やさしいひと(弁慶長編:完結)
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
19.成長
朔の様子が気になっていた。
温泉で朔が話していた龍神村に伝わる龍神伝説は直接的な関係はないものの、言葉では言い表せない力が働いているようであった。
龍神村に近づいてから白龍はどこか生き生きとした様子が見受けられ、しきりに五行の流れが順当であるという事を話していた。
紀伊路道中の怨霊の封印による成果だと思っていたが、そればかりではないらしい。
リンは朔のその横顔を見ては声をかけるのを躊躇っていた。
白龍が口にする程に龍神の力を感じるここ熊野で、それでも伴侶である黒龍の存在を感じられないでいる事が彼女の心に闇を落としているのだろう。
朔自身が語ったように、彼女の力でそれ以上事態を好転させることが出来ない事を知っているリンは、朔にかける言葉を持たなかった。
けれどもあまりに儚いその横顔を見かね、そっと触れようと思った時。
朔の異変に気付いたらしい望美が話しかけていた。
そして朔もそれに応え、事情を少し話しているようである。
望美を肯定するわけではないが、彼女には彼女にしかない強い力がある。
人を叱咤し、上を向かせる強い意志だ。
それはリンにも、朔にもない強い上向きの力である。
朔はそんな望美を受け入れていたし、望美も朔を親友だと呼んでいた。
二人の中には信頼が生じているのだ――――そして今の朔には己のように同調する人間は必要ではないとリンは判断し、そっと身を引き、望美に委ねた。
望美の励ましに徐々に元気づけられる朔の顔がどこか弁慶と重なって見えたのは、きっと幻などではなかった。
将臣は珍しく深い思考の海を泳いでいた。
深刻に悩んでいるわけではないが、どうにもとある言葉が心に引っかかって仕方がなかったのである。
耳に手を当てれば爪が鳴らすのは八葉の宝玉。知らぬ間に己の体の一部として現れた“選ばれた証”である。
それを意識する度に、低い笑いを抑えるので必死であった。
自虐とも取れるそれはとんだ皮肉にあふれていて、悪意さえ感じられるほどだ。無論、運命のである。
右前の橙の背は源九郎義経、その隣の黒い背は武蔵坊弁慶、今自分が背中を向けている男は梶原景時―――どれも名高い源氏軍の兵である。
「(俺は平氏側の人間だってのに)」
八葉だとかなんだとか。
守りたいのはそれよりも福原に残してきているあの誇り高い仲間達である。
奇妙な出で立ち、時代にそぐわぬ存在であった将臣を拾い、命を保証してくれた平氏の人間への恩の念は厚く胸を抱いている。
そう、思っているのは無論変わらない。
けれども、この源氏の人間達の中に入ると酷く居心地がよかったのも事実であった。
けれども、けれども。その源氏の動きによって平氏の中の不和が生じているのも事実なのだ。
どちらが先か―――そんな事は将臣にとってはどうでもいいことである。
ただ、大切な人を守りたい、その強い意志だけが将臣を動かしていたのである。
ちらりと視線を向ける先は、先の二人とは全く異なるシルエットをふらふら揺らしている。
武装している周囲とは全く異なる、普段使いの着物のその背はか細く、危なげながらもまっすぐ進んでいた。
慣れない山道に足を取られるのか、時折草履を根に引っ掛けている姿は酷く危なっかしい。
それを見つける度に思わず手が伸びそうになるが、それはいつも届かないままであった。
隣の、弁慶によって支えられるからである。
「(ヒヤヒヤさせんなよ。危なっかしい……本当に)」
将臣にとって遠坂リンとはしっかり見せているようで隙だらけのどうしようもない女という評価であった。
学校生活を共に過ごす中で、彼女と知り合い同じ時間を共有したのは偶然でしかなく、係の役員さえ一緒にならなければ学校生活中に声をかけることすらなかったであろう。
そのくらい、住む世界が違う人間であったのだ。
いつも何かに怯えるように、人を避け視線を避けしている姿は見ていて興味を誘うものではなく、むしろ良い印象を抱いてはいなかった。
たまたま係が一緒になると知った時も、内心毒づいたのは事実であるし、全部面倒事を体よく押し付けようと思ったくらいであった。
暗い外見。どれだけ友人たちが「あの子は髪を上げるとすごい美人だ」と言おうが、興味も湧かなかったのがその全貌である。
「(だけど、あいつは良く見ていた)」
人を。その思いを。
人の内面を見る力は出会った誰よりも優れていた。
自己評価の低さは将臣の想像通りであったが、それだけではなかったのだ。
彼女は自分を変えたいと願っていた。
けれども状況はそれを許さず、日々消耗させられる家庭での扱い、その摩擦に反発ではなく屈服を選んだのだ。
将臣はそれを責めたことがある。
普段は穏やかに凪いでいるリンの激しい一面をその時初めて見た。
将臣が平氏に組し、怨霊を操っていると知った時と同じ、激しさで。
それなのに、あの娘はその境遇も降りかかる厄災も、全てを許して受け入れていた。
跳ね除ける事よりも降りかかる方が楽なのだと、いつかリンは言っていた。
その理由は、最後まで教えてはくれなかったけれど。
『……救いたい人がいるの』
同行を提案した手を振り払った、いつかのリンの言葉が蘇る。
何より救いを求めているのは自分のくせに、それよりも先に相手を幸せにしたいと願うその自己犠牲の精神は見事だ。尊敬に値するのかもしれない。
だが将臣は思う。幸せは一方的に押し付けるものではないのだと。
「(二人じゃなきゃ得られない幸せだってあるだろ)」
―――――俺はそんな一方的な幸せなんてごめんだ。
『“いつか手を伸ばせたら”って言葉、深読みすると既に好きな人がいるって事なんじゃないのか?』
譲の言葉が頭で響く。
はっきりと己の手を拒否した姿を見ている。
リンの心を支配している人間が、自分ではないことを将臣は理解している。
それでも、その胸に溢れるリンへの想いが失われることはなかった。叶うのならば、守りたい。
その不安に揺れているばかりの瞳を溶かし、年相応の少女へ戻すことが出来るのはきっと己だけだから。
「―――――考え込んでいる顔ですね。何か気になる事でもあるのですか?」
「八葉って八人いるんだろ?あと一人みたいだが、どうなってるのかって思ったんだよ」
咄嗟に出たにしてはタイミングのよい発言だったらしい。
新熊野権現へ向かう道の途中、まさにその“最後の八葉”と出会う事になるとは、将臣自身も驚きであった。
----------
大胆不敵。
その言葉がこれ程似合う男はそうはいない。
口元がゆるり吊り上り、挑戦的な釣り目がぎらりと光る。
隠しきれない若いエネルギーに溢れるその男は、見目とは打って変わって随分としなやかに言葉を紡ぐ。
その男は左右に自由に跳ねた髪をふわりと揺らしながら、しなやかに一行に近づく。
譲の威嚇を聴き流し――――望美の手を取った。
「あんたが白龍の神子かい?評判通り、可愛いね。こんな、花も恥じらう姫君を見たのはオレも初めてだよ―――ひょっとして、月の光でできてるのかい?」
全身に悪寒が走っているのか、譲が珍妙な動きを見せている。
かつて己が経験した小気味悪いその感覚は今でも鮮明に思い出される。
譲のその背に、リンは深く同情した。
不敵な男――――ヒノエは周囲の反応など目に入っていないと言わんばかりに、望美の手を取り口説き文句を叩きこんでいる。
一体どこからそんな文句が湧いてくるのか、随分と久々の再開となるはずであるのだが、感傷的にさえなれないのは相変わらずのその姿を見たからであろう。
リンはひっそりと笑っていた。
大方口説き文句を言いつくしたのか、ヒノエと望美が落ち着いた様子で会話を交わしている。
どうやら望美は時空を戻す前に会っていたらしく、ヒノエの言葉に大きな動揺は見せない。
予想に反した望美の反応がヒノエの興味を一層引くようで、完全にこの場は二人だけの世界となっていた。
「熊野水軍の一員としてあんたたちを歓迎するよ、神子姫様」
――――どうやら、彼が今回の目的に深く絡んでいる事は分かった。
後は、望美への興味を抑えてくれるタイミングを待つ――――神子一行が無意識に一体となった瞬間であった。
京で噂の、源氏に舞い降りたという“神子”を一目見るために木の上に姿を隠していたヒノエは、熊野へ足を踏み入れる一行を見て驚く。
いつぞやの京で出会った“看板娘”が神子一行に含まれていたからであった。
まずは本命であった噂の人物、白龍の神子に近づき様子を探る。
色々と面倒なお役目とやらも付属となったようであるが、ヒノエ自身は熱心にそれを果たす気などは毛頭ない。
息を吐き出すように綴る、美しい装飾で飾った白龍の神子は噂に違わぬ度胸を持ち得ているようだ。
ヒノエの目的はいったん果たされたのである。
五条から姿を消した後の“鬼子”の噂は絶え、ヒノエ自身もその存在への興味は次第に薄れていったのだが、別の噂という形での偶然の再会という演出に笑いがこみ上げる。
しかし、ヒノエを何より愉快な気分にさせたのは、他の要因であった。
新熊野権現を通過し、本宮大社へ行くらしい一行の目を盗み見て、ヒノエはリンへ話しかけた。
「久しぶりだね―――薄幸な姿も、健在みたいで。安心する俺って悪い男かな」
「ヒノエさんもお変わりなく。……八葉だったなんて。それが何より驚きでした」
様子を探るように話しかけ返される一言にヒノエは悟る。
まず、雰囲気の違いだ。
一年ほど前に京で会った時のリンとは全く異なる雰囲気を感じ取った。
相変わらずの敬語、そして距離の線引きは変わらぬものの、その節々に“慣れ”を感じ取ったのだ。同時に違和感も感じる。
繰り返すがヒノエがリンと初めて会ったのはほんの一年前の出来事である。
その頃のリンと言えば人と視線すら十分に合わせられず、己の髪や容姿に関して随分と消極的であったものだ。
どれほど言葉で肯定しようと聞く耳持たず、困ったような笑みを浮かべていた姿が強く印象に残っているほどであった。
「(……一緒に住んでいたとかいう男に変えられたのか?)」
推測が至った瞬間に、ヒノエは笑い転がりたい気持ちでいっぱいであった。思わず吊り上る弧を隠し、平静を装う。
質問を受けた八葉に関して、適当に返答を返す中で、ヒノエは木の上で見た光景を思い出していた。
正確には二人、見知った人間が一行に混ざっていたのだ。一人は看板娘である、リン。
そしてもう一人は、己の叔父である弁慶の事だ。
「(似た者同士。……いや、本当に偶然ってやつは怖いな。それとも)」
―――――カン良すぎるのかな。
笑みの深まるヒノエに気付いたリンが不思議な顔をこちらに向けている。
はぐらかすよう言葉で飾れば、あの日と変わらない怪訝そうな表情を返される。
その反応に小気味よく笑いながら、ヒノエは一つの推測を確定へと書き換えた。
『リンの同居人とは弁慶の事で、そして二人は確実に想いを交わし合っている』そう確信したのだ。
続く柵の奥、本宮大社への移動の打ち合わせを行う黒い袈裟の背中を見つめてヒノエはくつくつと笑った。
―――面白いネタを手に入れた。と。
望美の話によるとヒノエは一行と行動を共にする気は無いようで、いくらか言葉を交わした後姿を消したとの事であった。
苦言であり呆れ声であり、と様々な声が飛び交ったが、白龍の「巡り会う」という言葉にそれぞれ言葉の矛を収めることとなった。
新熊野権現のある田辺周辺を後にし、一行は本宮大社を目指すべく東へと進路をとった。
熊野の道は変わらずけわしく、幾度も足を取られながらも一行は進んでいく。
幾度となく道中、怨霊に遭遇してはその度に円陣を組み、それを封じる。
前衛の人間、そして神子から放たれる術の閃光、奇声を上げながら姿を消していく怨霊―――その光景を見るたびにリンは顔を逸らしていた。
望美の口から語られた怨霊の成り立ち、そしてその封印の意味。
己のすべき事が見えたというのに、リンは未だ実行できずにいた。
その後ろめたさに苛まれるここ数日、一人の時間を見つけては溜息ばかり漏らしている。
度々戦闘に巻き込まれる事態に驚いたらしい将臣の疑問の言葉を遠くに聞きながら、こみ上げる不安を飲み殺す。
「(……頭を下げるだなんて)」
ぷつり、音がして唇が切れた。
舌を這わせれば口に広がる鉄の臭いに酔ってしまいそうだとリンは目頭を押さえる。
それしかきっと道はないのに、分かっているのに、どうしても心が懇願を拒否していた。
しかしそれでは何も事態が変わらないのも分かっている――――心は常に吐き出す場所を欲していた。
----------
本宮大社へまっすぐ伸びる熊野路の中ほどまで入った所で一行は思いがけない人物と出会った。
知略の勇、後白河法皇である。
この先に行きたいのだと告げると、法王とその従者は顔を曇らせ、その先への侵入を拒んだ。
通行止めとなっている以上、その言葉を破ってまで先に進む道理がない一行は、道を引き返す事となる。
山越えによる徒労もあり、一行は新熊野権現の田辺まで引き返すとその日の進行を終了する事に決めた。
急に宿泊を求めた一行の身なり、そしてその人数に宿の主は随分と驚いていたのだが、弁慶の機転により無事に宿の確保に至ったのは幸いである。
かなり遠回りとなるが勝浦を通り本宮へ向かう道程へと変更する旨を全員に伝え、一行は各自自由行動となった。
存在を主張する夏の暑さも、星空輝く時間には身を潜めて心地よい気温へと姿を変えていた。
歩きなれない熊野路にリンの疲労もピークに達していたが、それを凌駕する胸のざわつきで寝つけずにいた。
既に眠りについていた同室の朔を起こさぬように部屋を抜け出し、中庭へと出でる。
澄んだ空気は青く香り、吸い込んだ空気で胸の内を浄化するようにさえ感じられた。
「………言わなくちゃ」
「…お、何だ?気合い入れでもしてるのか?」
「有川君……」
いつまでも駄々をこねていても事態は前に進まない。
己を殺し、頭を垂れる。その決断を宣言したその瞬間であった。
風呂上りなのか、少し頬を紅潮させた将臣がリンの傍へと出で立つ。
だらりと着崩した寝間着姿がだらしなくも、将臣らしい姿だとリンは笑う。
それにつられて将臣も笑った。揺らした髪から跳ねる水がリンに飛び、そっとそれを指で拭うと、不意に真面目な顔の将臣と目が合う。
どうしたのかと問えば、将臣にしては珍しく、言葉を詰まらせながら「泣いてるのか?」と疑問を投げられた。
どうやら髪の水を涙と勘違いしているらしい。
「え?……あ、ううん、有川君の髪の水が飛んだだけ。何もないのに泣いたりしないよ」
大した会話ではなかった。少なくともリンにとっては他愛無いやり取りであった。
しかし、疑問を解消した後も将臣は黙ったままそこに立ち尽くしており、何かを悩んでいるように見えた。
深い海のような青い瞳は月影で遮られ、感情が読み取れない。
何か不快にさせるような事を言っただろうか、リンが己の発言を顧みようと思考を起動させたその時であった。
「―――一緒に行かないか、遠坂」
将臣の口から突如発せられたのは同行の申出であった。
いつかの春の日と同じ誘いであるが、決定的に違っているものがあった。
顔を上げ、月の光を吸収したその青い瞳は恐ろしいほどに真剣であり、思わずリンも後ずさりかねないほどである。
一緒に、ということは、将臣はまたこの一行からの離脱を考えているのだ。動揺する思考でなんとか探り採れたのはそんな事実確認だけで。
なぜ彼が急にこんなことを言い出したのか、その思考へ至った原因はなんであったのか―――それを読み取ることは出来なかった。
「急に、どうしたの。…また、離れていくの?」
「…ああ。俺の居場所はここじゃない。そして、できるならその時お前も一緒に連れて行きたいと思っている」
「…なぜ?」
将臣には春の日に伝えたはずであった。救いたい人がいる。
だからこそ道を共にすることは出来ないと。
あの日、彼は互いの願いの深さを確認し合い健闘を祈りあったはずだ。
その後、再会した時とて彼はここまで強引に誘うことはしなかったはずであった。
「互いの信念に共感した」からであると理解していたのだが、将臣にとっては違っていたのだろうか。
触れれば切り裂かれてしまいそうな、強すぎる眼差しを受け止める。
真意は、将臣の口から語られた。
「お前が好きだ」
思いがけない言葉に、リンの目は間開かれる。
注ぎ込む月の光の眩しさに瞼が下がってそれは遮られた。
否。悲しみに閉じられただけであった。
何が悲しいというのだろう。
リンは己の心に聞いた。
けれども返答はなく、空回る問いが空しく取り残されているようだ。
その代わりに目からは大量の涙が溢れ落ちていくばかり。
迷惑という事ではない。
このままでは将臣に変な誤解を与えかねない、とリンは涙を止めるべく気を張るが、すでにそれは意味をなさなかった。
代わりに、言葉で伝える。
「……どうして」
将臣の心を射止めた理由を聞きたいのではない。
なぜ、連れて行こうと思ったのか。であった。
互いに願いの成就を誓い、信念を語り合ったはずであった。
リンの願いを知っているにも関わらず、それを捻じ曲げてでも連れて行きたいと伝えるその酷な響きに、心が痛んで仕方がないのだ。
将臣ならば分かってくれていると思っていた――――彼に抱いていた信頼にヒビが走る。それが、何よりも痛かった。
「お前の気持ちは分かってる。だが俺はここにいるお前が幸せそうには見えない――――二度も俺の誘いを拒んでまで、お前が望んだものが、達成へ向かって進んでいるようにも見えない」
走ったヒビに深みが生じ、それは音を立てて割れた。ぐわんぐわんと視界が回る。
真夏だというのに全身に走ったのは悪寒である。全身に立った鳥肌は鎮まることなく、咄嗟に両腕を抱きしめた。
将臣は言った。
『お前の信念は理解しているが、お前はその信念を達成させる動きを見せていない。ならばここに置く必要などない』と。
故に、恋心に任せて連れて行っても問題ないのだ、と。
将臣はただ、願いを遂げられぬまま苦しむだけのリンを見たくない一心、そしてそれを助け出したい一心で伝えた言葉であった。
しかし、それはリンには正しく響かない。
「…俺は人の気持ちを上手く分かってやれないから、そこをお前に支えてもらえたらとも思う。…お前が必要なんだ」
――――いや、違うな。
将臣が耳を触る。何度か顔を背けながら、懸命に言葉を探して、そして一番はっきりとした声で告げた。
「お前を救い出してやる。お前を苦しめる運命から」
だから、俺の手を取れ。
将臣がリンとの距離を詰める。リンの震えはその位置から見ても明らかであった。
しかし、その震えの本当の意味を将臣は知らない。リンは顔を上げて、一歩、後ずさった。将臣の瞳が驚きで、開く。
「―――――い、や…」
一緒には行かない。
耳が痛いほどの沈黙が流れる中で、その天秤はかたん、と音を立て傾いた。
引かぬ熱を籠らせる瞳。諦めないと意志を新たに立ち去る将臣のその道の陰で、そっと黒い袈裟が揺れていたが、それは誰にも気づかれることはなかった。
胸に渦巻いていたのは薄暗い喜びであった。
既に同室の九郎は眠りについているようで、物音を立てぬように布団に入れば、その静けさに心が平穏を取り戻していく。
弁慶が将臣とリンとの逢瀬の場に居合わせたのはほんの偶然であった。
盗み聞きを好ましい行為ではないと知りながらも、身を偽り潜入して情報操作、収集を行う事も戦の重要な要点の一つだ。
時に非情と呼ばれる策を執行する自分が、今更汚れを恐れるだなどと滑稽である。
そんな言葉で己を肯定し、弁慶はその会話を拾う事にしたのであった。
その光景を思い出しては、弁慶は笑い声が止められない。普段の彼からは考えられぬ程に低いそれは、夜の静寂の中でも淀み、なかなか溶け入る事がない。
ぼんやりと、自分を重ねていた。
「(……平家の還内府の正体は将臣君が有力でしょうね)」
還内府。平家の怨霊として黄泉から還った、平清盛が嫡男―――小松内府平重盛のことである。
温厚誠実、武人としての才に溢れていた重盛は清盛に特に重用され、時には父、清盛に助言するまでの立場にいた勇将であった。
かつて平家の屋敷に出入りしていた頃に、弁慶はその姿を見ている。
身分の高い男故に、清盛の双六の相手をする機会にしか近づくことは許されなかったが、今思えば将臣によく似ている顔であったように思われた。
語尾が確定的でないのは、弁慶の低い視力に原因がある。至近距離でない限り、はっきりと姿を捉える事が出来ない為にどうしても己の記憶の顔に自身はなかった。
「(三草山の火計は恐らく還内府の策)」
山ノ口の囮といい、火計といい、その指揮能力には目を見張るものがある。
確かに重盛は優秀な武人であったが、どちらかと言えば血気盛んに敵陣へ乗り込んでいくような猛将であり、策を巡らせるような性分ではない。
平家の怨霊の扱い方もそうであるが、どうにも戦方針が定まっていないように感じられる。少なくとも、清盛が指揮していた時と比較すると、である。
まるで戦いを避けるかのような采配に弁慶も出方を伺っていたのだ。この世の常識と言う型に嵌め難い突飛な策に翻弄されてはならない。
「(そう、まるで未来を知っているかのような陣の配置、策)」
――――異邦人である将臣の指揮であれば?
その答えは弁慶の中で驚くほど滞りなく理解という枠に沁み込んでいく。
譲はかつてこの世界によく似た歴史を持つ世界からやってきたのだと言っていた。
将臣がもし、その歴史を把握していてそれに準える形で策を敷いているのだとしたら、神子一行から離脱する理由も、リンとの会話中の言葉の意味も筋が通る。
しかし、とんだ悲劇だ。
すでに喜劇と呼んでもいいくらいの運命の悪戯である。望美と将臣の立場を思い、弁慶は苦笑した。
いずれにせよ、彼は源氏を離脱する。将臣自身の口からの言葉だ、それは確実なのだろう。
必要以上に源氏にとって不利となる情報を持ち帰られては、今後の合戦の勝敗にも大きく関わってくるだろう。
弁慶は隣で寝息を立てる九郎を見やる。この未熟な総大将は必要以上に口が滑る面と、信頼した相手を懐に入れすぎるきらいがある。
情報提供への管理が必要になるだろう。
「……また、面倒事が増えましたね」
困ったように笑いながら、けれどもその黄金の瞳は恐ろしいまでに冷たい。
弁慶は日ノ本に平和が訪れるのならば、長年連れ添ったこの友人ですらも贄に捧げる算段をしている。無論、源氏を裏切る心持ちも、だ。
「(戦が終わるのならば、身の振り先が源氏であろうが平氏であろうが構わない)」
瞳を閉じて眠りの世界へと向かう。
瞼の裏に浮かび上がる白い髪の女は悲しげな顔をこちらに向けて、そっと涙を流していた。
泣かないで。どうか。君を平和な世界に、元の世界へ帰してあげるから。
弁慶は思考の中で、その影へと懸命に想いを伝えるが、女の影はさめざめと泣くばかりで首を振り続けている。
生き様に苦しみ喘ぐ彼女は救いを求めているのだと、弁慶はずっと考えていた。それ故に、将臣の告白はリンの心の奥底に触れたと弁慶は青ざめたのだ。
彼女が満たされてしまう。奪われてしまう。と。
しかし弁慶の予想に反し、彼女はそれを拒絶した。将臣にとっても予想外だったらしい反応を見ると、その答えはリン自身にしか分からない。
弁慶は思う。あの瑠璃からぼたぼたと零れ落ちた涙は何を含んでいたのだろう。と。出来るのならば駆け寄ってその涙をすべて拭ってやりたかった。
『――――二度も俺の誘いを拒んでまで、お前が望んだものが…』
いつだって宙を見つめて心を漂わせるだけの、儚い姿を見せていたリンが強い願いを抱いていただなどとは弁慶も初耳であった。
しかし、それよりも驚いたのは将臣もとい救いの手を拒んでいたという事実である。
春に京で彼女と二人で話をした時に感じた、苦しそうにもがく姿が思い出され―――あの日、弁慶はその姿に少しの恨み言を放った。
「(彼女は飛び立ってなどいなかった)」
彼女を一つ知れば知る程、その心の深さに囚われてしまいそうになる。
幾月か五条で生活を共にしただけの己では、何一つその心に触れられていないのだ。そんな現実が無慈悲に爪を立て、弁慶は胸を痛めた。
肝心な事を何一つ明かさず、一人で目的を果たすその姿は己の生き様とよく似ていた。
そんな所も、彼女には見透かされていたのだろう。
“私を助けても、あなたの罪は赦されない。”彼女のあの言葉は、それすらも見据えていたのだろうか。
己と彼女を重ねているだけなのだろうか。――――いいや、違う。弁慶ははっきりと首を振る。仮に、そうであっても。
「…一人では生きられないくらい寂しがり屋、でしょう……君…は」
そんな、君の――――。
言葉は最後まで綴られなかった。既に意識は夢の世界に溶け込んでおり、弁慶も九郎等しく静かな寝息を立て、眠りについた。
人を好きになる気持ちに理屈などないのだろう。
しかし、弁慶の現実的な思考はそれを感覚的に捉える事が出来ず、いつだって言葉でその距離を測ることしか出来なかった。
溢れ出て止まらないその想いこそ、真実であるというのに。己の感情を表に表さない弁慶、そしてリンにそれを教えられる人間はいない。
ただ、二人は思考の海にたゆたうばかりであったのだった。
----------
日を追うごとに増す鮮烈な日差しは新緑に深みを与え、萌える山並みが清々しい。
日中の日差しの強さとのコントラストが著しい熊野の山道は、存外涼しく、勝浦を目指す一行の背を押していた。
進めど進めど山の中。
さすがに景色にも飽いてくる若者たちは時折他愛無い世間話を交え、比較的和やかな雰囲気で足を進めているのだが、
どうにもその波に乗り切れないリンがいた。気付かれていないようだが、将臣も然りである。
望美や譲の語る、元の世界での思い出話に相槌を打つその声はどこか上の空に感じられる。
話の筋を拾っているので、突飛な応答はないものの、将臣にしては当たり障りのない返答ばかり返しているのである。
それを遠くで聞きながら、リンは瞳を伏せる。
田辺での将臣からの告白。
リンの心は酷く揺さぶられていた。
あの場では、己の信念への否定という絶望的な思考に支配されていたが、時間を置き、冷静さを取り戻した頃に胸に広がったのは将臣の好意への困惑であった。
頭に血が昇っていたあの時はその好意を拾う事が出来なかったが、恐らく将臣の本題はそれであったのだろう。
混乱する脳で、何とか拒絶したその誘いの手であったが、それはあくまで“大切な人を救いたいという願いを捨てる事”を拒絶しただけなのである。
将臣もそこはなんとなく感じ取っていたのか、立ち去る際もその瞳には釈然としない色が残っていた。
「(離脱する前にきっともう一度…今度はその件について返事を求められる……)」
その返答は決まっている。
しかし、どう伝えていいものか、リンは悩んでいた。
何かを否定するということは必ず痛みが付きまとう。将臣が、リンの姿勢を否定した時と同じように。
それを知っているからこそ、リンは将臣の好意を拒絶する事に、傷つけるという事に恐怖していたのだ。あんな悲しい想いを他人にさせてしまう。
優柔不断だと分かってはいるが、それでもやはり避けたいと願う事を止められなかったのだ。
しばらくして、リンはそっとその考えに蓋をする。結論はもう出ているのだ。
それ以上は考えても仕方がないのだろう。時節を待ち、なりゆきに委ねるしかないのだ。そう言い聞かせて見上げた森の道、その奥に眩い光が見えた。
「眩しい…っ!川?それに…す、すごい崖だね!」
「日置川です。曲流が激しいのでこの先、道の開拓があまり進んでいないのです。足元には十分注意して進みましょうね」
深い碧の川面を底に挟み込む、大自然という絶景。
弁慶の言葉まま、本来の岩の姿で形成された渓谷は険しく、安定的な足の踏み場は見当たらない。
一行はその険しさに息を飲む。譲は身を乗り出して底を覗き込んでごくりと唾を飲み込んでいた。
現代ではこんな自然の驚異を間近で見る機会は皆無に等しい。
将臣がからかいその背を押せば、譲は顔を真っ赤にして抗議していた。
どこか緊張感の薄れたのをきっかけに、一行は先への一歩を踏み出す。
「白龍、危ないから手をつないでいこうか」
「…! うん!」
望美に手を引かれ、岩を渡る白龍の足元は危なげだが、彼の内に秘める意志は神子の加護を強く望んでいた。
思いがけず口にしたその言葉に、望美が驚き、笑ったのも無理はない。
思えばここに至るまでにも随分と怨霊を鎮め、五行の力を集めたのだろうとリンは思う。
先日の龍神温泉で、白龍は言っていた。「力が、集まってきている」と。
ここ熊野は古より龍神に深く縁のある地であることも相成り、通常よりも強く力がみなぎるのだそうだ。
望美の手を引きながら、嬉しそうに微笑む白龍は神であることを忘れてしまいそうな、無垢な少年に見える。
雛が親鳥を望むように、望美にそっと寄り添う姿は微笑ましい。ここ数日の暗い気分が晴れていくような、そんな雰囲気を掬った時の事である。
「きゃああああっ!」
「神子っ!!」
異形の声。神子を名指しに響く敵意のそれは強烈な突風へと姿を変え、望美を崖底へと突き落とした。
目も開けられぬ風の壁、刹那の出来事に一同は誰一人反応できず、望美はそのまま谷底へと落下していく。
手を繋いでいた白龍も共に引きずられたらしい、一番近くにいた将臣が崖端へと身を乗り出し覗き込んだそこに広がる、薄紅と白の長い髪に、血の気が引いた。
下は深い川だから、落下の衝撃は緩和される。急ぎ、下へ。弁慶の冷静な指示が飛ぶが、一同皆、顔を青くし、何一つ言葉にする者はいなかった。
投げ出された体は宙を落ちていくのに、意識は恐ろしい程に緩慢に時を貪っているように感じられた。
ただただ、望美の全身に走る恐怖の時間が長引く。
目を開く勇気などなく、ただ落ちていく感覚に正常な判断など出来るはずもなかった。恐怖で上げた叫びを留める手段はない。
死への恐怖で分離しそうな心と肉体をそっと繋ぎとめる抱擁。
落ちていく望美の体を懸命に引き寄せ、抱きすくめる大きな存在の気配を感じた。
それは成熟した大人の男の声で、そっと囁き、慰める。
―――大丈夫だよ、神子。と。
「白龍…だね」
「……うん、そうだよ神子。力が戻ったようだ」
体が地面に叩き付けられる衝撃はなかった。
ひらりと舞い降りるように川原へ降り立った大きな存在―――白龍が望美を救ったからである。
面前に出で立つその青年は真っ白な髪に、筋肉質な肉体を惜しげなく晒して、望美を愛おしげに見つめている。
ようやく冷静さを取り戻した望美は胸を撫で下ろしながら、かつての日置川峡を思い返していた。
白龍の成長。
思えば、時空を越える前にもこの日置川峡で同じ目に遭った事を思い出す。
今回こそはと望美なりに身構えたつもりであったが、突風の勢い凄まじく、運命は同じ道を辿ってしまった。
運命を知っていても死への恐怖心は変えられない。
張り付いた恐怖を剥がすようにさすりながら、白龍へ礼を述べると、彼は少年の時と変わらない笑顔で笑った。
「これで、神子を守れる」
キラキラと輝く純粋な瞳に望美は思わず瞳をそらしてしまう。
真っ直ぐすぎる好意は恥ずかしく、幾度も交わした視線とはいえ馴染むには時間がかかりそうだ。
互いに体に外傷が無い事を確認し合っていると、八葉らが川原へとやってきた。
今にも飛び立ちそうな程に駆け寄るのは譲で、望美の姿を見つけて深いため息をついている。
そして一行はすっかり姿を変えてしまった白龍へと視線を向け、望美の説明と弁慶の推測とを聞き、また一つ、龍神に関して認識を深める出来事となったのであった。
閉じ込められた光が出口を求め、ぶつかるように内から響くその音は、喉を締め付け呼吸を掌握してはリンの脳内に希望という欠片を植え付けた。
望美による日々の怨霊の封印、すなわち五行の修正は確実に実績を積んでいたらしい。
五行の力が戻ってきたという白龍の言葉、そして成長が何よりの証拠だ。
どくんどくん。
リンの心臓がけたたましい。
いつかの席で、弁慶は一つの可能性を示唆した。
「五行の力を取り戻せば記憶も戻るということなのでしょうね」今の白龍ならば“坐”の役目を思い出したのではないか。
「(やっと、私の居場所が見つかる…!)」
リンの胸は期待で張り裂けそうなまでに、膨れ上がっていた。