やさしいひと(弁慶長編:完結)
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18.熊野
緑連なる山の向こう、真っ青に広がる空と積乱雲の爽快な風景は酷く壮大でまばゆい。
それでいて木に覆われた山道の冷暗は極端に、荷物を背負う一行の汗を絶えず冷やしている。
距離にして約四十里。通常ならば四日ほどで熊野入り出来るのだが、夏場の体力消耗への配慮、そして女人、子連れという事もあり、
一行が紀伊へ入ったのは京を経ってから六日が経過した頃であった。
この時代、個人が旅に出るというのはかなりの危険が伴う行為なのだと、道中の世間話で教えられた。
かつて東海道沿いの近江の茶屋で生活していたリンも、その知識は多少ある。
治安が良いと言い難い時代であり、一人で旅に出ようものなら道中で山賊に出くわし、身ぐるみ剥がされたり殺されたりなどがまかり通ってしまう現状である。
リンが命あるまま五条へ逃げる事が出来たことは本当に幸運だったのである。深くそれを噛み締めた。
今回の熊野詣の道中でそういった山賊の類にこそ出くわすことはなかったが、何度か怨霊の姿は見た。
その度に、前衛に三人の八葉、そして望美が刀を振り翳し怨霊を封印するのだが、何度見てもその光景に馴染む事が出来ない。
怨霊は封じねばならない。
それは間違いないのだが、一方でその怨霊の事が頭をよぎるのである。
己の親代わりであった茶屋夫妻はその怨霊になったのだ。
“人”であった者が“怨霊”になった―――――その人が持ち得ていた“精神”が怨霊に残っているのではないかとリンは考えていたからである。
一行の背を見つめながら、呟いた。
「…怨霊の中にも人の象っているのもあれば、獣のような姿のものも、無機物もある………何が違いなんでしょう」
「………思いの強さではないかと私は思う」
誰にも拾われることが無いと思ったそれに返答を返される。
声の主は敦盛であった。
伏せた瞳はそのままに、そっと身を抱き寄せる姿は夏に似合わない程に儚い雰囲気、そして浮世離れした美しさが携わっていた。
敦盛の言葉を思い返す。
彼の言う「思いの強さ」とは、リンの考えた「精神」のことではないのだろうか。
「この世に留まる意思―――思いが強ければ強い程、人に近くなる、という事ですか?」
「恐らく。私はそうだと思う」
敦盛はそれ以上会話を交わす気はないようであった。
そっと顔を横向け、あからさまと取れる程に視線を逸らしてしまった。
彼の立場、平家一族の出だという立場を思えばそれも仕方がないのかもしれないと思ったのだが、伏せられたその表情を読み解くと、どうやらそれだけではないように思われた。
勘違いかもしれないが、なんとなく、である。
リンはそこで思考を別方向へと向けた。
彼と己の推測が真実だとすれば、茶屋夫妻はまだ強い願いがあって人の形を保っているという事になる。
理不尽な殺戮の犠牲となったその無念が彼らを現世に留まらせるのか…それとも。不意に店主の最期の言葉が蘇る。
「(……私が元の世界に帰らないと…店主と女将さんの無念は晴れないということ?)」
店主は生きろと言った。そして元の世界に帰りなさい。と。
そしてその言葉を、もう一人。
「(……弁慶さんも言っていた)」
元の世界に帰る為に源氏に組しているのか、坐としての役割を知り、果たそうとしているのか、リンには判断し難かった。
帰る事が当り前だと思う一方、胸に秘めた弁慶への決意がちりちりと焦げては存在を示している。
これもリンにとっては強く叶えたいものなのだ。
しかし、無事に全ての願いを叶えたとして、元の世界に帰っても。
待ち受けているのはまたあの暗い日常だとしてもここに居場所はないのだという事を思い知らされる。
冷たく見下ろす母の目が、きらりと光った気がした。
あちらの世界に帰っても、温かい居場所はない。
そのどうしようもない未来への不安に心が揺れていたその時であった。敦盛が独り言のようにぼそりと呟く。
「……怨霊は待っている。神子の手で浄化されることを」
振り向いて再度聞き返そうにも、敦盛は既に顔を逸らしてしまい、それは叶わなかった。
敦盛は言った。“浄化”されたいと。
それはいったいどういう事なのだろうか。
白龍の神子の“怨霊を封じる”力に疑問を感じていたのは、それが怨霊の意志とは関係なくその存在を封じるというものだと考えていたからである。
元の世界に帰るためには龍神の時空を越える力が必要で。
龍神の力を取り戻すには五行、龍脈の流れを元に戻すことが必要で。
望美はそれが自分の使命だと言わんばかりに、何の苦悩も疑問もなく怨霊を封じている。
少なくともリンの目にはそう映っていた。
茶屋夫妻のように、この世への何らかの未練があって人の形をとり、留まっている怨霊がいるのだとしたら、望美のそれは残酷な手段だ。
けれど一方、留まっていてはならない魂が現世にある事が間違っているという気持ちがあるのも事実だった。
どちらもそれぞれ立場による正義が違う――――そう、思っていたのだが。
「…浄化って…………どういうこと…?」
その疑問に答えられる人間はもう背を向けてしまっている。
答えの出ない質問はただ空しく、熊野の森へと消えていくだけであった。
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「温泉か…後で行ってみようね!朔、リンちゃん!」
長い旅路もようやく目的の地へ足を踏み入れたとあって、一行の顔も随分と綻んでいた。
最初の宿泊地としたここ龍神村には龍神温泉という温泉が開かれており、龍神伝説にも縁深い土地なのだと朔が説明をしていた。
温泉と言う言葉に、リンは心躍っていた。長距離の移動も、荷物が重い事もさして苦にはならない。
それよりも耐え難かったのは野営による、入浴が出来ない日々であったのだ。
真冬でも構わず川に入る無謀をおかす程にリンの中で入浴の優先度は高い。ましてや季節は夏。
重い荷物を背負って山道を行く中、洗濯も出来なければ入浴も出来ないこのどうしようもない不快感を叫びだしたいくらいであった。
話は冒頭に戻る。
その一言に快く返事を返した朔とは異なり、リンは即答できなかった。
望美は気が付かなかったようだが、朔はその違和感に気付いたらしい、声をかけてくる。
適当な答えを返すだけの余裕はなく、言葉に詰まり、取り返しがつかなくなってしまった。
「どうして?リンちゃんは温泉嫌い?…あ、ひょっとして風呂嫌いとか?」
そんなわけがあるか!…と思わず返してしまいそうになるが、ぐっと飲み込んで笑顔を作り続ける。
何が悲しくて望美と裸の付き合いなどしなければならないのかという、どうしようもない苛立ちが沸々と湧き上がる。
それよりも汚れを落としたい欲求が強い現状だ、その問題は百歩譲って我慢も出来ただろう。しかしそれよりも大きな問題点があったのだ――――背の刀傷である。
「(絶対に聞かれる……茶屋の話と怨霊の話と………同情なんか絶対にされたくない)」
背の刃傷は広範囲に広がっており、肩から腰ほどに掛けて刻まれていると弁慶は言った。
髪である程度隠れると言っても、湯船に浸かる際は髪を上げなければならない。隠し通すことなど絶対に不可能なのだ。
腹が煮える程に嫌いな相手に同情されることほど屈辱的な事はない。
しかし、感情的な今のリンに、望美の誘いを断るだけの言い訳など到底思いつかなかった。
心を抑えて、腹をくくる。前もって覚悟しておいたならばきっと大丈夫だろう。そう自分に言い聞かせた。
「…背に、傷があってね。見苦しいと思うからなるべく見ないでいてほしいの」
望美と朔はその言葉に眉を下げながら、ゆっくりと頷く。その目は既に“同情”に満ちていた。リンは卑屈にもそう思った。
想像とは異なり手入れの行き届いた脱衣所に迎えられた。
森の奥深くにある龍神温泉は紀伊の人間の一種の娯楽のようで、近くの住人らが汗を流しに利用されているらしい。
この日は弁慶の根回しにより貸切にしてもらえたらしく、より人目に触れずに済む事が分かりリンはほっと胸を撫で下ろした。
思えば一行は源氏の重鎮や龍神伝説に関わる人間で構成されているのだ。
不用意に危険にさらされるような選択肢は避けて通るべきなのだ。
その名声に驕る事こそ無きにしも、己の立場の重要性は把握しておかなければならない。リンは胸に強く刻んだ。
ぼんやりと考え込んでいる内に、望美と朔は用意が整ったらしい。先に入っているとの声を見送って、リンもそっと衣を脱いだ。
はらりと落ちて、露わになる肩の細さに己で驚く。知らぬ内に随分と肉が落ちた。その骨ばった個所に触れれば、想像通りの感触が指に伝わる。
そこから後ろへ手を滑らせ指先に触れる、張った感触。ぴり、と神経が尖るような小気味悪い刺激に、思わず顔が歪む。
もう片方の手を腰に導けば傷の端に触れる。肩から腰にかけて大きく裂かれたそれを思い、リンは密かに瞳を閉じた。
やはり、人に見せるのは忍びない―――――けれど…けれど。
「すごい!本当にすべすべだね…!気持ちいいなあ」
「リンも早くいらっしゃい」
その声に背を向ける事も出来ず、リンは髪をまとめて露天へと向かったのであった。
雲一つない夜空は満点の星。
湯煙で霞んでしまっているが煌々と輝く星の目映さは衰えず、無邪気にその光を誇っていた。
岩肌が剥き出しの作りは粗雑にも映るが、実際近寄り見やれば角は丸く、処々に建設者の心遣いが見え隠れしていた。
背を隠すように、望美と朔と向き合う形で湯に浸かる。
爪先からじわりと包まれる湯の温度に心のささくれも失われていくようだ。
自然と顔が綻ぶ。二人がそこにいる事も忘れて、リンは満面の笑みを見せたのである。
それを見て、望美と朔は顔を合わせて喜んでいたのだが、当の本人は湯に夢中でそれに気が付くことはなかった。
「それにしても、望美達の世界の人は随分と造りがいいのね。二人とも脚が凄く長くて腰も綺麗に弧を描いているんだもの」
「やだな、朔だって十分スタイルいいよ!細いのになんていうか…出るとこ出てるよね……私は…うん」
「そんなに見ないでちょうだい、恥ずかしいわ」
外見の話題は得意ではない。互いを褒め合う二人から離れるべく、リンはそっと端へと移動する。
しかし、湯に浸かることが出来た高揚感で失念していた。細心の注意を払っていたはずの背を、向けてしまったのである。
息を飲む音が聞こえた時、己の行動に気が付いたが時は既に遅かった。背を隠すように振り返った時、既に翡翠は近くまで迫っていたのである。
痩せ細った肩に、剣ダコが当たる。引き寄せられた肩に入るその力は強く、顔がしかむが翡翠は目を逸らすことを許さなかった。
「リンちゃんその背中、どうしたの…?」
「望美…っ」
約束違反を朔が止めようと声をかけるが、望美にその声は届かない。
彼女の中の正義感に火が付いてしまったのである。
真っ直ぐすぎるその目に捕えられてしまったリンは、目を逸らすことは出来なかった。
突き刺さるような裏表のない瞳は強く鮮烈で、淀みなど欠片一つない。透き通ったその瞳にあるのは、ただひたすらにリンを心配する気持ちだけなのだ。
直に触れられるその嫌悪感すら抱かせない程に意識が根こそぎ持って行かれ、逆らう事の出来ない思考は、ただ、信号を送った。
言葉が紡がれる。
「……怨霊、に」
「あんまりだよ!女の子なのに、こんな…!」
「あの人達を悪く言わないで!」
反射的に返される非難の言葉にリン自身も触発され、気づいた時には言葉を放っていた。事態を振り返るが、放った言葉はもう戻すことは出来ない。
「あの人達って…?」望美の疑問から逃れる語句を持ち合わせていない。朔とてリンの反応を待っている節が見られた、答えないわけにはいかなかった。
「……こちらの世界に来たばかりの時に、お世話になっていた茶屋の主人達の事よ。諍いに巻き込まれて…殺された。そして」
「怨霊になったって事、だね……」
望美の言葉に素直に頷く。
言葉に出して意識をすると途端に恐怖感が湧いて出てくるのだ。背に走った悪寒がその例で。
怨霊を庇うだなんて。そんな罵倒が飛んでくると構えていたリンであったが、どれだけ待てどもその言葉は耳に届かない。
温泉の湧き出る音、そして流れ行く音だけが空間を支配していた。その支配を解き放ち、湯煙を裂いて届いた言葉に、リンは目を開く。そして、それを否定した。
「…嘘よ。あなたのそれは封印の力なんでしょう?怨霊を封じ、龍脈の流れを正すための」
望美は首を振る。
元たる理に逆らい生み出された“怨霊”を五行の力に戻し、 龍脈の流れに戻すことを“封印”と呼ぶ事は間違っていない。
しかし、彼女は言うのだ。怨霊を救うために封印するのだと。その真意は読み取れない。
「確かにそうなんだけど。でも、私は怨霊にも魂とか願いがあると思う。でも理性を失っているその状況ではそれを伝えることも出来ないんだよ」
「………黒龍の神子である私は怨霊の声を聞き、鎮める力があるわ。何度もそれを辿ったけれど、皆一様に苦しんでいたのは間違いない」
「詳しくは言えないけど――――昔、ある人から聞いたの。怨霊はこの世にあるだけで苦しいんだって。神子の封印の力で、浄化されたいんだって」
―――――浄化。言われてはっとする。それは敦盛が言った言葉であった。
彼が呟いたあの時は分からなかったが、今の望美の言葉を踏まえて整理し直す―――答えを出してしまえば、己の考えが違っていた事に気が付く。
それは、とても怖かったけれど、それでも。
「つまり…怨霊はこの世に留まる未練はある。けれども理性を失っていて、意志とは無関係に力を奮わされている、ということ?」
「―――そう。そして微かに残る人だったころの意識の欠片…それが罪の意識へと繋がって、苦しんでいるの」
「それを五行に戻し、龍脈に戻す―――きっと浄化って、そういうことなんだよ。怨霊も…つらいんだよ」
「………」
ならば。――――ならば。
どくどくと心臓が鳴り響く。気のせいだと耳をそらしてみたが、もうそれはかき消すことが出来ないほどに大きな鼓動へと成長してしまっていた。
リンは思っていた。茶屋夫妻がこの世に怨霊として、それも人型の怨霊として留まったのは、強い意志あってこそなのだろうと。
生きろという願いを託し、それを見張るための戒めとして留まったのだろうと。
しかし、今の望美や朔の話が真実であるとするのならば――――――茶屋夫妻は苦しんでいるのだ。
人ならざる身で現世に留められ、己の意志とは無関係に人を襲う事を。
そしてそれを解放出来るのは封印の力を持つ、白龍の神子ただ一人。リンの力で、救う事は出来ないという答えだった。
茶屋夫妻を怨霊という名の苦しみから解き放つには、ただ一つ。
頭を垂れて、白龍の神子へ願い出るしかない。それは、今のリンにとってはあまりにも酷な選択肢でしかなかった。
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普段、それぞれ背負う役割を果たすため過ごす三人には、一人の少女として得られる時間は少ない。
常に八葉、立場や年齢の違う異性が傍にいる状況ではなかなか等身大の自分で立ち居振る舞う事が出来ずにいるのである。
それ故であろうか、朔にはいつもよりも饒舌な様子が見られ、望美もそれに揚々と応えている。
湯面を揺らし語るのは恋愛の話である。この時ばかりは朔自身にも年相応の少女の顔が垣間見えた。リンは離れたところでそれを見送っていた。
「望美は気になる人はいないの?」
不意に、朔が望美に尋ねる。
盗み聞きするつもりはなく、また自身にその話題が向けられるのも避けたかったリンは、湯から上がろうと膝を立てた。
しかしそれは望美の回答で固まることとなる。てっきり、笑い飛ばすか、恥ずかしがって否定するかだと予測していたリンは面食らう。
そして、心臓を掴まれたような思いがした。
「……弁慶さんが気になるかなって―――――でも、相手にしてもらえなさそうだけれど」
まばたきを忘れ固まる瞳に湯気が触れる。進むことも引くことも出来なくなってしまった体は小刻みに震え、岩肌へ雫を飛ばした。
思わず両腕に手をまわして引き寄せるが、けたたましく鳴る心臓も、脈も、鎮まる様子はない。痛みを増すばかりの心臓が、不意に春の夜のシーンを見せつける。
夜陰の本陣、篝火が赤く照らす陣の中で添う二人の後ろ姿。そこに在ったそれぞれの願い、追い求める気持ちの交差。
ありありと思い浮かぶあの光景、そしてリンの中で感じた思いの動きが真実となろうとしていた。
リンが弁慶に必要だと考える“太陽のような人”は――――望美ではないのか。そのどうしようもない理屈と感情との摩擦が胸を焼いているのだ。
黒煙を上げて苦しむ胸とは引き換えに、冷静さに凍る脳ははっきりと告げる。『相思相愛になりうる』と。
不意に目に泉が湧く気配を感じ、リンは湯を顔に浴びた。薬湯は目に染みたが、言い訳になるだろう。泣いてなど、いないのだから。
「リンちゃんは誰か気になる人いないの?」
泣きっ面に蜂とは、こういう状況なのかもしれない。リンは不意に他人事のように思った。
この世で誰よりも憎い女に頭を垂れなければならない未来があって、それは一番愛する人に必要とされる可能性を秘めていて―――その上で、私に気持ちを吐露しろと強請るのか。
無論、望美は何一つ知らない。
これは全てリンの勝手な思いで、そして逆恨みにも等しい。
それでも、泣きだしたい気持ちでいっぱいであったのだ。
「(あなたは全てを奪っていく――――何も知らない、無邪気な笑顔で)」
私のプライドも、私の希望も、私の夢も。
朔がリンの表情から悟り、そっと望美を止めようと身を乗り出すが、リンはそれを視線で制した。
元より、望美に対し腹を割ろうだなどとは考えていない。いくらでも言葉も気持ちも取り繕う事が出来る。ごくりとリンは、全てを飲み込み、放った。
「私は―――――…」
「――――淋しいな。そんな風に思われていたとは心外です」
竹の敷居で遮られた湯の反対側、男湯に届いた望美と朔の会話にそっと応えるのは弁慶である。
弁慶自身、望美の口から己の名が出てきたことは本当に心外であった。
思わずその言葉が出るまでに時間を要したのは別の事で思考が支配されていたからであるが、周囲はそれに気づいてはいないらしい。
望美の答えに振り回され、感情と同様に揺れる譲の幼さを愛でながら、そっと思考を元の場所へと戻した。
「(やはり、己を責めていたのですね)」
リンの事である。背を深く裂かれたあの華奢な背を思い起こせば、未だにぶるりと体が震える。
傷自体は見慣れているのもあり、さした動揺などないはずだが、それが愛しい娘だと思えば話は別である。
あの当時の彼女の瞳は命を救われた感謝と、迷惑をかけているという不安に満ちていた。
時々、親代わりを思い出しては恐怖と絶望の闇に囚われている日もあったが、それでも優しく労わるように包み込んでやれば、戸惑いながらも順応にそれに馴染んでいたはずである。
彼女が恨むべきは怨霊を作り出し操る平家であり――――その根本を生み出した弁慶であるはずである。
しかし、何も知らぬリンは「あの時、己に力があれば止める事が出来た」と責めているのだろう。どこまでも哀れで愚かな娘だと思う。
「あの人達を悪く言わないで!」彼女にしては声を荒げたそこに、全てが詰まっているのだろう。
―――――弁慶はそう考えたのだが、彼は己の推測が間違っていることに気が付いてはいなかった。
なぜならば、リンが弁慶の過去を知らぬのと同じく、弁慶もリンの望美への憎悪を知らぬのだから。
男湯に静寂が戻った時、もう一度そこが沸き立つ話題が振られた。望美が、リンへ同じ質問を投げかけたのである。
これには思わず弁慶も己の思考を止めて、その答えに聞き入った。
周囲の男達は望美の時ほどは興味を示さないのか、参考程度に耳を傾けている程度のように見受けられたが、それでも恋話が気になるのは男も女も同等なのであろう。
湯に浸かる誰もが言葉を発しなかった。静寂に包まれるそこに、リンの声が届く。
「私は…今は、自分の役目を果たしたい。…でも………いつか手を伸ばせたら、と思う」
「ぷっ……本当、遠坂らしい答えだな」
間入れずにそれに応えたのは将臣であった。
熊野へ向かう道中、どこからか現れた男は持ち前の魅力で、途中参加の隔たりも感じさせずに輪に溶け込んでいる。
湯を揺らしながらからから笑うその様子に心が波立てられる。無論、顔に出すような弁慶ではないのだが。
この男の“知っている”様子が癇に障るのかもしれない、と弁慶は分析する。そしてその答えは自分を酷く醜く映した。
これでは譲を笑えない。
前にも思ったのだが、彼女の過去を知ろうとしなかったのは何より己で、それでいいと選択したのも弁慶自身なのだ。
それでも。理屈ではそうであるとは分かってはいるのだが。どうにも面白くないのだ。
「そういえば兄さんって遠坂先輩と仲良かったのか?」
「ああ、役員が一緒だったんだよ。最初はとっつきにくい暗い女だって思ってたんだけど、ちゃんと会話が出来る奴で、まあ面白い奴なんだよ」
将臣がリンとの思い出を語る。
時折思い出しているのか、言葉に詰まる個所も見られたが途切れることなく語られるその記憶に弁慶の心は暗さを募らせていく。
将臣から語られる思い出はどれも生き生きとしたリンの姿である。
年相応の娘が感情を露わに話している姿が、言葉からありありと伝わってくるのだ。
一方どうであろう、自分の記憶の中のリンは。弁慶は思い返す。
いつだって不安気に瞳を揺らせて、内に秘める想いをひっそりと燃やすばかりの蕾のような姿であった。
少し揺らせば泣いてしまうような儚さはうつくしく、けれども微笑む顔など見た記憶もない。
本当に同一人物なのだろうか。そう疑ってしまいそうになる程に。
如何ともし難い葛藤が弁慶の中で渦を巻き始めた頃、譲が思い出したかのように声を上げる。リンの家族の話であった。
「そういえば……随分昔の事ですが、遠坂先輩のお母様が俺の祖母を尋ねてきた事がありました。何度かいらしていたので…記憶にあるんですが」
「譲の御祖母とは確か…星の一族の姫君であったか?」
九郎の問いに譲が頷く。
譲の話では何度か有川家にリンの母親が出入りしていたとの事であった。
譲の祖母が星の一族であるという事、そしてリン自身が龍神に喚ばれた人間であるという事を踏まえれば、何らかの因果があっても不思議ではない。
しかしリン自身、己の使命を知らぬようで、未だ彼女の呼称“坐”とは何であるのかが明らかとなっていない。
謎は深まる一方で、男湯もそれに応じて沈黙が続く。見かねた将臣が茶々を入れるが、一行の表情は明るくならない。
不意に今まで黙っていた景時が発する。
「そういえばさ、嵐山に行った時の事。譲君、覚えてるかな。譲君が星の一族の関係者と話している時、リンちゃんって一緒にいなかったよね」
「ええ。あまり一緒にいる事を好まないそうで、屋敷の外で待っていたはずですが」
「…その後俺達と合流した時、リンちゃん、誰か別の人と会ってた感じじゃなかった?」
瞬時に、不信感のような不穏な空気が流れ始め、弁慶は思わず言葉を探した。無論、リンをかばう言葉である。
彼女は自分の境遇や気持ちを周囲に伝えるような性格ではない。
弁慶こそ、そういった無益な不信感を被らぬように言葉で補足できるが、彼女はその機会とて少ない不利な状況なのである。
初めて出会った時の、あの望美への攻撃性の真意を知らない以上、この不信感に満ちる場を覆すだけの肯定的な言葉が他の人間から出るとは思えない。
そう、判断した弁慶は口開いたのだが、それは儚くも一瞬でかき消され、場の空気が浚われる。まるで、熱風が通ったかのように。
「あいつはそんな怪しいやつじゃないぜ。なんか言えない事情でもあんだろ」
一閃の煌めき。将臣が言ったその言葉は空気を裂き、瞬間に場の悪しき煙を一掃してしまった。
たった、それだけの、何も根拠のない一言で。
これほどまでに人の注目を集め、導く人間を弁慶は知らない。
将臣のその言葉を受けても、九郎は少し信頼しかねる部分を感じているようであったが、その内にも何か思う所はあったらしい。
しばらくすると自己解決したのか、将臣の言葉を肯定していた。
こうして場の人間を掌握し、同じ方向へ導く指導力は弁慶には酷く眩く映る。自分には九郎にそれを見出したが、まだ彼は将臣程の強さがない。
「(八葉としてもう少し行動を共にしてくれたら…言う事なしなんですがね)」
弁慶はひとつ、溜息を吐き出し、思考を完結させた。すると、すぐさまその空きへ流れ込んできたのは、己の気持ちである。
――――では、僕は? 自問に、唇が、震えた。
薄らと開けられたそこから、言葉は紡がれることはなかった。
言いたかった事は、全て将臣の熱風でかき消されたからである。
九郎であれば己の存在場所が必要となる。九郎には将臣程の掌握力がないからだ――――そこまで考えて、弁慶は首を振る。
「(――――違う、論点をずらしてはいけない)」
――――では、僕は? 答えは一つだった。
「(僕では庇いきれなかったかもしれない)」
己と向き合う事の恐ろしさを知っている。言葉により正確性を、根拠を、求めれば求める程自分の首が締まっていく。
様々な知識、心理を総合させて語るこの口の言葉はいつだって「誰か論」なのだ。弁慶自身の心の言葉ではない。
たった一言、心の底から言いたかったのはきっと
「彼女はそんな怪しい人ではありませんよ。優しい人なので、色々と考えてしまって、言えない事情があるのでしょう」
こんな、言葉であっただろうに。
「“いつか手を伸ばせたら”って言葉、深読みすると既に好きな人がいるって事なんじゃないのか?」
譲の言葉が男湯に響く。いつもならば将臣が笑い飛ばしそうなその問いに、返ったのは沈黙と言う返答で。
普段の弁慶ならば気が付くことが出来たであろう、その些細な異変も、今の彼には拾う事が出来ない。
「…い~いお湯だよね。でも、そろそろ皆上がらないとのぼせちゃうんじゃないかな?」
景時のフォローに譲が頷く。
ぞろぞろと脱衣所へ向かう八葉を見やりながら、弁慶はそっと温泉の敷居へ視線を向けた。
「(………君が手を伸ばしたい相手は……僕ではないのでしょうね)」
女々しい言葉に、弁慶は心内で舌を打つ。
そっと、仮面を拾って貼り付ければ、唇は緩やかに弧を描き穏やかな笑みが完成する。
心に貼り付けるのは“贖罪”の二文字だ。己の生きる意味を忘れてはならないと、強く言い聞かせる。
応龍の損失に巻き込まれ、この世界に連れてこられた哀れな娘。
その運命の根源に己がいる―――彼女を元の世界へ帰してやることが、弁慶のリンへの償いだ。
「出会うはずのなかった君を」
想う事は許されない。