やさしいひと(弁慶長編:完結)
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17.痛快
火傷による負傷兵を見越して構えていた馬瀬の医僧らは、源氏軍の帰還に肩透かしを食らう事となる。
大将帰還との伝令を聞くや否や、蓮華草を抱え、担架隊を引き連れ出迎える。リンの顔は真っ青であった。
しかし、一行を見やっても火傷らしい傷を負った人間はおらず、一般兵らにも担架で運ばれるような負傷兵はいない。
混乱するリンに伝えられたのは「神子が雨を降らせて火をお鎮めになった」その一言であった。
呆けてしまった脳では気の利いた言葉は浮かばず「あ、そうですか…」の言葉と共に持っていた蓮華草は地へと落ちて行った。
「それよりリンちゃん、この人を…!」
譲と望美が前に出る。屈んだその背には意識を失い、ぐったりとした青年が乗っていた。
紫の奇抜な髪色、瞳は閉じられているが隠しきれない気品は上等で纏う衣を見ても一級品であるのは明らかだ。
貴族であるとか、そういった身分の人間なのかもしれない、リンはすぐさま担架隊へ青年を陣の奥へと運ぶよう要請した。
しかし、それを止めるのは九郎だ。
彼の立場を思えば、見ず知らずの人間を懐に入れるなど了承しかねるのは大いに納得がいく。
人道的な思いとで揺らぐリンを後押ししたのは望美で。
そして、言い争いを始める二人を尻目に、指示を下したのは弁慶である。
「今の内に行ってください」
結論の出ない二人が気になりながら、リンは担架隊と共に青年を陣へと運び入れたのであった。
シーツに横たえたその人物は深く意識を閉ざしているようで、担架が揺らしても瞼ひとつ動く事はなかった。
月の光に照らされて輝く肌は白く、結い上げられた髪は手入れの行き届いた流線を描いている。
脈は正常、ざっと見たところ大きな外傷も見られないとの医僧の言葉にほっと胸を撫で下ろす。
どうすればいいのか尋ねれば、医僧らは何もすることはないとの返答を返した。
彼がどういう立場の人間であるか分からない以上、目を離す事は躊躇われる。
九郎と望美の議論の結論も聞かぬまま、勝手な判断を致しかねるのは事実だ。自分はあくまで手伝いであり医師ではない。
『医療の現場に敵味方関係ない』と言えるだけの立場ではないのだから。
それよりも気になったのは、彼の、
「具合はどうですか、リンさん」
「…あ、はい。医僧の皆さんが言うには、気を失っているだけとのことです」
思考が遮られる。
幕を上げ顔を出したのは弁慶であった。
僧達に教えられた診断を伝えると、彼は小さく返事を返し青年の前へと出で立つ。
弁慶の話を聞く限り、あの青年の処遇を巡り相当の対立があったらしい。
九郎の懸念はリンの予想通り、軍紀の乱れ、間者のリスク。その二点であった。
望美の方は言わずもがな、人道的に放っておけないという点である。
どちらも秤にかける事叶わず、どちらも必要でどちらも正しい判断材料だ。リンは思った。
結局のところ弁慶がこっそり奥に通した事により、望美の要求が通る形となったのだが、九郎の方はもちろん納得しているわけではない。
暫くは理不尽な叱責を受けるかもしれない、との弁慶の言葉に頷く。
その反応を受け取った後、弁慶は再度、青年の様子の確認を始めた。
頭部から足の先、辿る左の手のひら―――弁慶の視線がそこに至った時、リンは問うた。
手のひらのそれは、八葉の証ですよね。と。
弁慶はにこりと笑って肯定した。「ええ、天の玄武の役割を担っているようです」と。
「……みんな、神子に集うのですね」
「リンさん」
出かかった恨めしい言葉を慌てて隠す。京邸にいた頃もそうであったが、八葉や白龍は望美をやたらと褒め上げる姿を見せていた。
それが正当な評価であれば特別何とも思わなかったのだろうが、あまりにも過剰だと思われる称賛がどうしても癪に障るというか、なんというか。
「(……ただの僻みじゃない……醜い…)」
白龍は永い永い時を一人、時空の狭間で神子を待ち続けたのだという。気が遠くなるような孤独を抱え、たった一人をずっと、ずっと。
その想いを量ると胸が苦しくてたまらない。
春を待ち続けるその背はか細く、名を呼び続けていた白龍を疎ましく思うだなどと、私は――――
「リンさん」
「……っあ、」
巡る自責を塞き止めたのは弁慶の手であった。そっとそれは左頬に添えられ、自然と視線が重なる。
篝火に照らされる黄金のそれに滲むのは蔑みの色ではない。
ゆるりと細められた瞳は酷く優しく、頑なな蕾が花開くようなそんな気配さえ感じる程に。
「僕の教えたこと、覚えていてくれたんですね」
薬学の事であった。
五条で共に過ごす間、弁慶の手伝いをしている内にいくらか身についた薬草の知識。
馬背に残されたその時は不安に揺れたものだが、実際に携わってみればある程度の戦力となれたことが嬉しかった。
甘い言葉と優しい雰囲気――――何よりも愛おしい人との距離に沈んだ心が蕩けて形を無くしていくようだ。
己の手を重ねようと左手を上げて――――――夢が覚めた。
手のひらは空気を握りしめ、乾いた肉が軋むように、鈍い音が指に響いた。
顔を隠すように、そして彼の胸を強く押す。息を飲む音、離れた手のひら。はらりと白い髪は肩から零れて、横たわる青年へと掛かった。
「……弁慶さんの教え方が上手かった、ので」
手を重ねる刹那、目の端に光ったのは――――宝玉だった。
神子を守る使命を与えられた、八葉の証。
垣間見た瞬間リンの決意は鮮やかに蘇った。同時に激しく責め立てる。
決意を忘れるな、信念を曲げるな、と。
『忘れるな、お前の望みを。お前を立ち上がらせているその“存在意義”を』リンは心中で繰り返す。
言い聞かせるように、何度も、何度だって。
震える手は弁慶の胸から離れても止まる事はない。
隠すように胸に引き寄せ、抱きしめた。
折り重なる殻を柔く抱き寄せ、その奥に流し込むその名を――――そっと手放す。
もう、追うことなど出来ないように。
「………戯れが過ぎます」
「僕は、」
遠ざかる彼の姿が名残惜しい。
弁慶の言葉を遮るように、遠くから足音が響く。それに弾かれるように身を正し、迎えられたのは白龍の神子だ。
寸前まで九郎とでも言い争ったのか、その目にはやや疲労と高揚が伺える。
「弁慶さん、リンちゃん…敦盛さんの様子は?」
「おや………望美さんは彼の正体を知っていたのですか」
「…は、い。その」
「神子はそんなことまでお見通しなんですね。素晴らしいです」
望美は過去を知っている。
時折失態を見せる瞬間に居合わせる度に、リンは冷ややかな思いでそれを眺めていた。
しかし今はそれより気になるのは、先程までの雰囲気など微塵も感じさせない弁慶の完璧な切り替えに、積もる胸の鉛の香りだ。
それらに背を向けリンは二人を見ていた。ただ、見ていただけであった。しかし、妙な違和感を感じ顔をしかめる。
リンに気付かず二人は敦盛という八葉を囲んで看病を続けている。
その様子におかしなところはない。そのはずだが、
「………?」
胸の暗雲は晴れず、深い霧に手を透かしても何も掴むこともできない。
不快感から逃れるように、リンはその場から離れることを決め、幕の向こうへと立ち去っていった。
人気のない区分まで来て、心を透かすがやはり胸のそれは消えることがないのである。これは一体なんなのだろう。
先程見た弁慶と望美の並んだ姿を思い浮かべた。救いを求め心の枯渇の潤いを望む男と、時空を歪めてまでも願いへと突き進む女と。
救いを求める手、救いを差し出す手。
いつか大原の地で思った。望美はなぜ時空を戻してまで歴史を繰り返すのだろうと。
朔の深い黒龍への愛の話に、共感するように深く頷き、遠い目をしていた望美の顔から生み出した疑問は、
“胸に秘めた相手がいるという事?”
「……まさか……………いいえ、まさか」
誰より愛しい人と、誰より憎い人と、両極端の感情を振り分ける二人を見て何を思うか。
―――――かみ合う双方の精神の突起と窪みと。渦巻く思考はたった四文字を作り上げ、認識させる。
それは鉛を砕いて暗雲を払い去った。快晴突き抜ける空の高さはいざ痛快――――泣きたい気持ちでいっぱいだった。
「……どうして―――――よりにもよって……っ」
『彼は、待っている存在だからだ。強く鮮烈な、太陽のような存在を』
「どうして……っ!!」
―――――二人を見て“お似合い”だなんて。
どちらかが手を伸ばしたなら――――――彼の望みは、きっと結ばれてしまう。
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割れてしまった心をどう直せばいいのか、リンは皆目見当などつかなかった。
結局あの後、弁慶と望美のいる区画に戻ることは出来ず、そのまま適当な理由をつけて別の負傷兵の処置へと移り、機械的にそれをこなしていく。
リンの心根に微かに残っていた配慮という名の理念が、彼女をひたすら笑顔に作り変え、普段と変わらぬ姿でてきぱきと処置をこなしていた。
蓮華草を絞り出した薬液を布きれに浸し、患部に張り付ける。
火傷口に沁みるのか、顔をしかめる負傷兵を不安にさせぬようにゆるりと微笑み、優しく声をかける。
大丈夫ですよ、とか、痛いですよね、頑張って下さいとか。
心を伴わない上辺の言葉が滑る。
それでも兵達は気をしかと持ち、耐えてくれるのだ。
そこに“リン”という人間の心など必要ない。今必要なのは、医僧、僧侶としての“リン”であるのだから。
付き合いの浅い彼らは気付かない。使命と責任感で押さえつけ、隠してしまったリンの心の涙を。悲しみに淀む、その瑠璃の暗さを。
「…あっ」
「……どうしました?」
不意に同僚が身をかがめて足早に立ち去ろうと踵を返す。どうしたのかと呼び止めると、言いにくそうに顔を逸らしながら「月のものが」と答えた。
立ち去るその背をリンは呆然と見届ける―――否、映していた、が正しい。
もともと自分の事には無頓着で、体調管理であるとか着飾ることであるとか、必要最低限すら気にしない極端な一面がある。
カレンダーを追い、月経を記録するなどの細やかな性格ではない。だから、気が付かなかったのかもしれない。
この世界に来てから、ただの一度も月経を迎えていないという事を。
戦は立ち止まることを知らない。
リンの葛藤など置き去りに時は刻一刻と形を変え姿を変え、流れ去って行ってしまう。
ようやく周囲を見渡す余裕が生まれた時には、三草山での戦いは終わりを迎えており、源氏一行は新たに迎えた“天の玄武”を司る八葉、平敦盛を仲間に加え次の目的地へと歩を進めていた。
次の目的地とは―――――熊野。
何用でと譲に問えば、熊野水軍の協力要請のための参詣だと返答が返された。
福原と熊野とは、兵庫県と三重県の南部を差す。文字通りの長旅になるということで、源氏軍は一旦京へと引き返し旅の準備を整えた後、熊野へ向かう事となった。
譲の話によると、熊野へ向かうのは九郎以下八葉と神子、白龍、そしてリンの九名になるとのことである。
熊野への道は険しく、怨霊に襲われる危険が十分に考えられた。
戦力とならないリンを連れ行くか否かを迷ったが、白龍に喚ばれたという点を考慮すると離れる事は良策と思えないという弁慶の言葉により、同行が決定したとの事であった。
一行が熊野への旅の手筈を整える中。その喧騒を遠くに聞きながら、リンはそっと部屋に閉じこもる日々を送っていた。
必要以上に人に会いたくなかったのだ。
「…………」
部屋の奥、壁に背を預けそっとその先を見つめるだけの時間が無限に続くその部屋は、私物すらも見当たらない殺風景な部屋である。
幾重の御簾に遮られたそこは陽の光さえ満足に入らず、下げた瞼の、瞳にかかる睫があれば闇が見える程である。
けれど今のリンにはちょうどよかった。
何も視界に入れたくはない。
けれど、暗闇の中でぼんやりと思う。
――――なぜ、動けないのか、と。
瞬きの回数が減り、視線が一か所に集まる。
時が止まってしまったかのように、心も、感情も、全てが凪いでいた。表情が抜け落ちる。
どうしてこうなってしまったのだろう、そんな疑問は沸き起こってもそれ以上を考える事が出来ないのだ。
辛うじて手を伸ばし答えを模索できても、その手は気付けばすとんと床に落ちて転がっている有様だ。
ぱたぱた、ぱたぱたと部屋の横を走り去る誰かの気配を感じても、そのまま見送り、また訪れる静寂。
どうせ、用意するものなど何もないのだ――――リンは眠ってしまおうと、瞳を閉じる。また、遠くから聞こえてくるのは足音だ。
そっと見送るつもりで耳を澄ましたそれは、リンの部屋の前でぴたりと止まる。控えめな合図のあと、そっと開かれたその襖の向こうにいたのは朔だった。
手には小さな盆と、湯気を立てる湯呑が二つ―――小さな唐菓子を載せて部屋へと踏み込んだ。
「大体の準備は整ったわ。少し休憩にしようと思って。入ってもいいかしら」
「あ、ご、ごめんなさい手伝いもせずに…」
「いいのよそのままで。お茶菓子を持ってきたから一緒に休憩しましょう」
身を起こすリンの前に、お茶が差し出される。添えられた唐菓子は見たことのないもので、リンは無意識にそれを尋ねていた。
その反応に気をよくしたらしい朔は少し緊張を解いた表情で、もらいものだと説明をする。
一粒口に運べば、簡素ながら懐かしい米粉の味が口に広がった。
「……何かあった?」
唐菓子へ伸びる手がぴたりと止まる。質問の意図を汲もうと心が立ち上がるのだが、固まってしまっている思考は動かず沈黙だけが流れていく。
ああ、朔さんに気を遣わせてしまっている―――――そう、どこかで思うのだが心と思考とは裏腹で、何も考える事が出来ない。
耳が痛む空気に喘ぎだした頃の事だ。息を吸う音が聞こえた。自分のものではない。朔の、それだ。
「……リン、少し聞いてくれるかしら」
「……?」
返事の代わりに顔を上げ、瞳を合わせた。彼女の枯茶は瞼で陰り、悲しげに眉が寄せられている。
リンの返事を確認して朔はもう一度息を吸い、ゆっくりと語り始めた。揺れるその言葉は全ていつか大原で語った、愛の言葉である。
朔から語られる伴侶への愛、深く重なる心の繋がり、そして消えてしまったその存在。
量りきれないその想い、そしてその誠を守る為に尼僧になったとの言葉に、リンは知らず涙を流していた。止まらなかった。
「…ばかね。どうしてあなたが泣くのよ」
「…ごめ………っ………」
世俗を捨ててまで想いを守ろうとした朔の、その一途な誠に涙が止まらない。
今にも折れてしまいそうな心を何とか震わせて、それでも愛を誓う背のか細さを抱きしめる手が、近くに無い事が何より悲しい。
こんなにも朔は、黒龍を愛している。その全てを懸けて。
それなのに届かないその想いの先は、どこへやればいいのだろう―――――リンには、何も言葉はなかった。
「…ありがとう、泣いてくれて。………あなたが初めてよ」
「尼僧になったのは……それが、原因……だった……」
「―――――ええ。忘れたくなかったの。他の、誰も、入れたくなかったの……時が経てば忘れられるのだとしても…あの人を、黒龍を忘れるなんて……」
知らず、リンは朔を抱きしめていた。朔が戸惑う様子が伝わるが、掻き抱くようにしがみつく。
何も言葉に出来なかった。
朔は悲しみを封じ、それでも前に進んでいたのだ。リンが願ったように、前に。
今はまだ幸せが見つからないかもしれないけれど、歩んでいれば、きっと、いつかそれは報われる。
強く抱くその手にリンは願った。
「…幸せにならなきゃ……だめだよ………今はまだ見えなくても…絶対に、絶対に……っ……幸せになる事を、諦めたりしないで…っ」
「………ありがとう、リン」
言葉にしながら、いつか、ヒノエに言われた事を思い返す。
『幸せにならなくてはいけない』あの言葉に込められた意味とは何であったのだろうか。
ただ、今は朔を抱きしめたい。それだけが願いであった。
目を真っ赤に腫らし、もう一度距離を置いて向き合えば、朔はそんなリンを見て可笑しそうに笑った。
随分と心の距離は縮まったらしい。
朔の方が年齢は下だというのに、随分と大人びて見えるその姿は、やはり悲しみを乗り越えようと奮い生きているからなのだろう。
新月のようにひっそりと、偲ぶ姿が重なった。
朔は、泣きじゃくるリンをそっと諭しながらも否定することなく受け入れた。ありがとう、と言えるのは朔の優しさで。
故に、同じように悩み苦しむリンに気付き、放っておけなかったのであろう。落ち着いた頃、再度尋ねた。
「三草山から戻るくらいからずっと様子がおかしかったから……いいえ、無理に言いたくないならいいのよ」
「そんな………そんなことは……」
隠していたつもりであったが、朔にはお見通しであったらしい。
じわじわと記憶が三草山の陣へと戻されていく。
上がる火の粉、燃える篝火、白い幕をゆらゆら揺らし映し出すのは鮮やかな濃桃の背と、漆黒の袈裟。
陰と陽を体現しているような男と女のその背は寄り添い、互いの不足を埋め合うように、沁みこんでいく。
ああ、そこに私の居場所はなかったのだ。
私では彼を救う事は出来なくて、彼を救うことが出来るのは彼女だけで、彼が望む“太陽”は既にこの地に降り立っていて。
それはやっぱり、私ではなくて。
一度溶かしてしまった心は次々と痛みの描写を始める。
繰り返すのは何度だって同じ光景で、抱いた決意で。口では何度も誓いながらも、何度だって揺さぶり、悩み、一人で踊っているのだ。
「……大切な人が、大切なたった一人を見つけたの。私ではない、別の人を」
「……それは、失恋をしたという事?」
「少し違うの……その人はずっと何かに苛まれていて、助けてくれる一人を探していたの。…私に手を伸ばした時もあった」
その手を自ら振り払ったのは私であった。肌寒い秋の月の下、驚きと悲しみとに彩られたかの黄金の色を忘れられない。
抉って、二度と間違わないようにと突き放したはずであった。
そんな綺麗ごとを並べながら、救いたいだなどと言ってみたところで、この様なのである。まるで、これでは。
「……自分で振り払ったの。あの人が間違ってしまいそうだったから」
「…リン」
「なのに……そう決めたのに……どうして、こんなに……っ こんなんじゃ私、何も…っ」
成し遂げられない。
前髪を乱して顔を隠す。こんな風に追い込まれた姿を見せたくなかった。
一度蓋を開ければ溢れだしてしまう悲しみや、勝手な言い分は止め処ない程流れ出て止まらない。
自分を責める事で何とか食い止めようと奮うが、その女々しさに拍車がかかるだけで何の役にも立たない。
朔は何も言わなかった。肯定することも、責める事もなく、ただそこに在って、変わらない事を示し続けていた。
苦しんでいる限り、心は凍っていない。…私のように。朔が寂しそうに呟くのを聞き逃すことはなかった。
「……希望をどうか、捨てないでいて」
最後にぽつりとつぶやいた朔の声は、今にも泣きだしそうに震えていた。
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一行が熊野への準備を整え終えたのは、空が泣き止み、緑萌える初夏の頃であった。
吹き込む風は立つ気配を運び込み、迫ってくるのは夏の足音。
照る太陽が徐々に強さを増していくこの季節、澄んだ空の元、一行は京邸へと集っていた。
六条堀川より九郎、弁慶が駆けつけ、運ばれた荷物は居間に集められている。
長旅となる今回の熊野参詣の主な目的は熊野水軍の助力を得る事であった。
その最終打ち合わせを兼ね、出発前の壮行会さながら、食事を交わそうという景時の計らいによって催された会合である。
昼前に九郎と弁慶が大まかな旅支度を預けに訪れ、一旦軍の最終打ち合わせの為に景時を連れて御所へと向かう。
その間に譲、朔を筆頭に望美、白龍が宴の準備を進めていた。リンを含めたその他の三名は邸に残っている。いわゆる留守番と言う役割であった。
邸の中を見渡しても、敦盛もリズヴァーンの姿も見当たらない。
あれから手厚い看護の末、すっかり健康を取り戻したらしい敦盛は望美に着いていくという意思を示し、行動を共にしているのだという。
彼は平家一門の出であるが、源氏に組するという明確な宣言により九郎との確執も薄くなったと聞いた。
何にせよ波風立たぬのは願ってもない事であり、他人事ながらリンもそっと胸を撫で下ろしていた。
問題は、もう一人である。
以前ふとした機会に空を見上げた時、屋根の上にいる姿を見た――――九郎の剣の師、リズヴァーンである。
リンは彼が苦手だった。
とはいえ敦盛同様、直接会話をした事はない。
だが、彼が九郎や望美の要請に応じ、源氏へと参った時に言い放った一言が今もリンとの間に深い溝を作っていた。
『神子、坐に必要以上に近づくのはやめた方がいいだろう』淀みないその声が、今も記憶には新しい。
あの時は気が付かなかったが、彼は紹介もなくリンを“坐”だと言い放ち、“神子”へと警告を与えていた。
これも聞いた話ではあるが、彼は人ではなく鬼の一族の出であるという。
だからであろうか、知るはずのない情報を知り得ているという不可解な事態も、どこかで納得して考えていた。
そこまで思考が至ったところで、どれだけ考えを巡らせても、意味が無い事に気付く。
ただ、まともに会話をする前からあれだけばっさりと否定されてしまった立場上、彼と対面して話す勇気はなかった。
屋根の上によくいる。その事実を知ってからは、空を見上げる回数が極端に減ったのがいい例である。
「…………」
「…………」
それがどうしてこうなった。
喉が渇いたので水をもらおうと、御勝手へと向かう途中の事である。
お勝手と居間やその他部屋とは廊下でしっかり区分分けがされており、その構造上ぐるりと端の部屋を迂回する形でしか目的地にたどり着けない。
さすがに部屋を突っ切る気にはなれず、廊下を進んでいたのだが、邸の端角を曲がった先である。
今日も屋根の上にいるはずのリズヴァーンが立っていた。
ばっちりと視線が合う。清涼感のある、涼しげな水色の瞳。
その瞳の横には八葉の証である宝玉が埋まっていた。口元を赤い布で覆い隠しているせいで表情が読み辛い。
九郎の髪によく似た、流線形を描く金色の髪は艶やかで、黒を基調とした外套によく映えている。
地面にそのまま立っているリズヴァーンと、縁側上から見るリンと。
目線がさほど変わらぬ程に、すらりと背の伸びた大男である。
どうしたものかと、けれども視線をそらすのも躊躇われ、無意味にリズヴァーンを見つめていた。
「……なんだ」
「…!…………あ、の…」
恐怖で固まるリンとは対照的に、リズヴァーンは容易く声をかけてしまう。瞳は何も語らない。
威圧的にもとれるその姿に足がすくみそうになるが、ぐっとこらえて男と向き合った。
自分に対しては酷く後ろ向きな性格をしているが、他人を前に無様な姿を見せる事は失礼にあたると考えるリンは逃げるという選択を知らない。
覚悟を決めた瞳をまっすぐに向け、少しの呼吸の後、疑問をぶつけた。
「………どうして私が坐である事を知っているのですか」
「答えられない」
ぴしゃりと言い切られる形で切り捨てられた質問。一度覚悟を決めた心はその程度の拒絶では折れる事がなかった。
他人に迷惑がかかる事を何よりも厭うリンである。怯むことなく、再度質問をぶつけた。
「…立ち聞きしてしまったのです。神子に、私に近づくなと忠告しているところを。…それはなぜですか」
「答えられない」
「………何も答えるつもりはないという事ですか」
「…答えられない」
三度目の答えられないには一、二度目とは異なる音が含まれていた。
それがどんな意味を持っているかは分からない。しかし、今のやりとりで理解したのは、リンから投げた質問すべての答えが「是」であるということだ。
何らかの手段でリンが坐である事を知っており、神子にとって悪影響を及ぼす事を知っている―――もしかしたらこの胸の内の、望美への憎悪を知っているのかもしれない。
神子と言う言葉に対し、リンが“望美”と限定したのは、他でもない。
彼が、望美にしか気にかけていない事を“視て”いたからである。
リンは瞳で相手を探る癖があり、またその推察は無意識ながら信頼している節がある。
しかし彼と対峙し、目だけを見て判断しているのでは無いのだと客観的に理解した。
口元を隠しているリズヴァーンの表情は酷く読み辛く、感情が分からない。それが一層リンを不安に思わせているのだろう。
表情、仕草、呼吸、瞳の動き――――その組み合わせで、リンは人の感情を判断しているのだ。
両親から――――特により近くにいた母親の顔色を窺う内に会得していた処世術なのだろう。
始めは親からの干渉を避け、怒りを受けないための自衛の手段であったそれは、時を経て人を見る目へと昇華したのだとすればかけがえのない成長であろう。
唯一つ残念なのは、リン自身にそれを“自分には人を見る目がある”と意識的に肯定するだけの自信がなかったことであった。
結局抽象的な言葉のやり取りでは何も確信を得る事には至らず、自然と二人は視線を外し、袂を別った。
勝手口外の盥前でリンは蹲り、大きなため息を吐き出した。瞬間に肩にどっと疲れがのしかかる。
「(……慣れない事はすべきじゃない…)」
人を“視る”事はさして苦にはならないが、それを軸に人と対等であろうと自分を偽り、“魅せる”事は酷く負担となる。
とりあえず水をもらって、後は部屋でのんびりしていようと気を取り直したのも束の間、帰って来た望美達と八合う。
ぐったりと盥前に蹲っていた姿を見たのか、あれやこれやと気を揉まれ、のんびりどころではなくなってしまったのは、言うまでもなかった。