当に科学力のなさというのは恐ろしい。
「――さ、ご飯にしましょう? リンちゃん、今日もお疲れ様」
優しい女将があたたかい食事を運んできて、居間が一気に華やぐ。
質素ながらもきちんと取り揃えられた夕餉はとてもおいしく、つい箸が進んでしまうものだ。
もちもちと瑞々しい白米や、複雑な味付けの肉、魚などの現代的な料理はもちろん出てくるわけではないが、
素材そのもののおいしさ、新鮮な肉の味、干した野菜の深い味わいは現代では決して知ることはなかっただろう。
手を合わせて、食材に感謝する。
慣例としてただ真似ていた合掌の意味を、こうした形で知ることが出来たことも嬉しい。
そう、女将に伝えれば嬉しそうに微笑んでくれる。その顔を見て、私もまた、微笑んだ。
出立は早朝からだった。
まだ薄暗い雪景色の中、雪草鞋を始め防寒具をしっかりと纏う。
目指す先は京で、ここから約2里と少し先になるという。…およそ10キロ程の距離とのことで安心したのだが、店主の
「帰りは荷物を背負ってくるんだよ」という言葉に気が遠くなったのは、言うまでもなかった。
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仕事柄、あまり店主や女将とゆっくりと話をする機会がなく、身の上の話は最低限のことしか伝えられていなかった。
茶屋から京までは約3時間ほど歩きっぱなしとなる。私はその時間を利用し、伝えられるだけの己の話をしようと決めていた。
普段は優しいこの夫婦は決してある距離から以上は踏み込んでこようとはしない。その気遣いはとても嬉しく思っていたが、同時に申し訳なさも生み出している。
何より、自分自身もまだ、この現実と実際あるべきだった場所と、一体何が起こったのかを把握できていない。整理するにはいい機会だと思ったのだ。
さらり柔らかい雪を踏みしめながら一歩、また一歩と進む中で私はひとつひとつ紐解くように、己の成り立ちを話し始めていた。
にわかに信じがたいおとぎ話を、夫婦は決して否定することなく聴き拾っていく。
あまりにもすんなりと受け入れてしまう様子に疑問を抱いたが、
二人によると無意識の中でも、私の発言・行動・思考に現代ではない何かが見え隠れしていることを感じていたらしい。
「もしかして、ここではないどこか遠くから来たんだろう、というところまでは私たちも思っていたのよ」
「でもそれがどこかまでは、分からなかった。ならば、お前さんの口から語られるまで待っていようと」
「…でも、リンちゃんにも分からないのね」
さく、さくと雪を踏む音に落胆が混じった重さが生まれていた。
それは無言の圧力となって私に圧し掛かっていたが、決してこの夫婦が悪いわけではないのだということも分かっていた。
夫婦とて、私を責めたいわけではない。ただ、それが分かるからこそ辛く、重い闇となって襲い掛かるのだ。
足元に広がる二人の跡に対し己のそれは―――――今は唯、雪に残す足跡の深さの違いでさえ、自分が異端であるという証にしか映らなかった。
茶屋の、すなわちリンの日常というものはとても忙しい。
茶屋は大きな街道沿いにある故に行き交う歩行者の憩いの場となっていたし、そこに店としての評判も合い重なってとても繁盛していたのだ。
故に、日常の責務を果たす以外のことを考えている時間も余裕もなかったのでだった。けれども今日は違う。
市へ向かうこの3時間という時間は茶屋の看板娘という職業から離れられる時間であり、自分のためだけに与えられた空白の時間でもある。
ぐるぐると答えのない疑問がわいては、解決させることもなく宙を漂う。 夫婦と離すその口数は一言、また一言と少なくなっていった。
思えば、言い訳ばかりしていた毎日だった。
実の両親が如何に過保護で私を縛り付けていたとて、私自身その呪縛に甘んじていた部分は大きかったのだ。己で、その鎖を解こうとすることはなかったのだから。
解かれる事はない―――――諦めだと結論付けた当時の答えは、言い換えればその状態を受け入れたのである。
そしてそれは同時に、私自身のあり方、運命を両親のせいにしたと同意義だったのではないだろうか。
今はただ人手が足りないという需要に、たまたま運よく滑り込んだ供給者であったただけで成り立っている存在意義である。
もしそれが絶えてしまったら――――その先を考えて背に恐ろしいものが走った。 誰も必要としない世界。誰も道を示してくれない世界。
生きる理由を人に委ねることの軽薄さと、その末路を、垣間見てしまったのだ。
…ならば、
「リンちゃん大丈夫?少し休もうか?」
「……あ、い、いいえ、大丈夫です。もう京はすぐそこなんですよね、……、えっと、疲れたわけじゃないので、大丈夫です……すみません」
心配そうにこちらを振り返る夫婦に笑顔で答える。歩みを再開したその背を見やりながら私も更に一歩を踏み出した。
「(ならば、私がこの世界に存在している理由は?)」
絶望にも似た淋しい問いは、まるで呪詛のように暗く胸に広がっていく。
その不安を口に出すだけの勇気は、私は持ち合わせてはいなかったのだ。
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白い息の向こうに広がるのは白銀に輝く町並みだった。
現代のように高層ビルが立ち並んでいるわけでも、地を這う線路が張り巡らされているわけでもないその街の様子は田舎の町並みを連想させたが、
それでもここ久しく町並みという光景を目にしていない私にとっては新鮮に映ったのである。
時刻ははっきりとは分からないが、陽の高さを読み解くと午前中だろうか。
すでに市は立っており、行き交う人々の数も多い。質素で頼りなく見える各店は見目に反し人々の興味を集め、活気に満ち溢れていた。
そんな光景を見て沈んでいた心も少し上向きになる。店主と女将さんは購入する品を見定めており、私はその後ろについて進んでは荷物を受け取った。
珍しい光景はやはり興味を誘うもので。きょろりと周りを見渡せば、本当にさまざまな店が立ち並んでおり目を攫われる。
こちらでは当たり前なのだろうが、並んでいる品は全て手作り―――ハンドメイド品ばかりで、職人とはまさにこういう人を指すのだろうと感嘆の息が漏れた。
仕上げられた漆器には蒔絵が施されている豪華なものもあり、
現代に持ち帰ったら博物館所蔵品クラスの貴重品になりそうだと心の中で笑うのだが、共感できる人間がいないのは少し淋しい。
ふと、一軒の店の前で足を止める。
「お前さんもおなごだねえ」
「え、あっ……すみません、何でも」
「いいのよリンちゃん、リンちゃんもいい年のおなごだもの。こういうものに憧れて当たり前だわ」
夫婦に微笑ましげに見られるのが小恥ずかしくて、私は少し俯いた。足を止めたのは髪紐や櫛など、女性の装飾品を扱う店である。
知識はないが、女性の短髪という概念がない時代なのかもしれない。
道行く女性客は皆腰ほどまでの長い髪を布で一まとめにしている者が殆どで、オシャレのために髪をまとめている女性すら少数であった。
リンとて、決して見目のために髪を伸ばしていたわけではない。この長い髪があるのは、実母がある事件をきっかけに命じた事を守り続けていた結果である。
「…ね、あなた。いいわよね?」
「ああ。うちに来てくれてから本当に頑張ってくれているし、わたしも綺麗なお前さんが見てみたいよ」
「…え?」
「リンちゃん、好きなのを一つ選びなさいな。私とこの人からのご褒美。…ね?受け取ってくれるわよね?」
女将さんは本当にずるい人だ。優しい笑顔でそんなことを言われたらその気遣いを断ることなんてできるわけがない。
それでも申し出が本当に嬉しくて、私はまたうっかり泣いてしまいそうになった。どうしてこの人たちは底抜けに優しいのだろう。
照れ隠しに頬をかくふりをして、目頭の涙を逃がすと私は二人にお礼を言い品物へ目を向ける。
一針一針丁寧に繕われた紐が並ぶ中、一つを決めかねていると女将が見立てて提案をくれる。指差した品は青や紫の寒色で染められたものであった。
店主に勧められ髪に結んでみると、白い髪にそれは儚く映えた。
「―――うん、思ったとおりとても似合うわ。白い髪だから、赤とかよりも静かな色の方が似合うと思ったのよ。リンちゃん、どうかしら」
「私も暖色よりも寒色の方が、好きなんです。…女将さんがそう言ってくれるなら、私、これがいいです」
自分で背に縛る紐がどのように映っているかは分からない。
けれどきらきらと輝く笑顔を向けてくれる表情を見れば、きっとこれが一番なのだろう。
振り向けば、店主二人も満足げに微笑んでくれていて、思わず私もつられて微笑んだ。
「不思議な髪色の、けれど稀に見る別嬪さんだ。その紐もあなたにつけてもらえてきっと喜んでいるよ」
妻へのいい土産話が出来たなあと嬉しそうに語る小物屋の店主の言葉に、顔が熱くなる。
どうしてこう、この時代の人間はやたらと人を褒めちぎるのか。
社交辞令だと思えたなら楽なのだが、人々があまりにもストレートに発する事や、自分に対し社交辞令を行うだけの利がないことを思うと、
どうにも褒められているようで心地が悪い。 いや、悪い気はしないのだが、どう答えていいのか分からないのだ。
代わりに店主や女将が「当然でしょう、うちの看板娘ですから」と返すものだからますます私は縮こまって真っ赤になるしかできないのであった。
顔に集まった熱を冷ますべく、扇ぐ私に小物屋の店主が更に続ける。
「目を引く髪色だけどここでは結構そういう人がいるみたいだね。…ああ、確か平家かどこかのお偉いさんも、あなたのような白い髪をしていたと聞いた事がある」
去り際に聞いた言葉が耳に残った。けれどそれには答えずに、軽く会釈をして立ち去る。
その平家の偉いさんが白髪であったとしても、加齢によるそれか恐らくは生まれながらの白髪なのだろう。
不意にいくらかの顔見知りが脳内をよぎった。ここに来る直前まで目に映していた、目敏いまでに鮮やかなピンク色の髪。
意識した途端に穏やかざる感情が胸に黒く広がっていくのに嫌気が差す。
分かっている。
そうだ、別嬪などと言われてその気になって浮かれてはいけない。
あの子があの見目で他人から指差されなかったのは、彼女の持ち得た底抜けの明るさ、人徳ゆえのものだ。
私とは、違う。
「(髪が長くてよかった……)」
この醜く歪んだ顔を隠すことが出来るから。実母が口うるさく言いつけた髪への掟が、その通りの形で役に立つとは皮肉である。
必要以上に顔を晒すな、と。実母は口を酸っぱくして言い続けていた。
理由は決して教えてはもらえなかったが、幼かった私にはその剣幕に押される形でひたすらに言いつけを守ったのである。
歪められた価値観を誰が咎めることが出来ただろうか。
母はなぜ顔を隠すように言い続けたのだろうか。 それはきっと己が人に何らか影響を与える人相をしているからに違いない。
人がどれだけこの顔を褒めちぎろうがそれは、その「何らか」を誤魔化すための社交辞令の褒め言葉なのだ。
――――うつくしい、はずがない。 言葉通りならばもっと愛されていた。孤独に震える学校生活など送っているはずがなかった。
「(母が、顔を隠すように言ったのは、髪を伸ばすように言ったのは、)」
いつからだったろうか。
朧な記憶が時を示す。そう、あれは確か。
「(誘拐されかけた、幼稚園の頃、から)」
過保護という呪縛の始まりの刻。
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「あァ、いけない。薬を」
買い忘れていた。前を行く女将の間の抜けた声で我に返った。
慌てて先に通り過ぎた薬屋に足を戻したのだが、既に商品は完売状態であった。
季節柄、薬が必要とされるということもあり、店主も予想外に品はけがよかったと言っていたから間違いはない。
しかしそれではこちらの問題の解決にはならず、三人で頭を抱えた。このまま常備薬なしで一冬を越えるのは心もとない。
土地を知らぬ故に何も助言できない私に代わり、店主が悩ましげに口にしたのはとある薬師の名であった。
「…弁慶先生の薬があったら、より安心なんだけどねえ」
「…弁慶先生、ですか」
べんけい。
弁慶と言えば曖昧な記憶であるが、昔話などで聞いた事のある名である。
あまり詳しくは知らないが、腕っ節のいい剣豪でどこぞの線の細い貴族にこてんぱんに負かされてから傲慢だった己を律し、生涯をかけてその貴族を守りきった…人物であったと思う。
もちろんうろ覚えの知識であるが、大筋は合っているだろう。
…と、そこまで考えてその考えのくだらなさに首を振る。
いくらこの時代が鎌倉時代だとはいえ、そこまで己の知識と結びつける必要がどこにあるのか。
それだけ不安なのだと言ってしまえば、それまでではあったが。意味のない思考に蓋をし、店主の話を待った。
「どのような方なのですか」
「そこの、五条大橋の集落で薬師をしている…いや、正確にはしていたお方のことだよ。男性ながらたおやかなお方でね、あの方の作る薬はよく効くと評判なんだ」
「…していた、ということは……今は、」
「あまりご自分の事を話さない人らしいから、詳しくは誰も知らないみたいだが、最近はあまりそこには寄り付かないらしい。
一時的な身の寄せ場なんだろうね、でもきっとお優しい方だから各地で苦しんでいる人を助けてあげているんだろうさ」
その後も幾言かその薬師を褒める言葉が紡がれた。
店主の言葉が本当であれば、随分と情に厚い人もいたものだと思う。少なくとも現代には稀有な存在なのだろうと思った。
この時代だからこそ生きていられる優しさなのだろうか。
いずれにせよ、その薬師とやらがここに居ぬのでは薬を手に入れることはできない。
程なくしてその人物への興味は失せ、如何にして薬を手にするかへと変わって行く。
その後、懸命な声掛けの甲斐あってか何とか薬にありつける事が出来た頃には、やはりその有名な薬師のことなどすっかり頭から消え去っていたのである。
日帰りかと思っていたこの仕入れ旅はまさかの宿泊を兼ねており、いよいよ背に負うだけでは足りなくなった荷を宿へ運び込んだ。
午前に到着した一行であったが、気が付けば高かった陽は随分と沈み、西の空を橙に染め上げている。
夕方の5時くらいであろうか、地平線まで見渡せる広い大地がひどく眩しい。
店主と女将は明日の岐路の打ち合わせをしており、宿の1階では夕餉の支度が進められているのか窓の外、時折立ち込める蒸気に腹の虫が鳴く。
聞き拾ったらしい茶屋夫婦がこちらを振り返りからかい笑った。
「今日はたくさん歩いたからね。晩ご飯楽しみよね」
恥ずかしさにそっけない反応をしてしまったが、夕食が楽しみなのは事実である。
女将が毎日作ってくれる食事も質素ながら栄養バランスがきちんと揃ったものばかりで、腹もちも十分である。
けれどもこの時代はどうにも食事は朝晩二度の食事が基本らしく、こうして運動を行うような日にはやや厳しいものがあった。
それも相成り、宿の食事という事で普段食べているものとはまた変わったものが提供されるのではないかと思うと、どうにも腹の虫の期待も大きいらしい。
しばしの談笑の後、お膳に乗せられた食事が運ばれてきたとき、思わず感嘆の声を上げてはまた夫婦の笑いを誘ったのだが、仕方がないことであったと思う。
運ばれてきた食事を口にし、時折女将が作り方の分析を行っている。
もしかしたらその内にこの味が日常の食事でも出てくる日があるのかもしれない。私と店主は顔を見合わせて期待に笑っていた。
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「――十分に気を付けなさい。何かあったら大声を上げなさい。近いとはいえまだまだ夜は物騒だから」
「はい、ありがとうございます。行ってきます」
心配する店主に頭を下げて、私は近くの河原までやってきていた。
この時代、十分に上下水道の設備が整ってはいなかったしそういう習慣もなかったのだろう。
風呂の習慣や選択の頻度に関してだけ、どうにも馴染むことが出来なかった私は、こうして無理言い自由を聞いてもらっている。
満天の星空の下、それでも真っ暗な河原をおぼつかない足取りで進む。
少し離れたところに大きな橋のシルエットが見えることから、ここは京に入る時に通ったあの道の付近なのだろう。
橋の下からこちらにかけて、何軒か家が立ち並び中に明かりがともっている。ここならば野党がうろついていることもないだろう、そう踏んだ私はそこからもう少し人離れた草陰に荷物を下ろした。
持ってきた薄い布を体に巻き、簡易ワンピースのような姿になると、そっと川の水に足を浸した。
「っ、」
当たり前だが真冬の川は恐ろしく冷たい。冷水そのものである。
体を清められないまま眠ることは避けたい…その一心で湯あみ、もとい水浴びに来たのだが、あまりの冷たさに尻込みしてしまう。
浅はかな考えにちょっとばかり落ち込むが、ここで悩んでいても帰りが遅くなって店主を心配させるだけだ。
心頭滅却すれば火もまた涼し。そうだこんな諺だってある。熱いと思うから熱いのだ。冷たいと思うから冷たいに違いない。
ままよとヤケクソ同然で川に飛び込んだ。人間、時には思いがけない突飛なことをしてみたくなるものなのである…けれども。
「…!!」
現実というものはかくも無慈悲なもので、意気や良かれども他が伴うかどうかは別問題だ。
確実に勢いのみで飛び込んだまではよかったが、肌を刺す真水の針は次第に全身の筋肉へと標的を変え、私の全身に痙攣という症状で襲い掛かったのである。
プールに入る前には十分に準備体操をしなさい。そんな口うるさい体育教師のお小言が不意に響いた。
今更それを思い出したとて、時既に遅しである。特に脚へと襲い掛かった筋肉の痙攣―――つっているこの状態は思考すらも奪い去っていく。
脚が川底に届かない恐怖にパニックを引き起こされた私は、無我夢中で川岸へと体を流そうとするのだが、夜の川の流れはいざ早く、思うままには進む事が出来ない。
混乱で声も出ない状況、脚のつかない恐怖。ただただ私は溺れ死ぬのを恐れる子供のように、暴れることしか出来なかったのだ。
その暴れる身が不意に持ち上がった。かと思えば次の瞬間には強い力で水から引き上げられ、硬い何かに担がれる。触れたそこは温かく、人の肩のようであった。
反射的にそれにしがみつくと、一瞬戸惑いを見せたもののすぐに立ち直り、私を落とさぬように背に手が回された。
直に触れる手の温かさに、先ほどまで体を覆っていた布がなくなっていることに気付く。
けれども今はただこの動かせない足の痛みと恐怖から逃れることで精一杯で、恥じらいであるとか、状況がどうであるかなどが全く理解できなかった。
私を担ぐその人は時折何か言葉をかけながらゆっくりと川岸の方へ進んでいく。
何を言っているか、聞き取ることはできなかったが、落ち着かせるような優しい声色であったように思う。
私は、ただ離れないようにとその背を抱くようにしがみついた。
「……、」
「……っ、……あ、の」
岸で降ろされたと同時に、大きな布で包まれた。
夜の闇に溶け込むその大きな布はよく見ると外套のような形をしており、頭からすっぽりと収まる形をしている。
頭部から胸元にかけてたっぷりの布が使われており、それはドレープのように優雅な印象を与えるものであった。
とにかく全身凍るような冷たさで震える私を、助け出したその人は布の上からそっと抱き上げた。布越しに伝わる人の熱がじわり滲んでいく。
叱るわけでもなく、咎めるわけでもなく。
その人はただ私の気持ちが落ち着くまで待つ気でいてくれたのだろう。
けれども抱き寄せる腕にはどこか戸惑いのような遠慮が含まれていた。
ああ、困らせているのだと、私は目敏く見つけてしまったのだが、凍てた体に人の温度は離れがたく、ただその欲求に私は従った。
どれだけの時間そうしていただろう、凍てついた体は次第に熱を取り戻し、夜の寒さに震えだした頃。
落ち着きを取り戻した私は預けていた頭をその胸からそっと剥がし、お礼を言うべく恩人を見上げたのだが、言葉に詰まってしまったのである。
「……、あ、」
「…もう、落ち着かれましたか」
耳に届いた声は、川から引き上げられたあの時に聴こえたものと寸分変わりない、優しいものであった。
目に映ったその恩人はゆるりと弧を描く柔らかな髪を月の光に透かせ、柔和な笑顔で私を見ていた。
変わらず背を支える腕は顔に反し、しなやかながら逞しいもので恩人の性別が自分のものと異なっていることを濃く意識づける。
包まれた外套のようなそれが彼の衣服なのだろう結論に至った瞬間、私は血相を変えて彼にとびかかったのである。
「…夜とて、大胆になりすぎるのはいけませんよ。唯でさえこの季節に川に入っているなんて相当の変わり者なのですから」
「…い、いえ……違うんです、これ、貴方の服…」
「こんなに凍てた身で気にすることではありませんよ、じきに乾いて元通りのそれです。それよりも肌を、」
隠すことを優先して欲しい。
そう告げる恩人―――男の言葉に、私は咄嗟に布をかき集めた。
下着一つ身につけない姿を晒した事実も、考えてみればとんでもない失態であるのだが、
このような美丈夫の前で無様な姿を見せたかと思うと一層恥ずかしさで顔が熱くなる。
こちらの困惑を知ってか知らずか、恩人はふ、と一笑を零すと再度私を持ち上げて河原道を歩き始めた。
なんと声をかけていいものか、結局それらしいお礼の言葉も満足にかけられないまま、石を踏む男の振動に次第に瞼が重くなっていく。
冷水の中で暴れすぎたせいだろうか、それとも冷えたからだが温まったせいだろうか。
微かに残る理性は制止を訴えていたのだが、這い寄る眠気に思考は鈍り、また人に包まれる安心感はずっと欠け飢えていたものであったのだろう。
濡れた髪そのままに、私は男の胸へと頭を預けて瞳を閉じた。
「………一瞬、……かと思ったのですが」
随分と――――――、
何やら男が囁いていたが、すでに舟を漕ぎ出していた私は終ぞ、その言葉を聞き取ることは出来なかった。