やさしいひと(弁慶長編:完結)
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16.嫉妬
京北部の行脚を終え、京邸へ一行が戻った頃、神泉苑での雨乞いの儀も無事に閉幕していた。
雨乞いの儀を取り持っていた九郎もようやく任務から解き放たれ、ようやく一息つける、と綻ばせた顔が印象的であった。
初めて出会ったのは宇治川の戦いの最中であり、彼の信念と責任感の強さも重なり険しい表情をしていることが多く、こうして年相応の表情を見せる事は新鮮だ。
彼が彼であればあるほど、世の中が平穏だと定義づけてもあながち間違いではない。
あれから特別大きな動きはなく、リンも京邸での生活をやや持て余し始めていたある日のことであった。
食客では居た堪れないからと任せてもらった“洗濯”を終えて、自室へと戻る最中の事である。通りかかった居間から随分と賑やかな声が聞こえてきたのだ。
普段ならば各々自由に過ごしているはずなのに、と足を止めたのが運の尽きであった。
障子に己の影が映っているのを見て「しまった」と気付いた頃には時すでに遅し。引っ張られ居間へと連れ去られたそこには、懐かしい人物が笑っていた。
「…有川君!」
「よう遠坂。久しぶりだな」
豪快に揺らす広い肩。ざっくばらんな青い髪は変わらず健在だが、会うのは半年ぶりになる。
しかし時空が戻された今、実際に会うのは一年半ぶりとなるのだが――――思わず噛み締めてしまいそうになる唇をそっと舐めて誤魔化す。
崩れた襟を正して、居間の空いているスペースへと腰を下ろした。
どうやら一同は星の一族に関して説明を行っていたらしく、初耳となる九郎、弁慶は深く聞き入っているようであった。
当の本人である将臣はどこ吹く風と言った様子で、欠伸をしたり耳に触れたりしている。その耳に、リンは注目した。
話の腰を折らぬように、身を屈め近づいてそっと話しかける。
「有川君、その耳の…青い石は」
「ああ、これか。なんか気づいたらここにくっついてたんだよ」
「……なんか………ううん、何でもない」
「お前今、相当失礼な事考えただろ。…ちゃんと耳の裏も表もきっちり洗う男だぜ俺は」
「そうだ、有川君はA型だもんね。几帳面。」そんな馬鹿げたやり取りがおかしい。
くすくすと声を落として笑うと、つられて将臣も肩を震わせていた。こんな風に久々に笑う事が出来たのはやはり将臣の豪快な人柄のせいだろうか。
けれど、ひとたび間を置いたならばリン達と将臣は敵同士だ。直接的ではないものの、将臣はリンにとっての仇である。
心の底から笑いながらも、心には距離そして境界線がある。随分と業を背負ってしまったものだ。
一介の高校生に過ぎなかったはずの自分はどこへいってしまったのだろう。そっと瞳を伏せた。しかし畳に落ちた視線はすぐに揺さぶられる。
将臣がリンの肩を叩いたからである。顔を上げて重ねた瞳は深く、慈しむようで。言葉など必要なかった。
「…兄さんちゃんと聞いてるのか?俺と兄さんの話なんだぞ」
「そーんな怒らなくたってちゃんと聞いてるよ。とにかくよく分からないが俺は神子を守る八葉ってやつな上に、星の一族?なんだろ?で、神子が望美。なんか間違ってるか?」
「間違っちゃいないけどさ…けど、」
「お前らのいう事も分かるが、俺は俺で色々やらなきゃならない事があるんだ。八葉だってのは承知したが、つきっきりでは行動できない。構わないよな?」
譲の指摘で視線が離れる。
将臣らしいざっくりとした理解で、リンは再び笑ってしまった。
八葉、星の一族と伸し掛かっている“使命”は重いものであるはずなのに、一笑で済ましてしまえるその揺るぎない自信が果てしなく輝いて見えるのだ。
将臣とは学校で同じ係役員を担当していた頃も随分とそれでやきもきさせられたものだ。
“必要とされればどこまでも”リンの過剰すぎる責任感、自己犠牲感を否定しながら、肯定もする。
物事はバランスが一番大切なのだと教えてくれたのは将臣であった。
その姿はやはり揺るぎなく、リンはそんな将臣を好ましく思っていたし、信頼を寄せていたのである。―――すごい人だと思っている。
「構わないと思いますよ、僕は。―――――それより、気になるのは君の方です」
思い出に浸る思考が一気に引き戻される。声の主、弁慶は“いつも通り”、にこやかに微笑みながらリンを見つめている。
続いて弁慶の口から放たれたのは“坐”についての疑問であった。
神子、竜神、八葉、怨霊、星の一族――――白龍が関わるようになり、随分と多くの伝承が明らかになってきたが、未だ坐に関してだけは語られていない。
周囲はそれに大いに頷いた。せっかく一同が集結しているのだ、分かる範囲で把握しておくべきであるとの九郎の添え言葉に、一同は白龍の言葉を待った。
白龍はたどたどしいながら、懸命に言葉を紡いで説明を行ったのだが――――結論的には「分からない」という事であった。
「神子を召喚する時……私は力が足りなかった。反動でいくらかの記憶が失われている。将臣を同時列で呼び寄せられなかったのも、私の、力不足だった」
「でも白龍は私を神子だと分かっていたし、面識ない人も八葉だって言い当ててたよね。リンちゃんの事も何か分かったりしないの?」
「“坐”だという事は分かった。気が見えたから。でも、神子、私が時空の狭間で探していたのはあなただった…あなたのこと、忘れないだけで精一杯だった……神子、怒る?」
不安そうに見上げる白龍に、周囲もそれ以上聞き出すことは躊躇われてしまった。
望美に抱き着いて顔を埋める彼は神とはいえまだ十そこらの子供なのだ。あれもこれもと寄って集って質問責めにするには気の毒だった。
「五行の力を取り戻せば記憶も戻るということなのでしょうね」
「…そうだな、とにかくこれからも怨霊を封じ、神の力を取り戻すしかないのだろうな」
「あちらさんも動き出すだろうし…大変な事になりそうだね~…はぁ」
武士らしかぬ態度の景時を朔が諌め、その場は和やかに終幕を迎えた。
けれどもただ一人、リンだけは終始浮かぬ表情だった。顔を一層青白く染め上げ、か細い指先を合わせただただ恐怖に震え続けていた。
京都行脚の報告を終え、解散の後、弁慶は九郎の誘いを断って京邸の自室へと戻っていた。
書物と生薬棚、収集した小物で足の踏み場もないその部屋の更に奥、唯一のスペースで一心に記録を記している。
流れる毛筆は勢い激しく、筆が擦れるまで気付かぬほどに先を先をと急いでいた。整理しながら書き進める事は不得手ではないが、特段今はその必要性も感じない。
ただただ記憶が途切れてしまう前に得たもの感じたものを記しておきたかった。
筆が置かれたのは、陽も傾く夕暮れ時である。
瞬きすら忘れて書き込んだ情報は小高い丘となり、目はびりびりと痺れ、弁慶は思わず後ろにそのまま倒れ込んだ。
転がした頭部に鈍い音がする。
近くにあったらしい薬草籠が頭に当たったが、痛みを感じるよりも思考が感覚を支配していたらしい。
体を右へと捻り、腕にもたれ掛かれば視界は黄緑の暗い草原が広がる。押しつぶされた眼球がどんより痛むが、それよりも、胸を支配していた感情に弁慶は苛まれた。
「(…………馬鹿げている)」
ちかちかと弾ける光の中、映し出されるのは身を寄せ、そっと耳打ちするリンの姿だった。自分ではない男に。
その映像の中に、出会った時の洗練された美しい彼女はない。
年相応の屈託ない笑みを浮かべるうつくしい女があるだけであった。
リンと将臣との会話から始まったちりちりと胸を焦がす違和感は、時が深まるにつれて目に見えてしまう程に火が上がり瞬く間に燃え広がり、目を曇らせた。
「(彼女の過去など興味がないと、見向きもしなかったのは僕だ)」
その唯一の自責があったからこそ辛うじて醜態を晒す事を避けられたことが出来たのであろう。
己の処世術が発揮された事に救われたと弁慶は深く思う。
けれど、その選択は誤りだった。処世術―――ゆるりと笑ったその“笑顔”が“偽り”であることなど、彼女は容易く見破ってしまうのだから。
あの、怯えた瑠璃が、心の次に目を焦がす。
怯えさせたいわけじゃない、それなのに。交わらない想いが言葉にならない代わりに痛みを生み出すのだ。
ちりちりと、じくじくと、じんじん、と。
「………彼にはあんな顔で笑うんですね」
最後に一言そう呟いて、弁慶は心の蓋を閉じた。これ以上耽ろうとも何も変わらない事を知っている。
己が贖罪の為に、そして彼女を元の世界へ帰すために。
坐の存在意義を知るのは容易ではなく、けれどもそれに向けてやらねばならない道筋が示されたのは収穫であった。
八葉として神子の傍に在り、九郎と共に戦に加わり、平家を―――――清盛を屠る。
己の立てた軍略の、手順を違いなく踏んだらば龍神の五行の力は満ちる。
清盛を屠る前に満ちてしまえば、彼女は白龍の時空越えの力で帰ることが出来る………そのはずだ。
腕を押し上げ見つめた先、流水のように流れる天井の木目を辿って、弁慶は心を踏み固めた。ぬかるむ事無きように、何度も、何度も踏みつける。
けれども、最後まで瞼の裏に映っていたのはリンのあの顔であった。
愛らしくきらきら輝く満面の笑顔。瞼の裏の中でさえも、それは自分には向いてはいなかったけれど。
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目まぐるしい日々。新たな人との関係性。次々と現れる龍神の縁。
季節はまごう事無く春であった。
この世界にやってきてから迎えた二度の春は弁慶と迎えた春、そして廃人と化して見送った春だ。
花を愛で、柔らかな陽を吸い、新たな出会いに心躍らすような、そんな春は迎えたことはない。元の世界にいた時とて同じだった。
髪で顔を隠し人目を避けて母の言いなりになる生き方から、白い髪となり人目を恐れたあの頃とは随分と変わったものだ。
その変化を強くなったと差すのか、自信が付いたと差すのか、リンには判断し難い。けれど、悪くはない変化だと思っている。
風に運ばれる野の花の香りに誘われ外を見る。つい先日まで桜が舞っていた木の下は、がくが落ち薄紅から紅へと景色を変えた。
変わらないものなどない。けれど。
「………どうしてあんな目を」
思い出すのは先日の弁慶の視線である。笑顔の下に隠されたあの黄金の瞳には一切の笑みなど含まれてはいなかった。
星の一族に関しての座談場で将臣とふざけていた事がいけなかったのだろうか―――――思えば、それしか心当たりはない。
取り組む姿勢の不真面目さに苛立ったのだろう。少し冷静になり、考えてみれば当然だ。
真剣に龍神に関しての情報を集めている話の中でふざけていたのはあまりにも軽薄だったと悔やんでも今更時は戻せない。
“仕方がない…私が悪いのだから”言い訳する言葉をひっそりと飲み下した。
「(……それでも、心が痛い、だなんて――――馬鹿ね、自業自得じゃない)」
それでも、と何度も何度もこみあげてくる想いの種を奥へ奥へと押し返す。言葉にならないように、意識とならないようにと幾度も。
「……願い事は、叶わないのを知っているから」
―――――願う本人が、叶えようとしない限り。
ぽつりとつぶやいた言葉は誰にも聞かれずそっと春の光の中へと消えて行った。
交わるようで交わらない二人の想いを誰が知ることが出来ただろうか。
二人は人一倍想いを秘める性質であった。そして何より、人一倍臆病であったのだから。
朝から出かけていた望美達が京邸へ戻った時、リンはそれを遠くからそっと眺めていた。
九郎や弁慶がいたら、先日の態度を謝ろうと思ったからである。
これも将臣の受け売りなのだが「自分に非があれば、すぐに謝る」これを実行しようと思っていたからである。
「(怖いけれど……いつまでも引きずっていても前に進めないし、これ以上嫌いになってほしくないもの…)」
がたがたと大人数が揺れる玄関で、ようやく見つけた橙の鬣。
もう一方の尋ね人の黄金を探せど、目に留まったのは求めるそれより鋭い金の髪だ。
見慣れない大柄のそれは口元を赤い布で覆い、全身を覆う黒い外套を纏っている。リンは咄嗟に身を引いた。
望美達は奥の居間へと集まるらしい、こちらへ向かってくるのを見てリンは反射的に身を隠してしまった。
一行が通り過ぎるのを確認して、そっと部屋へと目を向ける。
閉ざされた障子の向こうからは望美と九郎の明るい声が響き、白龍の声で告げられたのは“地の玄武”という八葉の告だった。
意図せずとはいえ、立ち聞きという状態は心苦しい。一旦部屋へ戻り、タイミングを見て九郎に接触しようとリンは考えた。
音を立てぬように廊下へと足を踏み出す。しかし、それは“地の玄武”の一言でぴたりと止まった。
「神子、坐に必要以上に近づくのはやめた方がいいだろう」
掠れたようなその低音は、絶対的な音を含み、坐を、リンを拒絶していた。
暫く縫いとめられたようにその場から動くことが出来なかった。
遠くで望美や他の人間達の抗議の声が響けども、内容が脳に入ってこない。
ようやく足が動くようになったとき、リンは忍ぶことも忘れその場から逃げだした。ただただ必死に、脱兎の如く。
やや問答はあれども、何とか一同平穏を取り戻し座談は解散となった。
六条堀川の邸に戻る前に、一度脳内を整理せねばと九郎は京邸の縁側に腰かけ、空を眺めている。
一人で考えたいからと人払いをさせて見上げた空は、困惑に染まる胸の内とは異なり随分と澄み渡った漆黒と星の瞬きが美しい。
程無く平氏追伐を果たすべく、福原へ兵を進ませることとなる。少しでも戦力をと、己の師であるリズヴァーンに協力を仰いだのだ。
図らずも師も己と同じ龍神の力の加護を受ける“八葉”である事は喜ばしかった。幾度も望美の力を借り鞍馬へ足を運んだ甲斐があったというものだ。
九郎としては龍神伝説よりも先に果たさねばならない己の務めがある。
兄、頼朝の名代として、京の怪異を静め、平家を滅ぼし、三種の神器を奪還しなければならないのだ。
「……どれかに焦点を当てずとも、大きな流れを違える事無く進めば、兄上のご意志も、望美達の願いも果たすことが出来る」
これは軍師である弁慶の言葉であった。どれか一つに絞るのではなく、どれをも成功させつつ最終的に後白河院の命を遂げる。
如何に兵に犠牲を出さずに行うか。正直なところ不安は多いがやらねばならないという意志だけは崩れない。九郎は凛と整った表情を崩さず、空を見上げた。
けれども――――龍神に関する事項に関しては弁慶ほど、九郎は知識を持ち得ていない。
ぼんやりと、白龍に導かれた者はすべて等しく志を共にするものだと思っていた。だからこそ、昼間の師の言葉が耳に残って仕方がないのだ。
「(…坐……リンに近づくなというのはどういう意味なんだ?あいつは望美の力となる存在ではないのか?)」
九郎は大きなため息をつく。師を何より尊敬しているが、どうして不和を煽るような事を言ったのかが理解できなかった。
けれども師が意味もなくそんな事を言うだなどとは考えられない。九郎は頭を掻きながら出るはずもない問題を考え続けた。
そこに、不意に人の気配を感じ、振り返る。人払いはしたはずなのに―――と振り返った先、そこには青白い顔で佇むリンの姿があった。
「……何用だ」
今しがた考えていた人間が立っている事もあり、いつも以上にそっけない言葉が出てきてしまった。
びくり、と影が大きく揺れるのが見えた。
これにはさすがに九郎自身が至らなさに気付き、撤回しようと考えたのだが代わりとなる気の利いた言葉が出てこない。
どうしたものかと焦る九郎に届いたのは、今にも消え入りそうなか細い謝罪だった。言葉の節々は震えており、聞き取り辛い。
暗い廊下の向こうに立つ彼女の表情は隠されているが、明らかに気落ちした様子なのは九郎の目にも明らかである。
もしかしたら昼間の師の話の最中、走り去る足音があった。それが彼女だとしたらこの怯えようにも納得がいく。
とにかく今は、彼女の謝罪に対し返答を返さねば、と九郎はリンへ説明を始めた。
「お前は勘違いをしているな。俺はお前に対して怒ってなどいないぞ。おそらく弁慶もだ」
「………そう、ですか……でも、あの場では不適切な態度だったと思います。すみません」
「悪くないものを謝っても仕方がないだろう。それより……その、なんだ。昼間の足音はお前か?」
「………………」
リンは答えない代わりに、小さく頷いた。やはり、と九郎は納得する。
何とか誤解を解いてやらねばと思うが、自分自身、師の言葉の真意を知りかねている今、彼女を信用することも、師に背を向ける事も出来なかった。
せめて彼女の役割である“坐”の正体が明らかとなればいいのだが…と九郎は言葉を懸命に探し続けていた。
考えを巡らせる中、不意に思い出したのは彼女の初対面での姿である。望美に酷い剣幕で襲いかかった、あの姿だ。
ただの怒りではない。九郎は戦の度に、ああいう村人を何度も見てきた。理不尽な戦に巻き込まれ、大切な人の命を亡くした遺族の悲しみ。
彼女の姿はそれと重なったのである。
「……リン、お前は神子に誰かを殺されたのか」
「違います。考えてみてください。春日さんがこの世界にやって来たのはあの宇治川の戦いの時で、その後すぐに私と出会ったのです。…それに、彼女がいくら神子とはいえ、ほんの少し前まではただの十七歳の女の子です。人を殺すことなんて私達の世界では考えられません」
「…俺は戦場で、あのように取り乱す人間を何度も見てきた。お前の姿はそれと相違なかった。違うのか」
「違います――――――随分、怖い事をおっしゃるんですね」
廊下を進み、月明かりに照らされながら答えるその顔は困ったように微笑んでおり、嘘などついているようには見えなかった。
言っていることも矛盾などなく疑う余地もない。
変な詮索を入れたことを詫び、隣に座るように促すと、リンは少し迷った様子を見せながらも小さく首を振り申し出を断った。
何と言うか、つかみどころのない娘だと九郎は思う。
感情を読み取りにくい友人の筆頭として、己が軍の軍師が挙げられたが、彼女もそれによく似ていた。
内に秘めているものは深いが、それを顔には出さない。それは時に人を不安にさせるだろう。
「…昼間、俺の剣の師のリズヴァーン先生…リズ先生が、望美にお前に近づかぬよう警告していた。知っているな?」
「………はい」
「俺は先生の言葉を疑いたくはない。…だが、龍神に喚ばれ集ったお前も正直、疑いたくはないんだ。答えが、出ない」
「…………」
「お前は弁慶に似ている」
直後、九郎は驚くこととなった。
月明かりに照らされたリンの頬に、すっと紅が差し込まれたからである。
表情こそ大きな変化はないものの、青白かった顔からの血色変化は著しく、言葉を失った。九郎にとってそれはさして深い意味を持たない言葉であった。
どうしたものか悩みながら、けれども出かかった言葉を飲み込むのは苦手である。赤い顔のリンを差し置き、続けた。
「一応断っておくが、褒めているわけではないぞ。…何を考えているのか分かりにくいところなんか、そっくりだ」
「…何にも隠してなんていませんよ」
「あいつもすぐそう言う。さらっと嘘をついて曖昧に笑うんだ。それでも…あいつの冷静な判断には何度も助けられている」
「お二人は対照的ですもんね。…互いの得手不得手を補い合っている…勝手に申し訳ありません。きっと弁慶さんも同じ気持ちなのではないでしょうか」
「あいつが?…まさか。……だが、そうだといいな」
責を背負うあまり大局を見失いがちな九郎を、常に一歩離れたところで冷静に見やる弁慶と。
三度目に見上げた空は変わらないはずなのに、どこか遠い星が輝きを増したように見える。心持ちが変わったからであろう。九郎は思った。
言葉は曖昧で明確な正解をいつも言わない。けれども最終的に時間がかかっても、弁慶は必ず正解への道筋へ誘ってくれた。
リンもそうだ。迷う己を責めず、ひっそりと肯定して前を向かせる。やはり似ていると思った。
「……お前はきっと大丈夫だ」
師の言葉を否定するわけではない。
けれど、この娘を悪人だと思う事は出来なかった。
師は八葉として、彼女は坐として神子を中心に関わっていけば、いずれはわだかまりも解消するだろう。九郎はそう胸に信じ、腰を上げた。
「そろそろ六条堀川に戻る。付き合わせて悪かったな」
「…いいえ。私こそ、本当に申し訳ありませんでした」
再度深く頭を下げ謝罪するリンを打ち消す。
星の一族の話はそれを知らぬ人間への説明の場であった、九郎は少なくともそう理解している。謝罪を受ける理由などどこにもなかった。
ぶっきらぼうながらそう告げると、九郎は雄々しい背を向け静かに京邸を後にした。
『……リン、お前は“神子”に誰かを殺されたのか』
『違います。だって考えてみてください。“春日さん”がこの世界にやって来たのは――――』
白龍、黒龍。二頭の龍神に神子は二人――――にも関わらずリンははっきりと「春日さん」と名指ししていた。
弁慶という軍師を傍に置いていなかったのが運の尽きか。
リンの核心にあと一歩というところまで迫りながらも、それを見抜くだけの目を持ち得ていない。源九郎義経とはそういう人間であった。
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春は深まり若葉が芽吹く晩春、源氏一行は京を発ち福原へと進軍を開始した。無論、平家追伐の為である。
史実では皐月、春と呼ぶにはまだ早い、桜の蕾が膨らむ三月中旬ごろであると譲が語っていた。やはりここは異世界なのだと今更ながら再認識する。
源氏一行は福原の北部にあたる馬瀬の地に本陣を敷いた。
兵らにより運び込まれる数々の用材が組み立てられ、簡単な施設が出来上がるのを異邦人らは感心しながら眺めるばかりである。
経験のないリンとは異なり、キャンプの心得があるらしい望美や譲はその光景を見て好奇心が掻き立てられるらしい。
幼い頃に春日家と有川家で行ったキャンプの思い出や鎌倉の海の思い出に花を咲かせている。
当時からやたらと張り切っていたのは将臣で、得意のスキューバダイビングの技能を披露しては食卓に彩りを加えていたらしい。
直接作業に携われない朔や白龍も、ここではない世界の話に釘付けで話に加わって立ち話を楽しんでいる。
その離れたところでは九郎、弁慶、景時がこの先の戦況を読み、どのように進軍するかと言った軍話に花を咲かせていた。
そのどちらにも参加できないリンはそっと意識を別所へと飛ばす。
「(有川君は平家へと戻った……ということはこの戦でもしかしたら顔を合わせるのでは…)」
京での八葉の顔合わせの後、彼は用事があると一言告げ、帰るべき場所に帰っていった。
似ているような、それでいて正反対のような性格の九郎とは存外気が合ったらしく、再会の言葉を交わしていたのに驚いたが、リンはひたすらに口を噤んだ。
将臣の学力がどの程度であったか、同じクラスではないリンには分かりかねたが、九郎が義経であることは周知の事実でそれは彼も知っている事だろうと推測される。
平家と相対する源氏。彼はどの心中で九郎に背を向け去って行ったのだろうか。
「リンさん、ちょっといいですか」
不意に声をかけられ肩が飛び上がる。声の主は振り返らずとも分かる人で、リンは複雑な思いを抱きながら恐る恐る振り返る。
源氏の軍師は変わらぬ微笑で口元を飾り、リンを手招いている。その瞳は無音で何も読み取ることは出来なかった。
強張ってしまった足を何とか進ませ弁慶の元へ向かうリンは、彼から言い渡された予想外の一言に驚くことになる。
「…私が薬師に?」
「そんなに仰々しいものではありませんよ。陣には僧医を召し抱えていますからその手伝いという体で。五条で僕の手伝いをしていたでしょう。あんな感じにやってくれれば結構です」
「―――――皆さんと一緒には行けないという事、ですか」
「可愛らしい君が看護をした方が兵達の士気も上がるというものです。病は気からと言いますから」
言葉が滑り落ち、地面で爆ぜた。
弁慶の言葉が耳に入ってこない。けれども彼がわざわざ告げに来るという事はそれは絶対ということである。
爆ぜた言葉を探すように下を見てそっと顔を上げた。微笑む口元、黄金の瞳は変わらずそこに在るだけで何も読み取ることは出来ない。
「簡単な処置を教えますから、奥へ来てもらえますね」
拒絶を認めない絶対的な言い回し。
やはりこの人はずるい人だと思った。
この時代の医療とは随分と簡素なものである。厄災や病気ですらも祈祷すれば解決すると信じられていた時代なのだ。
薬草を加工し生薬として使用する手段こそ学ばれつつあるようではあったが、湿気や真菌対策、保管容器の開発が追いついていない。
丸薬を製造して持ち歩くという技術は先の通り、時代を待たねばならない。
この時代の医療といえば薬師が周辺を巡り、薬草を採取し施す。故に、弁慶と五条で培った知識が有効であったのだ。
陣には女性はほぼおらず、戦場に出ている望美や朔を除けばリンのみであると言っても過言ではない。
望美や朔は“龍神の神子”という立場ゆえに一般兵士の前に出でる身分ではなく、
その奇抜な姿を見慣れていないという事情もあったろうと今なら分かるのだが、リンへの好奇の視線は凄まじかった。
整ったその容姿を“人ならざる者”だと吹聴して回る者も少なくなく、また、奇妙な真っ白な髪色が噂を助長させていた。
幾度も心折れる場面に立ち会う事となったが、自分に与えられた役割なのだと看護に奮った姿勢が評価されたのか、中傷の類はほんの数日で随分と少なくなっていた。
時代が時代である。
心無い言葉を浴びせられることもままあったが、女性軽視の概念がある事は致し方なく、リンは献身的に尽くすことを心掛けた。
その姿に、次第に兵達の認識も改められていったのである。
リンが源氏の医僧の補助を担ってから幾度か前線に立つ望美達も顔を見せていた。
「リンちゃんごめん、ここ切っちゃったんだ。薬もらえる?」
「…弁慶さんは持っていなかったの?」
「それが切れてるらしくて」
「……そう。こっちに来て。薬草を貼るからしばらくそのままで」
昼の内に山間で摘んだオオバコを取り出し、近くの篝火で軽くあぶって揉むと草独特の青い臭いが広がる。
適度に馴染ませたそれを望美の腕へと刷り込めば、傷に沁みるのか表情を歪めている。
あとはしばらくそれを外さないようにと告げると、望美は物珍しげにそれを眺めている。
治療は終わったのだからとっとと出て行ってほしい。そんな感情的な思いと、せっかくのチャンスだという打算的な思いとで心が揺れる。
リンが一行から離れる事、つまりは望美と離れる事を望まなかったのは望美を探る為である。
「(…時空を戻した理由を知らなければ)」
沸々と湧き上がる灼熱を飲み込んで振り返れば、望美は目を輝かせながら薬草とリンとを見比べている。
どうしたのかとの問いかけに返って来たのは称賛の言葉であった。薬草に関する知識、そしてその処置への称賛である。
何と答えたらいいのかリンは戸惑った。
褒められるような事はしていないし、この知識とて弁慶や他の医僧から盗んだものであって、自らが学び得た知識などではない。
跳ね除けてやりたいのが本音であるがそんなことが出来るはずもなく。彼女のペースに巻き込まれぬように話を変える事を決めた。
「これが私の仕事だから…。それより春日さんは今はどこに?」
「この辺で怨霊を封じてるの。道を間違っちゃった怨霊を元の龍脈に戻す事によって五行の力が満ちる…だったかな。白龍が言ってて」
「……怨霊を。………それは、どうして、するの?」
質問の意図を読み取れなかったという表情を見て、しまったと内心思ったが、今さら出てしまったものは取り返すことはできない。
怨霊を封じるということはこの世から消し去ると同意義だ。
それを“龍脈に戻る”という、さも理であるかのように綺麗な言葉で飾る事に違和感を感じたからである。その理由を問うてみたかったのだ。
怨霊をこの世から消し去る、その意味を。
「平家が怨霊を操って意のままにしようとしているのは知ってる。…でも……いいえ、春日さんは怨霊をどう思っているの?」
「うーん、正直まだはっきりとは言えないけれど…。怨霊がこの世に存在してはいけない存在で、封じる事が出来るのは白龍の神子である私だけなら、私はそれをやるだけ」
「…………」
強い翡翠に語られる。
ぶつかった互いの視線がじりじりと擦れ、瞳の奥は蒸し上がるようだ。
正直なところ、望美の動機が正しいのかそうでないのか、現時点ではリンには判断しがたかった。故に返答として無言を返すしかない。
死を望む人間は決して多くない。
己の人生を全うするまで生きる事を自ら手放す事を望んだりはしないし、もし不慮の何かでそれを奪われたらば、未練が現世に残るものだという精神的な理解がある。
リンの世界でもあった“幽霊”の概念だ。
強い怨念で形成されたその物質が実際に存在するのか、はたまた生きる人間の罪の意識が見せる幻覚なのかはさておき、誰もが自然に思う事だろう。
「未練が故人を現世に留まらせるのだ」と。
怨霊と言う存在が平家による強制的な召喚とするならばさておき、茶屋夫妻の怨霊はそれに当てはまるとは思いにくい。
突然の敵襲、突然の絶命―――でなければリンに“生”を託したりなどしないはずだ。リンはそう思う。
胸に上がっては下る、秩序の箱が酸を交えて暴れる。答えの出ないそれに焼かれるのは喉か、胸か。
果たして怨霊とは何であるのか――――悲しい運命を辿った“ヒト”の未練の念の成れの果てだとしたら。
「(封じる事は正しいのか…………けれど、放っておけば)」
新たな被害者を生み、未練を生み、怨霊を生む。何が正しいのか、何が間違っているのか。
突如ピリ、と走るように背の傷が引き攣り、痛みと違和感を体に与えた。迷うリンを叱咤するように、ひっそりと。
源氏軍が馬背に陣を構えてから数日。陣の中にリアルタイムで戦況が伝わらないのは歯痒く思われたが、陣の中は至って穏やかな時間が流れていた。
先日神子一行と九郎とがここ、馬背で合流し三草山の頂上目指して進軍を開始した。陣内はその報告を待っている状態である。
今のところ陣へ引き戻される負傷兵もほぼ無いに等しく、リンは篝火で照らされる山の中腹を見ながらそっと皆の無事を祈っていた。
白い髪が夜に透け、その端を篝火が朱に空かす。白は全てを反射し、全てを受け入れる色であった。
パチパチと火の粉を噴きながら燃え上がる篝火の熱に煽られながら、静かな陣内は突如どよめきが沸き起こる。
「おい、あそこを見ろ!火の手が上がっているぞ!」
指差す方向へ目を向ければ兵の言うとおり、山の頂上近く一帯が煙に包まれている。
濃紺に紛れて分かりにくいが、目を凝らすと薄黒く汚れた灰の煙が立ち上がっているのが確認された。その隙間から時折姿を見せるのは燃え盛る炎の背。
「(……っ、まさか皆があそこに…?)」
ひゅ、と喉が鳴り、鼓動が早まる。忘れていた恐怖が不意に襲いかかってきたのだ。
宇治川で見た、怨霊との戦いの図。この世のものと思えない朽ちた人影、異形のそれらは禍々しい気を放ち襲いかかってきた。
元の世界では考えられない異常な光景に「当たり前」が崩された時の冷ややかな絶望は底知れぬもので、明日をも知れぬという言葉の意味を深く知る。
負傷兵が運ばれてくるかもしれない。火傷への対策を。陣内が行動を開始するのにリンも加わり、弁慶に預けられた調合メモを穴が開くほど見やる。
「ああ、願わくば皆、無事で…」
医僧の切実な祈りが火の粉と共に空へ上る。
そのまま山へと届いたら、神が願いを聞き届けてくれはしまいか――――――そんな己の想いを自らの言葉で切り捨てた。
「(………願い事なんて叶わない)」
不安な心の逃げ道を己が手で潰し、逃げられなくしているのはリン自身の心であった。
いつだって、そうであった。
「…それは、火に囲まれた仲間を見捨てるという事?」
「そういう事になります」
それは一切の妥協を認めない、武人の気迫だった。
糸で吊られたように伸びた背に寒気と言う稲妻が天へと走り、遡る。閃光を上げ弾けたそれは望美の視界を酷く惑わせた。
一度目の時は気が付かなかった、弁慶のその鬼気迫る瞳に、二度目となる非情な提案が凍てる恐怖に拍車をかけている。
一度目は言い訳をして見捨てた。二度目は―――――望美は迷う。
迷っている時間などはないのは明らかだ。
周囲を焼く炎は刻一刻とその勢力を広げて兵士らへ襲いかかっており、混乱が広がるばかりなのだから。
致し方がない―――望美は顔を上げて弁慶を見据えた。
「でも、それしか――――、」
“道はないんだ”その言葉は続かない。白龍が望美に直接声を届けたからであった。
神泉苑で雨乞いの儀式―――もとい舞を強要された時に白龍の力によって神泉苑に雨を降らせて見せた。
その力をもう一度使うとの白龍の提案に、望美は強く頷く。
「みんな、火からできるだけ離れて!」
「望美さん…?」
取り囲む火は逃げ場を奪っている。集められた兵達を確認し望美は白龍に合図を促した。
一陣の風が吹き流れた―――一同がそう感じた刹那、遥か上空から舞い降りたのは雨粒だ。
瞬きも追いつかないそれはすぐに雨へと変わり、みるみる内に周囲の炎が沈められていく。残ったのは焼けた炭木とぬかるんだ山肌それだけであった。
龍神の神子の力を目の当たりにした兵は目を輝かせ、高揚を続ける心の捌け口を求めて歓声を上げた。
轟くその叫びが水たまりを揺らし、一丸となって神子を祝福する。士気が上がったその姿を見て、九郎も驚きで瞳を開いていた。
分かりにくいがその頬には赤が差し込んでいる。
「…すごいな。まさかあの炎を消し去る手段があるだなどと」
「さすがは僕達の神子ですね。―――さあ、ぼやっとしている時間はありません。九郎、指示を」
弁慶に背を押され、軍の再統制を始める九郎と、負傷兵の応急処置を行う弁慶と。
源氏軍が立て直されるのを見届けて、望美はほっと一息ついた。白龍に礼を述べれば、恥ずかしいまでのまっすぐな称賛の言葉を返される。
頬が赤くなるのを鎮めながら、望美は漆黒の衣の背を見つめる。
「(……弁慶さんのあの選択は変わらない。……どうしてそこまで頑ななんだろう)」
一巡目と二巡目と。
逆鱗を使い、時空を戻す前の世界でも、弁慶はここ三草山の頂上での火責めの際、かのような非情な決断を提案したのだ。
普段の彼からは想像の出来ない鬼気迫るその表情、その奥には何を抱えているのだろう。
「(優しい笑顔は……偽り?)」
考えても答えは出ない。望美はそっと首を振って考えを打ち消すと、九郎へ視線を向けた。
源氏軍の行先が決まった。向かうは、鹿ノ口。先陣を切る九郎の背を追い、望美も足を進めた。
―――胸に芽生えた疑問の欠片をそのままに。