やさしいひと(弁慶長編:完結)
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15.共感
それから数日、景時をも連れ出し鞍馬へ向かった神子一向は、結局目的の人物に会う事は出来なかったらしい。
残念そうな表情の九郎だが、彼にはこれから神泉苑での儀式を取り仕切るという重大な任務を負っていたこともあり、その後姿を目にする機会は減ってしまった。
望美とは異なり、いまいち十分な信用を得られていないのは九郎の目を見れば一目瞭然で。
その真っ直ぐさに心が痛みながらも現状、それを覆すだけの何かを持っていないのも事実で。
いつか誤解を解きたいとリンは願っていた。
望美の尋ね人はどうやら神泉苑で会えるのではないかとの結論に至ったが、その神泉苑は儀式の準備の真っ最中だ。
それが一旦落ち着いた頃にでもみんなで行こうという約束を取り付けて、各々自由な時間が与えられたのである。
この機に白龍に尋ねようと隙を伺ったが、やはりなかなか一人となる時間は見つけられなかった。
外出は嫌いではないが一人で出かける程バイタリティがあるわけではなく。
けれども邸に留まれば食事を用意されたりと、朔に気を遣われるのも心苦しく思うのだ。
完全に時間を持て余していたリンであったが、結局自身で選択は出来ず、前者後者を秤にかけどちらが利となるか。
そんな決定打を打ち、外へと繰り出すことを決めたのであった。
豊かな桜の並木は美しく、何度見ても見飽きる事のない幽玄の美がそこにはあった。
お世辞にも整備されているとは言い難い、土丸出しの道でさやさや揺らす枝の逞しさと舞い散る花びらの柔と剛のバランスは絶妙で、意味もなく足を止めてそれを眺めていた。
春はどちらかというと苦手な季節だ。
耐え忍ぶ冬の寒さは、硬く閉じた心と似ている。
迎える春の撫でるような温かさにただ戸惑うのだ。
心を開けばまた傷つく未来があるかもしれない。
そんな見えない先の未来を予想して怯えては扉を開けまいと、殻に閉じこもる。
酷く精神が揺さぶられる季節であった。
それでも、春の野の息吹はただ新鮮で、華やかで罪などどこにもない。
ただただ季節を鮮やかに彩るだけだ。
ふらり宛もなく街を往けば、不意に若草の絨毯を見つけた。
足を向ければそこは一面の菜の原であった。
空を遮るものなど何もなく、澄み渡った空の青さは爽やかで野を撫でる風はただ優しい。
誘われるように、腰を下ろした。
「…………気持ちいい」
腰を下ろした周辺、じっくりと見れば懐かしい記憶と花の名前が蘇る。
オオイヌノフグリ、タンポポ、ハハコグサ、ナズナ……どれも母から教わった名前だった。
不意に、涙が出そうになってリンは背を倒し、野へと身を預けた。見上げた空は、悲しいくらいに青かった。
「リンさん?」
名前を呼ばれて勢いよく飛び上がる。名前を呼んだ人物の姿を見て、リンは瞬間に顔を真っ赤にして狼狽した。
「いい歳して野原に寝転がって感傷に浸っていました。お笑いください!」…だなどと言えるような度胸などもちろんなく、右へ左へ何かいい言い訳はなかろうかと視線を泳がす。
当の本人はそんなリンの混乱を知ってか知らずか。くすりと笑いながら近づき、リンの髪へと手を伸ばした。
そっと離れたその指先には、ハコベの花弁が咲いていた。
「よくお似合いだったので、そのままでもよかったのですが」
「…あ、……あ、」
弁慶の言葉に顔を一層赤くしたのは言うまでもない。
五条大橋に行くんです。
そう言う弁慶に同行を求められ、断る理由はなかった。
先日来たばかりのそこは相変わらず少し寂れた景色を見せながら、それでも人々の瞳は活気を失ってはいない。
遠く見える川のほとりで選択をする女性は大きな盥を抱えながら、隣の家の主婦であろうか井戸端会議をして楽しそうな様子が見えた。
てっきり集落へ向かうのかと思ったが、弁慶はそのまま橋の上へと歩を進める。遅れないように後に続いた。
橋の中ほどまで来て、そっと桟に手を添え集落を見下ろす。
周辺が一望できるそこは、近くは八坂の林、遠くは鞍馬の山まで見渡すことが出来る絶景スポットであった。
山間に時々差し込まれる桜色が可愛らしい。
もしかして気分転換に来たのだろうか。そんなリンの疑問は、弁慶の表情で一掃される。
その目は決して遠くの山など捉えてはいない。
その黄金が向けた先は川の岸、集落の軒並みだ。酷く、儚い色を浮かべて。
「―――ここも少し前まではこんなに寂れてはいなかったんですよ。君と住んでいた頃ももう少し活気があったでしょう。……月日が経てば経つほど寂れていく」
弁慶の言葉の真意が読み取れない。
けれどもいたずらに物事を儚くなど考えない人だ。
その言葉を受けて、リンも集落を見やるがそこに変化らしい変化は感じ取ることができない。
少なくともリンの知っている五条の集落、そのままであった。
そっと視線を戻す。交わらない黄金の瞳は次は険しい色合いで見送る。
そこではない、何かを見据えて。
「これも京から龍神の加護が失われてしまったからでしょうね」
「……朔さんの主の…黒龍のことですか」
「ええ。詳しい説明は白龍から聞いたでしょう。この京には陰と陽、反対の力を司る二頭が治めていました。欠ければ龍神、二頭で応龍」
「――――弁慶さんは、なぜその調和が崩れたのか知っているのですか」
「いいえ。そこまでは僕にも分かりません。…僕に出来る事と言えば……薬を配り、支えることくらいですから」
――――――嘘だ。
気付いた瞬間にぞくりと背が泡立つ、不気味な感覚に侵された。
後者は本当だろう。薬を配り、五条の人々を助けたいと願う気持ちの事だ。
けれども、前者は間違いなく嘘だ。
瞳が間が声が音が。
覆い隠したその先は覗き込んでももう深い霧にまみれて到達できない。
「(貴方の……罪の欠片?)」
もう一声、踏み出したならその欠片は片鱗と変わったかもしれないとリンは思う。
けれども、それ以上は進むことが出来なかった。
意識の中の手はそっと真実から遠ざかる。あと一歩の所で理性が歯止めをかけたのだった。
いたずらに人の心を覗いてはならない――――知っているでしょう、忘れていないでしょう、貴方が彼の元を離れた理由を。
もう忘れてしまった懐かしい髪色のその娘は、悲しい笑みでリンを見つめている。
「…五条の人達も救われています。私も、その一人です。あなたがいなかったら私はありませんでした」
「リンさん…」
「―――――きっと、見つかります。きっと」
出会えます。貴方を救い出せる強い意志を持った人に。
そう伝えた後の黄金の光に、輝きは取り戻せなかった。それが、やはり、私の限界であった。
その日も、リンは時間を持て余していた。
望美達とは必要以上に距離を縮めないようにと意識的に輪の外にいるよう努めていたし、のらりくらりと干渉を避ける日々を送っていた。
それが今共に行動しているのには大きな理由がある。今回は京の街を大きく周る為に、邸を開ける日数も多くなるという。
リンひとり邸に残していくのは忍びないとの朔の提案で、連れ出されたのであった。
「(……弁慶さんずるい)」
ここにはいない策士に恨みをぶつけるが、いないのだから届くはずもない。
人の好い笑顔でリンを迎えに来たその場、僕はやることがあるので。という有無を言わさぬ一言で退室した背中が思い浮かんで唇を噛み締めた。
今回は鞍馬へ向かいつつ“星の一族”を尋ね、嵐山まで赴くとの事であった。
離れていた間にまた新たな言葉が出てきており、朔へ尋ねれば簡単な説明を受けることが出来た。
事の発端は譲と望美のやり取りから始まったらしい。他愛もない話は次第に譲の家系の話へと変化し、その祖母へ至る。
龍の宝玉が形見であるとか、八葉とのつながりであるとか。
あらゆる憶測が飛び交い、最終的に夢見の力を持つという「星の一族」というワードにたどり着いたらしい。
その星の一族は嵐山に住んでいるという情報を得た望美達はそこを目的地に、ついでに鞍馬も訪ねてみようという算段とのことだ。
久しぶりの大人数に気を引き締める。ぼろが出てはならないのだから、必要以上の対立は避けるべきだと心で言い聞かす。大丈夫だ。
そういえばとふと譲へ視線をやると、平静を装うその表情の中に戸惑いが垣間見えるのに気付いた。
事の発端は譲だと聞いたので、もしかしたら己が中心となり話が進むことに戸惑っているのかもしれないとリンは汲む。
どうにも自分はこの青年に肩入れしすぎてしまう節があり、その都度ブレーキをかけるのに必死だ。
「――――怖い?」
「――遠坂先輩……いえ、そんなことはないのですが……俺のせいで先輩を巻き込んだのだとすればと思うと…」
「それは違うよ譲君。さっきも言ったけど、きっと宝玉とそれとは別だよ。それに私はそんな事気にしてないし、譲君のせいだとも思ってないよ」
はっきりと言う望美の瞳は変わらず真っ直ぐだ。その言葉を聞いて譲もそっと肩の力を抜いたようで、満ちた柔い表情へと変わる。
根拠がない事が癪に障るのだろうか――――望美の言葉に深い意味などないのを知りながらも、どこか反発する己の心を鎮めるのに忙しい。
その狭量さにため息も混じる。聞き流さねば。内で厳しく叱咤を食らわせ、表情を正した。
朝一に支度を整え進んだ京路も思えば随分と北へとやってきた。ちょっと道から外れるが休憩にしようと訪れたのは広い野原である。
先日五条付近でリンが横たわったそことは規模が違う。地平線の果てまで続いているような若草が眩しい絶景だ。思わず息を飲んだ。
「長旅でおなかが空くかと思い、お弁当を持ってきました。よかったら食べませんか」
「わあ、譲、作って持ってきたの?食べたいな」
どこから取り出したのか、全員分の包みを広げ譲が提案すれば、白龍が目を輝かせ一番に賛同した。
微笑ましい光景に和みながら、一同は休憩と腹ごしらえをすることに決めたのであった。
材料の揃わない中でなかなかどうして譲の弁当は豪華であった。
こちらに来てから昼食を採らない習慣に慣れていたが、食べ始めれば箸が止まることはなく、一人分の量を平らげていた。
皆同じ感想であったらしく、たらふく平らげた姿は生き生きとしており、すっかり体力が回復したようであった。
白龍は無邪気に野を駆けまわっているし、譲と景時はそんな白龍の戯れに付き合い、鬼ごっこが繰り広げられている。
望美、朔、リンは少し離れたところでそれを微笑ましく眺めていた。―――リンを除いて。
不意に望美に目をやると、笑いながらもどこかその表情に疲れらしきものが滲んでいるように見える。
だからどうだと顔をそらしたのだが、次いで朔がそれに気が付いたらしい。優しい声で望美に問うた。
「どうかしたの?先ほどからなんだか元気がないように見えるわ」
「…うん、ちょっと聞いてくれるかな」
ぽつぽつ語りだした望美の話にさした興味はなく、二人の話し合いに入るのも気が引け、場所を変えようと思った。
しかし、その口から語られた名に、ぴたりと動きが止まる―――――将臣君。望美は確かにそう言った。
「有川君ならこの世界に来ている」
――――そう、口が形を作って、そっと閉じる。一言吐き出す寸前に思考がそれを遮ったからだ。
時空を戻される前、三室戸寺にいた頃である。あの頃、源氏と平家は京の街を巻き込み、都は炎に巻き込まれていた。
既にその時点で望美は白龍の神子であり、源氏の中枢に存在していたに違いない。
将臣の立場こそ分からないが、彼も身なりや発言から考えると平氏の割と中心部に身を置く立場であったと推測される。
間違いなく、彼らは対峙していたはずだ。間接的であっても、平氏と源氏、敵同士として。
「(…知った上で、か……それとも本当に知らないのか)」
望美は将臣の身の上に関しては何も朔に明かさない。彼がこちらに来ているという事実でさえもだ。
夢に出てきたのだと、純粋にそれを案じているのだが、それが演技だとしたらとんだ役者である。
朔は愛しげにそれを聞き、心からの助言を、その心の内を語った。聞いていて思わず顔が赤くなる、美しい愛の話を。
「うん……朔の言う事分かるよ」
二人は穏やかに見つめ合い、笑った。
そのやり取りに何も感じなかったわけではない。リンとて胸を開ければ誠を宿している―――黄金のきれいなあの人の想いを。
けれど、それに浸ることが出来る程己の恋愛を、想いを昇華させることは出来なかった。
ごくり、と想いを深く飲み込む。切り替えた頭はすぐに鋭い闇を心に植え付け急速に成長させた。言葉の裏を探って伝える。
“共感するという事は、胸に秘めた相手がいるという事?”
“時を戻したのは、その為?”
どす黒い感情の芽が深く深く埋め込まれていて、それは容易に取り出すことは出来ない。
ぞくっと、己でも恐ろしい程の悪意が胸に渦巻いている。顔に現れるのがただ恐ろしく、リンはそっと顔を伏せて身を抱いた。
気付いた神子二人が問いかける。顔を上げ、にこやかに対応した時には胸の淀みを抑え込んでいた。
役者は、どちらなのだろう。胸焼けするような胸のつかえが、ただただ不快であった。
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その後鞍馬まで足を延ばした一行であったが、やはりそこに尋ね人の姿はなかった。
本来ならば九郎の剣の師匠だという事で、彼抜きに訪ねるのも好ましい状態であるとは言い難かったため都合がよかったのかもしれない。
一行は諦め、鞍馬山を下る。
その頃には随分陽も傾いており、空は橙と藍のコントラストに彩られ始めていた。
山の夜は酷く暗い。これ以上の下山も散策も危険だと判断した景時は予定していた小宿へと皆を誘導した。
前もって話をつけてあったらしいそこは既に宿泊の準備がなされており、各々宛がわれた部屋へと別れ明日の軽い打ち合わせの後、自由行動となった。
「リンは私と一緒の部屋ね。望美、白龍と二人で大丈夫かしら」
大人三人を収容できる大部屋が生憎開いておらず、リンは朔と相部屋と言う形で部屋は分かたれた。
望美は少し寂しそうにしていたが、こればかりは仕方がない。
同部屋の白龍は神子を独り占めできる。と、嬉々として望美との相部屋を受け入れていたし、それを聞いてか望美も嬉しそうに顔を綻ばせていた。
軽い挨拶を交わして部屋へ入ると、質素ながら手入れの行き届いた畳部屋に驚く。
随分と寂れた外観からは想像のつかない味のある部屋に、どこか心が躍った。
どうやら朔も同じ気持ちであったらしく、先程から窓際に座ってはその向こう、鞍馬の山の林の奥を見つめていた。
開け放した窓から春の風が運ぶ、山の新緑の香りは新鮮でどこか清々しささえ感じられる。深く吸って、吐き出した。
「……私の間違いだったら、立ち入ったことを、ってなるんだけれど…」
「随分警戒するのね。何か聞きたいことがあるの?」
振り返った朔の笑みが、蝋燭の明かりにゆらゆら揺れて不安定に映る。
同時に景時の困り顔が浮かび上がった。
立ち入った話を、と身を引いたのは自分であった。けれど景時はそれを咎めた。
もしかしたら傷つけてしまうかもしれない。そんな恐怖に心が支配されてしまう前に、リンは朔に問うた。一つの疑問を。
「大原での…話」
「大原……あの、望美の夢の話かしら。どうかしたの?」
「私が気になったのは春日さんの事じゃなくて、朔さん、あなたの方」
「…私?」
回りくどい言い方になってしまったのはやはり怖いからだ。けれどここまで来たら引き返せない。
リンは先を紡いだ。
「……昼間、あなたが語った愛の話は、想像だけの話じゃない。深く、深く――想い想われた相手がいたんでしょう?」
「…………………」
「――――尼僧にならなければいけない事が…あった、ということ」
「……これは私が選んだ事だった。誰に強要されたわけじゃなかったのよ」
その声は少し震えていた。
唇も同様に震わせながら、浅く呼吸を繰り返している。
恐らく話していいのかを悩んでいるのだろうと思った。
言うても、リンと朔は出会ってから日も浅く、望美のように同じ立場であるとか共通点も少ない。
告白するには信頼が足りないのだろう。けれども恐らく。言い当てられた心の奥に動揺を隠しきれないのだ。
自分で招いた結果とはいえ、そんな朔の姿を見るのはつらかった。話を終えようと喉を膨らませたが、それは朔の言葉で遮られる。
涙に濡れた声で。けれども、はっきりと。
「どうして気付いたの…? 私が……心を閉ざしたことを」
「――――私も、同じだから。もしかして…と思っただけ」
朔が息を飲む音が大きく響いた。
部屋に流れ込むのに飽いたらしい風は、次に山の葉を揺らし遊ぶ。
静かな空間に、痛いほどの沈黙と、閉じていく朔の瞼は酷く重い。ちらちらと揺らす睫は影を作り、凪いだ目元を暗く塗り替えている。
そうでもしなければ泣いてしまったのだろう。触れてしまった心の扉の、鍵の脆さにリンは戸惑った。
そして気づく、ああ、諦められないのだろう、と。
この人も待っている。手を引いてくれる救世主の存在を。
それでも、心を凍らしてでも守りたい気持ちがあったのだろう―――それを想うと、朔の事を責める気にもなれなかった。
「―――――いっぱい悩んで…悩んで、それでも答えは出なくて。自分を責めたんでしょう?」
「…………リン」
「大丈夫だなんて、気休めの言葉は言わない。……でも、忘れないでいてほしいんです。前を向く事だけは、絶対に」
いくら足を止めてもいい。世界で一番自分が不幸なのだと、泣き叫んだって構わない。
どれだけ時間を食んでも、それでも。それはきっと、寂しい事だから。
思わずとった朔の手は己の物と変わらぬほど、冷たく凍えきっていた。
それは双方の心とよく似た温度で、春の息吹では溶かす事の出来ない深い冬の底のようであった。悲しいけれど、それが今はいっぱいだった。
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次の日、一行は嵐山へと到着した。
若草を揺らし駆け抜ける風は鞍馬のそれとは異なり、どこか撫でるように優しい。
雪深い冬を破り身を突き上げた見事な竹林は蒼く、遥か頭上で葉をさわさわ鳴らし来訪者を歓迎しているように思えた。
昨晩の一件もあり、朔が心なしか視線を落としがちだったのが気がかりだが時折そっと瞳を交わして心を鼓舞する。
寂しそうに笑う朔に、リンも同じように応えた。
元の世界の嵐山、嵯峨野と言えば竹林生い茂る美しい和の風景が思い浮かぶ。もしくはトロッコ列車での遊覧だ。
この時代にもちろんそんな交通設備などが整備されているはずもなく、嵐山周辺は自然がそのまま残されている雄大な場所だ。
木陰に入るとまだ少し肌寒い春の昼、見上げた空は葉に覆われている。
葉の隙間から差し込む光は眩しく、運ばれてくる土の香りが清々しかった。
望美達は奥の屋敷で「星の一族」の関係者と面会している。
同席を勧められたが、嫌な予感を感じとって理由を付けて逃げてしまった。
屋敷の使いらしき娘が、望美を見るなり目を輝かせたのを見たからである。
神子様がやってきた。私達の神子様。…と、あの歓迎ムードを聞き流すだけの余裕はない。
ぼんやりと竹林の蒼さに浸っていると、不意に後ろに気配を感じて振り返った。
この先にあるのは星の一族の住まう屋敷のみであったし、他の屋敷は少し離れたところに集落があるくらいだ。
人里離れた―――うってつけの表現のこの場所にその人物は、春だというのにくすんだように暗い着物を身に纏い、立ちすくんでいる。
身なりこそ陰気臭いそれだが、そっけないながら纏められた髪は櫛が行き届いているように見受けられたし、その顔立ちも随分と美しかった。
貧しいというわけではなさそうであるが、しかし一体何者なのだろう―――リンが警戒しているとその人物は、何かを確信したかのように目を開き、リンへと近づいてくる。
思わず後ずさったが、その人物―――――美しい女性は、リンの手首を掴みぐっと引き寄せる。至近距離で見た彼女の瞳は自分のものと同じ色をしていた。
「…っ」
「あなた…ああ、やっぱり……!!」
「ちょ……手を、離してください……っ」
純粋に怖いと思った。
抵抗を試みるがその女性のどこにこんな力があるのかと思うほど、込められた力は強く、振り払うことが出来ない。
反応から察するにこの女性はリン自身に心当たりがあるようだが、リンの方はもちろん心当たりなどあるはずもない。
一つだけ、思うところがあるとすれば、それは――――
「よかった……あの方は無事に時空を越えられたんだわ……!」
「時空………?」
時空を越える。そのワードはリンの中では強烈な意味を持つ。
リンの抵抗がなくなった事、女自身ようやく高ぶりが収まったのか、掴まれた両手首がようやく離される。掴まれたそこは赤く痺れていた。
女はほろほろとその瞳から涙を流し、胸を押さえて呻いている。しきりに小さくよかった、よかったと呟く姿は儚く、先ほどの行動を責める気が削がれてしまう。
しかしどうしていいものか思案していると、女はしゃくりあげた肩をいなしながら、リンを見据えて説明を始めたのである。
女は星の一族の関係者だと名乗った。星の一族とは、龍神に仕える神子を支え助ける役割を担い、受け継がれる一族を差すのだという。
その一族、幾年か前にとある姫を時空を越えた彼方へと送り出したのだという。名を菫姫と呼んだ。
「……待って。その菫姫はなぜわざわざ時を越えて異世界へ行ったの?今回、白龍の神子が選ばれたのは偶然のようなものでしょう」
「いいえ?龍神の神子は異世界から降り立つと幾百年も前から伝承があるの。京から龍神の加護が消え去り、荒廃を始めたのを見て姫は早めの対策が必要だと悟ったのでしょう。自らが神子を支えるべく異世界へと名乗り出たのは姫様だった」
「……運命だとでも?」
「事実菫姫はあなた達の世界で子孫をお残しになった。先程屋敷に来たあの若草の髪の少年がそうでしょう?そして彼は常に神子の傍を離れていない」
――――運命だわ。そして菫姫は成し遂げたのだと、女は続けた。
その話が本当であるのならば、いつかの食卓でのたわいない話も納得がいく。
譲は言った。“食事をするときは手を合わせ、いただきますと言う”と。
望美は言った。“それは西の文化である”と。
「(譲さんの家にそれが根付いていたとすれば、“京”生まれの祖母からの習慣だったのね)」
ふと、疑問がもう一つ芽生える。リンの家も食事の時は手を合わせ、合掌の後に挨拶を述べて食事を開始するのだ。
神子と、その星の一族が龍神の運命に導かれて呼び寄せられたのだとするのであれば――――“坐”と呼ばれる私は何だというのだろうか。
その疑問を汲み取ったかのように、女は続ける。
「あなたは星の一族とは関係ありません」
「……私の家には西の風習が感じられた。思い違いでなければ、だけれど。…あなたの言う通り星の一族ではないとしても…」
「龍神に喚ばれた時点で―――いいえ、あなたがここにいることが既にその答えです」
「私のルーツ……先祖をあなたは知っているの?」
女はこくりと頷いた。思えば先程までの雰囲気と異なっているのに気づく。
同じ高さで交わした言葉が次第に一つ、二つと下がっていくような違和感だった。そして女はとうとう傅き、恭しく頭を垂れた。
その豹変に再び後ずさるリンを尻目に、女は“あの方”について口にする。
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「私の主様…主様も時空を越え、異世界へと赴かれた。その子孫が、あなた様なのです」
「…ちょっと、待って。話が唐突過ぎる…順を追って説明して下さい」
唐突過ぎる爆弾発言に、考えるよりも先に戸惑いが走った。
順を追った説明を求めるとともに、急に作られた敬語をやめるように申し出たが、後者に関しては聞き入れられることはなかった。
女は語った。星の一族の役割、その使命を。菫姫の想い、そしてその子孫―――譲、そして間接的に将臣の事を。
そして、遠坂の一族の事を。
「主様は菫姫の影なる存在でした。菫様が光であるなら主様は影。咲き誇る花を散らす風にしかなれないそんな日陰の存在でした」
星の一族に、菫姫に仕える事こそが女の運命であり、与えられた使命だった。女はそれに誇りを持ち生きていた。
菫姫を敬い使命を果たす中、ある日姫より命じられたのは「従事先の変更」という残酷な言葉であった。女は暇を出された、そう思ったのである。
けれども女は命に従い主を変えた。今まで己が信じ歩んできた道は何であったのだろう、その疑問は晴れず女を酷く苦しめたが、やがてそれは晴れる事となる。
新しい主君、その姿を一目見やって、胸の葛藤は瞬間に流れ落ちてしまったのだ。不思議な感覚であった。
確かに人並みならぬ容姿を持ち、全ての人を振り返らせるほどだろう。
本来人とは外見のうつくしさのみが“魅力”とはなり得ない。
その人がそこにあるだけで感じられる“雰囲気”や、実際に言、信念を交わして得る“思想”も魅力を形成するものになる。そう考える。
しかし、女は主君から感じたのは“容姿のうつくしさ”の魅力だけであった。それはその先変わることはなかった。
主君は人であって、人ではない者であったのである。
「大きな使命を背負っていらっしゃった。その使命の為に、人の心を忘れた…捨てたのだと語られた」
「………」
大層な自己犠牲だと周囲は主君を気味悪がり、時に「空っぽの肉」だと言い放ち、時に悪意を持って蔑み嗤った。
「人は人であり、物になどなれないのに、さも自分は高尚な存在であると言わんばかりに“自己”を捨て去ったなどとよく抜かす」
そう言い放った女官の顔を思い切り殴ったのも、今思えば主君にとっては心を苛む諍いの種としかならなかったと女は語る。
「主様は平和を何より望んでおられた。けれど同時に不変を何より恐れていた」
その二つは同時に存在させることなど出来ない。それを知っていたから、人の心で苦しんでおられた。主君はどう足掻いても人でしかない。
それは本人も、女も、周囲も当たり前に知っている真実であった。
「………あなたの主が背負っていた使命とは何?」
「それは私にも教えては下さりませんでした。ただ主様は菫姫の対なる存在であり、そして何より憎まれる存在であると瞳を揺らしていました」
「憎まれるというのは、菫姫に?」
「いいえ――――――恐らく、星の一族がお守りする“神子”に、でしょう」
菫姫と主との関係は良好であったという。けれど主自身が周囲に疎まれる存在であった為に、二人が顔を合わせる機会はほぼなかった。
時々、人目を忍び屋敷の奥、竹林の郷で言を交わす二人の姿を見た事がある程度であった。
会話の内容は女でも知ることは叶わなかったが、見かけた時はいつも菫姫は涙を流し、主を抱いていたのだという。主は、菫姫を慰めるように背を叩いていた。
女は思い出したのか目頭を押さえ、話を区切った。リンは竹林の奥へ瞳を向ける。
知らぬ間に随分と話し込んでいたらしい。差し込む陽の角度は変わり、伸びた影は遠く先の柵にまで伸び、その色を奪っている。真っ白な光の溜まり。
落ち着いたらしい女が顔を上げる、再開に開いた唇を遮ってリンは疑問をぶつけた。
「…あなたの主はどこから来たの?両親はいなかったの?」
「既に世を別っていたと聞いております。そして、菫姫の元へは龍神の導きで参られたと」
「龍神…?白龍…ということ?」
「いえそこまでは私にも分かりません。しかし主様は自らが生まれた際に、使命を与えられたと…日ノ本が均衡を崩す前ですから、応龍だと推測されます」
「…………つまり、生を受けた瞬間に使命を与えられたと…。己を殺し、使命の為に…人である事を捨てざるを得なかった、と?」
「―――――私もそのように。けれど主様は…否定なされました。けれどその瞳には涙が……主様にとって使命こそがご自身の“存在理由”とお考えだったに違いありません。…それを「せざるを得なかった」と憐れまれることが辛かったのでしょう」
女は再び涙を流した。
次は、声を上げて。
リンは静かに瞳を閉じた。
使命の為に人として生きる事を捨てた女の主の姿は、酷く気高く、そして悲しく思われた。けれど同時に、周囲が蔑んだように自己犠牲が過ぎるとも思う。
ただ、どうだろう、己がその立場であればきっと主と同じ道を選んだに違いなかった。
生まれ落ちた瞬間から生きる理由を植え付けられ、それを振り払って己がまま生きるという事がどんな犠牲を生むのか、リンは痛い程知っている。
自分自身の存在を否定する事の辛さも。
「――――その子孫が、私なのね」
女はこくりと頷いた
。顔を上げられぬままでいる事を謝りながら、それでもと泣き続ける。
彼女の涙には何が詰まっているのだろう。その涙はすべて彼女の主へのあらゆる想いに溢れているのだろう。
「私の先祖は父と母より先は既に他界しているの…あなたの主はきっと、役目を果たして召されたのね。だって私がここにいるもの」
「……はい………っ……やっと眠って頂けた…安らかに……きっと……!……けれど、私は、私は愚か者です…っ……生きた内に幸せになってほしかったと願うなど…!」
「――――私を見てあなたは、………いえ…何でもないわ」
真っ赤な瞳と己のそれが重なる。しゃくりあげて泣きわめく女の深い主への愛情がただただ悲しい中、リンは言葉を打ち消した。
身を崩して蹲る女の隣に身を添え、その細い肩を抱き寄せた。思った以上に脆く寂しい影。
「……菫姫があなたを私の先祖に仕えさせた理由が分かるわ。祖先の我儘を聞いて送り出してくれて………泣いてくれて、ありがとう」
箍が外れたように、女はリンに抱きつき声を上げて泣いた。
背に掴まれた手の力は強く、胸に寄せた頭部はぶるぶると震え、全身で想いを流し続けている。溢れ出るそれをそっと逃がさぬようにリンは強く抱き返した。
きっと竹林で抱き合い、涙を流していた二人も同じ気持ちであったのだ。使命を、業を、その理不尽を推し量り、けれど叶わぬ望みに涙した菫姫。
どうして人は思うままに生きられないのだろう。けれど、先祖は幸せであったに違いない。
「(自分の為に泣いてくれる人を得て、己の使命をも果たして、果てることができただなんて)」
“羨ましい”リンは深くそう思った。
女を送り届け、望美達と合流する。ちょうど向こうも話を終えたらしかった。
話の内容を訪ねれば、先ほど女から聞いた内容とほぼ同じであった。星の一族のあらまし、八葉の役割に関する知識を得たとの答えにリンは静かに頷く。
当の譲は、完全に納得したと言い難い複雑な表情をしていたが元より責任感の強い青年である。
神子を守る使命がはっきりと示されたそれを投げ出すような事をしないことは分かりきっていた。京邸を出る時までの不安の色はすでにその瞳にはなかった。
随分と長居をしたようで、嵐山から里へと戻るころには既に日は落ちてしまい、一行は仁和寺近くの宿で二度目の宿泊をすることとなる。
大原、鞍馬、嵐山と北京都を一周する形で回った今回の行脚は一行にとって実りある結果となったらしい。
夕餉を囲む席で話は尽きず、これからの事、背負った使命への新たなる決意を語り、前を向く姿は純粋に好ましいとリンは見ていた。
己は、と問いかけるとぴたりと箸は止まってしまう。今回の嵐山での話は情報としてははっきりと答えが得られるような収穫ではなかった。
ただ得たものは、自分の祖先は西の人間であり、かつて龍神によって使命を与えられた人間であるという事だ。
つまり『ここに呼ばれた意味がある』それが確固たるものになった。その証明だけであった。
あとは。そっと向かいに座る朔へと目をやる。皆の話に和やかに参加しているが、瞳の中の闇はまだ深く潜み、蠢いているようだ。
そんな闇を引き出したのがリン自身である事は心が痛むが、朔ならばその闇を振り払ってくれると信じている。
迷い、時に助けの手を望むならいつだって差し出したい。
「(……時間がかかっても)」
諦めないでさえ、いてくれたら。
ごくりと最後の玄米を飲み込み、談笑が続く間に礼をして足早に立ち去る。
得られたものは少ないと言えど、受けた話の衝撃は思った以上に大きく酷く疲弊していたからだ。手早く身を清めて浴衣に袖を通す。
布団に潜ると、その香りを楽しむ事もなくすぐに眠りについた。泥のように、ただ今は、疲れ切って何も考える事は出来なかった。